2012年9月28日金曜日

水滸伝十六(食べる読書125)




進化論というのがある。ダーウィンが有名だが、環境に合わせるように、自らが変わっていくというやつだ。他の動物にエサを取られないために、キリンは首を長くした。などなど・・・。



そこには、どう生きるのかも同時に示してもいる。



変化のきっかけは環境が用意してくれ、どう変わるかの選択は自分にまかされているのだ。




この巻は、多くの主だった人が死んだ。



裴宣、柴進、そして袁明。



梁山泊と青連寺。どちらも痛み分けのような形となった。



前者二人の彼らが梁山泊を支え、もう一人が青連寺であった。



ここら辺りから、消耗戦の様を呈してきたようだ。



人が変わるのはこんなときだ。



梁山泊、青連寺ともに、彼らが死んだことでここで終わりということはない。彼らが担ってきたことを新たに担う人材は双方共にいる。



新しい人材は、先人の死により花開く。それは、先人が死ぬことで何かしらを得るからではなく、より厳しい環境に置かれるためである。



これまでと同じように生きていきたいなら、これまでと同じようにしていてはいけない状況にだ。



優しい。とてつもなく優しいと感じるべきだろう。環境があなたに生きろといっているのだ。そのきっかけも与えてくれた。



優しさと厳しさが同居している。決して相いれないものではない。アメとムチでもない。




もっと根本的なものだ。




このことに気づけるかどうか。




そのとき、本当の自分を解き放てる。




梁山泊はこうやってこれまでも人材の質を保ってきた。




青連寺がどう化けるかは楽しみではある。




だが、私は、自ら変化をつくり出す人物となりたい。




以下抜粋


自分がここだと思ったところで、すべての力を出しきる。それこそが生きている意味だと、お互いに思っていることがわかったのだ。それも、大して言葉を交わさずに、わかった。



「戦には、陽動という策がある。陽動と見抜いたら、動かぬことだ。動けば、隙が出る。その隙につけこむための陽動だからだ」



「私は、軍人ではありません。ですから、きれいに割り切ってしまうこともできません。政事はいつも、絶対によいというものを選ぶわけでなく、よりよいものを選ぶということですから」



「梁山泊が、どういうところかわかっただろう。そして、ここに留まるべきかどうかも、そろそろ自分で判断できる。人はやはり、人生において、自分で選ぶ時というものを持つべきだ、と私は思っている」



「だとしても、一度だけ訊いてやれ。親が自分に選択させてくれた。後になって、そう思えることは大事だと思う」




「大きな企てばかりを考えすぎていた、とふと思ったのだ」




「人間は、そんなふうに思いがけない自分であることもある。私は、自分を眺めて、おまえよりもずっと愉しんでいる」




縁は、できるだけ躰から振り落としておく。それが、この仕事では大事だった。ちょっとしたひっかかりが、失敗に繋がったりする。



商人が、志などに惑わされてはならない。それは当たり前のことだった。




「梁山泊に加わった時、血などなんの意味もないと悟った。人には、志というものがあると知ったのだ。それは、躰を流れる血ではなく、心を流れる血だとな。私が、晁蓋殿や盧俊義殿に会ったのは、梁山泊ができるずっと前で、私はその時から、加わったと思っているのだがな」




「ありがたいと思え。人にはそれぞれ定めがある。おまえは、悲しい思いと同量の、喜びを与えられている」




「いい思いはした。滄州に居続けていたら出会えないような友に、何人も出会った。なにより、私は自分がやるべきことを見つけて、生きることができた。生まれながらの金持ちであり続けなくてよかった」




「求めるものがあって生きていたのではない、という気がする。どうでもいいことの中で、ただ死に行く人の姿を見ていた」




自分の心の歪みを見つめる、もうひとりの自分もいる。




「男はのう、いい女を見つけたと思いこむと、執着する。無様なほどにな。いい女など、惚れた本人がそう思えばいいことだが、そばで見ていて、嗤いたくなることがある。本人だけが、いい女だと思いこんでおるのよ」




「好きな時に、私を好きなようにできる。私はあなたの身の回りの世話をし、あなたの愛を一身に受ける。私の夢だったのです。それが実現できるのかもしれないのですよ」




「あの、燕青か。梁山泊には、人材が揃っておるな」
「ずいぶんと欠けましたが」
「新しいものを作ろうとすれば、仕方のないことであろうよ」
「ですな」



「いい国を目指せ、公孫勝。梁山泊が、そうやって闘えば、宋もまたいい国になる」




「楊雄、私はこれからの青連寺のありようで、宋という国の懐の深さがわかる、と思っているのだ。李富や聞煥章が残っている、というだけでなく、どういう変わり方をするかまで含めてだ」




「俺は、それを否定しない。俺は梁山泊の人間だから、梁山泊に有利になる話しかしないさ。それが女真族のためにもなる、と判断するのは長老たちの仕事だ。そして、ここにはもう俺の仕事はなくなった」




悲しみを、人に知られたくなかった。それを人に知られるだけで、濁ったものになるような気がした。胸が張り裂ける思いは、実は大事なものなのだとも思った。





以上
またね***


2012年9月16日日曜日

水滸伝十五(食べる読書124)





