2017年10月24日火曜日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体(食べる読書132-1)




以下抜粋

決定はイデオロギーと誤った経済学の奇妙な融合に基づいて下され、ときにドグマが特定の人びとの利益を厚くおおい隠しているように見受けられた。危機が起こると、IMF(国際通貨基金)は時代遅れで不適切な解決策を採用した。それは「標準的」な政策なのかもしれないが、その政策に従わされる国民にどんな影響が及ぶ科は、まるで考慮されていなかった。その政策が貧困にどんな寄与をするかという予測はほとんど見たことがなく、別の政策をとったらどうなるかが真剣に検討されるのを見たこともほとんどない。あるのは唯一の処方のみ。代替策は考えもされない。オープンでフランクな討議が行われる余地は最初からない。イデオロギーのみが政策を決め、各国はIMFのガイドラインに無条件でしたがうものと思われている。


私たちはグローバルナコミュニティを形成しており、あらゆるコミュニティがそうであるように、なんらかのルールに従わなければ共生していくことはできない。そのルールは誰から見ても公正なものでなければならず、権力者と同じく貧者に対しても当然の配慮をした、基本的良識と社会正義を反映するものでなければならない。今日の世界では、それらのルールは民主的なプロセスを通じて形成されなければならない。いかなる政体もどんな権威もしたがわなければならないそのルールは、遠い場所で決められた政策や決定に影響をこうむるすべての人々の要望に留意し、応えるものでなければならないのだ。


国際経済機関の指導のもとに進められたロシアの市場経済への移行と、自らで進め方を立案した中国の移行は実に対照的だった。一九九〇年の中国の国内総生産(GDP)はロシアの60%だったが、この10年の終わりには、その数値が逆転した。ロシアではかつてないほど貧困が増した一方で、中国はかつてないほど貧苦が減少したのである。


たとえ偽善的な犯罪杭をしていなくても、欧米はグローバリゼーションのお題目を唱えながら、その恩恵を自分たちばかりにゆきわたらせ、発展途上国を犠牲にするようなことをしたのだ。たとえば、織物から砂糖にいたる多くの産品に割当量を設定するなどして発展途上国の製品に対する市場開放を拒む一方で、相手には自分たち裕福な国の製品を受け入れるよう市場開放を要求しただけではない。また、先進工業国が農業に助成金を支給し続け、途上国が競争に参入するのを難しくする一方で、途上国には工業製品への助成金を廃止するよう要求しただけでもない。GATTのウルグアイ・ラウンド以降の「交易状況」-先進国と発展途上国のそれぞれが自国製品の代価として得る金額-を見てみるがいい。最終的に、世界の最も貧しい国々が受け取る総額は、輸入品にたいして支払う総額よりも低くなっているのである。その結果、世界で最も貧しい国のいくつかでは、人々の生活が実質的に悪化してしまった。


IMFは、経済の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立された。ちょうど国連が、政治の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立されたのと同じである。IMFは公的な機関であり、世界中の納税者が提供した資金によって運営されている。これはぜひとも明記しておくべきことだ。というのも、IMFは資金を出している市民にも、またIMFに生活を左右される人々にも、なんら直接的な報告義務を負っていないからだ。


経済プログラムを成功させるには、順序付け-改革が行われる順番の決定-とペースの調整に十二分の注意を払う必要がある。たとえば、強力な金融機関が設立されないうちに急いで市場を開放して競争を促せば新たな雇用が創出される前に職がなくなってしまうだろう。、多くの国では、順序付けと調整のミスが失業率と貧困の増大につながった。


IMFとその他の国際経済機関の問題は、煎じ詰めればマネジメントの問題である。誰がやることを決めるのか、何のためにそれをやるのか。これらの機関を支配するのは世界有数の富裕な工業国であり、それらの国の商業的、金融的利害なのであって、その政策にはおのずとそれが反映される。また、だれが国を代表するのかということからも問題が生じる。IMFでは、それは蔵相と中央銀行総裁であり、WTOでは貿易相である。


今日、IMFと世界銀行が活動するところは、ほぼ例外なく発展途上国である(少なくとも彼らの融資先はすべてそうだ)が、その機関を統括するのは工業国の代表者である(習慣からか暗黙の合意によってか、IMFの長は常にヨーロッパ人、世界銀行の長は常にアメリカ人である)。その選任は閉ざされた扉の背後でなされ、発展途上国での経験の有無が選任の必要条件とされたことは一度もない。これらの機関は、それが奉仕する国の代表者ではないのだ。


なによりグローバリゼーションは、その恩恵を広くその国全体にゆきわたらせることができなかった。「ワシントン・コンセンサス」で定められた政策の最終的な結果は、たいていの場合、多数を犠牲にして少数に、貧乏人を犠牲にして金持ちに恩恵をほどこすことだった。多くの場合、配慮されていたのは商業的な利益や価値であり、環境や民主主義や人権や社会正義ではなかったのである。


連邦政府はアメリカの成長をうながすことに中心的な役割を果たしただけでなく、積極的な再分配政策を行わない場合でも、少なくとも恩恵が広く共有されるような計画を実施した。教育を広め、農業の生産性を向上させる計画だけでなく、すべてのアメリカ人に最低限の機会を与える土地払い下げも実施した。
今日はどうか。輸送と通信のコストがどんどん下がり、産品、サービス、資本の流れを阻む人工的な障壁も減少している(ただし労働者の自由な流れに関してはまだ大きな障壁がある)。これを見る限り、かつて国民経済が生まれたのと同じようなプロセスで「グローバリゼーション」のプロセスが進行していると言えよう。ただ残念ながら、そこには世界政府がない。すべての国の国民に責任を持ち、グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる存在がないのである。
そこにあるのは「世界政府のない世界統括」とでもいうべきシステムである。少数の機関-世界銀行、IMF、WTO-と少数の人間-特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当相-が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている。


世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とする。どちらもエコノミストの一団を海外に派遣して三週間ほど視察させているが、世界銀行の方は援助しようとする国にかならず少数のスタッフを長期的に駐在させるよう取り計らっている。一方、IMFにはたいてい「居住者の代表」が一人いるだけで、その権限も限られている。計画は通常、ワシントンが立案し、短期間の視察を経て最終決定される。視察するスタッフは首都の快適な五つ星ホテルに泊まりながら、財務省や中央銀行で統計を調べるだけである。


IMFの論理の明らかな問題点は、貧しい国は援助の金を援助の目的に使えないと暗に言っていることである。例えば、スウェーデンがエチオピアに学校建設のための資金を与えたとしよう。この論理によれば、エチオピアはその金を蓄えにまわさなければならない(すべての国は『いざというとき』のために準備金勘定を持っているはずである。金は伝統的な準備資金だが、今日ではハードカレンシーに取って代わられつつある。準備金として最も一般的なのは、アメリカ財務省短期証券を持つことである)。
しかし、外国の資金提供者は、そのために援助したのではない。IMFとは関係なく独自に活動している資金提供者は、エチオピアに新しい学校病院が建設されるのを見たかったのである。


IMFのマクロ・エコノミストはたいてい自分たちが発展途上国で直面しなけれならない問題に対して十分な訓練を受けていない。IMFが定期的に卒業生を採用している大学のいくつかは、主要なカリキュラムで一切失業問題を扱っていないのだ。


現在のIMFは自らを、経済の完全雇用の状態に維持することに勤める赤字融資者だとは考えていない。むしろ、お金を借りる国がIMFの考える適切な経済政策に従う場合にのみ、ケインズ的立場から資金を分け与えるという方針をとってきた。だが、それはたいてい緊縮財政であるため、景気の後退を招き、事態にをいっそう悪化させるのだ。

