2022年6月17日金曜日

一枚の葉

 今、私は死んだ。

そして、その瞬間、自我が生まれた。

私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。

死ぬことでようやく自己が確立するのか…。


空気抵抗というやつか。

自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。


 私はこの樹の一部だった。この樹の存続のためエネルギー産生の役割を担っていた。同様な役割を担う葉は他に大量にいる。その大半はまだ樹にエネルギーを与え続け、それがそのまま葉の生そのものでもある。だが、その頃私は自分を一個の生命体とは思うことはできなかった。一個の完全な何かとは思えなかった。だからといって、この樹の一部とも思えなかった。


 光合成のできない葉は、その葉の存在理由の喪失により、自身が属していた樹から切り離された。


 そのとき、一個の存在としてこの世に生ずる。だが、光合成するに適した構造体として存在していた私にとって、この死して生じる”生”は何を意味するのだろうか。


まあ、意味なんていくらでもつけられるか。

役立たずとしての”生”とでも言っておけばいいか。


そうじゃないんだよ。

今のこの”ひらひら舞っているこの時”なんだよ。

ずっと気になっているのは。


この先のことはわかる。

落下地点が土なら私はバクテリアなどに分解され、私の身体はバラバラになるが他のなにかの循環にまた組み入れられることになる。その時私はまた自我を失うのである。


なんなんだよこの時間は。

ほんの10秒足らず、おそらく1分になることはめったにないこの空中浮遊状態は…。


ふざけんなよ!


やっと自分を感じられたと思ったら、自分では何もできずただ風や重力に翻弄されるのみ。そして、どこに落下するかは神のみぞ知る。


 わかってるんだよ、生とは関係性の事なんだよ。私が活きることは、他のなにかと私が活きる関係が成立していることを意味している。葉として光合成を活かす時私はこの樹とエネルギー産生という関係性を築いていた。落ち葉として土の栄養になるのも土壌産生の役割として大地と関わっているのだ。


 すべての関係性から解放され自分のありのままを自分で認め自分を楽しもうとしても、そのときはとっかかりなど何もなく、私は完全にこの世から孤立しているのだ。まるで宇宙空間に放り込まれ身体の自由が利かず、何にも摑まることのできないように、私はこの世の何ものとも関係性を創れないのである。何故なら、私が完全に一個の完成した存在であるなら、他の何ものも私の存在に関与しないからである。


 二つの視点を持つことだろう。自我の視点と自分と関係しているなにかとどんな関係であるかを俯瞰する視点だ。両方の視点を関連させられるのなら、関係性を通して自分を楽しめるのかもしれない。


一個の完全な生は、自分を活かせないという意味で完全な死でもあるのだ。



「こんなこと考えて何の役に立つのか…。」

腰を上げ、歩きだす。

だれともすれ違わない道を行く。

目の前がにじんでもそのままだ。


だが、そんな自分を愛おしくもあるのだ。

2021年6月20日日曜日

グッときたと思ったが、期待に目がくらみ盲目になってただけだった。

以前投稿した、れいわ新選組に関する内容が、どうやら私のまちがいだったという考えにいたったので、それに関して書いていく。 

 以前の投稿では、100年、1000年スパンで考えるきっかけにれいわ新選組がなっているという内容だった。 

 なぜそう思ったか。 

 当時のれいわ新選組の参議院選挙の候補者が、既存の団体にあぶれて選挙への影響力がない当事者たちだったことである。

 現代の問題の根源は、現場のリアルな声が政治などの政策に反映しないことだと考える。
 それは、選挙という現場の声を反映するにはすでに適しなくなっている統治方法を終生普遍なものと人々が信じているからではないか。 

 人々は選挙の普遍性を信じているくせ、選挙には行かないのだ。 
なぜなら、選挙に行っても何も変わらないからである。 
選挙において最も効果を発揮するのが団体票だからである。

 現代社会の構成員は以前からだんだんと団体から個へとその多様性の流れとなっていったが、それに合わせるように、個へとなった人々の考えを反映するような統治方法の改変が議論どころが提案されることもなかった。
 その結果、かつてあった労働組合の人々の票が宙に浮いてしまい、企業のロビー活動により政治や政策は企業のマーケティングと化してしまった。 

 そんな時現れたのが、れいわ新選組だった。
 既存の団体には属せず、選挙を通した統治方法においては不利な人たちが立候補していた。 
それを見て私はこう思ってしまった。 

なるほど、個々の社会的に弱い人々といった、企業優遇の負の側面を政治にフィードバックさせる何かしらの仕組みを構築していくんだな、と。
 新たな統治方法の提案を選挙と政策を通して実践していくんだな、と。 

 だが、違った。 

あれから2年たつが、れいわ新選組から、現在の統治方法に関する言及はない。(れいわ新選組を常にチェックしているわけではないが…) 
言及するのは常に、現在の政治や政策の過ちとそれに対する解決法を述べるのみである。
 対症療法の域を脱していない。 

 そして、2年前もある懸念が頭にあったが、それを打ち消してしまった。
 ほんの少しでも、統治方法を変える可能性があるのなら、応援しよう、と、その懸念を頭の隅へ追いやってしまった。 

その懸念とは、単なるマーケティングということだ。

 選挙は、ご存じ単なるマーケティングである。 
決まった人数の有権者からどれだけ多くの票を集められるか、というマーケティングである。 

どのタイミングでどんな内容をどのように表現し、どのメディアを使い、訴えるか。 何度も言うが、選挙は団体票が有利である。
だが、現在は自民党支持の各利益団体以外は団体票を見込めない。 

 なら、自民党に勝つためにはどうするか。 

 団体をつくればいい。 

現在の政治に不満な人は多いはず。
が、メディアでは当然そういった声は出ない。 現在の政策に不満な人々を、最大公約数とできるような政策を打ちだせば、彼らを団体票とみなせなるのではないか。 
 おそらく、こういうことなのだろうと思う。 

 光があれば影がある。 

 どんな政治であっても、必ずそれに不満な人はいる。
 現在の政治では利益を享受できない人々をいかにひとくくりにし、共通認識をつくっていくか。
 これが野党の変わらぬ戦略だろう。 

 ある意味、洗脳合戦である。 
 与党は、現在の政策がいかに国民のためになっているかをアピールし、野党は現在の政策により国民がいかに不利益を被っているかを根拠に解決策として党の政策をアピールする。

 となると、勝負を決すのは、その政策が優れているかどうかではなく、いかに多くの有権者に自身の考えを信じ込ませるか、となる。 

 これを人は、「民主主義」と呼ぶ。

 あほか。 

 そこに人の生活はない。

 あるのは、一方的に決めつけられたアイデンティティだけだ。 
政党が自身の都合の良いように人々をカテゴライズしたという、アイデンティティのみである。
 われわれは、政治家が決めたモノの見方を強制されているだけである。 
自分で自分の価値観をつくれないのである。 

 現在の感染症の定義も、WHOが一方的に決めた内容に従うのみである。 
各国で感染者とその死亡者が出ているが、感染対策の要となる死体解剖がWHOにより禁止されている。
 死体解剖なしで的確な対策などできるわけがない。 

 これも一方的に決められているだけである。
 われわれのリアルは、ポストトゥルースや反知性主義、分断などとカテゴライズされ、他の人々にそのリアルが伝わっていかない。

 地に足をつけることすら許されない世の中となっている。

 そんな現状で、ちょっとでも希望につながるかもしれないマーケティングを行っている、れいわ新選組。 

 「人の心をもてあそびやがってえー」、なんて言うつもりはないですが、 地獄は続くよどこまでも、という現実を突きつけられました。

 期待に目が曇って盲目となり、頭がお花畑になってました。 

 ありがとうございます。 

 一人一人がそれぞれの闘いを地道に続けるのみだ。

 時代によって次代を創る生き方は異なる。 

現代において、次につながる生き方とは何か。

 これも続けた先にしか成せないものである。

 盲目ではいけない。


 以上 またね***

2019年7月14日日曜日

グッときた。

自分の生きている期間、人生100年時代と言われているが、それ以上のスパンでものを考えられるか。
それが、本質を見失わないための考え方の一つであると考える。

100年、200年、500年、1000年スパンで考えて、今はどう生きればいいか。
何をどう選択すべきか。
その選択の基準となる目的も妥当なものでないといけないが・・・。

2019年の参議院選挙である。
投票日は、7月21日。

現代及び現在の日本社会の問題を、どの視点で捉えているか。
100年、200年、1000年スパンで見て捉えているか。

というより、「当たり前のことと生きることについて語っているか」が現代は難しくなっているのだろう。
当たり前というのは、普遍的なことである。100年、200年、1000年スパンで見て変わらない軸となるものだろう。
その当たり前は、自分の存在と不可分である。

