2017年5月6日土曜日

巨悪の正体(食べる読書130)



日々実感しておりこんな社会の中でどう生きていくか、が課題ではあった。


このような本が出るほど日本の白痴化は進んでいるんだな、と改めて実感した次第です。



自分を通して人間がクソであることは実感していてそのクソっぷりとも依然と比べればうまく付き合っていけるようになってきたかなあ、と思っていた。



しかしながら、落ち込んだ。ここ最近ないほど、この本を読んで落ち込んでしまった。



覚悟のなさに対してだ。




この本を読んで自分の無知さや考え方に対しても見直す機会となったが、
そんなことよりこの時代・社会に生きて何をするのかが定まっていない自分の現状に対して落ち込んだ。



このブログも結局マスターベーションの域を出ていないなあ、と実感しつつその後に清々しく行動できることを期待しよう。



善悪、正邪も合わせのめる人間を目指そう。


悪をもって善を成すように。



全ての基準をぶっ壊して自分ですべてを一から造れるように。




このような本が出ること自体恥と思うべきだ。


情けない。



誰一人自分の足で立てないのか。



悔しいし情けない。



だが、この悔しさを動機とはしない。



感情によってできる志など存在しないと決めたからだ。




自身のカスさを目的達成のために利用できる人間になろう。



以下抜粋


情報が世の中を作り、噓の情報が流されているとしか考えない人々こそ、実はグーミンの域を出てはいないのである。


我々は子どもにクスリを与える社会を作り、社会毒だらけの食べ物が売られている社会を作っている。毒まみれで全く栄養のない給食を平気で与え、子どもの才能をすべて破壊するための画一教育を押しつけ、放射能を与え、戦争をするような国づくりを進めている。


根底からシステムを変えるしか方法がないのだ。


陰謀論は社会毒の初歩を理解できた後に、「なぜこの世の中がこうなってしまっているのか」という社会システムを理解するうえで欠かせない考え方である。


ショックドクトリンや軍国や独裁や情報操作への模索は、より強く進められており、アメリカから無駄で買わされたオスプレイはそれを象徴している。


最初に考えるのは「現実」がどうであるかということ、そして「歴史」はどうやって繰り返されてきたのかに、目を向けることである。


ジンルイの歴史上の病気の変遷も、年代統計的なことに対する説明も、脂溶性毒もミネラル毒も、論文はどういう形で嘘として作られていくかも、人々が科学的根拠としてすがっている二重盲検試験がいかに噓かも、何も語ろうとはしないし語れない。


いわゆる災害心理ケア、災害時の睡眠薬や安定剤の導入は、災害時だけでなく災害後に多くの弊害をもたらし、災害後に自立するチャンスを激減させてきた。これらは麻薬であり、心理ケアは実は宗教勧誘と依存形成みたいなものである。


代替療法で末期ガンが治ったということはよく見かけるが、三大療法(特に抗ガン剤や放射線治療)で末期ガンが治ったという話は見ない。


現実を見ながら「歴史」を振り返り、陰謀論的構図や概念について深く理解したうえてえで、また「現実」に戻ってくることこそが陰謀論的概念を役立てるうえで必須なのである。


陰謀よりも「歴史」よりも重視しなければいけないのは、国民の思考、市民の思考、奴隷の思考がそれを作り上げたということなのである。


いま、政治的にすべきことは何なのか。
それは日米地位協定や日米合同委員会その他、奴隷国であるシステムを国民自身で破棄し、その手先である官僚やメディアなども国民に真実を曝し、真の意味での富国強兵を推し進めることだろう。
大東亜戦争時代、日本は悪いこともしたが、東南アジアの人たちには押し並べて好感を持たれた。そして、その第一の理由は欧米植民地主義とアジア人を奴隷から解放したことだった。それを現在に適応するなら、超富裕層だけが儲かる経済政策をやめ、税金年金をやめ、市民レベルで経済が循環して儲かるシステムに変え、国力を増強しアメリカ軍に頼らず自衛隊を強化、思いやり予算などすべて破棄して国軍につぎ込めば良い。
そして薬などの無駄な医療費を削減して真に治る医療と福祉に注ぎ、原発は封鎖して代替エネルギー事業を進めて汚染地域は閉じ込め、司法力は強化すると同時に公開原則も強化、通名廃止し、二世議員も禁止、自立した国を作るために一次産業を強化することこそ、現代の日本人がやらなければいけない植民地主義からの解放運動である。

