2011年8月25日木曜日

人生の100のリスト(食べる読書45)



あなたは人生を味わっているだろうか。




どんな味がするかは自分が食ってみないことには分からない。




人生で何をしたい?そのしたいことを味わってみたらどうだろう?




本書は著者が100のリストとともに送った半生を記した一冊。




一人の人間の半生をともに味わえる一冊。





とても人間らしい、人間臭いとでもいおうか、単なるきれいごとだけではなく苦しみや悲しみなどもそのまま記しているのがとてもいいと感じた。





人生を豊かにするちょっとした工夫が“100のリスト”かなと感じた。





以下抜粋




彼はこのリストを大学時代に作成し、三十年かけてすべて達成したのだ。






「根源的な痛みを感じ、理解し、浄化することによって、我々は初めてその呪縛から解き放たれ、本来の自由で生き生きとした自分を取り戻すことができる…」アーサー・ヤコブの言っていたことがやっと理解できたような気がした。心をオープンにすることによって、過去の自分と現在の自分が歩み寄り、融合していくのを感じた。本来の、自由でエネルギーに満ちた自分がぼくの元に戻ってくるのが分かるのだ。








「エグザイルス」という空間そのものが人をオープンにさせる、特別な雰囲気をもっていたのかもしれないが、こういう環境にいると、人間を測る物差しというものがいやおうなく変わってくる。人を偉い、偉くない、有名、無名、勝ち組、負け組などと判別することがいかにバカバカしいことか、肝で感じるのだ。人はやはり中身だ。格好良い奴は、何をやっても格好良いし、格好悪い奴はどんなに偉くなっても格好悪い。







確立された社会から逃げ出したかったのだ。・・・。
このままこの国にいても、自分の可能性を追求することはできないだろうし、ズルズルと型にはめられてしまうのがオチだ。自分の個性も、エネルギーも、夢も、創造力も、すべてが日々の繰り返しの中で摩耗してしまう。自由にやっていくにはここでは駄目だ。脱出しなくては、と本能的に感じたのだ。







そしてのんびりやりながらも、自分の可能性を真正面から追及していくことができた。







「人は一度逃げ出すと、一生逃げ続けなくてはならない」と誰かが何かの本に書いていたが、これは一度祖国を逃げ出した人間にも当てはまる言葉かもしれない。国を離れ、長い間海外で生活していると、本当の意味で「帰って行く場所」がなくなってしまうのだ。少なくともぼくの場合はそうだ。不思議な浮遊感が心の中に芽生え、次はどこへ、次はどこへと、まるで逃亡者のような心持で人生を歩んでいくことになる。







人間、仕事や家庭や日々のルーティーンといった日常生活の諸処から解放され、何もない空間に身を置くと、日々忘れていた、または忘れようとして潜在意識にしまいこんでいた深い感情や幼い頃の思い出、痛みや怒り、闇や孤独、そして未知なるものへの普遍的な憧れといったものをふっと思い出すときがある。そういうときこそ我々はそれらをもう一度しっかり見つめ直し、自分との折り合いをつけていかなくてはならない



彼は夕暮れ時の光に洗われた砂丘の中に姿を見せた弟に向かって話しかけ、悲しみや喪失感や孤独といったものが湧き出てくるのを感じ、泣き、心が静かになると、太陽が砂丘の向こうにゆっくりと吸い込まれていく光景を目にした。そして、急に軽やかになった心で、過去を消し去ることは不可能な事だが、過去から自由になることは限りなく可能に近いことだということに気づく。







リストのいちばんの成果は何と言っても、やりたいことを思いついたまま書くという行為を通して、ぼくが生まれて初めて自分と向き合い、将来について思いを巡らせたことだ。







行きたい場所だけでなく、人生そのものを舞台において、やってみたいことをいろいろと考え、それを達成する自分を想像する。できるできないは別として、夢を追っている自分の姿を思い描くことそのものがぼくにとっては楽しい遊びなのだ。そしてもちろん、そんな夢を成し遂げることができたらできたで、未来に対する思いはぐっと膨らみ、自分に対する自信にも繋がる。やろうと思えばなんだってできるじゃないか、という前向きな気持ちになれるのだ。





以上
またね***



2011年8月24日水曜日

君に成功を贈る(食べる読書44)



