2018年2月11日日曜日

学者のウソ(食べる読書137)




私は、理系の単科大学を卒業したが、日本の大学に通ったことで分かったのは、大学は「おままごと」であるし、「詐欺」であると感じたことである。


理系という性質上、その産業への人材提供の側面が強く、それは決められたことをいかに効率よく行えるか、である。そこに独創的発想を評価する余地はほとんどないと感じざるをえなかった。教授の指導がそれだからである。その規範からずれるようなら、それが何を意味するのか、既存の規範の目的と手段は妥当か、などと学問的に考えるのではなく、単なる違反とみなして教育という名のもとに強制されるのである。


つまり、現在の大学は、現在の産業を維持する人材生成の場、なのである。その役割を担うことから、依存する産業構造自体への批判を教授が行わず、決められた枠内における研究という名の商品開発が行われているのが現状である。大学であるから、そこには税金が使われている。


本書では、大学内だけでなく社会全体に及ぼす学者の影響と本来あるべき姿とのギャップが書かれている。
学者の現状把握には役立つのではないかと思う。

以下抜粋

大型研究プロジェクトの失敗は、単に税金の無駄遣いにとどまらず、より大きな社会的ダメージを与える可能性を孕んでいる。例えば、エネルギー関連の技術の場合、新技術に対する過大な期待を与えるような情報発信は、エネルギー問題に対する必要な社会的対策を怠らせることにつながる。実際、日本では事業部門での省エネは進んでいるものの、民生部門では省エネが進んでいない。幸い、原子力に頼ることでエネルギー危機は開発できているが、それで結果オーライとするのはリスキーな考え方である。


厚生労働省の第5回女性の活躍推進協議会議事録中のやりとり
〇委員
まずデータをとってみて、相関関係がうまくある程度出たら、そのままだし、全くアットランダムだったら、業績とは関係ないかもしれないけれども、長期的に、国際的にみて、女性の管理者の登用が遅れているから、上げなければいけないというのを別な言い方でもって、持っていくという手もありますから、まずはやってみることです。
このやりとりで、委員たちは、自ら都合のいい統計データのみを恣意的に取り出そうという意図を開陳している。データ捏造そのものも当然悪いことであるが、それを悪いこととも思わず、それが議事録として公開されていても平然としていること、そしてそれが何の社会的批判の対象にもならないことは驚愕に値しよう。


学者が狭い学者の世界しか知らないと同様に、多くの庶民は庶民の世界しか知らないのであり、多くのビジネスマンはビジネスの世界しか知らないのである。その意味では、自分の属する世界の常識ならば、どこにいっても通用すると思い込んでいる人こそが、本当の「世間知らず」であろう。


それだけの社会的影響力を持つ上、専門知識そのものだけでなく、その専門知識が社会の中でどういう位置付けにあるのかを理解することが求められてしかるべきだろう。そのためには、自らの専門の枠組みを超えた視野の広さと教養の深さを備えることが必要となるが、それにもまして重要なのは、自分の知識が通用する範囲の限界を認める謙虚さではないだろうか。


実験データから理論を構築していく考え方を帰納主義という。帰納主義は、間が滑らかに補間されるはずだという法則の連続性の仮定があってはじめて、導かれた法則の予測力を正当化できることになる。


ある現象を論じるとき、関係のありそうな要素群だけを抜き出してきて、その要素群が固定されれば、「同一条件である」と判定する。そして、個々の要素の影響を切り出して分析し、その足し合わせとして組み合わされた条件下での現象を予測する。これが科学の方法というわけである。よって、何が関係ありそうな要素で、何が切り捨ててよい要素であるかを嗅ぎ分ける能力を持つことが、科学者としてよい仕事をするために必要になる。これは、論理ではなく、直感の部分である。優秀な科学者に必要なものとして、論理的展開力を真っ先にイメージする人が少なくないが、直観力も研究者にとって必要不可欠な能力なのである。


科学において、実験装置が巨大化した背景には、安価な装置では新規性のある研究効果を得るチャンスがほとんどなくなっていることがある。科学の初期の成功により、科学者の数は急速に増加し、誰でもできるような実験はほぼやり尽くされてしまった。しかし、大掛かりな装置を作れば、今まで誰もしたことがないような実験ができるので、新発見をするチャンスも増えるわけである。


社会科学の場合、社会を構成するのは人間であるため、発信した予測が社会の構成員である人間の行動に影響を与えてしまう。これは、自然科学では想定されてない問題である。
自然科学においては、基本的に予測する主体と予測される客体が干渉しないことを前提としている。


注意喚起と学術的予測を混同させることは、学問に混乱を生じさせるだけでなく、リスクを煽り立てる悪徳商法などの社会的問題も生じさせることになる。残念ながら、これに加担している学者は少なくない。


学問の予測の社会的影響力を悪用し、社会の利益に反し、個人の利益にのみ資する偽予測を意図的に発信するという行為を多くの学者が行っているとしたら、もはや学問に社会的存在を認めることはできない。


しかしながら、ポストモダン思想は、実はもともとは共産主義の原点であるマルクス主義思想については批判的な立場であるはずだった。先ほど述べたとおり、ポストモダンは普遍性を追求する考え方に反対する。マルクス主義は、共産主義の到来を歴史の必然とし、それを普遍的な原理に据えるわけであるから、これはポストモダン思想とは相いれない。


であるから、物質主義、大量生産消費型の資本主義社会を批判するのであれば、自分の在り方を自由に欲求できるとした実存主義も当然批判の対象になっていはずである。しかし、実際はそうはならず、批判の矛先は科学技術や近代合理主義のみに向けられることになる。


われわれは、すべてを疑って生きることはできない。懐疑主義を実践的なものにするには、何を信じて、何を疑うかについての指針が必要なのである。
では、ポストモダニスト、あるいは価値相対論者は、何を疑い、何は疑わないのか。結論からいうと、自分に都合の悪いことは疑い、都合のいいことは信じるという思考パターンに陥っているケースが多いのである。


以上のフェミニストの言動からすれば、彼らは自らの都合のいいように、構築主義と本質主義を使い分けていると言わざるをえない。つまり、構築主義が詭弁の道具に成り下がっているのである。


しかし、マスコミ自身はマスコミ対策をする必要がない。そのため、マスコミは最もCSRが欠落する業種となっているのである。


昔から、自説の正当化のために弱者を持ち出すという論法はしばしば使われてきた。右で述べた、マスコミによる消費税反対はまさにその典型例である。弱者自身は苦境に置かれているので、その味方をしてくれる人には飛びついてしまうことが多い。それを悪用するエリートは今までも数多くいた。


フェミニストも、ほとんどは学歴エリートたちである。しかし、彼らは人間を男女の二つのカテゴリーに分け、女性全体を弱者と見立てる。男性集団の中にある多様性、あるいは女性集団の中にある多様性には一切触れさせない。その上で、弱者集団である女性への援助を名目に、女性集団の中の強者であるエリート女性のみに手厚い政策的援助が行くように誘導するのである。


その一方で、2002年、母子家庭への児童扶養手当が減額されることが決まった。この政策も男女共同参画と無関係ではない。男女共同参画社会において、男女の職業生活と家庭生活の両立を支援するという目標がある。母子家庭に対しては金銭的支援ではなく就労支援を重視するという考えから、児童扶養手当が減額されたのである。
この二つを並べてみると、今の政策のおかしさがよくわかるだろう。ふつう、福祉とは弱者の援助を目的とするはずである。ところが、男女共同参画では強者の女性を援助して弱者の女性への福祉は切りすてているのである。
真面目に福祉を考えるなら、母子家庭に経済的自立を促す前に、まず余裕あるエリート女性たちが自立すべきだろう。働いていれば自立だと思い込んでいるのかもしれないが、保育所の経費を国に負担してもらっていては、自立していることにならない。自立が大事というのであれば、保育に要する費用も全額自分で負担するのが筋である。


本来の福祉の考え方からすれば、負担能力のある家庭には応分を負担してもらって構わないはずである。実際、この時代、夫婦ともにフルタイムで働けるということは、一般的には経済的強者である。フェミニストは、よく税金を払わない専業主婦を税金泥棒呼ばわりするが、経済的強者がこれだけの公的支援を受けることも税金泥棒ではないだろうか。


実際、合計収入が同じ共働き世帯と片働き世帯を比較した場合、現行制度では夫婦の合計年収が600万円を超えるような世帯では、共働き世帯のほうが負担は軽くなるのである。実は、現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、所得の割に税負担が少なく、保育サービスなどの必要な社会保障も安く提供される、夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯なのである(石川・掛谷『「専業主婦優遇」批判報道の検証』メディア情報検証学術研究会2005講演論文集)。


ところが、「男女共同参画」推進グループは、「男は仕事、女は家庭」という生き方が自由意志のもとに選択されることにも反対してる。価値観を押し付けられる弱者の顔をしながら、一方で他人に価値観の押し付けを行ってるのである。


現在、社会格差の拡大が問題となっているが、それに付随して、自らの属する階層以外の人と接する機会が少なくなりつつある。つまり、自らの階層の利益拡大イコール社会全体の利益拡大と錯覚してしまいやすい社会構造が生まれている。そのため、悪意はないのに、結果として自らの属する階層のみを利する利己的な主張を、社会正義であると本気で信じているケースもまま見受けられる。


いくら外国人や女性を入れても、彼らがみんな学歴の高いエリーロであったとき、多様な人間から構成される集団といえるだろうか。私の経験では、外国人であっても女性であっても、恵まれた境遇で同じような高等教育を受けた人の間の差異は、同じ日本人であっても境遇や教育の異なる人の間の差異よりは少ないように思われる。


私自身も、ここで批判対象としている学歴エリートの一人であるが、個人的には、いい大学・大学院で学ぶことには、それに付随する責任があると思っていた。試験で人を振り落とす以上、自分が合格することで、他の人がそこで学ぶチャンスを奪ったのでえある。であるから、その分、きっちり勉強し、その成果を社会に還元する債務を負ったとも考えられる。残念ながら、そういう発想を持つ学歴エリートは非常に少なく、むしろ入試にパスすることで特権を得たのだと考えるエリートが多いのが実情である。


一般に、産業界の学歴エリートたちは、学者や官僚とは違い、世の中の実情をよく見ている人たちであると好意的に語られることが多い。しかし、実際には彼らの利己性も凄まじい。
彼らは、しばしば、自分のビジネスに有利な政策なら、社会的副作用が強いものも平気で支持する。


たしかに、中国ビジネスで儲けている企業にとっては、日本政府が中国の言いなりになってくれたほうが商売をし安だろう。しかし、一部の企業の商売上の都合で、政治的に副作用が強いことが押し通されるとすれば、中国ビジネスと関係のない人たちにとっては迷惑な話である。


右の例は、企業の経営者が、第三者的立場を装いながら、会社の利益のために影響力を発揮したケースである。実は、それ以外に、マスコミの場合と同様、会社ではなく個人の利益のために、企業のトップがその社会的影響力を行使しているケースがある。その最たる例が、2001年12月の商法改正で行われた株主代表訴訟における取締役の責任軽減化である。具体的には、今まで無限責任であった取締役の賠償責任を、定款または株主総会の決議により、代表取締役は報酬の6年分、社内取締役は4年分、社外取締役は2年分まで軽減できることになった。これは、経済界のトップたちの働きかけで行われたものだが、まさに自らの責任を軽くする行為である。この時、彼らの用いた論理は「こんなに責任が重いと、優秀な人は誰もトップになりたがらない」というものであった。しかし、重い責任をきっちり背負える人こそが、本当に優秀な経営者なのではないだろうか。


仕事の難しさを測るのに、その仕事をこなせる人の希少さを基準とすることは、危うさを含んでいる。なぜなら、その希少さが、仕事の技術的な難しさからではなく、その仕事を行う資格を持っているか否かに依存する場合があるからである。医師も弁護士も、資格を取るのは看護師、介護福祉士、保育士よりも難しい。しかし、資格を取ることの難しさイコール仕事そのものの難しさではない。


社会的意思決定における学歴エリートの影響力は非常に大きい。その影響力を行使することで、学歴エリートに都合のいい社会的ルールが固定化していくのである。



実は、一連の規制緩和自体、学歴エリートにとって不都合な規制だけを取り除いた動きとみることもできる。


実際、規制が少なくなればなるほど、合法的に他人をだます手段が増えることになる。


つまり、極端な至上主義は、腕っぷしでは負けるが、詐術には長けた人たちが一番得をするルールということになる。


社会全体の利益を考えたときに望まれるのは、社会的満足を与えることでしか利益を上げられないような社会にするための規制である。ここでいう社会的満足とは、その行為によって他人に与える満足(利益)の総和から他人に与える不満足(コスト・副作用)の総和を引いたものである。


現代社会においては、どこを見ても社会的全体をよくしていこうといった意識を持つ学歴エリートは見当たらない。もちろん、お題目としてそれを掲げる人たちはいる。しかし、それは常に、個人的利益を拡大する手段を認めさせるためにすげ替えられた看板でしかないのである。彼らは、社会貢献に必要な技術の学習よりも、利己的な行動をカモフラージュするためのコミュニケーション能力の習得を優先してきた。


実力主義というときの「実力」」は、個人の実力を指して使われることが多い。実力のある人間を組織のトップに据えるというのは、まさにその考えに基づくものである。しかし、その人事方針には重大な欠点がある。実力主義でトップになった人間にとって、自らの利益と合致する組織の利益は、自分がトップの間における組織の利益のみである。自分が辞めた後、その組織がどうなろうがあれには関係ない。となると、例えば会社のサラリーマン社長は、長期的に見ると会社を傾かせる危険があっても、自分の在任中は会社に大きな利益がもたらされる選択肢を好んでとるようになる。


実力主義の問題は、会社組織だけでなく、官僚組織や大学でも顕著に現れる。官僚は2~3年で部署を移動するので、その間の体面を繕えればよいとの発想で仕事をすることの問題は、今までも再三指摘されてきた。最近では、大学の近視眼的発想も顕著である。特に理系を中心に、大学院重点化という名の下、ほとんどの有名大学は、大学院の定員を大幅に引き上げている。・・・それでも、そうしたポリシーがとられるのは、自分の定年までブランド力が保てればそれでいいと考える大学教員が多いからといわざるをえない。このように、実力主義には、偏狭な利益が最大化され、組織全体あるいは社会全体には大きな不利益がもたらされる危険性が常に潜んでいるのである。


