2012年3月28日水曜日
世界を変えた巨人たちIF(食べる読書85)
ちょうど10年前だと思うが、どしゃぶりの時代 魂の磨き方という本をバイブルのように何度も読んでいた。特に繰り返し読む箇所は決まっていたが、そこのページは何度も開いたり閉じたりしてたので、ページがとれちゃってテープで留めて読んでいた。
その本の中に「彼岸との対話」という項目があった。これは、著者が歴史上の人物と対話をするというものである。あの人ならどう答えるだろうということを、彼らについての知識があればそれに近い答えがわかるのではないかという試みであった。
そして、本書はその「彼岸との対話」ばかりを集めたものである。どしゃぶりの時代 魂の磨き方に載っていた人物も何人かいて、少しだけ現在風にアレンジはされているが基本的には同じ内容だった。
読んでて感じたことは、彼らは偉人だけあって本質をズバリ言う。
それだけでも違うのだが、その発言に力があることが重要だと感じたのだ。
はっきり言って似たようなことは誰でも言えるといえばいえる。しかし、何かしら事を成した人が言うとそれは輝きを放つ言霊として我々の胸を打つのではないか。
事を成した人が言うからそう感じるのかもしれないが、彼らは無名のころから自分を信じていた。そういう意味で彼らは成功の前後で大きく変わっているとは言えないと思うのだ。
何が言いたいかというと、何かがあったからとか環境がどうだったとかではないということだ。自分がどんな状態であるか、そのあり方の問題だということ。やり方といったテクニカルな部分はいくらでも変えられる。しかし、やり方をどう変えるかは自分の在り方が決めるのだ。その自分の状態がフラフラしていてテクニカルなことで動かされていれば、決して成功はしないし何もなせない。
つまり、自分を成功へ動かすのは自分の在り方だということである。
動かない在り方が、まわりをも動かし物事をも動かし自分の目的を達する必要十分条件といえると考える。
そう感じたのが本書である。
自分を見つめ直すあるいは何かしらを得られる一冊ではないかと感じる。
以下抜粋
貧しい家に生まれ、たいした教育も受けられずに育った人間は当時何百万といた。その彼らの中から抜け出てリーダーになるにはどうしたらいいのか。まず確固とした人生の目的を抱くこと。そしてその目的に向かって邁進する鉄の意志。自分の持てるものすべてをそれに注ぐのだ。すなわち限界を超える努力が必要不可欠なのだ。人が7時間寝るなら自分は3時間。人が10時間働くなら自分は18時間。君がドロボー成金と呼ぶ者たちは皆それをやってきた。彼らは、私も含めてだが並の成功で満足できる人間ではない。目的達成までに徹底的に努力をする。その徹底さが並の人間に嫌悪感を与えるのだろう。そしてその嫌悪感は嫉妬心に変わる。
前に進むためには過去を見つめ清算せねばならないのだ。
世間からの褒賞や尊敬など眼中になかった。ただひたすら神を信じ、神に受け入れられていると確信していたと思う。
世界はコントロールする者とされる者でできているのだ。どうせなるならコントロールする方がいいだろう。
重要なのはプライオリティの選択、スピード、結果だ。
どんな相手でも簡単だと思ったらこっちの負けになる。
<日々の勇気というものは決定的瞬間の勇気ほど劇的ではない。しかし、それは勝利と悲劇が気高く入り交じった壮厳なものであることに違いはない>
独裁の中での平和よりも、混乱の中での自由のほうがはるかに人間的であると私は思います。
残念ながら今日の世界では自由は欲しい、民主主義のシステムを享受したい、しかし、それを守る責任は避けたいという人間が多いのです。一人ひとりが権利と義務、自由と責任は常に一体のものと受け止めねば民主主義社会は存続できるわけがありません