本当の量子医学は古代医学と同様、すべてオーダーメイドであり個別に対応できる。


「現実」の結果と既存科学のどちらを重視するのか、本来は言うまでもないことである。


世の中で混乱が起こるとき、いつも善い人のふりをする第三者が対立する双方に介入し、内ゲバのようなものが起こるのが特徴なのである。


すべて探知できるシステムを持っていながら、ニュースにはここぞというタイミングでいさかいを煽っていることさえ知らない。


ニュースでいさかい報道が行われる
↓
攻めてくると恐怖する
↓
きれいごとを言い、日本を守るという売国奴に手を貸す
↓
最終的に自分が死にやすい状況を作る


人間は自分の心を支え、自我の崩壊を防ぐため、事実を見るよりも自分を守る方を優先するように設定されているのだ。


日本の社会毒的実情は添加物も世界一、農薬も世界一(もしくは世界2位)、放射能も世界一、電磁波も世界一、CT保有も世界一、病気になる率も世界一、奇形や種が維持の発症も世界一(もしくは世界2位)、医療も福祉もカス丸出しでもそれを理解できない



もし本当に俯瞰しているなら、「俯瞰して見る」などという言葉は決して使わない。


自分がカスでありバカであり、データは常に作り変えていくというデータを入れることで、執着や脅迫や正義感に溺れる自分ではなく、好奇心と発展心にあふれた自分を作り出していくことが重要である



人間はそもそも現代病にならないのだ。野生動物もまた現代病にはならないし、先住民は全くと言っていいほど虫歯はなく、先住民には全くと言っていいほどガンがなく、先住民には全くと言っていいほど生活習慣病がなく、先住民には全くと言っていいほど膠原病がなく、先住民には全くと言っていいほど遺伝病がない。このことが、1900年代の先住民研究で分かっている。
もっと言えば100年前と今の日本でさえ、全く病気の質が違うことはわかっているのだ。100年前には現在でいう「医学」自体が存在しないし、非常に偏った食事をしていたのに、当時の人々は外傷や感染症にさえならなければ、現代病は少なかった。


現代西洋医学は外傷や感染症の側面だけは進歩したが、ほかの病気についてはむしろ治さないようにしているのが現状である。



物質の精製が肉体を滅ぼし、精神の精製品である愛と癒しが心を滅ぼしたと言えなくもない。


筋力トレーニングは医学的に言うなら筋肉を破壊する行為であり、一度筋線維を切ろうとする行為でもある。そうすると人間は衰え進歩しなくなるかというとそうではなく、筋肉を破壊すればより強力な筋肉が生み出されるというシステムになっている。
実は精神にだって似たようなことがあるのは、皆さんも知っているのではないか。


本質的に言うなら、あなたが本当に嘘をついていないとすれば、すでにその物事は成就しているはずなのだ。


世の中にはどんなにきついことがあっても、強くたくましく生きている人がいる。


依存症は自分の中にある深層心理を全く見ることが出きない存在なのである。
それに比して自立とは一種の執着の解放でもあり、悟りっぽいところもあるので、自分の深層心理をいつも直視しようとする。


あなたがもし真の意味で危機感を自覚していれば、きっと今の仕事などやめてしまうくらいに行動する。


インターネット上にはいろいろな社会問題の記事があふれているが、社会が何一つ変わっていないのは、私たちの自覚がまだ全くないからであり、私たちの深層心理に自分たちが気づいていないからなのだ。