中村天風氏が若い人へ講演をしている形で、「心身統一法」の考え方と実践の手法をやさしく解説している。




人生の成功を決定づけるのはただ一つ、“心のあり方”である。




この一点について分かりやすく説いている。




他の自己啓発書はいろいろなことに関して述べているので、大事な内容が複数あり、その中での優先順位や関係がわからない。が、本書はただ一点についていろんな視点から述べているため、とても身に残りやすい。




心を常に積極的に、明るく、動じない状態にしておく。




以下抜粋




「俺はあいつが好きだ」
と言って信長は、にっこり笑ったといいます。理屈はないんですよ。






自分の言葉や行いが、他人を怒らせたり、他人に心配かけたり、迷わせたりすることは断然、しないことです。他人を怒らせたり迷惑をかける人で、「他人に好かれる人間」というのはいやしないんですから。
それと、他人から受けた恩義はもちろん、どんなささいなことでも、他人の行為は常に大きな感謝で受け入れることです。







側からは辛かろう、苦しかろうと思うようなことでも、本人がああ嬉しい、ありがたいと考えれば何でもないんだ。何もかも心の置きどころを変えることです。







自分自身を自分自身が磨かない限り、自分というものは本当にえらくならない







第一に、他人に好かれること。他人に好かれようと思ったら、自分が好き嫌いを言わないこと。それから同時に、どんな場合があっても、思いやりをもって「もしも自分があの人ならば」という真心で親切に応接する。






当たり前のことをやって、そして生きてられんのはどういう訳だろうということを、ちょいと考えてみましょうや。





事あるも事なきも、いつも積極的という心でその心を保たないと、このナーバス・システムというものは、うまく平均した状態で働かない。すると、肉体に必ず故障というものが生じてくるんです。





自分に降りかかる不運なり不健康というものは、自分が知ってか知らずに関わらず、原因はすべて自分にある。
病なり不運というものは、自分が犯した罪の結果、生じたものなのであります。






いついかなる時といえど、心の尊さと強さと正しさと清らかさを失っちゃいけないのであります。







いかなる場合があろうとも、尊さと強さと正しさと清らかさを失うまいぞってね。そのためには、いいかい、自分の心の中に「悲観的なもの」「消極的なもの」を一切、入れないことです。







何かを言ったり、行った後、自分自身で、何かこう、気がとがめるような、なんだか後味がわるい、というようなことを言ったりしなきゃいいんですよ。







人生は何よりもいちばん先に、まず考えなければならないのは、心なんです。なぜかというと、月を見ても、花を見ても、仕事をしても、遊ぶのでも、すべてそれを心が認識すればこその生甲斐でしょう。







年齢を考えるから年齢があるように思うけれども、60,70歳になろうと、自分が17,8歳時代と考えてみて、違っているのは体だけ。そして、もう一つ違っているのは、心のなかの知識だけの話で、心そのものはちっとも変っていないはずです。








若いころに出世街道をまっしぐらに行ったあの秀吉を、じーっと考えてみたら、自分に学問や経験があろうとなかろうと、心の持ち方一つが、結局、人生の運命を決定するんだということに気づくはずです。






力は学問や経験でできるものではありません。ただ、ひとえに心の態度を積極的にする以外に方法はないんであります。






幸福や幸運というものは、自分が呼び寄せなければ来やしない





自分の心はどんな運命に対しても、どんな健康に対しても積極的かどうか。自分の心は、ほんとうに尊いか、強いか、正しいか、清いか、自分自身おごそかに考えてみてください。






数ある同僚の中からぬきんでて偉くなる人は、結局、偉くなるべき資格を持っているんです。その資格とは、「誰に言われなくても、日々毎日、実際に努力している」ことなんです。ですから偉くなったのは、これがための結果なんです。






あなた方の思い方や考え方が、現在あるがごときあなた方にしている







「自分が知ってか知らずに関わらず、蒔いたとおりに花が咲く」
ほんとうに、もうそうなんですぜ、これ。






「すると待てよ、かりにいちばん考えやすく、明日の朝、死ぬとしたら、まだ今夜は死んじゃいない」
「では、どうせ明日の朝、死ぬんなら、その死ぬときまでは生きているんだから、ビクビク生きているよりは、生きている間は楽しく生きていこうという気持ちになったほうが、どうも得のようだがどうだ」








