今、私は死んだ。
そして、その瞬間、自我が生まれた。
私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。
死ぬことでようやく自己が確立するのか…。
空気抵抗というやつか。
自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。
私はこの樹の一部だった。この樹の存続のためエネルギー産生の役割を担っていた。同様な役割を担う葉は他に大量にいる。その大半はまだ樹にエネルギーを与え続け、それがそのまま葉の生そのものでもある。だが、その頃私は自分を一個の生命体とは思うことはできなかった。一個の完全な何かとは思えなかった。だからといって、この樹の一部とも思えなかった。
光合成のできない葉は、その葉の存在理由の喪失により、自身が属していた樹から切り離された。
そのとき、一個の存在としてこの世に生ずる。だが、光合成するに適した構造体として存在していた私にとって、この死して生じる”生”は何を意味するのだろうか。
まあ、意味なんていくらでもつけられるか。
役立たずとしての”生”とでも言っておけばいいか。
そうじゃないんだよ。
今のこの”ひらひら舞っているこの時”なんだよ。
ずっと気になっているのは。
この先のことはわかる。
落下地点が土なら私はバクテリアなどに分解され、私の身体はバラバラになるが他のなにかの循環にまた組み入れられることになる。その時私はまた自我を失うのである。
なんなんだよこの時間は。
ほんの10秒足らず、おそらく1分になることはめったにないこの空中浮遊状態は…。
ふざけんなよ!
やっと自分を感じられたと思ったら、自分では何もできずただ風や重力に翻弄されるのみ。そして、どこに落下するかは神のみぞ知る。
わかってるんだよ、生とは関係性の事なんだよ。私が活きることは、他のなにかと私が活きる関係が成立していることを意味している。葉として光合成を活かす時私はこの樹とエネルギー産生という関係性を築いていた。落ち葉として土の栄養になるのも土壌産生の役割として大地と関わっているのだ。
すべての関係性から解放され自分のありのままを自分で認め自分を楽しもうとしても、そのときはとっかかりなど何もなく、私は完全にこの世から孤立しているのだ。まるで宇宙空間に放り込まれ身体の自由が利かず、何にも摑まることのできないように、私はこの世の何ものとも関係性を創れないのである。何故なら、私が完全に一個の完成した存在であるなら、他の何ものも私の存在に関与しないからである。
二つの視点を持つことだろう。自我の視点と自分と関係しているなにかとどんな関係であるかを俯瞰する視点だ。両方の視点を関連させられるのなら、関係性を通して自分を楽しめるのかもしれない。
一個の完全な生は、自分を活かせないという意味で完全な死でもあるのだ。
「こんなこと考えて何の役に立つのか…。」
腰を上げ、歩きだす。
だれともすれ違わない道を行く。
目の前がにじんでもそのままだ。
だが、そんな自分を愛おしくもあるのだ。