2012年10月10日水曜日

心にきた言葉集33






「士君子、すなわち国家有為の人物にはできることとできないことがある。君子は他人から尊敬せられるような礼儀道徳を自ら修め行うことはできるが、他人に必ず尊敬させるということはできない。他人から信用せられるような人格を作り上げることはできるが、他人に必ず自分を信用させるということはできない。他人に使われるような才能をみがくことはできるが、他人をして必ず自分を使わせるということはできない。だから君子は自分の行いの正しく修まらないことを恥ずかしいとは思うが、他人から恥ずかしめられることを恥とは思わない。自分に真心のないことを恥ずかしいとは思うが、他人から信用せられないことを恥とは思わない。自分に能力のないことを恥ずかしいとは思うが、他人に使ってもらえないことを恥とは思わない。だから栄誉に誘惑されず、非難されることを恐れず、道徳に従って行動し、正しく我が身を修養し、周囲のものごとのために動かされない、これをまことの君子という。「詩経」に、”穏やかでつつしみ深い人こそ、すべての徳の根本である”というのは、このことをいうのである。」



これは、荀子の非十二子篇のなかの言葉である。



日常で目にする文言や言動など、ほとんどが商業的文脈の中で発せられるものであるのが現代ではないだろか。



つまり、人の道を説く言葉は日常生活の中にはちりばめられていないのだ。



そんな時代に生まれ、どう歴史的役目を果たす人物へと自分を育てられるか。



その答えの一つが古典から学ぶことだ。



上の言葉は、心にきた。と同時に、指針を示してくれ、多少なりとも、私の判断というか価値基準をはっきりと言葉にしたものだと感じた。こういう人間となりたいと思い続けてきた。なかなか現実化できてはいない。覚悟だったり、こう生きると決断していないのかとも思った。



自由とはおそらくこういうことだ。



すべての基準は己で決める。人がどう受け取ろうが、それは相手の問題だ。こちらは関係ない。



自立。



こんなにすごい考えや思想が古典にはあるのかと、いまさらながら古典の普遍さに驚くばかりです。



これからも学ばせていただきます。



よろしくお願いします。



以上
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2012年10月2日火曜日

水滸伝十八(食べる読書127)





最後の闘いが始まった。



漢たちが最後を全うしていく。



秦明が死んだ。



林冲が死んだ。




林冲が死ぬとは思わなかった。



死なないやつだと思っていた。




他にもそれぞれの死を迎えた。



もう、小細工なんてしている時ではない。いまある力を出しきるだけだ。真正面からのガチンコ勝負。




すべてを懸けての闘いが人生の中であるのだろうか。



真正面から、しっかり受け止め、見つめ続けて成し遂げる闘いはあるだろうか。



がむしゃらに何かにむかったことはあるだろうか。



自分を律し、この時のために準備してきたという闘いはあるか。




人生に意味を与える大事なことだ。






以下抜粋



「しかし、嫌いだよ、俺は。宋江殿には、なにかしら大きなものを感じる。李俊殿には、頼れるものがあるし、花栄殿は信頼できる。そう思わないか、張順?」
「俺たちは、俺たちの上に立っている人間のために、闘っているのではない」
「梁山泊のために、闘っているか?」
「いや、それも違う。心の底を見つめてみると、わかる気がするのだ。誰のためでもなく、自分のために闘っているのだとな」



やがて、「替天行道」を渡された。
石勇は、それに心を動かされたわけではなかった。それを石勇に読ませようとする時遷が、たまらなく好きになっただけだ。



「こわいものは、仕方がない、しかし、このこわさが、いままで俺を生き延びさせてもきたのだ」




「人が考えるより、馬はずっと勇敢であり、同時に感じやすい。それを人がわかってやることによって、傷も癒えるのだ。心の傷の方だが」




「時が、それほど都合のいいものだと思うなよ、林冲。眼の前から消えると、それが無上に大切なものだと思う。その思いは、消えぬよ。若い男と逃げて、死んでしまった妻でさえ、私は忘れておらぬのだから」