企業が国家よりも影響力をもち、目にする情報のほぼすべてが商業的文脈のものとなっている現在において、私たちは・私たちの子孫達は今後100年生きていけるだろうか。

現在においては、メディアに載る情報はほぼフィクションと化している。
そのフィクションをリアルととらえざるを得ないのが現状である。
それは、現場の状況がメディアに載らないためである。
メディアの公器としての性質がなくなっている。
会社としての色が強くなるメディアによって、株主は人心をコントロールしやすくなる。
そして企業が政治を買える状況となっている。
政治政策が商品と化している。それが、ジャーナリズムの衰退、メディアの肥大化とパラレルに関係している。

では、このような状況において、まずは100年後を生きるために、今何をすべきか。
政治においては、どうか。

考える良いきっかけであるし、メディアに載らない視点で考える、自分の幅の広がる内容でグッときました。



以上
またね***

2018年4月23日月曜日

毒になる親(食べる読書140)

 

  人の顔をうかがう、というより相手が何を求めているのか、それに対して自分は何ができるか、を考えて生きてきた。

自分の親は毒親である。

全体(家族、家庭)がよくなるために、自分の果たす役割は何か、それが判断基準となった。

しかし、親がそうであったように、社会もそのようには動いていなかった。

自己存在の存続のために、動いているのだ。

当たり前だが、すべて”自分”のためなのだ。

その”自分”とは、”現状の自分”でしかないのだ。

自身の変化により、よりよくなる可能性があったとしても、その情報からは目をそらし、あくまで”現状の自分”の維持を優先する。


家族が社会の最小単位というなら、社会にも毒親は多く存在する。
パワハラ、アカハラ、セクハラ、ブラック企業、そして売国政治家という言葉がその存在を示しているのだろう。
実際は、それが当たり前と思っている人が大多数の社会自体が問題だと思うが…。もし、毒親が問題というならだ。


本書は、毒親によって子供の心が傷つけられ、成長してもその負の遺産に苦しみ続けることを示している。
大変勉強になり、自分を客観視する視点をもらったが、毒親を「家族」という”場”においてのみ論じているところが物足りなかった。

例えば、フィンランドと北朝鮮の毒親の人口比率を比較したらどうだろうか。ほぼ同じ割合になるだろうか。他の、社会システムではどうだろうか。

毒親となるのは、その親から受けた育児法をそのまま子供に対して行っただけ、という文脈だろう。しかし、健全な人と家族の外で交流することで、毒親から自立した人も多いはずである。一方でその逆もしかりではないだろうか。


毒親の定義自体が、その子どもの主観に依るとことが多いことから、測定法が確立していないため社会間における毒親研究は進まないだろうが、毒親は家族のなかだけで完結する問題とは思えない。


構成員と組織の性質における関係、といえばいいだろうか。例えば、構成員が嘘つきばかりの人で存続し続ける組織とは、どんな特徴をもった組織か?、もしくはそんな構成員でなる組織はどんな特徴を有していないと存続しえないのか?といった問題ではないだろうか。

第二次世界大戦の国の総力戦の時代であれば、画一的であることが構成員である国民一人ひとりの存在理由であったろう。その人があるがままで存在することは許されなかったのである。条件付けの個人の尊厳である。


つまり、毒親という言葉により親の育児におけるあり方に焦点が当たり、多くの人がそういう点で客観的に自身を顧みることができるということは、自身の変化を促すことになるだろう。と同時に、その変化は現代社会の性質にどんな変化をもたらすのか。

毒親という「名詞」の存在の出現は、何の前兆なのか。


物事は常に変化している。そして、それは複雑系である。その一つの要素としての毒親の表出。毒親の存在というより、”毒親の社会的認知”が何をもたらすのか、である。


一人ひとりが毒親をどうとらえるか、なのだろうか。必要悪ととらえるのか、不必要なものとして廃絶するのか。それによる。そして、それは個々が決めるのである。「個々が決める。」というところが、毒親を客観的に扱っていることの前提である。毒親を自分事ととらえると同時に第三者の視点としても見ていることにもなっていると思う。


私個人としては、郷愁のような気持ちで毒親を思い出すようになりたいと思っている。「ああ、あんな時もあったなあ。なつかしいなあ。」みたいな。
それが、社会全体としてよい方向に向くことに寄与すればいいと思う。

以下抜粋

「信頼感」とは、心が蝕まれていくようなつらい状況にある時、真っ先に死んでしまうものなのである。・・・、信頼感の喪失は「毒になる親」の子どもたちが大人になった時にきわめてよく見られる現象である。


生まれつき価値のあるひとりの人間として扱われることによって自己に対する確信の中心を形成していくのではなく、何を達成したかという外面的なことによってのみ、自分の価値を証明しなければならなかったのだ。


あなたの幸福は、あなたの親がどんな親であるかによって左右されなければならない理由はないのである。たとえ親は全く変わらなくとも、あなたは子供時代のトラウマを乗り越え、親によって支配されている人生を克服することができる。あなたに必要なのは、それをやり抜く決意と実行力だけなのだ。


自分はどんなルールに縛られているかをはっきりと見極める以外に、自分の自由意思で人生を選択できるようになる道はない。


真の変革と苦しみからの解放は、違ったやり方を実行することによってのみ、はじめて訪れてくれる可能性が出てくる。


多くの人は、感情とは自分に対して起きた出来事に対するリアクションとして生じるもので、その原因は外部にあると考えているが、実は、強い恐怖心や喜びや苦痛といった感情ですら自分が内部にかかえている「考え」がもとになって生じている場合がある。


この「考え」がどんなものか、そして、それと「感情」とのつながりを理解することが、自滅的な「行動」に走ることを止めるための第一歩だ。


「本当の自分でいる」ことには柔軟さがともなわなければならないのは当然である。


大切なのは、何となく押し切られて、本当はいやなのにそうなってしまったというのではなく、自分の自由意思で選択してそうなったということである。


怒りとは、うまく管理していないかぎり、必ず本人に害を与えるものなのだ。


怒りはまた、あなたにとって何か重要なことを知らせてくれるシグナルでもある。それは、あなたの権利が踏みにじられた、あなたは侮辱された、あなたは利用された、あなたのニーズが満たされていない、などかもしれない。また、怒りは何かが変わらなくてはならないことを常に意味している。


大きな悲しみもいつかは消える時が来る。それまでには時間がかかるが、それは漠然とした長さではない。かかる時間は、自分が失ったものについての事実を寄せ集め、現実を受け入れるまでの長さである。それは、過去の痛みから現在を生まれ変わらせ、ポジティブな未来へ向けてエネルギーの方向を変えるまでの時間といってもよい。


生まれてはじめて、この異常な親たちに自分の本当の気持ちを語り、それをしたことによって、両親が「毒のある行動パターン」から抜け出すことは永久にないであろうという事実を、ようやく心の底から受け入れることができたからである。


以上
またね***

2018年3月11日日曜日

宗教消滅(食べる読書139)



人類史上における新記録が現代にどれだけあるだろうか。
別に調べていないが、例えば、人口、移動距離、情報量、などなどあろう。
これらは何を意味するのか。
それらの新記録を打ち立てるに足る人間社会のインフラとは、何か。これまでの人間社会とどこがどう違うから可能となったのか。
過去との違いをリスト化してそれらが原因とはできないが、再現性が見込まれない長い時間のかかる歴史的因果関係を見出だすことは、残念ながら今の人類にはできないだろう。

今回の本は、資本主義の発展によって変化している宗教を経済・資本主義との関係から論じている。
今の我々はあまり感じないが、宗教はかつて社会インフラであった。そして、それがどう変わっていったのか、大変興味深かった。

人間にとっての宗教とは何か。単に、一時代だけの宗教を見ていては見えない本質もあろう。時代による宗教の変化から本質的な宗教が初めて見えてくるのかもしれない。
そして、宗教が人間の何を表すのか、それが見出だされるのが一番いいな。そうすると、そこに神秘性はなくなるのだが…。


以下抜粋

経済と政治、そして宗教が絡み合うことで人類社会の歴史が展開されてきたことを、私たちは念頭に置いておかねばならない。


創価学会はなぜ急速に拡大したのだろうか。一つには、創価学会が「折伏」というかなり強引な布教手段をとったからである。
折伏は仏教の用語で、諄々と教えと説いて相手を説得する「摂受」と対になる言葉である。折伏を行う際には、その対象となる人間がすでにもっている信仰を徹底的に批判、否定し、改宗を促すことになる。


高度経済成長のような経済の急速な拡大は、社会に豊かさをもたらすが、その恩恵が社会全体に及ぶまでには時間がかかる。したがって、経済の拡大とともに、経済格差の拡大も続き、社会的に恵まれない階層が生み出されていく。
創価学会に入会すれば、都市に出てきたばかりの人間であっても、仲間を得ることができる。彼らは同じ境遇にある人間たちであり、すぐに仲間意識を持つことができた。
ただ都会に出てきたというだけでは、地方の村にあった人間関係のネットワークを失ってしまっているわけで、孤立して生活せざるを得ない。ところが、創価学会に入会すれば、都市部に新たな人間関係のネットワークを見出だすことができるのである。