戦後民主主義教育が倫理崩壊の原因なら、問題は学歴エリートだけに留まらないとの指摘はあろう。しかし、庶民は自分の暮らしを守るのに精一杯で、公共の利益を考える余裕がなかなかないのは、いつの時代にも共通したことである。その一方、エリートは公共性を考える余裕がある人たちである。公共の利益を優先しても、生計を立てることができるのである。ところが、公共心という価値が喪失した結果、公共の利益のために仕事をして普通に暮らしをするより、公共の利益に反する仕事で贅沢な暮らしを実現する生き方を選択する学歴エリートが増殖してしまったのではないだろうか。実際、本章で紹介した数々のエリートの行動は、それを如実に表している。


利己主義が実質的に社会の標準的な規範となってしまっている以上、個々人にその規範を超える行動を要求するのは酷である。もし、ノブリス・オブリージュや武士道の精神をエリートに期待するのであれば、個人にそれを要求する前に、そういう規範が広く受け入れられる仕掛けを社会に組み込む必要がある。


彼らの論法には、一つの共通点がある。それは目的に関する議論と手段に関する議論を意図的に混同させる戦略をとることである。彼らには、公にすると批判を受けるであろう利己的な「隠れ目的」を内部に秘めている。その隠れ目的を達成するために、有効な手段Aを通すことを意図する。その手段を社会的に認めさせるために、誰もが納得するであろう「理念」を立てる。そして、その理念を達成するためには手段A以外の手立てはないことを議論の前提とし、手段Aに反対する人間には理念を共有しない「悪人」のレッテルを張ることで、強引に持論を認めさせるのである。


女性専用車両推進の隠れ目的は、女権拡大イデオロギーあるいは政治家による女性票の取り込みといったところにあると考えられる。そのため、年齢制限といった議論はご法度になるのだろう。年齢制限という発想自体、人権侵害だという批判も聞こえてきそうだが、男性であるというだけで潜在的置換加害者とみなす人に、そのような批判をする資格があるとも思われない。女性専用車両の発想には、その種の危うさが根底に含まれているのである。にもかかわらず、痴漢対策という「理念」を前面に押し出し、これに反対するものは痴漢容認派とレッテリングをすることによって、その危うさを見事に覆い隠している。


実際、左派の源流である共産主義は、労働者階級の味方として登場したが、結果的には独裁体制を築き上げて労働者階級を苦しめた。日本の左派言論人も、世論が自分の味方についているときは「大衆の判断は常に正しい」として民主主義を礼賛していたが、世論が離れていくと、ポピュリズム批判や大衆批判にいとも簡単に転じた。つまり、左派とは、政治的野心を持つ勃興勢力で、手段と目的の混同を戦略的に使うことを武器にのし上がろうとする人々と定義づけるのが妥当だろう。

学歴エリートの用いる戦法の肝は、自らに都合のいい手段をだれも反対できない理念(目的)とセットにすることであるから、それを分断することに成功すれば、学歴エリートの詭弁はおのずと浮き彫りになる。


実は、彼らは反米イデオロギーや反日イデオロギーのために、「反戦」という看板を利用しているだけなのではないだろうか。その証拠に、米国や日本以外の国の戦争行為や暴力行為に対して、彼らが反対の声を上げることはあまりない。彼らが、反米や反日のために「反戦」を利用しているのだとすれば、それこそ反戦を冒涜する行為だろう。


可逆性テストとは、自分が行為主から行為対象へ、あるいは行為対象から行為主へ変わってもその行為の正当性を維持し続けられるかどうかを問うものである。


では、手段の有効性はどのように評価すればよいだろうか。実は、これこそが学問の営みである。予測力を持つ知識体系は、手段の有効性を評価するのに最も適した道具である。


さらに深刻なことに、間違った報道には、多数の人に少しずつ被害をもたらすような場合も数多くある。この場合、被害総額は膨大でも、個々人の損害は少額のため、原告団の形成が極めて難しく、裁判に持ち込まれる心配がないという構造的問題が存在する。


以上
またね***


2018年1月7日日曜日

いたこニーチェ(食べる読書136)



ニーチェの考えをわかりやすく、小説という形で説明している。


やっぱりニーチェの考えに触れると勇気がもらえる。


弱気になっている自分に違う次元で勇気を与えてくれる。
物事の見方の次元を上げてくれる。

ありがとうございます。


以下抜粋

現実は小説より奇なり。
まあ、当たり前なんだけどね。混沌とした現実から、一定のルールで物語を切り取ったのが小説なんだから。


「しかし、同一でないものを同一とみなすことにより、概念は成立するんだ」
「それは抽象的な≪葉≫という概念が生まれるということですか?」
「うむ。≪葉≫という概念は、個別の差を捨てたり、忘れたりすることで形成される」


「男と女は相手について思い違いをしておる。結局、お互いに自分の理想を愛しているだけなんだ。男は女が柔和であることを望んでいるけど、女は猫に似て本質的には柔和ではない」
「今ほど女が尊敬されている時代はなかろう。これは、民主主義的な傾向だ」
「男女平等の世の中ですからね」
「それをいいことに、女性に対する尊敬が悪用された。結果、女は恥知らずになった。要求が底知らずになり、男を恐れなくなった。女は本能を捨ててしまった。女は堕落してしまったんだ」


「ここで重要なのは、女が男のレベルまで堕落したということだよ」


「近代的理念によって女が女を破壊したのだ。問題は、それを助長する男がいること。連中はうまいこと女を説得して、女性らしさを喪失させ、男の愚行のすべてを真似させようとしておる」


「同じように≪普遍的真理≫は存在しない。要するに、誰にとっても真理になるようなものはありえないんだ。現実には≪個別の真理≫が存在するだけだ」
「≪普遍的真理≫も≪葉≫という概念も、人間の頭の中にしか存在しないと・・・」
「そういうことだ。解釈の数だけ真理は存在する」


「こうした学問でさえ、一種の世界解釈にすぎないんだ。現実世界に実在しない数字や記号を使って世界を描写しているだけ。その背後には生理的な欲望がある。先生はこれを≪権力への意志≫と呼ぶんだけどな」



「不健康な真理だって?」
「そうだ。不健康な人間が生み出した真理だ。かつて、人間の価値をおとしめることにより権力を握った連中がいる。人間を病気にさせることが、彼らの生存にとって有利になったわけだ。かれらは≪真の世界≫という概念によって≪現実世界≫をおとしめた」



「それをユダヤーキリスト教的価値転倒といってもいい。人生をよりよく生きること、優秀であること、権力、美、自分を信じることを徹底的に否定するために、かつて価値の転倒が行われたんだ」


「奴隷は自分が苦しんでいる現実を認めたくない。だから≪あの世≫に希望を託した。いつかメ救世主がやってくると信じこんだ。それと同時に、自分を苦しめる強い敵は≪道徳的に悪い≫、反対に弱い自分たちは≪道徳的に良い≫と決めつけた。こうした価値転倒によって、自分たちを優位に立たせたわけだ」


「この奴隷一揆の構造を利用して権力を握ったのがキリスト教なんだ。キリスト教はすべての弱いもの、ロクでもないものを味方につけた。弱者の呪いを集約して、高貴なもの、優れたもの、現実的なものに決戦を挑んだんだ。お前の先祖のパウロが言ってるよ。≪神は世の中の弱いものを、軽く見られているものを、お選びになる≫ってね!」


「現在権力を握っているのは奴隷の神を利用した奴隷たちなんだよ。今の格差社会では奴隷が最上層部に君臨している。だから、正しい格差社会をつくらなければならないんだ」
「正しい格差社会だって?」
「そうだ。健全な社会では、高貴な人間がピラミッドの最上層部に座り、思いやりを持って大衆を支配するんだ」
「高貴な人間ってたとえば誰?」
「ボク」
「えーっ!それじゃあ単なる自己中じゃん」
「当たり前だ。他に何を中心にするんだ?好機ということは強者の自覚と自制心を持って判断の主体を引き受けるということだ」


「当たり前だ。道徳とはワタシたちがワタシたちの人生において発見するものなんだ。カントの言う≪普遍的な道徳≫≪普遍的な義務≫≪普遍的な善≫など幻想にすぎぬ」


「こうしたばかばかしいカラクリによって、お前たちは権力を独占したのだ。プラトン、パウロ、カント、社会主義、民主主義というイデオロギー・・・」
なるほど。
真理は神のみぞ知るというわけか。
だから僧侶たちは、神の代弁人を名乗ることによって真理を独占し、強大な権力を手中にすることができたと…。


「民主主義はたんに政治制度だけの問題ではない。それは、人間そのものが落ちぶれたこと、卑小になったこと、凡庸になったこと、価値が落ちたということだ。こんな愚劣なイデオロギーが世界を支配しておる」


「人間の均等化と凡庸化だ。社会主義も民主主義も国家主義も発生源はキリスト教。そこで生み出されるのは、せいぜいが器用な労働者、口喧しい奴隷といったところだ。問題は現代人の多くが、民主主義が危険なイデオロギーであることを見抜けなくなっていることだ」


「完全に洗脳されているな。僕らにとって大切なのは、人間の歴史と文化を慎重に扱うことなんだ。それ以外にはない」
「民主主義は少数者、偉大な人間、特異な人間を排除するシステムに過ぎないんだ」
「でも、多数意見を採用する代わりに、少数者の権利をきちんと守るのが民主主義でもあるわけだろ」
「権利は他人に守られるものでもなければ、与えられるものでもない。強者は弱者からの同情など受けない」


「≪神による選択≫だよ。多数意見が少数意見より優れているという根拠はどこにもない。それを保証しているのはキリスト教の神なんだ。かつて神が座っていた場所に、いまは民主主義が奉られている。人間は神の下に平等であるというイデオロギーにより、ヤツラはすべての偉大なものに決戦を仕掛けたんだ」


「イエスは自由な精神を持った男だった。すべての決まりごとを一切認めず、≪生命≫≪真理≫≪光≫といった精神的なものを、自分の言葉で語っただけだ。このイエスの人物像をどんどん歪めていったのが初代キリスト教団だ」
「イエスの弟子なのに、どうしてそんな裏切り行為を?」
「無論、権力を握るためだ」
「うーん」
「それで教団の宣伝に都合のいい≪キリスト像≫が捏造された。宗教にはまる人間は、信仰する神を理由に自分の弁解をするものだからな」


「生む。本題はここからだ。キリスト教道徳は≪高貴な道徳≫を否定するために発生した。人生をよりよく生きること、優秀であること、権力、美、自分を信じること。こうした大切なものを徹底的に否定するために、ヤツラはまったく別の世界をでっちあげたのだ」
「別の世界?」
「そうだ。≪あの世=真の世界=神の国≫によって、現世をおとしめた」
「結局、イエスは利用されただけだったのか…」
「うむ」
「イエスの弟子たちは、あの世に希望を託すことにより、現世であきらめることを教えたと」
「少しは理解してきたかね?」
「はい。なんとなく」
「ヤツラは高貴な人間、強い人間を≪悪人≫と決めつけた。そして常に、心の弱い人間、お下劣な人間、できそこないの味方になってきた。こうして弱者の恨みや呪いを集約し、強大な権力を手に入れたのだ」


「自分たちの薄汚い呪いを≪普遍的真理≫に結びつける。神を歪めて≪善≫を独占する。価値観を共有できないものを≪悪≫と決めつけ断罪する。こうしたキリスト教の独善性は、近代イデオロギーにそのまま引き継がれてるんだ」
「ニーチェが≪民主主義はキリスト教の継承≫って言ったのはそういう意味?」
「そういう意味。ついでに『アメリカ独立宣言』から引用しておこう」
≪我々は以下の諸事実を自明なものとみなす。すべての人間は平等に作られており、創造主により、生存、自由、幸福の追求を含む、譲り渡すことのできない権利を与えられている≫


「つまり、法の権威を≪神≫と≪祖先≫で理由づけるのか…」
「うむ。こうして民族は無意識になる。先ほど三木君が説明してくれたようだが、≪民族の本能≫は長年の経験により、意識的なものが排除されることで生まれるのだ」


「民族は≪民族の神≫というフィクションを持つ。民族は≪民族の法典≫というフィクションを持つ。民族は≪民族の歴史≫というフィクションを持つ。これが長年にわたる経験と知恵、犠牲のうえに手に入れた≪民族の真理≫なんだ」
「民族の真理…」
「神は本来、民族において、民族の強さや民族の権力を求める感情であった」


民族の真理は、民族の美意識と自己肯定によって生まれる。
民族の真理は、民族の経験と犠牲のうえに立ち現れる。
健康な民族は健康な真理を持つ。
神は鏡のように、民族の姿を映し出す。
健康な民族は健康な髪をもつ。
神の国は、現実社会そのものである。
神は≪民族の真理≫しか映さない。


「こういう神は単純なものではない。人間にとって有益でもあり有害でもある。味方でもあり敵でもある。よいことにおいても悪いことにおいても神は必要とされる。それが本当の神の姿なんだ」
「キリスト教の神とはだいぶ違いますね」
「うむ。神は僧侶たちの都合のいい道具になってしまった。ヤツラは<すべての幸福は神のおかげだ>≪すべての不幸は神を信じないことへの罰だ≫などと言い始めた」
「なるほど」
「ヤツラのせいで、神と土地・自然・民族派結びつかなくなってしまった。つまりキリスト教とは、民族の価値、あらゆる固有の価値に対する呪いなんだ」


空想の産物でしかない≪普遍的真理≫を設定し独占すること。
≪絶対的な善≫を自称し、≪悪≫と決めつけたものを排除すること。
≪あの世≫というフィクションを利用して≪この世≫を否定すること。
キリスト教は自分たちの組織を永遠化するために、不幸そのものを生み出してきた。
つまり、不健康な真理。


「民族が徹底的にダメになっていくとき、すっかりあきらめてしまったとき、敵に屈服することが一番良い選択だと考えるようになった時、民族の神は変質してしまう。今の日本のようにな…」