政治とは政治家のためではなく、国民のためにあるのだ。国民が払う税金は安心料であって、自己保身に必死な素人集団に払っているわけではない。
人を愛し、人を信じ、人を助ける。
底抜けの明るさ、人の緊張をほぐすあの笑顔、人の心を高揚させる弁舌。
”私は以下のことを心の中で信じている。人間は善である。正しい者はいずれは勝利する。人は皆人生の目的と価値を持って生きるに値する”
軍事より経済が優先する時代なのに中国、北朝鮮、イランなどは軍拡路線に邁進している。それに対して民主主義国家はなんら効果的な手を打てない。国連という機関があるがあんなものは発展途上国のガス抜き機関にすぎない。あれを真剣に受け止めている者はよほどの馬鹿だ。
「宗教や八卦は不安な人間心理につけ込んだ慰みにすぎん。だがそれらを禁止したことはない。心の自由までは奪えないからのう」
性格が暗い人間は往々にして被害妄想に陥ります。
時代は常に変わるものだ。それによって改革も必要となる。そうしなければ時代に置いてきぼりをくらうだけじゃよ
余は幻想に頼ることも慰めを受ける必要もなかった。現世が地獄にもなれば天国にもなるというのが余の信条であった
とにかく守り一辺倒になったら国家も人間もおしまいということじゃな
自分の国は自分で守る。
英雄の第一条件は大胆さだ。
裕福な層が増えれば増えるほど平和になる。失うものがあるからだ。
この世に希望を持てない彼らに天国について説くキリスト教は大いにアピールした。
あらゆる分野での指導者は、ローマ帝国の歴史を勉強してほしい。そこには人間の悪と善、権力への野望、統治力、政治家としての力量や資格、責任、価値観の移り変わりなどすべて現代に通じる要素が凝縮されているからだ。最高のレッスンになることは保証する。そのレッスンから学べるかどうかが問題だがね
「自分の無知を認めるには勇気がいる。知性の探求は無知を認めることから始まるのだ」
考えれば考えるほど世に存在する不正、欺瞞、人間の悪、己の弱さなどが見えてくる。だがそれらを真っ正面から見つめて人生に立ち向かっていくのが人間本来の姿なのだ。自分自身が本当に欲する価値観を把握するだけでも大変な努力を必要とする。しかし、それができたときは計り知れないほどの大きな喜びがある。考える人間は決して満足でき得ない
”考えない人生は生きるに値しない”。
”私はアテネ人でもギリシャ人でもなく世界の市民である”。
私の知る限り物質的には決して恵まれてなかったが、心が瑞々しく豊かで毎日が幸せだった、という人々はごまんといます。
「価値あるものを作り出すには時間がかかります。でもすぐにできることはあります」
心の豊かさや余裕、情操、高邁な価値観などがなければ意味ある人生を送ることはできません
行動で接するしかないのです。そして一人ひとりをかけがえのない独立した人間として扱う。
信仰だけを大切にする人間は人間味を失う。
私は芸術家である独裁者を統治者の理想の一つとした。だが凡人には芸術より独裁のほうがはるかに簡単だ。両方を同時に持つのは難しい
本当の強靭さとは勇気と知性のコンビネーションと私は言った。しかし、ナチスは勇気と知性をぶつけ合い、強靭さという美徳はただの盲目的暴力と殺人、破壊に成り下がってしまった。
「相手にしたらこっちの時間を盗まれていると同じです。それに私の名誉心はそんなに安っぽいものではありません」
正直さに理由をつけねばならない人間は凡人であり、そういう輩は信ずるに値しない
考えるということは命がけなのだ
その前に人間として偉大でした。血も涙もあり、包容力と愛は無限でした。
以上
またね***
2012年3月23日金曜日
第三の敗戦(食べる読書84-3)