自分の問題に対して責任が取れるのは自分のみである。


決断に自分の責任が伴っているからこそ、本当の意味で自分に悔いのない行動がとれるようになるのである。


人々が精神を病む理由の一つは、伝える能力のないことである。


あらゆるジャンルの教養が奴隷としてつないでおくための道具である。


あらゆるものは奴隷を奴隷であるように設定するために己自身が作り上げた、壮大なペテンでしかない。


ジンルイが「優しさ」とか「正義」などとホザイテいるから、あらゆる争いが起きているんじゃないか。


真の意味で自立している人とは、自分の軸を持ちながら多くの目的を見据える人だ。


以上
またね***

2014年5月13日火曜日

Good Luck (食べる読書 129-1)



私は、哲学が好きだ。



しかし、哲学とは何かについて深く考えたことはなかった。「Good Luck」を読んで、現時点における私の答えが出た。「哲学とは、自分の創造である」。



黒田官兵衛は、私の最も好きな武将である。その生き様や境遇、考え方にどこか愛着を感じるのである。彼は優秀であり、天下人である豊臣秀吉から天下を取れると恐れられたほどの人物である。



しかし、彼が天下を取ることはなかった。私が、彼に注目する理由の一つがここにある。能力があったのに、なぜ天下を取れなかったのか。彼を通して、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康といった英雄を観ることで、より本質が見えるのではないかと考えるからである。



現時点における私の考察は、こうである。当時の人は彼らをどう評価するか、である。人々の黒田官兵衛の評価はおそらく「優秀」、であろう。一方、織田信長はどうであろうか。「気狂い」、「何を考えているかわからない」、「評価不能」といったところであろう。豊臣秀吉は、「人たらし」、「なぜか惹かれる」、「無邪気」、であろう。徳川家康は、「ずる賢い」、「手に負えない」、であろう。




官兵衛と他 3 人の違いは、ここで浮きぼりになる。キーワードは“ルール”である。官兵衛は、ルールに忠実に従う者である。他 3 人は、ルールを創造する者である。当時の人は、当時の評価基準 (ルール) に照らし合わせ、官兵衛を優秀であると評価するだろう。一方、他 3 人に対して当時の評価基準では測れないのではないだろうか。だから、異常であるという評価しかできない。当時のルールに合わないからといって、彼ら 3 人が何も考えていないのではない。むしろ最も考えた者であり、冒頭の言葉を使えば、「哲学を持っていた」、となる。黒田官兵衛は、この本の登場人物で言えば、サー・シドである。しかし、他 3 人はこの本では該当する人物がいない。敢えて言うなら、王もしくはマーリンであろう。




社長にとって、黒田官兵衛のような社員が最も欲しいというのはわかる。それは、サー・シドのようにしっかりと準備を怠らず、事にあたるため、目的を果たすことが多くなるためだ。社員教育として「Good Luck」は最適と言える。




会社に対する理想の社員像はわかった。では、社会に対する理想の会社像とは何であろうか。その時代と社会の要請によって変わってくることは容易に想像できる。現代の理想の会社とはどんな会社であろうか。おそらく、現代の問題を解決する会社であろう。それは、次の時代を創ることでもある。織田信長や徳川家康のように、である。




重要な点はここからである。社員がサー・シドである社長にとって理想の会社は、同時に、社会に対しても理想の会社足りうるのかという点である。言い換えれば、サー・シドは、王足り得るのかという事である。黒田官兵衛は、天下を取れたのかという問題に帰結する。



以上述べてきたように、二つの能力が存在する。ルールを創る能力とそれを遂行する能力である。創業者は総じてこれら二つの能力を併せ持つと考える。上の問題は、ルールを遂行する能力に長けた者は、ルールを創る能力にも長けているのかという問いである。



