2018年2月11日日曜日

学者のウソ(食べる読書137)




私は、理系の単科大学を卒業したが、日本の大学に通ったことで分かったのは、大学は「おままごと」であるし、「詐欺」であると感じたことである。


理系という性質上、その産業への人材提供の側面が強く、それは決められたことをいかに効率よく行えるか、である。そこに独創的発想を評価する余地はほとんどないと感じざるをえなかった。教授の指導がそれだからである。その規範からずれるようなら、それが何を意味するのか、既存の規範の目的と手段は妥当か、などと学問的に考えるのではなく、単なる違反とみなして教育という名のもとに強制されるのである。


つまり、現在の大学は、現在の産業を維持する人材生成の場、なのである。その役割を担うことから、依存する産業構造自体への批判を教授が行わず、決められた枠内における研究という名の商品開発が行われているのが現状である。大学であるから、そこには税金が使われている。


本書では、大学内だけでなく社会全体に及ぼす学者の影響と本来あるべき姿とのギャップが書かれている。
学者の現状把握には役立つのではないかと思う。

以下抜粋

大型研究プロジェクトの失敗は、単に税金の無駄遣いにとどまらず、より大きな社会的ダメージを与える可能性を孕んでいる。例えば、エネルギー関連の技術の場合、新技術に対する過大な期待を与えるような情報発信は、エネルギー問題に対する必要な社会的対策を怠らせることにつながる。実際、日本では事業部門での省エネは進んでいるものの、民生部門では省エネが進んでいない。幸い、原子力に頼ることでエネルギー危機は開発できているが、それで結果オーライとするのはリスキーな考え方である。


厚生労働省の第5回女性の活躍推進協議会議事録中のやりとり
〇委員
まずデータをとってみて、相関関係がうまくある程度出たら、そのままだし、全くアットランダムだったら、業績とは関係ないかもしれないけれども、長期的に、国際的にみて、女性の管理者の登用が遅れているから、上げなければいけないというのを別な言い方でもって、持っていくという手もありますから、まずはやってみることです。
このやりとりで、委員たちは、自ら都合のいい統計データのみを恣意的に取り出そうという意図を開陳している。データ捏造そのものも当然悪いことであるが、それを悪いこととも思わず、それが議事録として公開されていても平然としていること、そしてそれが何の社会的批判の対象にもならないことは驚愕に値しよう。


学者が狭い学者の世界しか知らないと同様に、多くの庶民は庶民の世界しか知らないのであり、多くのビジネスマンはビジネスの世界しか知らないのである。その意味では、自分の属する世界の常識ならば、どこにいっても通用すると思い込んでいる人こそが、本当の「世間知らず」であろう。


それだけの社会的影響力を持つ上、専門知識そのものだけでなく、その専門知識が社会の中でどういう位置付けにあるのかを理解することが求められてしかるべきだろう。そのためには、自らの専門の枠組みを超えた視野の広さと教養の深さを備えることが必要となるが、それにもまして重要なのは、自分の知識が通用する範囲の限界を認める謙虚さではないだろうか。


実験データから理論を構築していく考え方を帰納主義という。帰納主義は、間が滑らかに補間されるはずだという法則の連続性の仮定があってはじめて、導かれた法則の予測力を正当化できることになる。


ある現象を論じるとき、関係のありそうな要素群だけを抜き出してきて、その要素群が固定されれば、「同一条件である」と判定する。そして、個々の要素の影響を切り出して分析し、その足し合わせとして組み合わされた条件下での現象を予測する。これが科学の方法というわけである。よって、何が関係ありそうな要素で、何が切り捨ててよい要素であるかを嗅ぎ分ける能力を持つことが、科学者としてよい仕事をするために必要になる。これは、論理ではなく、直感の部分である。優秀な科学者に必要なものとして、論理的展開力を真っ先にイメージする人が少なくないが、直観力も研究者にとって必要不可欠な能力なのである。


科学において、実験装置が巨大化した背景には、安価な装置では新規性のある研究効果を得るチャンスがほとんどなくなっていることがある。科学の初期の成功により、科学者の数は急速に増加し、誰でもできるような実験はほぼやり尽くされてしまった。しかし、大掛かりな装置を作れば、今まで誰もしたことがないような実験ができるので、新発見をするチャンスも増えるわけである。


社会科学の場合、社会を構成するのは人間であるため、発信した予測が社会の構成員である人間の行動に影響を与えてしまう。これは、自然科学では想定されてない問題である。
自然科学においては、基本的に予測する主体と予測される客体が干渉しないことを前提としている。


注意喚起と学術的予測を混同させることは、学問に混乱を生じさせるだけでなく、リスクを煽り立てる悪徳商法などの社会的問題も生じさせることになる。残念ながら、これに加担している学者は少なくない。


