「騎士は、諦めたその瞬間に、人間的にいえば、不可能なことを確認したのである。それは悟性の結果であった。そして騎士は、これを考えるだけのエネルギーをもっていたのである。」
「信仰というものがいかに途方もない逆説であるかを知ろうというにある。つまり、殺人をさえ神の心にかなった神聖な行為とすることができるという逆説、イサクをアブラハムに返しあたえるという逆説、この逆説は思惟のとらえうるものではない。信仰とは、思惟の終わるところ、まさにそこから始まるものだからである。」
以上二つは、キルケゴールの「おそれとおののき」からの引用である。この本は全部を読んだわけではない。ほとんど読んでて理解できなかったと覚えている。三年前のことだ。
が、訳わからないなりに上の二つをメモったのは、何か心に引っ掛かったからなのだろう。今見返して思うことは、キルケゴールは言葉にできないものを人々に伝えたかったのではないかと感じる。
つまり、人間には認識できるものと認識できないものがある。たいてい認識できないものは存在していないも同然であるが、我々が認識できないものも確実に存在している。ただ、人が認識できないだけなのだと。
これは、面白い。というか、基本的な考え方の結果だろう。認識できないものの存在をどうやって証明するか。少なくとも、人間の認識によって追求してはならないということを守ればいい。ここでは、論理によって追求しているのではないか。論理は我々がどう思おうが変わらない。
いくつかの例をあげて、騎士やイサクとアブラハムの話、それらの共通点は何か、普遍なものは何かといったものを抽出して出てきたものが、我々が普段認識できないが確かにあるものである。と、結論付けたかったのではないか。そして、その認識できないがキルケゴールが我々に伝えたかったものは、・・・ 本を最後まで読んでください。
最近めっきり読んでいないが、哲学書は、その著者の考えというより著者の生きる姿勢が文面からビシビシ感じるところが魅力。はっきり言って、読むだけで疲れます。だが、それは著者が”それだけを考えるだけのエネルギーをもっていたからである”。そして、そんな著者と対話するには、そんなに能力もない自分だが、それに見合ったエネルギーが必要なのだと認めざるを得ない。このことは論理というより、感覚により知覚されるものである。
以上
久々でした。簡潔すぎたかな…。
またね***
2010年11月18日木曜日
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