「融資条件」と呼ばれるのはもっと強制力のある条件で、これがしばしば融資を政策手段に変えてしまう。たとえば、iMFがある国に金融市場を自由化させたいとすると、IMFはその融資を分割して行う。以後の融資は、自由化を進めている証拠が得られるたびに実施されることになる。私個人の考えを言えば、少なくともIMFのこれまでのやり方や強制力の強さからして、このような融資の条件には賛成しかねる。これが経済政策の向上につながるという証拠がない一方で、政治的には逆の影響を及ぼすからだ。


韓国の危機のさなかに、韓国の中央銀行はもっと独立するよう要求されただけでなく、物価上昇率だけに注意を払えとも言われた。韓国の物価上昇率に問題はなく、まずい金融政策がその時の危機に関係しているわけでもなかったのに、である。IMFは危機によって与えられた機会を利用し、自らの政治的な信念を推進しただけだった。私がソウルでIMFのチームになぜこんなことをやっているのかと聞いた時、帰ってきた答えは衝撃的だった(それまでの経験からして驚くべきことではなかったが)-われわれはどんな国にも、物価上昇率に敏感な独立した中央銀行を持つよう勧めている、というのだ。


IMFは、すぐに市場が生まれてあらゆる需要を満たすと単純に推測していたが、現実には、市場が必要なサービスを提供できていないから多くの政府活動が必要とされるのだ。


民営化を急いで進めることが重要だとIMFは主張する。競争や規則の問題にはあとで対処できるだろうと言う。だが、そこに危険がある。ひとたび既得権益が生まれてしまうと、そこには資金もあるから、専売権を維持しようとして規制や競争を押しつぶし、民営化のプロセスを歪めてしまう。IMFが競争や規制を後回しにしようといったのには、それなりの理由がある。民営化で規制のない専売会社をつくると、結果として政府の収入が増えることになる。そしてIMFは、産業の効率性や競争力といった構造的な問題よりも、政府赤字の規模のようなマクロ経済的な問題を重視する。民営化された専売会社が政府よりも効率的な生産をするかどうかはさておき、彼らはその専売権をたいてい政府よりも有効に活用する。その結果、消費者が苦しめられる。


今日、多くの国では、民営化は「収賄化」だと揶揄されているほどである。政府が腐敗しているからといって、民営化すればその問題を解決できるという証拠はほとんどない。結局は、会社を私物化していたのと同じ腐敗した政府が、民営化の舵を握るのだ。あちこちの国で、政府の役人は気づきはじめている。民営化をすれば、もう年に一回だけ収益をかすめ取るだけで満足する必要はないのだ。政府事業を市場価格より安く売れば、資産価値のかなりの部分を次の役人に残さず、自分のものにしておける。実質的に、彼らは未来の政治家がかすめ取る分の大半を、いまのうちに盗んでしまえるのである。


IMFは保護貿易主義の壁に守られて形成されてきた非効率的な仕事が排除されれば、新しいより生産的な仕事が生まれるはずだと信じてきた。しかし、それは事実ではない。少なくとも大恐慌以降、それほど瞬時に雇用が創出されると信じているエコノミストはほとんどいない。新しい会社や仕事が生まれるには、資本と起業家精神が必要だが、たいていの発展途上国ではそのどちらも不足している。後者は教育がなされないためで、前者は銀行融資がないためである。


貿易自由化は約束したことを実現できないどころか、失業率を高めるだけという例があまりにも多かった。だからこそ、強い反対が起こるのである。しかし、貿易自由化への敵意を疑いなく強めたのは、これを推進する際に見られた偽善だった。欧米は自分たちの輸出する製品に関しては貿易の自由化を進めたが、その一方で発展途上国の競合品に経済を脅かされそうな分野については保護政策をとり続けた。


中国が実証している通り、資金を引き付けるのに資本市場の自由化は必要ではない。むしろ、事実はこうだ。東アジアの高い貯蓄率(アメリカではGDPの18%、ヨーロッパでは17%から30%なのに対し、東アジアは30%から40%)を考えれば、この地域に追加の資金はほとんど必要がない。東アジアの政府はすでに、貯蓄をいかにして投資に回させるかという頭の痛い課題をかかえているのだ。


おそらく、アメリカ政府も含めて、各国政府がやってきたことの中で最も重大なのは、発展途上国に極めて不利な協定をその国の腐敗した政府に調印させて、頭ごなしに守らせたことだろう。インドネシアのジャカルタで開かれた1994年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)閣僚会議で、クリントン大統領はアメリカ企業のインドネシア参入を奨励した。多くの企業がそれを実行した。そして、たいていは非常に有利な条件のもとに実行した(インドネシア国民にとっては不利な条件なのだから、『心づけ』が渡されていたことは間違いないだろう)。


シンガポール、中国、マレーシアなど、外国投資の濫用を抑えた多くの国でも、外国の直接投資が重大な役割を果たしたのは資本面ではなく(貯蓄率の高さを考えれば資本は全く必要ではなかった)、起業家精神でもなく、外国からの投資がもたらす市場への参入機会と新しいテクノロジーの面だった。


IMFは、セーフティ・ネットが整備される前に、十分な規制構造ができあがる前に、近代資本主義の本質である市場心理の突然の変化に国が耐えられるようになる前に、自由化を強要した。雇用創出の必須条件が整う前に、雇用破壊につながるような政策を強要した。そして十分な競争と規制構造ができあがる前に、民営化を強要した。こうした多くの順序の間違いは、IMFが政治のプロセスについても経済のプロセスについても根本的に誤解していることを示していた。それは主に、市場原理主義を信奉することからくる誤解だった。たとえば、彼らは私有財産権が確立されていさえすれば、ほかのすべてはおのずとできてくると主張した。制度も、市場経済を機能させる法的な枠組みされも。


開発の過程で生じる急激な変化が社会に大変なストレスをかけることは避けられない。伝統的な権威は危うくなり、伝統的な人間関係も見直される。だから開発に成功するには、社会の安定に格別の注意を払わねばならない。


IMFと世界銀行はアメリカ財務省の縄張りの一部であり、そこではほとんど例外なく、財務省が自分の見解を押し通せるのだ。ちょうど他の省庁が、それぞれの縄張りで自分の意見を押し通せるように。


重要なのは、IMFの優先事項に何が入っているかだけでなく、何が外されているかを見ることだ。経済の安定は予定表に入っている。雇用の創出は入っていない。増税は、その逆効果も含めて入っている。農地改革は入っていない。銀行救済のための資金はあるが、教育や保健のサービスを向上させるための資金はない。もちろん、IMFのマクロ経済管理の誤りで仕事を失った労働者を救済するための資金もない。


ワシントン・コンセンサスの貧困政策のあらゆる欠点は、今や明らかである。これまで見てきたように、金利の高騰がともなう貿易自由化は、雇用破壊と失業創出を招くばかりであると言ってよく、犠牲にされるのは貧困層だ。そして適切な規制をともなわない金融市場の自由化は、経済を不安定にするだけであると言っていい。金利を下げるどころか、逆に上げてしまい、貧しい農民に種子や肥料を買えなくさせる。したがって、農民はなかなか最低限の生活から抜け出せない。さらに民営化も、競争政策と専売業者の強権濫用を抑える監督機能をともなわない限り、消費者価格を下げるどころか吊り上げてしまう。ふさわしくない環境でむやみに追及された緊縮財政も、高い失業率につながって社会契約を粉々に砕く。


(IMFとは)別の戦略をとる人々は、市場を利用しながら、政府にも重要な役割があることを認識していた。改革の重要性を認識していながらも、その改革はゆっくりと正しい順序で行われなければならないとわかっていた。変化を単に経済の問題とみるのではなく、もっと広い社会進化の一部ととらえていた。長期的な成功を目指すには改革への幅広い支援が必要であり、幅広い支援を取り付けるにはその恩恵が広く行き渡らなければならないとわかっていた。