生きているのは宇宙エネルギーのおかげなんですぜ。しかもその宇宙エネルギーを生命に受け入れるオーガニゼーションが何かということを、第一に知ってなきゃいけませんよ。







ショックや衝動をいちいち心だけで受けてると、そのショック衝動に心がいたぶられちまうんだ。








「人間が自分の人生に対して絶対的に積極的な心の態度で生きるということは、この複雑混沌たる世相にあっても、本当に幸福に生きぬいていく秘訣である」







人生は心であり、観念であります。これこそが、あなた方の人生を極楽にもし、また地獄にもすることができうる、唯一のものなんです。






いいですか、心の態度を、いちいち対外的なものに反応・反射せしめているかぎり、しょせんは消極的におちいる場合のほうが多いんです。まして、今日のように消極的なもので溢れかえっている世相においては、なおさらのことですよ。






人間は万物の霊長として創造の大使命を行うがために、この世に生まれたのでありますから、一面においては他の生物とは比較にならないほどいろいろな恩恵を授けられているんです。







いかなる場合にも怒りや悲観という、人生を泥ぬるような、悪魔を招くような愚かさを演ずることなく、事あるときも事なきときにも、いいえ、事あるときはなお一層、笑顔をくずさないように練習してごらん。







やればできますよ、あなた方も。心もちを、ぱっと変えちゃえばいいだけなんだから。まことに人生は、心ひとつの置きどころなんです。






人生に生きる刹那刹那の思い方、考え方を変えるっと事が、結果に置いて、尊い人生観というものを、本当に頼もしく変えられる大根大本なんだぜ。







思えば思うほど楽しい、考えれば考えるほど嬉しい、ということだけを心の中の絵巻物の中に、はっきり、しょっちゅう消えない形で書きどおしに書いて人生を生きることこそ、人生極楽の秘訣だぜ、これ。






心の態度が積極的になると、心の力が不可能を可能に逆転せしめる。



以上
またね***



運命学(食べる読書43)



運命学と題して、人相と手相について語っている。



著者は長年多くの人相・手相を観てきたが、この本がそういう分野において初めての著作だという。また、本の内容は、主に雑学的である。





著者の経験等を織り交ぜながら人相・手相の相について述べているので、読んでて面白いし楽しい。






だが、本自体の過失ではなく、読んでてその都度自分の顔や手とにらめっこしている自分に対してちょっと複雑な思いを抱いたというのが本音だ…。






俺はこんなにまでして自分自身の良い部分をどんなに細かいところも見逃さないように探さないと見つからないほど自分のよさを自分で認められていないのか…。と思う一方で、運命学から観た自分はどんな人間なのか知ることは決してマイナスではない、となぜか積極的な自分もいる。





といった相反する自分にすこしばかり翻弄されていた読書時間でした。





結論として、この本のみで判る(しかも自分で理解し、素人判断した)自分の人相・手相は、あまり良くなかった…。というか、そんなに悪くもなかった。可も不可もないと言ったとこだろうか。





おおまかに言うと、人相より手相がよかった気がする。顔はあまりい人相の部類には入ってなかった。自分とは違うタイプが人相いいんだよなあ。一方、手相は悪くなかった、中の上と言ったとこだろうか。良いところだけ覚えてて恐縮だが、どうやら、「銀のフォーク」らしい☆





夜の電車に乗りながら読んでいたのだが、その都度窓に映る自分の顔を見ていろんな顔をしていた。眉間のしわって顔をしかめたりしたらできるよなあ。額ってこの形はどうなんだあ?眼の色は窓に映る自分ではわからないなあ。口小さいんだよなあ。などと思いながら窓に映る自分を見つつ完全に自分の世界に入っていた。気がつくと、ほかの乗客の”なんだこいつ?”という視線に気まずくなり、小さくなる。が、しばらくすると同じことをする…みたいな(笑)。





本にもあったが、人相・手相は変わるそうだ。あくまでその時点でのその人の状態ということだろう。大事なのはどうそれを良いほうへ変えるかである。これに関してはあまり触れていなかった。だから、人相・手相で現状把握し、どう軌道修正するかは他の方法で自分で頑張ってくださいというとこだろうか。だからと言って、人相・手相が役立たずだとは思わない。人生80年のこの時代。どんなに生きても100年前後である。だが、人相・手相は長い歴史があり、また多くの人の記録からなる。つまり、一人の人間の一生では見えてこないものが、長い年月と多くの人を観た経験から見えてくるのが人相・手相である。




