2009年1月31日土曜日

心にきた言葉集20

「人に嫉妬されるようになれ。」

「嫉妬されるには、他人から抜きんでなきゃいけないんだ。他人と同じことをやっていたら、お前も嫉妬する方に回っちゃうぞ。嫉妬する人間というのは、とても悲しいんだ。」

今まで、人の嫉妬を避けるように行動してた部分がある。今も若干そうだ。理由は他人に足を引っ張られたくないからだ。

だけどそうじゃない。人が自分に嫉妬するのは、自分の足を引っ張るためではない。そいつ自身がこの俺にはかなわないと認めたということなんだ。

自分の負けを認めるのは自分に限界を創ったということ。それは未来の自分の可能性を狭めたということ。

だが、そこで自分だけの道を進めばいい。しかし、嫉妬するということは、まだ未練がある。自分ひとりで自分の道を進めない。だから、他人の一挙手一投足を気にする。独りに徹しきれない。

だから、結果として、負けを認めるってことは、自分自身を裏切ったんだ。かわいそうに。もうそいつに未来はない。だから、とても悲しいんだ。

うん。

生きることは厳しいさ。だから、みんな試行錯誤で懸命だ。ただひたすら頑張ればいいということでもない。エネルギー使い果たして鬱になるのがおちだ。

勝負したかどうかなんだろうな。結局は。この境遇に。この自分の生れてきた宿命に対して、めそめそ泣くか、やってやろうじゃん受けて立ってやるとなるか。そしてこの勝負というのは決着のつくのは、死ぬ時だ。たとえ、自分はもう吹っ切れた、克服したといっても、その後の人生をどう生きるかもやはりいままでのことも関係しているからだ。すべてのことはつながっている。何一つそれ一つだけで成り立つものはない。

だから、なぜ嫉妬するのかも考えることが必要。たぶん悔しいからだ。そこでやることは、自分の能力向上ではなく、ただ嫉妬することなのか。自分はどうしたい。今はあいつにかなわない。じゃ、今後は?この能力差に対してめそめそするのか挑戦するのか。

やはり、昨日と同じ結論だが、嫉妬するということはどういうことなのか。この一つの言葉で表現しているが、本当の自分の心はどうなのか。自分を見つめないと先には進めない。

ソクラテスのいった、自分を大切にするということ。それだよ。

嫉妬なんてくそくらえだー!!!

以上
また、明日***

2009年1月30日金曜日

心にきた言葉集19

「悲しみはまず過去への方向定位から始まるが、それは私たちの感情や観念の衰弱でしかない。」

我々は時間と空間に支配される世界にいる。

我々は他者と意思疎通する際、言葉を使う。

すべての生物はその環境でどう生きるかをすでにその生命活動によって表している。

つまり、自分の周りの環境を概念としてだけでなく、体(長い長い時間をかけて進化してきた)でも理解しないと生きていけない。

人間は、言葉によって集団を形成し、ここまで生きてきた。

とすると、言葉は我々の身の周りのことを表す道具といえる。

で、時間と空間の世界にいるから、時間と空間のことを表すということをどの言葉も内包していると考えられる。

上の引用は、悲しみというのはその場の感情だけではなく、過去に目をみけてることも意味していると言っている。というか、過去へ目を向けることから悲しみは生じるのだと。で、それは感覚や観念の衰弱であると言ってる。

ここから何がわかるだろうか。

生きるとは、時間を食べるととらえていいだろうか。長生きはより多くの時間を食ってる。

時間も一種のエネルギーだ。つーことは、我々のエネルギー摂取は、食物からだけではなく、時間からも得ていることになる。

食事をするのは、今日一日をしっかり過ごすため。ちゃんとした食事は、そのエネルギーで自分にできることをするため。いわゆる未来への投資。

なら、時間を食うことはどうなるだろう。未来への投資?今から食う時間が未来なのに未来への投資…?

時間を食うことが生きることなら、過去はうんこか。消化しきれなかったもの。

なるほど、その時で自分の血となり肉となりえなかったもの。悲しむというのは、あられちゃんみたいにうんこをつんつんしてるんだ。

その時、われわれは何をしているだろう。時間を食べてるのか?つんつんしながらも飯を食ってる。糞に未練たらたらなのに、今後のためにちゃんとエネルギー摂取してる?

これが本当なら、ただのマスターベーションだな。

昔テレビで間かんぺいさんが、超長距離マラソンでのことを話していた。よく覚えていないが、何日も一日中走るらしい。食事も走りながら。で、トイレはどうしてたかというと、うんこは出ないらしいんだ。そこまでエネルギーを使うと出すものがなくなるみたい。すげえ~、そうなんだと思って記憶にある。

つまりそういうことだな。忙しくしていれば、悲しむひまなんかない。これは、D・カーネギーもいってる。

食え。後ろから出るものなんか気にするな。残りかすに用はない。

だから、口は前にあり、けつは後ろにある。過去の方を見てたら、時間は食えないんだよな。それは、死んでるということ。エネルギー摂取できないから。

普段使ってる言葉が何を表すのか。考えてみるのもいい。

ちなみに、よく言うパラドックスの答えは、言葉がどれほど忠実にこの世の中を表現できるのかだと思っている。

新約聖書に「In the beginning was the Word,and the Word was with God,and the Word was God.]とある。

まさに言葉ありき。世界を表現する言葉がないと何にもならない。そして、それは、世界を創った神の存在をも表わすということなのだろう。だから、言葉は神と言っているのではないかと思う。

以上
いただきます。いつでもどこでも、いただきます。ごめんだけど、食われちゃってください。
また、明日***

2009年1月28日水曜日

パイドン

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)
」。プラトンの著書で、ソクラテスが毒を飲む日、ソクラテスがどんなことを話ていたかを記したもの。形式として、そこに居合わせたパイドンが、その場に居合わせなかったエケクラテースに話すという構成になっている。