日本の歴史に対して勉強になったという部分が大きい。
そして、そこから導かれる結論として、現行の体制ではなく別の新しい体制が求められていることも分かった。
堺屋太一さんは洞察力が鋭くて、今まで見なかった視点から物事をとらえ、それが本質をついていると感じることが多々ある。
しかし、たぶんここまでなんだろうなと感じる。
何がここまでかというと、時代の要請というか、世代の役割というか、今の論客の人たちなどは、声高に叫ぶだけしかできないということ。
歳も60,70…だし、これから何かをしようというにはエネルギーがないだろうし、逆に彼らが変革をおこしちゃうと若い世代が育たずに、結局その変革はその後長期安定を保証するものにはならないだろうからだ。
ま、でも、つねに変革というのは若者が成し遂げてきたことだ。
明治維新は30前後の人たちが多いだろう。坂本竜馬などだ。
新たな体制の要請は本書を読まなくても社会の変化などから肌で感じる。だから、わかりきっていたことを、歴史的観点からもうらをとってくれたといったくらいだった。
つまり、肝心の新たな体制とは何かについては詳しく記述されてはいなかった。
繰り返しになるが、そのことについては彼らは詳しく書けないだろうと思う。予測ということもできにくくなっていると感じる。
行動することだ。
スピリチュアルブームが去り、今はネットワークや利他といった価値観が注目されている。
しかし、まだ体制というには体系化されていないし、認知もされていない。まだまだ実験段階といったところだろう。
しかし、行動することだ。
こうして一つ一つこれまでとは違う価値観を試していき、どれが今後の社会を創っていくか、今の社会の膿を出してくれるか。
行動することだ。
たぶん、行動していく中で気づくことではあるが、何か考えがないと、または哲学がないと行動なんてできない。
特に、どんな逆境にあっても行動し続けるには、それの基になる考え・哲学が明確になっていないと、行動を貫き通せない。
これも歴史が示しているが、何かしらの革命なりが起こるにはそれを支える思想というものがある。
まず、新たな思想ありきなのだ。それは、現行のまずさを払しょくしてくれるものであるという条件があるが…。
行動と何度も書いたが、新たな体制が必要といわれてすぐ行動をとれる人は何人いるだろうか。
すぐ行動をとれるという人は、常日頃からこういうことを考えていた人だ。彼なりの結論・考えがあってそれに沿って動いただけだ。
まあ、防災訓練みたいなものだ。こんなときどう行動すればいいか事前に分かっていれば、パニックにならずにすぐ動ける。
今それが起きている。
この非常時代で、我々はどんな人生を生きるのか。それがそのまま哲学となり、行動の基となる。
新たな体制というのは、我々の生活に直接かかわってくる。それは、我々が今後どんな人生を生きたいかによって決まる。
革命の前に哲学・思想がある。そして、その哲学・思想の基はこうなりたいという今後の自分の人生がある。
だから、革命というのは若者にしかなしえないのだ。
死にゆく者、衰えてゆく者には革命という文字はない。
この時代で、何も行動をおこせないのなら、それは我々が死にゆく者であったということ。後世の歴史家にこう冷笑されるだろう。
今、歴史の真っただ中にいる。
以上
またね***
2012年3月21日水曜日
第三の敗戦(食べる読書84-2)
引き続き抜粋
太平洋戦争を含む第二次世界大戦が終わると同時に、二大戦勝国のアメリカとソ連は対立、互いに同盟国を募った。そんな中で、日本列島は重要な戦略的位置を占めていたので、アメリカとしても大切に保つ必要があった。アメリカが気前よく敗戦国日本に物資援助を与えたのにも、アメリカ自身の世界戦力が絡んでいたからである。