2代会長になった戸田城聖は、「現世利益」の実現を掲げ、信仰し、折伏を実践すれば、それで「功徳」を得ることができると宣伝した。それは、都市に出てきたばかりで貧しい暮らしを余儀なくされていた人間たちに対しては、強くアピールするものだった。


経済の急速な発展は、格差の拡大などのひずみを生む。そのひずみが、新しい宗教を発展させる。そして、急速に拡大した宗教は、政治的な力を獲得する方向に向かうのだ。


栄光の30年の時代においてさえ、フランスでは、大規模な都市部への人口移動によって、新しい宗教が膨大な信者を集めるという事態は生まれなかった。その点でフランスでは、第二次大戦後、既成宗教としてのカトリックの衰退がひたすら続いているということになる。


実際、フランスの場合には、「ライシテ」という形で、徹底した政教分離がはかられている。ところが、ヨーロッパではフランスが例外なのであって、他の国々では、むしろ政府と協会は強い結びつきをもっているのである。


最近におけるヨーロッパでのキリスト教の教会離れは、かなり進行していることになるが、これは、戦後になって始まったことで、すでに1960年代から目立ちはじめていた。


多くの教団は、社会的に注目される時期において多くの信者を獲得する。
ところが、その時期を過ぎると、新たに信者が入信してくることが少なくなっていく。新宗教は、時代のありようと深く連動し、その時代特有の社会問題への対応として生み出されてくるものだからである。その分、時代が変われば、魅力を失い、新しい信者を獲得できなくなるのだ。
そうなると、急速に拡大した時期に入信した信者たちが、そのまま年齢を重ねていくという事態が生じる。彼らは強い結束を誇っているかもしれないが、その結びつきが強ければ強いほど、新しい人間はそのなかに入りにくくなる。こうした教団の構造も、信者を固定化する方向に作用する。その結果、高齢化という事態を迎えることになるのである。


恒常的に教会に来る人間がいなくなれば、教会はそうした人間たちによる献金、あるいは教会税の支払いによって維持されているわけで、存続が難しくなっていく。実際、それによってつぶれていく教会が続出していることについては、すでに見た。


8世紀の半ばに、イスラム教政権の後ウマイワ朝がスペインに侵攻し、その大部分を支配下においた。後ウマイア朝自体は1031年に滅びるものの、その後もイスラム教の宗主国が各地域を支配する体制は、コロンブスがアメリカ大陸を発見する1492年まで続き、キリスト教徒はそれまで、スペインを再征服する「レコンキスタ」の運動を続けなければならなかった。
こうした歴史を持つスペインにおいては、イスラム教文化の影響が大きく、グラナダのあるアルハンブラ宮殿などがその代表である。その点で、スペインはイスラム教の影響が強い。そうした国で、再びイスラム教徒が増えているという現象は、スペインの人々に、歴史の教科書で習ったような事態が再び起こっていると思わせるのである。


ヨーロッパでイスラム教徒が増えているのは、もちろん、キリスト教徒だったヨーロッパの人間がイスラム教に改宗しているからではない。
その大部分は、イスラム教の諸国からの移民である。移民が増えた結果、それぞれの国でイスラム教徒の割合が増えたのだ。しかも、その勢いは増え続けている。


日本人も、とくに戦前には海外に移民することが多かったが、その際に、当初の段階では移民先に日本の宗教を持ち込むことはなかった。・・・。日本人としての結束を強めるよりも、現地に溶け込むことを優先したと言える。
これに対して、ヨーロッパに移民したイスラム教徒は、その時点では、それほど強い信仰を持っていなかったかもしれない。ところが、現地の社会には容易に溶け込めないという事態に直面した。その結果、イスラム教の信仰を深めていくことになった。彼らがキリスト教に改宗することは少ないのである。


朝鮮半島には、「ムーダン」と呼ばれる巫女がいて、シャーマニズムを実践してきた。儒教は支配者のための宗教であり、男性のためのものであったのに対して、女性はそこから排除されたため、ムーダンに救いを求めるしかなかった。


日本の近代社会には、日蓮系・法華系の新宗教が拡大する精神的な土壌が形成されていたのである。


日本のキリスト教は、19世紀に近代化を進めていく中で、欧米から取り入れられたもので、キリスト教の信者の中には、知識愛級が多かった。彼らには、西洋に進んだ文明や文化に対する強い憧れがあり、その背後にキリスト教の存在を見ようとした。キリスト教は、日本の神道や仏教に比較して、知的で体系的であり、さらにいえば合理的な信仰であると考えられ、知識階級が特に関心を持ったのである。


そもそも日本では、仏教と神道が入り混じった信仰が受け継がれてきていた。神仏習合の強固な体制が築かれていた。それが壁になり、日本にはそれほどキリスト教が浸透しなかったのである。
ところが、韓国では、キリスト教はシャーマニズムの文化と融合し、習合することによって、庶民層にまで広がっていった。それは、日本のキリスト教には起こらなかったことである。


日本の戦後社会においては、現世利益の実現をうたい文句に新宗教が勢力を拡大したように、韓国では、同じような主張を展開したカリスマ的聖職者に率いられた庶民的なキリスト教が急成長したわけである。これは要するに、プロテスタントの福音派の信仰が広まったということである。


最近では、ソウル首都圏への人口の集中が一段落したせいか、韓国におけるキリスト教の伸びも止まっている。


中国でも事態は同じである。
法輪功が勢力を拡大していったときにも、経済格差が広がるなかで、取り残された人々が法輪功に救いを求めたと指摘された。日本の場合、戦後に新宗教が弾圧の対象になったわけではない。だが、中国の場合には、宗教に対して否定的な共産主義の政権であるということもあり、厳しい弾圧へと結びついていった。それは、全能神に対しても同様である。


政治に期待できないときには、宗教に頼らざるを得ない。そこで、今中国で注目されている宗教が儒教であり、キリスト教である。


中国政府が、宗教に対して干渉し、監視の目を光らせ、時には規制を行ってきた。そんななかで勢力を拡大しているのが、「地下教会」と呼ばれる。政府に公認されていないキリスト教の教会である。こうした教会は、「家庭教会」などと呼ばれることもあるが、指導者がカリスマ性を発揮し、病気治しなどを行う福音派である。中国でも、経済発展が続く国では必ずや台頭する福音派がその勢力を拡大しているのである。


ヒスパニック系の場合、メキシコをはじめとする中南米の国々で生活しているあいだは、伝統的なカトリックを信仰している。
ところで、アメリカにやってくると、状況は大きく違ってくる。カトリックは多数派ではないし、自分たちがアメリカ社会では民族的に少数派であるため、結束していかなければならない。そのとき、奇跡信仰や病気治療を宣伝して信仰心を煽る福音派に対する信仰が高まっていくのである。


ヨーロッパを中心とした先進国では、キリスト教の教会離れが急激な勢いで進行している。これは、近代社会になって以降、それに伴って必然的に起こる「世俗化」が勢いを増していることを意味する。

一方で、現在でも経済成長が急速に進行している国々では、プロテスタントの福音派が勢力を拡大している。


最近、日本の論壇では、「反知性主義」という言葉をよく耳にするが、もともとこの反知性主義とは、アメリカにおけるプロテスタントの福音派を指して使われたものである。


福音派の台頭にしても、イスラム教の勢力拡大にしても、どこかでその伸びや原点回帰の方向性が変わり、運動として退潮するとともに、世俗化の様相を呈していくのではないかと考えられるのである。


仏教には僧伽、キリスト教には修道院というように、出家者だけで構成された集団があるが、イスラム教にはそれがまったくないのである。
イスラム教徒はすべて俗人であり、厳密な意味では聖職者そのものがいない。


世俗化は、宗教の影響力が社会から消えていくことを意味する。
たしかに、近代以前の時代においては、宗教の影響力が圧倒的で、それが生活のあらゆる分野を規制しているような状態が続いた。


イスラム教の場合、宗教の世界と世俗の世界は一体であり、両者は分かち難く結びついている。現実の世界と神聖な信仰の世界は区別されていない。


キリスト教の場合には、(ここでは基本的にカトリックにおいてということになるが)、宗教の世界と世俗の世界とは厳密に区別され、両者は分離されている。


プロテスタントの場合には、そうした世俗の世界から離れた聖職者は存在しない。牧師は皆世俗人であり、結婚し、家庭生活を営んでいる。その点では、イスラム教の指導者の場合と共通している。


『創世記』に記されたことは、神話的な物語であり、そこでは2人の行為が原罪としてとらえられているわけではない。しかし、木の実を食べたアダムとエバが、裸でいることに恥ずかしさを感じるようになったとされていることから、やがて2人は性の快楽を知ったものと解釈されるようになり、さらには、蛇はサタンであると考えられるようになる。こうして現在の観念が生み出されていく。なお、この現在の観念は、ユダヤ教にもなかったもので、イスラム教にも受け継がれなかった。


ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーが、聖職者に求められる禁欲を「世俗外的禁欲」ととらえ、俗人に求められる禁欲を「世俗内的禁欲」ととらえて、後者の世俗内的禁欲から資本主義の精神が誕生してくる過程を追っていったのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)という宗教社会学の古典的著作である。


キリスト教においては、イエス・キリストが十字架にかけられて殺され、3日目に復活したことが信仰の核心を構成しているが、それは、やがて訪れる最後の審判における人類全体の救済を約束するものと信じられた。その点で、キリスト教は、終末が訪れることを前提とする宗教である。
こうしたキリスト教の終末論は、社会が危機に陥った時に必ずや持ち出されるもので、そのたびに熱狂的な支持者を生んだ。


目に見えないものをとらえようとするとき、人は、自分がすでに知っているものにそれをなぞらえようとする。そのために、欧米の社会では、経済現象を説明しようとするときに、意識的に、あるいは無意識的に、宗教が持ち出され、神が持ち出されてくることになるのである。


神の見えざる手についての議論の中で、スミスという名前は、自由放任主義や、市場原理主義に通じる考え方を正当化するためのお墨付きを与える役割を果たすために持ち出されただけだとも言える。


現代の資本主義社会においては、マルクスが予言したように、ひたすら資本の自己蓄積が続き、抑圧という事態が恒常的なものになってきているのである。


経済発展によって地方から都市への対規模な人口移動が起こるなか、近代化を阻んでいるものとして、地方の村落共同体が槍玉に挙げられたことである。
日本は家社会であり、それが、個人の自立を妨げ、近代的自我の発展を阻害していることが指摘された。真に自立した個人を創造し、社会全体の近代化を図るためには、村落共同体も家社会も解体していかなければならないというわけである。


大企業が存在しない国では、中小企業や農業が産業の中心であり、生産性を上げようとしても、すぐに限界に達してしまう。それでは、経済危機が起こっても、それを解決する見通しは生まれない。巨額の借金を抱えてしまえば、それを返す見通しはまったく立たない。ギリシアの危機が深刻になったのは、ギリシア経済が脆弱だからだが、農業や観光でしか金を稼げない国が、日本やドイツのように振舞うことなど到底不可能なのである。
高度資本主義社会においては、スケールの大きな多国籍企業が次々と生まれ、それが世界経済を動かしていく。しかし、そうした事態は、大企業が存在する国と存在しない国の格差を広げ、後者に含まれる国々は、世界経済の発展から置いてきぼりを食うことになっていく。


資本主義の社会では、資本の蓄積ということが自己目的化され、経済規模の拡大が続いていく。市場を拡大し、生産力を高めていくことが至上命題となるが、そのためには労働力を確保しなければならない。移住者や移民は、それを満たすために故郷を捨てていくのである。
そうなれば、どの国においても、どの地域においても、地方の共同体の弱体化や崩壊という事態が生じる。


宗教は、地域や村落共同体、家族や一族といった共同体に基盤を置いている。その共同体を資本主義は破壊していくのだ。


それは、新宗教の場合、信仰を獲得した第一世代から、その子どもである第二世代に継承が進まないからでもある。第一世代には、その宗教に入信するに至る強い動機がある。ところが、第二世代にはそれがない。それでは、親の信仰を子どもが受け継ぐということが難しいのである。
それが、既存宗教と新宗教とを分ける壁でもある。
既成宗教の場合には、信仰は代々受け継がれていくものであり、現在信仰している人間は、個人的な動機からその宗教を選択したわけではない。親が信仰しているからそれを受け継いだだけである。信仰に対して強い情熱をもっていないために、かえってそれを自分の子どもにも伝えやすい。信者になっても、熱心に信仰活動を実践する必要がないからである。


資本主義社会は、当初、新宗教に拡大の余地を与えても、低成長の時代に入ることで、その余地を奪ってしまうのである。


最初、講というのは、仏典の内容を解説するための僧侶の集まりの意味で使われた。法会の一種だというわけである。
それが後になると意味が広がり、共通の信仰を確認するための行事や会合のことを指すようになる。さらには、そうした行事や会合を営む集団の意味でも使われるようになっていく。


昔は、今に比べれば、楽しみというものは少なかった。そのため、地域の村で行われる祭りなどの行事は、村人たちが大いに楽しみにしているもので、その日には普段と違う食べ物が振る舞われ、人々は酒に酔って日頃のうさを晴らした。そして、遠く離れたところにある神社仏閣を訪れることは、それ以上の楽しみを与えたのである。


とくに日本の場合、高度経済成長は社会構造を根本から転換させることになった。それまで多くの日本人は農村部にいて、農業や漁業、あるいは林業などに従事していた。重要なことは、そこには生業によって、そのあり方は異なったものの、村という共同体が作り上げられ、人々はその共同体に伝わるしきたりに従って生活を営んでいたことである。


葬儀をめぐる習俗と経済との関係は密接である。


今や、葬式仏教というあり方は根本的な危機を迎えつつある。高度経済成長は、村の共同体を破壊し、人々を共同体から追い出すことによって、地方寺院の維持を困難にしてきた。その波は、都会の寺院にも及ぼうとしているのである。


冷戦が続いている時代には、共産主義が政治的なイデオロギーのバックボーンとして機能した。資本主義の社会に対して批判的な行動をとろうというとき、自分たちの立場の正当性を共産主義のプロパガンダ(宣伝行為)にもとづいて主張することができた。
ところが、冷戦が終焉を迎えたことで、共産主義のイデオロギーに立脚して自己の正当性を主張することはできなくなった。その際に、今の世界で、正当性の源泉となるものとしてもっとも有力なのがイスラム教であるということになる。


フランスの同時多発テロについては、イスラム国(IS)との関連が指摘されている。今の時点で詳細は明らかになっていないが、ISが行ってきたことは、以下にイスラム法に忠実であるかということであり、多神教徒を殺害することや偶像の破壊などは、イスラム法によって正当化される。それが彼らのプロパガンダであり、それによって、現在のイスラム教の世界でも、多くの人間が、いかに教えから逸脱しているのかを示そうとしている。それが、自分たちは正しいと主張したい若い世代を引きつける大きな要因になっている。こうした状況から考えれば、これからもテロが起こる可能性はある。
その際にテロリストは、自分たちの正当性をイスラム教の教えに基づいて主張することになるだろう。ところが、テロが起これば、ヨーロッパを中心にイスラム教徒排斥の動きが高まり、それがイスラム教徒の社会統合をいっそう困難なものにしていく。そうなれば、さらにテロの可能性は高まる。しかも、イスラム教徒の数はこれからも確実に増え続けていくのである。


一つは、ヨーロッパや日本などの先進国で起こっている宗教の急速な衰退という現象である。それは、伝統的な既成宗教に起こっていることだが、同時に新宗教にも起こっている。要は、先進億の社会は世俗化、無宗教化の方向に向かっているのである。


もう一つ、経済発展が続いている国では、プロテスタントの福音派を中心に、新しい宗教が勢力を拡大している。これは、戦後の日本社会で起こった日蓮系新宗教の拡大と共通した現象であり、産業構造の転換による都市化が決定的な要因になっている。


三つ目として、イスラム教の拡大ということがあげられる。ヨーロッパでは、移民を中心としたイスラム教徒が増え、「ヨーロッパのイスラム化」が危機感をもって語られるようになっている。


イスラム教の世界で今起こっていることは、世俗化ということではなく、イスラム法の現代化、あるいは資本主義化としてとらえた方がいいのかもしれない。


イスラム金融やハラール認証が定着していくのも、そうした状況を反映してのことだが、その傾向はこれからもより強いもん尾になっていくだろう。それは、イスラム教の本来のあり方から逸脱しているというとらえ方もできるが、決して金儲けや現世での享楽を否定しないイスラム教のあり方からすれば、必然的な動きであるとも言える。
おそらく、イスラム教はそうした形で現代社会に適応し、その姿を変えていくことになるであろう。ヨーロッパのイスラム化と言ったときにも、それは中世のイスラム教社会に戻るという音を意味しない。たとえば、イスラム革命が起こったイランでは、革命直後とは異なり、イスラム法に徹底的に従おうという空気が緩んでいる。そうしたことは、イスラム教が広がりを見せれば、必然的に起こることである。


資本主義は、社会の最小単位を家族から個人へと狭めることによって、社会を成り立たせる基盤を失いつつあるようにも見える。
資本主義は行きつくところまで行き着いた。さらなる市場の拡大は、現実的には不可能なところまで来ている。そのなかで、伝統的な社会システムは解体され、個人が共同体とは無縁な生活を送る状況が生まれている。
資本主義はそこまで貪欲に資本の蓄積を行ってきたとも言える。ロボットが労働を担い、社会のあらゆる側面が自動化された時代においても、人間という存在は本当に必要なものなのだろうか。人間を必要としない社会のなかには、人が生きる余地などないのだ。