今回の話のテーマは、哲学者が死を恐れないのはなぜか?ということ。

この論説は、いつものソクラテスらしい問答だった。

一つ一つ丁寧になぜそうなのかを考えていく。そこにいる弟子たちの質問にもきちんと答えていく。

真の哲学者は死ぬことを心掛けている。

哲学者は知を愛し、肉体・金銭・名誉を愛しはしない。

もちろん、ん?、そうなのか?などソクラテスの展開に疑問を持つ部分がないわけではない。問答の中で一見どういう関係があるのか?とはじめはわからない方向に話が移ることがある。調和の話になったり、形相の話になったり、でもそれはちゃんと同じ方向に向かってのことなんだよ。一つのことを証明するにはそれを裏付ける別のことを証明しないといけない。その裏付けとなるものが何かを分かってないと議論は先に進まない。

アインシュタインは質問が大事といってた。たぶんこういうことだろう。一つの目的を成すには自分は何をどう考えなければいけないか。質問をすればその答えを探すように頭は働くということを両者とも知っていたんだなと感じる。

で、結論として、魂は不滅。であるから、いつまでも魂の世話をしないといけない。たとえ死んでも、あの世で魂が不滅であるが上にそれに合った境遇を受けるようにしなければならない。


パイドン―魂の不死について (岩波文庫)


そして、弟子たちが、なにか自分たちに言っておきたいことはないかとソクラテスに尋ねた。

「君たち自身を大切にしてくれさえすればいいのだ。そうすれば、たとえ今何も約束してくれなくても、君たちが何をしていても、僕にも、僕の家族にも、君たち自身にも尽くしたことになるだろう。だがもし君たちが自分自身を大切にせず、今もまたこれまでも話し合った道にしたがって生きることをしないならば、たとえ今、どんなにたくさんのことを熱心に約束してくれたとしても、何にもならないのだ。」

こんなにやさしい言葉があるかあ!?まさにそうだ。自分を大切にすればいい。それだけ。

平然と毒を飲む。あまりに自然体で。ただただ、胸が熱くなるばかり。こんな人がいたのか。ほんとにこんな人がいたのか。人はこんなにも素晴らしくなれるものなんだ。

自分もただ純粋に知を愛し、その行為を楽しもう。

本当にありがとうございます。ただそれしか言えない。ありがとうございます。


パイドン―魂の不死について (岩波文庫)


以上
また、明日***

2009年1月25日日曜日

心にきた言葉集18

「自己の手のひらより紅血を滴らすか、滑沢柔軟のもののみを握るか。この二つは、明らかに人力と運命との関係の好否を語るところの目安である。運命のいずれかを招致せんとするものは思を致すべきである。」

意味わかんね~。

努力論 (岩波文庫)
」を一冊ちゃんと読まないとわからないだろうなあ。

自分で道を切り開くか、運命に身を任せるかということかな。

そして、運命を自分の身に引き寄せるには、考えろということか。

確かに、この部分で人力と運命は車の両輪のようなものだと書いてあった。昔は読んでてどういうことか全く分からなかったけど、今はなんとなくわかるような気がする。

自分の力だけじゃどうにもならないことがある。でもそこを突破しないといけない。そこで運命を味方につける。そのためには考えることだ。

何を考えるのだろう。たぶんその内容はその時の状況によって変わる。だが、考えた結果として新たな視点というか概念、価値観が現れることが求められる。今風にいえば、スコトーマがずれる。

それは、自分と社会との関係性に変化をもたらす。関わる人が変わったり、関わり方が変わったりといろいろ変わる。まるでそれが自分の運命であったかのように。出会うべくしてその人とは出会ったかのように。

そしてそれは自分のこなす仕事の内容をも変える。ま、社会とのかかわり方が変わるのだから自分の仕事内容も変わるのは当然なんだが。つまり、力の入れるところが変わる。

新たな仕事を極めていくと、また自分の力だけでは突破できない限界が見える。そして、関わり方を変え、人の力を借り、自分の居場所を見つける。

実際は、人力と運命の両方を行って人は過ごしている。特に成功する人は、この二つのサイクルが早いように感じる。だから、たった一年でも全く違った景色を見れるんだろう。

最近の特徴として、昔のように職人は黙ってものを創ってればいいという時代じゃないといわれる。

なぜか、社会の流れが速いから。それは、社会とのかかわり方に変化を要求する。自分から積極的に売り出さないといけない。こんなに腕のいいやつがここにいるぞ!と。それもいろいろな売り出し方が必要だ。それは多様な社会とのかかわりを意味する。

上で、人の力を借りると表現したが、人は必ず他人の援助を受けているということ。ロビンソンクルーソーでもない限り、一人で生きることはできないことを意味しているし、それが人間だということ。だからここまで文明は発達してきた。

結論:二つの視点を持とう。自分のやることとどう社会と関わるかということ。


努力論 (岩波文庫)


以上
選挙行こ。
また、明日***

2009年1月24日土曜日

心にきた言葉集17-2


努力論 (岩波文庫)


「自ら責めるということほど、有力に自己の欠陥を補い行くことはなく、自己の欠陥を補い行くことほど、自己をして成功者の資格を得せしめることのないのは明白な道理である。また自ら責めるということほど、有力に他の同情を惹くことはなく、他の同情を惹くことほど、自己の事業を成功に近づけることはないのも明白な道理である。」