そう考えると、一人の人間を超えたものが人相・手相を通して見えてくる可能性はある。それが運命であったり、宿命と呼ばれるものかもしれない。




楽しかったです。
ありがとうございます。



以下抜粋


ヤクザは失敗のけじめに小指を詰める。・・・。なぜ小指なのか。小指には子供、子分、後継ぎといった意味がある。失敗したり、不始末をしでかしたり、取り返しのつかないことをした場合、
「ヤクザ稼業はお前一代で終わり。子分を作ることはならんし、独立して一家を持つことは許さない」
ということから、小指なのである。その後に手柄を立てたり親分の覚えめでたいなどで独立といったケースはあるだろうが、本来はそういうことなのである。







学問やアドバイザーとしてやっていくのと、実際に渦中で手腕を示すのとは違うのである。






「翁は法相を学ぶために、三日間“神相全篇”を受けましたところ、講義があまりに月並みであったため、独学で相学を研究する決心をしたのであります。
そのためには風呂屋の三助を三年やって、あらゆる体格を覚え、髪結いの弟子を三年やって人の顔形を知り、最後に焼場の隠亡となって三年間、人の骨格を研究し、そして現在に伝わるところの一大法相の聖典“南北法相”を編み出した人であります。」






不幸を最小限に止めることこそ人相・手相を観る上でのメリットなのである。
「不幸よ悲しみよ、どうしても逃れられないならば、せめて私を賢くせよ」
とは、評論家の故・亀井勝一郎の言葉である。








実は、この線(太陽線)に限って出たり消えたりする。つまり、幸運の女神がぴったりくっついている時にはくっきり刻まれており、ひとたび衰運となるや消えてしまう。では、消えないためには、あるいはまったく無くとも刻まれるようにするにはどうするか。心の持ちようが問題。いつも、“心に太陽を、唇に歌を”を信条としていれば、この線はぐんぐん勢いよく刻まれるのである。






昨今のようにバブルがはじけ、不況が長引くと、サラリーマンは野心など持たずにじっと死んだふりをきめこむのも一つの生き方であろう。





以上
またね***



2011年8月19日金曜日

人生の波に乗る人乗れない人(食べる読書42)



深見東州氏、植松愛子氏、に師事する著者が人生で起こる事柄に対しての考え方を霊界や仏教的な視点から書いている。




ほとんど霊界や仏教に関して勉強していないので、この本で物事に対する新たな見方を知ることができた。




特に、すべては陰と陽のバランス。例えば料理はあえて手を加えない部分があるので、「料理する+料理しない=料理」。

一流の人はだれよりも多くの失敗をしている。そこから、「こういうことはしてはいけないんだな」と学んでいく。世間で注目されるのは、成功した一つの作品であるが、構想や習作、試作などそこへたどり着くまで、どれだけの失敗や行き詰まり、葛藤があったか。だから、「成功+失敗=成功」となる。





他にも読んでて新たな視点だったり、子供のころはそうだったが気がつけば失っていた考え方など、自分の視野の狭さを感じるとともに、世界の広さというか仕組みというかこれまで目を向けてなかった世の中、自分への見つめ方を知れたので清々しさも感じる。




面白いです。




以下抜粋



「誰にも知られずにいた花」は誰にも知られないけれど、私たちは「誰にも知られずにいる花」があることを知っています。そこに精神的な意味が生まれるのです。
ひとたび、それが人間の精神や行動と結びついて語られると、突然大きな光を持って私たちの心に迫ってきます。






オーケストラの演奏には、普通に聞けば聞こえない音が含まれていることをご存知でしょうか。
この耳では聞こえない音を、私たちは体と心のどこかで受け止めています。これが微妙な奥行きや深みなどを与える、いわば音楽の隠し味になっているわけです。





そのものの持つ真の価値は、後世になってみないと分からない、また、視点をどこに置くかによって初めて分かるという例はかなりあります。






よく「自然な状態」と言いますが、これは八割が「自然」で、二割方不合理な要素、つまり不自然が混じっている状態を言うそうです。十割すべてが合理的というのは決して自然ではなく、どこかに割り切れない部分があるのが本当に自然な状態なのです。





来世に持ち越せる三つの宝。学問、芸術、信仰心の三つを深めていくことは、己を磨いていくことであると同時に、運勢を改善することでもあります。そしてこれらは、日々の生活の中でも磨いていくことができます。





一つのことを貫いていくこと、これが信仰心なのです。
そして、もう一つの側面から言えば、どんな相手に対しても愛の想いを出せるようになれば、これも立派な信仰心のあらわれということができます。







誰にでも、いくら精進努力してもなかなか良い結果が出ない時期というのがあります。いわゆる衰退期ですが、実はその期間こそ自分の内面がどんどん磨かれ深まる大切な時なのです。