真の世界は存在しない!
ただ個別の世界が存在するだけだ。生物は自らの生存に都合がいいように、生々流転しているカオスの中から<世界>を切り取っている。つまり、世界とは≪権力への意志≫による解釈にすぎない。世界は人間にとって必要不可欠な虚構である。


対立と犠牲を恐れるな!
高いところから見下した、抽象的で一般的な≪真理≫≪道徳≫など、どこにも存在しない。高貴な人間は、他人の価値基準に従うのではなく、≪自分の真理≫≪自分の道徳≫を、勝ち取っていくものなのだ。そこでは、世間との対立と犠牲を恐れずに、自分の判断に良心を持つことが必要とされる。


「つまり我々は世間と大きく距離をとっているわけだ。そして強者の自覚を持っている。他人が≪もうダメだ≫と言いだすところに、迷路の中に、厳しい人間関係の中に、そしてものごとを試すことの中に、自分の幸福を見つけるんだ」


≪精神的な人間は重い課題を特権とみなす。そして、弱い人間だったら押しつぶされてしまうと感じるような重荷を、もてあそぶのだ>


以上
またね***

アベノミクスを超えて(食べる読書135)



2012年12月に発足した安倍政権の経済政策、通称アベノミクス、から5年が過ぎた。
その結果の判定云々を言うより、どうしてそのような政策が最適だと判断したのかを、当時は全く分からなかった。単に、疑問点ばかりあったが、自ら調べようともしていなかった。そして現在もその傾向はある。

政策は手段にすぎない。手段の妥当性に関して発言権を国民は持っているとは思えない。さらに、何のための政策なのか、という目的の妥当性についても同様に国民は蚊帳の外である。
そもそもどうなりたいのか、というビジョンをだれか発信し続けているのだろうか。おそらく、選挙期間中の候補者しか声高に発言はしていないように思える。


資本主義社会において、発言力が強いのは資本の多いほうである。それは、マスメディアと政治家(ロビー活動など)への影響力も資本力と比例することがアベノミクスで確認できる。


どこまで見ず知らずの人間のことまで考えて行動できるのか。
自分だけか、家族のことだけか、所属している組織か、住んでいる地域か、国籍か、地球か、将来1000年後に対してもか。
どこの範囲まで自分の行動の影響を考慮して動いているのか。その目的と影響を及ぼす範囲は一致しているのか。
自分の利益のためにほかの人が害をこうむっても良しとする根拠は何か。


自分の利得というものは絶対的なものではない。相対的なものである。他者がいないと有利も得もない。


一つのルールそれ自体は、一つの価値であり、多数に共有されていることから必然的に偏りを生み出す。つまり、全員が平等であるルールなど存在しないのだ。

では、どうすればいいのか。


課題かな。


以下抜粋

まず、TPPによって日本の産業が成長するのかという問題ですが、もしそうなら、とっくに成長しているはずでしょう。
産業の発展の部分でいうと、TPPの中でも関税の撤廃に関するところの話になりますが、日本の関税というのは米などごく一部を除いて、非常に高いレベルをすでに達成できています。


TPPによって関税が撤廃されると、そこは完全なる弱肉強食の世界になります。「みんな同じ条件ではないか」と思われるかもしれませんが、強いもの=巨大な資本を持つものが圧倒的に有利になります。


米韓FTAとは、アメリカと韓国が結んだ自由貿易協定ですが、これを結んだ結果、韓国企業の株は次々と外資に買われ、銀行まで外資に支配されることになりました。
会社自体は韓国にあって、韓国人たちが働いているので、韓国の企業のように見えても、実は株主に完全に外資で、企業の利益の多くが株主である外資に流れていくという構造になってしまいました。
韓国人労働者たちは、外資にお金を渡すために、日々、せっせと働いているという状態になってしまったのです。


日銀の当座預金のお金が増えると、銀行はその金額に一定額をかけた金額を貸し出すことができるようになります。これが「準備預金制度」というものです。
銀行は、日銀の当座預金の金額に応じて、貸し出せる額が決まるというわけです。
ですから、理論的には日銀の当座預金の金額が増えれば、銀行が貸し出せる金額も増えるので、世の中に流通するお金も増えるということになります。
このように、市中銀行が企業や個人にお金を貸し出すことによって、世の中のお金の量(マネーストック)が増えることになります。
景気を良くするためには、ただマネタリーベースが増えただけではだめで、マネーストックが増え、なおかつそのお金の循環がよくならないといけません。


自民党の国会議員の票は、議員の選挙区の市会議員、県会議員が票を取りまとめえたものが基盤となっています。
その証拠に、2013年末、自民党の森屋宏参議院議員が、地元の県会議員21人に「お歳暮」として贈答用の牛肉を送り、問題になりました。
公職選挙法では、政治家が選挙区内の有権者に金品を寄付することは禁じられていますから、完全に違法です。
でも、やってしまったのは、「あなた方のおかげで当選できました。ありがとう」という気持ちをどうしても表したかったからでしょう。
自ら、「自分が参議院議員に当選できたのは、あなた方県会議員たちが票を取りまとめてくれたおかげです」と言っているようなものです。
さらにここで問題視したいのは、自民党の場合、こうした地方の県会議員、市会議員の多くが、実は土建屋の社長や元社長たちだということです。


マクロ経済的に考えても、1000人弱しかお金を使わない状態よりも、20万人全員がお金を使うようになるほうが、経済効果は明らかに高いはずです。
それなのに、どうして土建屋だけにお金を渡すのでしょうか。
その理由は、先ほどの「若い男(議員秘書)」が教えてくれました。
1つは土建屋から賄賂がもらえるから、もう1つは土建屋が次の選挙でも票を取りまとめてくれるからです。


土木工事よりも多くの付加価値を産むような投資先はないのかについて、議論の余地が大いにあると思うわけです。



価値(富)の量よりも通貨の量が多い状態をインフレ、価値(富)の量よりも通貨の量が少ない状態をデフレと呼ぶのです。


必要なことをやるだけなのに、それを景気対策と言ってしまうのはおかしいでしょう。
震災被害を受けた建物などを直したり、来るべき次の大災害に備えるというのは、景気がどうこうという話をは別次元の問題です。
やるべきだというニーズにこたえて、当たり前のことを当たり前にやるという話ではなく、日本という国がどういう国になるのかというビジョンを描くのが「政策」です。
そのビジョンに従って、どの分野にどのくらい、どうやって財政出動するのかを決めるのが「財政政策」でしょう。
昔の通産省は、そういう仕事をしていました。どの産業を支援し、どの産業を捨てるかという、国家のビジョンを決めていたのです。ある時期に、繊維産業を捨てて、自動車産業を選び、支援していくことに決めたようですが、それが正しいかどうかは別として、そういう風に大きなビジョンを描いて、実行するのが政策というものです。
あえて「国土強靭化」などと叫ぶというのは、私には「土建屋へのばらまき」を正当化する詭弁に聞こえてしまうのです。


「民間議員」とは、国政選挙で選ばれたのではなく、内閣府が指名した民間人が議員扱いになって、重要な国の会議(例えば、経済財政諮問会議、国家戦略特区諮問会議、産業競争力会議など)に参加し、投票権(議決権)を持つ人たちのことです。
そもそも「民間議員」などという存在は民主主義への挑戦ともいえる、とんでもない制度です。民主主義において正当に選ばれた人以外の人が政治に関わるというのはあってはならないことです。「国民主権」という政治の根本を揺るがす事態と言っていいでしょう。本来は、多くの国民が怒りの声を上げるべき問題です。


結局、「規制の緩和」とは、参入が阻まれていた、あるいは一定のところまでで制限されていた規制を取り払って、新規参入、もしくは市場拡大することによって儲けようという人たちのロビー活動なのではないでしょうか。
実際、アメリカでは、秘密保持条約であるTPPはアメリカ議員の議員ではなく、このようなロビイストたちの発案によって作られています。


こうした動きを総合的に見て考えてみますと、第三の矢の「成長戦略」とは、TPP締結後に外国人を受け入れるための規制緩和と、人材派遣会社が儲かるための雇用の流動化と、ごく一部の企業が儲かるためのカジノ構想であるといわれても仕方がないのではないでしょうか。


「景気がいい」というのは、世の中の「お金の回転速度が速い」ことを意味します。


ここでわかるのは、「お金を増やしただけでは景気は良くならない。消費者がその増えて青金を十分に消費に使わないといけない」ということです。
景気対策の根本は「たくさんの一般消費者にどれだけ安心してお金を使ってもらえるようにするか」なのです。


結局、トヨタの過去最高益更新の理由は「アベノミクスによって自動車の販売台数が伸びたから」などではなく、「円安になったから」と「アベノミクスの効果が及ばない海外での自動車の販売台数が伸びたから(しかも、輸出ではなく、現地生産)」なのです。


信用保証で大儲けし株主配当をもらい、建設会社の資金繰りが悪化すれば融資をし、下請け業者からは手形割引で儲ける。
銀行は、いまの建設業界の支払いシステムを絶対に変えたくないはずです。おいしい天下り先を絶対に手放したくない国土交通省と利害が一致します。
そして、さらにその裏には自民党の建設族の族議員たちがいて、それを見て見ぬふり(あるいは、積極的に支援)することで、その利権のおこぼれをもらっているという図式が見えてきます。
「アベノミクス」の第二の矢「財政出動」の裏側には、国民のほとんどが知らない自民党の公共工事の闇が潜んでいたのです。


実は、この東日本建設業保証株式会社と西日本建設業保証株式会社は、決して最近できた会社ではありません。両社とも、昭和27年に設立され、建設省時代から官僚たちが、裏金を作るための天下り先として代々育ててきたものなのです。
日本には、この会社のように、官僚が裏金を作ったり、天下って私腹を肥やすための組織があふれています。もちろん、先に書いたように5月成立予定のカジノ法は、同様な利権をけた違いの規模で生み出します。
工事の支払いの方法を国際標準に変えるだけで、税金の無駄使いも減り、多くの建設会社の資金振りがよくなり、さらに多くの中小下請け企業の資金繰りもよくなるのは明らかなのにもかかわらず、この2社のように、絶対に変えようとはしない利権が山のようにあるわけです。


内閣人事局の創設とは、すなわち「国会で過半数を取れなくても、比較第一党であれば、十分に大きな権力を行使できるようにするための、官僚コントロール機関の創設」なのです。


そもそも18歳に引き下げた理由は、若年層のほうが右傾化しやすく、また経験が浅い分、プロパガンダに乗せやすいということがあると思います。
超高齢社会の日本の高齢者層には戦中戦後の苦労を知っている人が多く、また戦後の平和憲法は絶対的に素晴らしいと教育されてきた世代なので、憲法改正には否定的な人が多いと読んだのだと思います。
その分は、戦争を知らない若年層の票でカバーしようという意図なのでしょう。いずれにしても、その先にある「本当にやりたい」憲法改正への布石であることは間違いありません。
そして、先ほども見たように、自民党の憲法改正案というのは「憲法9条の改正に見せかけた内閣への権力集中(=国民主権の破壊)」であることを見抜いておく必要があるのです。


つまり、技術の共有化を含め、原子力分野ではアメリカと日本はもう切っても切れない関係になってしまっているわけです。
バイデン副大統領は、このことをきちんと理解して原子力政策を講じるように、安倍首相にプレッシャーをかけました。もちろん、アメリカにとってビジネスとしてうま味が大きいからです。
安倍首相が、原発の売り込みのために海外に出かけて行っていますが、あれはアメリカに言われてやらざるを得ないからです。


日本人の多くが誤解していますが、日米安全保障条約というのは、「日本が戦争に巻き込まれたり、巻き込まれそうになった時、アメリカ軍が日本を守ってくれる条約」ではありません。
日米安全保障条約とは、有事の際は日本の自衛隊がアメリカ軍のコマンドコントロール下に入って、アメリカの言うとおりに動くようにするための条約なのです。


これまでのようにアメリカ政府を動かす軍需産業や国際金融資本の言いなりになって、彼らの軍門に下るのか。あるいは別の集団を構築し、日本独自の「経済平和路線」へと突き進むのか。
それを決めるのは、アメリカではなく、われわれ日本人であるはずです。


これまで見てきてわかるのは、アベノミクスというのは「円安によって演出された好景気」を隠れ蓑にして、アメリカの一部の支配者の要求を飲んで、彼らが扱いやすい日本を作り上げることだということです。
これは、「好景気で支持を得ておいて、その隙に日本の民主主義を破壊し、主権者である日本国民の権利を奪うこと」を意味します。


振込手数料というのは詐欺のようなものです。


また、銀行のATMで引き出せる限度額は、金融庁からの通達によって、通常のキャッシュカードではほとんどの銀行で50万円までとなっていますし、現金での振り込み限度額に至っては10万円までとなっています。
オレオレ詐欺対策とか、マネーロンダリング防止とか、北朝鮮の偽札対策とか、いろいろなことが言われていますが、本当の理由はそんなところにはありません。
オレオレ詐欺対策なら、金融庁ではなく警察が指示を出すはずですし、マネーロンダリングにしても、金融庁から国家公安委員会へ管轄が移管されていますから、金融庁から通達が出るといいうのはおかしな話です。北朝鮮の偽札なら、おそらくATMが見破って、はじいてくれることでしょう。
どう考えても、「キャッシュで取引を減らしたい」と考える勢力による圧力なわけです。だから、警察や国家公安委員会のような組織ではなく、金融庁から通達が来るのです。
私は「カードや電子マネーでは、消費マインドは高まらない」と思っています。


金融機関を儲けさせるだけの「非現金主義」はやめて、現金取引をもっと活発化させることが、景気回復の近道になるはずです。
そもそも、クレジットカード会社や銀行などの金融機関を儲けさせるシステムは、多くの一般消費者から少しずつお金を集めて、巨大企業に利益を集中させる仕組みです。



アベノミクスでやるべきことは「雇用の流動性」ではなく、逆の「雇用の安定」による消費性向の増大だと思うのですが、どうもそうした動きは見られません。
ただし、「宵越しの金を持たない」ようにする(=消費を拡大して景気を良くする)ためには、「雇用の安定」だけでは足りません。
老後の心配もないようにしなければ無理です。
いま、貯蓄をしている人の多くは、その理由を「老後が心配だから」と答えています。
つまり、「老後も安心して消費できる社会」を実現する必要があるのです。