負けたと思っている兵に、気を取り直させる時も必要だった。負けたことがない兵は、しばしば負けながらも生き延びた兵より、どこか脆いところもある。



大敗しても、まだ優勢であるというのは、童貫にとっては大いなる皮肉であったが、考える時を作ることはできた。




「私は、私にできるかぎりの戦をやります。それ以外に、いま申しあげることは、なにもありません」
「それでいい」




「わしは、山で朽ち果てるはずだった。夢もなく、恨みや憎しみも呑みこんで、人知れず消えていくはずだった」
「それが、派手な余生になったな、解珍」
「それよ。人生を、もう一度生き直したような気がする。そんなふうに思える人間など、どこにもおるまい」
「羨ましいかぎりだ」




自分たちが恐怖を感じているのは、闘わずに負けることなのだ、丁得孫は思いはじめた。死ぬのがこわいのではない。闘わないまま負けるのが、こわいのだ。




具足を着けるのは、好きではなかった。それ以上に、志というもので心を覆ってしまうのに、馴染めなかった。自分が梁山泊に加わったのは、兄貴分の李俊に従ったからだ。




国の不正を糺そうとするなら、梁山泊にいる者はいかなる不正も犯してはならない。聚義庁が追及をしないのなら、自分が罰を与えてやる。




「宋江殿に傷をつけてはならない。失敗から憎まれることまで、すべて自分で引き受ける。それが呉用殿でもある。実戦の指揮を離れた時から、自分はそれでいいと思い定めたのだろうな」




宋軍の兵にも、家族はいる。殺されれば、当然その家族の心には、梁山泊に対する憎しみが芽生えることになるのだ。




人は、さまざまなものを、克服して生きる。自分が克服しなければならなかった、最大のものは、宦官であったということだ。




無抵抗の人間を斬ることに、阿骨打はいくらか気後れを感じているようだった。これまでも、そういう面を何度か見せている。
言い訳のように、あるいは自分を納得させるように、そういうことをいう阿骨打が、楊令は嫌いではなかった。しかし、これからもっと多くの人間を、殺さなければならなくなるだろう。
新しい国を作るとは、多分そういうことなのだ、と楊令は思った。




人の長い営みも、呆気なく灰燼に帰す。戦とは、そういうものでもある。軍と軍がぶつかり合うのだけが、戦ではない。




戦が好きだった。強い者を相手にして、完璧な勝利を収めるのが、なによりの快感だった。しかし、さらにその心の奥を探れば、恐怖があるのかもしれない。負けるかもしれないという恐怖。死ぬかもしれないという恐怖。
そしてそれを克服した時、はじめて自分を男だと感じることができる。
それは心の奥の奥に潜んでいるもので、自覚することは稀である。自覚したとしても、すぐに心の奥へ押しこめてしまう。



「頼むから、乗って逃げてくれ。生涯に一度ぐらい、女を助けた男になりたい」
「林冲殿」
「俺は、女の命を救いたいのだ。女の命も救えない男に、俺をしないでくれ」




「戦には、経験も必要だが、もっと必要なものがあるのですよ、呉用殿」




「大きな組織になったものだ、梁山泊は。ひとつの国のかたちをなしている。それをなすだけでも、想像を絶する苦しさがあったろう。そのうえ、北と南にも眼を配っている」
「私は、呉用殿のお躰を心配していますよ、いつも。私は戦のことだけ考えていますが、戦をする力が梁山泊にあるということは、忘れまいと思います。その力を作られたのは、呉用殿です」




「罵る相手が、いなくなった。私を罵倒する者もおらん」
林冲と公孫勝は、どこかで認め合い、通じ合うものを持っていた。鈍い自分にも、それぐらいのことはわかる。



以上
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2012年10月1日月曜日

水滸伝十七(食べる読書126)