IMFは解決をもたらすどころか、IMFそのものが各国の問題の一部になっていたのだ。実際、危機に見舞われたいくつかの国では、政府の役人やビジネスマンだけでなく、普通の人々までもが、自分たちの国を襲った経済的、社会的な嵐を「疫病」とか「大恐慌」と呼ぶような調子で、ずばり「IMF」と呼ぶようになっている。歴史は「IMF」以前と以後に分けて語られるようになった。ちょうど地震やその他の天災で大きな被害をこうむった国が、ものごとの日付を地震の「前」と「後」で区切っているように。


資本の自由化は、発展途上国を投資家の世界の気まぐれにさらすだけでなく、彼らの不合理な興奮と悲観にもさらすことになる。


IMFの企業再構築戦略-ほとんど破産しかけている会社の再構築戦略-は、銀行再構築戦略と同じくらい成功しなかった。IMFは財務上の再構築-誰が実際にその会社を所有するのか、債務免除されるのか、それとも株式に転換されるのかをはっきりさせること-と、実際の再構築-会社が何を生産すべきか、どのように生産すべきか、どのような組織にすべきかといった実際的な決定-を混同していた。


経済政策は、どんな場合にも経済下降の深刻さと持続期間を最小限にすることを目標にすればよいのだ。残念ながら、これはIMFが目指したことでも果たしたことでもなかった。


借金は本質的にリスキーなものだ。資本市場の自由化や、危機が起こった時に金利を法外なレベルまで引き上げるといったIMFの戦略は、借金をさらにリスキーなものにする。となると、会社にとって合理的な対策は借金をもっと少なくして、その分を社内に留保した利益に頼るということになる。そうなれば、将来の成長はある程度まで抑えられ、資本もそれほど自由には生産的な用途へ流れなくなる。おのように、IMFの政策は資源配分の効率、特に発展途上国では最も乏しい資源である資本配分の効率を悪くする。IMFはこの弊害を考慮していない。なぜなら、IMFのモデルには情報の不安定性が資本市場に及ぼす影響を含めて、資本市場が実際にどう機能するのかが反映されていないからだ。


世銀とIMFは腐敗した政府への援助に対して表面的には断固たる姿勢でのぞんできたが、そこにダブルスタンダードが存在することは明らかだった。ケニアのような戦略的に重要性の低い小国には汚職を理由に資金援助を拒否しておきながら、はるかに規模の大きい汚職が横行しているロシアのような大国には、持続的に資金援助がなされていたのである。


私が出会った、ロシアをはじめとする旧ソ連邦諸国の有能な学生は、欧米に移住したいという夢を抱いてひたむきに働いている。こうした損失は、ロシアで暮らす人々にとって、現在ばかりか、将来にわたってどのような影響をもたらすかという点で大きな意味を持つ。歴史的に、法律と民主主義に基づく社会を創造するさい、中心となるのは中産階級だからだ。


誤った方法で実施された民営化は効率の改善にも成長にも繋がらず、資産の略奪と衰退を招いただけだった。


資本市場の自由化や民営化は資金の国外流出を容易にし、法的基盤が整う前に民営化を推進したことは、ロシアの将来への投資ではなく、資産略奪の機会を与え、よこしまな動機を強めてしまった。


成功の要因は、自国のニーズや危惧に敏感なそれぞれの国の住民が策定した「国内産」の戦略にあった。中国やポーランドやハンガリーは、型にはまった手法はとらなかった。この三国をはじめとして、以降に成功した国はきわめて現実的であり、政策の決定にあたってイデオロギーや教科書のモデルをそのまま踏襲することはなかった。


IMFのような国際機関の国際政策について合理的な見解を形成するには、市場が機能しなくなる重要なケースを見極め、その失敗によるダメージを個々の政策によって防止、あるいは最小限に抑える方法を分析する必要がある。さらに、介入に踏み切る場合には、その介入が市場の失敗に取り組み、問題が起こる前に対処し、実際に問題が起こった時に改善をはかるうえで最善の策であることを示す必要もある。すでにみたように、ケインズは、各国が単独では十分な景気浮揚策をとれない理由を分析し、説明した-どの国も、他の国々にもたらす利益を考慮に入れないからだ。だから、各国政府が自発的にとる以上の景気浮揚策を実施するような国際的な圧力をかけるというのが、IMFの本来のや役割であるはずだった。


標準的な市場経済理論では、貸し倒れになった貸し手は結果について責任を負う。おそらく借り手は破産するだろうし、各国にはそうした破産の処理に関する法律がある。市場経済理論はそのように機能するのが普通だ。ところが、IMFのプログラムは、欧米の債権者を救うために繰り返しその国の政府に資金を供給する。債権者はIMFの救済措置をあてにするようになり、借り手が返済可能かどうかを確かめようとする気持ちも弱まった。これが、保険業界でよく知られ、今では経済学でもよく知られている悪名高い「モラルハザード」の問題である。


金融市場では時々、実際には信用供与に値する国が融資を拒否されるという不合理が見られる。IMFはもともと、そうした不合理が引き起こす流動性の危機に対処するためにつくられたのだが、その危機を早めかねない個人や機関に金融政策の権限を与えようとしていたのだ。つまり彼らが融資するのは、進んで融資しようという気になれる時だけだった。
IMFに自覚がなかったとはいえ、貸し手の側はすぐにその変化の深い意味を読み取った。貸し付け希望国に対して貸し手が貸し付けを拒んだり、精算への協力を拒んだりすれば、希望国は-IMFからだけでなく、IMFの承認を条件として融資をする世界銀行やその他の機関からも-資金が得られなくなる。債権者は突然、非常に大きな力を手にしたのである。


IMFの本来の目標は、世界の安定性を高め、景気後退の脅威に直面する各国が景気浮遊策をとる資金を確保することだったが、IMFはこれらの目標を追求するだけでなく、金融界の利益をも図っているのだ。つまり、iMFが掲げる目標はたがいに矛盾していることがしばしばあるのだ。
緊張がますます高まっているのは、この矛盾が明るみに出せないからである。新たな役割が公然と知られるようになれば、IMFへの支持が弱まることを、「使命の変更」をやり遂げた連中が知っていたことはほぼ確実である。このため、少なくとも表面的には古い使命と矛盾しないように見せかけて新しい使命を隠す必要があった。あまりにも単純な自由市場イデオロギーを前面に押し出し、その陰に隠れて「新たな」使命にしたがって仕事をしていたのだ。


はっきりさせておくが、IMFは公式にその使命を変えたわけではないし、グローバル経済や本来IMFが助けるはずの貧しい国の福祉よりも金融界の利益を優先することを公にしたわけでもない。どんな機関についても、その動機や意図をあれこれ論じたところで意味はない。意味があるのは、実際にその機関を構成し、運営しているメンバーの動機や意図を論じることだけだ。その場合でも、真の動機をつきとめることはなかなか難しい-彼らが公表する意図と真の動機の間には隔たりがある場合が多いからだ。


重要な契約がもう一つある。市民や市民社会と政府との間の契約で、時に「社会契約」と呼ばれるものがそれだ。その契約は妥当な雇用機会の確保など、社会や経済の基本的な保護規定を要求する。IMFは、融資契約の尊厳と考えるものを守ろうとして誤った方向に動き、より重要な社会契約を破ることはいとわなかったのだ。つまるところ、市場をむしばみ、経済と社会の長期的な安定をゆるがしたのはIMFの政策だったのである。


IMFを民間セクターの債権者のための政策を実施する機関だとみると、IMFのその他の政策ももっと理解しやすくなる。すでに指摘したように、IMFが重視したのは貿易赤字であり、危機のあと東アジアに課された大規模な緊縮政策は輸入量の急激な減少につながり、外貨準備金が大幅にふやされた。債権者への返済能力を心配する機関という観点からすると、これは理解できる。準備金がなければ、国や国内企業が借り入れたドルを返済できないからだ。だが、世界の安定と、関係諸国や地域の経済復興に焦点を当てたなら、準備金を増やすことについてはもっとゆるやかなアプローチをとり、同時に国際投機家の気まぐれから各国を守るため別の政策を考えていただろう。


