2011年8月30日火曜日

知の荒野に立たぬために(食べる読書48-2)



現在のメディアにおいてなかなか見られない視点や考えなどが本書にあると書いた。



それらについて一言では語れないし、それらをしっかり理解しているとはいえない。



しかし、新鮮だったり、目を見開かされたり、反省したり、…いろいろ感じる部分が多々ある。



抜粋という形で、上のように感じた個所を紹介する。



以下抜粋


「そんなこと言っても、いまの人には分からないよ」が金科玉条となってしまい、「金科玉条って何ですか」と聞く“今の人”がいたら、「それを辞書でひいて自分の言葉にするのを人生というんだろうが」と教える先輩がいなくなった。






「徧界(この広大無辺の天の下)に、心理だの仏道だの、いまだかつて蔵れていたことはない。みんな目の前に露れている。それが見えないのは、おまえさんの目が磨かれていないからだ」







そこがフランス人のおもしろいところなんだけど、美術館の中ではもうすっかりバラバラになってしまいながら、団体バスの発車時刻には全員がきちんと顔をそろえるの。個人主義とは、各自が勝手気儘なことをしていい、ということではないことをフランス人は外国に来ても身体で示しているのね。







「宗教教育」とは、特定の宗教の教義を教えたり、宗教史を講ずることではなくて、宗教的情操を生徒の心に醸し出させることである。宗教的情操とは、もののあはれを知る心、ではないかと私は思っている。この心の教育がないがしろにされたから、戦後生まれの若者は簡単に人を殺したり、果てはオウム真理教の幹部たちのように、無差別殺人を、へ理屈から犯すようになるのだろう。







「今までは物の豊かさを求める時代だった、これからは心の豊かさを求める時代になった」という文脈の合唱さえ始まった。しかし、これは最初から無理である。なぜなら、「物の豊かさ」を求めたのも、それに呼応して物を提供したのも、ともに「心」の仕業だからである。「物」を求める「心」と「心」を求める「心」と、人間には二種類の「心」があるのですか、と大声を挙げたくなる。挙げても無意味なことはよくわかっている。





物がたくさんあるのを「豊かさ」、心がゆったりとしているのを「裕かさ」とするなら、両方とも私たちに創ることができる文化である。しかし、、いまの日本人が「真の豊かさ」とはと目を据えて議論を始めたのは、「豊」を実現することに成功して、「裕」のほうは仕掛けとしての「豊」を消費することに終始したからではないか。つまり、仕掛けられた「豊」を消費してばかりいないで、自分で「裕」を楽しめばよいのである。








美味求真という言葉があるが、食材にはそれぞれ「真」があるのだろう。それを損なわず、変えず、いちばん適切な温度でどう引き出すか、料理という字は「理(ことわり)」を「料(はかる)」という意味だというが、ほんとうにそのとおりだろう。






「お前さん、贅沢を知っていることは必要だが、贅沢をしてはいけないよ」








わからないときは、そのままにしておかないで、専門家の意見をたずねるのが、人生の学習である。それをしないで、いつまでも「わからない」ままにほおっておくと、いつの間にか「わからない」なりに生半可な解釈を積み重ねていって、何年か経つと、とんでもない認識にしがみついていることになる。






「武力」に代替可能性のある「政策」はあるのか、という議論は避けてきた。平たくいえば、日本以外の国の兵士が流した血に相応する仕事とはどんな仕事ですか、を日本人どおしの間で、そして日本人と外国人の間で一度も語りあったことがないのである。「武力の代替物を考えることは不可能ではないか」と語ったのは、私の知る限り、亡くなった高坂正堯氏(京大教授)ほか数人である。






むかしの人はうまいことを言った。「定見は小人の器」だそうである。しかし、人間は「定見」を求めたがるから、人間社会とは小人の群体なのかも知れない。そうとわかれば、この群体を操縦するのはたやすいことだ。







国のあり方や経済の解釈など、私たちの“これから”について大切な事柄が考えられたり、伝えられたりするときに、バランスの良い考えよりも、シングル・イッシュウや安直な定見がすぐ創出されるようになったのだろう。






「今日の機械文明は神がつくったのではなく、人間が開発したものであることをもう一度確認しよう。その機械文明をここまで開発した張本人の、人間とは何であるか、うかつにも科学者が人間そのものについて探索を怠ったところに今日のバランスの乱れた文明が出来た」







「常を疑え」、これが梅園の説くところである。人は変化が起きたときに驚いてその原因を探るが、本当の頭の使い方は、「常」はどんな条件のもとに「常」であるか、それを考えてみよ、というのである。






(脳失調について)
いちばん問題なのは、散発的で支離滅裂な思い付きです。つまり、ものごとを広さの面でも、深さの面でも、その構造をとらえていないということで、丸暗記的、刹那的な脳の使い方に原因があります。





むかしの資料のうち、自分が感動したところだけを拾って、「むかしはよかった」「むかしの人はえらかった」と書いたりするのを「後退史観」というそうだ。そんな史観はこちらから願い下げである。







