2010年12月15日水曜日

おもしろいよ!

おもしろいよ~(^◇^)

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2010年11月18日木曜日

心にきた言葉集32

「騎士は、諦めたその瞬間に、人間的にいえば、不可能なことを確認したのである。それは悟性の結果であった。そして騎士は、これを考えるだけのエネルギーをもっていたのである。」

「信仰というものがいかに途方もない逆説であるかを知ろうというにある。つまり、殺人をさえ神の心にかなった神聖な行為とすることができるという逆説、イサクをアブラハムに返しあたえるという逆説、この逆説は思惟のとらえうるものではない。信仰とは、思惟の終わるところ、まさにそこから始まるものだからである。」


以上二つは、キルケゴールの「おそれとおののき」からの引用である。この本は全部を読んだわけではない。ほとんど読んでて理解できなかったと覚えている。三年前のことだ。


が、訳わからないなりに上の二つをメモったのは、何か心に引っ掛かったからなのだろう。今見返して思うことは、キルケゴールは言葉にできないものを人々に伝えたかったのではないかと感じる。

つまり、人間には認識できるものと認識できないものがある。たいてい認識できないものは存在していないも同然であるが、我々が認識できないものも確実に存在している。ただ、人が認識できないだけなのだと。

これは、面白い。というか、基本的な考え方の結果だろう。認識できないものの存在をどうやって証明するか。少なくとも、人間の認識によって追求してはならないということを守ればいい。ここでは、論理によって追求しているのではないか。論理は我々がどう思おうが変わらない。

いくつかの例をあげて、騎士やイサクとアブラハムの話、それらの共通点は何か、普遍なものは何かといったものを抽出して出てきたものが、我々が普段認識できないが確かにあるものである。と、結論付けたかったのではないか。そして、その認識できないがキルケゴールが我々に伝えたかったものは、・・・ 本を最後まで読んでください。




最近めっきり読んでいないが、哲学書は、その著者の考えというより著者の生きる姿勢が文面からビシビシ感じるところが魅力。はっきり言って、読むだけで疲れます。だが、それは著者が”それだけを考えるだけのエネルギーをもっていたからである”。そして、そんな著者と対話するには、そんなに能力もない自分だが、それに見合ったエネルギーが必要なのだと認めざるを得ない。このことは論理というより、感覚により知覚されるものである。


以上
久々でした。簡潔すぎたかな…。
またね***

2010年7月10日土曜日

食べる読書17

実は今年の目標のひとつとして、本300冊読むことを掲げました。以前は、一冊一冊丁寧に読むことが重要と思っていたのですが、まずは質より量だというふうに考えが変わりました。そのため、ブログでは全く触れていませんが、多くの本と出会っています。いい本もあれば、ん~いまいちかなと思う本もあります。が、そのこと自体がいい経験になっています。

そんな中、今年も後半戦に入りしばらくすぎましたが、ついに…

半分の150冊読破です(^◇^)!!

思えば、一年に百冊以上の本を読むのは、わが人生において小六以来二回目の快挙です。しかも300冊という大台を目指しているんだからなあ!!やるねえ!!!

だが、ペースとしては少し遅いかな。遅れを取り戻せる程度の遅れだからあまり気にしてはいないけど、もうちょっと読み方を考えながら読んだほうがいいと感じる今日この頃です。

おもに読んでいるのは、教養書かな。あと、たまに自己啓発だったりビジネス書。まれに小説といったうちわけです。

こうして日々本と向き合う生活してて感じるのは、多くの本を読むことで自分のものの見方が少しずつ変わっていること。多様な考え方、モノの見方、知識などと接しているからなのかなと思う。だが、大事なのはそのあとにあって、それらの情報から自分の人生をどう展開していくかだと考える。自分の中で熟成させるってことかな。このことは以前も書いたかなあ…。

一度しかないし大事な人生。読書だけが情報収集の方法だとは思わないが、自分自身と会話する孤独な時間と隣り合わせである読書の時間は、上っ面ではない地に根差した人生を生きるためには必要なものだと考える。

読んだ中で、いい本を紹介しようと思ったけど選べないし、めんどくさいのでまた気が向いたときにでも紹介します。

以上
またね***

2010年6月7日月曜日

自画自賛☆彡

お久しぶり!