宗教は、日本人の多くが考えるように、たんにこころの問題ではなく、社会の動きと密接な関係をもっているのだ。

以上
またね***

2018年3月4日日曜日

<ひとり死>時代のお葬式とお墓(食べる読書138)




COCCOは好きなアーティストだ。
「遺書」という曲がある。
自分が死んだ後の弔いについて歌っている曲だ。



ベスト+裏ベスト+未発表曲集


初めて聴いた時、「自分の本心に素直だなあ。」と思ったことを思い出す。「俺は、絶対こんなことは思わないだろうなあ、・・・でも羨ましい。」とも思った。


今回の本は、この曲の意図とは異なるが、死後を託せる人がいなくなっている現状を記した内容。
そんな状況に対して、さまざまな動きも記されている。
そして原因を、関係性の希薄化、としている。


突然だが、
原始時代から変わらないもの、それは、”時間”だ。原始人と現代人、一日を何に費やしているのだろうか。
そして、何にエネルギーを使っているだろうか。

と、問題提起しておきながら、この問題提起自体成り立たないことに気づく。
それは、原始人には、”時間”や”エネルギー”、ましてや”自分”という概念もないだろうからだ。

つまり、あるがまま、なのである。文明以前は。

翻って現代は、時間を切り売りしている。
現代は、市場の拡大が特徴である。市場経済であり、経済発展には市場の拡大が必然。市場が大きくならなければ、経済も発展しようがないからである。

そして、市場で取引される商品は、金銭で換算できる、という条件を満たせばいい。

物理的に世界を埋め尽くした後、資本家はどこに市場を見出だしたのか。さまざまだろう。人の心だったり、共有財産、科学技術、未来、などだろう。

社会資本の一つである地域のつながり・関係性も何かしらの形で商品化され、市場に出ることで、人々がそれに費やす時間とエネルギーの代わりに金銭で購入するようになった。

そして、死後の弔いを葬儀社から金銭で購入するようになった。べつに、葬儀という形式をしなくても、死者への想いをその人との関係性の中から形にすればいいのに、自身の時間と労力の費用対効果(この概念自体、金銭化に一躍買っていると思うが)から、死者への想いも購入する羽目になっている。

金銭化とは、部分化であり、一部を切り取っているにすぎず、評価しているのは一面に過ぎない。だが、市場で取引されるとき、それは、それが付随している全体であると人々は認識してしまう。一部を全体であると思い込まないと、商品として成り立たないからかもしれないが、それによって結局、金銭化できない本質的な部分だけが取り残されることになる。その結果、社会問題として表出するが、それをも商品化によって解決しようとする動きの繰り返しである。

結局、誰がその後始末をするのか、というと誰もしていない。
それが表れているのが、社会保障費の増大だろう。
これまで、ご近所や地域で担ってきた内容を社会保障という名目で、国が担う羽目になっている。
そして、その税金を払っているのは中小企業であり、景気の羽振りのいい大企業はタックスヘイブンで税金逃れをしている。

社会保障のサービス内容を増やしているのは、新たなサービスを市場に提案している主に大企業であるのに、社会保障の財源である税金を大企業は払っていないのが現状である。

人の死の場面が、社会の何を表すバロメーターであるのか、そして新たなサービス(商品)以外の方法で良い方向へと進められるのか、この2点を明確にできればいいなと思う。


以下抜粋

超高齢になると、きょうだいや友人の多くはすでに亡くなっているうえ、親の死亡時に子どもが定年退職していれば、仕事関係でやってくる義理で参列する人は激減する。これまでの葬儀は、遺族、参列者双方にとって、見栄や世間体を重視してきた傾向があったが、六〇歳ラインを子どもも超えれば、こうした「たが」がはずれ、廉価で小規模な葬儀が増えるのは当然だ。


家族が遺体のそばで思い出を語り合いながら一晩を過ごすのは、遺族にとって死別を受け止めるための貴重な時間であり、遺族の絆を確かめ合う時間でもあるからだ。


議員の弔電もそうだが、亡くなった人と面識がないのに、自分の仕事のために人の葬儀を利用する人がいたのも事実だ。


私たちが葬儀社の助けなしではお葬式が出せないようになったのは、都市部では高度成長期以降、地方では最近になってからのことだ。


ではこの先、お葬式はどうなっていくのだろうか。かたちだけでみると、まず祭壇が消失していくのではないかと、私は思う。
そもそもお葬式の祭壇が誕生したのは、昭和に入ってからのことだ。


人に見せるお葬式は今後も減少の一途をたどるはずだ。


お葬式は、亡くなる人とその人を見送る残された人の双方がいないと成立しない。亡くなる人は増える反面、見送る人が減少すれば、お葬式はますます小さくなるのは当然だ。そのためには、亡くなりゆく人と、残されるはずである人との関係性の構築が求められる。


お葬式は、残された人同士の関係を再確認する機会でもある。お葬式を単なる遺体処理にしないためには、人と人とのつながりがなければならない。それがお葬式の行方を、大きく左右するだろう。


昨今、共同墓を新設する自治体が増えている。


血縁を超えた人たちで入るこうした共同墓は、子々孫々での継承を前提としていない点が特徴だ。


倍率だけを比較すれば、「樹木墓地」は、自らの死後の安住の地として生前に選ぶ人の方が多いということがわかる。


「先祖をまつる場所」から「特定の故人の住家」へとお墓の意味合いが変化してきたことを端的にあらわしている。


お墓はいらないという考えは、少なくとも昨今の傾向ではないことがうかがえる。


お墓には二つの役割がある。
ひとつは、遺骨の収蔵場所としてのお墓である。

先祖のお墓を未来永劫、守っていく子孫がいるという確証は誰にもない。どんな人も必ず死を迎えるのだから、家族や子孫の有無、お金の有無にかかわらず、みんな等しく遺骨の収蔵場所を確保できる仕組みを考えなければならない。たとえば、無縁墓を出さないよう、子孫がいる限り永代使用できるというお墓ではなく、使用期限二〇年、三〇年などと区切り、希望すれば使用期限を更新できるお墓を作ることも、ひとつの案だ。すでに自治体の墓地では、こうした取り組みが始まっている。
また血縁を超えて、みんなでお墓に入るという子々孫々での継承を前提としないお墓も有効だ。子々孫々での継承を前提としたお墓である限り、無縁墓は今後、ますます加速度的に増えていくのは目に見えている。
もうひとつのお墓の役割は、残された人が死者を偲ぶ装置であることだ。


残された人が死者を忘れない限り、お墓は無縁にはならない。


高齢で亡くなれば、生前の故人と親しく交流し、死後も偲び、思い出す人たちがこの世に生存しているのは、せいぜい、二、三〇年間だろう。
お墓参りは、顔を知らない先祖のためというよりは、生前を知っている近しい故人のためにおこなっている人が多いことからもわかるように、祭祀される故人の顔ぶれがどんどん入れ替わっていくのは当然だ。
そのうえ今後、誰からも弔われない死者が増えれば、遺骨を収蔵する場所があればそれでよく、残された人が死者を偲ぶ装置としてのお墓は不要となるであろう。お墓のゆくえは、お葬式と同様、生前の死者が誰とつながっていたのかという、人と人とのつながりによっても大きく左右される。


2000年以降、男性の長寿化が猛スピードで進み、夫に介護が必要なころには妻も年老いているため、かつてのように「妻が夫を介護する」という構図が崩れていることは序章でも触れた。しかしこれからは、親世代の長寿化で、子どもも高齢化し、親の介護を担うことがむずかしい状況が生まれつつある。


同居している子どもは家族だが、別居していれば、子どもが家族だと考えるかどうかは意見がわかれる。ましてや、子どもが結婚して別の場所で所帯を持っていれば、子どもを家族だと思わない人は少なくない。「家族はいっしょに住んでいる人」という観念に基づけば、ひとり暮らしをしていれば、家族はいないと考える人がいても不思議ではない。


家族はどこまでの範囲を指すかという定義はなく、自分が家族だと思えば、それが家族なので、人によって違うのはあたりまえだ。しかし、家族だと思う人の範囲が狭くなっているのは、関係性の希薄化が背景にあるのだろう。


これまで亡くなっていった男性で、妻や子ども、孫がいないという人はごく少数だった。これからは、誰もまわりにいない高齢者が続々と亡くなっていく未知の社会が到来する。


これからの社会において、どれだけ自分で事前に考え、準備しておいても、自分では絶対に実行できない死後のことを誰が担うべきだろうか。


これまで家族や親族、宗族(父系血縁集団)による相互扶助精神が基本とされてきた台湾では、少子高齢化や長寿化、核家族化が猛スピードで進んでいる。その結果、家族内介護の限界、高齢者の孤立など、新たな社会問題が露呈しはじめている。
ここ数年、台北市、新北市、台中市、高雄市などの大都市では、お葬式を簡素化して、葬儀費用の負担を軽減したりするために、市の主催で複数人のお葬式が合同で行われている。
台北市の場合、遺体の搬送や納棺、遺体の安置、葬儀の施行までのすべての費用からか火葬代にいたるまで、遺族の負担は一切ない。財源は市民からの寄付だという。


