2011年8月15日月曜日

現代医学に残された七つの謎(食べる読書40-1)





題名の通り、今の医学では解明できていない謎を七つ上げている。



・鍼灸の治療効果の謎

・磁場の人体に及ぼす影響の謎

・睡眠の謎

・病は気からの謎

・「天然のリニアモーター」筋肉の謎

・記憶のメカニズムの謎

・人体の設計図の謎


の七つ。



この個々について論じるよりも、まず謎について考えたい。



謎とは何か?もちろんわからない部分。だが、わからない部分が何かは分かっている。



知識が増えれば増えるほど、それに合わせて新たな未知の部分も増えていく。



つまり、何が謎であるかをズバリ一言で表現できるということはその分野に関する知識はかなりあるということ。よって発達している分野と言える。




一方、何が謎であるかすらわからない、またはどうとらえればいいかわからない分野はまだまだ未開だということである。




この本で取り上げられている七つの謎はそれぞれ把握できない未知なる領域がある。その存在について論じられるということはこれまでの研究者達の成果である。そして、この未知なる領域を把握する道具の発明が必要だと感じた。




それは新たな概念の発見ではないかと考える。




なぜなら、従来の概念で物事を全て把握できるならもうすでにそれをしているからである。だが、どうやら謎が多そうだ。だから、この現実世界に異なる光を当てて誰も観たことのない現実世界の表情を観る必要がある。




ところで、もし我々の科学力が現実世界のすべてを知っていたら、我々はどのように存在するのだろうか。


知るということがどういうことかにもよるが、現実世界と我々一人一人が同一の存在となるのかあ?などと直感で思ってしまう。



では、我々の科学力が現実世界の一部しか知らないならどうだろう。



もちろんその一部の真実を活用し文明を築いていくだろう。が、その人類の発展が真実の一部の活用ということが厄介。(というか、真実じゃないと発展しないんじゃないかと思ったりするが、それはここでは置いておく。)人類が発展すればするほど、人類の活用する一部の真実が現実世界で占める割合が増える。そもそも現実世界の全てがわからないので何とも言えないが、その一部だけを強調することでどういうことが現実世界全体に起こるのかを知ることができれば、間接的に現実世界の概要が見えてくる気がする。というか、こういう考えのもと科学は発達してきたといえる。まさに科学的手法。



しかし、それの規模が大きくなると諸刃の剣になる。環境問題がその例であろう。そして、それは人間社会のルールを優先することで起きることでもある。確かに人間のルールは真実であろう。だが、それが成立する条件があるとしたらどうだろう。それは人類の存在条件と無関係ではない気がする。ブルー・ゴールド 狙われた水の真実 [DVD]はそれについていろいろなヒントをくれる。とても興味深い映画だ。



といろいろ書いてきたが、言いたいことはこうだ。



この世界を知る手段は科学だけではない。この科学的思考がどういうものか論じて初めてこういった謎の本当の意味も見えてくる。単なる技術的未熟さで解決できることではない。ただ見えている側面にさらに強い光を当てたところでさらに視野が狭くなるだけだ。




To be continued ・・・

2011年8月12日金曜日

東大で教えた社会人学(食べる読書39)





東大工学部卒業後商社に就職し、その後独立するという一般的な技術者とは異なる人生を送ってきた著者が東大生に対して技術者に必要な社会常識・経済常識を講義したものをまとめたもの。






学生に対する講義、しかもその学部の専門外ということで社会に対する講義内容は一般的な内容に終始する。堺屋太一や大前研一といった人たちのように研究・調査した内容を講義しているわけではない。





なのでその信憑性には疑問を持つべきだが、著者自身の半生における経験をもとにした講義なだけに、実践的な内容になっている。なので、受講生たちにとっては専門外の話ではあるが、自分の興味のないことが自分の人生とどう関わってくるのかを知るという点でかなり価値はあると感じた。若い時は興味ないことには見向きもしない。ましてや、技術者となると自分の研究のことで頭がいっぱいになり、少し社会性が疎くなりやすいように感じるからだ。





