人の顔をうかがう、というより相手が何を求めているのか、それに対して自分は何ができるか、を考えて生きてきた。
自分の親は毒親である。
全体(家族、家庭)がよくなるために、自分の果たす役割は何か、それが判断基準となった。
しかし、親がそうであったように、社会もそのようには動いていなかった。
自己存在の存続のために、動いているのだ。
当たり前だが、すべて”自分”のためなのだ。
その”自分”とは、”現状の自分”でしかないのだ。
自身の変化により、よりよくなる可能性があったとしても、その情報からは目をそらし、あくまで”現状の自分”の維持を優先する。
家族が社会の最小単位というなら、社会にも毒親は多く存在する。
パワハラ、アカハラ、セクハラ、ブラック企業、そして売国政治家という言葉がその存在を示しているのだろう。
実際は、それが当たり前と思っている人が大多数の社会自体が問題だと思うが…。もし、毒親が問題というならだ。
本書は、毒親によって子供の心が傷つけられ、成長してもその負の遺産に苦しみ続けることを示している。
大変勉強になり、自分を客観視する視点をもらったが、毒親を「家族」という”場”においてのみ論じているところが物足りなかった。
例えば、フィンランドと北朝鮮の毒親の人口比率を比較したらどうだろうか。ほぼ同じ割合になるだろうか。他の、社会システムではどうだろうか。
毒親となるのは、その親から受けた育児法をそのまま子供に対して行っただけ、という文脈だろう。しかし、健全な人と家族の外で交流することで、毒親から自立した人も多いはずである。一方でその逆もしかりではないだろうか。
毒親の定義自体が、その子どもの主観に依るとことが多いことから、測定法が確立していないため社会間における毒親研究は進まないだろうが、毒親は家族のなかだけで完結する問題とは思えない。
構成員と組織の性質における関係、といえばいいだろうか。例えば、構成員が嘘つきばかりの人で存続し続ける組織とは、どんな特徴をもった組織か?、もしくはそんな構成員でなる組織はどんな特徴を有していないと存続しえないのか?といった問題ではないだろうか。
第二次世界大戦の国の総力戦の時代であれば、画一的であることが構成員である国民一人ひとりの存在理由であったろう。その人があるがままで存在することは許されなかったのである。条件付けの個人の尊厳である。
つまり、毒親という言葉により親の育児におけるあり方に焦点が当たり、多くの人がそういう点で客観的に自身を顧みることができるということは、自身の変化を促すことになるだろう。と同時に、その変化は現代社会の性質にどんな変化をもたらすのか。
毒親という「名詞」の存在の出現は、何の前兆なのか。
物事は常に変化している。そして、それは複雑系である。その一つの要素としての毒親の表出。毒親の存在というより、”毒親の社会的認知”が何をもたらすのか、である。
一人ひとりが毒親をどうとらえるか、なのだろうか。必要悪ととらえるのか、不必要なものとして廃絶するのか。それによる。そして、それは個々が決めるのである。「個々が決める。」というところが、毒親を客観的に扱っていることの前提である。毒親を自分事ととらえると同時に第三者の視点としても見ていることにもなっていると思う。
私個人としては、郷愁のような気持ちで毒親を思い出すようになりたいと思っている。「ああ、あんな時もあったなあ。なつかしいなあ。」みたいな。
それが、社会全体としてよい方向に向くことに寄与すればいいと思う。
以下抜粋
「信頼感」とは、心が蝕まれていくようなつらい状況にある時、真っ先に死んでしまうものなのである。・・・、信頼感の喪失は「毒になる親」の子どもたちが大人になった時にきわめてよく見られる現象である。
生まれつき価値のあるひとりの人間として扱われることによって自己に対する確信の中心を形成していくのではなく、何を達成したかという外面的なことによってのみ、自分の価値を証明しなければならなかったのだ。
あなたの幸福は、あなたの親がどんな親であるかによって左右されなければならない理由はないのである。たとえ親は全く変わらなくとも、あなたは子供時代のトラウマを乗り越え、親によって支配されている人生を克服することができる。あなたに必要なのは、それをやり抜く決意と実行力だけなのだ。
