2012年11月11日日曜日

水滸伝十九(食べる読書128)




単純に力勝負で敗けた。



戦で。



何年も何年もかけて準備してきた。砦となる梁山泊を作り、人も集まり、人材も育ててきた。



調略・謀略も駆使してきた。



小さな国と言えるほどまで形も整えてきた。



もともとくすぶっていた想いをここまで形にした。



しかし、



敗けた。





最も大切で貴重な情報とはなんだろうか?





それは自分が変わる情報だろう。もちろん良いほうへの変化ではあるが。自分の目的を達するためのだ。





その情報はどこにあり、どうやって手に入れるのか?




目的に向かっていくことでしか手にできない。そして、それを手にすることで、さらに貴重な情報へと達していく。そうやって、結果として目的を果たすのだ。






どうやら梁山泊の闘いはまだ続くようだ。



というより、ここからが本当の梁山泊が試されているのだろう。




単に一代でなせるものではない。そして、人を繋いでいるのは、血ではない、志である。



梁山泊の志が本物かどうか。




大敗したここからが勝負だ。




梁山泊の生き残りどもは、この時誰も見れない景色を見ているのだろう。




それは、よりクリアな、宋打倒への道だ。



そして、その後の新たな国の形も…。




情報を制する者がすべてを制すると思っている。



ここでいう情報というのは、単なるデータでもなくインテリジェンスでもなく、目的を果たすために必要なものを見つけられる能力とその情報をそうだと認識することをも含まれている。



うまく表現できないが、帰納法や演繹法では測れないものだ。




禁軍の全力を引き出したということ、軍だけでなく政治面などその他の面でも宋の全体を把握できただろう。



今までとは違う高みで闘える。



ここが強み。




ひとつ先の手を打てるはずだ。





楊令伝。




梁山泊が単なる反乱でなかったことが良かった。まだ、終わっちゃいないんだ。ここは、通らねばならない道なんだとわかった。




小っちゃく考えてしまったなあ…。




志。




自分の人生で成し遂げられるようなものではない。もっと普遍的で、自分が奮い立つ・・・。





真剣に、志を作ります。




宋江は死んだが、宋江が作った志はこれからも人を繋げ、生き続いていく。




人々が目指す光となっている。





俺は、絶望のどん底にある人を包み込み、一歩踏み出させる光を作れるだろうか。




さらなる高みへと人々を案内できるだろうか。




より多くの人へ、どう貢献するのか。




課題はたくさんあります。



以下抜粋


「自分たちの国が欲しいというのは、志を全うすることより、ずっと自然なことだと思う。腹が減ったので、食いものが欲しいという思いにも似ているだろうな、武松」



「私は、梁山泊を見つめている。そして、叛乱とはなにかを、考え続ける」



「戦うことは、つらい。耐えるしかないことばかりだ」



「私が死んで潰れるような梁山泊など、ない方がいい。志は、誰の心の中にもある。私が死んで、なくなるようなものではない。わかるか、私の言う意味が」



敵をどうすればいい、という方法はない。総力戦とは、そういうものだ。耐えて耐えて、敵が倒れるのを待つ。あるいは、自分が倒れる。



「腰抜けが。死なぬかぎり、負けたと思うな。それが、梁山泊の漢ぞ」



「兵たちには、絶えず声をかけてやれ。新しい国のために、志のために戦っていると、語ってやれ。死ぬなよ。勝つまで、死ぬな。すべてが尽きても、命そのもので、敵に食らいつくのだ」




戦の機は、自分で作る。相手には作らせない。



「おまえだけではないわ。秦明であろうと、関勝であろうと、そうであったろう。将軍として一軍を率いていても、中央からの命令には従っていた。つまり、最後はなにも決めてこなかったんじゃ」



「聞煥章様が、試練を与えられることです。そうやって育てられたと、本人に思わせることです」



「いかがですか。自分を失うことなく、闘うことがお出来になりますか?」
「気負わず、臆せず。そうしようと思っている」
「ある境地に、達しておられます。童貫に勝てる、少なくとも宋江殿は勝てる。そんな気がいたします」
「私が負けても、梁山泊が勝てれば、それでよいではないか」
「その境地です、まさに」