そういう意味で東大はバランスのいい教育をしているなと感じた。工学部の一講義で判断できることではないが、そんな意図は感じられる。






教育は社会で活躍する人材をつくるのが目的の一つ。なので、若者たちが今後活躍する社会はどんな社会なのか教えるのも教育の一環になってくる。よって、こういった本や大学の教養課程から現実社会のことが多面的に知ることができると考える。




こういったものは単なる知識として持っていて、そこから興味のあるものがあれば自分で掘り下げればいい。




以下抜粋



敗戦の後遺症で「アメリカが全部考えてくれる」「アメリカが守ってくれる」という、対米従属体質が骨の髄まで染みついている。
思考停止状態を続けている限り、本当の国家ビジョンは持ち得ない。





中国ではそれが当然だという。つまり、学校を作る場合にも、企業が工場を建てる場合にも、そこで働く人たちのすべての生活が成り立つような共同社会、いわば“学校村””企業村”を大学なり企業が作ることが求められるのだ。





中国では一つの会社の同じセクションに二人のヘッドがいる。一人は経済活動のヘッドだが、一人は政治単位としてその組織を統括している共産党の幹部で、最終決定権は常にヨコ糸のヘッドが持っている。






官僚機構自身が持つ組織防衛本能が今や日本経済のブレーキになってしまっているわけだ。






これからは社会全体が豊かになる時代ではなくなるということだ。成功した人と失敗した人の所得格差は確実に広がっていく。






科学技術の本質を理解していない文化系の人材を機構のトップに据えたために、本当のやるべきことができていないという場面に私は何度も遭遇している。







昔は漫然と生きていてもよかった。それなりに社会が成長し、会社が成長し、自分の地位も上がって収入も増えた。でも、これからはそうはいかない。地位や給料が自動的に上がっていくことはないし、下手をすれば日本という国自体がずるずると落ち込んでしまう危険性だってある。






本当に理科系の人種なら、世の中の現象を理科系の目で捉える義務があると私は思っている。今、世の中で起きていることにはどんな要素があって、それがどんな構造性を持っていて、それがどう動いているか。サイエンスの視線で社会や会社を見たときに、見えてくるものがたくさんある。自分がなすべきことも見えてくる。世の中に対して自分がアウトプットすべきことがわかる。







巷では東大生が就職するようになった会社はダメになるとも言われる。







特に東大生の場合、自分は出来がいいんだからいい就職先を選ぶ権利があるし、その権利を行使するのが当然だ、と思い込んでいる。






同方向のベクトルがどれくらい揃っているかということを数学では“内積”という。反対にベクトルがどれだけ違う方向を向いているかが”外積”。
変化の激しい時代に生き残るのは、内積の大きい会社よりも外積の大きい会社である。







将来、経営の一角を担うときに必要なのは全体の企画力であり大所高所の決断力で、文科系の社員は企画関係の仕事で成功や失敗を数多く経験する中で、骨身に沁みてそれを学んでいく。一方技術屋は「何を、いつ作るか」ではなく、「どう作るか」という実作業ばかりを繰り返し考えている。それが管理職以上になったときに大きな能力の差になって表われてくるのだ。








人間は自分が理解できる事柄を通してしか他人を判断できない。だから、相手に評価してもらおうとしたら、その相手の土俵に上がるしかない。相手の土俵で互角以上に戦って初めて評価や尊敬を得られる。そして相手の土俵に上がったつもりはなくても、相手は自分の土俵で人を不当に評価しているのだ。