忍従と忍耐は違うということです。観念的な正義感や道徳で自分をしばり、表面を取り繕いながら耐え続け、心の中でもがき苦しんでいるのは単なる忍従です。本当の忍耐というのは、内面があくまで明るくなければなりません。そのためには悟りが必要ですが、明るく耐えるために、いろいろ想念を工夫することが大切です。
つまり、「耐える+明るさ=忍耐」、これが大切なのです。






物事にはすべて両面があります。今の自分があるのは自分の力、つまり自力だけではなく、何か別の力、すなわち他力も働いているのです。






人生にとってポイントとなる部分は、自力よりむしろ他力に負うところが大きいのではないでしょうか。






今世で大きく成功しているスーパースターというのは、必ず前世で多くの人を救っています。その徳分が今世で才能を発揮できる環境となって現れているのです。






本当に愛があれば、人々を幸せにしたいという切なる想いがあるなら、必然的に己を磨いて実力を蓄えるという方向にその想いが向くはずです。
求道、すなわち真理を探求し己を磨くことにより、人間性が豊かになり、叡智が備わり、そこで始めて多くの人を幸せにすることができるようになります。




愛と真心をもって、仕事や社会、家庭生活の中で、学問、芸術、信仰心を深める努力をしていくこと。少なくとも人に迷惑をかけない人生、すなわち、自分のことはすべて自分で(もちろん他力も使って)解決できることが第一歩です。








守護しないことによって何かを教えている場合もあるのです。







同じ答えが三つ重なったら守護霊のメッセージと受け取ってよいようです。投げかければ投げかけるだけ答えが返ってきます。従って、神仏や守護霊から答を間接的に受けるには、まず発願をすること、次に実行し、そして何でも投げかけることが大切です。







「天道人を殺さず」という言葉がありますが、世のため人のために自分の時間と労力を割いて、社会に貢献している人がいれば、神や回りの人が放っておきません。必ず、捨てた分だけ神様は補ってくださいますし、協力者が現れたりして、人の何倍も効率よく物事が進んだりします。
このような良い循環ができるまで、多少時間はかかりますが、誠の心で突き進んで行けば、必ず道は開けるのです。








地獄に落ちることを恐れていては大きな仕事を成し遂げることはできません。多くの社員の生活を守るために、冷徹な決断を下すこともできなければ、大きく世の中の役に立つこともできないわけです。
つまり極端にいえば、地獄に落ちるのを覚悟で善を貫かなければならない場合もあるのです。









能力に関しては一朝一夕で伸びるのは難しい。しかし、すべてがこさせるような環境、これは他力で整っていく。そうなると一見不可能にみえたことも可能になって来るものです。







素晴らしい教えを聞いたあと、それをすぐ実践するかどうかでその人の本質が分かります。







謙虚に学んで、ある程度体得し、深く咀嚼して、いろいろな角度から研究した話であれば、聞いた人にも必ず喜びや感動が伝わり、また何らかの悟りがその中にあるものです。







どのような境遇に立たされてもじっと堪え、愛と真心を失わずに、その時に自分ができる精一杯を黙々とやり続けていく。
これのできる人は、かなり大本ができあがっていると観ることができるでしょう。






物事の外相に囚われるのでなく、志を立て、大本に目を向けていることが大事です。物事の成否、成功、不成功に捉われるのではなく、前向きか、自分の魂が愛に満たされているかどうか、燃えているか、努力しているか、清々しいか、明るいかなどに目を向け、常にチェックしていくことが大切です。







何でも一流のものに触れたら、その背後の奥深い気を吸収するようにすると、自然な形で、総合的なレベルアップを図ることができるようになるのです。





以上
またね***



2011年8月18日木曜日

社長のための時間の使い方(食べる読書41)

屁理屈無し 社長のための時間の使い方

これまでそんなにだが、数冊は時間管理に関する本を読んできた。




その中でもこれは抜群に説得力がある。本質を突いているし、根本的な考えの転換が必要ということを痛感する。







私自身、時間管理は最も苦手なもののひとつである。だから、ついイライラしたりどうすればいいかわからなく途方にくれながらもとりあえず思ったことをやることの繰り返し。





結果、10年前とほとんど変わらず…。





本書の価値観で時間をコントロールする。




これが目標。




自分のダメっぷりを披露するより、本書の「ここは!」と思った部分を抜粋し、ときどき見返したい。




以下抜粋





訪問予約のような簡単なコミットメントでさえ守れないような大人は、相手と相手の時間が大切ではないと言っているのではなく、自分と自分の時間も大切ではないと無意識のうちに示しているようなものだ。要するに、そういう人間は、自尊心があまりないと言っているようなものなのだ。