この日、告別式の前の宗教儀式に立ち会ったのは葬祭業者以外には私一人で、遺族も台北市の職員も、誰も会場にいなかった。


自分のお葬式のために積み立てるのではなく、国民でみんなのお葬式にかかる費用を負担しようという趣旨のものだ。


どんな人も、亡くなった場合に最低限のセーフティネットがあることは、生きている人の安心感につながるはずだ。日本では、これまでは家族や子孫が支えるべきとされてきたが、死後を社会で支えあうことは可能なのだろうか。


葬祭扶助でまかなえるのは遺体をひつぎに納め、火葬するだけの費用で、読経をしてもらったり、祭壇に花を供えたりする費用は出ない。
昨今、高齢の生活保護受給者が増えていることから、この葬祭扶助費は多くの自治体で増加傾向にある。


エンディングプラン・サポート事業は、市役所の職員が葬儀、墓、死亡届人、リビングウィルについての意思を本人から事前に聞き取り、書面に残して保管しておき、同時に葬儀社と生前契約を結ぶという仕組みだ。葬儀と納棺にかかる費用は、市役所と提携する葬儀社やお寺などと相談のうえ、総額で二十五万円から三十万円までに納め、利用者が葬儀社に先払いする。


市の職員は契約時に立ち会うほか、高齢者が亡くなった時には、本人の希望通りに行われたかをチェックする。


この事業では、利用者のリビングウィルを、契約する葬儀社が預かっている点が特徴として挙げられる。


市役所の担当者によれば、生活にゆとりがなくても、「お葬式の費用ぐらいは」と、数十万円程度は貯金している人は案外、多いそうだ。自分で貯金していたにもかかわらず公金で火葬される人が減少すれば、市の支出も軽減できる。


全国の自治体に対し、他死社会を迎えて現在直面している課題についてたずねた調査では、無縁遺骨の引き受けの増加を挙げた自治体は、政令指定都市や中核都市を中心に八百十四自治体のうち百二十七自治体もあった。


六人に一人のひとり暮らし男性高齢者は、二週間に一度も、誰からも電話がかかってこず、自分からもせず、自宅を訪れる人や外で会う友人もなく、近所の人とあいさつをかわすこともないのである。男性だけではない。ひとり暮らしの高齢女性で、毎日会話をしている人は62.8%で、男性よりは多いものの、三分の二以下にとどまっている。


精神的にも社会的にも孤立していれば、突然亡くなった場合に遺体の発見が遅れる、弔う人がいない、遺骨の引き取り手がいないという状況に陥っても不思議ではない。お金がない、頼れる家族がいない、社会とつながりがないという”三重苦”を抱える人たちの増加で、これからますます、「悲しむ人がいない死」が増えていく。本人がそれを望んだのならともかく、社会とつながりを持ちたくてもできない人たちがいるのであれば、どんな人も無縁視させないために、社会が何らかの支援をする必要があるのではないだろうか。


無縁墓とは、相当期間にわたってお参りされた形跡がなく、承継する人がいなくなったお墓を指す。


弔う家族や子孫がおり、先祖のお墓があったとしても、未来永劫、子々孫々でお墓や死者祭祀を承継していける保証は誰にもない。無縁墓が増加しているのは、子孫が途絶えたからというよりは、生まれ育った場所で一生を終えるという人が減少してきたことと、核家族化の影響が大きい。


ライフスタイルの変化にともない、死後の安寧をだれが新たに保証すべきなのかが問われているのだろう。


もはや血縁、親族ネットワークだけでは、老い、病、死を永続的に支え続けることは不可能なところまで、社会は変容している。それでは、どんな人も安心して死んでいける社会の実現のためには、生きているあいだの安心や死後の安寧を誰がどう保証すればよいのだろうか。


困ったときにまわりの人や社会にサポートやSOSを要請しやすい環境が整っていなえれば、万が一のセーフティネットは、いくら制度や仕組みがあっても役に立たない。


無縁死を防止するには、地縁や血縁にこだわらない緩やかな関係性をいかに築くかが問われている。


コープ共立社では、行政と交渉をした結果、生協が共同墓を運営することは可能であるという結論にいたり、三年以上の年月をかけて、共同墓を建てる土地を探すことができた。


地域で死者の共同性を作る動きもある。


ぽっくり死にたい人は、長患いへの家族への気兼ねが大きな理由であるのに対し、病気で少しずつ弱って死ぬ方がいいと考える人は、自分の人生をきちんと締めくくりたいという思いがあり、両者では、死に対する考え方が違うことがわかる。


医療技術が発達していない時代には、発病すればあっという間になくなっただろうし、大家族なうえに、隣近所の付き合いが密接だったので、自宅で孤立しするという状況も起きにくかったはずだ。死んだら、隣近所の人たちが総出でお葬式を出したし、村の共同墓地に葬られる以外の選択肢はなかった。そんな時代に、「自分はどんな死を迎えたいか」「どんなお葬式をしたいか」を考えるという発想はない。
「わたしの死」は、医療のかかり方や、お葬式やお墓の選択肢が増え、自分の希望通りに人生をまっとうしたいと考える人たちが出てきたことによって芽生えた概念だ。同時に、家族のあり方や医療サービスなどの多様化、生活意識の変容などによって「わたしの死」について考えておかねばならない時代になったという見方もできる。これまで他人の死を支えてきた社会や家族の姿が変容した昨今、自分のことは自分で考えておかねばならないという必然性から芽生えた意識でもある。


かつては家族、親族、地域の人たちが総出でお葬式を手伝ったが、近所付き合いをしたくない、親戚付き合いは面倒だという風潮が出てきた。しかし、いまや家族だけではお葬式ができないので、葬儀社に一切合財をお願いすることになる。外部サービスに頼れば、当然、金銭的な負担はかかる。自立できなくなっているのに、家族に負担をかけず、お金もかけないということは、理想ではあるかもしれないが、現実的ではない。
そうであれば、まわりにかける手間を迷惑とさせないような方法を考えた方がよい。多くの人は、大切な人にかける手間を迷惑だとは思わないだろう。手間と迷惑は同じではなう、誰への手間かによって、迷惑だと思うかどうかがわかれる。


私たちは社会のなかで生き、死んでいくのだが、社会は手間のかけあいで成立している。「おたがいさま」での共助が必要ないのであれば、自立できなくなれば公的制度に頼るしかない。


私は2011年に幸福度についての調査をしたことがある。・・・。近所に信頼できる人がいる、社会やまわりの人たちの役に立っていると思えることが、幸福度をあげることにつながっていた。


困ったときに誰もが周りの人や社会にSOSやサポートを要請しやすい環境が、日ごろから整っていないことが問題なのである。


万が一のセーフティネットは、制度や仕組みがあっても、人と人とのつながりがなければ作用しない。
つながりや関係性は自然には生まれないし、デメリットも享受するおたがいさまネットワークだ。血縁、地縁、仕事縁に限らない。自主的な「縁づくり」活動を通じて醸成される関係性のなかで、生きている喜びを実感できれば、結果的に、誰からも存在を気にされない果ての孤立死は減少するだろうし、悲しむ人が誰もいない死は減るのではないだろうか。死ぬ瞬間や死後の無縁が問題なのではなく、生きているあいだの無縁を防止しなければ、みんなが安心して死んでいける社会は実現しないのではないかと私は思う。


相手は亡くなっているのだから、遺体と一緒に過ごす時間は無意味だという考えもあるだろうが、最後の時間を一緒に過ごしたいと残された人が自発的に思えるかどうか、なのである。


昨今の現象は、死者とのつながりがないからこそのお葬式やお墓の無形かであって、これは、社会における人と人とのつながりが希薄化していることの表れでもある。そう考えると、お葬式やお墓の無形化は、信頼しあい、おたがいさまの共助の意識をもてる人間関係が築けない限り、ますます進んでいくだろう。


人は生きてきたように死ぬとよく言われるが、現代のお葬式やお墓の形は、まさしく社会の縮図ではないかと思う。


「弔い無形化していく社会は、私たちにとって幸せなのか」という問題提起をしたかった。

終活相談


以上
またね***

2018年2月11日日曜日

学者のウソ(食べる読書137)




私は、理系の単科大学を卒業したが、日本の大学に通ったことで分かったのは、大学は「おままごと」であるし、「詐欺」であると感じたことである。


理系という性質上、その産業への人材提供の側面が強く、それは決められたことをいかに効率よく行えるか、である。そこに独創的発想を評価する余地はほとんどないと感じざるをえなかった。教授の指導がそれだからである。その規範からずれるようなら、それが何を意味するのか、既存の規範の目的と手段は妥当か、などと学問的に考えるのではなく、単なる違反とみなして教育という名のもとに強制されるのである。