規制は産業の成長とは基本的に関係ありません。悪い部分があるとすれば、その規制を監督する官庁の役人の天下りを許してしまうという点でしょう。
規制というのは法律ではないので、監督官庁の担当者のさじ加減1つでどうにでもなってしまいます。業界として、その監督官庁の言うことを聞かざるを得なくなるシステムなのです。


もともと、規制とは法律で決められたものではなく、監督官庁が自分たちの都合のいいルールで許認可をあたえるという、非常にあいまいかつ超法規的なものです。そのため、許認可権を持っている官庁がその業界に天下りするという悪弊がまかり通ってしまうのです。


国が株を保有している会社は「民営化した」とは言えません。国が株を持っているのであれば、それは「民営化」ではなく、単なる「株式会社化」にすぎません。
実は、官庁にとって、この株式会社化には非常に大きなメリットがあります。最も大きなものは、会計検査院の目がかわせるということです。
会計検査院の目がかわせると、裏金が簡単に作れるようになります。
官僚の人たちの中には、そうした裏金作りに長けた人もいて、官僚をしている間に見事なまでに裏金をプールしていきます。


民営化された元道路公団には子会社、孫会社がたくさんあります。元道路公団の会社本体ぐらいまでは、ある程度、会計検査院もチェックできるかもしれませんが、孫会社、例えば首都高速道路株式会社の子会社・首都高トールサービス株式会社あたりになってしまうと、もうお手上げです。もちろん、これらの会社には天下りがたくさんいます。
どこでどうなっているか、外部の人間にはまったくわかりません。
民営化というのは、要するに株式会社化することで、会計検査院の目を逃れ、裏金を「正当な労働への報酬」へとロンダリングするための手法なのです。


規制は天下りの温床になりますし、適度な競争は消費者にとっては価格の適正化やサービスの向上が期待できるので、必要なものは法制化して、あいまいは規制は撤廃するのが望ましいのです。
ですが、規制を取り払ったからといって産業が成長するわけではない、つまり規制緩和は経済政策でも何でもないということです。
経済政策でも何でもないものを「~ミクス」と呼ぶのはおかしな話ですし、現実問題として、規制緩和をすれば産業が成長するなどということはなく、単なる天下り先の確保と、政治家へのロビー活動に力を入れている企業が利益を奪い取るための政策にすぎません。


とにかく、国民一人一人が「消費をしよう」と思うようになることをやってください。
「国債は国の借金」だなどと、ウソを広めるのはやめてください。日本の国債は日本人が円で買っているのですから、借金などではなく「国民が国に貸している貸付金であり、貯金と同じ」なはずです。
「国民一人当たり900万円の借金」なんて言うウソもやめて下さい。国民は国にお金を貸している側であって、返す側ではありません。


以上
またね***

2017年11月16日木曜日

フェイクニュースの見分け方(食べる読書134)



以前、日経新聞を取っていたことがある。2年ほどとって読んでいたが、何の役にも立たないと感じてやめた。

理由は、記事の内容だけでなく、その記事が掲載される理由や背景までは載っていないからである。単なるデータとしての情報しか載っていないと感じたからである。

日経新聞だからだろうが、リアリティを感じなかった。地方紙なら少しはリアリティを感じたかもしれない。

何が言いたいかというと、なぜ人は情報を得るのかということだ。情報を得る”目的”は何か。

情報は、目的達成のための判断材料として活用するもののはずだ。

情報を得ること自体が目的ではないはずだ、と私は信じているしそういう人生にしたいと考えている。

情報に対して主体的でいたいのだ。

今はもうそういうことはないだろうが、日経新聞を読んでいるだけで周囲から(上司などから)評価されたりするのは、情報収集自体が目的化している事例だろう。情報収集自体が権威化していて、情報自体の真偽などは問われていなかった。

情報源が限られると、その情報源自体が権威を持つ。

そういう構造を把握したうえで、その情報発信側に回るなら、「社会における情報発信の実態」という情報を判断材料にしたのだろう。

だが、これでも不十分だ。「何のために」という目的が不明確だからである。単に甘い汁を吸えそうだからという目的なのか、真実を社会に伝えるという目的なのか、行動だけからはわからないのだ。

社会がどのように成り立っているのか、誰もわからないだろう。しかし、少なくとも多くの人が様々な目的の基に日々動いているのだけは確かだろう。それは複雑でとらえることはできない。
だからこそ、情報が生まれる。既知のものであったり常識はニュース(情報)にはならないだろう。様々な思惑が交錯するからこそ、相対的な得や損が生まれる。
それをとらえるための”情報”なのだ。

その「人から生まれる情報の背景やその人の思惑、葛藤」も込みの情報が必要なのだ。

人と人が交わり交流することで社会は動く。この基本を満たすには、情報の基となる「情」も伝わらないといけない。どうしてこの情報からその判断をしたのか、その決断の意図はなにか、などなど。

情報の連鎖が、交流であり社会の営みであり進展の元である。

得た情報をもとに決断を下し、その下した決断がほかの人にとっての判断材料としての情報となる。この連鎖である。

逆に言うと、その情報から発信者がどんな人物かがわかるのが情報である。すると、その情報から物事が広がっていくのではないか。様々な思惑を胸に様々な人が彼にアプローチするだろうからだ。

と、考えると、マスメディアのありかた云々ではなく、社会のダイナミズムを見ることで情報の質がわかるのではないか。

だが、この考えも雑すぎる。情報とは何か、が明確でない。入力、加工、出力のどこをどう変えればどう変わるのかもわかっていない。

情報と単語1つで語ることはできない。ここから出発しないといけないのかもしれない。

しかしながら、少なくとも、自分が影響力を及ぼせない範囲の情報は単なる権威化もしくはエンターテイメント化しやすいと考える。マスメディアはそれを促進させる力があると考える。
自分事として見れるか、つまり自分の影響力の範囲を広げられるかどうか、情報を選別する目を持つには参考になる1冊だと感じた。

以下抜粋

「公開情報」を情報源にして相手を分析していく活動を「オシント=OSINT(Open Source Inteligence)」という。それに対して人間を情報源にして聞き出し、分析する活動を「ヒューミント=HUMINT(Human Source Inteligence)」という。ほかには通信の傍受や電話・メールの盗聴など「シギント=SIGINT(Signals Inteligence)」もある。


政治団体の政府・与党への影響力を報告する内容なのに「カネの流れ」「人の動き」というもっとも基本的な事実をなぜ調べないのか、私には理解できない。「新聞記事を調べる」というのは、公開情報調査の初歩の初歩だと思う。


・膨大な公開情報を蓄積し分析することがインテリジェンスの第一歩である。
・95%の公開情報を分析することで5%の独自情報が意味を持つ。
・マスメディアで流れてきた情報を疑う第一歩は、他の公開情報を調べてクロスチェックすることである。ネットはそのために有効なツールである。
・Gサーチ、アマゾン、図書館のネット検索システムは「使える」データベースである。


誰もが言論を発信し始めてみると、旧型メディアに連なっていた発言者より、はるかに優れた知識、感性、着想や思考力を持つ人材が多数いることが分かってきた。発言者がマスメディアに関係していることが、その言論の価値を保証しなくなったのである。そうした旧来型の特権発言者の名残が形式だけ残っているのが、新聞の「社説」「コラム」であるが、それらはもはや何ら社会的価値を担保しない。


政権が自分の政策に都合がいいようにマスメディアをコントロールしようとするのは、洋の東西を問わず、どこの国でも当たり前である。


要は「報道が権力を本気で監視するなら、権力はあらゆる手を使って逆襲してくる」という心構えが欠けている。報道と権力の関係はそういう「戦争状態」「緊張状態」がデフォルトだという認識が足りないのだ。
さらに、そうした苦情や批判を先読みして「権力からの苦情が来そうな報道はやめておこう」と手控えるような姿勢は「自己検閲」という報道側の病理現象である。これは権力からの圧力や介入とは関係がない。あくまでマスメディア企業側の病気である。自らの落ち度を政権のせいにしてはいけない。問題の所在が見えなくなるだけ有害だ。


「反論」「再反論」という討論を「正誤、善悪、勝負を決める」のが目的だと受け取る人が多い。これは誤解である。公に開かれた討論は本来、読者が「何が真実なのか」を考える判断材料を提供するプロセスなのである。


「マスメディアの取材がなければ起きなかった出来事」を「メディア・イベント」という。役所や関係先だけで祝賀行事があり、そこにマスコミが集まって取材する。その小さな空間での出来事が「地元の反応」というパッケージでマスメディアに載る。
記者はこうしたメディア・イベントや関係先への取材で聞いた発言内容を並べて記事を書く。しかし、現実は記者が期待するよりずっと地味で、まとまりがない。


新聞やテレビに限らず、一般に、根拠となる事実が弱いと、修飾語が過剰に強く、大げさになる傾向がある。論拠の強い事実があると、その事実を余計な形容なく描写するだけで、その主張や分析の正しさはたちどころに証明される。それがない、事実が弱いと分かっていると、人間は無意識にそれを補おうとして言葉が強くなる。だから「意気込んだ」「決意を語った」「胸を張った」的な強い修飾語が頻出している文章を見ると、私は疑うようにしている。


「ビッグ・ピクチャー」とは、ある事実Fがあった時に「空間軸」と「時間軸」を広げ、その座標軸に事実Fを置いて検証しなおしてみることだ。


ここで私が勧めたいのは、「『記者が何を書いたか』ではなく、むしろ『何を書かなかったのか』に注意を向ける習慣を身につける」ということだ。何を書かなかったのか、何が書かれていないのか、疑ってほしいのだ。


本来報道が検証すべきは「国の新しい住民避難策は被爆を防ぐのに有効なのか」だった。しかし朝日の記事はその検証を怠り、問題を発見できていない。だから、被爆を招くことが自明の避難政策の欠陥を指摘できないままに終わっている。そして枝葉末節(モニタリングポストの数)の論争をしかけている。
こうした欠陥記事が有害なのは、本当の問題点から目がそれてしまうことだ。「避難策は基本的にこれでいいのだな。モニタリングの数だけが問題なのだな」と世論が誤った方向へミスリードされるのである。


フェアネス原則は「ニュートラル原則」(取材対象に利害関係を持たない)や「インディペンデンス原則」(他社の介入を許さず自己決定権を持つ)に並ぶ重要な原則である。この「フェア」の概念をマスメディア上の情報に当てはめてみると「ポジティブな内容もネガティブな内容も両方が記述してある」意味になる。
現実は「善悪」がすっぱり割り切れることのほうがむしろ少ない。「完全な悪人」も「完全な善人」も現実にはいない。どんな人間にも善悪両面が同居している。善人に見えても、欠点のない人はいない。また悪人に見えても、美点が必ずある。
裏返していえば、実在する人間を「完全な善人」または「完全な悪人」であるかのように見せる表現は、現実から離れている。フィクションに近づいている。つまり情報の記述がフェアであるかどうかは、それが「現実に近いかどうか」「事実に近いかどうか」の指標にもなる。こうした「フェア度」による事実かどうかの判定を、和足は「フェアネス・チェック」と呼んでいる。


(1)複雑な現実より、単純な話のほうがより多数が理解しやすい。読者や視聴者が増える。より「視聴率」や「販売部数」を増加させる。それが筆者の「人気」「知名度」「収入」に反映する。
(2)複雑な現実を理解し記述をまとめるには、より高い取材・発信者の力量が必要。
(3)複雑な現実を取材するには、時間や労力などコストがよりかかる。短時間、少ない人数、少ない取材費など低いコストで取材を求められる場合、複雑で多面的な現実より、単純で一面的な話でまとめたいという動機が生まれる。
(4)ポジティブな話だけを流すほうが、取材者相手が好意的に迎える。ネガティブな話も合わせては流そうとすると相手が嫌がり、取材が難航する。またネガティブな話を公開すると関係が悪化する。


現実はかくも矛盾し、ねじれている。血のにじむような努力を重ねた人間が敗れ去る。特に努力したわけでもない人間が成功する。誠実な人間が裏切られ、嘘つきが勝つ。巨万の富や権力を得る。犯罪者は逃れ、犠牲者の無念は報われない。大義もなく戦争が起こり、街が破壊され、人々が虐殺される。貧しいものはますます奪われ、富める者はますます豊かになる。
ところが、そうした現実に倦んだ人々は、マスメディアに「現実と反対の、単純化あるいは理想化された物語」を求める。テレビやインターネットなどマスメディアのプラットフォームが同じだと、報道にもその感覚が無原則に持ち込まれる。発信する側も「そのほうが人気が取れる」と価値判断がそちらに傾斜する。インターネット登場後、情報の流通量としては「現実の単純化」の傾向はますますひどくなっている。


(1)西洋キリスト教型社会の文化や価値観・価値尺度に当てはめて、違う文化を持つ日本の社会や文化を語る。
(2)記者は日本の社会文化や歴史を深く知らない。日本語が不自由。日本語の本や新聞が読めない。日本語の出版物ではとっくに決着がついている問題を延々と蒸し返す。
(3)日本をほめて「それにひきかえ我が国は」と自国批判に使う。
(4)映画「ラストサムライ」のような映画・ドラマ・小説に影響される。
(5)アメリカの場合、アメリカ国内にいる日本人(日系アメリカ人、駐在員、イチローらメジャーリーグ選手など)に影響される。


過ちであっても、それが社会に共有され「なぜ誤ったのか」を社会が考えるプロセスこそが、社会全体の知を向上させるのだ。


言葉の定義を明確にすることは、論点を明確にすることでもある。


米国では広告代理店やPR(パブリック・リレーション)会社の重要な仕事はこうした「認識形成」あるいは「印象操作」である。企業や政府などクライアントの意向に従って、好ましい世論をつくる。


専門家たちは、科学や合理に基づいた真実を発言するとは限らない。「利害」や「立場」にそって発言をする。それが日本社会が原発事故で知った大きな教訓である。本来は、そういうバックグラウンドや利害関係、立場を含めて記事は読者に知らせるべきなのだ。