よく耐えた。



そして、多くが死んだ。



総力戦だった。



通らねばならない道だった。すでにある国に闘いを挑むには、だ。



しかし、耐えた。正確には、兵力の差が響いてくる前に、戦を終わらせた。これが、総力戦。兵力で負けるのなら、それ以外で手を打つ。



しかし、よく耐えたと思う。停戦するまでの間。




これで、次は戦のギアが変わる。




次が本番だろう。




それまで、どれだけの準備ができるか。



次の戦は始まっている。



以下抜粋


「待つことは、戦場へ出るよりつらい。はじめて、それがわかりましたよ」
「ただ、結果を待つのではない。結果の先に、やらなければならないことが、また山ほど見えてくる」
「まったくです。ここですべてを見ていることが、次に繋がる。しかし、それを忘れてしまいそうになります」



いまは宋という国に、正面から闘いを挑んでいる。生きている、という気がするよ。全身全霊で生きている、と思える




勅命という力が動けば、この国は滅びにむかうかもしれない。特に、それが戦に及べばだ。口に出すことはできないが、戦を判断する器量など、帝にはない。




「おまえは、兵たちの気持に火をつけるものを持っている。そういうことでいいのだ。ほんとうに必要な時だけ、弓を遣え」




集まって気勢をあげることと、戦をすることでは、まるで違う、と私は思う。




「すべて、運に恵まれたのだと思う」
「運とは、呼びこむものである。それも、学びました」



人の命運は、自ら切り開くこともあれば、横から出された他人の手で決まることもある。どちらがいいなどとは、言えはしない。どちらも、命運であることには変わりないのだ。




「俺が、すべてを負う。それでいいではないか。負った重みに耐えかねたところが、俺が消える時期だと思うしかない」




そのために手を汚すことは、いとわなかった。汚れるだけ汚れて、これ以上は汚れようがないという時に、自分は多分死ぬのだろう。いまのところ、まだ左腕を一本失っただけだ。




流れに任せろ、張清。あるところまでは、流れに任せておくのだ。




「命というものは、尊い。そして、強く、同時にはかない。そう思い定めるのだ。」
「そう思ったら、なぜ?」
「人の力ではどうにもならない、と思える。生きるものは生き、滅びるものは滅びる。そういうものなのだ、と思える」



「戦は、大枠だけを決めておく。あとは生きものを捕えるように、指揮官が戦を捕えていく。そういうことなのだろう、と思うのですよ」




「宋江殿も、呉用も、そしておまえも、人であってはならないのだ。人を超えたもの、それが、梁山泊を動かす者には求められる。わかってくれ」




はじめたことを、ひとつだけやれ。人に認められるまで、ほかのことに手を出すな




熱いものが、こみ上げてくる。自分には、同志がいる。死んでも、生き返らせてくれる同志がいる。
これまで、強く感じたことのない、喜びだった。




「自分の力以上のものを持ってしまうと、どうなってしまうのでしょうか?」
「持てる力に合った自分になる。人間とは、そういうものだ」




人は、なんによって生きる。志があれば、飢えないのか。富があり、名誉がある。これは、人の本能が求めるものだ。志は、頭が求めるものであろう




「心配するな。私は、おまえの力をこれからも測り続ける。無理だと思うことを命じて失敗したら、それは咎めはせぬ」




以上
またね***



2012年9月10日月曜日

水滸伝十四(食べる読書123)




ついに宋が本気になったと考えていいだろう。二十万官軍攻撃である。



一方、梁山泊は五万にも満たない。



この圧倒的な数・力にどう対応するのか。



これはチャレンジャーの宿命だ。



こういう大戦を前に、個々人の人としての変化もある。



戦はしているが、それは人の営みの中でのことなのだと、当たり前だが感じさせられる。



結婚もあり、史進の裸での乱闘もある。こういうことは面白い。



張平のことは気になる。



人が人となるには、なにが最低限必要なのか。考えさせられる。




志だけでなく、一人一人の人間にスポットを当てているのが、この作品の魅力だ。



以下抜粋


美しさは、残酷であり、同時に非凡でもある



まともなことを、まともに言える者などいないのだ




「恐らく、宋の中でいろいろと齟齬があるのだろう。決戦と思う者もいれば、時期尚早と思っている者もいる。それをひとつにまとめて梁山泊にむかわせるだけの力が、蔡京にはない。蔡京と近い青蓮寺は、国家の意志を体現してはいないのだから。あくまでも、裏の組織なのだ。軍費の扱いひとつにしても、青連寺には難しいところがある」



「孤独で、苦しいと思う。それが、宋江殿の人生ということになる。耐えきれないと思えば思うほど、逆にその資格があるのだ。苦もなく耐えられるという男を、私たちは頭領と仰ぎたくはない」



「私の、どこが頭領なのだ」
「自分はこれでいい、とどこまでも思わないところがだ」



自分が泣くことなどないだろうと思っていた、私がだ。人の弱さも悲しさも、痛いほど伝わってくる。それでも人は生きるのだ、という思いも。そして、どう生きるべきかということも。