人口統計を見れば、65歳以上の老齢者を現役世代が養えるはずがないことは一目瞭然だ。養えもしないのに、養えるという前提でものを考えるのがおかしい。






ゼロサムゲームがほとんどというのが日本の実力主義の実情なのだ。





給与総額の抑制に主眼が置かれた実力主義や成果主義の多くはこのような形で導入されてきた。






会社にとって必要な人材を確保するために、あるいは不必要な人材を切り捨てるために、実力主義は日本の企業社会に根付いていくだろう。







教育による社会階級の固定化は確実に進行している。







住宅が資産になるという考え方は、このようにインフレで土地が値上がりした時代の大いなる幻想にすぎない。







マクロ経済的にいえば、無駄遣いをするから潤う人がいるわけで、それで景気も活性化される。






老人虐待はどこでも起こり得る。悲しいかな、いつの時代もストレス発散は弱者に向けられるのだ。







被相続人は連帯保証債務があることを言い残さければいけないし、相続人は相続開始から三カ月以内に財産を徹底的に調査したほうがいい。たとえば被相続人が事業主だったりすると、家族に内緒で連帯保証をしていることも少なくない。何年も前の話で被相続人が連帯保証をしていたことをうっかり忘れているケースだってあるのだ。








保険設計というのは自分の人生における活動計画そのものである。自分の人生の中で、どんなことがどういう確率で起こり得るのかを考え、それに備えて保険をかける。





自分の人生をどうするかというプロジェクトを立てるときに、保険設計は格好の仮想演習になる。






以上
またね***





2011年8月10日水曜日

AKB48とAAA

個人的にAAA(トリプルエー)はもっと売れるグループと思っている。


なぜなら、グループのコンセプトがかなり練られていて完成度が高い。しかもなんといってもエンターテイメント性はずば抜けていると感じる。メンバー全員がプロ意識が高い。エイベックスのそれまでのグループとは一線を画している。



しかし、ここ最近ダントツに売れているのはAKB48だ。



メンバーはいろんな事務所からの寄せ集め、特に歌や踊りがうまいというわけではない。でも売れている。




多分、「会いに行けるアイドル」というコンセプトが今の時代に合っているから。




そして、それは総選挙などで推しメンの今後の活動に間接的にしろ自分の応援が左右する。




そこには自分とあの娘のストーリーを一緒に作っていく場がある。




主体と客体が交互に入れ替わることで織りなす物語。




一方、AAAは完全に主体と客体が分かれる。




お客はグループの創るストーリーを観て楽しむ。そこにはお客を楽しませる要素がふんだんに盛り込まれている。




お客はライブで一時の夢を見、そして明日は自分の世界へと戻る。




AKBのお客は、ライブに行かなくてもメンバーとのつながりが日常生活に溶け込んでいる。あるいは、ライブが身近になったことでライブが日常的になった。つまり、私の生活はAKBに彩られる一面がある、ごく当たり前のように。



AAAはやはりかなり敷居が高い。身近にはなかなかなれない。むしろ身近じゃないからこそのAAA。
だからかなりの技術が要求される。お客さんを楽しませるにはそれなりのものが必要。




だからといってAKBが楽しませる努力をしていないわけではない。だが、そんな彼女たちが到達する踊りや歌のレベルはそこらへんの女の子が頑張って努力して到達できるレベルのものだ。それがまた魅力の一つにもなっている。ファンはそんな彼女たちの成長を観ることができるからだ。それもストーリーの一部。




以上のことから、今の時代、人々のエンターテイメントとは自分もそこに参加することに見いだされる楽しさなのだろう。もちろんたったこの2グループを比較しただけで今日の人々の一面を語れるわけではない。




だが、これまでのビジネスモデルが通用しなくなってきたことの一例として意味はあると感じる。




以上
またね***




2011年8月6日土曜日

ミスト





を観た。


結論として、




情報だなあ。大事なのは。




と感じた。




何かがいる。だがそいつに関して何にもわからない。初めてだし、こんな奴いるのかとそいつに遭遇しても否定したくなるようなやつ。唯一わかるのは、そいつは人間を襲い、霧の中にいる。そして、霧の中で我々はそいつの居場所を感知できないが向こうはどうやらそれが可能のようだということ。





たとえば潜水艇のソナーのように相手の居場所を把握できるのであれば何かしら手は打てる。我々人間はそれを主に視覚に依っている。よって、相手のそれを奪い自分のそれを活かす状況に置けば勝負は決まったようなもの。