その答えは、ルールを創れば遂行することができるが、与えられたルールを遂行できるからといってルールを創れることにはならないということである。よって、サー・シドは王になれないし、黒田官兵衛は天下を取れないのである。根本的に違うのである。



そして、ルールは哲学を具現化したものである。なぜここで哲学が関わってくるのか、次回考察する。



to be continued・・・



2013年1月26日土曜日

新しいあなたを作る


もしあなたが、、、

・人前に出たり、知らない人と話すとき緊張する
・少しも前に進んでいないと感じている
・実はもっと稼ぎたいけど、稼ぐことに罪悪感がある
・他人にどう思われているかが気になって行動できない
・他人の間違いが許せず、すぐイライラしてしまう

と言う様な事で悩んでいるなら、
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コロンビア大学元医学部長、
世界的に有名な形成外科医である、
モルツ博士のサイコサイバネティクスによると、、、

人間は自分で作り上げたセルフイメージ、
(自己が思っている自分)どおりに
行動するようにようになっているそうです。

そのセルフイメージは、
あなたが子供の頃、親や学校の先生などが、
あなたに対して投げかけた言葉等によって
勝手に出来上がってしまいます。

つまり、あなたはいつの間にか、
自分は人見知りだから、人付き合いが下手だから、
お金を稼ぐ資格はない、人に好かれる資格はない、
などと思い込まされているのです!

そのセルフイメージを変えない限り、
あなたがこれらの悩みから
解放される事はありません。

そんなの嫌ですよね?

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日本における第一人者である小川忠洋が、
わかりやすい言葉でその概念を
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2012年11月11日日曜日

水滸伝十九(食べる読書128)




単純に力勝負で敗けた。



戦で。



何年も何年もかけて準備してきた。砦となる梁山泊を作り、人も集まり、人材も育ててきた。



調略・謀略も駆使してきた。



小さな国と言えるほどまで形も整えてきた。



もともとくすぶっていた想いをここまで形にした。



しかし、



敗けた。





最も大切で貴重な情報とはなんだろうか?





それは自分が変わる情報だろう。もちろん良いほうへの変化ではあるが。自分の目的を達するためのだ。





その情報はどこにあり、どうやって手に入れるのか?




目的に向かっていくことでしか手にできない。そして、それを手にすることで、さらに貴重な情報へと達していく。そうやって、結果として目的を果たすのだ。






どうやら梁山泊の闘いはまだ続くようだ。



というより、ここからが本当の梁山泊が試されているのだろう。




単に一代でなせるものではない。そして、人を繋いでいるのは、血ではない、志である。



梁山泊の志が本物かどうか。




大敗したここからが勝負だ。




梁山泊の生き残りどもは、この時誰も見れない景色を見ているのだろう。




それは、よりクリアな、宋打倒への道だ。



そして、その後の新たな国の形も…。




情報を制する者がすべてを制すると思っている。



ここでいう情報というのは、単なるデータでもなくインテリジェンスでもなく、目的を果たすために必要なものを見つけられる能力とその情報をそうだと認識することをも含まれている。



