タイトル通り、不登校で学校に行かなかったがどうにか今は楽しく生きていますという20代から30代の人たちの物語。
東京シューレというフリースクールの出身者が多数自分の経緯を記している。
泥臭さというのだろうか、
共感できる部分もあり、だが、自分とは異なる選択をした人たち
彼らには何かしら底力というような生きる力を感じる。
世の中の悪や醜い部分、弱い部分、そういったふたをしてしまいそうな部分にも目をそらさず、いや、それらも含めての世の中だという意識が無意識レベルであるのだろう、だから彼らはこんな泥臭いが愛らしくもあり、どこかその生きざま自体に本質が見え隠れしているように感じてならない。
”自分の言葉で物事を語れるか”
これが人を動かす人の特徴の一つであると考える。
この本の彼らはそれぞれ自分の言葉で語っている。
「私の過ごしてきた道を振り返ると、人は必要なとき、動きだす時期をちゃんと知っていて、そういう力を持っていると思う。別に周りからの働きかけがなくても、きちんと休むべき時に休み、満足すると動き出せるんだなと思う。」
「人生を計算したり計画したりして生きている人が大勢いて、それでもうまくいくのは一握りだというのに、僕のようにその場限りの行き当たりばったりで、なぜ今のようにチャンスが掴めたのだろう。」
「シューレに通っている時の自分は、自分の興味ややりたいことを中心に考え、アルバイトというものはその延長線上にあったものなのだなと、今振り返ってみて思います。」
「今まで、自分の為に自分のやりたいことをし、夢を実現させてきながらめまぐるしい15年間を走ってきた。もちろん、そうさせてもらえる環境にも感謝しながら。」
「僕は、人との出会いや再会の中で自分の人生に大きなスパイスをもらっていると思う。どう考えたって、ひとりぼっちでは生きていけない。・・・。僕の場合リアルな現実感のある人間が好きなせいもあって、マニュアルに縛られた業務的な人はあんまり好きじゃない。それに今の世の中、個性やセンスや才能といった言葉が増えているけど、そんなもんで人の上下を決めるのであれば、ドラクエのレベル上げで競えばいい。
重要なのは、結果を出せたか、出せてないか、レベルは上がったけどボスは倒せてませんじゃ意味がない。そもそも、個性とかセンスという言葉自体意味不明だ。みんなが持ってる理想ってモノは、すべて叶わない。夢は夢でしかなく寝ながら見るものだ。」
「働いている人たち、生きている人たちはだれもがそうだろうけれど、俺はたくさんの人たちに支えられ、手を引っ張ってもらい、背中を押してもらって今がある。」
「より重要なことは、学校の内でも外でも、どんな出会い、どんな学び、どんな体験ができるかということこそが問われていると思います。
私は親や友人をはじめとして、多くの人に頼り支えられながら、私なりの努力を重ね、今もこうして仕事をしながら一人暮らしをして生きています。」
「亡くなった彼らと僕との違いは、おそらく環境にある。不登校を認める居場所や親など、まわりにある人の価値観が違っていれば、死なずに済んだと思っている。
そうした一人では補いきれない失敗を、まわりの方に一緒に謝っていただいている。これはもう“ありがとうございます”としかまわりにはいいようがない。」
「あの時私は一人ぼっちだった。ただ“学校に行かない”というだけのことで、世界のすべてが私に背を向けてしまったように感じていた。自分の手足さえ見えないような暗闇の中で、私を助けだしてくれる人など誰もいないと思っていた。
不登校の経験とシューレの存在が、知らず知らずのうちに私の人生の道筋を示し続けてきてくれた。
私はいつも“自由・自治・個の尊重”という理念のもとで過ごしていた。自分のことは自分で決める。誰かに上から命令されることなど無い。
そのときの私にとって、“自分の気持ちを分かってくれる人がいる”という事実を確認することがとても大切なことだったのだと思う。」
「一般の大学のように、先行研究やある知識を自分に貯めていくものではなく、学校にいかなかった経験あるいは“当事者”の視点から感じる疑問や意見を、社会の問題や価値観に対し訴えていくための探究をしてきた。」
「10歳にして、私は一切の居場所を失ってしまった。
しかし、とにかく素晴らしかったのは、“ボクには仲間がいる。独りぽっちではない”と感じられたことだ。
昼間は働き、夜は、子供時代からの記憶をめぐらし、反芻する。思い出したこと、新たに意味付けができた記憶などをワープロに打ち込んでゆく。学校教育の理不尽さに怒りながら、同時に、“居場所のない寂しさ”に傷付いていた自分が見えてくる。
自由に生きるためには、しなやかさと、したたかさが必要だ。
問題は、彼らがこれから成長していく中で、社会の歪みとどのように対峙してくかなのだ。そして、その手助けをするのは、我々、親の絶対的な使命だと痛感する。」
以上、彼らの多くに共通するのは、学校や家庭で居場所がなかったが、シューレに自分の居場所があった。そして、シューレに身を置きながらも本当にいろいろなことにチャレンジし、自分を確立させようと傷だらけになりながらも、動き続けたこと。
不登校は一見甘えのように見えるのだろう。
だが、本質は違う。
学校に身を置くことのほうが楽なのである。
今の世の中の仕組みは、根本的にはまだまだ近代にできたものがそのまま残っている。産業化に伴う効率化。それが日本の高度成長の原動力にもなった。
だが、今後はどうなるのかわからない。ビジネスの世界では、どんどん変化し対応していっている。が、最も変化の遅い分野に教育がある。
そんな現実を肌で感じ、自分の身を守るために力をつける必要性を痛感しているのが彼らではないかと考える。
つまり、学校教育では将来がなくなっている現代において(教育者はそれに対して何ら有効な手を打てていない状況)、そこに危機感を無意識ながら抱き、あるいはそこに偽物のにおいを感じて、自分で生きていく力を身につけないといけないと、とりあえず学校を飛び出したのだと考える。もちろん、長らく社会で生きている大人が、今後の生きる力についてなにも見いだせていないためすべて手探りで、体当たりで自分の道を切り拓いていかないといけない。
そういう闘いへ参戦するという宣戦布告が不登校なのだろう。
「世間的な物差しによる“成功”や“失敗”、“勝ち組・負け組”などにこだわらないところが、不登校やフリースクール出身者には多いと思います。一つ一つの心のひだや思い、自分が求めるものと社会や企業とのギャップ、それらを行動する中でどう答えを見出していったのかー。そんな目でこの本を見ると、生きることはすごいことだと思ってしまします。そして、彼らはまだまだ人生途上中だと思うのです。」
これは、東京シューレ理事長の「奥地圭子」さんの言葉。
次の時代のヒントがここにはあると思う。従来の価値観になびかない人たちの人生を垣間見ることで何かしら得るものがある。
”自分の言葉で物事を語れるか”
やはり、これがポイントだと感じずにはいられない。
それは、己の力で道を造ってきた者のみが語れるものだから。
ありがとうございます。
以上
またね***
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