つまり、現在の大学は、現在の産業を維持する人材生成の場、なのである。その役割を担うことから、依存する産業構造自体への批判を教授が行わず、決められた枠内における研究という名の商品開発が行われているのが現状である。大学であるから、そこには税金が使われている。


本書では、大学内だけでなく社会全体に及ぼす学者の影響と本来あるべき姿とのギャップが書かれている。
学者の現状把握には役立つのではないかと思う。

以下抜粋

大型研究プロジェクトの失敗は、単に税金の無駄遣いにとどまらず、より大きな社会的ダメージを与える可能性を孕んでいる。例えば、エネルギー関連の技術の場合、新技術に対する過大な期待を与えるような情報発信は、エネルギー問題に対する必要な社会的対策を怠らせることにつながる。実際、日本では事業部門での省エネは進んでいるものの、民生部門では省エネが進んでいない。幸い、原子力に頼ることでエネルギー危機は開発できているが、それで結果オーライとするのはリスキーな考え方である。


厚生労働省の第5回女性の活躍推進協議会議事録中のやりとり
〇委員
まずデータをとってみて、相関関係がうまくある程度出たら、そのままだし、全くアットランダムだったら、業績とは関係ないかもしれないけれども、長期的に、国際的にみて、女性の管理者の登用が遅れているから、上げなければいけないというのを別な言い方でもって、持っていくという手もありますから、まずはやってみることです。
このやりとりで、委員たちは、自ら都合のいい統計データのみを恣意的に取り出そうという意図を開陳している。データ捏造そのものも当然悪いことであるが、それを悪いこととも思わず、それが議事録として公開されていても平然としていること、そしてそれが何の社会的批判の対象にもならないことは驚愕に値しよう。


学者が狭い学者の世界しか知らないと同様に、多くの庶民は庶民の世界しか知らないのであり、多くのビジネスマンはビジネスの世界しか知らないのである。その意味では、自分の属する世界の常識ならば、どこにいっても通用すると思い込んでいる人こそが、本当の「世間知らず」であろう。


それだけの社会的影響力を持つ上、専門知識そのものだけでなく、その専門知識が社会の中でどういう位置付けにあるのかを理解することが求められてしかるべきだろう。そのためには、自らの専門の枠組みを超えた視野の広さと教養の深さを備えることが必要となるが、それにもまして重要なのは、自分の知識が通用する範囲の限界を認める謙虚さではないだろうか。


実験データから理論を構築していく考え方を帰納主義という。帰納主義は、間が滑らかに補間されるはずだという法則の連続性の仮定があってはじめて、導かれた法則の予測力を正当化できることになる。


ある現象を論じるとき、関係のありそうな要素群だけを抜き出してきて、その要素群が固定されれば、「同一条件である」と判定する。そして、個々の要素の影響を切り出して分析し、その足し合わせとして組み合わされた条件下での現象を予測する。これが科学の方法というわけである。よって、何が関係ありそうな要素で、何が切り捨ててよい要素であるかを嗅ぎ分ける能力を持つことが、科学者としてよい仕事をするために必要になる。これは、論理ではなく、直感の部分である。優秀な科学者に必要なものとして、論理的展開力を真っ先にイメージする人が少なくないが、直観力も研究者にとって必要不可欠な能力なのである。


科学において、実験装置が巨大化した背景には、安価な装置では新規性のある研究効果を得るチャンスがほとんどなくなっていることがある。科学の初期の成功により、科学者の数は急速に増加し、誰でもできるような実験はほぼやり尽くされてしまった。しかし、大掛かりな装置を作れば、今まで誰もしたことがないような実験ができるので、新発見をするチャンスも増えるわけである。


社会科学の場合、社会を構成するのは人間であるため、発信した予測が社会の構成員である人間の行動に影響を与えてしまう。これは、自然科学では想定されてない問題である。
自然科学においては、基本的に予測する主体と予測される客体が干渉しないことを前提としている。


注意喚起と学術的予測を混同させることは、学問に混乱を生じさせるだけでなく、リスクを煽り立てる悪徳商法などの社会的問題も生じさせることになる。残念ながら、これに加担している学者は少なくない。


学問の予測の社会的影響力を悪用し、社会の利益に反し、個人の利益にのみ資する偽予測を意図的に発信するという行為を多くの学者が行っているとしたら、もはや学問に社会的存在を認めることはできない。


しかしながら、ポストモダン思想は、実はもともとは共産主義の原点であるマルクス主義思想については批判的な立場であるはずだった。先ほど述べたとおり、ポストモダンは普遍性を追求する考え方に反対する。マルクス主義は、共産主義の到来を歴史の必然とし、それを普遍的な原理に据えるわけであるから、これはポストモダン思想とは相いれない。


であるから、物質主義、大量生産消費型の資本主義社会を批判するのであれば、自分の在り方を自由に欲求できるとした実存主義も当然批判の対象になっていはずである。しかし、実際はそうはならず、批判の矛先は科学技術や近代合理主義のみに向けられることになる。


われわれは、すべてを疑って生きることはできない。懐疑主義を実践的なものにするには、何を信じて、何を疑うかについての指針が必要なのである。
では、ポストモダニスト、あるいは価値相対論者は、何を疑い、何は疑わないのか。結論からいうと、自分に都合の悪いことは疑い、都合のいいことは信じるという思考パターンに陥っているケースが多いのである。


以上のフェミニストの言動からすれば、彼らは自らの都合のいいように、構築主義と本質主義を使い分けていると言わざるをえない。つまり、構築主義が詭弁の道具に成り下がっているのである。


しかし、マスコミ自身はマスコミ対策をする必要がない。そのため、マスコミは最もCSRが欠落する業種となっているのである。


昔から、自説の正当化のために弱者を持ち出すという論法はしばしば使われてきた。右で述べた、マスコミによる消費税反対はまさにその典型例である。弱者自身は苦境に置かれているので、その味方をしてくれる人には飛びついてしまうことが多い。それを悪用するエリートは今までも数多くいた。


フェミニストも、ほとんどは学歴エリートたちである。しかし、彼らは人間を男女の二つのカテゴリーに分け、女性全体を弱者と見立てる。男性集団の中にある多様性、あるいは女性集団の中にある多様性には一切触れさせない。その上で、弱者集団である女性への援助を名目に、女性集団の中の強者であるエリート女性のみに手厚い政策的援助が行くように誘導するのである。


その一方で、2002年、母子家庭への児童扶養手当が減額されることが決まった。この政策も男女共同参画と無関係ではない。男女共同参画社会において、男女の職業生活と家庭生活の両立を支援するという目標がある。母子家庭に対しては金銭的支援ではなく就労支援を重視するという考えから、児童扶養手当が減額されたのである。
この二つを並べてみると、今の政策のおかしさがよくわかるだろう。ふつう、福祉とは弱者の援助を目的とするはずである。ところが、男女共同参画では強者の女性を援助して弱者の女性への福祉は切りすてているのである。
真面目に福祉を考えるなら、母子家庭に経済的自立を促す前に、まず余裕あるエリート女性たちが自立すべきだろう。働いていれば自立だと思い込んでいるのかもしれないが、保育所の経費を国に負担してもらっていては、自立していることにならない。自立が大事というのであれば、保育に要する費用も全額自分で負担するのが筋である。


本来の福祉の考え方からすれば、負担能力のある家庭には応分を負担してもらって構わないはずである。実際、この時代、夫婦ともにフルタイムで働けるということは、一般的には経済的強者である。フェミニストは、よく税金を払わない専業主婦を税金泥棒呼ばわりするが、経済的強者がこれだけの公的支援を受けることも税金泥棒ではないだろうか。


実際、合計収入が同じ共働き世帯と片働き世帯を比較した場合、現行制度では夫婦の合計年収が600万円を超えるような世帯では、共働き世帯のほうが負担は軽くなるのである。実は、現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、所得の割に税負担が少なく、保育サービスなどの必要な社会保障も安く提供される、夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯なのである(石川・掛谷『「専業主婦優遇」批判報道の検証』メディア情報検証学術研究会2005講演論文集)。


ところが、「男女共同参画」推進グループは、「男は仕事、女は家庭」という生き方が自由意志のもとに選択されることにも反対してる。価値観を押し付けられる弱者の顔をしながら、一方で他人に価値観の押し付けを行ってるのである。


現在、社会格差の拡大が問題となっているが、それに付随して、自らの属する階層以外の人と接する機会が少なくなりつつある。つまり、自らの階層の利益拡大イコール社会全体の利益拡大と錯覚してしまいやすい社会構造が生まれている。そのため、悪意はないのに、結果として自らの属する階層のみを利する利己的な主張を、社会正義であると本気で信じているケースもまま見受けられる。


いくら外国人や女性を入れても、彼らがみんな学歴の高いエリーロであったとき、多様な人間から構成される集団といえるだろうか。私の経験では、外国人であっても女性であっても、恵まれた境遇で同じような高等教育を受けた人の間の差異は、同じ日本人であっても境遇や教育の異なる人の間の差異よりは少ないように思われる。