しばらくこのブログにノータッチでした。で、今久しぶりに自分のブログの内容読んで感じたことがある。

結構いいこと言ってるんじゃねえかあ…、やるなあ、俺!
読んでて中身もあるし、さ。

でも、長時間読むものじゃないな(・_・;)

疲れちゃって・・・。

ま、読むのにエネルギーはいるな。書くのも結構しんどいからな。

だが、中身はいい!だから、ちょくちょく書いていくことが自分のためにもなるし、元気もらうと感じた。書きたいネタがあったら書こう!「心のきた言葉集」や「スピードスタート」や「食べる読書」以外でもね(^_-)-☆

以上
またね***

2010年2月28日日曜日

50で飛び抜ける☆2

昨日、千葉県市川市で行われた映画「降りてゆく生き方」を見てきた。

今まで見た映画の中で一番奥が深いと感じた。
その理由は、この映画では、現代社会の問題点を取り上げているが、それに対する明確な概念は提示されているが、具体的な対応は見出されていないこと。また、私自身、これまで人類に対して、この社会に対して、次の世代に対して自分は何ができるかを生きる指針としてこれまで生きてきた。だから、その答えを身をもって示すのは私自身であるという意識なので、とても興味深く、臨場感をもって映画に入り込めたことがあげられる。

以前、このブログでも紹介した「変革は、弱いところから、小さいところから、遠いところから」という本にとても衝撃を受けました。本当に衝撃的でした。“人間はこんな可能性もあるのか”はっきり言って、人間に対する信用が増しました。

この本では、実際の人々の取り組みが綴られていて、それが今の価値観ではない中で、きちっと結果を出している。映画は具体性が乏しいとは感じたが、この本は具体性どころか、実際の取り組みそのものだから、とても考えさせられた。

そして、厳しいことを言うかもしれないが、今の三十前後やそれより若い人にとって、この映画のメッセージは、“今さら”と思う人も多々いるのではないかとも感じた。

ニートや引きこもりが出始めたこの世代の人。“おれたちはすでに降りてるっチューの!”と言いたい人もいるのではないか。すでに、二十年ほど前から、大人たち自身どう生きればいいかわからないと焦ってるなと、私自身感じていた。映画の中の小学生たちが言うように、大人たちは次の世代を見て日々を生きてはいないと感じていた。理由として、子供の素朴な疑問に答えられる人がいなかったからだ。

映画の中で、教師が宮沢賢治の詩の大事さを説いている中、生徒たちはそれに意味を見いだせていなかった。そして、女の子がこう言う。「これがなんの役に立つんですか?」それに対して、先生は何も答えられなかった。

あほか!

答えてやれよ!正解なんてないだろ。はっきり言って、大人が子供に教えられるのは、生き方のひとつを見せてやれるだけだと考える。ここで、答えられない時点で、この先生は、“詩”という人間の大事な表現手法を題材にしていながら、自身の考えを子供たちに表現できなかった。先生自体、子供ではなく、国の決めた教育内容を見て生徒に接していたということだろう。人を育てる教師なのに対象となる人は観ていない。