肉体的にも精神的にも試練となるのは目に見えていることに対し、万全の準備をするだけの自制心があったなら、彼女は大学の人々から尊敬され、まずは生き延びることができたと思う。





あらゆる勝者には明らかに自己鍛錬した跡が見てとれる






最終的に手に入れなくてはならないのは、厳密に管理され、定期的に使用される、自分にとって有用な何らかのリスト作りのシステムだ。






目標なくして、目標とのつながりなくして、生産的にはなり得ないというのが私の定義である。達成度を測らずに生産的に離れないというのが私の定義である。








自分の金を何に使ったのか覚えていない人間が永遠に貧乏から抜け出せない運命であるように、自分の時間を何に使ったのか覚えていない人間は永遠に非生産的なまま生きる運命なのだ。しかも、しばしば貧乏になるのも運命だ。




理想をいえば、自分の1日を、起きてから寝るまで30分単位でスケジューリングすべきである。






100名を超える一世の億万長者企業家たちと、親しく、個人的に、実地に仕事をし、ビジネスを広げてきたという点においては、私はほかに類を見ないのではないかと思っている。







このチャンスに満ちた国で、良い暮らしができていないのは恥ずかしいことだ。私は貧乏であることに名誉など感じない。一時的にお金がないのは恥ではないが、一生を通じて貧乏を受け入れるのは恥である。








豊かな人とは時間の使い方がうまい人である






自分に大きな喜びと充実感をもたらすように時間を使おうとする人、自分が心から面白いと思う仕事をしようとする人、自分の仕事仲間を選ぼうとする人、仲間に何らかの貢献をしようとする人は、口座の預金残高に関係なく、毎朝豊かな気持ちで目覚め、毎晩豊かな気持ちで眠りにつく。







専門化すれば、ほぼ間違いなく付加価値がつく。さらに、情報の流れを制限できるようになる。






どんな分野で起業するにせよ、スペシャリストは十中八九、ジェネラリストよりも稼いでいるということは心に留めておくべきであろう。


屁理屈無し 社長のための時間の使い方






自分の時間や努力に依存するビジネスと収入を減らすために、自分はどういうプランに取り組んでいるだろうか?







5%の人間がお金の95%を得ているという事実にはあれこれ理由があるが、切迫感の有無もその一つだ。私たち、その5%に入る人間は95%の人々にはない切迫感を持ち合わせている。







この“空白の原則”は長らく私の役に立ってきた。やっかいで手がかかる顧客にノーと言ったり、取引をやめるたびに、もっと良いビジネスがすぐに現れ、そのあとを埋めてくれるのだ。






(超常現象は、)まず、すでに超生産的な人に起こるように思えるということ。次に、価値ある明確な目標をすでに一生懸命追いかけている人に起こるということ。3番目に、高い業績を上げている人たちと付き合うことで“ステップアップ”してきた人に起こすように思えるということ。4番目に、一つの“急激な変化”から始まることが多いということだ。あなたは感度を高めてその変化を認識し、大いに生かさなくてはならない。








自分の生産性を最大限まで高めるためには、とにかくすぐにおしまいにし、保存し、クリアできるようにならなければならない。一度に1つのことだけに、目の前にあることだけに、自分の心のすべてを注ぐためだ。







私たちが追い求めるのは効果であって効率ではない。






時間節約の素晴らしいコツを1つお教えしよう。
迷ったらやめろ、である。







自分が決心することがとても重要である。あなたの値段を決めるのはあなただ。他人がそれを“納得”し、尊重するかどうかを決めるのもあなたである。







本当のことを言おう。人間に与えられた権利はチャンスだけだ。ただし公平なチャンスすら与えられてはいない。とにかく何もない。あるのはチャンスのみである。






成功は別に大した神秘ではない。話を複雑にしたがる、そしてすでに申し上げたように、良い言い訳をみつけたがる多くの人には、その点が実に期待はずれなのだ。だが、成功とは、あなたが時間をどう使っているのかを反映したものに過ぎないのである。






正しいことをすれば、他人から評価を得、自尊心が生まれ、自分の力が蓄えられていくのです。






最高に生産的な活動をしたいのなら、自分が並外れて上手にできる少しのことに、できる限る時間を差し向けることです。嫌なことやあまり上手にできないことをやらずに済ませることなど無理です。