透明性の欠如が指摘されているにもかかわらず、東アジアは著しい成長を遂げただけでなく、めざましい回復力をも示した。IMFやアメリカ財務省が主張するように東アジア諸国が「非常に脆弱」だったとすれば、それは透明性の欠如によるのではなく、別の良く知られた要因-IMFがこれらの国々に金融・資本市場の時期尚早な自由化を強く求めたこと-によるものだった。
振り返ってみると、こうして透明性を重視した理由が「透けて見える」。金融界にとっても、IMFやアメリカ財務省にとっても、責任転換して、自らの信頼性の危機を回避することが重要だったのだ。IMFと財務省が東アジアやロシアをはじめとする各国で勧めた政策は間違っていた。資本市場の自由化は投資の不安定化につながり、金融市場の自由化は貸し出し態度の悪化につながった。復興計画が思ったように機能しないと見ると、IMFと財務省はさらに責任を転換しようとして、真の問題は別のところ、つまり苦しんでいる各国自体にあるのだと主張した。


アメリカ財務省は1990年代初頭に資本主義の世界的勝利を宣言し、IMFとともに「正しい政策」-ワシントン・コンセンサスに基づく政策-にしたがう諸国には成長が保証されると語った。東アジアの危機に際して、資本主義に問題があるのではなくアジア諸国とその誤った政策が悪いのだということが示されない限り、この新しい世界観はくつがえされてしまう。
だからこそIMFとアメリカ財務省は、問題は改革そのもの-資本市場の自由化、とりわけその神聖な信条の実現-にあるのではなく、改革が十分に実行されなかった事実にあるのだと論じざるを得なかった。そして、危機に瀕した諸国の弱さに焦点を当てることによって、自分たちの失敗-政策の失敗と貸し付けの失敗の両方-について責任を転換しただけでなく、その経験を生かして自分たちの政策をさらに推し進めようとしたのである。


グローバリゼーションは、民主主義とより大きな社会正義を求めて戦う活気のあるグローバルな市民社会をもたらすと同時に、世界の健康状態の改善をもたらした。問題はグローバリゼーションにあるのではなく、それをどのように進めるかにあるのだ。問題の一端は、国際的な経済機関、すなわちIMF、世界銀行、WTOにある。これらの機関は、ゲームのルールを決めるのに手を貸すにあたって、たいていの場合、発展途上国の利益よりも先進諸国の利益-それも、その一部の利益-を考慮してきた。そればかりでなく、グローバリゼーションへの取り組みでは、経済と社会についての特定の観念によってつくられた偏狭な思考パターンによって対処することがあまりにも多かったのである。


IMFの思考を支配してきたのが金融界の利害であるとすれば、WTOでは商業界の利害が同じように支配的だった。たとえばIMFは貧しい人々にかかわる事柄にすげない態度をとる。銀行を救済するためなら何十億という金を出すのに、彼らのプログラムのせいで職を失った人々には食料助成金とするわずかな金額さえ惜しむのだ。ちょうどこれと同じように、WTOも自由貿易をすべてに優先させる。エビ獲り網にウミガメもかかってしまい、ウミガメの種の存続が脅かされているとしてこのような網の使用禁止を求める人々は、WTOからにべもなく、そういう規制は自由貿易への不当な侵害だと告げられる。貿易の利益が他のすべてに、自然環境にさえも優先することを知らされるのだ。


最大の課題は機関そのものにあるだけでなく、思考パターンにもある。グローバリゼーションの潜在的利益を現実のものとするためには、環境に配慮すること、貧しい人々が自分たちに影響を及ぼす決定に発言権を持てるようにすること、そして民主主義と公正な取引を堅持することが必要なのである。


世界は複雑なところである。社会の各グループは、自分たちに実際、最も影響を及ぼす部分に関心を集中する。労働者は職と賃金が気にかかるし、投資家が気にかけるのは金利であり、債務の弁済を受けることである。高金利は債権者にとってよいことである-貸した金の返済を受けられる限りは。だが、労働者にとって高金利は経済の減速をもたらすものであり、彼らにとっては失業を意味する。彼らが高金利に危険を見てとるのは不思議ではない。また長期で金を貸し出した投資家にとって真の危険はインフレーションである。インフレが起こると、返済を受けるドルが、貸し出したドルよりも価値の低いものになるからだ。


問題なのは、広範な合意のない提案や政策勧告をあたかも定説樽かのようにIMFが提示することである。資本市場の自由化の場合がまさにそうで、根拠は乏しく、反証はたくさんあった。どんな経済もハイパーインフレのもとではうまくいかないということについては合意があるが、インフレを低いレベルで抑えることがどれほどの利益を生むのかについては意見の一致はない。インフレのレベルを低下させることがコストに見合った利益をもたらすという証拠は、ほとんどないのだ。


経済学がすべてに優先され、経済学に特有のものの見方-市場原理主義-がすべてのものの見方に優先されることが、グローバリゼーションに対する不満をかきたてている。世界各地にみられる反対運動は、グローバリゼーションそれ自体-成長のための新しい資金源や新しい輸出市場-にたいするものではなく、特定のドクトリン、すなわち国際金融機関が押し付けてきたワシントン・コンセンサスに対する反対なのだ。言ってみればそれは、ただ一組の政策が正解として存在するという考え方に反対しているのである。


自由で束縛のない市場を信じる者にとっては、資本主義の自由化が望ましいのは明らかな事実であり、それが成長を促すことを示す証拠など必要なかった。たとえ資本主義市場の自由化が不安定化が不安定をもたらす証拠があったとしても、それは市場経済への移行にあたって耐えなければならない痛みであり、一つの調整コストに過ぎないとして無視されたのだ。


ある機関の思考パターンは、必然的にその機関が直接的に説明責任を負う相手と関連がある。投票権が重要であり、また-投票権は制限されていたとしても-誰がテーブルにつくかが重要なのである。それによって、誰の意見が受け入れられるかが決まるからだ。IMFは、銀行小切手決済システムをより効率的にする方法のような、銀行間の技術的な取り決めに関与しているだけではない。発展途上国の何十億という人々の生命と暮らしに影響を及ぼす決定に関与しているのだが、途上国の人々はIMFの措置について発言権をほとんどもたないのである。


グローバリゼーションをしかるべきかたちで機能させるために必要な根本的な変革は、ガバナンスの変革である。これは必然的に、IMFと世界銀行の投票権の変更に伴い、また国際経済機関のすべてに変化をもたらす。それにより、WTOでは通称大臣の意見だけが尊重されることはなくなり、IMFと世界銀行では財務省や中央銀行の見解だけが受け入れられることはなくなるだろう。


グローバリゼーションが民主主義に何をもたらすかである。グローバリゼーションでは、これまで主張されてきたように、国のエリート層による旧来の独裁が、国際金融による新たな独裁にとってかわられることが多かった。各国は事実上、一定の条件にしたがわなければ資本市場あるいはIMFに融資を断られる。要するに、主権の一部を放棄するよう強いられるのだ。


最も重要なのは、途上国には有能な政府が必要だということだ。つまり、強力で独立した司法部を持ち、民主的な説明責任を果たし、開放性と透明性を備え、公共セクターを成長を阻害してきた腐敗とは無縁な政府が必要なのだ。
発展途上国が国際社会に要求すべきことは、たとえば誰がリスクを引き受けるべきかについて、自らの政治的判断を反映するかたちで途上国自身が選択する必要と権利を手に入れること、ただそれだけである。発展途上国は、先進国のためにつくった雛型を受け入れるのではなく、それぞれの状況に適した破産法と規制体系を自由に採用できるべきなのだ。


国がとらなければならない政策をごく少数の人間が決定している限り、この種の開発は進展しない。民主的な決定が下されるようにするというのは、発展途上国の広範なエコノミスト、当局者、エキスパートが議論に積極的に参加できるようにすることを意味する。また、エキスパートや政治家だけでなく、幅広い層の参与がなければならないことも意味する。発展途上国は自らの将来を引き受けなければならない。だが、われわれ欧米諸国も責任を逃れることはできない。