私自身も、ここで批判対象としている学歴エリートの一人であるが、個人的には、いい大学・大学院で学ぶことには、それに付随する責任があると思っていた。試験で人を振り落とす以上、自分が合格することで、他の人がそこで学ぶチャンスを奪ったのでえある。であるから、その分、きっちり勉強し、その成果を社会に還元する債務を負ったとも考えられる。残念ながら、そういう発想を持つ学歴エリートは非常に少なく、むしろ入試にパスすることで特権を得たのだと考えるエリートが多いのが実情である。


一般に、産業界の学歴エリートたちは、学者や官僚とは違い、世の中の実情をよく見ている人たちであると好意的に語られることが多い。しかし、実際には彼らの利己性も凄まじい。
彼らは、しばしば、自分のビジネスに有利な政策なら、社会的副作用が強いものも平気で支持する。


たしかに、中国ビジネスで儲けている企業にとっては、日本政府が中国の言いなりになってくれたほうが商売をし安だろう。しかし、一部の企業の商売上の都合で、政治的に副作用が強いことが押し通されるとすれば、中国ビジネスと関係のない人たちにとっては迷惑な話である。


右の例は、企業の経営者が、第三者的立場を装いながら、会社の利益のために影響力を発揮したケースである。実は、それ以外に、マスコミの場合と同様、会社ではなく個人の利益のために、企業のトップがその社会的影響力を行使しているケースがある。その最たる例が、2001年12月の商法改正で行われた株主代表訴訟における取締役の責任軽減化である。具体的には、今まで無限責任であった取締役の賠償責任を、定款または株主総会の決議により、代表取締役は報酬の6年分、社内取締役は4年分、社外取締役は2年分まで軽減できることになった。これは、経済界のトップたちの働きかけで行われたものだが、まさに自らの責任を軽くする行為である。この時、彼らの用いた論理は「こんなに責任が重いと、優秀な人は誰もトップになりたがらない」というものであった。しかし、重い責任をきっちり背負える人こそが、本当に優秀な経営者なのではないだろうか。


仕事の難しさを測るのに、その仕事をこなせる人の希少さを基準とすることは、危うさを含んでいる。なぜなら、その希少さが、仕事の技術的な難しさからではなく、その仕事を行う資格を持っているか否かに依存する場合があるからである。医師も弁護士も、資格を取るのは看護師、介護福祉士、保育士よりも難しい。しかし、資格を取ることの難しさイコール仕事そのものの難しさではない。


社会的意思決定における学歴エリートの影響力は非常に大きい。その影響力を行使することで、学歴エリートに都合のいい社会的ルールが固定化していくのである。



実は、一連の規制緩和自体、学歴エリートにとって不都合な規制だけを取り除いた動きとみることもできる。


実際、規制が少なくなればなるほど、合法的に他人をだます手段が増えることになる。


つまり、極端な至上主義は、腕っぷしでは負けるが、詐術には長けた人たちが一番得をするルールということになる。


社会全体の利益を考えたときに望まれるのは、社会的満足を与えることでしか利益を上げられないような社会にするための規制である。ここでいう社会的満足とは、その行為によって他人に与える満足(利益)の総和から他人に与える不満足(コスト・副作用)の総和を引いたものである。


現代社会においては、どこを見ても社会的全体をよくしていこうといった意識を持つ学歴エリートは見当たらない。もちろん、お題目としてそれを掲げる人たちはいる。しかし、それは常に、個人的利益を拡大する手段を認めさせるためにすげ替えられた看板でしかないのである。彼らは、社会貢献に必要な技術の学習よりも、利己的な行動をカモフラージュするためのコミュニケーション能力の習得を優先してきた。


実力主義というときの「実力」」は、個人の実力を指して使われることが多い。実力のある人間を組織のトップに据えるというのは、まさにその考えに基づくものである。しかし、その人事方針には重大な欠点がある。実力主義でトップになった人間にとって、自らの利益と合致する組織の利益は、自分がトップの間における組織の利益のみである。自分が辞めた後、その組織がどうなろうがあれには関係ない。となると、例えば会社のサラリーマン社長は、長期的に見ると会社を傾かせる危険があっても、自分の在任中は会社に大きな利益がもたらされる選択肢を好んでとるようになる。


実力主義の問題は、会社組織だけでなく、官僚組織や大学でも顕著に現れる。官僚は2~3年で部署を移動するので、その間の体面を繕えればよいとの発想で仕事をすることの問題は、今までも再三指摘されてきた。最近では、大学の近視眼的発想も顕著である。特に理系を中心に、大学院重点化という名の下、ほとんどの有名大学は、大学院の定員を大幅に引き上げている。・・・それでも、そうしたポリシーがとられるのは、自分の定年までブランド力が保てればそれでいいと考える大学教員が多いからといわざるをえない。このように、実力主義には、偏狭な利益が最大化され、組織全体あるいは社会全体には大きな不利益がもたらされる危険性が常に潜んでいるのである。


戦後民主主義教育が倫理崩壊の原因なら、問題は学歴エリートだけに留まらないとの指摘はあろう。しかし、庶民は自分の暮らしを守るのに精一杯で、公共の利益を考える余裕がなかなかないのは、いつの時代にも共通したことである。その一方、エリートは公共性を考える余裕がある人たちである。公共の利益を優先しても、生計を立てることができるのである。ところが、公共心という価値が喪失した結果、公共の利益のために仕事をして普通に暮らしをするより、公共の利益に反する仕事で贅沢な暮らしを実現する生き方を選択する学歴エリートが増殖してしまったのではないだろうか。実際、本章で紹介した数々のエリートの行動は、それを如実に表している。


利己主義が実質的に社会の標準的な規範となってしまっている以上、個々人にその規範を超える行動を要求するのは酷である。もし、ノブリス・オブリージュや武士道の精神をエリートに期待するのであれば、個人にそれを要求する前に、そういう規範が広く受け入れられる仕掛けを社会に組み込む必要がある。


彼らの論法には、一つの共通点がある。それは目的に関する議論と手段に関する議論を意図的に混同させる戦略をとることである。彼らには、公にすると批判を受けるであろう利己的な「隠れ目的」を内部に秘めている。その隠れ目的を達成するために、有効な手段Aを通すことを意図する。その手段を社会的に認めさせるために、誰もが納得するであろう「理念」を立てる。そして、その理念を達成するためには手段A以外の手立てはないことを議論の前提とし、手段Aに反対する人間には理念を共有しない「悪人」のレッテルを張ることで、強引に持論を認めさせるのである。


女性専用車両推進の隠れ目的は、女権拡大イデオロギーあるいは政治家による女性票の取り込みといったところにあると考えられる。そのため、年齢制限といった議論はご法度になるのだろう。年齢制限という発想自体、人権侵害だという批判も聞こえてきそうだが、男性であるというだけで潜在的置換加害者とみなす人に、そのような批判をする資格があるとも思われない。女性専用車両の発想には、その種の危うさが根底に含まれているのである。にもかかわらず、痴漢対策という「理念」を前面に押し出し、これに反対するものは痴漢容認派とレッテリングをすることによって、その危うさを見事に覆い隠している。


実際、左派の源流である共産主義は、労働者階級の味方として登場したが、結果的には独裁体制を築き上げて労働者階級を苦しめた。日本の左派言論人も、世論が自分の味方についているときは「大衆の判断は常に正しい」として民主主義を礼賛していたが、世論が離れていくと、ポピュリズム批判や大衆批判にいとも簡単に転じた。つまり、左派とは、政治的野心を持つ勃興勢力で、手段と目的の混同を戦略的に使うことを武器にのし上がろうとする人々と定義づけるのが妥当だろう。

学歴エリートの用いる戦法の肝は、自らに都合のいい手段をだれも反対できない理念(目的)とセットにすることであるから、それを分断することに成功すれば、学歴エリートの詭弁はおのずと浮き彫りになる。


実は、彼らは反米イデオロギーや反日イデオロギーのために、「反戦」という看板を利用しているだけなのではないだろうか。その証拠に、米国や日本以外の国の戦争行為や暴力行為に対して、彼らが反対の声を上げることはあまりない。彼らが、反米や反日のために「反戦」を利用しているのだとすれば、それこそ反戦を冒涜する行為だろう。


可逆性テストとは、自分が行為主から行為対象へ、あるいは行為対象から行為主へ変わってもその行為の正当性を維持し続けられるかどうかを問うものである。


では、手段の有効性はどのように評価すればよいだろうか。実は、これこそが学問の営みである。予測力を持つ知識体系は、手段の有効性を評価するのに最も適した道具である。


さらに深刻なことに、間違った報道には、多数の人に少しずつ被害をもたらすような場合も数多くある。この場合、被害総額は膨大でも、個々人の損害は少額のため、原告団の形成が極めて難しく、裁判に持ち込まれる心配がないという構造的問題が存在する。


以上
またね***


一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...