2011年9月18日日曜日
妖怪学講義(食べる読書55-2)
以下抜粋
哲学のめざすところは合理的な思考に基づく心理の主体的な探究です。であるならば、真理をおおいかくす迷信の正体をあばいて撲滅していくのが妖怪学のめざすところ。じつに哲学と妖怪学は表裏一体の学問であったのです。
わけのわからないものにひかれていく人間の心性に目を向けることが、妖怪学を学ぶ第一歩です。そのうえで、科学的な検証と明晰な論理によってその本質を見きわめ、根拠のない思い込みや理不尽な偏見を打破していく。そうした批判精神を養うことを目標にしたいと思います。
「洋の東西を論ぜず、世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理を持って解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す」
「死んだ筈の人間が現れたら、それはやはり幽霊なのである。それが固有名詞を失ってしまったら、お化けと呼ばれるかもしれない」
そもそも水子が祟るという発想は、江戸時代はもちろんのこと昭和の中ごろまでありませんでした。水子供養がはやり出したのは1970年以降とされています。まったく現代的な風習といっていいのです。
おろされた子は怨んだりしません。祟ったりはしません。けれど、泣いている。その思いは一生持ちつづけていくしかないのです。
妖怪はやはり民俗学の色彩が強くあるようです。かたや幽霊は文学的な要素を多分に持っていると言えます。浮世の人間模様が背景にあるからこそ、幽霊話は文学であり、人情話にもなるわけです。・・・。そこには恐ろしさや人の心の醜さだけではなく、悲しみがあります。美しささえあると私は思います。
昔の人々にとっては霊という存在、その力の発動は、生身の人間などてんで比較にならないほど強烈なものと意識されていました。
およそ文学であれ芸術であれ、それが生まれ出る土壌は、怨霊が現れる時空観と重なり合っています。もともと満ち足りた真昼の明るさの中から、あえて文学が語りだされる必要はありません。
ひたむきな思い、それがかなわなかったことのくやしさ、くちおしさ……それこそが浮かばれない霊にとって、この世に残留する本質的な契機であるにちがいありません。そうであるならば、それを受けとめていくのが宗教であるのかもしれません。それを昇華させていくのが文学や芸術である、とは言えないでしょうか。
人にも知らせず文字にも記さない。これこそ呪いの清く美しい姿。呪いの本質にかかわることなのです。
予言もまた呪いと相似形をなしています。予言の自己成就というのがまさしくそれに該当します。
語られた言葉が呼び起こす具体的なイメージは、いまだ限定されていない思いに限定を与え、修正を加えます。やがて行いまでも制御するようになっていきます。外から威圧的に言葉がくだされた場合はなおさらです。意識に刻みつけられた言葉をなぞるように、人は行動へと駆りたてられていくのです。
人の不幸を願うのが「呪い」ならば、人の幸福を喜ぶのは「祝い」です。・・・。旁の「兄」は、ひざまずいて器をさし出す形を表している。…、現在の文字学では、たまわったものを受ける器と理解されています。誰から何をたまわるのかというと、それは天から天の意向をたまわるのです。
この世の中には因果関係で結びついているわけでもないのに、何らかの一致を彷彿させる現象がありはしないか…。
不可解なものが効力を発揮するという点では、これまた円了先生の言う妖怪現象に他なりません。
ここではすでに妖怪は、「起きること」ではなく「現れる者」に転換してしまっています。
私たちが妖怪を具体的な存在として想像していることと、円了先生が妖怪を不思議な現象と捉えていたことのあいだにある溝は、このように理解することができるでしょう。
私たちは普段でも、「ついている」とか「おかげさまで」とか「縁起でもない」という言葉を使ったりします。目に見えず理屈で割り切れない何ものかを、私たちは期待してもいるし、遠ざけようともしています。
円了先生が打破しようとしたのは、妖怪そのものであるよりは、妖怪を信じてしまう民族の心性であったのかもしれません。そしてそれはなおも変わらずありつづけているのです。
以上抜粋
呪いと聞くと、第二次世界大戦中にアメリカのルーズベルト大統領が急死したという話を思い出す。本当の話かどうかは知らないが、戦争中、比叡山だったかな?の坊さんたちがルーズベルト大統領に対して呪いを僧侶一丸となってかけていたらしい。それで、ルーズベルト大統領が死んだ時大喜びしたそう。
民族性なのかな。他にできることはなかったのかあ?と思った。ルーズベルト大統領がすべての根源ではないはずだろうし、呪い以外にも勉強してもよかったのかも。言い古されてはいるが、どんな技術もそれを使う人によって悪にもなるし、善にもなる。だが、怨みがとどめあえずに渦巻く歴史を持つ日本らしいではある。そして、そこに少しばかり癒しを感じたりもする。
以上
またね***
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