今日は、他の同情を惹くとはどういうことなのかを考えたい。

他の同情を惹けば事業成功に近づくといっている。事業とは何かということだが、まず一般的に考えられているビジネスのことだと解釈しよう。

その場合、他の同情とは、資金提供者、投資家のことだろう。エンジェルといわれる人たちだと思う。

とすると、同情するとは、その事業の成功の手伝いをしたくなることだといえる。

ここで、事業ということで、それを成功するには金さえあればいいと考えてたが、それだけではないことに気づく。

人によって手伝いの形はさまざまだ。自分のできることは人によって違うから。

そう、やることは違うのに全員の見てる方向は同じ。

ここで、同情という言葉の意味をみてみよう。

同情:苦しんでいる人や悲しんでいる人に対してその人の気持ちになって親身に考えること。

苦しんでいる人や悲しんでいる人というのは、明らかに自分とは違う人という意味で幸田露伴は同情という言葉を使用していると思う。

そして、その人の気持ちになって考えるというとこがポイント。

まさにそれだと思う。自分の見てる景色を他の人にも見せる。あるいは見たくなる。これが他の同情を惹くこと。

これこそ魅力。カリスマ。

面白いのは、自分とは違う人と同じものを見るということ。正反対の概念が同居してるように感じる。”違う”と”同じ”。

どういうこと?

人という次元では”違う”。自分のする仕事の目的という次元では”同じ”。あるいは、こなす仕事の内容そのものという次元では”違う”。こなす仕事の目的という次元では”同じ”。

鶏と卵どちらが先かということと似てると思うが、あいつと違うからこの仕事ができる、または同じ目的を達成したいからこの仕事は自分がするというふうに、人と違うということが同じ目的を果たすためうまく補い合ってるように感じる。”違う”ということが”同じ”ということをたて、”同じ”ということが”違う”ということをたてる。

ここで復習。


努力論 (岩波文庫)


自分を責める:目標達成のためのモチベーション維持。また、集中力も高まる。

自分を責めることが他の同情を惹くとあった。

つまり、・・・

いつでもどこでも目標達成のため、走りまわっているあいつ。何をいったいそんなに夢中になってるんだ?と、話をついつい聞きたくなり訊いてみる。あいつの熱意に圧倒される。自分ではよくやってるように思うが、あいつ自身は満足してない様子。失敗談をいろいろ話してくる。でも、必ずそこから何かを見出し次にチャレンジしてる。聞いてるうちにうらやましくなる。充実した日々を見たくなる、あいつと同じそれを。

といったところかな。

結論:「他の同情を惹く」ということは、相手を巻き込むこと。

で、同じ目標を見てる人が多ければ、それだけ成功しやすくなるのは当然のように感じる。みんな自主的にそれを見ているからな。目指すべきはそこだ。

自分を責めることがすべての始まり。それは、自分を見つめる時間を持つということ。俺は、このブログもその一貫の一部と考えてる。自分は何を知っているか。

だが、今回の思考でまだまだ自分の甘さを認めざるを得ない。今まで、次に進めないという意味で自分を責めていた。自分をコテンパンにやっつけるために責めるんじゃない、継続して目標達成のため動くことを即すために責めるんだ。

はっきり言ってこの二日間の思考は論理的ではない。穴が多くて、そこには触れないように言葉を選んだ部分がある。でも、それは、どうにかプラスな結論にしたいという俺の想いがあったから。

この結論は仕組まれてるぞぉ!(笑)。


努力論 (岩波文庫)


以上
座禅をしようと思いました。
また、明日***

2009年1月23日金曜日

心にきた言葉集17-1


努力論 (岩波文庫)


「自ら責めるということほど、有力に自己の欠陥を補いゆくものはなく、自己の欠陥を補いゆくことほど、自己をして成功者の資格を得せしむることのないのは明白な道理である。また自ら責めるということほど、有力に他の同情を惹くことはなく、他の同情を惹くことほど、自己の事業を成功に近づけることはないのも明白な道理である。」

自分を責めるという行為。ここに注目したい。

なぜ自分を責めるのか。ここで、幸田露伴はその先に成功があることを示している。

向かうべきは成功という目標。というか、向かってる時点で今の自分は成功者ではない。

じゃ、どうすれば成功するか。欠陥を補えばいいと言ってる。つまり、身につけるべきものを身につければいい。

自分を責めるということは、目標達成するのに身につけなければならないものを身につけること?

ここで、文法的に見ていきたい。

「自分を責める」

主語がない。責める対象は自分。

責めるという動詞。意味:1、とがめる、なじる。2、しきりに要求する。3、苦痛を与える、痛めつける。

この引用文は幸田露伴の「努力論」から。約百年前に書かれた。

責めるという意味。あえてこの三つの意味をすべて採用してみる。

1、何をとがめるだろう?成功できなかった自分かな。
2、何を要求するだろう?成功すること。
3、苦痛を与える。何のために?成功するためかな。

うん。

自分を責めるというのは、目標達成に向けての何か具体的な行動ではない。が、成功できなかった自分を直視し、それでも成功を要求し、そのために負荷を与える。

モチベーションを高める行為。

だが、自分を責めるという行為自体が何か成功のための訓練のような気もする。

なぜなら、そこに集中という概念を見出すから。

考えることはひたすら自分と成功。自分と成功。そしてそれが、一致していく。

他のものは排除して、自分と成功に焦点を当てる。この時点ですでに集中している。で、その対象も一致していく。

集中が、より多くのエネルギーをより小さな対象に向けるということなら、自分を責めるということはまさにそれだ。対象自体も集中していく。

結論:「自分を責める」ということは、目標達成へと突き進む際のモチベーション維持のため、継続的に行う必要がある。また、その行為自体、成功には必須の集中力を養う場でもある。

明日は、なぜ「自己を責めることが他の同情を惹く」ことになるのか考えたい。


努力論 (岩波文庫)


以上
また、明日***

2009年1月22日木曜日

ペス

さっき実家から電話あった。飼ってる犬がいなくなったとのこと。もう長いな。たぶん二十年ぐらいは生きてるんじゃないかな。もうおばあだよ。三年くらい前かな、フィラリアという寄生虫に侵されてて、死ぬ瀬戸際だったことがある。まあ、それは治って元気にしてたけど、どこ行ったんだろう。