学問の予測の社会的影響力を悪用し、社会の利益に反し、個人の利益にのみ資する偽予測を意図的に発信するという行為を多くの学者が行っているとしたら、もはや学問に社会的存在を認めることはできない。


しかしながら、ポストモダン思想は、実はもともとは共産主義の原点であるマルクス主義思想については批判的な立場であるはずだった。先ほど述べたとおり、ポストモダンは普遍性を追求する考え方に反対する。マルクス主義は、共産主義の到来を歴史の必然とし、それを普遍的な原理に据えるわけであるから、これはポストモダン思想とは相いれない。


であるから、物質主義、大量生産消費型の資本主義社会を批判するのであれば、自分の在り方を自由に欲求できるとした実存主義も当然批判の対象になっていはずである。しかし、実際はそうはならず、批判の矛先は科学技術や近代合理主義のみに向けられることになる。


われわれは、すべてを疑って生きることはできない。懐疑主義を実践的なものにするには、何を信じて、何を疑うかについての指針が必要なのである。
では、ポストモダニスト、あるいは価値相対論者は、何を疑い、何は疑わないのか。結論からいうと、自分に都合の悪いことは疑い、都合のいいことは信じるという思考パターンに陥っているケースが多いのである。


以上のフェミニストの言動からすれば、彼らは自らの都合のいいように、構築主義と本質主義を使い分けていると言わざるをえない。つまり、構築主義が詭弁の道具に成り下がっているのである。


しかし、マスコミ自身はマスコミ対策をする必要がない。そのため、マスコミは最もCSRが欠落する業種となっているのである。


昔から、自説の正当化のために弱者を持ち出すという論法はしばしば使われてきた。右で述べた、マスコミによる消費税反対はまさにその典型例である。弱者自身は苦境に置かれているので、その味方をしてくれる人には飛びついてしまうことが多い。それを悪用するエリートは今までも数多くいた。


フェミニストも、ほとんどは学歴エリートたちである。しかし、彼らは人間を男女の二つのカテゴリーに分け、女性全体を弱者と見立てる。男性集団の中にある多様性、あるいは女性集団の中にある多様性には一切触れさせない。その上で、弱者集団である女性への援助を名目に、女性集団の中の強者であるエリート女性のみに手厚い政策的援助が行くように誘導するのである。


その一方で、2002年、母子家庭への児童扶養手当が減額されることが決まった。この政策も男女共同参画と無関係ではない。男女共同参画社会において、男女の職業生活と家庭生活の両立を支援するという目標がある。母子家庭に対しては金銭的支援ではなく就労支援を重視するという考えから、児童扶養手当が減額されたのである。
この二つを並べてみると、今の政策のおかしさがよくわかるだろう。ふつう、福祉とは弱者の援助を目的とするはずである。ところが、男女共同参画では強者の女性を援助して弱者の女性への福祉は切りすてているのである。
真面目に福祉を考えるなら、母子家庭に経済的自立を促す前に、まず余裕あるエリート女性たちが自立すべきだろう。働いていれば自立だと思い込んでいるのかもしれないが、保育所の経費を国に負担してもらっていては、自立していることにならない。自立が大事というのであれば、保育に要する費用も全額自分で負担するのが筋である。


本来の福祉の考え方からすれば、負担能力のある家庭には応分を負担してもらって構わないはずである。実際、この時代、夫婦ともにフルタイムで働けるということは、一般的には経済的強者である。フェミニストは、よく税金を払わない専業主婦を税金泥棒呼ばわりするが、経済的強者がこれだけの公的支援を受けることも税金泥棒ではないだろうか。


実際、合計収入が同じ共働き世帯と片働き世帯を比較した場合、現行制度では夫婦の合計年収が600万円を超えるような世帯では、共働き世帯のほうが負担は軽くなるのである。実は、現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、所得の割に税負担が少なく、保育サービスなどの必要な社会保障も安く提供される、夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯なのである(石川・掛谷『「専業主婦優遇」批判報道の検証』メディア情報検証学術研究会2005講演論文集)。


ところが、「男女共同参画」推進グループは、「男は仕事、女は家庭」という生き方が自由意志のもとに選択されることにも反対してる。価値観を押し付けられる弱者の顔をしながら、一方で他人に価値観の押し付けを行ってるのである。


現在、社会格差の拡大が問題となっているが、それに付随して、自らの属する階層以外の人と接する機会が少なくなりつつある。つまり、自らの階層の利益拡大イコール社会全体の利益拡大と錯覚してしまいやすい社会構造が生まれている。そのため、悪意はないのに、結果として自らの属する階層のみを利する利己的な主張を、社会正義であると本気で信じているケースもまま見受けられる。


