「この猿芝居は何だ。…困難にぶつかったとき、ある者はとどまり、ある者は逃げ出す。もちろん、とどまる方が困難だ。チャーリーが今選んだのは、友人を売らないという、困難な道である。この選択は賞賛されて当然なのに、なぜチャーリーが罰を受けねばならないのか…。」
これは映画「セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
」の中のセリフ。
実際にこの映画を見たわけではないが、ある本の中で紹介されていたので、メモった。
この映画のあらすじは忘れてしまったが、このセリフから人間の尊厳をうたった映画であるように感じる。
私の気に入っている映画である「カッコーの巣の上で」も人間の自由と尊厳をうたった映画である。
前回ブログにも書いたことと重なるかもしれないが、社会のシステムとして、社会が成り立つ要件として、その人の人間的な部分を評価の対象から外すということが全部ではないがいくらかある。
それが、人がその人らしく居ていいということができない、いわゆる生きづらさを感じさせるのではないか。
しかもこの問題。社会と個人の関係は今に始まった問題ではないように思う。孔子、ソクラテス、釈迦、キリストなど時空を超えて今なお人々が必要としているこれらの思想は、社会と個人のことに関する部分が大半だろう。これは、梅原猛さんが何かの本で語っていたことだが、哲学者ヤスパースの考えを紹介してた。
ヤスパースが言うには、人類は、農業革命がおこるまでは互いに助け合ってやっていた。が、農業革命で、貧富の差が起こる。これは、人の欲望を掻き立てた。そうなると、社会は長くは成り立たなくなる。自分の存在も長くは続かない。この矛盾。欲望は満たしたいが社会の中で生活したい。これを解消する論説を唱えるため世界各地で思想家が次々出てきた。それが約二千五百年前。中国では孔子。インドで釈迦。ギリシャでソクラテス。少し遅れてキリスト。こういった思想によって人々はどうにか自分の欲望と折り合いをつけてきた。
で、梅原さんが言うには、現在の状況は科学技術によってより欲望が刺激されるため、これらの思想だけではこの矛盾を乗り越えられなくなってるのではという。
確かこんな感じの内容だったように思う。う~んうろ覚えで確証はないが、少なくとも自分はこう理解している。
こう考えてみると、上に引用したチャーリーの人間としての行動。その背後にある思想というのは、キリストなどが唱えた道徳律であって、今の社会でより多くの人が生きるための思想とはいくらかずれがあるのではないかという可能性が出てくる。つまり、今の世の中では、チャーリーの行動は社会システムによって排除された人間として立派なものではなく、むしろ社会を崩壊させる危険性をはらんでいるものではないのかということだ。ま、極端にいえばそういうこと。なかなか心では納得できないけど・・・。
セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
じゃあ、新たな思想とはなんだよ。となるわけだが、まだちゃんとした形としては現れてないし、社会システムも以前のままでなかなか変化できてないのが現状。
で、一応頭の中で一つの案はある。ここ一年ぐらいで突然浮かんできたんだが、たぶんこれを一つ一つこなしていけば新しい何かが見えるかもと思う。
つまり、新しい人生の提案。人が持つ欲望、最も普遍的なのは認めてもらいたいということだろう。その人を認めるとはどういうことか。人にはいろいろな顔がある。夫として、父として、部長として、息子として、先輩として、などなど…。その役割を果たし、その役割と関わる別の役割の人もそれとしてかかわることの積み重ねだと思う。で、役割というのは時とともに、依存する社会システムの変化とともに変わる。
今の社会システムはというと、既存のものが機能しなくなってきたといわれはするが明確な方向性はいまだ示されてない状態。ここでみんなが納得する人生を打ち出せば、それが基準となり、新たな社会システムは構築されてはいかないだろうか。
うーん、これが理想だが、現実は逆なんだよな。人生(生き方)ありきではなく、社会システムありきなんだよな。
最近言われてるのがこれからはスモールビジネスが増えるという。このグローバルの時代、多くの人が自分サイズの事業をするという。その中には、もうほかに選択肢がなく自分で起業するしか食っていけないという人が増えてるらしい。
生き方の模索というよりは、ただただ反応してるだけなんだよな。
でも、少数だが自分の生き方を確立した人も確かにいるし、増えてもいる。今は情報社会。人の生き方も情報として価値はあるだろう。今までのように全員が同じ人生を歩んではいないのだから。だから、人生モデルの提案はビジネスになるんじゃないかと思う。そしてそれが新たな人間の尊厳へとつながるだろう。
セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
以上
今まで考えてきたことがどんどん出てきたように感じた。なぜかな。
また、明日***
これは映画「セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
」の中のセリフ。
実際にこの映画を見たわけではないが、ある本の中で紹介されていたので、メモった。