犬は死ぬ時自分の死ぬ姿を人に見せないと昔母に言われたことが頭をよぎる。

めっちゃテンション下がるわ~…。

でも、よく長いこと生きてるよ。そいつの母親も長生きだった。たぶん二十年くらい。その母親がどこの馬の骨か分からないやつにそそのかされて孕まされて生んだのが今の犬。

小学生の時、カギっ子だったんだけど、カギ忘れたときは家に入れなくて玄関でただひたすら親の帰りか兄弟の帰りを待つ。その時その母親犬、エスティーって名前なんだけど、が他の犬とロマンスに浸ってるんだよね。

変な感じだった。ショックでもあったんだが、好奇心もあって。はじめは雄犬を追っ払ったんだが、またしつこく来るんだよな。それで、追い払うのをあきらめて、その光景を見てた。

エスティーは俺が小学生の間だけで何回か妊娠した。昼間は誰もいなくなるから、そこらへんの野良犬が来るんだよな。で、小学校高学年になると、その光景もまたかよって感じで見てた。お盛んだねえ~みたいな感じで。

いまいなくなってる犬はその時の何回目かの妊娠の時の子供。名前はペス。

ペスは憶病なんだ。でもそこが可愛かったりする。鎖をはずしてもどこにも行かない。ただ、家の周りをちょこっと走り回るだけ。で、俺が歩くと俺の周りを走り回る感じ。

つい思い出に浸ってしまったな。

まあ、無事だろう。無事でいてほしい。

以上
また、明日***

2009年1月21日水曜日

心にきた言葉集16

「私有のないところに不正はあり得ない。」

真理だなあ。

これはロックが書いた言葉。

で、考えてみた。私有とは何か?不正とは何か?

私有の前提条件として、自己と他己の区別が可能。つーことは、自己の範囲内にあるものを私有と呼ぶと考えられる。

不正の前提条件として、何らかのルールがあると考えられる。で、不正とはそのルールから外れることだろう。

なるほど。つまり、人が自分というアイデンティティーを確立したその瞬間から不正の芽も生まれるということか。

人が自己を確立すること自体が一つのルール。それは、自己とその他を区別すること。他人を認識しないと自己は成り立たない。逆説的だが、他人がいないと自分はいない。

で、その自分と他人を区別する一つの基準が何を私有するかにある。

他人がいないと自分がいないというのは、人間は集団でじゃないと生きていけないことを意味している。

つまり社会を形成し、社会の中で生きてこそ人間。で、その社会とは人と人との結び付き、関係性。

ということは、私有というのは自分だけが思っていても意味がない。他の人もそれがあなたのものだと認めなければ私有にはならない。社会を形成する人全員が認めないと私有は成立しない。

社会を形成する人全員が認めるもの、まあそれは社会を形成するために必要不可欠なんだが、それは法律だろうな。

人は人とかかわって生活してるが、その人自体を見ているわけではない。自分との関係性を見ているのだ。その人の社会的位置を。果たしている役割を。

つーことは、自分の果たす役割をすることが一つのルール。まあ、それが仕事へとつながっていく。

不正というのはその役割から外れることか。それは、そのルールで動いている社会を否定することを意味すると同時に、その社会での自分の存在をも否定している。

不正は、意思表示。自分が社会に合わせるんじゃなくて、社会を自分に合わせようとする。なぜなら、この社会のルールだとこれ以上自分は社会の中でなりたい自分に成れないから。

面白い。不正が社会に対する敗北宣言になるのか、宣戦布告になるかはその人のその後による。

つまり、上の引用文はこういうことだと思う。

私有というのは一つのルールを体現化したもの。そして、不正とはそのルールに収まりきらないもの。まさに、例外のない原則はない、のごとくだな。

そしてさらにそれを掘り下げていけば、諸行無常に行きつくと思う。

物事は動いてるんだぞっ!!!

以上
ロックの言いたかったことが少しはわかったかのかなあ?
というか、上の引用文は、ルソーの「人間不平等起原論」でルソーが上の引用文を引用してたから、ロックの書物自体読んだわけじゃないんだよね。でもこれでロックに少し興味は持った。

また、明日***

2009年1月20日火曜日

心にきた言葉集15

「宗教の名において平和を語り、教団の名において戦争をしてきたわけですから。このジレンマをどれだけ乗り越えることができるか。これからの宗教の課題ですね。」



三年前は、へぇ~そうなんだあと思ってメモった。



が、そうなの?宗教が何をしたかというより、人々にとって宗教がどんだけ自分の存在と結びついてたかじゃねぇ。



宗教が戦争してたのは、中世で、当時は宗教が社会の中心だった。だから、自分の宗教が社会的発言力を持つことがそのまま自分の存在肯定だった。



で、今は経済が世界の中心。だから、宗教が戦争の目的にはなりにくいのでは。



つまり、ルールの問題。我々は何を見て生活してるか。



これはいろんな言い方ができるな。概念・価値観・時代性など。



はい!ここで問題!!!



長年続いてきた宗教、例えば、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教など、で同じ経典を学んでいる二人の信者がいます。一人は、現在西暦2009年に学んでいる。もう一人は、過去西暦820年に学んでいる。二人はそこから同じ真理を導き出すだろうか?あるいは、その経典から同じ内容を読み取れるだろうか?



考え中!考え中!考え中!考え中!       考え中!考え中!考え中!       考え中!考え中!考え中!



答!



二人に訊いてみたらわかるよ!