「宋江殿は、負けず嫌いだな。意地っ張りと言ってもいい。勝敗は超越したような表情をしていても、誰よりも勝ちにこだわっている。頭領はそれでなければ」



「裴宣、男と女が慈しみ合うのに、罰を与えるなどと、人の道にはずれていると思わぬか。梁山泊は、そういう人間の道にはずれたくなかったから、結成されたのではないか」



「慈しんでやれよ。男とは、そうするものだ。女を慈しむことで、男はさらに充実して生きられる。おめでとう」




「生と死の分かれ目がどこか、考えることはやめるなよ」




「必ずと言う言葉もよせ、樊瑞。すべては、流れの中で決めるのだ」




「なにがよくて、なにが悪い。人にそれを当て嵌めるのは、難しいことです。私は、なにひとつ楊令に押しつけようとは思いません」




長く力を蓄え続けた国と、梁山泊は闘おうとしているのだ。



「十年後は見える。多分二十年後も。しかし三十年後は霧の彼方で、五十年後はないも同じだ。俺はただ、いまを生きたい。生きていると思いたい。心の底から憎いのは、宋だ。しかしそれは、ちょっと間違えば、梁山泊になっていたかもしれん。憎しみは、役人が不正をなすからとか、税が高いとか、そんなところから生まれてはこない。大事なものを奪われた。そして二度と戻らない。そこからほんとうに、生まれてくるのさ。」



「憎しみを抱き、それをどこにむけていいかわからないとき、宋江殿にあった。宋江殿は、およそ憎しみなどとは無縁の人だ。それなら、俺の憎しみは、宋江殿と一緒にいることで、人でなくなるような燃え方はしないだろう、という気がした。ほんとうにそうだったよ、鄒淵。晁蓋殿と出会った時も、そう思った。だから、二人の意見が対立した時は、困ったもんさ」



生と死の分かれ目。すべてを死の方にむけられているとしても、その分かれ目に三日間立っていられる。見たくても見えなかったものが、見えるかもしれない。いま死んでしまうより、ずっとよかった。




「苦しいのかもしれん。しかし、俺がなくなって染むのだと考えると、苦しみも苦しみではないな」




人は、絶対にやらなければならないものを見つけた時は、強くなれる。




「私も、自分が安全である戦を覚えよう。安全であるが、同時に果敢でもある。そういう指揮をしてみたいものだ」



歴史は、覆すためにあるのです。




梁山泊が、結局は凡庸な叛徒の集まりだとしたら、この全体戦で殲滅させられる。
しかし、いままでの戦ぶりを顧みると、必ずどこかで非凡なものを見せる。防御に徹するなどという戦は、しないはずだ。防御に徹するというのは、局地戦の戦術にすぎない。だから、青連寺の二人は、全体戦を闘っているつもりで、いまだ局地戦しかやっていないのかもしれないのだ。



以上
またね***



2012年9月7日金曜日

水滸伝十三(食べる読書122)




この巻を読んでいた時、毎日がいっぱいいっぱいだったからだろう…。



初めて、涙した。



そんなに好きではなかった。



朱仝が死んだ。



壮絶な死だった。



雷横とともに梁山泊へ入った。梁山泊ができる前からの同志である。



この二人は似てる。同じ境遇だからだろうか。



朱仝も、いま己のできることをひたすらやり続けることで、梁山泊を守った。




それぞれの場で、タイミングで…。



何も言えない…。



敬服するのみ…だ。



その死を、その生を、その背後にある志を、想おう。




以下抜粋


「私も、そう思います。人がいれば、どろ泥もできます」
「それを、どう扱っていくかが、政事の問題なのだろう」



「父子の情と、志。そのどちらが強いか、長い時をかけて、宋江にわからせたい」
「志を貫くことは、父子の情をずたずたにすることか。それは面白いな」



「ますます、俺の好みだ。宋江という男の志がどれほどのものか、親父の血で教えて貰おうと思う。人の躰を殺すより、心を殺す。俺は、そちらに関心がある」



「切り捨てなければならないものは、もっと多くある。この国には、無用というより、害になるものが、まだ多すぎるのだ。梁山泊とぎりぎりの闘いをすることで、それはすべてきれいになる」



貧困の中にいる人間が、聞煥章は好きではなかった。当人が悪いのに、他人や政事のせいにする。貧困だけは、それが許される、というところがあった。貧困は、自らのせいである。そこから抜け出そうと思えば、努力でなんとでもなる、と聞煥章には思えた。
そしてまた、貧困の中で立ちあがってきた人間には、どうしようもないこだわりが常につきまとう。時には、それが行動を律してしまう。



緊張していると、見えるものも見えなくなる



「ほんとうに正しいことなど、まずないと思っておけ」




「お互いに縁があって、ともに戦っているんじゃ。肚の底を見せる時は、見せた方がよいのう」



それぞれの出来事は見つめていく。それが全体の中でどういう意味を持っているか、もっとよく考える。



志があった。晁蓋がいた。宋江はまだいる。そして、戦友がいた。
死んだ者のためにも、自分は闘い続けるしかない。



返事をしようと思ったが、秦明は声を出せなかった。
「林冲」
「おう、朱仝」
林冲は、しっかりと声を出した。
「おまえだけには、謝らなければならん。俺は、おまえより先に死ぬ。悪く思うな」
「いいさ、闘い抜いた」
「さらば」
見開かれた朱仝の眼にあった炎が、吹き消したように消えた。