「軍人どもは馬鹿だから、信用せん。それに、豪胆そうで、実は臆病だ」



「人は、死ぬものではなく、生きるものだ。宋江殿なら、そう言われるでしょう」
「長く戦をやっていると、見事に死んでみたいと思うようになるものよ」
「わかるような気がします」
「戦は、殺し合いだ。だから、せめて意味があるものだ、と思いたい。梁山泊軍で戦えて、俺は幸せだ。宋主のために、宋国を守るために戦えと言われたら、俺は意味を見つけ出せなかったと思う」
「どこまでだったら、意味を見出せました?」
「たみのため。そこまでかな」




「おまえもな。片脚を失っても、まだ闘い続ける。そうやってはじめて、自分が生きていると思えるのだろう、と俺は感じた」
「まあ、そうなのかな。痛みを愉しんでいるようなところもあります」
「脚を一本なくして、お前、なにかふっ切ったな。そう見えるぞ。よく喋るようになったしな」



「宋江殿も、諦められたのですかな」
「あのお方に、諦めはない。私にない強さを、お持ちだ。闘えるだけ闘おう、と考えられているだろう。それが、戦で死んでいった者たちに対して、唯一できることだと」
「生きている人がいる。それは数多い。しかし、死んだ人間の多さは、無限に近いと思います。無限の死の上に、数多い人の生はあるのではありませんか?」
「なにを言いたい?」
「死は、無意味であると。だから、私は自分で死ぬことができないのです」



敗戦を、どう処理するか。犠牲を、どう少なく済ませるか。張清は、ただそれに腐心した。



「つまらんぞ、燕青。人がいつも、すべてを見せいているとは思うな」



生きることは、別れの連続だった。



人の世で生きるというには、あまりに酷いことが多すぎた。人の世で生きることこそまことの生だ、と王進は言った。それは、これほどの黒々としたものに包まれているのが、生という意味なのか。



「そうか。許されぬか」
「許さないことが、思いだという気がします」



「人にとって尊いものがなにか、旗を観て考えてくれ」
ふと、自分が生きて帰る気さえないことに、楊令は気づいた。
「死ねぬぞ、その旗を持つかぎり。あらゆる人の世の苦しみも、背負うことになる。しかし、心に光を当ててくれる」
「死んではならないのですか?」
「こうしておまえに渡すまで、私は生きていたのだ」
「死にません。もっと、苦しんでみます。光が、ほんとうに当たるかどうか、生きることで確かめてみます」



光はなくても、生きてみせる。どこまでも、生き延びてみせる。
生き延びた果てにも光がなければ、この世に光などないということだ。宋江の血が染み込んだ旗にも、なんの意味もないということだ。



以上
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2012年10月10日水曜日

心にきた言葉集33






「士君子、すなわち国家有為の人物にはできることとできないことがある。君子は他人から尊敬せられるような礼儀道徳を自ら修め行うことはできるが、他人に必ず尊敬させるということはできない。他人から信用せられるような人格を作り上げることはできるが、他人に必ず自分を信用させるということはできない。他人に使われるような才能をみがくことはできるが、他人をして必ず自分を使わせるということはできない。だから君子は自分の行いの正しく修まらないことを恥ずかしいとは思うが、他人から恥ずかしめられることを恥とは思わない。自分に真心のないことを恥ずかしいとは思うが、他人から信用せられないことを恥とは思わない。自分に能力のないことを恥ずかしいとは思うが、他人に使ってもらえないことを恥とは思わない。だから栄誉に誘惑されず、非難されることを恐れず、道徳に従って行動し、正しく我が身を修養し、周囲のものごとのために動かされない、これをまことの君子という。「詩経」に、”穏やかでつつしみ深い人こそ、すべての徳の根本である”というのは、このことをいうのである。」