たとえタイムマシンがあったとして、二人に訊いても、異なる時代の異なる価値観の二人の真理をどうやって比較検討できるの?言葉の意味すら変わってるのに?その言葉は今の我々の言葉に直せるのなら別だが、それは無理。言葉をつくるバックボーンが違うから。同じ国でも。だから、古語から昔の人の価値観が読み取れる。



じゃあ、一度西暦820年で経典を学ぶ人生を送り、また生まれ変わって西暦2009年に学ぶ人生を送って、二つの人生を送ったあとに、二つの人生の記憶を比べてみるというのはどうだろう。



二つのことを同じとみなすには、それら二つを比べる”軸”がないといけない。以前、数は同じ次元であるということを話した。同じ次元じゃないと方程式は成り立たない。



この場合はどうだろう。二人に共通なのは経典だ。で?わかるのは、それぞれの時代で、宗教をおのおのの生活の中で重要な部分であるとみなし、生活していたということぐらいじゃないかな。彼らなりに真剣に生活していた。



人を比較する際、どこに”軸”を置けばいいか分からない。会社などでは人を比較するが、それはその人自身ではなく、その人の仕事の能力だ。だから、人の一部分を比べているにすぎない。



結局問題の答えはわからない。あるいは、そんなのわかるかぼけ!が答えかな。



長くなったが、上の引用文の「ジレンマを乗り越える」という部分。別に乗り越えなくていいだろと思う。宗教にとってその当時必要と当時の信者が決断しただけのこと。それが歴史を創ってきた。しかもそもそもジレンマなのか?とも思う。先輩たちのしりぬぐいはしないといけないが、それも含めての入信だろ。社会とかかわりたくないなら隠者の生活をするしかない。大事なのは我々も決断して歴史を創る責任があるということ。世間の人たちの印象を変えるという決断ならそれをすればいい。



以上

なんか、最後カッコイイこといったなあ、俺・・・・・・・・(^。^

また、明日***

2009年1月19日月曜日

心にきた言葉集14

「宗教というものが歴史的に見て人間に何を与えたかというと、一番大きいものは、やっぱりコスモロジーだと思うんです。つまり、“世界というのはこうなっているんだ”と、実に見事な説明をある一つの体系をもって与えてくれたわけです。近代になると、宗教が与えていたコスモロジーは、実はフィクションであるということになる。それが科学の立場です。それで科学は科学で一つのコスモロジーを与えようとしたけれども、それが必ずしもうまくいかない。つまり、万人が納得するという形では説明できない。」

だけど、最近は科学の発達でどんどん説明できる範囲は広がってるように感じるが、どうだろう。

特に最近流行ってる、「脳知る」はすごいね。茂木健一郎さんや苫米地英人さん。なるほどぉ、確かにそうだよな。と納得することが多い。

心と脳が同じということが衝撃的だったなあ。扱う対称が「情報空間」か「物理空間」かで呼び方が変わる。

う~ん、…勉強の意味というか概念も変わっていくのかなあと思う。まあ、間違いなく高校大学はそのあり方、社会的役割というか社会での立ち位置は変わるんじゃないかな。それは、ただ単に社会システムの変化に伴うだけなんだが。
今は、情報処理のスピード自体が価値があるんだが、全員がそれをこなせるようになるとどうなるのか。やっぱり創造かな?

感覚的に、歴史上にすでにこういう状態があったような感じはする。歴史には詳しくないんだが…。

歴史的創造が行われる場合、すでにその創造が可能となる土台が出来上がってたといったことだと感じる。

環境が変わるということ、その社会システムでは成り立たないという環境かな。

以上
感覚的発言ばかりですみません…。日常生活の中で目にする情報から受け取った印象ですので、裏付けがありませんので。

また、明日***

2009年1月17日土曜日

心にきた言葉集13

「あなたが、{私は傷ついている}というとき、傷ついている{私}とは何なんでしょうか。それはあなたが、自分について築いてきたイメージではないでしょうか。」

うん。そうなんだよな。

誰でもいいが、誰かとホントに真剣に付き合ったことがあれば、こういう誤解は生まれづらいとは思う。

やっぱりこれも自分を認識するとはどういうことかに関係していると思う。

人と真剣に付き合うということはエネルギーが要る。自分のすべてを相手にぶつけるし、相手のすべてを受け止めないと成立しないからだ。

自分のすべてをぶつけるということは、自分が自分に対するイメージをすべて相手に伝えるということだ。ただ、表に出すということではない。確かに相手がそのすべてのイメージを自分と共有することだ。

ここで共有という言葉を使ったが、複数の人が完全に同じ価値をそこに見出すことは不可能だろう。

理由は、われわれは物事を知らないから。「知るとはどういうことか」もちゃんと解明してないし、ここではその理由を深く追求はしない。

ここで言う「共有」の意味は、相手に「自分はこのことをこう見てますよ」ということを思わせるということだ。

詐欺みたいな感じだが、結局はこういうことだと思う。詐欺も、実際にはないが同じものをお互いが見ちゃったために成功するからだろう。

どういうプロセスをたどれば相手と自分自身のことを共有できるだろうか。

一般にある現象から単純に導き出した答えだが、それは言動によるものと思う。

あいつはこういう状況でこんなことを言うし、こんな行動をする。だから、あいつはこういうやつなんだ。といった具合。信用できるやつかどうか。

自分のことを相手にもっとよく知ってもらうには、より多くの時間を共有する必要があるということ。逆も然り。

戦争など命を懸けた体験をともにした人同士は、たとえ共有した時間が短くても互いの絆は強いと聞く。

なぜか?