「隊長は、死んだ。みんなよく見ておけ。これが、漢の死というものだ。泣く者は去れ。気を引きしめろ。隊長のために、勝鬨をあげる」



「とにかく、任せるところは任せるという度量を持て、呉用」



「みんな、戦をしている。宋江殿も私も、そしておまえも。戦場で闘って、おまえは林冲に勝てるか。林冲が、おまえのやっている仕事ができるか。そこを考えてみろ。おまえは、もっと大きなところでさまざまなことを考え、実際にそれが行われる時は、現場にいる者に任せるのだ」




「逆だ、関勝。みんなの前で厳しく言うことで、ほかの連中があれ以上責めることをできなくした。そうだと俺は思うぞ。あの二人の呼吸は、そういうものだ」




「私は、生きていると思いたい。その思いを、全身で感じたい。つまらぬことで、惑わされたくもないのだ。私を圧倒するような敵と、全身全霊で闘ってみたい」



「似ている。私になにか欠けているように、おまえにもなにか欠けている。それでいながら、常に生きているという実感を求めてしまう。おまえを好きになれないのは、そういうものが見えてくるからかもしれん」




人は、測りようのない妖怪のような部分を持っている。同時に、凡庸としか言えない部分もある。




「よく見えた。人はなぜ生きようとするかも、見えた。国の姿と、人が生きようとすることが、実は重なり合うのだということも、いまよりよく見えていた」




「人とは、そういうものだ。それぞれが、生きていこうと思った場所がある。そこを動くことは、生きることを否定する場合でもある、と私は思う」




「戦はつらいな、童猛。ついさっきまで語り合っていた者が、死んで行く。自分が死んだ方がずっと楽だ、と私は思うよ」




以上
またね***



2012年8月22日水曜日

水滸伝十二(食べる読書121)





梁山泊にとって厳しい展開になっていく。



しかし、それでも崩れないのは、梁山泊自身も変わっていっているからだ。



この巻では、三人の男の変化があった。



楊春は、解珍との旅により己を見つめ、一皮むけた。これは時間をかけ、変わるきっかけを与えてもらっての成長である。



官軍の関勝は、梁山泊に入った。これは、これからの活躍の場を変えた。そのことで梁山泊はその分大きくなる。



これら二つはこれからの梁山泊を良いほうへと導く変化である。



しかし、必ずしも準備万端整った後にものごとは動いていかない。



いまある危機を脱するには、その場でこれまでの自分を超えないといけない。



盧俊義を救出した燕青がそれである。人間業ではなかった。火事場のくそ力のようだが、おそらく違う。生きているのが奇跡のような状況を超えてきたのだ。敵もどうしようもない。



この変化。


いざとなれば、どうにかする。これまでの梁山泊は、多くの男達のこのような奇跡の上に立ってきたのだ。



おそらくこれからもだろう。



勝ち残るために変わる、そして超える。



以下抜粋


帝が、ただ帝であれば、それでいい。すべてのことが、帝の権威のもとで、進んでいくのだ。つまり、秩序の拠りどころであり、中心なのだ。



帝を暗殺するのがどういうことか、李富には容易に理解できる。帝を秩序の拠りどころにした国のあり方を、否定することだ。そして、帝をただの道具にしてしまうということだ。



「伏す者は、去れ。嘆く者は死ね。ひとりひとりが、自らの足で立つのだ。晁蓋に対してできることは、それだけだ。それぞれが部下のもとに戻り、私の言ったことを伝えてやってくれ。晁蓋が、勝利を待っていると」



生きていることが発する痛み、心が発する痛み。それは思想というより、独白に近いのかもしれない。思想は、独白の底流にあるのだ。



「感じやすい男だ。あの男の拳を見るたびに、そう思う」
「強さと弱さを持て余す。俺のまわりにいるのは、そんな男ばかりだ」
「私には見えるな、梁山泊がどういうところが」



「大きな場が必要なのだ、関勝殿には。器量も、それにしか合っておらん」



「わからんが、なんでもやってみることで、いままで道も開けてきた」



死ぬのは恐れはせぬが、理不尽な死は拒みたい



人には、それぞれ、身の丈に合った勝負というものがある。万余の敵を相手にした勝負なら関勝殿にふさわしいが、牢城の見張りではな



「言うさ。梁山泊は、おまえも欲しい。俺は、人たらしなのだ。どんな人間でも、必ずたらしこんでみせる」



「犬死にか。それもまた人生、という気もするが」



この男は、人とうまく融和しながら、いつの間にか自分の思惑通りに周囲を動かす。そういう揺らがないなにかを持っているから、副官にしたのである。



関勝殿の出方を見ている、と考えるべきです。それには、時を稼ぐことで対抗する。それが良策でしょう



「関勝殿には、どこか稚気がある。それが、人に誤解を与える。はじまりは、そこからでしょうね。特に、遠くから見ていると、稚気の部分は見えず、結果だけがすべてということになる。これが戦ならいいのですよ。勝敗という動かし難いものがあるのですから」




「誰もが、関勝殿の力を認めているからですよ。だから忠誠であると信じられないかぎり、どこかで外へ押し出そうとする力が働くのです。その外が、雄州ならばいい。さらに力が働けば」



