2011年12月26日月曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-3)




本書を読んでいて、ふと浮かんだ言葉というか概念がある。


「責任」だ。


外部に漏れない極秘情報をネットにアクセスできる人ならどこにいてもそれが見れるようにしたウィキリークスの生い立ちから現在までの軌跡をつづっている本書。著者は、それをバーチャル対現実世界や既存の権力者対デジタル世界のエリートみたいに二項対立でとらえているが、それは適切な見方ではないと思う。



その理由を理解するキーワードが「責任」である。



責任なんてそもそもそんなものはない。責任というのは、その社会の価値観を反映したものといえる。



死刑制度のある国は、ある犯罪に対する責任は死をもって償うものであり、死刑制度のない国では同じ犯罪だとしても、死はその犯罪に対する責任とはならない。



その社会への参加証及び保障証のようなものが「責任」ではないかと思う。



「責任」と一口に言っても社会・生活の中で求められる責任は多様である。


よって、責任の機能は一つではなく複合的なものと考えられる。



ある社会に入るには、いろいろな証明等が必要なのかもしれないが、基本は拒否されることは少ないはずだ。しかし、その生活している社会の中で、何かしらルールを破ったり、そこからはみ出したなら「責任」を求められる。それは、今後あなたがこの社会で変わらず生活しつづけられるかどうかのリトマス試験紙となる。



よって社会の数だけ責任の多様性はあることになる。そして、それは社会のルールに対応するともいえる。



さらに言えば、社会といったが、日本という国だから日本にいる我々は皆同じ社会にいるといえるが、それだけではない。都道府県によってもその土地土地でルールはあるし、さらに市町村単位になるとそこにもルールはある。さらに、複数の人が集まると自然とそのグループ内でルールというものはできる。それを破ると、その人はグループから外されてしまう。



我々は多様な社会の組み合わせの中に自分の身を置いて生活をしているといえる。



ところで、社会というのはルールがあるわけだが、それは社会が一つの概念や価値観と同義語ととらえることができるのではないか。つまり、その社会に身を置きたいということは、その社会の価値観に共感したからであり、その構成員たちは社会を見ているというよりかはそのルールを見ているといえないか。よって、人々はなりたい自分やしたい生活をかなえてくれるような社会(価値観)を自分で選んで参加することができる。そのみかじめ料として責任(ルール)がある。



とすると、ここで疑問が湧き上がる。社会を選ぶことは分かった。じゃあ、新しい社会というのはどうやってつくるんだ?つまり、新しい価値観だけでは世の中にデビューしたことにはならない。その価値観の基、たとえ小さくとも、社会を形成しないことにはただの独りよがりにすぎない。




ここがポイント。




ウィキリークスは情報の暴露、情報の共有化という価値観の基、極秘情報の公開を行っているわけだが、それはそれだけでとどまっている。これは既存の社会体制に大きな影響を与えるにもかかわらず、既存の社会にとって代わるようなルールというか責任の取り方は提示していない。ただ単に「俺はこんなことも知ってるんだぜぇ~。すごいだろ!!!」の域を脱しているとは言えないのではないか。



二項対立というからには、ウィキリークス側も、既存の社会体制などに対する代替案をもって、ウィキリークスの目指す情報共有の社会はこうですよと示して初めて既存の社会と同じ土俵に立てる。つまり、そうなって初めてケンカできるのだ。今の状態ではとてもじゃないが対立することにすらなっていない。



二項対立はどっちの社会がいいかということ。資本主義なのか社会主義なのかみたいな。だけど、ウィキリークスは現在の社会を壊す破壊力は持っていながら、破壊した後のビジョンは持っていないように感じる。だから、不発が多いと思う。



ここから時代を俯瞰してみてみると、まだ役者はそろっていないといえる。アサンジは天才といえるが、そのアサンジを動かせる人物、このアサンジの能力を、己の理想とする社会実現のためにうまく活用できる人物が現れるだろうと思う。まあ、アサンジといったが、アサンジ本人かどうかはわからない。しかし、このタブーのない情報共有の技術をどう生かすか、この技術により成り立つ社会を構想できる人物が今後あらわれてくるのではないかと思う。



たぶん、野心のある奴はこの動向をこういう視点で虎視眈々と狙っていると思う。ウィキリークスという駒をどう使うか。ほかにどんな駒が必要なのかなどだ。



こういう奴が、新しい社会をつくっていくのだろう。どうやってつくるのかはわからないが、つくれるだけの能力を持っている人だと思う。



時代の変わり目の現代。だれが次の時代の土台、基盤をつくるのか。



私もその競争に参加したい。



以上
またね***








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