どんな集団にも、その構成員が従うルールがある。それを調べておくと、その構成員の行動が理解しやすくなる。


私が若い記者だったころ、先輩が教えてくれた重要な教訓は「警察を取材するなら警察官職務執行法や刑事訴訟法、自衛隊を取材するなら自衛隊法など、相手の身分や組織、権限を規定した法律を読んでおきなさい」だった。相手が従う法律を知っておけば、その行動が読めるからだ。これは本当にその通りだった。


「法律は権力の言語」だと私は思う。法律をどう決めるかで、政府や国会が隠している「本音」がわかるのだ。3.11から真剣に教訓を学び、同じ過ちを繰り返さないためには、住民避難を決める法律のダブりを早く解消しなければならない。しかし、この論点は問題として指摘すらされていない。こうした事実は「国は3.11の住民避難の失敗を改善する意思がない」と暗に語っている。


前提になっている条件を逆にしてみると、すべてに合理的な説明がつくことがある。その場合、逆にした前提のほうが正しい。


(誤)「政府の規制があった」しかし「福島第一原発の津波想定はずさんだった」
このロジックのままなぜ?という発問をしても、辻褄が合わない。では、これを反対にひっくり返してみる。
(正)「政府の規制がなかった」ゆえに「福島第一原発の津波想定はずさんだった」
これで辻褄が合う。つまり最初の前提・仮定が間違っていた。


「何かわからないが、重要な要素がまだ発見されていないと仮定するとすべてに合理的な説明がつく」という要素を英語で”the X factor”(エックスファクター。要素X)という。「どうも筋が通らない」「腑に落ちない」と感じるときは「何か重要な要素Xがまだ発見されていない」と仮定してみるといい。


実際にアメリカでは、広告代理店が無関係な市民を装って、ネットで企業や政府に好意的な意見を発信し、世論を偽造することは「アストロターフィング」(人工芝)と言って日常化している。日本でも当然、そういった業態はあるのかもしれない。


以上
またね***

2017年10月31日火曜日

独裁者に原爆を売る男たち(食べる読書133)




社会のルール設定の基となる考え、根拠は何だろうか。
様々あるだろうが、社会を構成する人間の存在を保障することを目的としてルールができるのではないか。
人々の存在を保障するようなルールがその社会のルールの大原則となると考えられる。


ということは、逆に、人々の存在を危険にさらす何かしらが”力”を持つことも意味しているのだ。


現代においては、細菌兵器や核兵器などである。


そして、国家の優位性を相対的に確保するために核兵器が交渉の武器として使われているのが現状である。


決して倫理的文脈で核兵器の是非は論じられないのだ。


そして、同様に論じられないのが、「人間が何のために存在しているか」である。


人々の存在を脅かす核兵器であるが、人々が何のために存在しているか、その”何か”が核兵器によって我々が滅びても存続するのなら核兵器は現在のような交渉のためのカードとしての力を失うだろう。

もしくは、われわれがあえて核兵器によって滅びることによってその”何か”が存続する場合も同様となるだろう。


マズローの欲求5段階説における第2階層の「安全欲求」が交渉の対象となっている。


また、経済制裁は世界全体の営みに参加するという意味で、第3階層の「社会的欲求」になるだろうか。


いずれにしろ、科学技術が人類のさらなる進化のために活用されているとは考えづらい。
物質的な側面における存在が重視されており、それが全世界共通認識となっているため人々の存在を脅かすカードとして核兵器が力を持っている。


われわれの身体が、物質でできている限り、われわれの身体への危険はなくならない。われわれの身体を危険にさらす物質も存在するし、その扱い方が重要であることもわかっている。
しかし、その扱い方を決める根本的根拠は、物質的側面でいいのか。


そこが大事なのではないか。


物質世界のものの扱い方を物質世界の次元を根拠に決めていいのか。


物質世界の結果をどうとらえるのか、解釈するのかは別次元である。


マズローの欲求5段階説でいえば、「自己実現欲求」をもとに核兵器の扱い方を決めることはできないのか。


もしくは、それ以外の価値観はどうだろうか。


単なる問題提起に留まってしまったが、これが私の力の現状です。


やれやれ、もっと考え、生み出さないとなあ…。


以下抜粋


日本では危機的な食糧事情をはじめ、北朝鮮の悲惨な状況ばかりが伝えられている。それも事実には違いない。だが、このイメージをもとに、北朝鮮の核、ミサイル技術は「途上国レベルにとどまっている」との見方をするのは残念ながら間違いだ。北朝鮮は、国際的に見れば、この両分野では「先進国」の位置にある。その技術力を決して侮ってはならない。


北朝鮮はミサイル分野でも、米国西海岸を射程に収める「テポドン2改良型」の打ち上げに成功、同時に人工衛星の軌道投入も成し遂げた。人工衛星打ち上げ成功は、先進国の仲間入りを果たしたことを意味する。電子機器分野で日本メーカーを追い抜き、世界をせっかんするサムスン擁する韓国が、人工衛星の打ち上げにようやく達成したのは北朝鮮に送れること2か月。それも自力で開発した北朝鮮とは違い、ロシアの全面的な技術支援を受けてのことだ。この分野で、北朝鮮との間に大きな実力差がある実情をさらけ出してしまった。


2013年春の緊張激化も、北朝鮮側から見れば、米国からの核攻撃の可能性が高まったので、それに対抗したに過ぎないという主張になる。米韓両国は3月1日から野外機動演習「フォールイーグル」を開始し、在韓米軍のF16戦闘機や、横須賀基地を母校とするイージス艦、沖縄・嘉手納基地所属の早期警戒機E3などが参加。
さらに、B52戦略爆撃機、最新鋭のF22戦闘機を投入。米本土に配備されている核兵器の搭載が可能なB2ステルス爆撃機を初めて朝鮮半島に派遣するなど北朝鮮を威嚇した。韓国上空から北朝鮮の空域までは、わずか数分。北朝鮮から見れば、米韓両国が核攻撃の準備に入ったと映る。


NPTの2つ目の柱は、核不拡散。IAEAがその監視に当たる。53年のアイゼンハワー米大統領の国連総会演説を機に57年にウィーンに設立された国際機関だ。
IAEAは、原子力活動を進める加盟各国と保障措置(核査察)協定を結ぶ。協定にしたがい、各国は、すべての核活動を申告し、IAEAはこの内容を検証するため査察官を現地に送り、検証する。最も重視するのは核物質の数量。どこから、どうやって調達したか、どれだけの量を持っているのかを詳しく調べる。特に、核兵器に転用される可能性が高いプルトニウムと高濃縮ウランに注目する。
IAEAは、核兵器を保有する国が、これ以上、広がらないようにするため、核兵器開発につながる核物質や技術、部品、素材などの取引にも目を光らせる。各国に、輸出規制を強化し、これらの機器や素材が外国にわたることを水際で防ぐなどを講じるよう求めている。


国によっては、正直に告白する国もあるが、多くは違う。イランで実際にあったケースだが、「他の場所で保管していたが、核物質保管容器が壊れたため、漏れ出してしまった」などと言い逃れをするケースもある。そうした場合、IAEAは、「核物質が漏れ出した」という場所を査察し、本当に、その場所で核物質が漏れたのかどうかを検証する。
その時に役立つのは、「環境サンプリング」と呼ばれる調査手法だ。10センチ四方の木綿の布で、核物質が漏れ出したり、使われたりする可能性がある施設の床ら壁などを丹念に拭き、研究所に持ち帰り分析する。布に細かな核物質が付着するため、これを分析すれば、極めて高い確率で施設内で実施した過去の核活動を把握できる。核物質の寿命は長く、実験が数年前のものであってもウソを見破ることができる。


用済みになった施設の「凍結」を差し出し、その代わりに果実を得ることができれば外交的な勝利を収めることができる。北朝鮮は、米国によるテロ支援国家の指定解除や、米国が05年9月に導入した北朝鮮秘密口座の凍結解除を勝ち取ることに成功した。


監視・検証作業は、①原子力機器が運転できないよう、機器にIAEAが封印をほどこす、②その封印が破られていないかを常に監視する-の2段階に分かれる。


当時のパキスタンは、博士によると「縫い針も自転車もろくに作れない」途上国。自国の技術水準に合わせるために、あえて技術を落とす選択をした。この決断は好結果をもたらす。開発開始からわずか2年後の78年4月、初の分離機の製造に成功したのだ。


1人当たりの国民所得が世界122位、識字率も世界162位という途上国が、世界で9番目に核兵器を取得する離れ業を成し遂げた瞬間だった。
この時期、博士は、自国の核開発を目的として築いた部品調達ネットワークを、「核の闇市場」に作り変える作業を始める。


「闇市場」摘発に沸いていた米国政府は04年2月20日、マレーシア警察が発表した内容に仰天した。国家安全保障法違反容疑で逮捕したタヒアへの事情聴収をもとに、ティナー一家をはじめとするメンバーの名前や役割など「闇市場」の全容が示されていたからだ。国境をまたぐ国際犯罪の捜査は各国間の連携が不可欠となる。それにもかかわらず、米英両国は、マレーシア政府の輸出入管理が甘かったことが「闇市場」の活動拡大を招いたとマレーシアに批判を浴びせた。
だが、タヒアを調べるうちに、マレーシアだけでなく、欧州各国など多くの国が「闇市場」にかかわっていたことが判明する。なぜ、マレーシアだけが批判されるのか。不満を募らせたマレーシア政府は、ついに、米英両国に事前相談することなく一方的な発表に踏み切った。米英の情報当局から見れば、これは「掟破り」だった。


永世中立国のスイスの国内法は、海外の諜報機関に協力した市民は国家反逆罪に問われる。スイス当局にはCIAに協力した事実を口が裂けても言えない。国際機関のIAEAが手掛ける「闇市場」の実態解明に協力することで、スイス当局からの逮捕を免れようとする意図があったのだ。


一家の公判開始には、CIAとの協力関係が公になることを嫌った米国が強く反発した。米国は、スイス検察庁の捜査協力要請をことごとく拒否しただけでなく。ブッシュ(父)元大統領をはじめ、ライス国務長官、ゲーツ国防長官など、ブッシュ(息子)政権の中枢メンバーがスイス当局に外交的な圧力をかけ続けた。スイスの法律では、スイス国内にあるティナー一家のアジトを「家宅捜査」したCIA要員にも国家反逆罪が適用されるため、米国は必死だった。


「核の番人」と呼ばれ、核拡散を防ぐ役割を委ねられているIAEA。平和に貢献する公立・中性な国際機関というイメージが日本では一般的だ。しかし、そうした見方は、あまりにも無邪気な考えだ。IAEAは、5大国による「核の秩序」、もっと言えば、核クラブの「核の独占」を守るという性格を持つ。いかなる正当な理由があろうとも、非核国の人間は、核兵器にアクセスできない。それが掟だ。


米国は、スイス政府に、資料のすべてを破棄するか、米国に手渡すよう求め続けた。スイス政府内でも激論が続く。スイスの国家主権を守るべきだとの主張と、米国との関係維持に重点を置く国務省、国防省が対立する。
結局、対米関係を重視する勢力が優勢となり、07年11月14日、CIA要因の追訴断念と、押収資料の全量破棄処分が決まった。


スイス政府が米国の圧力を受けて押収資料の処分を決定した後、その事実がスイス国内で報道された。大統領も「テロリストの手に渡ることを防ぐためだった」と、押収資料の破壊を認めたことで、国家主権の侵害だと世論の反発が強まっていた。さらに、政権交代という追い風も吹いた。資料発見を機にスイス政府は、米国と交渉を続け、スイス検察庁の捜査に協力していたIAEAも、保管していた資料の一部、数十ページを提供した。公判維持の条件が次第に整っていく。


ティナー一家は少なくとも1979年からパキスタンの核開発に不正に関与しており、2003年6月以後も「闇市場」のビジネスに深く関わっただが、前後の機関が除外された理由は、公判で明らかにされなかった。最終弁論で、レーマン主任検事が「証拠書類が不完全な中で、検察官は妥協を強いられた」と述べたように、公判維持をめぐり、スイス政府と米国政府の双方が、激しい水面下のやりとりを続けて歩み寄った跡が垣間見える。


裁判は1日で結審、翌日夕に判決が言い渡された。フレッドは禁錮2年、マルコは禁錮3年5か月、ウルスは禁錮4年2か月。いずれも有罪判決だった。だが、フレッドは高齢を理由に、ウルスとマルコは逮捕後の収監日数を相殺したため、3人は、自由の身となった。「闇市場」や、CIAから得た多額の報酬の没収も免れた。
ティナー一家は、IAEAの事情聴収では、「ビジネスだからやっただけだ」「自分たちが扱ったものは特別のものではない」「私たちが供給したものを使い、その結果がどうなろうと私たちに関係がない」などと答えている。彼らは、自分たちが、核兵器開発につながる犯罪行為に手を染めたことに、何の罪の意識も持っていなかった。その事実を知っていただけに、傍聴した筆者にとっては、なんとも歯がゆい消化不良のものだった。裁判は「茶番」だった。


IAEAで「闇市場」解明の総指揮をふるったハイノネン元IAEA事務次長は、筆者の取材に「おそらく、組織的な『闇市場』はもう存在しない。だが、イランはいまも不正に機器を調達し続けているのも事実だ」と話した。いまもなお、形を変えた組織が存在するとの見方だ。


パキスタン政府は、いまなおIAEAや米英の情報機関による博士への事情聴収を拒んでおり、触れられたくない多くの「不都合な事実」を抱える。博士と政府の微妙な駆け引きが続いている。


プルトニウム型に続き、ウラン型核兵器の取得も視野に収めている北朝鮮は、世界有数のミサイル技術を保有するだけでなく、世界最大のミサイル輸出国としても知られる。1980年代以後に開拓したこのミサイル輸出ルートを活用すれば、国際社会が恐れる北朝鮮発の核拡散が現実化する可能性も高い。いま、北朝鮮が、「核の闇市場」に代わり、ミサイル輸出で築き上げたネットワークを使い、ミサイルや核開発など大量破壊兵器の拡散の中心になりつつある。


北朝鮮の市場シェアは40%。特に、1987年から93年の7年間は420基も輸出、市場シェアは9割にも達した。ミサイルは、偽ドル札、麻薬などと並ぶ、北朝鮮の外貨獲得の柱の一つだった。