ここで少女に対する答えを私ならこう答えるなというのを記したい。映画を見ながらいろいろ考えたな。

「この詩は、“人生”がテーマだ。人間は、うれしいときもあれば、悲しいときもある。生きていれば多くのいろんなことがあるんだよ。みんなも、十一年生きてきて楽しいことや辛かったことなどあっただろ?特につらいときは、“もう、どうでもいいや”と投げ出したくなるよね。でも、そんなとき、この宮沢賢治さんは、辛いことがあっても投げ出さない“人生”を生きたいと考えたんじゃないかな。みんなは辛いことにぶつかったら、どうするだろう?どうすればいいかわからない場合もあるかもしれない。でもね、宮沢賢治さんはどうしただろうと分かれば、少しは楽にならないかな?辛いとき、こうした人がいた。いや、別のことをした人もいた。また、さらに違うことをした人もいた。昔の人たちは、みんなが素晴らしい人生を生きるためにいろんな答えを教えてくれるんだよ。この詩は、今は役には立たないかもしれない。でも、辛いときには役に立つかもしれない。ご飯食べるときに、はさみは役に立たないだろ?でも、紙を切るときは、はさみは役に立つ。逆に、紙を切るときにお箸は役に立たない。ご飯を食べるときにお箸は役に立つんだ。少しはわかったかな?」

みたいな・・・。

難しいな。でも、一人の人間として、目の前の人に何ができるかを考えれば、おのずとやることは決まります。

話は少しずれたが、新たな価値観を作らないといけない。デカルトとニーチェからこのことについて考えたい。

ネオテニーという考えがある。幼形成熟とも言う。これは、ニーチェの言う三段の変化の赤ん坊のことだと解釈する。つまり、不完成こそ完成なのである。常に変化していくということ。今の世の中は、合理主義という一つの考え方が大方を支配している。それは、デカルトの「方法序説」が一つの始まりであったのではないかと考える。これは十七世紀のこと。それから、人類の生活は大きく変わった。が、変わらないのが、この合理主義。一つの価値観(合理主義)以外は認めないというこの考え。デカルトの考えを多くの考え方のひとつとしてみなせる社会が次の社会の在り方の理想だ。それはどんな社会かというと、やはりニーチェの言う赤ん坊のように変化を自分の成長とする社会だと考える。その時その時によって考えを変えればいいんだよ。蝶々が花から花へと飛びまわるように、我々一人一人がいろんな考えという花を飛びまわるのが理想だ。すると、新たな花も見つかるだろう。一つの花には蜜はそう多くはないからね。

他にもいろいろ書きたいが、この辺にして…。

素晴らしい映画を製作してくださった皆様!そして、市川市で上映を開催してくださった皆様!そして、この映画を私に紹介してくださった虫鹿さん!楽しかったです☆

ありがとうございます☆彡

以上
またね***

2010年1月28日木曜日

50で飛び抜ける☆1

今年の目標のひとつに、50個の人との出会いや事柄との出会いがある。それは自分を成長させるもの、主に自分の感性を刺激するものと考えている。

実は今日、「日高義樹氏 経済講演会 “鳩山・オバマで日米関係はこう変わる”」に行ってきた。

話は大変面白く、興味深いものだった。まあ、内容すべてを理解できてるわけではないし、自分には難しい部分もあった。

講演を聞いているときは、確かにその存在を感じてはいた。それが何を意味するかも何となく理解はしていたと今は思う。はっきり言ってそれは心地いいものではない。

日高氏はあらゆる視点から日米関係を論じていた。オバマの政策、経済、中国、中東、そして日本。話は国単位だけでなく、その国民の考えや生活、また各国の政治の在り方にも言及し、それらを絡めながら、独自の考えを述べていた。

私の胸の内に産まれたそれは明らかに“いらだち””悔しさ”といった類のものだった。

話を聞いていて、その内容から何か自分にとって有利になるようなことは起こせないか、あるいは見つけられないかといったことを考えることが全くできなかった。ただ、目の前にある情報を手持無沙汰にしているだけだったのだ。

あまりにも小さい。あまりにも狭い。それをただひたすら思い知らされた。

日高さんは自分の中に起こった疑問に対する答えを見つけるために、様々な情報を自ら見つけてきて、持論を作り上げた。その情報が何を意味するのか、それはどこにあるのか。この基礎ができているから、こういったことが可能なのだ。