官僚主導の規格大量生産大国は、日本人自身の創作といってよい。これは、アメリカの望むところではなかったかも知れない。
この国は、上下に切り分けられた格差社会ではなく、職業や所属集団で分割された縦割り社会なのだ。
学校教育も規格化され、偏差値一つですべてを測るようになった。大学は大教室になり、入学試験は○×式になった。すべてが効率第一である。
年功賃金は成長企業に有利に、衰退企業には不利な体系なのだ。幸い、戦後の日本は圧倒的に成長企業が多かった。
職場にだけ帰属する人々は、職場の仲間には親切だが、それだけに嫉妬深い。仲間意識と嫉妬はしばしば同根の同居者である。職場にのみ単属する者は、大家族や地域に関わる者を心よく思わぬことが多い。
人間は下手なものは嫌いだ。学校では嫌いな時間が延び、好きな時間が減る。そんな厭な学校に、休まず遅れず通学すること、それこそが辛抱強さを養う国民学校教育である。現在のアメリカやヨーロッパで一般的な「得手を伸ばす教育」とは正反対だ。
要するに、物財の豊かさを希求してはじまった戦後日本は、最も物財の大量生産に適した社会、規格大量生産社会に行き着いた。そのためにこそ、企業系列を確固としたものにし、没個性規格化教育を行い、東京一極集中の地域構造を築いた。すべては、物量を豊かにする規格大量生産型の近代工業社会を築くためであった。
アメリカは、小規模貯蓄金融機関などの整理を急ぎ、九十一年のうちに千余の金融機関を破綻させた。このため「湾岸戦争の英雄」ブッシュ大統領(父)が一年後の大統領選挙で落選するほどの政治的ショックがあった。しかし、この英断で大きな破綻はまぬがれた。政治家が責任を持つ市場経済の仕組みが活きたのである。
官僚は所詮、「部分の専門家」である。その積み上げからは全体の指針は出て来ない。これを為すべき政治も、全体把握の能力が衰えていた。冷戦後の世界構造と知価革命の流れを摑まえ切れていなかったのである。
結果は大不況、金融機関は貸し渋り、貸しはがしに走った。この国の金融機関には、もともと事業の将来性や経営者の人格能力を測る習慣がない。彼らが習得していたのは土地の担保価格査定の技量と金融系列の人脈だけである。
官僚たちの規制強化の理由は「安心安全」と「弱者保護」である。だが、実際は必ずしも安全につながらないものも多い。
ところが、一年後の阪神・淡路大震災では、どこの国よりも多くの高架道路が倒れた。これに対する官僚の答えは「官僚の基準は正しかったが、手抜き工事があったから」というものである。しかし、高架道路はみな、官僚の選んだ技術水準に適った業者が指名入札で施工したものだ。高い費用を掛けながら安全ではなかったのである。
同様に、日本は世界一厳しい建築基準法や消防法を設けているが、焼死率は決して低くない。火災保険会社の検査が主流の香港よりもずっと悪い。
今回の福島第一原発事故も、官僚基準主義の欠点を露呈した。官僚の定めた基準を絶対視して、「憶分の一」に備えるダメージコントロールが全くできていなかったのである。
官僚たちは「安心安全」を標榜して規制を強化するが、その実、安全性よりも権限強化の方が優先されていたのである。
先進国の経済は、規格大量生産の時代から知価創造の時代へと移りつつある。規格大量生産型の産業にのみ依存していたのでは、中国や韓国などの新興工業国に追われるばかりだ。
日本は教育文化の面でも、世界の中枢から外れ出しているように見える。戦後の日本は、規格大量生産型の工業社会を追求するあまり、個性と独創性、そして若者たちの競争心や自立心を失わせてしまったのではないだろうか。
組織はそれができた瞬間から、それが作られた目的とは別に組織自身の目的を持つ。組織を構成する者自身の幸せ追求である。