これは、荀子の非十二子篇のなかの言葉である。



日常で目にする文言や言動など、ほとんどが商業的文脈の中で発せられるものであるのが現代ではないだろか。



つまり、人の道を説く言葉は日常生活の中にはちりばめられていないのだ。



そんな時代に生まれ、どう歴史的役目を果たす人物へと自分を育てられるか。



その答えの一つが古典から学ぶことだ。



上の言葉は、心にきた。と同時に、指針を示してくれ、多少なりとも、私の判断というか価値基準をはっきりと言葉にしたものだと感じた。こういう人間となりたいと思い続けてきた。なかなか現実化できてはいない。覚悟だったり、こう生きると決断していないのかとも思った。



自由とはおそらくこういうことだ。



すべての基準は己で決める。人がどう受け取ろうが、それは相手の問題だ。こちらは関係ない。



自立。



こんなにすごい考えや思想が古典にはあるのかと、いまさらながら古典の普遍さに驚くばかりです。



これからも学ばせていただきます。



よろしくお願いします。



以上
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2012年10月2日火曜日

水滸伝十八(食べる読書127)





最後の闘いが始まった。



漢たちが最後を全うしていく。



秦明が死んだ。



林冲が死んだ。




林冲が死ぬとは思わなかった。



死なないやつだと思っていた。




他にもそれぞれの死を迎えた。



もう、小細工なんてしている時ではない。いまある力を出しきるだけだ。真正面からのガチンコ勝負。




すべてを懸けての闘いが人生の中であるのだろうか。



真正面から、しっかり受け止め、見つめ続けて成し遂げる闘いはあるだろうか。



がむしゃらに何かにむかったことはあるだろうか。



自分を律し、この時のために準備してきたという闘いはあるか。




人生に意味を与える大事なことだ。






以下抜粋



「しかし、嫌いだよ、俺は。宋江殿には、なにかしら大きなものを感じる。李俊殿には、頼れるものがあるし、花栄殿は信頼できる。そう思わないか、張順?」
「俺たちは、俺たちの上に立っている人間のために、闘っているのではない」
「梁山泊のために、闘っているか?」
「いや、それも違う。心の底を見つめてみると、わかる気がするのだ。誰のためでもなく、自分のために闘っているのだとな」



やがて、「替天行道」を渡された。
石勇は、それに心を動かされたわけではなかった。それを石勇に読ませようとする時遷が、たまらなく好きになっただけだ。



「こわいものは、仕方がない、しかし、このこわさが、いままで俺を生き延びさせてもきたのだ」




「人が考えるより、馬はずっと勇敢であり、同時に感じやすい。それを人がわかってやることによって、傷も癒えるのだ。心の傷の方だが」




「時が、それほど都合のいいものだと思うなよ、林冲。眼の前から消えると、それが無上に大切なものだと思う。その思いは、消えぬよ。若い男と逃げて、死んでしまった妻でさえ、私は忘れておらぬのだから」




負けたと思っている兵に、気を取り直させる時も必要だった。負けたことがない兵は、しばしば負けながらも生き延びた兵より、どこか脆いところもある。



大敗しても、まだ優勢であるというのは、童貫にとっては大いなる皮肉であったが、考える時を作ることはできた。




「私は、私にできるかぎりの戦をやります。それ以外に、いま申しあげることは、なにもありません」
「それでいい」




「わしは、山で朽ち果てるはずだった。夢もなく、恨みや憎しみも呑みこんで、人知れず消えていくはずだった」
「それが、派手な余生になったな、解珍」
「それよ。人生を、もう一度生き直したような気がする。そんなふうに思える人間など、どこにもおるまい」
「羨ましいかぎりだ」