いくら外国人や女性を入れても、彼らがみんな学歴の高いエリーロであったとき、多様な人間から構成される集団といえるだろうか。私の経験では、外国人であっても女性であっても、恵まれた境遇で同じような高等教育を受けた人の間の差異は、同じ日本人であっても境遇や教育の異なる人の間の差異よりは少ないように思われる。


私自身も、ここで批判対象としている学歴エリートの一人であるが、個人的には、いい大学・大学院で学ぶことには、それに付随する責任があると思っていた。試験で人を振り落とす以上、自分が合格することで、他の人がそこで学ぶチャンスを奪ったのでえある。であるから、その分、きっちり勉強し、その成果を社会に還元する債務を負ったとも考えられる。残念ながら、そういう発想を持つ学歴エリートは非常に少なく、むしろ入試にパスすることで特権を得たのだと考えるエリートが多いのが実情である。


一般に、産業界の学歴エリートたちは、学者や官僚とは違い、世の中の実情をよく見ている人たちであると好意的に語られることが多い。しかし、実際には彼らの利己性も凄まじい。
彼らは、しばしば、自分のビジネスに有利な政策なら、社会的副作用が強いものも平気で支持する。


たしかに、中国ビジネスで儲けている企業にとっては、日本政府が中国の言いなりになってくれたほうが商売をし安だろう。しかし、一部の企業の商売上の都合で、政治的に副作用が強いことが押し通されるとすれば、中国ビジネスと関係のない人たちにとっては迷惑な話である。


右の例は、企業の経営者が、第三者的立場を装いながら、会社の利益のために影響力を発揮したケースである。実は、それ以外に、マスコミの場合と同様、会社ではなく個人の利益のために、企業のトップがその社会的影響力を行使しているケースがある。その最たる例が、2001年12月の商法改正で行われた株主代表訴訟における取締役の責任軽減化である。具体的には、今まで無限責任であった取締役の賠償責任を、定款または株主総会の決議により、代表取締役は報酬の6年分、社内取締役は4年分、社外取締役は2年分まで軽減できることになった。これは、経済界のトップたちの働きかけで行われたものだが、まさに自らの責任を軽くする行為である。この時、彼らの用いた論理は「こんなに責任が重いと、優秀な人は誰もトップになりたがらない」というものであった。しかし、重い責任をきっちり背負える人こそが、本当に優秀な経営者なのではないだろうか。


仕事の難しさを測るのに、その仕事をこなせる人の希少さを基準とすることは、危うさを含んでいる。なぜなら、その希少さが、仕事の技術的な難しさからではなく、その仕事を行う資格を持っているか否かに依存する場合があるからである。医師も弁護士も、資格を取るのは看護師、介護福祉士、保育士よりも難しい。しかし、資格を取ることの難しさイコール仕事そのものの難しさではない。


社会的意思決定における学歴エリートの影響力は非常に大きい。その影響力を行使することで、学歴エリートに都合のいい社会的ルールが固定化していくのである。



実は、一連の規制緩和自体、学歴エリートにとって不都合な規制だけを取り除いた動きとみることもできる。


実際、規制が少なくなればなるほど、合法的に他人をだます手段が増えることになる。


つまり、極端な至上主義は、腕っぷしでは負けるが、詐術には長けた人たちが一番得をするルールということになる。


社会全体の利益を考えたときに望まれるのは、社会的満足を与えることでしか利益を上げられないような社会にするための規制である。ここでいう社会的満足とは、その行為によって他人に与える満足(利益)の総和から他人に与える不満足(コスト・副作用)の総和を引いたものである。


現代社会においては、どこを見ても社会的全体をよくしていこうといった意識を持つ学歴エリートは見当たらない。もちろん、お題目としてそれを掲げる人たちはいる。しかし、それは常に、個人的利益を拡大する手段を認めさせるためにすげ替えられた看板でしかないのである。彼らは、社会貢献に必要な技術の学習よりも、利己的な行動をカモフラージュするためのコミュニケーション能力の習得を優先してきた。


実力主義というときの「実力」」は、個人の実力を指して使われることが多い。実力のある人間を組織のトップに据えるというのは、まさにその考えに基づくものである。しかし、その人事方針には重大な欠点がある。実力主義でトップになった人間にとって、自らの利益と合致する組織の利益は、自分がトップの間における組織の利益のみである。自分が辞めた後、その組織がどうなろうがあれには関係ない。となると、例えば会社のサラリーマン社長は、長期的に見ると会社を傾かせる危険があっても、自分の在任中は会社に大きな利益がもたらされる選択肢を好んでとるようになる。