北朝鮮が外貨稼ぎの柱に据えていたミサイル輸出だが、2000年以後は急減した。軍縮専門家のポラック氏は、その原因を①中東諸国にミサイルが行き渡った、②湾岸戦争を機に、米国が迎撃用に使用したパトリオットミサイルに代表されるミサイル・ディフェンス(MD)システムや、巡航ミサイルの導入に関係諸国の興味が移った、③度重なる国連安保理決議で、ミサイル輸出管理が国際的に強化された-からだと分析する。


核実験やミサイル発射を繰り返す北朝鮮、ウラン濃縮など大規模な核開発を続けるイランは、ともに再三の国連安保理決議を無視し、国際社会からの孤立を深めている。核、そして、ミサイルの両分野の協力関係が強化・拡充されれば、国際社会の脅威となる。


イランは、1979年のホメイニ(イスラム)革命以後にイスラム共和制を敷き、同様の体制を周辺のイスラム諸国に広めようと「革命の輸出」を試みた。スンニー派諸国はその動きを強く警戒、この動きを潰そうと動いた。それが、80年から88年まで続いたイラン・イラク戦争だ。中東地域でイランを指示したのは、イランと親交が深いシリアだけだった。


03年春のイラク戦争中にサウジアラビアを取材で訪れた際、多くのサウジ人から「イラン人は長い文明の歴史があり、知恵も働く。私たちアラブ人に比べて、したたかだ」という話を聞いた。イランを毛嫌いする背景には、宗教的対立だけでなく、イランの文化水準には「かなわない」という警戒心もある。


米中両国は、85年に原子力協定に調印したが、人権問題を重視する米国は、89年の天安門事件を受けて、協定の発効延期を続けた。刑事成長を支えるため、米国の商用原子力技術をどうしても手に入れたい中国は、イランに対する協力打ち切りを条件に、米国が協定発効を提案しtことに反応した。中国はこの提案を受け入れ、これを機に米中関係は正常化する。


途上国には、元々、核兵器国と非核国の権利に差をつける不平等性が色濃いNPTに強い不満がある。核兵器国が核軍縮を進めないことは非難されないのに、途上国が「平和利用」を進めるたびに、核兵器国が注文を付けるのは不公平だ、二重基準だとの思いが強い。


「中国を『地域大国』と認めたことで、ニクソン米政権は、中国との国交回復に成功した。それと同様に、米国がイランを『地域大国』と認めてくれないだろうか。米国と関係が深い日本にぜひ、その橋渡しをお願いしたい」


核兵器を開発する動機は、3タイプに大別できる。1つ目のグループは、大国意識が強く、工業力の水準が突出していた米ソ英仏中の5大国。2つ目は、国際的に孤立し、核武装により安全保障の確保を狙った北朝鮮、イラク、南アフリカ、リビアなどの諸国。イランはこのカテゴリーに入る。3つ目は、隣国の核武装に対抗したインド、パキスタンなどの国々だ。


日本をはじめ非核国の展示は、平和利用だけに特化、「軍事」とは関係ない展示ばかりだ。一方、核兵器国は軍民両面を強調する。


デクラーク大統領が、世界で初めて核兵器の放棄を決定した背景には、黒人政権への核兵器継承を嫌ったという指摘も多い。マンデラ氏が率いるANCは、反米色を鮮明に打ち出すリビアのカダフィ政権や、「パレスチナ解放機構(PLO)」のアラファト議長などとの友好関係があり、黒人政権誕生後に、これらの勢力に核兵器や技術が流出する懸念があった。これが現実のものとなれば、核兵器保有国が急拡大する恐怖のシナリオが現実化し、国際情勢が不安定化する。これを未然に防ぐため、米国が強い圧力をかけたとみられる。


「ベルリンの壁が崩れ、ソ連が共産主義が倒れた結果、南アフリカを脅かす軍事情勢が変わった。その脅威が消えれば我々の戦略にも影響する」


核兵器を保有しながらも放棄した国は、南アフリカ以外でも、旧ソ連のウクライナ、カザフスタン、ベラルーシがある。だがこの3か国は、ソ連が配備していた核兵器を、ロシアに移送することに合意したもので、自ら開発した核兵器を放棄した南アフリカとは性格が大きく異なる。


カーター政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレジンスキー氏は…、中国、インドの国力が強まることで相対的に米国の地位が低下し、日韓の安全保障の礎となっている米国の「核の傘」が機能しない状態が起きる可能性を指摘した。ブレジンスキー氏は、日韓両国は、米国以外に新たな「核の傘」を求めるか、自国での核武装を迫られるだろうとも指摘している。


IAEAによると、日本が10年末時点で保有するプルトニウムは、英仏保管分を含めて44.9トン、再処理前の使用済み核燃料に含まれるプルトニウムは152トンもあり、合計で約200トンにも達する。5キロで核兵器の製造が可能という前提に立てば、4万発分に当たる量だ。


早晩、日本は核燃料サイクル計画の見直しに追い込まれる可能性が高いとみている。


NPTを脱退した北朝鮮の核実験、NPT加盟国のイランが、国際社会の要請を無視してウラン濃縮活動を加速するなど、核拡散防止に一定の役割を果たしてきたNPTのほころびが目立ち始めている。カーン博士の「闇市場」が崩壊したとは言え、核兵器取得を目指す国が無くならない限り、核ビジネスに関わる多くの企業は「カネの成る木」を求めて、売り込みを図る構図が変わるはずもない。


経済成長やエネルギー問題を解決するため、アラブ首長国連邦、ベトナム、トルコなど原発導入を進める国は多く、今後もその傾向が強まるのは確実だ。使用済み核燃料を再処理すれば、核兵器への転用が可能なプルトニウムは簡単に取り出せる。こうした国々から生まれる使用済み核燃料の扱いを誤れば、核拡散につながる懸念が高まる。


モンゴルに核の「ゴミ」の処分場を設ける計画は、核のゴミの処分だけでなく、さまざまな狙いがあった。
扱いに困る核のゴミを処分する国際的枠組みを構築できれば、「トイレの無いマンション」との批判を解決できる。これが、1つ目の狙いだ。
2つ目は、日米の原発輸出ビジネスを優位に運ぶには、最終処分場の確保が不可欠という経済的な視点だ。日米両国の原子力産業は、ロシア、フランスなどと激しい競争を続けている。ロシアは、ロシアの原子炉を購入した国には、やっかいな使用済み核燃料を引き取ることを売り物にしている。フランスは、核燃料再処理を請け負うことを武器にする。だが、日米両国は、このいずれにも対応できない。


核は、利益を得る人、被害を受ける人を同時に生む。


「闇市場」の全容を記録した文書を預かっているという人物を突き止め、接触した。「全文を読ませてほしい」「どうしても、真実に迫りたい」と相手を説得したが、予想通り、「博士の存命中は、だれにも渡せない約束だ」と断られてしまった。


以上
またね***

2017年10月28日土曜日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体(食べる読書132-2)




グローバリズム自体は多くの恩恵を世界にもたらしたが、負の側面ももたらした。その負の側面は、ガバメントの問題であると著者は述べている。

世界銀行、IMFで勤務した経験からその内情も含めての結論である。


しかし、本当にガバメントの問題なのか。


グローバリズムを上手に運営するとはどういうことで、どういう結果をもたらすのか。


経済の様々な分野に影響を及ぼすグローバリズムは、単一価値の輸出ではないか。
単一価値とは、人々の生活を測る指標としての経済理論・経済学だろう。


そして、それらの経済理論は欧米で生まれたもので、欧米以外のアジアやアフリカ、イスラム諸国においてそのままで適用できないのは明白だったのではないか。
他地域においても適用可能であることを確かめたのだろうか。そもそも確かめることは可能なのか。


中国やポーランドを例に、その国に合わせた経済政策をとることが成功への条件であると述べている。
しかし、国際機関のIMFはそれをしなかったのが問題であり、それをガバメントの問題としている。


私は、このグローバリズムによって人類は、「普遍」への再考を迫られていると考える。


2点あると思う。


・普遍とは、状態ではないのではないか。
・人類が普遍性を手にすることはできないのではないか。

(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
普遍:多くの、あるいは、ある範囲のすべての個別例に当てはまる共通な事柄をいい、「一般者」ともいわれる。特殊、個別に対する。人間の合理的思考はすべてことばを伴い、ことばを通じてなされる。ことばはすべて多くの事物に当てはまる共通な事柄をいうものであり、そこにことばの意味機能がある。たとえば、「三角形」という名称は正三角形、二等辺三角形、不等辺三角形というすべての特殊な三角形、また、その個別例に当てはまる共通な同一の事柄を意味する。このように多くの事物をある観点から総括し、一つのものとして把握する働きが思考の働きであり、そこに把握される「一つのもの」(多を通ずる1)が普遍である。感覚される個別の存在に対して、思考の対象である普遍が実在界においてもつ存在が何であるかは、哲学史上、古来盛んに論じられてきた問題である。[加藤信朗])


普遍とは、ある状況や状態の共通事項・性質を指していると考えられる。しかし、現実は諸行無常であり、われわれが共通項を見出だす対象自体も変化していく。よって、ある時代においての普遍が時を経ると普遍性を失うこともあるだろう。


と、考えると、共通項そのものよりも共通項の変遷、それを変化させる何かしら(変化を生み出す源、変化の仕組みなどそれが何かはわからないが)が普遍ではないか。
つまり、言葉では表せられない。事象によりその変化の源は変わるであろうからである。諸行無常=普遍、としてもいいがそれも単に諸行無常という現実の一側面=ある意味状態を示しているに過ぎない。そして、諸行無常は結果の記述であり結果を生み出すものではない。
同じ結果を生み出す”何か”、それが普遍ではないか。そして、諸行無常の現実において同じ結果を生み出す”何か”が同じ共通項であるとは考えにくいのである。


そして、そこに人間がいるのである。人間が、もし普遍を見出だしたらどうなるか。それが、グローバリズムに関する一連の結果である。つまり、普遍を武器に自身の優位性を高めるのである。普遍は人間の目的達成の道具に堕する。IMFがしたように、だ。普遍は、われわれが従わざるを得ないものではなく、われわれが使いこなすものでもあるという側面も持つ。普遍が、非現実的であればあるほど、現実よりより良いものに見えれば見えるほど、それは輝きを増し人々を魅了する。だが、その時点で普遍は普遍ではないのである。もし、そこに普遍を見出だすとしたなら、人間の共同幻想の性質であろう。


これらを解決するには、現実をわれわれ自身の変化も込みで把握しうる、情報処理概念だと考える。入力、加工、出力の各過程においてこれまでとは異なった概念のもと情報を処理することが求められている。この情報処理が、普遍であるというつもりはないが、見えてくるものはあるのではないか。
帰納法、演繹法とは異なる、何か。


その発見、創造に貢献したい。


以上
またね***

2017年10月24日火曜日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体(食べる読書132-1)




以下抜粋

決定はイデオロギーと誤った経済学の奇妙な融合に基づいて下され、ときにドグマが特定の人びとの利益を厚くおおい隠しているように見受けられた。危機が起こると、IMF(国際通貨基金)は時代遅れで不適切な解決策を採用した。それは「標準的」な政策なのかもしれないが、その政策に従わされる国民にどんな影響が及ぶ科は、まるで考慮されていなかった。その政策が貧困にどんな寄与をするかという予測はほとんど見たことがなく、別の政策をとったらどうなるかが真剣に検討されるのを見たこともほとんどない。あるのは唯一の処方のみ。代替策は考えもされない。オープンでフランクな討議が行われる余地は最初からない。イデオロギーのみが政策を決め、各国はIMFのガイドラインに無条件でしたがうものと思われている。


私たちはグローバルナコミュニティを形成しており、あらゆるコミュニティがそうであるように、なんらかのルールに従わなければ共生していくことはできない。そのルールは誰から見ても公正なものでなければならず、権力者と同じく貧者に対しても当然の配慮をした、基本的良識と社会正義を反映するものでなければならない。今日の世界では、それらのルールは民主的なプロセスを通じて形成されなければならない。いかなる政体もどんな権威もしたがわなければならないそのルールは、遠い場所で決められた政策や決定に影響をこうむるすべての人々の要望に留意し、応えるものでなければならないのだ。


国際経済機関の指導のもとに進められたロシアの市場経済への移行と、自らで進め方を立案した中国の移行は実に対照的だった。一九九〇年の中国の国内総生産(GDP)はロシアの60%だったが、この10年の終わりには、その数値が逆転した。ロシアではかつてないほど貧困が増した一方で、中国はかつてないほど貧苦が減少したのである。


たとえ偽善的な犯罪杭をしていなくても、欧米はグローバリゼーションのお題目を唱えながら、その恩恵を自分たちばかりにゆきわたらせ、発展途上国を犠牲にするようなことをしたのだ。たとえば、織物から砂糖にいたる多くの産品に割当量を設定するなどして発展途上国の製品に対する市場開放を拒む一方で、相手には自分たち裕福な国の製品を受け入れるよう市場開放を要求しただけではない。また、先進工業国が農業に助成金を支給し続け、途上国が競争に参入するのを難しくする一方で、途上国には工業製品への助成金を廃止するよう要求しただけでもない。GATTのウルグアイ・ラウンド以降の「交易状況」-先進国と発展途上国のそれぞれが自国製品の代価として得る金額-を見てみるがいい。最終的に、世界の最も貧しい国々が受け取る総額は、輸入品にたいして支払う総額よりも低くなっているのである。その結果、世界で最も貧しい国のいくつかでは、人々の生活が実質的に悪化してしまった。


IMFは、経済の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立された。ちょうど国連が、政治の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立されたのと同じである。IMFは公的な機関であり、世界中の納税者が提供した資金によって運営されている。これはぜひとも明記しておくべきことだ。というのも、IMFは資金を出している市民にも、またIMFに生活を左右される人々にも、なんら直接的な報告義務を負っていないからだ。


経済プログラムを成功させるには、順序付け-改革が行われる順番の決定-とペースの調整に十二分の注意を払う必要がある。たとえば、強力な金融機関が設立されないうちに急いで市場を開放して競争を促せば新たな雇用が創出される前に職がなくなってしまうだろう。、多くの国では、順序付けと調整のミスが失業率と貧困の増大につながった。