自分たちが恐怖を感じているのは、闘わずに負けることなのだ、丁得孫は思いはじめた。死ぬのがこわいのではない。闘わないまま負けるのが、こわいのだ。




具足を着けるのは、好きではなかった。それ以上に、志というもので心を覆ってしまうのに、馴染めなかった。自分が梁山泊に加わったのは、兄貴分の李俊に従ったからだ。




国の不正を糺そうとするなら、梁山泊にいる者はいかなる不正も犯してはならない。聚義庁が追及をしないのなら、自分が罰を与えてやる。




「宋江殿に傷をつけてはならない。失敗から憎まれることまで、すべて自分で引き受ける。それが呉用殿でもある。実戦の指揮を離れた時から、自分はそれでいいと思い定めたのだろうな」




宋軍の兵にも、家族はいる。殺されれば、当然その家族の心には、梁山泊に対する憎しみが芽生えることになるのだ。




人は、さまざまなものを、克服して生きる。自分が克服しなければならなかった、最大のものは、宦官であったということだ。




無抵抗の人間を斬ることに、阿骨打はいくらか気後れを感じているようだった。これまでも、そういう面を何度か見せている。
言い訳のように、あるいは自分を納得させるように、そういうことをいう阿骨打が、楊令は嫌いではなかった。しかし、これからもっと多くの人間を、殺さなければならなくなるだろう。
新しい国を作るとは、多分そういうことなのだ、と楊令は思った。




人の長い営みも、呆気なく灰燼に帰す。戦とは、そういうものでもある。軍と軍がぶつかり合うのだけが、戦ではない。




戦が好きだった。強い者を相手にして、完璧な勝利を収めるのが、なによりの快感だった。しかし、さらにその心の奥を探れば、恐怖があるのかもしれない。負けるかもしれないという恐怖。死ぬかもしれないという恐怖。
そしてそれを克服した時、はじめて自分を男だと感じることができる。
それは心の奥の奥に潜んでいるもので、自覚することは稀である。自覚したとしても、すぐに心の奥へ押しこめてしまう。



「頼むから、乗って逃げてくれ。生涯に一度ぐらい、女を助けた男になりたい」
「林冲殿」
「俺は、女の命を救いたいのだ。女の命も救えない男に、俺をしないでくれ」




「戦には、経験も必要だが、もっと必要なものがあるのですよ、呉用殿」




「大きな組織になったものだ、梁山泊は。ひとつの国のかたちをなしている。それをなすだけでも、想像を絶する苦しさがあったろう。そのうえ、北と南にも眼を配っている」
「私は、呉用殿のお躰を心配していますよ、いつも。私は戦のことだけ考えていますが、戦をする力が梁山泊にあるということは、忘れまいと思います。その力を作られたのは、呉用殿です」




「罵る相手が、いなくなった。私を罵倒する者もおらん」
林冲と公孫勝は、どこかで認め合い、通じ合うものを持っていた。鈍い自分にも、それぐらいのことはわかる。



以上
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2012年10月1日月曜日

水滸伝十七(食べる読書126)




想いを形にする。



私は、そのために生涯をささげたいと思う。




どれだけ自分の思想が現実化でき、それが人々を成長へと導くか。虚なのか実なのか、この目で確かめたいと思う。マルクスの社会主義は、虚であったのだろう。






闘いが最終局面に入った。



関勝が死んだ。



好きな人物のひとりであった。




董平など、他にも多くが死んだ。




闘いとは違った視点での、局面の推移がこの巻にあると感じることがあった。




魯達と盧俊義が死んだことだ。




この二人は、宋江の「替天行道」を形にし、いまの梁山泊を形にしてきた立役者だった。




この二人が死んだ。




時の移り変わりを感じるし、梁山泊のあり方にも多少の変化があるのだろうと感じる。




0から1にはした。これからは、どれだけ大きくしていくか。その本質は変えずに、だ。その役目はいまの人たちが担うことである。呼延灼、張清、史進、燕青などだ。




魯達たちは土台をつくった。われわれが生きるこの大地に根差した生活を実現するため、宋という国を支える民の中に根を伸ばし続け、組織立ててきたのだ。出発はこの足元にあり、これがそのまま基本であり、王道でもある。