政府は規制を設けることはできる。環境保護主義者は人々を扇動することはできる。だが、産業だけが、現状を革新し、環境保全型の社会を作ることができる。






政治家はそろそろ「民ニ網スル」ことをやめなければならないし、民のほうも自己負担・自己責任を勉強しなければならないはずである。みんな、そう言うのである。それでも選挙のたびに裏切られる。








民主主義が欲望中心の大衆民主主義となって社会全体が収拾がつかない状態になると、なにかの拍子に英雄待望論が起こり、民主主義は弁証法的に独裁主義に変わりうるのである。







「拍手は一応景気がいい。だから役者なども手が来たと言って大いに喜ぶのだが、しかし見識のある本当の役者になると苦い顔をする。真実深い感動につき落されたら、人間はただ呆然として決して手などたたかぬものだ。だから拍手をさせるのは未だしの芸で、拍手をさせぬのが名人となる。それにしても上乗の拍手というものは、ほっとして我に返ってからのものだから、一息つくだけの間がある。決してあんなキッカケを待ってましたというような調子のものではない。」






「忖度」という言葉がある。相手の気持ちを推し量るという、高級な心のはたらきである。日常生活のなかで、相手の気持ちや立場を読んで、相手が気持ちよく過ごせるように、相手が言葉で傷付かぬように、気働きすること。この場合の気働きは、すべて応用問題である。ノウ・ハウは、はじめからない。






「従来の大学によし如何なる長所があるにもせよ、大学が官民各方面への多数の躾けの足りない人間を供給した事実は、十分認めて反省しなければならない」
これは昭和十八年の述懐である。五十年以上を経過して、わたしたちは「大学が官民各方面へ多数の躾けの足りない人間を供給した事実」を、いまでは“反省”どころか“あたりまえのこと”としているのではないだろうか。








人間は生きてきたようにしか死ねない、のである。というより、生きていることを支えた柱がそのまま墓標になるということだ。








国民のモラルを上げるために壮大な仕掛けを考える。彼自身は、政治に儒教を浸透させることを図るが、それだけでは足りず、モンゴル帝国内の粗野で蕪雑な空気をできるだけ薄めるため、道教と仏教の間で灼熱した宗教論争をたたかわせる。じつは、これは邱処機という道教の大物と談合の上で決めたことで、国民の質を向上するための“やらせ”なのだ。しかし、単なる仕掛けではなく、道・仏両教とも論争に負けていられないから、自分の宗教の教義を深化させる一方、相手方の宗教の奥義にまで理解が届かねばならない。いわば、一挙両得になるのである。








「権を行うに道あり。自らを貶損して(自分をおとしめ損なうようにして)以て権を行う」








芥川の聡明な目は焼け跡のすさまじい光景を自分の内側に持ち込まず、知のエネルギーといったものが瞳の中心に働いて、すべてを客体化しているのである。






“涼しい認識”は周囲がよく見える、大局をつかむ能力がある、ということだろう。






羞恥心がなくなったことが何に通じるかといえば、生きていることの矛盾に耐える気性、言葉を簡略化すれば、存在に対する耐性の薄弱化があらわれる、と思えてならない。






共産主義の失敗の原因は、おそらくこの最も野心的なイデオロギーの本質的な性格、すなわち、あらゆるものを説明できるという主張、従って、あらゆるものを管理しにかかる、その姿勢にある。






感情に支配された論理が奔流となって押し寄せてくる場面では、「だまってしまう」のは妙子だけではあるまい。それに抗う方が無駄だという計算よりも、人間の理性が集団というクラスター状のエネルギーに吸い込まれる現象を前に、人は沈黙してそのような相倪を凝視するほかはあるまい。しかし、凝視は判断の停止を意味しない。凝視すればするほど、人間としての内容を充実してゆくのである。







人は真言を知らずして万学を説き
神は万象を通じて一言を解かず








環境の変化によって、人間の組織体が安定性を欠いたとき、元の状態に戻ろうとする復元力が働くだろう。それが、その組織体ごとにもっている文化だと私は思う。






その“飢え”のなかに「美しいもの」があった。逆にいえば、「美しいもの」は、いつも“飢え”を機縁として成立するものではないか。いま、なにもかも満たされて、むしろボア(飽き)の時代になっているそうである。私たちは、遠慮なく飢えて、美しく見せようとする対象をハネのけてゆく必要があるのではないか。








遠音や遠太鼓のような、現実と空虚の接点にからくも踏みとどまっているひとつの現象が私たちの感性をひき出すように、むかしから日本人は花に幻を見、花が自分を虚ろの世界に誘い込むものとして、恐れ戦いたのであった。それを捉えて、転じて、花をおそれなくなったことのひとつに現代人の傲慢さを指摘したのは、中西進氏(日本文化研究センター教授)であった。







私たちは、いつの間にか、自然は美しいもの、という一義的なとらえ方をしている。自分たちの生活に便利なようにと自然に手を加え、手を加える必要のない自然を「美しい自然」とか「豊な自然に包まれて」と表現して憚らない。じつはベーコンの段階から一歩も進歩していないのである。




以上
またね***


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