官僚の地位は完全に「身分」、能力や熱意の高い適任者が選ばれる「職業」ではなく、それに適しい資格(キャリア)を備えている適格者が選ばれる「身分」である。
政治家は選挙の受けを狙って国政の現実を学ばず、空虚なテレビ出演に興じている。その一方で官僚は、仲間の受けを考えて自らの権限と予算の拡大に走る。各府省別の縦割り組織と、公務員試験の種類や入省年次で仕切られた横割りの身分で細分化された官僚機構こそ、日本の敗戦の象徴といえるだろう。
官僚主導・業界協調体制で近代工業社会を築いて来た戦後日本は、国民の選択においても敗れたのである。
今回の災害、とりわけ福島原発事故は日本の技術への信頼性を大きく破損した。中には日本政府や東京電力の発表を信じかね、駐在員の引き揚げや関西移住を行った外国政府機関や企業もある。技術だけではなく政府の発表が信じられていないのである。
結局は、冷戦後の新世界構造に有効な対策(新コンセプト)を打ち出せないままである。ここにも、さ迷う日本の凋落した姿がある。
基本方針を決められない政治は、実行者に方向ややり方を決めさせる。つまり、官僚丸投げである。
投げられた官僚は、それぞれの慣例と組織利害に従って、やり易いようにやる。この結果、部分的にはもっともらしい作業が行われるが、全体の方向は定まらない。つまり、「古い日本」が歪んだ格好で再現されてしまうのである。
これからの日本が脱工業化し知価社会化することは、資源多消費、移動距離長大、少子遅産の社会から抜け出すことである。
現在の日本のかたち(地域制度)は、明治以来の中央集権型府県制度の器に、規格大量生産を目指す「東京一極集中機能」を詰め込んだものである。このかたちは、がむしゃらに規格大量生産体制を目指すのには役立った。だが、今や重い鉄兜のように日本の頭脳を締め付けている。
官僚の規制論者は必ず外国を厭い、交流を規制したがる。そのために外国を悪意ある恐ろしいものに仕立てる。それが「厭や厭や開国」である。
人口が減少すると生産の低い土地は捨てられ、みなが生産性の高い土地や都市に集中した。その結果、一人当たりの所得は増え、工芸品や絹織物を買う余裕ができた。祭りも盛んになり教会の建立も増えた。その結果、ミケランジェロやダ・ヴィンチが絵筆を揮うような文芸が花開いたのである。
要するに人口の減少が経済にどう影響するかは、労働移動のあり様で決まる。これから少なくとも三十年ぐらいは日本の人口は高齢化と減少が続くと見られる。その中で日本が経済文化の繁栄を保ち、世界に尊敬される国であるためには、外国人労働者を活用する「好き好き開国」に向かわねばならない。
発想の転換、新しいコンセプトの創設が急がれるところである。
外国人の犯罪率が高いのは事実だが、それは劣悪な社会的経済的環境に置かれた人が多いからだ。日本人でも劣悪な環境に置かれた人々の犯罪率は高い。むしろ、外国人にも住み易い社会的条件を整えるべきである。日本は今、身分化、硬直化が進み、規制の厳しい住み辛い世の中になりつつある。
徳川幕府は武士身分の固定化で停滞した。明治日本は陸海軍の年功序列型将官身分制度の確立と共に衰退した。今、この「戦後日本」も官僚や大企業正規社員の身分化、他に対する格差意識で滅亡しようとしているのではあるまいか。
一方に「身分化」「利権化」が生じれば、他方には倫理の頽廃が現れる。これを官僚的な取り締まりでなくすことは、費用と人手の上でも不可能なばかりか、規制と検査の強い統制社会になってしまう。まずは上から特権身分制度を止めること、特にそれは国家中枢の官僚(高級公務員)から改正することである。
以上抜粋
to be continued・・・