思想を形にするために生涯をささげ、そのために生き、そのために死んだ。




敬意を払わずにはいられない。その健闘をだ。成し遂げたのだ。そして、しっかりと次の人材も育っている。この偉業は、ほかの者では成せなかった。




宋江や雷横とは違った敬意の気持が彼らにはある。




感謝。




以下抜粋


「俺のやることのどこかに、穴があるか?」
「穴などない。しかし、穴は自ら穿つものだ、と考えている人間はいるかもしれん」




しかし、ひとつずつだ。ひとつずつ進めていくしかない。




自分の人生が、自分の考え方ひとつで、意味のあるものになるのだと、心に沁みこむようにわかった。あの時のことは、忘れられない。




実戦がはじまれば、調略戦はあまり意味がなくなる。




「われらはみな、梁山泊の民。いまは、力を合わせて宋と闘っている。やがて、勝つ。私は信じているが、それを見ることはできん。私の寿命が、尽きようとしているからだ。多くの者が死んだ。それ以上に多くの者が入山してきた。激しい闘いは、これからも続く。ともに戦えないのは無念であるが、わが魂魄はこの梁山泊にある」




ひと時の感情で決めるな。あらゆることを考えて、決めるのだ。




呂牛という男の弱点は、自尊心なのかもしれない、と燕青は思った。追いつめられた時、人はそれまで隠していた本性を出す。




「ならば、喋ることのないまま、おまえは毀れていく。喋ってはならないものを抱いたまま毀れるのと、どちらがつらいのだろうか?」




「俺は、志を抱いて生きた。志のかぎり、生き続けたかった。しかし、ここで倒れることになった。楊令、この無念さがわかるか。俺は、すべてを達観して、おまえと語ったつもりだった。しかし、心の底の無念さだけは、語らなかった。おまえに、見せようと思ったからだ」




「志を全うしようと思えば、病んでもならんのだ、楊令。俺は病んだ。腹の中にいる病ごときに殺されるのが、無念でならん」




「子午山で、魯達は自分がむかい合うものと、じっとむかい合ったのだと思う。そういう、静謐な時の中にいたようだ」




以上
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2012年9月28日金曜日

水滸伝十六(食べる読書125)




進化論というのがある。ダーウィンが有名だが、環境に合わせるように、自らが変わっていくというやつだ。他の動物にエサを取られないために、キリンは首を長くした。などなど・・・。



そこには、どう生きるのかも同時に示してもいる。



変化のきっかけは環境が用意してくれ、どう変わるかの選択は自分にまかされているのだ。




この巻は、多くの主だった人が死んだ。



裴宣、柴進、そして袁明。



梁山泊と青連寺。どちらも痛み分けのような形となった。



前者二人の彼らが梁山泊を支え、もう一人が青連寺であった。



ここら辺りから、消耗戦の様を呈してきたようだ。



人が変わるのはこんなときだ。



梁山泊、青連寺ともに、彼らが死んだことでここで終わりということはない。彼らが担ってきたことを新たに担う人材は双方共にいる。



新しい人材は、先人の死により花開く。それは、先人が死ぬことで何かしらを得るからではなく、より厳しい環境に置かれるためである。



これまでと同じように生きていきたいなら、これまでと同じようにしていてはいけない状況にだ。



優しい。とてつもなく優しいと感じるべきだろう。環境があなたに生きろといっているのだ。そのきっかけも与えてくれた。



優しさと厳しさが同居している。決して相いれないものではない。アメとムチでもない。




もっと根本的なものだ。




このことに気づけるかどうか。




そのとき、本当の自分を解き放てる。




梁山泊はこうやってこれまでも人材の質を保ってきた。




青連寺がどう化けるかは楽しみではある。




だが、私は、自ら変化をつくり出す人物となりたい。




以下抜粋


自分がここだと思ったところで、すべての力を出しきる。それこそが生きている意味だと、お互いに思っていることがわかったのだ。それも、大して言葉を交わさずに、わかった。