「人は、果たさなければならない責務というものは持っている。それさえなせば、あとは好きなように生きたいものだ、と思う。俺はそうだ。卑屈になりたくもない」



「雄州という池は、関勝殿という魚には小さすぎます。狭い池では、魚も大きくなれないと言いますし」



「この暮らしを大事にしたい、という気持ちはあります。しかし、過ぎたものだという思いもまたあるのですよ。ここで静かな暮らしを持った代償は、死であっても構わないのです。意味のある死なら」



「役人の数が、多すぎます。諸国が乱立していたころの役人を、そのまま抱えているようなものです。役人は、以前は仕事を持っていました。実入りになる仕事をです。しかし宋として統一されると、民が商いをするようになりました。生産もです。役人に残されたものは、権限だけです。その権限が、賂を招くのです。それ以外に、昔のように役人が儲ける方法はないのですから」



「浪費そのものが悪ではなく、浪費によって富める者が、ごくかぎられた数だということが悪なのです。働かされる者が、きちんと賃銀を貰えば、それが使われ、またものが、動きます。いまは、そうなっていません。働く者は、徴発され、自らの生産を中止して、労力だけを出すのです。これでは、国は疲弊します。なぜそうなるのか。一部の者が、私腹を肥やそうとするからです」
「人は、欲で動くものだからな」
「その欲を果たすために、賂を使います。これも、民の手には渡りません。民の手にまで動く富が行き渡れば、浪費は決して悪いことではないのです」
「いま、民は無償で駆り出され、働かされているだけだ」
「だから、腐るのですよ。腐る原因は、富める者がごく一部いて、ほかの者がどんどん貧しくなっていくことからはじまっています。それを修正できるのは、政事だけということになります」



「とにかく、やらねばならぬことが、次々に出てくる。人の営みとはすごいものだと、改めて考えさせられる」
「その営みの中で、人は悲しんだり怒ったり、そして喜んだりしているのですね」



学べば学ぶほど、法と実際の社会は違うのだ、と思わざるを得なかった。解釈の仕方で、どんなふうにも法は曲げられる。しかし、人の世を律するものとして、法以外には考えられなかった。



張りつめ、決断する時はもう過ぎた。あとは待つしかないのだ。



「法は、いつでも人のために作られる。どんな法も、最初はな。それから、少しずつ執行する者が都合よく解釈するのだ。そういうことができないようにしても、時が経つとそうなる」



「それぞれの戦がある。盧俊義様も、そう思っておられる。寝ても醒めても、続く戦がある。それは実戦より苛酷だ、と私は思っている」



兵としての強さではなく、人としての強さと闘わなければならない。
「まず、希望を打ち砕く。かすかな希望を抱かせ、打ち砕く。それをくり返すということだな、沈機?」
「まさしく、そこからはじめます、聞煥章様。躰の痛みは、躰を打ち砕くのではなく、希望から打ち砕いていくのです。行き着くところは、死ではなく、荒廃。つまり命はあっても、人ではなくなるということです」
「責める者は、相手の心とむき合い続けていかなければならない、ということか?」
「責める者が、負けることもあり得ます。その時は、なにも得ず、ただ殺してしまったということになります」



「いえ、聞煥章様。そこだけには触れません。恥じているものは、人を頑なにもします。触れない方が、かえって傷つくのです。その傷つき方には、無力感が伴うと思います。だから、頑なになることもありません」



「周囲から、人の気配は断った方がいいのです。たまに現われる人間が、私ひとりの方が。私を待つという心境に盧俊義がなった時は、半分落としたようなものでしょう」
「責めるのか?」
「私が行くたびに、痛い思いも苦しい思いもさせます。殺さない程度にです」
その痛い思いや苦しい思いを、やがて待つようになるということなのか、と李富は思った。



都合の悪い時のための頭領として、宋江は巧妙に晁蓋を使うつもりなのだろう。茫洋として、誠実という印象が宋江にはあるが、無情でしたたかな面も持っているのかもしれない。頂点に立つ男は、そういうものだと呼延灼は思っていた。



人間離れした、異様な力が作用したのだ。奇蹟と言ってもいいだろう。理屈を超えたものは、確かに存在している。聞煥章はそれを認め、敵にそういう力が作用した時は、割り切って諦めることにしていた。いつでも、どこでも、そういう力が作用するわけではない。



ほとんど勝ちを手にしながら、人間離れした力が働くと、最後の最後で逆転ということもあり得る、と痛感する出来事だった。



「人には、いるべき場所というものがある。私は、そう思っています。私のいる場所は、関勝殿が作ってくれた」
「俺のいるべき場所は?」
「自分で作るしかないのですよ。他人が作るには、関勝殿は器が大きすぎる」



「勝手にひねくれていろ。俺はいま、長い友であった韓滔の最期を、ただ語っているだけだ」


「先の先まで考える。百年、二百年先まで考える。それは不遜だと、私は思う。おまえの欠点は、国家のありようというものが、いつもあるところで思考を遮ることだ。国家がこうあるべきだというのは、逃げにすぎん。ありとあらゆる方法で、直面している現実を切り開くのが、われらのなすべきことだろう、李富?」



「私は、どんな手段を使っても、梁山泊を潰したいと思っている。国がどうとか、そういうことではない。私は、宋という国の、青蓮寺という組織で、仕事をすることになった。その仕事を全うすることで、歴史が動くとも思っている。だから、いま直面しているものがすべてなのだ」