まさに自分の存在をかけるほど真剣に相手と付き合ったからだ。自分を知ってもらわないといけないし、相手を知らないともいけない。

でもそれは、外部環境がそうさせたということが現在のニートの多さや人とのかかわりが希薄だといわれる現在との対比でわかる。

別に相手に自分を知ってもらったり、相手を知るより、社会の一般的ルール(買い物の仕方など、まあマニュアルかな)を知ってれば一応餓死することはない。

自分も含めてなかなか真剣に自分をぶつけれる人とめぐり合えない。その必要性がないというのが主な理由だ。

それが自分へのイメージを肥大させることにつながるというのが一般的な説明だ。

社会は個人にとって外部環境となりうるのか。それとも、時代の要請が外部環境なのか。

もっと質問を明確にしないといけないな。

社会とは何のこと?社会システムのこと?それとも自分の所属する集団の何か?それにそもそも社会は個人の集合体ではないのか?それは、経済でいうミクロとマクロの関係でいいのか?

自分の夢は、独自の哲学思想体系を構築することだが、そのキーワードとなると思うのが”力”だ。力とは何か?この世に起きてる現象は”力”を単位として表せるのではないかと考えてる。で、最近”力”はエネルギーの変化に伴うものなのではと感覚的に思っている。

ということは、他人と関係を強めることとその代わりに自分のイメージを強めるのはエネルギー的にどうなのか。

前者はエネルギーがよどみなく流れ、互いを行き来する。が、後者は、エネルギーがその場にとどまるしかなくなり、それが自己イメージへと昇華する。といった具合かあ?

なんか安易なんだよなあ。しかも、どうやってそれが正しいと証明するの?エネルギーが人の意識にどう作用するかわからないといけないし、エネルギーの何が作用するの?量?変化の方向性?

わからないこといっぱいだね!

以上
ひとつの仮説を立てたら、自分は何を知らないかを知るようにはなってきたかな。
また、明日***

2009年1月16日金曜日

心にきた言葉集12

「多くの専門家のように限定的観点から真剣に問題に向き合って説明してしまい、それで要点ないし論点が逃げてしまうのである。」

自分の知識を披露して終わるということかな?

自分の伝えることは何か?によって披露すべき知識は決まるし、その順序も決まる。

相手に要点や論点が逃げてると思われてるということは、今話している目的を両者が共有できてないからではないか。

そのためには、相手を知らないといけないし、自分を相手に教えないといけない。それが前提。

相手を認めるということ。

人は認めてもらいたいという欲求をだれでも持っている。しかもその欲求は結構強い。

なぜ、認めてもらいたいと思うのだろうと昔から考えてた。

約十年前の自分の答えだが、「自分の存在を存在たらしめるため」ではないかと考えてた。

言い換えると自分のこの肉体、この時間・この空間を占めている物体、の存在する確率をより高めること。

自分自身では自分の存在はわかるが、それだけでは一秒後、翌日、十年後存在してるかはわからない。

しかし、人間は集団動物だ。その理由も一人では自然の中では生きていけないからだと思うが、現在この高度に構成された人間社会にいる自分が今後も生きていくには、やはりその社会の一員にならなくてはいけない。

社会の中での自分の役割。自分がいなくなるとみんな困るぞぉ~という関係。

自分が今後も存在していく確率の最も高い状態がこれではないか。

だから、みんな勉強して社会の人たちに自分(の存在)を認めてもらおうとしているのではないかと思う。

以上が昔考えていた内容

と考えてみると、人が自分を認識するのは、肉体(三次元の世界)を一番目の教材として。あくまで肉体は、はじめの教材。

なぜなら、ソクラテス・プラトン・キリスト…などなど、肉体は滅びてもその存在は今なお、現在肉体のあるわれわれよりも光り輝いているからである。

つまり、私たち人間は、三次元の世界で生きてはいるが(肉体は三次元にあるが)、我々のやる行動は自分の肉体にのみ向けたものではない。ということ。

マズローの欲求段階説というのがある。

1:生理的欲求ー2:安全の欲求ー3:社会的欲求ー4:自我の欲求ー5:自己実現の欲求とあって、1から順にその欲求が満たされると次の欲求へと進んでいく。

この五つの中で目に見える物体を扱ってるのは、はじめの生理的欲求だけだろう。その後は、その人が何を見て生活しているかの大まかな区別ではないかなと思う。

で、最後の自己実現がまさに自分の存在を時空を超えて(三次元の世界を超えて)確かなものにした形なのだろう。

これが、相手を知ること・相手を認めることに使える。

相手の欲求がマズローの五段階でどこに位置するかが分かれば、自分のする行動もおのずと決まってくるだろうし、それをすることで相手は認められたと感じるだろう。

上に引用した言葉は、専門家の特徴が表れているし、自分も気をつけないといけないという思いでメモったもの。

そんな専門家と話す場に遭遇したらどうすればいいだろう?

「さすが専門家だけあってよくご存じですね。大変勉強になります。一つ相談したいことがあるのですがよろしいですか?」

相手の言動から相手は何を欲求しているかを読み、相手を認める。そして、質問を通して自分(の知りたいこと)を教える。といった具合に自分の知りたいことを相手に振ってみたらどうだろう。

コーチングの基礎です。

以上
最近考えなかったことを考えられてよかった。というか、そのための言葉集だけど。復習、復習。
また、明日***

2009年1月14日水曜日

心にきた言葉集11

「科学の基礎的法則はみんな当たり前のことから出て来るんです。当たり前と思うことがなぜそうなのかを厳密かつ精密に証明するために何が必要なのかを考えていくと、より基礎的な法則に出会えるんです。」

そう。つまり、学問の考え方は、帰納法にすぎない。今、目の当たりにしている現象という結果から、その原因を突き止めていく。

それが、「学問はそれ自体が目的である」といわれるゆえんだろう。

そこに生活という概念が入ってくると、これまで発見されてきた法則の組み合わせで、創造性を発揮するにいたる。のではないか。

まあ、普通にわからなかったことがわかっただけでも、十分楽しいんだけど、それを使っていろいろ検証するのも楽しいよね。

以上
また、明日***

2009年1月12日月曜日

おはようございます。

朝起きて、窓を開ける。

そこには・・・

雪降ってるじゃねーかあ!!!