経済学は選択の科学である。


to be continued・・・


2017年10月23日月曜日

「棲み分け」の世界史(食べる読書131-2)



本のタイトルにあるように「棲み分け」という切り口で世界史、特に欧米の特徴を述べている。
別の言い方をすると、分離の対象領域の変遷であると思う。


「自制的・生態学的な富の棲み分け」→支配被支配からの分離
「能動的棲み分け」→空間、時間そして、人間の分離


分離することがどうして欧米の覇権へとつながったのか。
条件の一つとして、欧米以外で分離が進んでいないことがあげられる。
当たり前のことだが、他がしていないことをしたからである。そしてそれを、世界標準にしたからである。


そして、逆説的だが、分けることで世界を一つにできたのだ。


分離対象ではなく、分離基準で世界を支配しているのだ。


分離の特徴の一つが、分離対象の運営のしやすさにあるのではないかと思う。分離の基準や根拠を基に運営すればいいからである。運営における判断基準が明確である。
だが、それは数字上だけのことである。
大事なことは、概念的に分離はしたが、現実にも分離されているのか?ということである。


本書では、棲み分けの結果としてナショナリズムが生まれたことを示している。

例えば次の内容、「フランスには、標準語とされるフランス語の他に、西端ではケルト系のブルトン語、南フランスではプロヴァンス語などロマンス語系のオック諸語、スペイン国境では、なんと非インド=ヨーロッパ語であるバスク語とロマンス語系カタロニア(カタルーニャ)語、ベルギー国境ではドイツ語系フラマン語、ドイツ国境のアルザス・ロレーヌ地方でもドイツ語系が使用されている。・・・だからこそ、こうした地域において標準フランス語、標準ドイツ語、標準英語が強制的に教育されていった。フランス革命では外国語はもとより標準語以外の方言もすべて使用禁止とされた。ここに国語(標準語)が成立したのである。そして、国語の普及には初等教育制度による識字率の向上が不可欠となった。同一規格の教科書を使った国語教育、さらに音楽教育(日本でいえば文部省唱歌のようなもの)によって正書法も発音も同時に均一化され、無味乾燥な国語が人工的に創られていった。」

生活に根差していないナショナリズムの台頭は、そのままバーチャル生活への入り口ではないか。
言語の発生と言語の役割などについての理解はほとんどないが、少なくとも各地域の言語はその地域生活と密接な関係があるはずだ。
生活に根差した言語を取り上げられ、運営上の理由による与えられた言語で生活することは、「お前はもう死んでいる」状態ではないのか。


分離によりバーチャルな生活を余儀なくされているのが現代である。


だが、”分離”そのものが悪いのではない。目的達成のために目的に合わせて分離することは大切である。
しかし、その目的を決めるのは各人である。
人間は、分離対象ではなく分離する側であるべきだ。


さらに、分離基準が歴史も文化も異なる欧米が決めたとなると、ほかの地域(アフリカ、アジアなど)の生活はどうなるのか。
その結果は、グローバル化の状況がそのまま答えになるのだろう。


本来「棲み分け」されていないのに、「棲み分け」することによって資本主義・サイエンスが発達し現在にいたっている。
「棲み分け」る、分離する基準が自由に決められるなら、人類がさらによりよくなるためにはどんな「分離基準」が必要であろうか。
もしくは、分離そのものから脱却しないといけないのか。
これまで分離してきたものを統合するような分離基準はあるのだろうか。


こう考えると上記の問いの答えが見えてくる。
「概念的に分離はしたが、現実にも分離されているのか?」
現実は、なにも分離はされていない。しかし、生活すること自体それに合った分離が必要である。
酸素を吸って二酸化炭素を吐くように、人間が生存するにも多様な化学物質などを振り分けて生存している。これは生活にもいえる。
人間の生体かつ生態に則した分離基準を基に生活を設計すればいいのだ。
分離基準は己自身ともいえる。


自分で決めた分離、「自発能動的棲み分け」を行う必要がある。それが社会的棲み分けとどう折り合いをつけるかは、その目的次第なのだろう。


「棲み分け」はあくまで手段である。


人類のためになる目的を定め、「自発能動的棲み分け」により新たな価値を提供したい。


以上
またね***


2017年10月22日日曜日

「棲み分け」の世界史(食べる読書131-1)




以下抜粋

モスクワ大帝国を引き継いだ帝政ロシアは、17世紀末から18世紀初頭のピョートル大帝の時代に、ヨーロッパの学問、軍事技術、宮廷文化などを輸入し、ヨーロッパ型の文明に接近した。しかし権力は皇帝へ一極集中し、ヨーロッパ型の封建制が展開しなかった。封建制に由来する権力の棲み分けを重視する本書としては、このような歴史を持つロシアをヨーロッパ史の枠組みで語ることは困難である。


富の棲み分けは大航海時代にさらに促進された。一五世紀以降の海外進出が様々な職人の技術を必要としたからである。船舶の建造法、航海術、測量術、地図・望遠鏡・武器の製作などである。ヨーロッパの海外進出が職人の技術を必要とし、それが技能の競争を生み、彼らの富の獲得を可能にした。職人が富を引き出せるチャンスが、ある意味無限に存在していた。富(貨幣)獲得のチャンスの多さが、職人の技能を向上させたのである。こうして国家も職人の技能から富を得るようになり、その社会的地位を認知するようになっていく。


中国では鄭和の航海の後、造船所が皇帝の命令で壊された。全長百メートル以上、幅五〇m以上の巨大戦艦数十隻に二万人越えの人間を積み込み、インド、ペルシア、アラビア半島、さらにアフリカにまで及んだ鄭和の大航海を実現した中国の造船・更改技術は、一五世紀には間違いなく世界一の水準にあった。しかし以降失速する。彼らは鋼鉄製の蒸気船も造れなかった。オスマン帝国では、印刷所が危険思想を流布するとして閉鎖された。このように、権力の一極集中は時として技術の向上をストップさせてしまう。反対に、ヨーロッパでは権力が棲み分けし、優れた製品をもとめる権力者がたくさん存在した。敵対する権力との争いの中で、例えば武器なら性能の良い方を好んで買ったであろう。

中国やイスラム圏ではよい製品をつくっても、職人がそこから富(貨幣)を引き出すチャンスがなかったのである。市場は大都市(皇帝所在地)と少数の中規模都市に限定されていた。極端に言えば、良い製品を認める権力者は皇帝及び官僚しかいなかった。富を独占していた皇帝が興味を示さなければ、商人はその「良い製品」をいったい誰に売ったらよいのか。


結局、権力、都市(市場)、富の棲み分けのなかった中国やイスラム圏では、皇帝が技術の発展を阻害する一方、職人に富が入ることも、職人の地位が向上することもほとんどなかった。だから職人同士の競争もなく、技術はある段階でストップした。職人の競争からサイエンスを生んだヨーロッパとは対照的であった。だから科学革命も産業革命も、そしてもちろん後述する資本主義もありえなかった。


良い製品や良い機械をつくれば富が入るチャンスはヨーロッパ中どこでもあった。しかし当時のイギリスは綿織物・紡績機・蒸気機関・製鉄で「より儲かるチャンス」があったのである。ある意味で各種棲み分けの成果を一番享受できたのが一八世紀から一九世紀にかけてのイギリスであった。


医学者を筆頭にサイエンティストの社会的地位は権威主義的になるほど上昇した。サイエンティストのエリート化と、彼らを養成する大学の社会的地位の向上が、資本主義社会の要請に合致していた。サイエンスの発達は資本主義国家に富をもたらすと考えられていく。