2012年3月19日月曜日
第三の敗戦(食べる読書84-1)
以下抜粋
国政を預かる者は「治にいて乱を忘れず」、日ごろからこの手順を心得ていなければならない。
納戸化した住居で育った子供たちが将来、世界に通用するような美意識を持てるだろうか。貧しくとも「よりよい住環境」を創ろうとする意欲が家庭にみなぎっていなければならない。
徳川幕藩体制は、身分社会、鎖国経済、縮み文化の三つから成っていた。それを支えた「正義」は「社会的安定」である。徳川幕藩体制二百六十年は、「安定」がすべてに優先された。このためには、生活の利便も、経済の豊かさも、日々の楽しさも、捨て去られた。
政権は変わり易い。だが、体制は簡単には変わらない。災害や財政の破綻、無能悪逆の君主の出現ぐらいでは、一国の社会体制が崩れることは滅多にない。世の体制を根本から変えるのはただ一つ、支配階級の「文化」が国民に信じられなくなった時である。
「軍隊」であるためには、三つの必要条件がある。
その第一は、他に断然優越した兵器を保有し、組織的に運用できること。
第二は、集団的軍事行動のできる組織と指揮命令系統を常に備えていること。
第三は、その集団だけですべての行動が可能な「自己完結性」を有していることだ。
軍隊は、すべての平常活動が停止した戦場で働くことを前提としている。従って、戦闘行為だけではなく、物資運送に当たる輜重兵も、土木建設に当たる工兵も、医療担当の軍医も、軍事法廷を設置する権限と機能も備えていなければならない。死者を弔う従軍僧も欠かせぬ要素である。
「維新の志士」には転向者の暗さを感じない。彼らの心中では「攘夷」も「開国」も、「外国に蔑まれない日本を創るための手段」に過ぎなかったからだろう。
版籍奉還は、政治的決断よりも武士以外の者を多数官軍に組み入れてしまった結果の「止むを得ない措置」だった。
国の「かたち(構造)」の基には、その国の目指す「きもち(倫理)」が明確であらねばならない。
教育に限らず、明治政府はほとんどの分野で徳川時代の既成機関を活用しなかった。飛脚を改善して郵便にしたのではない。イギリスのローランド・ヒルの提唱した近代郵便制度(全国一律切手貼り)による郵便網を設けた。
明治維新は、単なる政権担当者の人事変更(政権交代)ではない。
その第一は、安定の倫理と身分社会の構造を否定し、進歩の概念を採り入れた思想革命であった。そこで信じられた倫理は忠勇と勤勉、創られた国家コンセプト(国是)は「富国強兵」であり「殖産興業」である。
日本人の受教能力の高さ(モノマネ上手)の理由の一つは、技術導入による社会変化などの全体像を考えず、ひたすら技術や制度だけを学ぶ生真面目さにある。
陸軍大学校を出れば、陸軍部内では排他的な出世コースに乗る一方、陸軍以外では出世の道はない。そんな人間集団が、どんな心理でどんな行動をするか、昭和初期の陸軍軍人の思考と行動がよく示している。その恐ろしさに、日本国民は無知無関心であり過ぎた。
司馬遼太郎も、山本七平も、自らの軍隊経験から、「軍は軍を守るのであって、国民を守るのではない」と喝破している。
ことの「原理」は単純である。人間は誰しも自分の立ち位置から世の中を見る。近いところは大きく重要に見え、遠いところは小さく霞んで見える。その程度は人それぞれの性格や経験、知識の程度によって異なるが、原理的にはみな同じだ。
自分の立ち位置がはっきりしない人や変更を考える人は、いろんなことを思う。職業、家族、地域、宗教などの複数の立ち位置を持つ人も、偏狭な組織に捉われ難い。逆にいえば、組織への帰属意識(忠誠心)が薄いのである。
ところが、自分の生涯を一つの職場に定める者は、組織への帰属意識のみ強く、すべてが「職場」という中心からの同心円でしか見えなくなってしまう。