うまく表現できないが、帰納法や演繹法では測れないものだ。




禁軍の全力を引き出したということ、軍だけでなく政治面などその他の面でも宋の全体を把握できただろう。



今までとは違う高みで闘える。



ここが強み。




ひとつ先の手を打てるはずだ。





楊令伝。




梁山泊が単なる反乱でなかったことが良かった。まだ、終わっちゃいないんだ。ここは、通らねばならない道なんだとわかった。




小っちゃく考えてしまったなあ…。




志。




自分の人生で成し遂げられるようなものではない。もっと普遍的で、自分が奮い立つ・・・。





真剣に、志を作ります。




宋江は死んだが、宋江が作った志はこれからも人を繋げ、生き続いていく。




人々が目指す光となっている。





俺は、絶望のどん底にある人を包み込み、一歩踏み出させる光を作れるだろうか。




さらなる高みへと人々を案内できるだろうか。




より多くの人へ、どう貢献するのか。




課題はたくさんあります。



以下抜粋


「自分たちの国が欲しいというのは、志を全うすることより、ずっと自然なことだと思う。腹が減ったので、食いものが欲しいという思いにも似ているだろうな、武松」



「私は、梁山泊を見つめている。そして、叛乱とはなにかを、考え続ける」



「戦うことは、つらい。耐えるしかないことばかりだ」



「私が死んで潰れるような梁山泊など、ない方がいい。志は、誰の心の中にもある。私が死んで、なくなるようなものではない。わかるか、私の言う意味が」



敵をどうすればいい、という方法はない。総力戦とは、そういうものだ。耐えて耐えて、敵が倒れるのを待つ。あるいは、自分が倒れる。



「腰抜けが。死なぬかぎり、負けたと思うな。それが、梁山泊の漢ぞ」



「兵たちには、絶えず声をかけてやれ。新しい国のために、志のために戦っていると、語ってやれ。死ぬなよ。勝つまで、死ぬな。すべてが尽きても、命そのもので、敵に食らいつくのだ」




戦の機は、自分で作る。相手には作らせない。



「おまえだけではないわ。秦明であろうと、関勝であろうと、そうであったろう。将軍として一軍を率いていても、中央からの命令には従っていた。つまり、最後はなにも決めてこなかったんじゃ」



「聞煥章様が、試練を与えられることです。そうやって育てられたと、本人に思わせることです」



「いかがですか。自分を失うことなく、闘うことがお出来になりますか?」
「気負わず、臆せず。そうしようと思っている」
「ある境地に、達しておられます。童貫に勝てる、少なくとも宋江殿は勝てる。そんな気がいたします」
「私が負けても、梁山泊が勝てれば、それでよいではないか」
「その境地です、まさに」



「軍人どもは馬鹿だから、信用せん。それに、豪胆そうで、実は臆病だ」



「人は、死ぬものではなく、生きるものだ。宋江殿なら、そう言われるでしょう」
「長く戦をやっていると、見事に死んでみたいと思うようになるものよ」
「わかるような気がします」
「戦は、殺し合いだ。だから、せめて意味があるものだ、と思いたい。梁山泊軍で戦えて、俺は幸せだ。宋主のために、宋国を守るために戦えと言われたら、俺は意味を見つけ出せなかったと思う」
「どこまでだったら、意味を見出せました?」
「たみのため。そこまでかな」




「おまえもな。片脚を失っても、まだ闘い続ける。そうやってはじめて、自分が生きていると思えるのだろう、と俺は感じた」
「まあ、そうなのかな。痛みを愉しんでいるようなところもあります」
「脚を一本なくして、お前、なにかふっ切ったな。そう見えるぞ。よく喋るようになったしな」



「宋江殿も、諦められたのですかな」
「あのお方に、諦めはない。私にない強さを、お持ちだ。闘えるだけ闘おう、と考えられているだろう。それが、戦で死んでいった者たちに対して、唯一できることだと」
「生きている人がいる。それは数多い。しかし、死んだ人間の多さは、無限に近いと思います。無限の死の上に、数多い人の生はあるのではありませんか?」
「なにを言いたい?」
「死は、無意味であると。だから、私は自分で死ぬことができないのです」



敗戦を、どう処理するか。犠牲を、どう少なく済ませるか。張清は、ただそれに腐心した。



「つまらんぞ、燕青。人がいつも、すべてを見せいているとは思うな」



生きることは、別れの連続だった。



人の世で生きるというには、あまりに酷いことが多すぎた。人の世で生きることこそまことの生だ、と王進は言った。それは、これほどの黒々としたものに包まれているのが、生という意味なのか。