自分はどんなルールに縛られているかをはっきりと見極める以外に、自分の自由意思で人生を選択できるようになる道はない。
真の変革と苦しみからの解放は、違ったやり方を実行することによってのみ、はじめて訪れてくれる可能性が出てくる。
多くの人は、感情とは自分に対して起きた出来事に対するリアクションとして生じるもので、その原因は外部にあると考えているが、実は、強い恐怖心や喜びや苦痛といった感情ですら自分が内部にかかえている「考え」がもとになって生じている場合がある。
この「考え」がどんなものか、そして、それと「感情」とのつながりを理解することが、自滅的な「行動」に走ることを止めるための第一歩だ。
「本当の自分でいる」ことには柔軟さがともなわなければならないのは当然である。
大切なのは、何となく押し切られて、本当はいやなのにそうなってしまったというのではなく、自分の自由意思で選択してそうなったということである。
怒りとは、うまく管理していないかぎり、必ず本人に害を与えるものなのだ。
怒りはまた、あなたにとって何か重要なことを知らせてくれるシグナルでもある。それは、あなたの権利が踏みにじられた、あなたは侮辱された、あなたは利用された、あなたのニーズが満たされていない、などかもしれない。また、怒りは何かが変わらなくてはならないことを常に意味している。
大きな悲しみもいつかは消える時が来る。それまでには時間がかかるが、それは漠然とした長さではない。かかる時間は、自分が失ったものについての事実を寄せ集め、現実を受け入れるまでの長さである。それは、過去の痛みから現在を生まれ変わらせ、ポジティブな未来へ向けてエネルギーの方向を変えるまでの時間といってもよい。
生まれてはじめて、この異常な親たちに自分の本当の気持ちを語り、それをしたことによって、両親が「毒のある行動パターン」から抜け出すことは永久にないであろうという事実を、ようやく心の底から受け入れることができたからである。
以上
またね***
自分の親は毒親である。
全体(家族、家庭)がよくなるために、自分の果たす役割は何か、それが判断基準となった。
しかし、親がそうであったように、社会もそのようには動いていなかった。
自己存在の存続のために、動いているのだ。
当たり前だが、すべて”自分”のためなのだ。
その”自分”とは、”現状の自分”でしかないのだ。
自身の変化により、よりよくなる可能性があったとしても、その情報からは目をそらし、あくまで”現状の自分”の維持を優先する。
家族が社会の最小単位というなら、社会にも毒親は多く存在する。
パワハラ、アカハラ、セクハラ、ブラック企業、そして売国政治家という言葉がその存在を示しているのだろう。
実際は、それが当たり前と思っている人が大多数の社会自体が問題だと思うが…。もし、毒親が問題というならだ。
本書は、毒親によって子供の心が傷つけられ、成長してもその負の遺産に苦しみ続けることを示している。
大変勉強になり、自分を客観視する視点をもらったが、毒親を「家族」という”場”においてのみ論じているところが物足りなかった。
例えば、フィンランドと北朝鮮の毒親の人口比率を比較したらどうだろうか。ほぼ同じ割合になるだろうか。他の、社会システムではどうだろうか。
毒親となるのは、その親から受けた育児法をそのまま子供に対して行っただけ、という文脈だろう。しかし、健全な人と家族の外で交流することで、毒親から自立した人も多いはずである。一方でその逆もしかりではないだろうか。
毒親の定義自体が、その子どもの主観に依るとことが多いことから、測定法が確立していないため社会間における毒親研究は進まないだろうが、毒親は家族のなかだけで完結する問題とは思えない。
構成員と組織の性質における関係、といえばいいだろうか。例えば、構成員が嘘つきばかりの人で存続し続ける組織とは、どんな特徴をもった組織か?、もしくはそんな構成員でなる組織はどんな特徴を有していないと存続しえないのか?といった問題ではないだろうか。