日本は、十九世紀末(明治)になってから西洋近代文明を学んだ新興国であり、アジア諸国に教えるのはすべて西洋の受け売りだった。アジアの人々にとっては、受け売りよりも本物のほうがいい。つまり、日本帝国主義は領土、市場、資源を奪うだけで、拡めるべき独自文明を持たなかった。
日本が植民地支配を拡げようとしたのは二十世紀に入ってから。特に第一次世界大戦前後からである。その頃、アジア諸国では騎馬民族の征服王朝は衰亡、それぞれの国には大衆の愛国心が生まれだしていた。
硬直化した組織では必ず年功序列制が採られている。年次を飛ばしての抜擢や飛び級は絶対に許されない。逆にそんな仕掛けができているところでは、組織の硬直化と役職の身分化が進んでいる、と見て間違いない。
当時の陸軍や海軍の首脳部に限って、阿呆だったわけでも悪人だったわけでもない。むしろ軍に忠実な真面目な人物が多かった。だからこそ、組織のために忠実に思考し行動してこの国を亡ぼしたのである。
改革は「受け皿」を用意してから出発するものではない。まず、前時代の文化を否定することではじまるのだ。
「極東の端」という地理的位置と、欧米における動乱期に遭遇した歴史的な幸運によって、日本は特定の国の植民地にはならなかった。また有史以来、国土国民が分裂したことのない統一により、分割統治されることも、長い分裂抗争に陥ることもなかった。
to be continued・・・
2012年3月18日日曜日
黒田官兵衛(食べる読書83)
「好きな人」と一言でいってもその「好き」にはいろいろな意味があるだろう。
身の周りの人は全員好きなはずだ。だからこそ彼らと何かしらの関わりをもっているのだろう。
同じ友人でも、自分とは違うタイプでその発想だったり言動が魅力的な人、逆に自分と似ていて愛着があるという意味で好きな人、また、どうやっても自分はかなわないというある種の憧れをもっての好きな人などなど…。
それは身近な人だけではないと思う。歴史上の人物に対しても似たような感情を抱いているのではないだろうか。
わたしにとってソクラテスは恐れ多くて近寄りがたいが目標でもある人物。
デカルトはその生き方が参考になる人物。
ニーチェはその鋭い洞察力に脱帽する人物。
ブッダは夢実現の道筋を示してくれる人物。
織田信長はカリスマで憧れの部分が強い人物。
豊臣秀吉は愛嬌という意味では少し似ているが、その中にある現実的思考は私は乏しい。そして、底辺から天下まで上り詰めたその心の強靭さはお手本となる人物。
そして本書の黒田官兵衛は、どこがというわけではないがとても私と似ていると勝手に思っていて、それでとても愛着がある人物である。
とても有能で秀吉が天下とれたのも官兵衛がいたからじゃねえかぁ、と思うが、戦国武将なのにどこか抜けているような気がしてならない。たいていの戦国武将とは違う人生を歩んでいるからじゃないだろうか。
たとえば、義を重んじたために死を選んだといった美談はない。
なんとなく間抜けなんだよな。
群雄割拠の時代、各武将はうまく立ち回らないといけない。誰につくかといったことにあくせくしていて、まわりの武将との駆け引きなどに最も気を使った武将が多いように思う。それは、戦国時代という特有な時代で生き抜くには必要な能力だろう。いつ変わるかわからない世の中の流れ、つまり動きを読み、そこで自分はどうするか決断する。この流れを的確に読む力と適切な判断力・行動力が勝負の時代であった。
そんな時代の武将でありながら、官兵衛が直面する事柄が、そこから外れているように思う。
たとえば、この本でも描かれてるが、土牢に長いこと閉じ込められて命の危機に直面する。戦じゃねえのかよっ!!!