そんなに積もってないけど、雪化粧した山は、もーすげえ。

沖縄で育った俺にとってなんか幻想的でもあり、こんな世界があったのかといった感じ。圧倒されまくり。

そんな俺に一つの感情が生まれる。

雪ぃ、大好きだーーー!!!やべぇ、ひとめぼれってやつだ。まさかこんなにも簡単に俺の心を奪うとは…全然奪っていいけど。

去年も感動したけど、いつ見てもいいなあ。

こんな姿見せられたら、愛せずにはいられないだろぉ。

もぉ、とりあえずみんな大好きだぁ!!!!

以上
皆さん、いい一日を過ごしてね!
それじゃあ、また***

雪だるまは無理っぽいなあ…。

2009年1月11日日曜日

なるほどねぇ~!

サッカーした。で、1:体力のなさを痛感。

モレラ行った。で、2:子供向けのヒーローや着ぐるみのキャラがいたけど、ちびっ子はあまりくいついていなかった。

ママンというカフェに行った。で、3:ついつい長居。

お疲れ様でした。Kさんいろんなとこ連れて行ってくれてありがとうございます。
よかったね、俺。

以上
また明日***

2009年1月10日土曜日

心にきた言葉集10

「一つの目的を終局の目的としない計画、計画の中から次の目的が生まれ出て、成長してゆくような計画、つまり、ビホウ策の連続であるような計画は、全く不可能なのでしょうか。これは特に、地域計画とか都市計画のように明確な目的をもつと困るような分野では明らかなことです。これは目的を見失うということではありません。目的の自発的拒否であり、目的の流動化といってもいいかもしれません。目的が明確であるということは、機能的であるということです。機能的であるということは、単能的であるということです。今こそ目的を持たぬことの積極的意味を評価すべきではないでしょうか。漂流型の行動の美学の意味を、積極的に評価すべきではないでしょうか。」

う~ん、面白いなあ。

目的の流動化。たぶんこれは、最大の目的は高度に抽象化されていて、それを達成する当面の目的をその時の状況によって臨機応変に変えることを意味してると思うがどうだろう。

でも実際は、都市計画などは、技術の進歩が速いため、その時の最高の技術でできることをしていってるだけだと思うんだよな。

まあ、この文章の中で俺が心を惹かれたのは、「目的が明確であるということは、単能的」というとこ。

ということは、いつ・どこで・何を目的にするかを的確につかめることができれば、秒単位で目的を変えることができれば、なんでもできるんじゃねえかあ~なんて思う。

つ~ことは、人生というのは目的の多重層をこなしていくことか?この一時間でやることの目的は、この一カ月でやることの目的に内包されてて、それはさらに一年のそれに内包されてて…といった具合。

じゃあ、最後の目的は?まさにあの世へと一歩を踏み出す間際で、「やれやれ、俺の人生HAPPYだったなあ。それじゃあ、バイバイみんな!」なんて思うことだと思う。自分の人生に悔いなし状態だな(笑)。

以上
今日も明日も、その次も…永遠にHAPPYでいよう!
では、また***

2009年1月9日金曜日

心にきた言葉集9

「理性では汚辱としか見えないものが、感情には完全に美と映るんだからなあ。」

うっ…、結構きつい言葉だな。

感情で自分を見失うことはあるからな。

「恋は盲目」と云うし。

でも、だからこそ人生は面白いんだと言ってやりたい。

歴史はその積み重ねだあ。

以上
では、また***

2009年1月8日木曜日

心にきた言葉集8


エンド・オブ・サマー


「愛というものは限りなく尊い宝物で、それによって全世界を買うことも出来れば、また自分の罪は言うまでもなく、他人の罪までもあがなうことのできるものなのだからな。」

愛、か。

十年以上前になるが、高校時代に読んだ本で愛についてこんなふうに書いてあった。

「愛とは一方向だ。内から外へと向かう。この一方向のみだ。愛は誤解を生む。自分は愛されていないという誤解を。だから悲しむ。だが、その悲しさは自分に愛する力がある証拠である。」

といった内容だったと思う。

はじめて本を読んで涙を流した。その本で。びっくりしたなあ。ドラマとか映画で泣いたことはあったが本で泣いたのは今のところそのときのみだ。ありがとうね。

もう一度読んでみようかな。図書館で借りよう。

本のタイトル:「エンド・オブ・サマー
」  著者:ジョン・L・ラム   だったと思う。

皆さんも暇な時にでも読んでみてね。

以上
またね***

2009年1月7日水曜日

心にきた言葉集7

「自分自身を欺くものは、また誰よりも腹を立てやすい。なにぶんにも腹を立てるということは時として非常に気持ちのいいものですからな。しかもご当人は、誰も自分を辱めはしない、自分で勝手にそんな侮辱を考え出して、それに色取りをそえるために嘘をつき、一幅の絵に仕上げるために自分で勝手にそれを誇張して、他人の言葉に言いがかりをつけ、針小棒大な大騒ぎをしているということを、自分ではっきり承知している。自分ではそれを心得ていながら、自分から真っ先に腹を立て、しかもいい気分になるまで、大きな満足を感じるまで腹を立て、それによって今度は本当の敵意をもつようになってしまうのです。」

肝に銘じよう。

では、また***

2009年1月6日火曜日

心にきた言葉集6

「最も試験済みのすでに千年の歴史をもつ、奴隷状態から人間を精神的に更生させ、自由と道徳的完成に向かわせるこの武器(長老制)も、場合によっては、両刃の凶器に容易に変貌しうるものであった。従って中には、忍従と徹底的な克己に赴く代わりに、反対に最も悪魔的な傲慢、つまり自由ではなくて束縛へと赴くものも出てくるわけである。」

難しい。自分のしてることが自分の意志なのかどうか?自由から出たものなのか?だとしてもその行動が自分の自由を否定するものではないのか?