IMFとその他の国際経済機関の問題は、煎じ詰めればマネジメントの問題である。誰がやることを決めるのか、何のためにそれをやるのか。これらの機関を支配するのは世界有数の富裕な工業国であり、それらの国の商業的、金融的利害なのであって、その政策にはおのずとそれが反映される。また、だれが国を代表するのかということからも問題が生じる。IMFでは、それは蔵相と中央銀行総裁であり、WTOでは貿易相である。


今日、IMFと世界銀行が活動するところは、ほぼ例外なく発展途上国である(少なくとも彼らの融資先はすべてそうだ)が、その機関を統括するのは工業国の代表者である(習慣からか暗黙の合意によってか、IMFの長は常にヨーロッパ人、世界銀行の長は常にアメリカ人である)。その選任は閉ざされた扉の背後でなされ、発展途上国での経験の有無が選任の必要条件とされたことは一度もない。これらの機関は、それが奉仕する国の代表者ではないのだ。


なによりグローバリゼーションは、その恩恵を広くその国全体にゆきわたらせることができなかった。「ワシントン・コンセンサス」で定められた政策の最終的な結果は、たいていの場合、多数を犠牲にして少数に、貧乏人を犠牲にして金持ちに恩恵をほどこすことだった。多くの場合、配慮されていたのは商業的な利益や価値であり、環境や民主主義や人権や社会正義ではなかったのである。


連邦政府はアメリカの成長をうながすことに中心的な役割を果たしただけでなく、積極的な再分配政策を行わない場合でも、少なくとも恩恵が広く共有されるような計画を実施した。教育を広め、農業の生産性を向上させる計画だけでなく、すべてのアメリカ人に最低限の機会を与える土地払い下げも実施した。
今日はどうか。輸送と通信のコストがどんどん下がり、産品、サービス、資本の流れを阻む人工的な障壁も減少している(ただし労働者の自由な流れに関してはまだ大きな障壁がある)。これを見る限り、かつて国民経済が生まれたのと同じようなプロセスで「グローバリゼーション」のプロセスが進行していると言えよう。ただ残念ながら、そこには世界政府がない。すべての国の国民に責任を持ち、グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる存在がないのである。
そこにあるのは「世界政府のない世界統括」とでもいうべきシステムである。少数の機関-世界銀行、IMF、WTO-と少数の人間-特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当相-が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている。


世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とする。どちらもエコノミストの一団を海外に派遣して三週間ほど視察させているが、世界銀行の方は援助しようとする国にかならず少数のスタッフを長期的に駐在させるよう取り計らっている。一方、IMFにはたいてい「居住者の代表」が一人いるだけで、その権限も限られている。計画は通常、ワシントンが立案し、短期間の視察を経て最終決定される。視察するスタッフは首都の快適な五つ星ホテルに泊まりながら、財務省や中央銀行で統計を調べるだけである。


IMFの論理の明らかな問題点は、貧しい国は援助の金を援助の目的に使えないと暗に言っていることである。例えば、スウェーデンがエチオピアに学校建設のための資金を与えたとしよう。この論理によれば、エチオピアはその金を蓄えにまわさなければならない(すべての国は『いざというとき』のために準備金勘定を持っているはずである。金は伝統的な準備資金だが、今日ではハードカレンシーに取って代わられつつある。準備金として最も一般的なのは、アメリカ財務省短期証券を持つことである)。
しかし、外国の資金提供者は、そのために援助したのではない。IMFとは関係なく独自に活動している資金提供者は、エチオピアに新しい学校病院が建設されるのを見たかったのである。


IMFのマクロ・エコノミストはたいてい自分たちが発展途上国で直面しなけれならない問題に対して十分な訓練を受けていない。IMFが定期的に卒業生を採用している大学のいくつかは、主要なカリキュラムで一切失業問題を扱っていないのだ。


現在のIMFは自らを、経済の完全雇用の状態に維持することに勤める赤字融資者だとは考えていない。むしろ、お金を借りる国がIMFの考える適切な経済政策に従う場合にのみ、ケインズ的立場から資金を分け与えるという方針をとってきた。だが、それはたいてい緊縮財政であるため、景気の後退を招き、事態にをいっそう悪化させるのだ。

「融資条件」と呼ばれるのはもっと強制力のある条件で、これがしばしば融資を政策手段に変えてしまう。たとえば、iMFがある国に金融市場を自由化させたいとすると、IMFはその融資を分割して行う。以後の融資は、自由化を進めている証拠が得られるたびに実施されることになる。私個人の考えを言えば、少なくともIMFのこれまでのやり方や強制力の強さからして、このような融資の条件には賛成しかねる。これが経済政策の向上につながるという証拠がない一方で、政治的には逆の影響を及ぼすからだ。


韓国の危機のさなかに、韓国の中央銀行はもっと独立するよう要求されただけでなく、物価上昇率だけに注意を払えとも言われた。韓国の物価上昇率に問題はなく、まずい金融政策がその時の危機に関係しているわけでもなかったのに、である。IMFは危機によって与えられた機会を利用し、自らの政治的な信念を推進しただけだった。私がソウルでIMFのチームになぜこんなことをやっているのかと聞いた時、帰ってきた答えは衝撃的だった(それまでの経験からして驚くべきことではなかったが)-われわれはどんな国にも、物価上昇率に敏感な独立した中央銀行を持つよう勧めている、というのだ。


IMFは、すぐに市場が生まれてあらゆる需要を満たすと単純に推測していたが、現実には、市場が必要なサービスを提供できていないから多くの政府活動が必要とされるのだ。


民営化を急いで進めることが重要だとIMFは主張する。競争や規則の問題にはあとで対処できるだろうと言う。だが、そこに危険がある。ひとたび既得権益が生まれてしまうと、そこには資金もあるから、専売権を維持しようとして規制や競争を押しつぶし、民営化のプロセスを歪めてしまう。IMFが競争や規制を後回しにしようといったのには、それなりの理由がある。民営化で規制のない専売会社をつくると、結果として政府の収入が増えることになる。そしてIMFは、産業の効率性や競争力といった構造的な問題よりも、政府赤字の規模のようなマクロ経済的な問題を重視する。民営化された専売会社が政府よりも効率的な生産をするかどうかはさておき、彼らはその専売権をたいてい政府よりも有効に活用する。その結果、消費者が苦しめられる。


今日、多くの国では、民営化は「収賄化」だと揶揄されているほどである。政府が腐敗しているからといって、民営化すればその問題を解決できるという証拠はほとんどない。結局は、会社を私物化していたのと同じ腐敗した政府が、民営化の舵を握るのだ。あちこちの国で、政府の役人は気づきはじめている。民営化をすれば、もう年に一回だけ収益をかすめ取るだけで満足する必要はないのだ。政府事業を市場価格より安く売れば、資産価値のかなりの部分を次の役人に残さず、自分のものにしておける。実質的に、彼らは未来の政治家がかすめ取る分の大半を、いまのうちに盗んでしまえるのである。


IMFは保護貿易主義の壁に守られて形成されてきた非効率的な仕事が排除されれば、新しいより生産的な仕事が生まれるはずだと信じてきた。しかし、それは事実ではない。少なくとも大恐慌以降、それほど瞬時に雇用が創出されると信じているエコノミストはほとんどいない。新しい会社や仕事が生まれるには、資本と起業家精神が必要だが、たいていの発展途上国ではそのどちらも不足している。後者は教育がなされないためで、前者は銀行融資がないためである。


貿易自由化は約束したことを実現できないどころか、失業率を高めるだけという例があまりにも多かった。だからこそ、強い反対が起こるのである。しかし、貿易自由化への敵意を疑いなく強めたのは、これを推進する際に見られた偽善だった。欧米は自分たちの輸出する製品に関しては貿易の自由化を進めたが、その一方で発展途上国の競合品に経済を脅かされそうな分野については保護政策をとり続けた。


中国が実証している通り、資金を引き付けるのに資本市場の自由化は必要ではない。むしろ、事実はこうだ。東アジアの高い貯蓄率(アメリカではGDPの18%、ヨーロッパでは17%から30%なのに対し、東アジアは30%から40%)を考えれば、この地域に追加の資金はほとんど必要がない。東アジアの政府はすでに、貯蓄をいかにして投資に回させるかという頭の痛い課題をかかえているのだ。


おそらく、アメリカ政府も含めて、各国政府がやってきたことの中で最も重大なのは、発展途上国に極めて不利な協定をその国の腐敗した政府に調印させて、頭ごなしに守らせたことだろう。インドネシアのジャカルタで開かれた1994年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)閣僚会議で、クリントン大統領はアメリカ企業のインドネシア参入を奨励した。多くの企業がそれを実行した。そして、たいていは非常に有利な条件のもとに実行した(インドネシア国民にとっては不利な条件なのだから、『心づけ』が渡されていたことは間違いないだろう)。


シンガポール、中国、マレーシアなど、外国投資の濫用を抑えた多くの国でも、外国の直接投資が重大な役割を果たしたのは資本面ではなく(貯蓄率の高さを考えれば資本は全く必要ではなかった)、起業家精神でもなく、外国からの投資がもたらす市場への参入機会と新しいテクノロジーの面だった。


IMFは、セーフティ・ネットが整備される前に、十分な規制構造ができあがる前に、近代資本主義の本質である市場心理の突然の変化に国が耐えられるようになる前に、自由化を強要した。雇用創出の必須条件が整う前に、雇用破壊につながるような政策を強要した。そして十分な競争と規制構造ができあがる前に、民営化を強要した。こうした多くの順序の間違いは、IMFが政治のプロセスについても経済のプロセスについても根本的に誤解していることを示していた。それは主に、市場原理主義を信奉することからくる誤解だった。たとえば、彼らは私有財産権が確立されていさえすれば、ほかのすべてはおのずとできてくると主張した。制度も、市場経済を機能させる法的な枠組みされも。


開発の過程で生じる急激な変化が社会に大変なストレスをかけることは避けられない。伝統的な権威は危うくなり、伝統的な人間関係も見直される。だから開発に成功するには、社会の安定に格別の注意を払わねばならない。


IMFと世界銀行はアメリカ財務省の縄張りの一部であり、そこではほとんど例外なく、財務省が自分の見解を押し通せるのだ。ちょうど他の省庁が、それぞれの縄張りで自分の意見を押し通せるように。


重要なのは、IMFの優先事項に何が入っているかだけでなく、何が外されているかを見ることだ。経済の安定は予定表に入っている。雇用の創出は入っていない。増税は、その逆効果も含めて入っている。農地改革は入っていない。銀行救済のための資金はあるが、教育や保健のサービスを向上させるための資金はない。もちろん、IMFのマクロ経済管理の誤りで仕事を失った労働者を救済するための資金もない。


ワシントン・コンセンサスの貧困政策のあらゆる欠点は、今や明らかである。これまで見てきたように、金利の高騰がともなう貿易自由化は、雇用破壊と失業創出を招くばかりであると言ってよく、犠牲にされるのは貧困層だ。そして適切な規制をともなわない金融市場の自由化は、経済を不安定にするだけであると言っていい。金利を下げるどころか、逆に上げてしまい、貧しい農民に種子や肥料を買えなくさせる。したがって、農民はなかなか最低限の生活から抜け出せない。さらに民営化も、競争政策と専売業者の強権濫用を抑える監督機能をともなわない限り、消費者価格を下げるどころか吊り上げてしまう。ふさわしくない環境でむやみに追及された緊縮財政も、高い失業率につながって社会契約を粉々に砕く。


(IMFとは)別の戦略をとる人々は、市場を利用しながら、政府にも重要な役割があることを認識していた。改革の重要性を認識していながらも、その改革はゆっくりと正しい順序で行われなければならないとわかっていた。変化を単に経済の問題とみるのではなく、もっと広い社会進化の一部ととらえていた。長期的な成功を目指すには改革への幅広い支援が必要であり、幅広い支援を取り付けるにはその恩恵が広く行き渡らなければならないとわかっていた。


IMFは解決をもたらすどころか、IMFそのものが各国の問題の一部になっていたのだ。実際、危機に見舞われたいくつかの国では、政府の役人やビジネスマンだけでなく、普通の人々までもが、自分たちの国を襲った経済的、社会的な嵐を「疫病」とか「大恐慌」と呼ぶような調子で、ずばり「IMF」と呼ぶようになっている。歴史は「IMF」以前と以後に分けて語られるようになった。ちょうど地震やその他の天災で大きな被害をこうむった国が、ものごとの日付を地震の「前」と「後」で区切っているように。


資本の自由化は、発展途上国を投資家の世界の気まぐれにさらすだけでなく、彼らの不合理な興奮と悲観にもさらすことになる。


IMFの企業再構築戦略-ほとんど破産しかけている会社の再構築戦略-は、銀行再構築戦略と同じくらい成功しなかった。IMFは財務上の再構築-誰が実際にその会社を所有するのか、債務免除されるのか、それとも株式に転換されるのかをはっきりさせること-と、実際の再構築-会社が何を生産すべきか、どのように生産すべきか、どのような組織にすべきかといった実際的な決定-を混同していた。


経済政策は、どんな場合にも経済下降の深刻さと持続期間を最小限にすることを目標にすればよいのだ。残念ながら、これはIMFが目指したことでも果たしたことでもなかった。


借金は本質的にリスキーなものだ。資本市場の自由化や、危機が起こった時に金利を法外なレベルまで引き上げるといったIMFの戦略は、借金をさらにリスキーなものにする。となると、会社にとって合理的な対策は借金をもっと少なくして、その分を社内に留保した利益に頼るということになる。そうなれば、将来の成長はある程度まで抑えられ、資本もそれほど自由には生産的な用途へ流れなくなる。おのように、IMFの政策は資源配分の効率、特に発展途上国では最も乏しい資源である資本配分の効率を悪くする。IMFはこの弊害を考慮していない。なぜなら、IMFのモデルには情報の不安定性が資本市場に及ぼす影響を含めて、資本市場が実際にどう機能するのかが反映されていないからだ。