これも戦のうちといわれればそれまでだが、なんとなくハングリーさを感じない。
信長や秀吉のように目的達成のために何が何でもやってやるう、といったものは感じない。ただ、淡々とこなしているだけのように見える。もちろん能力があるからそう見えるだけなのかもしれない。
たぶん、戦国時代に生きて、他の武将とは違うものを見ていたのではないかと感じるのだ。
幕末に坂本竜馬が他の人とは違うものを見ていたように。
だが、官兵衛が竜馬と異なるのは、どう行動すればいいのかまでは見えなかったことだと思う。あるいは、秀吉に天下をとらせるのがその答えだったのかもしれない。
少なくとも、自分がどうにかしようとは思ってなかったようだ。おそらく、そこまで自分の心が耐えられるほど強くないと感じていたのかもしれない。
そういう自分の能力のなさが見えるという部分も、自分と重ねてしまう。
大事なのは戦ではない。そのあとに何を築くかだ。こう考えていたのではないか。その創造の能力は自分にはないとわかっていたのではないか。
秀吉も恐れたその能力。
だが、その能力は戦時でしか発揮できないとなんとなく知っていたのではないかと感じる。
でも、本能寺の変で信長が死んだ時に秀吉に言った言葉を考えると、やっぱりこいつ人の感情を察することができないから、そこまでは考えてなかったかな。とも思ったりする。
この場面での言葉もなんか間抜けなんだよな。たしかにこの言葉で秀吉は天下をとれたとも思うが、それと同時に自分のくびまで絞めちゃったからなあ、官兵衛は…。
本書の官兵衛はよかったです。どことなく自分自身を客観的にみているような口癖だったり、そこにちょっとしたユーモアを混ぜたり、自分に対する皮肉を入れたり、官兵衛らしいなと感じた。おもしろかったです。この小説は好きです。
以下抜粋
「いくさの絶えぬこの世を生き抜いてゆくには、智恵を使わねばならぬ。しかし、いかに智恵を持とうと、それだけでは役に立たぬ。手足となって働いてくれる、よき郎党が必要じゃ。わしが腕のたつ男どもを集めるのに、こうして汗を流すのはそのためぞ」
毛利に報奨を約束させて小寺の力を探りにきた、と考えたらどうだろう。
世の乱れに乗じて跋扈する流賊どもとて、頭を使わねば生き延びられぬ。目端のきくものは、脅し、殺して奪うだけの商いの先行きに見切りをつけ、国の盗み合いに血道をあげる大名たち相手の商売に切り換えようとしている。
「人は縁あって結ばれるものでござる」
神仏であれ人の運であれ、すがる先を見つけた者たちは、余計なことは考えない。ひたすら戦いに勝つことのみを念じ、八つ半過ぎ、青山を占拠する赤松軍に襲いかかった。
秀吉は眉をしかめたくなるほど抜け目がない。おそろしく頭が回る。官兵衛も人より頭が切れるほうだけに、これがよくわかる。しかし、頭が回るだけの男なら唸りはしない。感嘆するのは、秀吉が見事に演じて見せる人間としての隙である。
<合戦に明け暮れる世をいくさ稼業で生きる者が、いまさら考え込んでみて何になる>
命にかかわる大事を漏らしてくれた、おのれへの信頼の厚さが嬉しかった。ただの好人物としか見ていなかった舅の、骨のある姿勢が嬉しかった。さすが、わが妻のおやじ殿でござる、と声を掛けたい気持ちだった。
「官兵衛が織田を裏切るような男ではないと信じていたゆえのはず。つまり、あやつは頭が回るだけではのうて、人にそう思わせるだけのものを持った男、妙に人から好かれ、信じられるものを持った男なのでござる」
男も女もみな世間の常識を後生大事にしている。茅は違う。彼女だけの理屈があり、それが正しいものと信じきっているようだ。
彼を嫌うのなら仕えるのをやめればいい。命を惜しみ、領国を惜しむがゆえに仕えるのをやめられぬのなら、それはおのれが非力だということだ。つまり、嫌いだと言いながら仕えることは、おのれの非力を認めることなのだ。郎党にそんな惨めな自分を見せるわけにはいかない。
秀吉が只者でないのはこれだ。いったん決めたあとの行動が実に素早い。まるで嵐のように家臣たちに矢継ぎ早に指示を出し、おのれも先頭に立って走り回る。しかも、出す指示が的確であり、かつ、それが無駄にならぬものを選び出す眼力も備えている。
官兵衛はこうして秀吉を見て、いつも思う。智恵を出すだけの者なら世間に存外いるものだ。しかし、ひねり出した智恵をこれほど素早く役立てようとして走り回る男は、ほかにおるまい、と。
以上
またね***
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