「そうか。許されぬか」
「許さないことが、思いだという気がします」



「人にとって尊いものがなにか、旗を観て考えてくれ」
ふと、自分が生きて帰る気さえないことに、楊令は気づいた。
「死ねぬぞ、その旗を持つかぎり。あらゆる人の世の苦しみも、背負うことになる。しかし、心に光を当ててくれる」
「死んではならないのですか?」
「こうしておまえに渡すまで、私は生きていたのだ」
「死にません。もっと、苦しんでみます。光が、ほんとうに当たるかどうか、生きることで確かめてみます」



光はなくても、生きてみせる。どこまでも、生き延びてみせる。
生き延びた果てにも光がなければ、この世に光などないということだ。宋江の血が染み込んだ旗にも、なんの意味もないということだ。



以上
またね***




2012年10月10日水曜日

心にきた言葉集33






「士君子、すなわち国家有為の人物にはできることとできないことがある。君子は他人から尊敬せられるような礼儀道徳を自ら修め行うことはできるが、他人に必ず尊敬させるということはできない。他人から信用せられるような人格を作り上げることはできるが、他人に必ず自分を信用させるということはできない。他人に使われるような才能をみがくことはできるが、他人をして必ず自分を使わせるということはできない。だから君子は自分の行いの正しく修まらないことを恥ずかしいとは思うが、他人から恥ずかしめられることを恥とは思わない。自分に真心のないことを恥ずかしいとは思うが、他人から信用せられないことを恥とは思わない。自分に能力のないことを恥ずかしいとは思うが、他人に使ってもらえないことを恥とは思わない。だから栄誉に誘惑されず、非難されることを恐れず、道徳に従って行動し、正しく我が身を修養し、周囲のものごとのために動かされない、これをまことの君子という。「詩経」に、”穏やかでつつしみ深い人こそ、すべての徳の根本である”というのは、このことをいうのである。」



これは、荀子の非十二子篇のなかの言葉である。



日常で目にする文言や言動など、ほとんどが商業的文脈の中で発せられるものであるのが現代ではないだろか。



つまり、人の道を説く言葉は日常生活の中にはちりばめられていないのだ。



そんな時代に生まれ、どう歴史的役目を果たす人物へと自分を育てられるか。



その答えの一つが古典から学ぶことだ。



上の言葉は、心にきた。と同時に、指針を示してくれ、多少なりとも、私の判断というか価値基準をはっきりと言葉にしたものだと感じた。こういう人間となりたいと思い続けてきた。なかなか現実化できてはいない。覚悟だったり、こう生きると決断していないのかとも思った。



自由とはおそらくこういうことだ。



すべての基準は己で決める。人がどう受け取ろうが、それは相手の問題だ。こちらは関係ない。



自立。



こんなにすごい考えや思想が古典にはあるのかと、いまさらながら古典の普遍さに驚くばかりです。



これからも学ばせていただきます。



よろしくお願いします。



以上
またね***


2012年10月2日火曜日

水滸伝十八(食べる読書127)





最後の闘いが始まった。



漢たちが最後を全うしていく。



秦明が死んだ。



林冲が死んだ。




林冲が死ぬとは思わなかった。



死なないやつだと思っていた。




他にもそれぞれの死を迎えた。



もう、小細工なんてしている時ではない。いまある力を出しきるだけだ。真正面からのガチンコ勝負。




すべてを懸けての闘いが人生の中であるのだろうか。



真正面から、しっかり受け止め、見つめ続けて成し遂げる闘いはあるだろうか。



がむしゃらに何かにむかったことはあるだろうか。



自分を律し、この時のために準備してきたという闘いはあるか。




人生に意味を与える大事なことだ。






以下抜粋



「しかし、嫌いだよ、俺は。宋江殿には、なにかしら大きなものを感じる。李俊殿には、頼れるものがあるし、花栄殿は信頼できる。そう思わないか、張順?」
「俺たちは、俺たちの上に立っている人間のために、闘っているのではない」
「梁山泊のために、闘っているか?」
「いや、それも違う。心の底を見つめてみると、わかる気がするのだ。誰のためでもなく、自分のために闘っているのだとな」