うらやましい。いや、絶対身につける。

日高さんはこうも言っていた。「アメリカでは、大学でるとき、自分で仕事できる“力”つける。そして働く。日本は、雇ってもらうという発想。」

これで、3年後どうなっているかという私の目標は決まった。

「自分で仕事できるようになっています。」

また、今回は会場が、名古屋の栄だった。田舎に住んでいる私にとっては、この栄のにぎわいも刺激になった。こういう、人が多く活動しているところに身を置かないと、自分の感性もなかなか磨かれてはいかないのではないかと。自分の危機を感じた。地下鉄栄駅から会場まで、人に道を聞いてたどり着いた。入場券には徒歩7分と書いてあったのに…。会場もいろんな商業施設がついていて、どこがどこだか分らなかった。

帰りは、ずっといらついていた。自分に対してムカついていた。“今まで何やっていたんだ”と。いつのまにか現状をどうこなすかにばかり焦点が当たっていて、未来を、自分の未来を信じられなくなっていた自分に対して…。こみ上げてくる感情をどこにぶつければいいのか。くやしくて、くやしくて…。

この感情をその場限りにはしない。もう、世の中なんてこんなもんだと、自分に嘘はつかない。

まだ世の中で勝負してないおれだが、自分をあきらめなかったからどうにかここまで来れたということも自分ではわかっている。これはおれの宝だ。だが、この宝を終生大事にするのが自分の求めるものではない。こんなものはいつでも捨てる。そう思ってこれからを生きないといけない。これが次へのステップだ。

そのことに気付いた。

ありがとうございます。

日高さん、この講演会を催してくださったコムテックスさん、ありがとうございます。

今後の大まかな方向が決まった。

以上
またね***

2010年1月3日日曜日

方法序説(食べる読書16)

あけましておめでとうございます。今年は人生で最高の年にします。




方法序説 (ちくま学芸文庫)
」 角川文庫 デカルト 著

正確には「理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説」である。

すごい。一回読んだだけではきちんと理解はできない。だが、随所に一貫した彼の姿勢がうかがえる。そしてそれは彼の生き方をも示している。面白いなと感じた。自分の導き出した考えに沿って人生を進んでいく。まあ、それでも自分の思うとおりにはいかないこともある。だけど、それもまた、自分の決めた考えに即して対処していく。

しかも、これは古典には共通して言えることだとは思うが、本質を見抜いている。いたるところで、「確かにそうだなぁ・・・。」と、自分の目が開かれる思いがした。

あまり理解していないので、この本を要約するということはできないが、私がここはわかったという箇所はまとめてみます。
デカルトは勉学に努力したが、結局そこから学んだことは、自分の無知を知ったということだけ。だから、「自分の中に、あるいは世間という大きな書物の中に発見されるかもしれない学問以外はもはや求めない決心をして」経験などをつむため十余年旅に出る。

また、多くの書物や民衆が認める事柄よりも、自分自身の実例に勝ってその人を納得させるものはないから、デカルトは自分で自分自身を導いていくしかほかはないと思った。

そのため、今まで自分に身近な慣習や考えなど、疑えるものはすべえて排除していった。それは、今までの自分の国、自分の書物から脱却することを意味している。

そして見出した答えが、「私は考える、だから私は存在する」である。これは、われわれがとても明らかにはっきりと心に思い描くものは真実であるということを一般的な規則にできるとデカルトは考えた。

また、理性はどんな出来事にも役立つ普遍的道具であることを示す。そこから、この「方法序説」の出版をあえて遅らせたりしている。「私が自分の教導書である人々の言葉であるラテン語を用いないで、自分の言葉であるフランス語で書いたのは、まったく純粋な自然的理性だけを用いる人たちは、古い書物だけしか信じない人たちよりも、もっとよく私の意見を判断してくれるだろうと期待しているからである。」と述べている。

つまり、自分の足で立って物事を見ることが真実に最も近いんだということと思う。

すばらしい本です。やっぱりなんだか勇気をもらうなあ。デカルトの戦う姿勢も垣間見えて、過去の偉大な偉人というよりは、その偉人も一人の人間なんだなと思わされる。ありがとうございます。
以上
またね***