梁山泊は、闇の塩を糧道にして、宋を乱している。ならば、こちらも闇を使う。城郭を三つも奪ったということは、世俗にまみれるということでもある。



「楊春殿はまた、楊令が持っていないものをお持ちです。じっと耐える。それができる。苦しみや痛みではないものにも、耐えられます。心が弱い。それを、誰にも頼らずに克服している」



「部下の三人も、私も、関勝殿に運命を懸けている。虚心になっていただきたい」



「生き生きとしているぞ、関勝殿。男は、やはり思うさまに生きるべきだ。私の人生は、関勝殿と出会ったことで、どれだけ救われ、豊かになったかわからないほどだ」



以上
またね***



2012年8月21日火曜日

動きたくて眠れなくなる(食べる読書120)




成長という変化なのかどうかは保証できないが、少なくとも「変わる」という点においてはクリアする。それは今までとは異なるものの見方をすればいい。



しかし、そんなものの見方を知っているということはすでに試し済みといったところだ。



つまり、どういう基準においてかは人それぞれだが、今のあなたのものの見方があなたにとっては最高な見方である。



それでも、自分で納得、満足していないなら、新しい見方を仕入れないといけない。



本書はその手助けになると思う。



「なるほど、こういうふうにとらえればいいのか。」といった内容が多々ある。



より良い自分、理想の自分へ



変・身!!!



以下抜粋


からだの器官がすべて不可欠であるように、無駄な感情なんて一つもない。いますぐ「自分を邪魔する感情がある」という考え方は捨てた方がいい。すべての感情はいつでもあなたの役に立とうとしてくれている。あなたの人生がより良い方向に進むように、24時間見守っていけくれている。



痛みの感情は、あなたに「行動を変えろ」と知らせてくれている。



感情はつねにあなたの人生がより良くなるようにメッセージを送っている。メッセージを受け取ったら、行動を変える。行動を変えたら、感情に感謝して、その感情を手放そう。



「行動力がある人」とは、つまり「行動する感情の状態を作りやすい」ということになる。




明確な言葉に向かって、発想と力が引き寄せられる。
もっと言うと、のぞむ結果を出すために必要な知識や情報を、あなたの意識が自動的に拾い集めてきてくれる



目標の本当の価値は「達成するため」にあるわけではなくて、「感情にスイッチを入れるため」にあるからだ。



現実を見ていやな感情が生まれたら、それは現実がいやなのではない。自分が見ている景色がいやな気持を作っているだけなんだ。その景色が気に入らなければ、もっといい景色を見られるように質問を変えてみればいい。



変えられないことは受け入れる。それ以外のことはなんでも変えられる。変えられることを、変えるのは自分しかいない。



行動までスムーズにつなげるには、頭でする質問に「感じたい気持ち」も一緒に入れてしまうといい。



はじめから「面倒くさい仕事」というものも、「ワクワクする休日」というものも存在しない。それをどう感じるかを決定しているのは、すべて自分の質問なんだ。



毎日同じ人と顔を合わせなさい、同じような振る舞いをしなさいと言われているわけではない。なのになぜか今日も一日、一年前と似たような一日を過ごしている。
それは「私はこういう人間だ」という思い込みと矛盾しないような行動を、無意識のうちにとっているからだ。




「わかっている」は人生のトラップ。
「わかっていないかも?」という姿勢が人を成長させる。



大切なのは「主体的に」思い込むこと。「これを信じられたら、今の自分に都合がいいはず」というものを見つけることだ。



自分の心に、
すてきなほらを吹こう。



多くに人は、自分の思い込みに従えば、自分の望みが叶うと信じている。「生きていくための思い込み」と「のぞみを叶える思い込み」は、根本的に違うのにもかかわらず。



できる人は、できる理由を、
まるで他人事みたいに語る。



多くの人は自分がなにを求めて前進するのか、なにを避けて後退するのかあらかじめ決めていない。だから場面場面で、ころころ変わってしまう。



人生に待ち受けている大きなトラップとは、なにを大切にするか、自分の意思で決めていないこと。そして与えられた環境だけが、それを決めるスイッチになってしまっているということだ。



多くの人はなにかを追い求めることに夢中だが、自分がなにを大切にして生きていきたいのかを考えない。
なぜなら欲しいものを手に入れると、幸せになれる。そう教えられてきたからだ。
でも実際にそれを手にしたときはどうだろう。「あれ?こんなもんだっけ?」と物足りなく感じたことはないだろうか。それもそのはず、自分を幸せにするのは、自分自身のものの見方でしかないからだ。



人生を充実させる質問はいつも、いつまでも変わらない。「自分が本当に大切にしたい気持ちはなにか?」そして「どうすればその欲しい感情が手に入るか?」。



より経験したくないことはルールを厳しく、より経験したいことはルールをやさしくしよう。




小さなことで喜びを感じられるようになると、人生全体で幸せを味わえるようになる。



リーダーの仕事は、部下を反省させることじゃない。
「なんでやらなかったんだ」とフィードバックしてもあまり意味がない。
大事なのは、まずそれをする意義をしっかり理解してもらうこと。そしてそれをすることのメリット(快感)と、しないことのデメリット(痛み)をどれだけ多く伝えられるかにかかっている。