現在、資本主義とサイエンスは一心同体で、しかも加速度的に自己増殖している。われわれ現代人の思考パターンもそれに合致するように教育あるいは洗脳されている。現代社会は資本主義・サイエンス的思考法で運営され、われわれはそこから逃れられない。


非ヨーロッパ圏で早くから展開されていた、「人々の移動の自由、生業・職業選択の自由、自由主義市場」が展開された経済システムを「レヴェル1の資本主義」と名付けよう。


資本家が、多くの賃金労働者を工場に集めて、一部は機械を使って大量に工業製品(農産物ではない)を持続的に生産・販売し儲けをあげていく経済システムを「レヴェル2の資本主義」と呼ぼう。


マルクスは労働力でそれを説明する。百人の労働力と百人の労働力の生産物は等価である。ところが一人が操作する一台のトラクターが百人の労働力の仕事をすれば、A国で製造されたトラクターをB国が購入するためには、A国に提供しなければならない。たった一台の工業製品で取引相手から膨大な資源・原料や農産物を引き出すことができる。だから工業製品を作れる国、団体、人に儲けが集まる。


「自制的・生態学的な富の棲み分け」は、当初から各人に富が配分されていたわけではなく、富を獲得するチャンスが多いということである。しかし最初から「富」は保証されるが一定以上は増えないこともわかっている「富の能動的棲み分け」社会=ソ連では、サイエンスは、かつての中国やイスラム圏のように、ある段階でストップしてしまうのである。


ヨーロッパに「資本主義の精神」(金儲け精神)が浸透する過程で、同時にサイエンス的発想が浸透していった。サイエンス的行為とは実験・観測・測定・臨床である。この作業を効率的におこなうために、「数値化、合理化、均一化、画一化、マニュアル化、様式化」といった手法が採用された。資本主義も同じである。儲けを生むためには「数値化、合理化、均一化、画一化、マニュアル化、様式化」が有効である。私が、資本主義・サイエンス的思考と呼ぶものはこれである。資本主義もサイエンスも富の棲み分けの産物であり、同根である。


聖俗の棲み分けは、特定の空間と特定の時間には一つのことしかできないという発想である。これが資本主義社会に適合的なのである。例えば、十九世紀初期には、まだフランスの職人や労働者は、伝統に従って、仕事の合間にワインを飲んだり居酒屋に行ったりしていた。ところが同世紀後半になるとこういった行為は徐々に許されなくなっていく。工業化が始まると、工場や仕事場は、まさに仕事をするだけの空間となっていく。


フランスには、標準語とされるフランス語の他に、西端ではケルト系のブルトン語、南フランスではプロヴァンス語などロマンス語系のオック諸語、スペイン国境では、なんと非インド=ヨーロッパ語であるバスク語とロマンス語系カタロニア(カタルーニャ)語、ベルギー国境ではドイツ語系フラマン語、ドイツ国境のアルザス・ロレーヌ地方でもドイツ語系が使用されている。・・・だからこそ、こうした地域において標準フランス語、標準ドイツ語、標準英語が強制的に教育されていった。フランス革命では外国語はもとより標準語以外の方言もすべて使用禁止とされた。ここに国語(標準語)が成立したのである。そして、国語の普及には初等教育制度による識字率の向上が不可欠となった。同一規格の教科書を使った国語教育、さらに音楽教育(日本でいえば文部省唱歌のようなもの)によって正書法も発音も同時に均一化され、無味乾燥な国語が人工的に創られていった。


19世紀以降のヨーロッパは、なぜそんなにナショナリズムにこだわったのか。一つの説明として、ナショナリズムによる言語の純化(標準語化)が、工業化や近代的軍隊にとって効率的であったからというものがある。


ナショナリズムは物語に過ぎないかもしれないが、それが国際的なゲームのルールになってしまったため(いわば世界標準)、こだわっていなかった国も巻き込まれざるをえなくなったのだ。


理念的あるいは心情的にはアトム化した個人を国家に結びつけるにはナショナリズムは便利な装置である。ナショナリズムによって国家内部の対立、とくに金持ちと貧乏人、あるいは多数派民族と少数は民族の対立・相違をある程度隠蔽ことが可能だからである。


国家という空間を「同一民族」で構成しようとするから、ナショナリズムには「異なった民族」を排除する傾向があると述べた。これが人間の「能動的棲み分け」につながる。つまり、空間の「能動的棲み分け」によって「異なった民族」「異なった人間」を排除しようとする傾向が進むと、人間を「能動的に」棲み分けさせて異なる要素を排除しようとする発想が必然的に出てくる。


われわれはつい「西洋諸国=民主主義国家」とイメージしがちであるが、少なくとも第二次世界大戦以前で議会民主主義を採用できたのは植民地をもっていた国家だけだったのである。イギリスやフランスでは植民地のおかげで民主主義が機能していたのである。少し説明しよう。植民地の存在が工業化を促進し国家に富をもたらした。それによって国民がある程度裕福になったので不満は抑えられた。それに対し、農業国家のままであった東洋諸国は工業化した植民地国家の収奪地でしかなかった。国民の不満は常にくすぶっていた。先進国の収奪に対抗するため、さらに国民の不満を抑えるためには独裁者、とくにカリスマ的独裁者が必要であった。現在でも議会民主主義の機能しているのが先進国や新興国といった豊かな地域に限定されているのを知っている読者、中東や北アフリカあるいはラテンアメリカの現状を知っている読者ならおわかりであろう。先進国の収奪を免れるためには独裁制もやむをえないのである。


北米は、人間の棲み分けのもとに発展したといってよいのだろうか。それは少し違う。空間・時間の「能動的棲み分け」の発想と連動して工業化したというのが正解である。しかし「能動的棲み分け」は必然的に人間の棲み分けに連結する。これが悲劇であった。ともあれ、人間の棲み分けが徹底された北米が工業化し、それが不徹底だった中南米が工業化できず今でも貧困状態にあるというのは(ブラジルのように新興国として抜け出しそうな国もあるが)、残酷な現象である。人間の棲み分けに成功した方が経済的に豊かになるなんてどういうことなのか。こちらの方がおかしいとは思いませんか?確かに空間・時間の「能動的棲み分け」は資本主義の発展には適合的である。中南米ではそれが実行・成功できなかった。しかし、この「能動的棲み分け」の冷酷さが、欧米に世界の覇権を握らせた「武器」でもあった。


ヨーロッパの人間の棲み分けの論理が「普通でない」ことに、どれだけの人が気づいているだろうか。


マーシャル・プランの目的は、ヨーロッパにアメリカのための巨大市場を再生させることであった。要するにアメリカ製品の販路として、ヨーロッパ人の購買力を復活させなくてはならなかったのである。そのためのヨーロッパ経済の再生、さらにいえば経済的統合は、アメリカにとっても都合がよかった。アメリカもただではお金を出さない。


EUとは何なのか。私は「ヨーロッパ人の国」という巨大な国民国家をつくる夢、しかも完成することのない夢であると思う。十九世紀に成立した国民国家の原則は、同空間=同民族=同言語である。それがナショナリズムである。この原則を当てはめてみると、いーろっぱという空間を設定(創造)し、そこにヨーロッパ人を創出し、ヨーロッパ語という言語を均一化しなければならない。これにはフランス革命以来できあがってきた個別の国民国家を一度壊し、新たに「ヨーロッパ国民国家」を創るという作業を行う必要がある。そんなことができるだろうか?無理である。


ナショナリズムが暴発して独立にいたるのは必ず貧しい農業国である。


「貨幣関係のネットワーク」が社会全域に浸透すると同時に「資本主義の精神」という「共同幻想」が浸透する。(ちなみに、すでに物々交換の段階から、交換はすべて共同幻想に基づいておこなわれていた)。これを「レヴェル1.5の資本主義」と名付けてみよう。