つまり視覚を奪われれば人間は生物学的に一気に不利な環境へと突き落とされる。





それが絶望へとつながる。





また、初体験の相手なのでどういう動きをするのかわからない、未知な部分が接近戦となったとき動きを鈍くする。予測できないのだ。それも大きい。だから、対抗できない。






そんな、今直面していることに対して無知な状況。いかにも絶体絶命のように思えるが、必ずしもそうではない人間がいたりする。





いや、彼(彼女)も絶体絶命に変わりはないのだが、人間は集団性の生き物であることを利用するという視点を持っている。





この映画で出てくるキリスト教信者の女性のように。また、20世紀前半当時不況下にあったドイツで台頭してきたヒトラーのように。まったくどうすればいいのかお手上げの状態、そこに解決策、あるいはこの状態のことを知っているぞ、と集団に訴える。大多数が無知の中で一人だけが知っている。その時、いやまさにこれこそが“マジック”の条件。






つまり、世界制覇を成そうと思うなら、この約63億人の人間たちが無知でかつそのことによって彼らの存在が危うくなる「何か」について自分一人だけ知っていればいい。そして、彼らの問題を解決していくことで、自然とあなたは神にも近い存在へと押し上げられる。






だが、この情報の不均衡はだれもそれの妥当性を確かめられないという条件のもと働いている。簡単にいえばただの勘違い。だから、まったく現状の問題解決には一歩も進んでいない。






そんななか、主人公たちは新たなほかの情報を得るためというより、現状では先が見えているため希望と言うには本当に弱すぎるが、決死の行動をとる。もちろん死を覚悟の上だ。だが、あまりにも無謀ではあったしそのほうが可能性としては高かったのだが、ついに死を選ばざるを得なくなる。そして・・・。






最後は観ててしんどかった。まじかあ・・・。







どうすればあの状況で生き残れたのかを考えてしまう。すこし視点が足りなかったのか?もっと多面的に現状を把握すればよかったのか?政府の対応や軍の対応なども視野に入れて行動すべきだったのか?などなど・・・。






まあ、昨日の夜観たのだが、今朝はばっちり何かに追われる夢を観ました♡





影響受けまくりだろっ!!!




以上
またね***


2011年8月5日金曜日

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以上
またね***

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論(食べる読書38)






「いや、この仗助君ならやれる!!!曲がる!!曲がってやるううう。」





の作者である荒木飛呂彦の初の新書です。




私自身あまりホラー映画には興味があまりなく、怖いと意識したのは「キョンシー」幽幻道士 DVD-BOXエイリアン [Blu-ray]くらいでした。しかも子供のころという…。




どう観ればいいのかわからないから観なかったんだとこの本を読んで感じた。





また、ジョジョの魅力の源泉の一部を垣間見た気がした。




ジョジョの魅力の一つに、登場人物がみんな魅力的で全部ではないにしろ共感する部分を持ち合わせている部分があるところがあると感じる。それは、ホラー映画から人間の本質的な部分そのものだったりその表現法を学んだからなのだろうと納得してしまう。




「ひたすら”人を怖がらせる”ために作られていることがホラー映画の最低条件で、さらにはエンターテイメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれているような作品であれば、まぎれもなく傑作と言えるでしょう。」




と本書にあるように、恐怖を通してそこにどんな人間の本質が潜んでいるのかという視点で著者はホラー映画を観ているし、そういった人間の人間らしさを映画を観て味わっているように感じるし、著者の作品を通して我々もそれを味わっているんだと感じた。





とにかくホラー映画に対する見方が変わったし、ホラー映画を観たいと思わせる。




また、ホラー映画を「人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。」と捉えている。




確かに、震災後の政治のあり方などには心底恐怖するが、政治の汚い部分にうろたえ、感情的になるのではなく、それに対して瞬発的に対応する人はこういう訓練ができているのかもしれない。