想いを形にする。



私は、そのために生涯をささげたいと思う。




どれだけ自分の思想が現実化でき、それが人々を成長へと導くか。虚なのか実なのか、この目で確かめたいと思う。マルクスの社会主義は、虚であったのだろう。






闘いが最終局面に入った。



関勝が死んだ。



好きな人物のひとりであった。




董平など、他にも多くが死んだ。




闘いとは違った視点での、局面の推移がこの巻にあると感じることがあった。




魯達と盧俊義が死んだことだ。




この二人は、宋江の「替天行道」を形にし、いまの梁山泊を形にしてきた立役者だった。




この二人が死んだ。




時の移り変わりを感じるし、梁山泊のあり方にも多少の変化があるのだろうと感じる。




0から1にはした。これからは、どれだけ大きくしていくか。その本質は変えずに、だ。その役目はいまの人たちが担うことである。呼延灼、張清、史進、燕青などだ。




魯達たちは土台をつくった。われわれが生きるこの大地に根差した生活を実現するため、宋という国を支える民の中に根を伸ばし続け、組織立ててきたのだ。出発はこの足元にあり、これがそのまま基本であり、王道でもある。




思想を形にするために生涯をささげ、そのために生き、そのために死んだ。




敬意を払わずにはいられない。その健闘をだ。成し遂げたのだ。そして、しっかりと次の人材も育っている。この偉業は、ほかの者では成せなかった。




宋江や雷横とは違った敬意の気持が彼らにはある。




感謝。




以下抜粋


「俺のやることのどこかに、穴があるか?」
「穴などない。しかし、穴は自ら穿つものだ、と考えている人間はいるかもしれん」




しかし、ひとつずつだ。ひとつずつ進めていくしかない。




自分の人生が、自分の考え方ひとつで、意味のあるものになるのだと、心に沁みこむようにわかった。あの時のことは、忘れられない。




実戦がはじまれば、調略戦はあまり意味がなくなる。




「われらはみな、梁山泊の民。いまは、力を合わせて宋と闘っている。やがて、勝つ。私は信じているが、それを見ることはできん。私の寿命が、尽きようとしているからだ。多くの者が死んだ。それ以上に多くの者が入山してきた。激しい闘いは、これからも続く。ともに戦えないのは無念であるが、わが魂魄はこの梁山泊にある」




ひと時の感情で決めるな。あらゆることを考えて、決めるのだ。




呂牛という男の弱点は、自尊心なのかもしれない、と燕青は思った。追いつめられた時、人はそれまで隠していた本性を出す。




「ならば、喋ることのないまま、おまえは毀れていく。喋ってはならないものを抱いたまま毀れるのと、どちらがつらいのだろうか?」




「俺は、志を抱いて生きた。志のかぎり、生き続けたかった。しかし、ここで倒れることになった。楊令、この無念さがわかるか。俺は、すべてを達観して、おまえと語ったつもりだった。しかし、心の底の無念さだけは、語らなかった。おまえに、見せようと思ったからだ」




「志を全うしようと思えば、病んでもならんのだ、楊令。俺は病んだ。腹の中にいる病ごときに殺されるのが、無念でならん」




「子午山で、魯達は自分がむかい合うものと、じっとむかい合ったのだと思う。そういう、静謐な時の中にいたようだ」




以上
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2012年9月28日金曜日

水滸伝十六(食べる読書125)




進化論というのがある。ダーウィンが有名だが、環境に合わせるように、自らが変わっていくというやつだ。他の動物にエサを取られないために、キリンは首を長くした。などなど・・・。