自分に素直になることではないでしょうか。何かを引き延ばしているなら、引き延ばしていないふりをしないことです。そして、他人の優先順位に左右されるのではなく、自分の優先順位をしっかり定めて人に言い続けることも大切です。







決断する数が多いほど、そして早く決断するほど、あなたはより生産的になれます。








現実はこうだということをしっかり把握しておけば最も成功し、どうあるべきかということに振り回されると最も成功しない、ということを私は発見した。






企業家になる目的とは、本当に本当に金持ちになること。そして、あなたが取ってきたリスクと責任に対し、まさに自分が求める人生とライフスタイルで報いることである。





以上
またね***
屁理屈無し 社長のための時間の使い方


2011年8月16日火曜日

心にきた言葉集32

「俺たちが恐れているのは、自分の計り知れない力だ。


自分の暗部でなく輝きが怖い。


でも、周囲の人を不安にさせないよう輝きを隠してはダメ。


俺たちは光り輝くべきなんだ。みんな同様に。


俺たちが明るく輝けば、みんなも明るく輝く。


恐れから解放されれば、みんなの恐れも消える。」












一度はバスケットをやめた生徒が部活に戻って仲間と勉強しているときにコーチに向かって言った台詞。




心に響いた。




自分の輝きを恐れているという言葉。




その通りだ。




たいていのことはできる。のに、・・・




周囲への不安を理由に自分を押し籠めている。





自分が周りを照らす。





照らされるのではなく、





自分の力で自分の生きる「場」を造る。





よおおおおおおおっし、





ちょっと光ってみようかな!!!




以上
またね***




2011年8月15日月曜日

現代医学に残された七つの謎(食べる読書40-2)





本書の中で著者も触れているが、現在の医学をはじめとする学問はスポーツへと堕ちた気がする。



ちょっと言いすぎかもしれないが、そう思ってしまう。




科学は、ある真実の有無を確かめ、それをどう活用していくかという形になっているのが現在だと感じる。そのある真実を確かめるにはそれ以外の要素が影響しないようにかなり極端な環境を人工的に作り出す必要がある。そんな極端な環境を作り出すのにはかなりお金がかかる。なぜなら極端な環境だから。これはエントロピーとも関わってくるため金がかかると考える。





つまり、予想される結果があり、それを確かめるには天才的な発想ではなく、どれだけ金を集めて誰もできないような極端な環境の中で自分だけが研究できれば、それだけでその分野で一流なのだ。




最近のノーベル賞などは紙と鉛筆だけで新たな概念創出というのはなく、どれだけ効率的に実験を行えるかの能力が金を集めて、それによる確かな実験結果であろう。






本書は各謎に対して科学者たちがどう研究したかの歴史から説明していて、その謎の説明に至るという形をとっている。それぞれの謎に対する著者の考えは示されてはいるのだが、…物足りない。それじゃあ、ただの教科書だし、教科書にしては中途半端。




謎というからには、それに対する科学者たちの謎解明への意欲もほしかった。なので、一つの謎に対して複数の科学者の意見がほしいところ。



謎を通して、医学界の現状、それを取り巻く環境が本書で、少しだが見えてきた。その結論として、新たな時代の扉は科学によっては開かれないだろうということを感じた。



以下抜粋



自然科学を生んだ欧米の人々の、物事を解明しようという熱意と執念を感じずにはいられない。彼らは政府の補助や指示などなくても自主的に横の連絡をつけ、スポンサーをみつけ、目的を達するのである。一方わが国では、これまで自主的に医師、鍼灸師により行われた鍼の治療効果のテストでは被験者数が二十名を超えたものはなく、テストの内容も欧米のように客観的なものではない。







この感覚神経の電気インパルスの自律神経への「飛び移り」は極めて重要な知見である。なぜなら、大脳皮質の精神活動に直結する体性神経系と、精神活動とは無関係に身体機能を調節している自律神経系とを連絡する神経の連絡路は、解剖学的に知られていないからである。





一般に、ある仮定された構造の実在とその生理学的な働きは、解剖学や生理学の研究により証明可能であるが、逆にある仮定された構造やその働きが実在しないことの証明は原理的にほとんど不可能なのである。いくら研究を重ねてその実在を否定しようとしても、「将来実在が証明されるかもしれないではないか」と反論されればそれまでで、議論は平行線をたどるばかりである。実際に現在も「経絡路は実在し、神経回路とは無関係である」との主張が鍼灸師によりなされている。