他に本書には表現に関する部分にも多く割いている。さすが、表現者だけあって解説が分かりやすい。



「その時にゾッとするのが、レザーフェイスが解体場の引き戸を手で“ドーン!”と閉める、その感覚です。その閉め方と閉める速度とパワーがもう決まりすぎていて、希望も同時に閉ざされることがそのシーンに象徴されている。閉めるレザーフェイスにしても”ここからは俺の世界だ”みたいな雰囲気を漂わせつつも、一方では日常行為として人を殺しているにすぎませんから、“今日も料理するか”みたいな脱力した感覚も伝わってくる。この映画の殺される側にとっての意味、殺す側の意味みたいなものは、すべて“ドーン!”と閉じられる、このドアに集約されているのです。」





「カッコよくて、美しくて、恋人もいて……みたいな、誰もがうらやむしかないような若者たちを登場させて、彼らが惨殺されることで観客に密かに溜飲を下げさせる。そして観客の法も”残酷なものは観たくない”と目を覆いながら、心の中でもう一人の自分がそれをスカッとした気持ちで観ているとしたら、“13日の金曜日”は恐怖と癒しを同時に与えていることになるのです。」






ちなみに、ジョジョ以外ではゲゲゲの鬼太郎が最も好きです。




一見全然共通点がないように自分自身でも思っていたのですが、この本を読んで、共通点が見つかった。




勧善懲悪ではなく、人間の醜い面も正面から表現しているところだろう。だからこそ、人間は厄介だし、いとおしいし、生きる価値があるというか生きてて面白いと感じる。そんな両極端が共存できるところが好きです。自分自身のそういうところを強く感じるだけかもしれないが…。





以下抜粋





さらにいえば「不幸を努力して乗り越えよう」のような、お行儀のいい建前は絶対に言わない、それよりも「死ぬ時は死ぬんだからさ」みたいにポンと肩を叩いてくれることで、かえって気が楽になるという、そういう効果を発揮してくれるのがホラー映画です。






恐怖を通して、現実世界の不安からひと時の開放をもたらしてくれるのがホラー映画です。





肉体を曲げたり引き伸ばしたりする奇抜な人体表現がもてはやされるのは、生と死の限界を突き抜けていこうとするような情熱をそこに感じるからではないでしょうか。





同じ人間どうしでも生活環境が異なるものの間には、時として絶望的なまでのコミュニケーションの断絶が生まれてしまう。






反道徳的なものをそこまで映画で突き詰めるのはあきれるほど凄いことだと思うし、音楽にたとえるならこれぞ「ロックだ」となるでしょう。





童話というのは本来残酷な伝承、あるいはおとぎ話であったものが、「教育上よろしくない」ということで今日あるような話になっていることが多いのですが、このフレディの数え歌は、童話の本質を正統的に受け継いでいると言えるでしょう。







ビザール殺人鬼映画というのは理解するものではなく、感じるものだと考えていますから、さらには道徳と快楽を一体化させたり、正義と悪を一体化させたりという、理屈ではできないことを感覚的にやってのけてしまうノリは大歓迎です。






秘められた歴史が恐怖に重みを与えている。





その正体を想像することしかできない霧に包まれて恐怖は増幅し、それが人間の心の闇をさらに広げていく。あるいは霧と人間の心理とが共に不可視の闇として描かれていると解釈することもできます。





主人公を不自然でない形で密室のような状況に置くにはどうするか





主人公を容赦なく扱う





そんなマインドコントロールの怖さというのは社会性を持った人間の根源的な怖さであって、いわゆるホラーとはひと味違ったテイストの作品になっています。






この悪魔が人間の道徳とか宗教とかとはまったく違う背景を持った存在だからかもしれません。






邪悪なものを描くことで、それに対抗する人間の心の美しさも同時に描くことができる。






芸術作品は「美しさ」や「正しさ」だけを表現するのではなく、人間の「醜さ」だとか「ゲスさ」とか、そういった暗黒面も描き切れていないと、すぐれた作品とは絶対に言えません。





僕はやはり、「恐怖」を表現するあらゆる芸術行為は人間にとって心や文化の発展に必要なのだと思います。そして僕はそうした行為が、後の時代に振り替えれば、結果的には文明の発展にさえ必要なのだと思っています。




以上
またね***



2011年8月2日火曜日

中国大活用(食べる読書37)