バランスを保てということだろうと思うが、どうしてそれがバランスがいい状態であると言えるのか?一度でも、徹底的に片方に偏らないとバランスの重要性はわからないのではないだろうか?

軸。考える軸。行動する軸。心の軸。いろいろあるが、これらの軸は根本の部分で一致してないと人は生きていけないのではないかと思う。なぜならそれらがその人の生きる道をつくる土台となると思うからだ。

忍従・克己と束縛は違う。ぱっと見は同じように見えるがその行動を起こす考えが違う。具体的にどう考えが違うだろうか。主体的か受動的かということ?

なんかなあ、いつも同じでちゃんとした結論を出せるよう細々と書けないな。長くなるし。
とびとびでいつもすみません。わかりやすく書けるよう工夫します。

以上
では、また***

2009年1月5日月曜日

心にきた言葉集5

「本当のことばかり言うやつより、かえって嘘つきの方がしばしば正体をはっきり見せますからね。真実は光と同じで、目を眩ませる。逆に嘘つきの方は美しい夕暮れみたいで、いちいちの物をはっきりさせてくれる。」

確かに、人は真実に耐えられない場合がある。でも、それが人間の生存してきた理由の一つといえるとも思う。

常に自分の弱さとの戦いだと気負ってられるほど単純でもタフでもない。じゃあ、どう生きればいいのか?

やっぱり答えは「汝自身を知れ」になってしまう。

てめえの人生はてめえで創れ。ってことか。

何を自分の弱さとするのか?そしてその弱さは今後の人生で克服すべきものとしての弱さか?それとも、自分の特徴の一つとしての弱さなのか?それをも自分で決める。この選択の繰り返しが、その人の価値観になり、人生をつくっていくのでは?と思う。でもどうやって証明するの?今後の課題だな。

認識するとはどういうことか?かな?とりあえず。

以上
またね***

2009年1月4日日曜日

心にきた言葉集4


政治学 (中公クラシックス)


「国家体制というのは、国家におけるさまざまな支配と統治の役職に関して、これらを秩序付ける一定の仕方であり、それら役職がどんなふうに人々の間に配分されるか、何がその国家体制の中で最高の権力を握るものか、またそれぞれの共同関係の目的は何であるかを定めるのに対して、法律の方は、国家体制を明らかにする原理とは別のものであって、統治と支配の役職に就いたものが、その役目を果たすにしても、またこの法律を踏み外すものが出ないように防ぐにしてもそれに基づいてしなければならないという規則なのである。」

なるほど、法律は国家体制が何であろうと普遍的な役目を持ってるのか。確かに、北朝鮮やシリア、サウジアラビアなど日本と国家体制が違う国々にも法律は一応あるんだよな。

以前、集団について考えた。そこには”要素”があると結論付けた。

国家体制、あるいは法律は”要素”となりうるか?

まず、ここで考えている集団は国を構成する国民だ。歴史的にみると国家体制は変わる。フランス革命で王制から民主制へ、ロシア革命で王制から社会主義制へ、日本でも明治維新で幕藩体制から民主制へ。

集団構成員が全員同じものを見ているそれが”要素”である。つまり考え方。時とともに大多数の人の考え方が変わった。これが国家体制の変化。そしてそれは考え方を実際に行動に移した結果である。

答:国家体制、法律は”要素”にはなりえない。これらはただ要素3の行動を具体化したものにすぎない。

じゃあ、人は見ているけど見えないものを見ているということ?人を動かすのは目に見えないもの?

ニート増大、派遣増大、国の借金増大、CО2濃度高、などなどこれらを見ているが実際は我々は何を見てる?というか、感じ取っている?と考えると、人間の情報収集はやはり感覚器に頼るしかないのか?などと考えてしまう。

あぁ~…、いろいろ疑問が出てきて収集つかない。

一応、今日の言葉はアリストテレスの「政治学 (中公クラシックス)
」から。

すごいな!何千年の時を超えて生き残った書物は。すでに本質を見抜いてるよなあ。今の時代でも通用しまくりだもんな。

以上
またね***

2009年1月3日土曜日

心にきた言葉集3

「あなたの友人たちが本当のことを言ってくれと求めても、うかうかその手に乗ってはだめですよ。彼らはただ彼らが自分に対して抱いている身勝手な評価を、あなたも保証してくれと望んでいるだけです。あなたが率直に言うと誓いさえすれば、彼らはそこから自分自身の補足的な補償をくみ取るわけです。」

「中傷を耳にし、わが身の行いを改めることのできる者は幸せだ。」

以上

またね***

2009年1月2日金曜日

心にきた言葉集2

「愚痴は自分の心をさらに毒し、いっそうかきむしることによって、ようやく悲しみをまぎらすばかりである。こうした悲しみは、慰藉を望まないで、救いがたい絶望の情を餌食にするものである。愚痴はただひっきりなしに傷口を突っついていたいという要求にすぎない。」

そうだぞ!愚痴ってちゃだめだ。

今日も素晴らしい一日にする。
では、また***

2009年1月1日木曜日

明けましておめでとうございます。

新しい一年の始まり。

え~と、新年早々なんですが、実は私2005年から、本やその他、目にした文章の中で心にグッときた文句・文をメモってきました。

それを当分の間披露していきたいと思います。

題して、「心に来た言葉集」。

「一人の人間に何ができるかできぬかは、自分を貫き通すことに他ならない。」

「問題はこれからの人生でいかに過去を振り切るかです。我々が過去を忘れようとしても、過去がなかなか我々を忘れませんからね。」

今日も素晴らしい一日だぞ。
しばらくしておやすみ***

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...