そこには、どう生きるのかも同時に示してもいる。



変化のきっかけは環境が用意してくれ、どう変わるかの選択は自分にまかされているのだ。




この巻は、多くの主だった人が死んだ。



裴宣、柴進、そして袁明。



梁山泊と青連寺。どちらも痛み分けのような形となった。



前者二人の彼らが梁山泊を支え、もう一人が青連寺であった。



ここら辺りから、消耗戦の様を呈してきたようだ。



人が変わるのはこんなときだ。



梁山泊、青連寺ともに、彼らが死んだことでここで終わりということはない。彼らが担ってきたことを新たに担う人材は双方共にいる。



新しい人材は、先人の死により花開く。それは、先人が死ぬことで何かしらを得るからではなく、より厳しい環境に置かれるためである。



これまでと同じように生きていきたいなら、これまでと同じようにしていてはいけない状況にだ。



優しい。とてつもなく優しいと感じるべきだろう。環境があなたに生きろといっているのだ。そのきっかけも与えてくれた。



優しさと厳しさが同居している。決して相いれないものではない。アメとムチでもない。




もっと根本的なものだ。




このことに気づけるかどうか。




そのとき、本当の自分を解き放てる。




梁山泊はこうやってこれまでも人材の質を保ってきた。




青連寺がどう化けるかは楽しみではある。




だが、私は、自ら変化をつくり出す人物となりたい。




以下抜粋


自分がここだと思ったところで、すべての力を出しきる。それこそが生きている意味だと、お互いに思っていることがわかったのだ。それも、大して言葉を交わさずに、わかった。



「戦には、陽動という策がある。陽動と見抜いたら、動かぬことだ。動けば、隙が出る。その隙につけこむための陽動だからだ」



「私は、軍人ではありません。ですから、きれいに割り切ってしまうこともできません。政事はいつも、絶対によいというものを選ぶわけでなく、よりよいものを選ぶということですから」



「梁山泊が、どういうところかわかっただろう。そして、ここに留まるべきかどうかも、そろそろ自分で判断できる。人はやはり、人生において、自分で選ぶ時というものを持つべきだ、と私は思っている」



「だとしても、一度だけ訊いてやれ。親が自分に選択させてくれた。後になって、そう思えることは大事だと思う」




「大きな企てばかりを考えすぎていた、とふと思ったのだ」




「人間は、そんなふうに思いがけない自分であることもある。私は、自分を眺めて、おまえよりもずっと愉しんでいる」




縁は、できるだけ躰から振り落としておく。それが、この仕事では大事だった。ちょっとしたひっかかりが、失敗に繋がったりする。



商人が、志などに惑わされてはならない。それは当たり前のことだった。




「梁山泊に加わった時、血などなんの意味もないと悟った。人には、志というものがあると知ったのだ。それは、躰を流れる血ではなく、心を流れる血だとな。私が、晁蓋殿や盧俊義殿に会ったのは、梁山泊ができるずっと前で、私はその時から、加わったと思っているのだがな」




「ありがたいと思え。人にはそれぞれ定めがある。おまえは、悲しい思いと同量の、喜びを与えられている」




「いい思いはした。滄州に居続けていたら出会えないような友に、何人も出会った。なにより、私は自分がやるべきことを見つけて、生きることができた。生まれながらの金持ちであり続けなくてよかった」




「求めるものがあって生きていたのではない、という気がする。どうでもいいことの中で、ただ死に行く人の姿を見ていた」




自分の心の歪みを見つめる、もうひとりの自分もいる。




「男はのう、いい女を見つけたと思いこむと、執着する。無様なほどにな。いい女など、惚れた本人がそう思えばいいことだが、そばで見ていて、嗤いたくなることがある。本人だけが、いい女だと思いこんでおるのよ」




「好きな時に、私を好きなようにできる。私はあなたの身の回りの世話をし、あなたの愛を一身に受ける。私の夢だったのです。それが実現できるのかもしれないのですよ」




「あの、燕青か。梁山泊には、人材が揃っておるな」
「ずいぶんと欠けましたが」
「新しいものを作ろうとすれば、仕方のないことであろうよ」
「ですな」



「いい国を目指せ、公孫勝。梁山泊が、そうやって闘えば、宋もまたいい国になる」




「楊雄、私はこれからの青連寺のありようで、宋という国の懐の深さがわかる、と思っているのだ。李富や聞煥章が残っている、というだけでなく、どういう変わり方をするかまで含めてだ」




「俺は、それを否定しない。俺は梁山泊の人間だから、梁山泊に有利になる話しかしないさ。それが女真族のためにもなる、と判断するのは長老たちの仕事だ。そして、ここにはもう俺の仕事はなくなった」




悲しみを、人に知られたくなかった。それを人に知られるだけで、濁ったものになるような気がした。胸が張り裂ける思いは、実は大事なものなのだとも思った。





以上
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2012年9月16日日曜日

水滸伝十五(食べる読書124)





