2011年12月23日金曜日
全貌ウィキリークス(食べる読書74-2)
ウィキリークスの将来と言論の自由、そして、誰がインターネット上の支配力を握るのかという問題である。それは21世紀の大きな戦いの一つでもある。新しい可能性を数多く提示し、近代国家のあり方に疑問を投げかける新しいメディア、インターネットをめぐる闘いだからだ。
アナログ世界対デジタル世界、現実の政治対サイバースペースからの挑戦者の闘いでもある。
「ウィキリークスが、スパイ行為の末、情報を公開したことで有罪判決を受けるのなら、国の防衛に関して定期的に情報を公開しているあらゆるメディアがなぜ有罪にならないのか。その法的・論理的証拠がない」
国連関係者に対するスパイ活動を指示し、明らかに違法行為を呼びかけたヒラリー・クリントンの口座も取引停止にすべきなのではないか、という質問については、回答したくないか、あるいは回答できないようなのだ。
学生たちに対して「キャリアを棒に振りたくなければ、外交公電を学業研究に使用しないように」という呼びかけが行われた。
これまで、市民によるウィキリークスへのアクセスを禁止してきたのは、中国のような独裁国家だけだった。だが米国といえば、ネオナチや政治セクトでさえ、インターネットをまったく合法的にプロパガンダに悪用できるほどの自由の国ではなかったか?その米国が、ウィキリークスを制裁しないことには安心できず、米国政府関係者が作成し、各報道機関の編集部が人名など問題になりうる箇所を消した外交公電を公開するホームページへのアクセスを遮断するといった事態は前代未聞である。
ウィキリークスの事件は、ネット上の報道の自由と情報公開をめぐる闘いでもある。二つの世界の対決でもある。政府、検察庁、企業などの既成の権力構造が、デジタル世界のエリートとして最前線にいるつもりの活動家集団と対決している。
活動家たちはまた、ネットの世界における旧来の権力者の支配欲に疑問の声をあげる。彼らは、今回のケースのように挑発されたと感じると、場合によっては非合法の手段まで用いて闘いに加わるのだ。
秘密の暴露は政治システムへの攻撃である。
メディアは、理想的な政治的活動を理解しやすく論じる価値あるものにし、政府の誤った行動を暴き、社会の自然回復へと導く。メディアは、民主主義において、本質的部分を形成するような重大な役割を担っているのだ。
ジャーナリストが目指すのは改革であって革命ではない。
大切なのは、社会の存続に関する問題についての判断に必要な知識を開示することだという。この意味では「よい情報公開も、悪い情報公開もなく、少しだけではなく、きちんと公開されるべきである」
みずからの行動のできるだけ多くを隠しておこうとする政府の思惑と、できるだけ多く公開してほしいという一般市民の要求との間に緊張関係が生まれる。そのとき、ジャーナリストはまず第一に、政府にではなく読者や視聴者に対して責任がある。
国連の世界人権宣言第19条にはこう定められているーー「すべての人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由ならびにあらゆる手段により、また、国境を超えると否とにかかわりなく、情報および思想を求め、受け、および伝える自由を含む」
「彼らは、自分たちの行いについて全く責任をとりません。しかし発した言葉と公開された文書には責任が生じます。ゲームじゃありませんからね」
ウィキリークスのウェブサイトは、何度も意識的に、納得のいく倫理的な根拠もないままに、個人や組織のプライバシーを侵害している
ウィキリークスはジャーナリズムを変え、ジャーナリズムもウィキリークスを変えたのだ。
秘密文書公開のために、検問が不可能なウェブサイト運営のアイディアは、権力分立を補完するものとして、国家の限界を超えた第五の権力になりうる。
私たちは、ジャーナリズムを変えることになるメディア論の議論の入り口にようやく立ったところだ。
ウィキリークスの資料を利用する者は、資料の主な内容や前後関係、より詳しい背景を、自力で解明しなくてはならない。
「(現代のように)国境のない、様々な要素が絡み合った危機の時代には、国民のために調査し、情報を公表するためには新聞や放送局各社が持つ力だけでは、もはや充分ではない」
「誰でも人生は一度きりだ。だから僕たちはこの時代に、何か有意義で、満足できることをやってみるべきだ。ウィキリークスは僕にとって、そういうものなんだよ」
国家機密が増えたことによって、一般の人々からの透明性への要求は高まっている。時代は、ウィキリークスのようなアイディアを受け入れる土壌ができているのだ。
米国政府の反応をみると、政府がウィキリークスの情報公開を、政治を良くしていくための好機とは認識していないことがわかる。ウィキリークス以上に、国際社会において米国の評判に傷をつけたのが何だったのか、考えてみるべきなのではないだろうかーー外交公電の公開や的を射た分析が多い報道と、それとも米国政府の公式の対応や大企業による反ウィキリークス・キャンペーンの果たしてどちらなのか。
ウィキリークス騒動の最後に、どんな情報が公共の利益になり、プライベートの領域のどこから先が保護すべき部分なのかについて、より明確に理解されるようになるのであれば、それこそ価値のある前進である。
以上抜粋
to be continued・・・
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