やがて、「替天行道」を渡された。
石勇は、それに心を動かされたわけではなかった。それを石勇に読ませようとする時遷が、たまらなく好きになっただけだ。



「こわいものは、仕方がない、しかし、このこわさが、いままで俺を生き延びさせてもきたのだ」




「人が考えるより、馬はずっと勇敢であり、同時に感じやすい。それを人がわかってやることによって、傷も癒えるのだ。心の傷の方だが」




「時が、それほど都合のいいものだと思うなよ、林冲。眼の前から消えると、それが無上に大切なものだと思う。その思いは、消えぬよ。若い男と逃げて、死んでしまった妻でさえ、私は忘れておらぬのだから」




負けたと思っている兵に、気を取り直させる時も必要だった。負けたことがない兵は、しばしば負けながらも生き延びた兵より、どこか脆いところもある。



大敗しても、まだ優勢であるというのは、童貫にとっては大いなる皮肉であったが、考える時を作ることはできた。




「私は、私にできるかぎりの戦をやります。それ以外に、いま申しあげることは、なにもありません」
「それでいい」




「わしは、山で朽ち果てるはずだった。夢もなく、恨みや憎しみも呑みこんで、人知れず消えていくはずだった」
「それが、派手な余生になったな、解珍」
「それよ。人生を、もう一度生き直したような気がする。そんなふうに思える人間など、どこにもおるまい」
「羨ましいかぎりだ」




自分たちが恐怖を感じているのは、闘わずに負けることなのだ、丁得孫は思いはじめた。死ぬのがこわいのではない。闘わないまま負けるのが、こわいのだ。




具足を着けるのは、好きではなかった。それ以上に、志というもので心を覆ってしまうのに、馴染めなかった。自分が梁山泊に加わったのは、兄貴分の李俊に従ったからだ。




国の不正を糺そうとするなら、梁山泊にいる者はいかなる不正も犯してはならない。聚義庁が追及をしないのなら、自分が罰を与えてやる。




「宋江殿に傷をつけてはならない。失敗から憎まれることまで、すべて自分で引き受ける。それが呉用殿でもある。実戦の指揮を離れた時から、自分はそれでいいと思い定めたのだろうな」




宋軍の兵にも、家族はいる。殺されれば、当然その家族の心には、梁山泊に対する憎しみが芽生えることになるのだ。




人は、さまざまなものを、克服して生きる。自分が克服しなければならなかった、最大のものは、宦官であったということだ。




無抵抗の人間を斬ることに、阿骨打はいくらか気後れを感じているようだった。これまでも、そういう面を何度か見せている。
言い訳のように、あるいは自分を納得させるように、そういうことをいう阿骨打が、楊令は嫌いではなかった。しかし、これからもっと多くの人間を、殺さなければならなくなるだろう。
新しい国を作るとは、多分そういうことなのだ、と楊令は思った。




人の長い営みも、呆気なく灰燼に帰す。戦とは、そういうものでもある。軍と軍がぶつかり合うのだけが、戦ではない。




戦が好きだった。強い者を相手にして、完璧な勝利を収めるのが、なによりの快感だった。しかし、さらにその心の奥を探れば、恐怖があるのかもしれない。負けるかもしれないという恐怖。死ぬかもしれないという恐怖。
そしてそれを克服した時、はじめて自分を男だと感じることができる。
それは心の奥の奥に潜んでいるもので、自覚することは稀である。自覚したとしても、すぐに心の奥へ押しこめてしまう。



「頼むから、乗って逃げてくれ。生涯に一度ぐらい、女を助けた男になりたい」
「林冲殿」
「俺は、女の命を救いたいのだ。女の命も救えない男に、俺をしないでくれ」




「戦には、経験も必要だが、もっと必要なものがあるのですよ、呉用殿」




「大きな組織になったものだ、梁山泊は。ひとつの国のかたちをなしている。それをなすだけでも、想像を絶する苦しさがあったろう。そのうえ、北と南にも眼を配っている」
「私は、呉用殿のお躰を心配していますよ、いつも。私は戦のことだけ考えていますが、戦をする力が梁山泊にあるということは、忘れまいと思います。その力を作られたのは、呉用殿です」