2002年出版、堺屋太一著作の本。



当時の状況から中国をどう活用するかを論じている。もう9年も経つので、現状は大きく変わっているし、あまり参考にはならないかもしれないが、その考え方は勉強にはなると思う。



まず、中国の近代化を世界経済の流れの中から観ている。


日本を含む日本以前の産業化と、80年代以降の東南アジアなどの産業化はその過程から異なる。



18世紀後半に起こった産業革命は社会のほとんどを変えた。




「産業革命で出現した大型機械を利用する工場や鉄道などの生産手段は、労働者がそれぞれ所有するには高価すぎ、家族で運営するには複雑すぎる。そのため、生産手段の所有は特定の資本家に、やがては株式会社や国家、自治体などの法人に帰することになった。一方、全人口の多数を占める労働者は、労働力だけを販売する“自由な労働者”になった。


このことが社会経済のあらゆる面を決定的に変えた。“自由な労働者”は、土地と身分を離れて移動し、職のあるところに集住して都市を造った。家族は生産機能を失い核家族化した。教育は職能訓練よりも一般教養を先行するようになった。経済は貨幣化し、競争と開発が当たり前になった。そして、国家は皇帝や王家から離れて法人化し、機能と権限は猛烈に強烈に強くなった。


要するに、人類社会の体制と組織と価値観のすべてが、産業革命で変わった。逆にいえば、社会の全面改革が成し得なかったところでは、産業革命は実現せず、近代工業社会は生まれなかったのである。」


その産業革命を成すには、資本・市場・規格大量生産を可能にする大勢の中堅技能者と中間管理職が必要だった。
それらを得るのに日本は大変な努力をしたのである。



しかし、80年代以降の産業革命では比較的簡単にそれを達成する。



知価革命・経済と文化のグローバル化・コンピュータ制御の普及がそれを可能にした。


先進国で知価革命が起こることでそんなに資本はいらなくなった。その資本が、アジア諸国や中国へ流れる。


経済と文化のグローバル化で市場は世界中にある。


コンピュータ制御によって大勢の中堅技能者や中間管理者もいらなくなった。


よって、80年代以降の工業化は、外国の資金で外国の技術を導入して外国向けの製品を大量安価に造る「水際造業」の発展によるところが大きいのだ。





こういう経緯で工業化を果たして中国は今後どうなっていくのか。


三つの見方がある。


雁行説:各国の経済は雁の列が飛ぶように、同じ軌道を時間差で追うという考え。よって、これからの中国は戦後の日本と同じような軌道を進む。



蛙跳び説:中国は今後、日本経済が辿った跡を追うだけでなく、ハイテク分野では外国の技術と資本を導入して日本を飛び越してしまうだろう、というもの。



蝶にはばたく説:中国経済が成長するとともに、需要のソフト化や価値観の変化で知価革命が生じ、急速に知価社会に入る、という見方。





また、日本との関係からも三つの将来に対する見方がある。


中国脅威論:中国の経済は急速に発展し、日本の産業に大きな打撃を与える可能性が高い、という考え。



日中共栄論:中国の経済が発展すれば、日本の産業の補完となり、日本の人と資源は一段と効率的に配置できる。また中国は市場としても拡大し、日本の高度産業の大きなマーケットになり得る。




挫折論:中国には、安価な労働力など有利な条件もあるが、地域間業種間の経済格差は大きく、水不足など環境問題も厳しい。このため中国の経済は計画通りには成長せず、国際競争力もさほどには強まらない。




この三つの始めの二つに対して著者はこう述べている。

「日本も、中国などからの低価格品の流入を契機として、大胆な知価革命を引き起こせば、新しい繁栄の道はある。ただし、それにはまず官僚主導の体制を改める必要がある。中国脅威論の大きな部分は、官僚主導体制への固執から出ているといえる。」




また、歴史的視点から「挫折論」に対してはこう述べている。


「中国の歴史を見ると、常に地域間には大きな経済格差があったが、それでも統一国家(王朝)を維持してきた。中国がヨーロッパやインドと異なり長く続く統一国家であったのは、地域の経済格差がなかったからではなく、政治的統一体制と文化的な共通認識(中華の民)が強かったからである。」