この映画のあらすじは忘れてしまったが、このセリフから人間の尊厳をうたった映画であるように感じる。
私の気に入っている映画である「カッコーの巣の上で」も人間の自由と尊厳をうたった映画である。
前回ブログにも書いたことと重なるかもしれないが、社会のシステムとして、社会が成り立つ要件として、その人の人間的な部分を評価の対象から外すということが全部ではないがいくらかある。
それが、人がその人らしく居ていいということができない、いわゆる生きづらさを感じさせるのではないか。
しかもこの問題。社会と個人の関係は今に始まった問題ではないように思う。孔子、ソクラテス、釈迦、キリストなど時空を超えて今なお人々が必要としているこれらの思想は、社会と個人のことに関する部分が大半だろう。これは、梅原猛さんが何かの本で語っていたことだが、哲学者ヤスパースの考えを紹介してた。
ヤスパースが言うには、人類は、農業革命がおこるまでは互いに助け合ってやっていた。が、農業革命で、貧富の差が起こる。これは、人の欲望を掻き立てた。そうなると、社会は長くは成り立たなくなる。自分の存在も長くは続かない。この矛盾。欲望は満たしたいが社会の中で生活したい。これを解消する論説を唱えるため世界各地で思想家が次々出てきた。それが約二千五百年前。中国では孔子。インドで釈迦。ギリシャでソクラテス。少し遅れてキリスト。こういった思想によって人々はどうにか自分の欲望と折り合いをつけてきた。
で、梅原さんが言うには、現在の状況は科学技術によってより欲望が刺激されるため、これらの思想だけではこの矛盾を乗り越えられなくなってるのではという。
確かこんな感じの内容だったように思う。う~んうろ覚えで確証はないが、少なくとも自分はこう理解している。
こう考えてみると、上に引用したチャーリーの人間としての行動。その背後にある思想というのは、キリストなどが唱えた道徳律であって、今の社会でより多くの人が生きるための思想とはいくらかずれがあるのではないかという可能性が出てくる。つまり、今の世の中では、チャーリーの行動は社会システムによって排除された人間として立派なものではなく、むしろ社会を崩壊させる危険性をはらんでいるものではないのかということだ。ま、極端にいえばそういうこと。なかなか心では納得できないけど・・・。
セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
じゃあ、新たな思想とはなんだよ。となるわけだが、まだちゃんとした形としては現れてないし、社会システムも以前のままでなかなか変化できてないのが現状。
で、一応頭の中で一つの案はある。ここ一年ぐらいで突然浮かんできたんだが、たぶんこれを一つ一つこなしていけば新しい何かが見えるかもと思う。
つまり、新しい人生の提案。人が持つ欲望、最も普遍的なのは認めてもらいたいということだろう。その人を認めるとはどういうことか。人にはいろいろな顔がある。夫として、父として、部長として、息子として、先輩として、などなど…。その役割を果たし、その役割と関わる別の役割の人もそれとしてかかわることの積み重ねだと思う。で、役割というのは時とともに、依存する社会システムの変化とともに変わる。
今の社会システムはというと、既存のものが機能しなくなってきたといわれはするが明確な方向性はいまだ示されてない状態。ここでみんなが納得する人生を打ち出せば、それが基準となり、新たな社会システムは構築されてはいかないだろうか。
うーん、これが理想だが、現実は逆なんだよな。人生(生き方)ありきではなく、社会システムありきなんだよな。
最近言われてるのがこれからはスモールビジネスが増えるという。このグローバルの時代、多くの人が自分サイズの事業をするという。その中には、もうほかに選択肢がなく自分で起業するしか食っていけないという人が増えてるらしい。
生き方の模索というよりは、ただただ反応してるだけなんだよな。
でも、少数だが自分の生き方を確立した人も確かにいるし、増えてもいる。今は情報社会。人の生き方も情報として価値はあるだろう。今までのように全員が同じ人生を歩んではいないのだから。だから、人生モデルの提案はビジネスになるんじゃないかと思う。そしてそれが新たな人間の尊厳へとつながるだろう。
セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
以上
今まで考えてきたことがどんどん出てきたように感じた。なぜかな。
また、明日***
1 件のコメント:
スモールビジネスの一つに【人生モデルの提案】ってのが出来るって事で良いのか?
人生モデルの提案はスケールがデカイし、責任負担の規模が大きすぎる気がするな。
人間なんて、どこかで人のせぃにしたくてたまらない生き物だからな。
なかなか理想の社会ってのは作れないだろうね。
今より一歩か‥出来るなら半歩先を行く行動を取って、常に3歩先を見据えて行動していく事。
そーすれば、少しはより良い社会が作っていけるカモょ。(半分独裁社会になると思うけど…)
そもそも、みんな同じ考えで社会が成り立つワケはない!
目標が一緒になりすぎても問題がある。
っつぅ事で結局!!
自分が正しいと思う方向へ少しずつ歩み始めて、その途中に賛同してくれる人達や賛同したい人達がいれば手を組んで歩んでいく。
それが地道だけど一番の近道な気がするな…。
コメントを投稿