よく耐えた。



そして、多くが死んだ。



総力戦だった。



通らねばならない道だった。すでにある国に闘いを挑むには、だ。



しかし、耐えた。正確には、兵力の差が響いてくる前に、戦を終わらせた。これが、総力戦。兵力で負けるのなら、それ以外で手を打つ。



しかし、よく耐えたと思う。停戦するまでの間。




これで、次は戦のギアが変わる。




次が本番だろう。




それまで、どれだけの準備ができるか。



次の戦は始まっている。



以下抜粋


「待つことは、戦場へ出るよりつらい。はじめて、それがわかりましたよ」
「ただ、結果を待つのではない。結果の先に、やらなければならないことが、また山ほど見えてくる」
「まったくです。ここですべてを見ていることが、次に繋がる。しかし、それを忘れてしまいそうになります」



いまは宋という国に、正面から闘いを挑んでいる。生きている、という気がするよ。全身全霊で生きている、と思える




勅命という力が動けば、この国は滅びにむかうかもしれない。特に、それが戦に及べばだ。口に出すことはできないが、戦を判断する器量など、帝にはない。




「おまえは、兵たちの気持に火をつけるものを持っている。そういうことでいいのだ。ほんとうに必要な時だけ、弓を遣え」




集まって気勢をあげることと、戦をすることでは、まるで違う、と私は思う。




「すべて、運に恵まれたのだと思う」
「運とは、呼びこむものである。それも、学びました」



人の命運は、自ら切り開くこともあれば、横から出された他人の手で決まることもある。どちらがいいなどとは、言えはしない。どちらも、命運であることには変わりないのだ。




「俺が、すべてを負う。それでいいではないか。負った重みに耐えかねたところが、俺が消える時期だと思うしかない」




そのために手を汚すことは、いとわなかった。汚れるだけ汚れて、これ以上は汚れようがないという時に、自分は多分死ぬのだろう。いまのところ、まだ左腕を一本失っただけだ。




流れに任せろ、張清。あるところまでは、流れに任せておくのだ。




「命というものは、尊い。そして、強く、同時にはかない。そう思い定めるのだ。」
「そう思ったら、なぜ?」
「人の力ではどうにもならない、と思える。生きるものは生き、滅びるものは滅びる。そういうものなのだ、と思える」



「戦は、大枠だけを決めておく。あとは生きものを捕えるように、指揮官が戦を捕えていく。そういうことなのだろう、と思うのですよ」




「宋江殿も、呉用も、そしておまえも、人であってはならないのだ。人を超えたもの、それが、梁山泊を動かす者には求められる。わかってくれ」




はじめたことを、ひとつだけやれ。人に認められるまで、ほかのことに手を出すな




熱いものが、こみ上げてくる。自分には、同志がいる。死んでも、生き返らせてくれる同志がいる。
これまで、強く感じたことのない、喜びだった。




「自分の力以上のものを持ってしまうと、どうなってしまうのでしょうか?」
「持てる力に合った自分になる。人間とは、そういうものだ」




人は、なんによって生きる。志があれば、飢えないのか。富があり、名誉がある。これは、人の本能が求めるものだ。志は、頭が求めるものであろう




「心配するな。私は、おまえの力をこれからも測り続ける。無理だと思うことを命じて失敗したら、それは咎めはせぬ」




以上
またね***



2012年9月10日月曜日

水滸伝十四(食べる読書123)




ついに宋が本気になったと考えていいだろう。二十万官軍攻撃である。



一方、梁山泊は五万にも満たない。



この圧倒的な数・力にどう対応するのか。



これはチャレンジャーの宿命だ。



こういう大戦を前に、個々人の人としての変化もある。



戦はしているが、それは人の営みの中でのことなのだと、当たり前だが感じさせられる。



結婚もあり、史進の裸での乱闘もある。こういうことは面白い。



張平のことは気になる。



人が人となるには、なにが最低限必要なのか。考えさせられる。




志だけでなく、一人一人の人間にスポットを当てているのが、この作品の魅力だ。



以下抜粋


美しさは、残酷であり、同時に非凡でもある



まともなことを、まともに言える者などいないのだ




「恐らく、宋の中でいろいろと齟齬があるのだろう。決戦と思う者もいれば、時期尚早と思っている者もいる。それをひとつにまとめて梁山泊にむかわせるだけの力が、蔡京にはない。蔡京と近い青蓮寺は、国家の意志を体現してはいないのだから。あくまでも、裏の組織なのだ。軍費の扱いひとつにしても、青連寺には難しいところがある」