私に理論からすれば「レヴェル2の資本主義」の勝者になるには、その前提として「レヴェル1.5の資本主義」が展開され、その結果少数の「金持ち」(資本家予備軍)と多数の「貧乏人」(労働者予備軍)が生まれる必要がある。それが成立する条件は、権力・人口・都市(市場)・富の棲み分け及び農村内での職の棲み分けが存在していることであった。もちろん皇帝一極集中型のロシアでは各種棲み分けがなく、したがって「レヴェル1.5の資本主義」も展開されなかった。大量の「賃金労働者予備軍」が存在しなかったから、農奴を開放してそれを創出しようとしたのである。しかし、ロシアでは農奴解放後も農民は「社団」といった農村共同体から離脱できなかった。彼らが農村共同体から離脱して「賃金労働者予備軍」になれたのは十九世紀末以降のことであった。


ヨーロッパの「自生的・生態学的棲み分け」が資本主義とサイエンスを生んだ。サイエンスと資本主義に連動するように、欧米人は空間・時間の「能動的棲み分け」を始めた。資本主義・サイエンス・能動的棲み分け。この三者は確かに適合的で相性が良い。ただそれだけでなく、今やこの三者は合体して意味もなく勝手に自己増殖して制御不能になりつつある。制御不能にしているのはわれわれ人間である。しかし制御することもできるのも人間であるのだ。制御できないと「ロボット社会」となる。


to be continued・・・



2017年6月17日土曜日

生きる

生きることを目指してきた

いつからかはわからない

単に意味を見いだせなかった

いや、自分本来の好きなことをする余地がなかった

ただそれをしているだけでいい

別に生きる目的などなくても、それをしていればいい

それをすることで飯を食っていくことはできない世の中だとわかったから

本来はわかっていないのだが、世の中の価値を優先した


空は青く、かぜはさわやか

何もないのだ

苦しみも悲しみも喜びも怒りも

自分には何もない

だから、それがいい

痛みがあることが生きている証だという

たんに捉われてるだけだろ、と突っ込みたくなる

捉われることで自然から離れてしまった

自然とともにある動物はあるがままがすべてだ

生きるという概念はない

ただ、営みの中にあり営みを成すものである

ただあるがままでいることによってのみ達成する

すべてが無意味だ

そこに無理に意味を創る必要もない

意味を創ればありのままではいられなくなる

自分が自分であること

何物にも足らわれない

自分自身にも

腹が減ったら飯を食う

眠たければ眠る

子孫をつくるのも成行きだ

性欲に流されればいい

空虚である暇と退屈を弄びたい

2017年5月6日土曜日

巨悪の正体(食べる読書130)



日々実感しておりこんな社会の中でどう生きていくか、が課題ではあった。


このような本が出るほど日本の白痴化は進んでいるんだな、と改めて実感した次第です。



自分を通して人間がクソであることは実感していてそのクソっぷりとも依然と比べればうまく付き合っていけるようになってきたかなあ、と思っていた。



しかしながら、落ち込んだ。ここ最近ないほど、この本を読んで落ち込んでしまった。



覚悟のなさに対してだ。




この本を読んで自分の無知さや考え方に対しても見直す機会となったが、
そんなことよりこの時代・社会に生きて何をするのかが定まっていない自分の現状に対して落ち込んだ。



このブログも結局マスターベーションの域を出ていないなあ、と実感しつつその後に清々しく行動できることを期待しよう。



善悪、正邪も合わせのめる人間を目指そう。


悪をもって善を成すように。



全ての基準をぶっ壊して自分ですべてを一から造れるように。




このような本が出ること自体恥と思うべきだ。


情けない。



誰一人自分の足で立てないのか。



悔しいし情けない。



だが、この悔しさを動機とはしない。



感情によってできる志など存在しないと決めたからだ。




自身のカスさを目的達成のために利用できる人間になろう。



以下抜粋


情報が世の中を作り、噓の情報が流されているとしか考えない人々こそ、実はグーミンの域を出てはいないのである。


我々は子どもにクスリを与える社会を作り、社会毒だらけの食べ物が売られている社会を作っている。毒まみれで全く栄養のない給食を平気で与え、子どもの才能をすべて破壊するための画一教育を押しつけ、放射能を与え、戦争をするような国づくりを進めている。


根底からシステムを変えるしか方法がないのだ。


陰謀論は社会毒の初歩を理解できた後に、「なぜこの世の中がこうなってしまっているのか」という社会システムを理解するうえで欠かせない考え方である。


ショックドクトリンや軍国や独裁や情報操作への模索は、より強く進められており、アメリカから無駄で買わされたオスプレイはそれを象徴している。


最初に考えるのは「現実」がどうであるかということ、そして「歴史」はどうやって繰り返されてきたのかに、目を向けることである。


ジンルイの歴史上の病気の変遷も、年代統計的なことに対する説明も、脂溶性毒もミネラル毒も、論文はどういう形で嘘として作られていくかも、人々が科学的根拠としてすがっている二重盲検試験がいかに噓かも、何も語ろうとはしないし語れない。


いわゆる災害心理ケア、災害時の睡眠薬や安定剤の導入は、災害時だけでなく災害後に多くの弊害をもたらし、災害後に自立するチャンスを激減させてきた。これらは麻薬であり、心理ケアは実は宗教勧誘と依存形成みたいなものである。


代替療法で末期ガンが治ったということはよく見かけるが、三大療法(特に抗ガン剤や放射線治療)で末期ガンが治ったという話は見ない。


現実を見ながら「歴史」を振り返り、陰謀論的構図や概念について深く理解したうえてえで、また「現実」に戻ってくることこそが陰謀論的概念を役立てるうえで必須なのである。


陰謀よりも「歴史」よりも重視しなければいけないのは、国民の思考、市民の思考、奴隷の思考がそれを作り上げたということなのである。


いま、政治的にすべきことは何なのか。
それは日米地位協定や日米合同委員会その他、奴隷国であるシステムを国民自身で破棄し、その手先である官僚やメディアなども国民に真実を曝し、真の意味での富国強兵を推し進めることだろう。
大東亜戦争時代、日本は悪いこともしたが、東南アジアの人たちには押し並べて好感を持たれた。そして、その第一の理由は欧米植民地主義とアジア人を奴隷から解放したことだった。それを現在に適応するなら、超富裕層だけが儲かる経済政策をやめ、税金年金をやめ、市民レベルで経済が循環して儲かるシステムに変え、国力を増強しアメリカ軍に頼らず自衛隊を強化、思いやり予算などすべて破棄して国軍につぎ込めば良い。
そして薬などの無駄な医療費を削減して真に治る医療と福祉に注ぎ、原発は封鎖して代替エネルギー事業を進めて汚染地域は閉じ込め、司法力は強化すると同時に公開原則も強化、通名廃止し、二世議員も禁止、自立した国を作るために一次産業を強化することこそ、現代の日本人がやらなければいけない植民地主義からの解放運動である。

本当の量子医学は古代医学と同様、すべてオーダーメイドであり個別に対応できる。


「現実」の結果と既存科学のどちらを重視するのか、本来は言うまでもないことである。


世の中で混乱が起こるとき、いつも善い人のふりをする第三者が対立する双方に介入し、内ゲバのようなものが起こるのが特徴なのである。


すべて探知できるシステムを持っていながら、ニュースにはここぞというタイミングでいさかいを煽っていることさえ知らない。


ニュースでいさかい報道が行われる

攻めてくると恐怖する

きれいごとを言い、日本を守るという売国奴に手を貸す

最終的に自分が死にやすい状況を作る


人間は自分の心を支え、自我の崩壊を防ぐため、事実を見るよりも自分を守る方を優先するように設定されているのだ。


日本の社会毒的実情は添加物も世界一、農薬も世界一(もしくは世界2位)、放射能も世界一、電磁波も世界一、CT保有も世界一、病気になる率も世界一、奇形や種が維持の発症も世界一(もしくは世界2位)、医療も福祉もカス丸出しでもそれを理解できない