中国をどうとらえるかに関してはここがなるほどと感じた。


「量は質に転化する。大国は、小国の乗数ではない性格を持つのである。

中国を考える場合、一つ一つの事例を積み上げるだけでなく、大国の本質を理解することが欠かせない。」


として、



「結論としていえば、“巨大な国“中国は、様々な要素を抱え込んだ一つの国となりそうだ。最先端の知価創造産業やハイテク産業から、大量生産によって安価な規格品を造る製造業、そして小規模な農業や小売業まで、”あらゆるものが共存する大国”が出現しそうである。」



そして、こう結ぶ



「中国という巨大で多様で強力な隣国は、市場としても工程分業の相手としても、活用できる存在である。だが、決して甘い相棒と考えてはならない。日本には“巨竜の横で暮らす者”の緊張と独尊の精神が必要である。」





他に中国進出でいい傾向のある(2002年当時)企業の経営者から聴いた中国とのビジネスについて述べている。




読んでて難しかったが、同じ事象を異なる視点で繰り返し述べるため、より立体的に把握できる。






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以下、気になった部分を抜粋




中国が政治的に分裂し内乱状態に陥るのは、統治する王朝の権威と制度と人脈に対する尊敬が失われた場合、つまり「文化的破壊」が生じた場合に限られている。





中国政府が地域間格差の問題を解決ないしは緩和するためには、政治的判断によって内陸部に人と金が流れる仕組みを作る必要がある。それを実効の挙がるものにするためには、内陸部を(税制等で)有利にするだけではなく、沿海部の負担による投資と助成が必要である。





グローバル化は経済だけではなく技術、情報、組織、慣習などの「文化」の国境をなくする。
ただし、このことは、全世界の文化ーー特に倫理と美意識ーーが同じになることを意味しない。それぞれの地域の文化に従った活動を、誰もが行うようになる、という意味である。





日本の大相撲は、横のつながりではなく、縦につながった閉鎖的官僚主導社会なのである。




プロレスには国の助成も伝統の援けもない。それだけにローコスト・長寿命に徹している。




カンフーには日本の大相撲のような協会があるわけではない。その時、その場で、主催者が代わり、ルールも変わる。




カンフーの試合に臨む者は、まず自分に有利なルールを創ることからはじめなければならない。主催の実力者だけではなく、観衆にも訴えることが大切である。




アリストテレスの論理学では、論理(思考の形式)は、普遍的で排他的でなければならない、と説いた。





中国論理学は西洋系の近代的論理学とは異なり、普遍的でも排他的でもないのである。
やむを得ずとか、誰かのためとかいうのではない。古来、中国ではそれが正しいとされている。




エイベックスや吉本興業などの「中国観」は、まったく新しい。巨大なソフト市場、いわば「早熟な知価社会」である。





経済と文化がグローバル化し、企業が工程別分業の立地を選ぶ世界では、国家は各企業により多くの事業所を立地してもらうように努めねばならない。それはあらゆる面での自由化であり抵廉化である。産業立地はもちろん、教育、医療、生活習慣を自由に選択できるようにする必要がある。つまり、国家と官僚機構は脇役的存在にならざるを得ないのである。






最後に中国市場は中国の強い企業が支配するだろう。それが中国人の強さだ、と矢野社長はいう。今日の日本人は公家集団だが、中国人には野武士のような強さを感じる。





今日の中国は、たとえば「ステンレス加工の新潟県」と同じ一つの産地と意識している。とはいえ、中国には魅力がある。ただ人件費が安いだけでなく、中国人の一生懸命さ、向上心がある。今の日本人とは全く違うお金に対する執着心がある。「その分お金への感謝の気持ちが強い」と矢野社長はいう。





笑いと人情こそは、生活文化の中核である。そこに立ち入り、相手国の人々(市場)で受けてこそ、本当の「文化」が浸透したといえる。


以上
またね***







一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...