「罵る相手が、いなくなった。私を罵倒する者もおらん」
林冲と公孫勝は、どこかで認め合い、通じ合うものを持っていた。鈍い自分にも、それぐらいのことはわかる。



以上
またね***


2012年10月1日月曜日

水滸伝十七(食べる読書126)




想いを形にする。



私は、そのために生涯をささげたいと思う。




どれだけ自分の思想が現実化でき、それが人々を成長へと導くか。虚なのか実なのか、この目で確かめたいと思う。マルクスの社会主義は、虚であったのだろう。






闘いが最終局面に入った。



関勝が死んだ。



好きな人物のひとりであった。




董平など、他にも多くが死んだ。




闘いとは違った視点での、局面の推移がこの巻にあると感じることがあった。




魯達と盧俊義が死んだことだ。




この二人は、宋江の「替天行道」を形にし、いまの梁山泊を形にしてきた立役者だった。




この二人が死んだ。




時の移り変わりを感じるし、梁山泊のあり方にも多少の変化があるのだろうと感じる。




0から1にはした。これからは、どれだけ大きくしていくか。その本質は変えずに、だ。その役目はいまの人たちが担うことである。呼延灼、張清、史進、燕青などだ。




魯達たちは土台をつくった。われわれが生きるこの大地に根差した生活を実現するため、宋という国を支える民の中に根を伸ばし続け、組織立ててきたのだ。出発はこの足元にあり、これがそのまま基本であり、王道でもある。




思想を形にするために生涯をささげ、そのために生き、そのために死んだ。




敬意を払わずにはいられない。その健闘をだ。成し遂げたのだ。そして、しっかりと次の人材も育っている。この偉業は、ほかの者では成せなかった。




宋江や雷横とは違った敬意の気持が彼らにはある。




感謝。




以下抜粋


「俺のやることのどこかに、穴があるか?」
「穴などない。しかし、穴は自ら穿つものだ、と考えている人間はいるかもしれん」




しかし、ひとつずつだ。ひとつずつ進めていくしかない。




自分の人生が、自分の考え方ひとつで、意味のあるものになるのだと、心に沁みこむようにわかった。あの時のことは、忘れられない。




実戦がはじまれば、調略戦はあまり意味がなくなる。




「われらはみな、梁山泊の民。いまは、力を合わせて宋と闘っている。やがて、勝つ。私は信じているが、それを見ることはできん。私の寿命が、尽きようとしているからだ。多くの者が死んだ。それ以上に多くの者が入山してきた。激しい闘いは、これからも続く。ともに戦えないのは無念であるが、わが魂魄はこの梁山泊にある」




ひと時の感情で決めるな。あらゆることを考えて、決めるのだ。




呂牛という男の弱点は、自尊心なのかもしれない、と燕青は思った。追いつめられた時、人はそれまで隠していた本性を出す。




「ならば、喋ることのないまま、おまえは毀れていく。喋ってはならないものを抱いたまま毀れるのと、どちらがつらいのだろうか?」




「俺は、志を抱いて生きた。志のかぎり、生き続けたかった。しかし、ここで倒れることになった。楊令、この無念さがわかるか。俺は、すべてを達観して、おまえと語ったつもりだった。しかし、心の底の無念さだけは、語らなかった。おまえに、見せようと思ったからだ」




「志を全うしようと思えば、病んでもならんのだ、楊令。俺は病んだ。腹の中にいる病ごときに殺されるのが、無念でならん」




「子午山で、魯達は自分がむかい合うものと、じっとむかい合ったのだと思う。そういう、静謐な時の中にいたようだ」




以上
またね***


一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...