もし本当に俯瞰しているなら、「俯瞰して見る」などという言葉は決して使わない。


自分がカスでありバカであり、データは常に作り変えていくというデータを入れることで、執着や脅迫や正義感に溺れる自分ではなく、好奇心と発展心にあふれた自分を作り出していくことが重要である



人間はそもそも現代病にならないのだ。野生動物もまた現代病にはならないし、先住民は全くと言っていいほど虫歯はなく、先住民には全くと言っていいほどガンがなく、先住民には全くと言っていいほど生活習慣病がなく、先住民には全くと言っていいほど膠原病がなく、先住民には全くと言っていいほど遺伝病がない。このことが、1900年代の先住民研究で分かっている。
もっと言えば100年前と今の日本でさえ、全く病気の質が違うことはわかっているのだ。100年前には現在でいう「医学」自体が存在しないし、非常に偏った食事をしていたのに、当時の人々は外傷や感染症にさえならなければ、現代病は少なかった。


現代西洋医学は外傷や感染症の側面だけは進歩したが、ほかの病気についてはむしろ治さないようにしているのが現状である。



物質の精製が肉体を滅ぼし、精神の精製品である愛と癒しが心を滅ぼしたと言えなくもない。


筋力トレーニングは医学的に言うなら筋肉を破壊する行為であり、一度筋線維を切ろうとする行為でもある。そうすると人間は衰え進歩しなくなるかというとそうではなく、筋肉を破壊すればより強力な筋肉が生み出されるというシステムになっている。
実は精神にだって似たようなことがあるのは、皆さんも知っているのではないか。


本質的に言うなら、あなたが本当に嘘をついていないとすれば、すでにその物事は成就しているはずなのだ。


世の中にはどんなにきついことがあっても、強くたくましく生きている人がいる。


依存症は自分の中にある深層心理を全く見ることが出きない存在なのである。
それに比して自立とは一種の執着の解放でもあり、悟りっぽいところもあるので、自分の深層心理をいつも直視しようとする。


あなたがもし真の意味で危機感を自覚していれば、きっと今の仕事などやめてしまうくらいに行動する。


インターネット上にはいろいろな社会問題の記事があふれているが、社会が何一つ変わっていないのは、私たちの自覚がまだ全くないからであり、私たちの深層心理に自分たちが気づいていないからなのだ。


自分の問題に対して責任が取れるのは自分のみである。


決断に自分の責任が伴っているからこそ、本当の意味で自分に悔いのない行動がとれるようになるのである。


人々が精神を病む理由の一つは、伝える能力のないことである。


あらゆるジャンルの教養が奴隷としてつないでおくための道具である。


あらゆるものは奴隷を奴隷であるように設定するために己自身が作り上げた、壮大なペテンでしかない。


ジンルイが「優しさ」とか「正義」などとホザイテいるから、あらゆる争いが起きているんじゃないか。


真の意味で自立している人とは、自分の軸を持ちながら多くの目的を見据える人だ。


以上
またね***

2014年5月13日火曜日

Good Luck (食べる読書 129-1)



私は、哲学が好きだ。



しかし、哲学とは何かについて深く考えたことはなかった。「Good Luck」を読んで、現時点における私の答えが出た。「哲学とは、自分の創造である」。



黒田官兵衛は、私の最も好きな武将である。その生き様や境遇、考え方にどこか愛着を感じるのである。彼は優秀であり、天下人である豊臣秀吉から天下を取れると恐れられたほどの人物である。



しかし、彼が天下を取ることはなかった。私が、彼に注目する理由の一つがここにある。能力があったのに、なぜ天下を取れなかったのか。彼を通して、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康といった英雄を観ることで、より本質が見えるのではないかと考えるからである。



現時点における私の考察は、こうである。当時の人は彼らをどう評価するか、である。人々の黒田官兵衛の評価はおそらく「優秀」、であろう。一方、織田信長はどうであろうか。「気狂い」、「何を考えているかわからない」、「評価不能」といったところであろう。豊臣秀吉は、「人たらし」、「なぜか惹かれる」、「無邪気」、であろう。徳川家康は、「ずる賢い」、「手に負えない」、であろう。




官兵衛と他 3 人の違いは、ここで浮きぼりになる。キーワードは“ルール”である。官兵衛は、ルールに忠実に従う者である。他 3 人は、ルールを創造する者である。当時の人は、当時の評価基準 (ルール) に照らし合わせ、官兵衛を優秀であると評価するだろう。一方、他 3 人に対して当時の評価基準では測れないのではないだろうか。だから、異常であるという評価しかできない。当時のルールに合わないからといって、彼ら 3 人が何も考えていないのではない。むしろ最も考えた者であり、冒頭の言葉を使えば、「哲学を持っていた」、となる。黒田官兵衛は、この本の登場人物で言えば、サー・シドである。しかし、他 3 人はこの本では該当する人物がいない。敢えて言うなら、王もしくはマーリンであろう。




社長にとって、黒田官兵衛のような社員が最も欲しいというのはわかる。それは、サー・シドのようにしっかりと準備を怠らず、事にあたるため、目的を果たすことが多くなるためだ。社員教育として「Good Luck」は最適と言える。




会社に対する理想の社員像はわかった。では、社会に対する理想の会社像とは何であろうか。その時代と社会の要請によって変わってくることは容易に想像できる。現代の理想の会社とはどんな会社であろうか。おそらく、現代の問題を解決する会社であろう。それは、次の時代を創ることでもある。織田信長や徳川家康のように、である。




重要な点はここからである。社員がサー・シドである社長にとって理想の会社は、同時に、社会に対しても理想の会社足りうるのかという点である。言い換えれば、サー・シドは、王足り得るのかという事である。黒田官兵衛は、天下を取れたのかという問題に帰結する。



以上述べてきたように、二つの能力が存在する。ルールを創る能力とそれを遂行する能力である。創業者は総じてこれら二つの能力を併せ持つと考える。上の問題は、ルールを遂行する能力に長けた者は、ルールを創る能力にも長けているのかという問いである。



その答えは、ルールを創れば遂行することができるが、与えられたルールを遂行できるからといってルールを創れることにはならないということである。よって、サー・シドは王になれないし、黒田官兵衛は天下を取れないのである。根本的に違うのである。



そして、ルールは哲学を具現化したものである。なぜここで哲学が関わってくるのか、次回考察する。



to be continued・・・



2013年1月26日土曜日

新しいあなたを作る


もしあなたが、、、

・人前に出たり、知らない人と話すとき緊張する
・少しも前に進んでいないと感じている
・実はもっと稼ぎたいけど、稼ぐことに罪悪感がある
・他人にどう思われているかが気になって行動できない
・他人の間違いが許せず、すぐイライラしてしまう

と言う様な事で悩んでいるなら、
この書籍がお役にたつかも知れません。
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コロンビア大学元医学部長、
世界的に有名な形成外科医である、
モルツ博士のサイコサイバネティクスによると、、、

人間は自分で作り上げたセルフイメージ、
(自己が思っている自分)どおりに
行動するようにようになっているそうです。

そのセルフイメージは、
あなたが子供の頃、親や学校の先生などが、
あなたに対して投げかけた言葉等によって
勝手に出来上がってしまいます。

つまり、あなたはいつの間にか、
自分は人見知りだから、人付き合いが下手だから、
お金を稼ぐ資格はない、人に好かれる資格はない、
などと思い込まされているのです!

そのセルフイメージを変えない限り、
あなたがこれらの悩みから
解放される事はありません。

そんなの嫌ですよね?

だったら、
この書籍でそのきっかけを掴んでください。
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この書籍は、サイコサイバネティクスの、
日本における第一人者である小川忠洋が、
わかりやすい言葉でその概念を
徹底的に解説しています。

この書籍であなたは、
成功を引き寄せ、幸せを引き寄せ、
不安、心配、 イライラが極端に少ない、
新しい自分になれることでしょう。

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今なら新装版発売記念、
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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...