「孤独で、苦しいと思う。それが、宋江殿の人生ということになる。耐えきれないと思えば思うほど、逆にその資格があるのだ。苦もなく耐えられるという男を、私たちは頭領と仰ぎたくはない」



「私の、どこが頭領なのだ」
「自分はこれでいい、とどこまでも思わないところがだ」



自分が泣くことなどないだろうと思っていた、私がだ。人の弱さも悲しさも、痛いほど伝わってくる。それでも人は生きるのだ、という思いも。そして、どう生きるべきかということも。



「宋江殿は、負けず嫌いだな。意地っ張りと言ってもいい。勝敗は超越したような表情をしていても、誰よりも勝ちにこだわっている。頭領はそれでなければ」



「裴宣、男と女が慈しみ合うのに、罰を与えるなどと、人の道にはずれていると思わぬか。梁山泊は、そういう人間の道にはずれたくなかったから、結成されたのではないか」



「慈しんでやれよ。男とは、そうするものだ。女を慈しむことで、男はさらに充実して生きられる。おめでとう」




「生と死の分かれ目がどこか、考えることはやめるなよ」




「必ずと言う言葉もよせ、樊瑞。すべては、流れの中で決めるのだ」




「なにがよくて、なにが悪い。人にそれを当て嵌めるのは、難しいことです。私は、なにひとつ楊令に押しつけようとは思いません」




長く力を蓄え続けた国と、梁山泊は闘おうとしているのだ。



「十年後は見える。多分二十年後も。しかし三十年後は霧の彼方で、五十年後はないも同じだ。俺はただ、いまを生きたい。生きていると思いたい。心の底から憎いのは、宋だ。しかしそれは、ちょっと間違えば、梁山泊になっていたかもしれん。憎しみは、役人が不正をなすからとか、税が高いとか、そんなところから生まれてはこない。大事なものを奪われた。そして二度と戻らない。そこからほんとうに、生まれてくるのさ。」



「憎しみを抱き、それをどこにむけていいかわからないとき、宋江殿にあった。宋江殿は、およそ憎しみなどとは無縁の人だ。それなら、俺の憎しみは、宋江殿と一緒にいることで、人でなくなるような燃え方はしないだろう、という気がした。ほんとうにそうだったよ、鄒淵。晁蓋殿と出会った時も、そう思った。だから、二人の意見が対立した時は、困ったもんさ」



生と死の分かれ目。すべてを死の方にむけられているとしても、その分かれ目に三日間立っていられる。見たくても見えなかったものが、見えるかもしれない。いま死んでしまうより、ずっとよかった。




「苦しいのかもしれん。しかし、俺がなくなって染むのだと考えると、苦しみも苦しみではないな」




人は、絶対にやらなければならないものを見つけた時は、強くなれる。




「私も、自分が安全である戦を覚えよう。安全であるが、同時に果敢でもある。そういう指揮をしてみたいものだ」



歴史は、覆すためにあるのです。




梁山泊が、結局は凡庸な叛徒の集まりだとしたら、この全体戦で殲滅させられる。
しかし、いままでの戦ぶりを顧みると、必ずどこかで非凡なものを見せる。防御に徹するなどという戦は、しないはずだ。防御に徹するというのは、局地戦の戦術にすぎない。だから、青連寺の二人は、全体戦を闘っているつもりで、いまだ局地戦しかやっていないのかもしれないのだ。



以上
またね***



2012年9月7日金曜日

水滸伝十三(食べる読書122)