第二次世界大戦の国の総力戦の時代であれば、画一的であることが構成員である国民一人ひとりの存在理由であったろう。その人があるがままで存在することは許されなかったのである。条件付けの個人の尊厳である。
つまり、毒親という言葉により親の育児におけるあり方に焦点が当たり、多くの人がそういう点で客観的に自身を顧みることができるということは、自身の変化を促すことになるだろう。と同時に、その変化は現代社会の性質にどんな変化をもたらすのか。
毒親という「名詞」の存在の出現は、何の前兆なのか。
物事は常に変化している。そして、それは複雑系である。その一つの要素としての毒親の表出。毒親の存在というより、”毒親の社会的認知”が何をもたらすのか、である。
一人ひとりが毒親をどうとらえるか、なのだろうか。必要悪ととらえるのか、不必要なものとして廃絶するのか。それによる。そして、それは個々が決めるのである。「個々が決める。」というところが、毒親を客観的に扱っていることの前提である。毒親を自分事ととらえると同時に第三者の視点としても見ていることにもなっていると思う。
私個人としては、郷愁のような気持ちで毒親を思い出すようになりたいと思っている。「ああ、あんな時もあったなあ。なつかしいなあ。」みたいな。
それが、社会全体としてよい方向に向くことに寄与すればいいと思う。
以下抜粋
「信頼感」とは、心が蝕まれていくようなつらい状況にある時、真っ先に死んでしまうものなのである。・・・、信頼感の喪失は「毒になる親」の子どもたちが大人になった時にきわめてよく見られる現象である。
生まれつき価値のあるひとりの人間として扱われることによって自己に対する確信の中心を形成していくのではなく、何を達成したかという外面的なことによってのみ、自分の価値を証明しなければならなかったのだ。
あなたの幸福は、あなたの親がどんな親であるかによって左右されなければならない理由はないのである。たとえ親は全く変わらなくとも、あなたは子供時代のトラウマを乗り越え、親によって支配されている人生を克服することができる。あなたに必要なのは、それをやり抜く決意と実行力だけなのだ。
自分はどんなルールに縛られているかをはっきりと見極める以外に、自分の自由意思で人生を選択できるようになる道はない。
真の変革と苦しみからの解放は、違ったやり方を実行することによってのみ、はじめて訪れてくれる可能性が出てくる。
多くの人は、感情とは自分に対して起きた出来事に対するリアクションとして生じるもので、その原因は外部にあると考えているが、実は、強い恐怖心や喜びや苦痛といった感情ですら自分が内部にかかえている「考え」がもとになって生じている場合がある。
この「考え」がどんなものか、そして、それと「感情」とのつながりを理解することが、自滅的な「行動」に走ることを止めるための第一歩だ。
「本当の自分でいる」ことには柔軟さがともなわなければならないのは当然である。
大切なのは、何となく押し切られて、本当はいやなのにそうなってしまったというのではなく、自分の自由意思で選択してそうなったということである。
怒りとは、うまく管理していないかぎり、必ず本人に害を与えるものなのだ。
怒りはまた、あなたにとって何か重要なことを知らせてくれるシグナルでもある。それは、あなたの権利が踏みにじられた、あなたは侮辱された、あなたは利用された、あなたのニーズが満たされていない、などかもしれない。また、怒りは何かが変わらなくてはならないことを常に意味している。
大きな悲しみもいつかは消える時が来る。それまでには時間がかかるが、それは漠然とした長さではない。かかる時間は、自分が失ったものについての事実を寄せ集め、現実を受け入れるまでの長さである。それは、過去の痛みから現在を生まれ変わらせ、ポジティブな未来へ向けてエネルギーの方向を変えるまでの時間といってもよい。
生まれてはじめて、この異常な親たちに自分の本当の気持ちを語り、それをしたことによって、両親が「毒のある行動パターン」から抜け出すことは永久にないであろうという事実を、ようやく心の底から受け入れることができたからである。
以上
またね***
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