脳波記録そのものが抱える複雑性、あいまいさ性に加えて、物質の効果の脳波による判定の際、実験動物の状態が過度に単純化されており、さらにこの単純化にもかかわらず、その睡眠に及ぼす効果は劇的とは言い難い。以上は実験法の問題である。






動物の体内には独自の概日リズムを作り出す体内時計があること、またこの概日リズムは光照射によってリセットされえる、つまり再認識されたのちスタートすることがわかる。






体内時計はこのように広い意味での化学反応に依存しているにもかかわらず、温度変化の影響をほとんど受けないことがわかっている。一般に化学反応の速度は温度の上昇とともに増大する。・・・
体内時計ニューロン内の一連の化学反応速度が、フィードバック機構により調節されているとはいえ、温度変化に対して一定に保たれているのは驚くべきことである。





じつはメラトニンの効果は、いくつかの睡眠物質探究グループによって既に1960年代から実験動物やヒトで調べられており、きわめて深い睡眠を起こすことなどが示されていた。しかし彼らは、睡眠が深すぎるので異常であるとか、投与量が多すぎるなどの理由でメラトニンにさして注目しなかったのである。この事実は、研究者グループ間の溝、偏見、排他性などを考えさせてくれる。





ある仮説を立てて長年研究を続けていると、この固定観念から逃れることが困難になることがわかる。





実験的に存在が確かめられている細胞あるいは神経回路でも、解剖学的にその存在を示すことが困難な場合がある。したがって重要な働きをする神経回路であっても、実験的にも解剖学的にも存在が確かめられない幻の状態にあるものが多数存在するのである。体性神経系と自律神経系を連絡する神経経路もそのようなものの一つである。







電子顕微鏡の解像度は極めて高いが、観察すべき試料の構造は、固定、脱水、包埋などの処理のため、生きていた状態とは著しく異なっており、生きた筋肉でのミオシン頭部の運動の研究には不適当である。






自然科学の研究分野は、一人の天才によって一挙に切り開かれる。これをブレークスルーと呼ぶ。すると多くの研究者がその分野に群がり、盛んに研究を行うがやがて壁に突き当たり、目覚ましい進歩の見られぬまま時が経っていく。自然科学のこのような発展段階をノーマルサイエンスという。







実際の人体はこれよりはるかに多数の、異なった有機物質から構成されている。また体内のタンパク質の過半数は糖類と結合した糖タンパクである。しかし糖類の遺伝情報はDNAには書かれていない。さらに生体にとって最も重要な細胞膜の主成分は脂質であるが、この遺伝情報もDNAに存在しない。







多くの場合、遺伝暗号欠落動物は卵子から成長した後、期待されるような異常を全く示さないようである。この結果は明らかに、動物が成長する間に遺伝暗号の欠落を補うメカニズムが働き、将来起こるべき障害を打ち消してしまうのである。これは生体の持つ驚くべき能力と言わねばならない。われわれ自身も遺伝的欠陥を持って生まれ、これを補うメカニズムのおかげで生きているのかもしれないのである。

しかし、このような研究者の期待に反する結果が得られると、生体の神秘がまさにベールを取り去り顔を見せかけているにもかかわらず、研究が失敗であったとして研究者は何の発表も行わない。反対に予期した障害が動物に現れると、研究者は欠落させた遺伝暗号の機能的意味が解明されたとして、得々と成果を発表するのである。このようなことでは、たとえ予期した障害が現れても、短絡的に遺伝情報の欠落と結びつけてよいのか考えてしまう。







自然科学とは、仮説を立て、実験によりその正しさを確認し、さらに仮説を立てる…という過程の繰り返しにより、どんどん研究を進歩させてゆくのが常道である。しかし、この常道はいつもうまくいくとは限らず、行き詰まりに陥ることもある。そのような場合、その研究分野は近縁の研究分野の進歩から取り残され、いわば置き去りにされてゆく。







研究の最前線として現在、脚光を浴びている脳の働きと遺伝暗号発現の謎。私はこれらの分野の研究の部外者であるが、近年のこれらの分野への「トップダウン」による巨費の投入に疑問を感じている。この分野の研究法はほとんどが外国から導入したものであるが、政府によるバランスを欠いた研究費の配分により、一部を除く大学では研究室の予算は激減し、独創的研究がその芽を摘まれている。そして、これらの分野の研究は停滞しているとしか思えないのである。



以上
またね***


一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...