この巻を読んでいた時、毎日がいっぱいいっぱいだったからだろう…。



初めて、涙した。



そんなに好きではなかった。



朱仝が死んだ。



壮絶な死だった。



雷横とともに梁山泊へ入った。梁山泊ができる前からの同志である。



この二人は似てる。同じ境遇だからだろうか。



朱仝も、いま己のできることをひたすらやり続けることで、梁山泊を守った。




それぞれの場で、タイミングで…。



何も言えない…。



敬服するのみ…だ。



その死を、その生を、その背後にある志を、想おう。




以下抜粋


「私も、そう思います。人がいれば、どろ泥もできます」
「それを、どう扱っていくかが、政事の問題なのだろう」



「父子の情と、志。そのどちらが強いか、長い時をかけて、宋江にわからせたい」
「志を貫くことは、父子の情をずたずたにすることか。それは面白いな」



「ますます、俺の好みだ。宋江という男の志がどれほどのものか、親父の血で教えて貰おうと思う。人の躰を殺すより、心を殺す。俺は、そちらに関心がある」



「切り捨てなければならないものは、もっと多くある。この国には、無用というより、害になるものが、まだ多すぎるのだ。梁山泊とぎりぎりの闘いをすることで、それはすべてきれいになる」



貧困の中にいる人間が、聞煥章は好きではなかった。当人が悪いのに、他人や政事のせいにする。貧困だけは、それが許される、というところがあった。貧困は、自らのせいである。そこから抜け出そうと思えば、努力でなんとでもなる、と聞煥章には思えた。
そしてまた、貧困の中で立ちあがってきた人間には、どうしようもないこだわりが常につきまとう。時には、それが行動を律してしまう。



緊張していると、見えるものも見えなくなる



「ほんとうに正しいことなど、まずないと思っておけ」




「お互いに縁があって、ともに戦っているんじゃ。肚の底を見せる時は、見せた方がよいのう」



それぞれの出来事は見つめていく。それが全体の中でどういう意味を持っているか、もっとよく考える。



志があった。晁蓋がいた。宋江はまだいる。そして、戦友がいた。
死んだ者のためにも、自分は闘い続けるしかない。



返事をしようと思ったが、秦明は声を出せなかった。
「林冲」
「おう、朱仝」
林冲は、しっかりと声を出した。
「おまえだけには、謝らなければならん。俺は、おまえより先に死ぬ。悪く思うな」
「いいさ、闘い抜いた」
「さらば」
見開かれた朱仝の眼にあった炎が、吹き消したように消えた。



「隊長は、死んだ。みんなよく見ておけ。これが、漢の死というものだ。泣く者は去れ。気を引きしめろ。隊長のために、勝鬨をあげる」



「とにかく、任せるところは任せるという度量を持て、呉用」



「みんな、戦をしている。宋江殿も私も、そしておまえも。戦場で闘って、おまえは林冲に勝てるか。林冲が、おまえのやっている仕事ができるか。そこを考えてみろ。おまえは、もっと大きなところでさまざまなことを考え、実際にそれが行われる時は、現場にいる者に任せるのだ」




「逆だ、関勝。みんなの前で厳しく言うことで、ほかの連中があれ以上責めることをできなくした。そうだと俺は思うぞ。あの二人の呼吸は、そういうものだ」




「私は、生きていると思いたい。その思いを、全身で感じたい。つまらぬことで、惑わされたくもないのだ。私を圧倒するような敵と、全身全霊で闘ってみたい」



「似ている。私になにか欠けているように、おまえにもなにか欠けている。それでいながら、常に生きているという実感を求めてしまう。おまえを好きになれないのは、そういうものが見えてくるからかもしれん」




人は、測りようのない妖怪のような部分を持っている。同時に、凡庸としか言えない部分もある。




「よく見えた。人はなぜ生きようとするかも、見えた。国の姿と、人が生きようとすることが、実は重なり合うのだということも、いまよりよく見えていた」




「人とは、そういうものだ。それぞれが、生きていこうと思った場所がある。そこを動くことは、生きることを否定する場合でもある、と私は思う」




「戦はつらいな、童猛。ついさっきまで語り合っていた者が、死んで行く。自分が死んだ方がずっと楽だ、と私は思うよ」




以上
またね***



一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...