実力主義の問題は、会社組織だけでなく、官僚組織や大学でも顕著に現れる。官僚は2~3年で部署を移動するので、その間の体面を繕えればよいとの発想で仕事をすることの問題は、今までも再三指摘されてきた。最近では、大学の近視眼的発想も顕著である。特に理系を中心に、大学院重点化という名の下、ほとんどの有名大学は、大学院の定員を大幅に引き上げている。・・・それでも、そうしたポリシーがとられるのは、自分の定年までブランド力が保てればそれでいいと考える大学教員が多いからといわざるをえない。このように、実力主義には、偏狭な利益が最大化され、組織全体あるいは社会全体には大きな不利益がもたらされる危険性が常に潜んでいるのである。


戦後民主主義教育が倫理崩壊の原因なら、問題は学歴エリートだけに留まらないとの指摘はあろう。しかし、庶民は自分の暮らしを守るのに精一杯で、公共の利益を考える余裕がなかなかないのは、いつの時代にも共通したことである。その一方、エリートは公共性を考える余裕がある人たちである。公共の利益を優先しても、生計を立てることができるのである。ところが、公共心という価値が喪失した結果、公共の利益のために仕事をして普通に暮らしをするより、公共の利益に反する仕事で贅沢な暮らしを実現する生き方を選択する学歴エリートが増殖してしまったのではないだろうか。実際、本章で紹介した数々のエリートの行動は、それを如実に表している。


利己主義が実質的に社会の標準的な規範となってしまっている以上、個々人にその規範を超える行動を要求するのは酷である。もし、ノブリス・オブリージュや武士道の精神をエリートに期待するのであれば、個人にそれを要求する前に、そういう規範が広く受け入れられる仕掛けを社会に組み込む必要がある。


彼らの論法には、一つの共通点がある。それは目的に関する議論と手段に関する議論を意図的に混同させる戦略をとることである。彼らには、公にすると批判を受けるであろう利己的な「隠れ目的」を内部に秘めている。その隠れ目的を達成するために、有効な手段Aを通すことを意図する。その手段を社会的に認めさせるために、誰もが納得するであろう「理念」を立てる。そして、その理念を達成するためには手段A以外の手立てはないことを議論の前提とし、手段Aに反対する人間には理念を共有しない「悪人」のレッテルを張ることで、強引に持論を認めさせるのである。


女性専用車両推進の隠れ目的は、女権拡大イデオロギーあるいは政治家による女性票の取り込みといったところにあると考えられる。そのため、年齢制限といった議論はご法度になるのだろう。年齢制限という発想自体、人権侵害だという批判も聞こえてきそうだが、男性であるというだけで潜在的置換加害者とみなす人に、そのような批判をする資格があるとも思われない。女性専用車両の発想には、その種の危うさが根底に含まれているのである。にもかかわらず、痴漢対策という「理念」を前面に押し出し、これに反対するものは痴漢容認派とレッテリングをすることによって、その危うさを見事に覆い隠している。


実際、左派の源流である共産主義は、労働者階級の味方として登場したが、結果的には独裁体制を築き上げて労働者階級を苦しめた。日本の左派言論人も、世論が自分の味方についているときは「大衆の判断は常に正しい」として民主主義を礼賛していたが、世論が離れていくと、ポピュリズム批判や大衆批判にいとも簡単に転じた。つまり、左派とは、政治的野心を持つ勃興勢力で、手段と目的の混同を戦略的に使うことを武器にのし上がろうとする人々と定義づけるのが妥当だろう。

学歴エリートの用いる戦法の肝は、自らに都合のいい手段をだれも反対できない理念(目的)とセットにすることであるから、それを分断することに成功すれば、学歴エリートの詭弁はおのずと浮き彫りになる。


実は、彼らは反米イデオロギーや反日イデオロギーのために、「反戦」という看板を利用しているだけなのではないだろうか。その証拠に、米国や日本以外の国の戦争行為や暴力行為に対して、彼らが反対の声を上げることはあまりない。彼らが、反米や反日のために「反戦」を利用しているのだとすれば、それこそ反戦を冒涜する行為だろう。


可逆性テストとは、自分が行為主から行為対象へ、あるいは行為対象から行為主へ変わってもその行為の正当性を維持し続けられるかどうかを問うものである。


では、手段の有効性はどのように評価すればよいだろうか。実は、これこそが学問の営みである。予測力を持つ知識体系は、手段の有効性を評価するのに最も適した道具である。


さらに深刻なことに、間違った報道には、多数の人に少しずつ被害をもたらすような場合も数多くある。この場合、被害総額は膨大でも、個々人の損害は少額のため、原告団の形成が極めて難しく、裁判に持ち込まれる心配がないという構造的問題が存在する。


以上
またね***


一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...