なにか失敗しても、自分のせいにしない。かといって他人のせいにしてもいけない。「どういう行動をとればよかったのか?」を考えるようにする。
自分で法則を作るのは楽しい。信じたいことを信じられるようになり、動けることの範囲が広がっていくからだ。
法則を変えれば、人生が変わる。



自分ひとりでがんばる必要なんてない。
人生の豊かさはチームプレーにこそある。




会話中、意識の焦点を「相手とどこが違うか?」に向けているとケンカになるが、「相手とどこが同じか」に向けて、ちょっとの同じ、ちょっとの同じを積み重ねているうちに、ラポールが作られていく。




コミュニケーションがうまい人とは、抵抗なく相手の世界観に入り込める人。
そして相手に合わせ、自分の言葉の使い方や声のトーン、呼吸のペースを変えることを楽しんでいる人のことをそう呼ぶんだ。




問題が完全に解決する前に、行動パターンを元に戻してしまう。それは問題を解決する過程で「ニーズが満たされない」からだ。人が動くのはニーズが満たされるときに限る。
痛みは友だちだ。問題解決に向かう、小さなきっかけを生み出してくれる。でも大事なのはその後。その小さなきっかけを長期的なモチベーションに変換させたい。



1 変えたいのなら、それは”今”変わらなければ”ならない”。
2 ”私”はそれを、”今”変えなければ”ならない”。
3 ”私”はそれを、”今”変えることが”できる”。



いつも明るい人は、
心の中の言葉づかいが明るい。




たとえば5年くらいかけてじっくり成果を出していきたいプロジェクトについては、「このプロジェクトは、”農業”のようなものだ」と伝えることで、とり組む価値のイメージが伝わりやすい。



メタファーを使って、いまその人が置かれている状況を、サクセスストーリーのある段階にあてはめてあげるやり方もある。
現実の世界も架空の世界も、成功にいたるストーリーはほとんど同じだからだ。



安心してほしい。あなたが負けたまま、物語が終わることはない。
壁にぶつかって先が見えないときは、壁を”サランラップ”にでもたとえて前に進もう。



人生は自分探しの旅ではなく、自分を作り続ける旅なんだ。




「成功とは、正しい判断の結果もたらされる。
正しい判断とは、数多くの経験から可能になる。
もっとも重要なことは、数多くの経験のほとんどが、誤った決断から作られているということだ」



「よしやろう!」を
一日何回言えるかどうか。




どんな夢に向かって、どんな生き方をしているのか。
ただその事実だけが、自分が自分であることを認めてくれる。



ひとは、その最期のときの覚悟をもって、
生きなければならない。



以上
またね***





2012年8月20日月曜日

器(食べる読書119)




心が充満してくる。とうめいで、やわらかく、やさしい感じのあるもので。



幸せと感じるし、もうすでに、満たされているとも感じる。



世の中はもう完璧だとも思える。



この世のすべてが奇跡であり、ありがたいのものである。



笑顔になる。



この本と向き合う時だけ、満たされた感じになるのではなく、日常生活の中でもこのようなときを増やしていきます。



ありがとうございます。



幸せいっぱい、夢いっぱい!



以下抜粋


真に魅力的な人とは、人間的に大きく、さまざまな側面において優れている人であり、それを言いかえれば器が大きい人、器量のある人と言えるのではないでしょうか。



税金って、俺にとっては種をまいているのと同じなの。たとえ悪いかもしれないけど、公務員の人たちって、俺に代わって日本という畑を耕して種をまいてくれる自分のところの社員みたいなものなんだよね。そのおかげで日本全国が潤って、経済という大きな実を実らせることができるの。そしたら今度は商売をして、その実を収穫すればいいんだよ



一人さんって、日本中が自分の庭で、公務員は全員、自分の社員。税務署は自分の監査役と思っているんです。器の大きい人って、考えるスケールも大きいのですね。



逃れられないようなことが起こったとき、それは自分に必要なことなんだって一人さんは言います。




たとえば新商品を考えるときに、お客さんのためになって、それで世間も喜んでくれる商品で、うちもしっかり利益を出すことを考えるの。そして、そのことで天が”まる”をくれる商品だったら、絶対失敗しないんです




成功して社長になったり、偉くなったからといって威張っていると、世間から応援してもらえなくなりますし、天も味方してくれなくなるのです。



私が伝えたい「奉仕の気持で働く」とは、決して無償で働けということではありません。「奉仕の気持で働く」ことによって人は活かされ、その仕事を通してさまざまな気づきや学びを得られるようになるのです。



自分の仕事でけでもつつがなく終わらせるのは大変なことです。さっさと終わらせるためには要領や段取りがよくなければできません。さらにそのうえ、人の仕事も手伝おうとなったとき、その人にはすごい力が身につくのです。
普通の人は、自分の仕事が終わったらさっさと帰ります。それで余った時間は自分のために使うのです。しかしその貴重な時間を他人のために使うことができたとき、その人の器は一段と大きくなります。



自分の限界は「自分には無理だ」とあきらめたときに訪れるものだと言えます。しかし、方法を一つとは考えず、自分の「目的」に思いを広げれば、可能性の幅は広がっていくもの。あきらめずに行動していれば、必ず道は開けてくるのです。目的に対してのやり方は無限にあります。「何度かがんばってみたけど、うまくいかなかった」というのは、やり方が間違っているからではないでしょうか。そのときは他のやり方を探してやればいいのです。