世銀とIMFは腐敗した政府への援助に対して表面的には断固たる姿勢でのぞんできたが、そこにダブルスタンダードが存在することは明らかだった。ケニアのような戦略的に重要性の低い小国には汚職を理由に資金援助を拒否しておきながら、はるかに規模の大きい汚職が横行しているロシアのような大国には、持続的に資金援助がなされていたのである。


私が出会った、ロシアをはじめとする旧ソ連邦諸国の有能な学生は、欧米に移住したいという夢を抱いてひたむきに働いている。こうした損失は、ロシアで暮らす人々にとって、現在ばかりか、将来にわたってどのような影響をもたらすかという点で大きな意味を持つ。歴史的に、法律と民主主義に基づく社会を創造するさい、中心となるのは中産階級だからだ。


誤った方法で実施された民営化は効率の改善にも成長にも繋がらず、資産の略奪と衰退を招いただけだった。


資本市場の自由化や民営化は資金の国外流出を容易にし、法的基盤が整う前に民営化を推進したことは、ロシアの将来への投資ではなく、資産略奪の機会を与え、よこしまな動機を強めてしまった。


成功の要因は、自国のニーズや危惧に敏感なそれぞれの国の住民が策定した「国内産」の戦略にあった。中国やポーランドやハンガリーは、型にはまった手法はとらなかった。この三国をはじめとして、以降に成功した国はきわめて現実的であり、政策の決定にあたってイデオロギーや教科書のモデルをそのまま踏襲することはなかった。


IMFのような国際機関の国際政策について合理的な見解を形成するには、市場が機能しなくなる重要なケースを見極め、その失敗によるダメージを個々の政策によって防止、あるいは最小限に抑える方法を分析する必要がある。さらに、介入に踏み切る場合には、その介入が市場の失敗に取り組み、問題が起こる前に対処し、実際に問題が起こった時に改善をはかるうえで最善の策であることを示す必要もある。すでにみたように、ケインズは、各国が単独では十分な景気浮揚策をとれない理由を分析し、説明した-どの国も、他の国々にもたらす利益を考慮に入れないからだ。だから、各国政府が自発的にとる以上の景気浮揚策を実施するような国際的な圧力をかけるというのが、IMFの本来のや役割であるはずだった。


標準的な市場経済理論では、貸し倒れになった貸し手は結果について責任を負う。おそらく借り手は破産するだろうし、各国にはそうした破産の処理に関する法律がある。市場経済理論はそのように機能するのが普通だ。ところが、IMFのプログラムは、欧米の債権者を救うために繰り返しその国の政府に資金を供給する。債権者はIMFの救済措置をあてにするようになり、借り手が返済可能かどうかを確かめようとする気持ちも弱まった。これが、保険業界でよく知られ、今では経済学でもよく知られている悪名高い「モラルハザード」の問題である。


金融市場では時々、実際には信用供与に値する国が融資を拒否されるという不合理が見られる。IMFはもともと、そうした不合理が引き起こす流動性の危機に対処するためにつくられたのだが、その危機を早めかねない個人や機関に金融政策の権限を与えようとしていたのだ。つまり彼らが融資するのは、進んで融資しようという気になれる時だけだった。
IMFに自覚がなかったとはいえ、貸し手の側はすぐにその変化の深い意味を読み取った。貸し付け希望国に対して貸し手が貸し付けを拒んだり、精算への協力を拒んだりすれば、希望国は-IMFからだけでなく、IMFの承認を条件として融資をする世界銀行やその他の機関からも-資金が得られなくなる。債権者は突然、非常に大きな力を手にしたのである。


IMFの本来の目標は、世界の安定性を高め、景気後退の脅威に直面する各国が景気浮遊策をとる資金を確保することだったが、IMFはこれらの目標を追求するだけでなく、金融界の利益をも図っているのだ。つまり、iMFが掲げる目標はたがいに矛盾していることがしばしばあるのだ。
緊張がますます高まっているのは、この矛盾が明るみに出せないからである。新たな役割が公然と知られるようになれば、IMFへの支持が弱まることを、「使命の変更」をやり遂げた連中が知っていたことはほぼ確実である。このため、少なくとも表面的には古い使命と矛盾しないように見せかけて新しい使命を隠す必要があった。あまりにも単純な自由市場イデオロギーを前面に押し出し、その陰に隠れて「新たな」使命にしたがって仕事をしていたのだ。


はっきりさせておくが、IMFは公式にその使命を変えたわけではないし、グローバル経済や本来IMFが助けるはずの貧しい国の福祉よりも金融界の利益を優先することを公にしたわけでもない。どんな機関についても、その動機や意図をあれこれ論じたところで意味はない。意味があるのは、実際にその機関を構成し、運営しているメンバーの動機や意図を論じることだけだ。その場合でも、真の動機をつきとめることはなかなか難しい-彼らが公表する意図と真の動機の間には隔たりがある場合が多いからだ。


重要な契約がもう一つある。市民や市民社会と政府との間の契約で、時に「社会契約」と呼ばれるものがそれだ。その契約は妥当な雇用機会の確保など、社会や経済の基本的な保護規定を要求する。IMFは、融資契約の尊厳と考えるものを守ろうとして誤った方向に動き、より重要な社会契約を破ることはいとわなかったのだ。つまるところ、市場をむしばみ、経済と社会の長期的な安定をゆるがしたのはIMFの政策だったのである。


IMFを民間セクターの債権者のための政策を実施する機関だとみると、IMFのその他の政策ももっと理解しやすくなる。すでに指摘したように、IMFが重視したのは貿易赤字であり、危機のあと東アジアに課された大規模な緊縮政策は輸入量の急激な減少につながり、外貨準備金が大幅にふやされた。債権者への返済能力を心配する機関という観点からすると、これは理解できる。準備金がなければ、国や国内企業が借り入れたドルを返済できないからだ。だが、世界の安定と、関係諸国や地域の経済復興に焦点を当てたなら、準備金を増やすことについてはもっとゆるやかなアプローチをとり、同時に国際投機家の気まぐれから各国を守るため別の政策を考えていただろう。


透明性の欠如が指摘されているにもかかわらず、東アジアは著しい成長を遂げただけでなく、めざましい回復力をも示した。IMFやアメリカ財務省が主張するように東アジア諸国が「非常に脆弱」だったとすれば、それは透明性の欠如によるのではなく、別の良く知られた要因-IMFがこれらの国々に金融・資本市場の時期尚早な自由化を強く求めたこと-によるものだった。
振り返ってみると、こうして透明性を重視した理由が「透けて見える」。金融界にとっても、IMFやアメリカ財務省にとっても、責任転換して、自らの信頼性の危機を回避することが重要だったのだ。IMFと財務省が東アジアやロシアをはじめとする各国で勧めた政策は間違っていた。資本市場の自由化は投資の不安定化につながり、金融市場の自由化は貸し出し態度の悪化につながった。復興計画が思ったように機能しないと見ると、IMFと財務省はさらに責任を転換しようとして、真の問題は別のところ、つまり苦しんでいる各国自体にあるのだと主張した。


アメリカ財務省は1990年代初頭に資本主義の世界的勝利を宣言し、IMFとともに「正しい政策」-ワシントン・コンセンサスに基づく政策-にしたがう諸国には成長が保証されると語った。東アジアの危機に際して、資本主義に問題があるのではなくアジア諸国とその誤った政策が悪いのだということが示されない限り、この新しい世界観はくつがえされてしまう。
だからこそIMFとアメリカ財務省は、問題は改革そのもの-資本市場の自由化、とりわけその神聖な信条の実現-にあるのではなく、改革が十分に実行されなかった事実にあるのだと論じざるを得なかった。そして、危機に瀕した諸国の弱さに焦点を当てることによって、自分たちの失敗-政策の失敗と貸し付けの失敗の両方-について責任を転換しただけでなく、その経験を生かして自分たちの政策をさらに推し進めようとしたのである。


グローバリゼーションは、民主主義とより大きな社会正義を求めて戦う活気のあるグローバルな市民社会をもたらすと同時に、世界の健康状態の改善をもたらした。問題はグローバリゼーションにあるのではなく、それをどのように進めるかにあるのだ。問題の一端は、国際的な経済機関、すなわちIMF、世界銀行、WTOにある。これらの機関は、ゲームのルールを決めるのに手を貸すにあたって、たいていの場合、発展途上国の利益よりも先進諸国の利益-それも、その一部の利益-を考慮してきた。そればかりでなく、グローバリゼーションへの取り組みでは、経済と社会についての特定の観念によってつくられた偏狭な思考パターンによって対処することがあまりにも多かったのである。


IMFの思考を支配してきたのが金融界の利害であるとすれば、WTOでは商業界の利害が同じように支配的だった。たとえばIMFは貧しい人々にかかわる事柄にすげない態度をとる。銀行を救済するためなら何十億という金を出すのに、彼らのプログラムのせいで職を失った人々には食料助成金とするわずかな金額さえ惜しむのだ。ちょうどこれと同じように、WTOも自由貿易をすべてに優先させる。エビ獲り網にウミガメもかかってしまい、ウミガメの種の存続が脅かされているとしてこのような網の使用禁止を求める人々は、WTOからにべもなく、そういう規制は自由貿易への不当な侵害だと告げられる。貿易の利益が他のすべてに、自然環境にさえも優先することを知らされるのだ。


最大の課題は機関そのものにあるだけでなく、思考パターンにもある。グローバリゼーションの潜在的利益を現実のものとするためには、環境に配慮すること、貧しい人々が自分たちに影響を及ぼす決定に発言権を持てるようにすること、そして民主主義と公正な取引を堅持することが必要なのである。


世界は複雑なところである。社会の各グループは、自分たちに実際、最も影響を及ぼす部分に関心を集中する。労働者は職と賃金が気にかかるし、投資家が気にかけるのは金利であり、債務の弁済を受けることである。高金利は債権者にとってよいことである-貸した金の返済を受けられる限りは。だが、労働者にとって高金利は経済の減速をもたらすものであり、彼らにとっては失業を意味する。彼らが高金利に危険を見てとるのは不思議ではない。また長期で金を貸し出した投資家にとって真の危険はインフレーションである。インフレが起こると、返済を受けるドルが、貸し出したドルよりも価値の低いものになるからだ。


問題なのは、広範な合意のない提案や政策勧告をあたかも定説樽かのようにIMFが提示することである。資本市場の自由化の場合がまさにそうで、根拠は乏しく、反証はたくさんあった。どんな経済もハイパーインフレのもとではうまくいかないということについては合意があるが、インフレを低いレベルで抑えることがどれほどの利益を生むのかについては意見の一致はない。インフレのレベルを低下させることがコストに見合った利益をもたらすという証拠は、ほとんどないのだ。


経済学がすべてに優先され、経済学に特有のものの見方-市場原理主義-がすべてのものの見方に優先されることが、グローバリゼーションに対する不満をかきたてている。世界各地にみられる反対運動は、グローバリゼーションそれ自体-成長のための新しい資金源や新しい輸出市場-にたいするものではなく、特定のドクトリン、すなわち国際金融機関が押し付けてきたワシントン・コンセンサスに対する反対なのだ。言ってみればそれは、ただ一組の政策が正解として存在するという考え方に反対しているのである。


自由で束縛のない市場を信じる者にとっては、資本主義の自由化が望ましいのは明らかな事実であり、それが成長を促すことを示す証拠など必要なかった。たとえ資本主義市場の自由化が不安定化が不安定をもたらす証拠があったとしても、それは市場経済への移行にあたって耐えなければならない痛みであり、一つの調整コストに過ぎないとして無視されたのだ。


ある機関の思考パターンは、必然的にその機関が直接的に説明責任を負う相手と関連がある。投票権が重要であり、また-投票権は制限されていたとしても-誰がテーブルにつくかが重要なのである。それによって、誰の意見が受け入れられるかが決まるからだ。IMFは、銀行小切手決済システムをより効率的にする方法のような、銀行間の技術的な取り決めに関与しているだけではない。発展途上国の何十億という人々の生命と暮らしに影響を及ぼす決定に関与しているのだが、途上国の人々はIMFの措置について発言権をほとんどもたないのである。


グローバリゼーションをしかるべきかたちで機能させるために必要な根本的な変革は、ガバナンスの変革である。これは必然的に、IMFと世界銀行の投票権の変更に伴い、また国際経済機関のすべてに変化をもたらす。それにより、WTOでは通称大臣の意見だけが尊重されることはなくなり、IMFと世界銀行では財務省や中央銀行の見解だけが受け入れられることはなくなるだろう。


グローバリゼーションが民主主義に何をもたらすかである。グローバリゼーションでは、これまで主張されてきたように、国のエリート層による旧来の独裁が、国際金融による新たな独裁にとってかわられることが多かった。各国は事実上、一定の条件にしたがわなければ資本市場あるいはIMFに融資を断られる。要するに、主権の一部を放棄するよう強いられるのだ。


最も重要なのは、途上国には有能な政府が必要だということだ。つまり、強力で独立した司法部を持ち、民主的な説明責任を果たし、開放性と透明性を備え、公共セクターを成長を阻害してきた腐敗とは無縁な政府が必要なのだ。
発展途上国が国際社会に要求すべきことは、たとえば誰がリスクを引き受けるべきかについて、自らの政治的判断を反映するかたちで途上国自身が選択する必要と権利を手に入れること、ただそれだけである。発展途上国は、先進国のためにつくった雛型を受け入れるのではなく、それぞれの状況に適した破産法と規制体系を自由に採用できるべきなのだ。


国がとらなければならない政策をごく少数の人間が決定している限り、この種の開発は進展しない。民主的な決定が下されるようにするというのは、発展途上国の広範なエコノミスト、当局者、エキスパートが議論に積極的に参加できるようにすることを意味する。また、エキスパートや政治家だけでなく、幅広い層の参与がなければならないことも意味する。発展途上国は自らの将来を引き受けなければならない。だが、われわれ欧米諸国も責任を逃れることはできない。


経済学は選択の科学である。


to be continued・・・


学者のウソ(食べる読書137)

私は、理系の単科大学を卒業したが、日本の大学に通ったことで分かったのは、大学は「おままごと」であるし、「詐欺」であると感じたことである。 理系という性質上、その産業への人材提供の側面が強く、それは決められたことをいかに効率よく行えるか、である。そこに独創的発想を評価...