私が手に入れた成功や幸せは、決して何もしないで手に入れたものではないのですが、かといって、それを手に入れるのにすごくつらかったということもありません。正当な努力もしましたし、いろんな困難なこともあったけど、その成功や幸せを手に入れる過程を楽しんでやることができたということなのです。



勝ったときに驕らない、威張らない。負けたときにいじけない、くじけない、そして妬まないということです。



面と向かってケンカするのは問題があるけど、心の中で「ふざけるな!今に見てろ!」と思って、家に帰って猛勉強するの。それで偉くなって、その上司を見返してやればいいの。それで成功したときは「あなたのおかげです」と言えれば、その人の器が大きくなるの。



「必死でがんばる」と言いますが、必死とは”必ず死ぬ”と書きます。たとえば、「あなたはこれができなければ、三日後に銃殺の刑に処する」と言われれば、誰もが死ぬ気になってがんばりますよね。それでもできなかったとしたら、それは今の、あなたの限界なのです。必死でがんばるとはそういうことだと思います。



器って受け皿だから、大きいほうが、より多くの人を受け止めることができるの。でも、一人の人を受け止めるだけの器も大切なんです。
だから、あなたは誰のために器を大きくしたいですかっていうことなの。その誰かを受け止めるだけの器を、一生かけて大きくしていくのが人生なのです



いちばん注意しなければいけないのは、自分の驕りなんだよ。人におだてられて、やらなくていい仕事までして、借金だらけになるのはバカバカしいよね。自分の足元を見て、しっかり歩こうね。



男性で女に弱い人は女で失敗したり、芸能人に弱い人は芸能人にはまって引っかかったりするの。こうやって天の試練は必ずその人のいちばん弱いところに現れて、その人の器量を試すんです。
人生はそうやって、弱いところを強くするという修行なんだよね




自分の心にもない使い方をしたとき、お金を粗末に扱ったことになるの。そうするとお金が逃げて行くんです。
自分が本当に納得しない使い方をしているとき、お金は逃げて行って、入ってこなくなっちゃうの。
「いっぱいあるから別にいいや」って思うかもしれないけど、お金は粗末に扱ってはダメなんです。お金も人も大切なんです。



人間は、心からやりたいときが、そのときなんだよ。



たくさん学び、たくさん実践すれば、人は必ず成功します。そのうえ、そのことをまわりにも教えてあげたら、あなたは成功者のうえに、いい人になるのです。




人は、一生をかけて勉強し、学んで器を大きくしていくのです。そしてそれは、器を大きくしていくという修行であり、人生という旅でなのです。




いつも「不機嫌」は人には、不機嫌な出来事がしょっちゅう起こります。
「中機嫌」の人は、機嫌がいいときもあれば、悪いときもあります。つまり、普通の人です。だから普通の人には、普通のことしか起こりません。
これが「上気元」の人のところにはなぜかいいことばかりあって、さらには奇跡が起こるのです。



事業家は、世の中の流れを変えることができる、とても重要で楽しい仕事なんだよね



世の中にはお金が流れる川があるんだよ。その川にちょっと手を入れると、川の流れが自分のところにスーッと入ってくるの。
どうだい。その川に手を入れて、流れを変えてみないかい?



俺が言う”困ったことは起こらない”っていうのは、困ったことが起きてるんじゃなくて、やり方を変えなさいっていう合図なんだよ。それで一生懸命やってみて、それでもうまくいかないときは、それって本当に必要なのか、それがないと目的は達成できないのかって考えるの。
そうしたときに、本当に大切なことが何かってことが見えてくるんだよね



「人は急に高いところに上るとまわりが低く見えるから、それで怖くなるんだよ。だけど、そのうち慣れるから大丈夫だよ。
それに、恵美ちゃんはお客さんに喜ばれて、世間の人にも喜ばれているんだよね。あとは天が喜んでくれるようなことを心がけていたら、天が必ず味方してくれるから、心配しなくても大丈夫だよ」




うまくいっているときにこそ、相手に、世間に、そして天に感謝。そして失敗したときは、失敗の原因を知り、二度と同じ過ちをしないようにするのです。そのことから学ぶことができれば、失敗も成功への大きなステップとなるのです。
そして、その失敗を克服したとき、その人の器はまたひとまわり、大きくなるのだと思います。




”本当にそれが必要なんだろうか”っていうことがあるんです。あなたが人に「どうでもいいよ」って言えないのは、それは単なるあなたの”我”じゃないんですかってことなの。



人間は機嫌が悪いよりも、機嫌がいいほうが絶対にいい。はたから見て、その人の器が大きいかどうかというよりも、その人の機嫌がいいかどうかのほうが大切なんです。




世の中には、自分の思いどおりにいかないことなんて山ほどあります。それをいちいち、自分の思いどおりにいかないからといって自分の機嫌を損ねていたら、ずっと腹を立てていないといけなくなってしまいます。



偉い人は他人にほめてもらうことより、他人をほめることを考えるの。



花は人に咲かせるものなんだよね。
自分ばっかりが咲いてちゃだめなんだよ。
自分もしっかり咲いて、さらにまわりにも花を持たせてる。
それが俺は器量だと思うんだ




以上
またね***



一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...