「戦には、陽動という策がある。陽動と見抜いたら、動かぬことだ。動けば、隙が出る。その隙につけこむための陽動だからだ」



「私は、軍人ではありません。ですから、きれいに割り切ってしまうこともできません。政事はいつも、絶対によいというものを選ぶわけでなく、よりよいものを選ぶということですから」



「梁山泊が、どういうところかわかっただろう。そして、ここに留まるべきかどうかも、そろそろ自分で判断できる。人はやはり、人生において、自分で選ぶ時というものを持つべきだ、と私は思っている」



「だとしても、一度だけ訊いてやれ。親が自分に選択させてくれた。後になって、そう思えることは大事だと思う」




「大きな企てばかりを考えすぎていた、とふと思ったのだ」




「人間は、そんなふうに思いがけない自分であることもある。私は、自分を眺めて、おまえよりもずっと愉しんでいる」




縁は、できるだけ躰から振り落としておく。それが、この仕事では大事だった。ちょっとしたひっかかりが、失敗に繋がったりする。



商人が、志などに惑わされてはならない。それは当たり前のことだった。




「梁山泊に加わった時、血などなんの意味もないと悟った。人には、志というものがあると知ったのだ。それは、躰を流れる血ではなく、心を流れる血だとな。私が、晁蓋殿や盧俊義殿に会ったのは、梁山泊ができるずっと前で、私はその時から、加わったと思っているのだがな」




「ありがたいと思え。人にはそれぞれ定めがある。おまえは、悲しい思いと同量の、喜びを与えられている」




「いい思いはした。滄州に居続けていたら出会えないような友に、何人も出会った。なにより、私は自分がやるべきことを見つけて、生きることができた。生まれながらの金持ちであり続けなくてよかった」




「求めるものがあって生きていたのではない、という気がする。どうでもいいことの中で、ただ死に行く人の姿を見ていた」




自分の心の歪みを見つめる、もうひとりの自分もいる。




「男はのう、いい女を見つけたと思いこむと、執着する。無様なほどにな。いい女など、惚れた本人がそう思えばいいことだが、そばで見ていて、嗤いたくなることがある。本人だけが、いい女だと思いこんでおるのよ」




「好きな時に、私を好きなようにできる。私はあなたの身の回りの世話をし、あなたの愛を一身に受ける。私の夢だったのです。それが実現できるのかもしれないのですよ」




「あの、燕青か。梁山泊には、人材が揃っておるな」
「ずいぶんと欠けましたが」
「新しいものを作ろうとすれば、仕方のないことであろうよ」
「ですな」



「いい国を目指せ、公孫勝。梁山泊が、そうやって闘えば、宋もまたいい国になる」




「楊雄、私はこれからの青連寺のありようで、宋という国の懐の深さがわかる、と思っているのだ。李富や聞煥章が残っている、というだけでなく、どういう変わり方をするかまで含めてだ」




「俺は、それを否定しない。俺は梁山泊の人間だから、梁山泊に有利になる話しかしないさ。それが女真族のためにもなる、と判断するのは長老たちの仕事だ。そして、ここにはもう俺の仕事はなくなった」




悲しみを、人に知られたくなかった。それを人に知られるだけで、濁ったものになるような気がした。胸が張り裂ける思いは、実は大事なものなのだとも思った。





以上
またね***


2012年9月16日日曜日

水滸伝十五(食べる読書124)





よく耐えた。



そして、多くが死んだ。



総力戦だった。



通らねばならない道だった。すでにある国に闘いを挑むには、だ。



しかし、耐えた。正確には、兵力の差が響いてくる前に、戦を終わらせた。これが、総力戦。兵力で負けるのなら、それ以外で手を打つ。



しかし、よく耐えたと思う。停戦するまでの間。




これで、次は戦のギアが変わる。




次が本番だろう。




それまで、どれだけの準備ができるか。



次の戦は始まっている。



以下抜粋


「待つことは、戦場へ出るよりつらい。はじめて、それがわかりましたよ」
「ただ、結果を待つのではない。結果の先に、やらなければならないことが、また山ほど見えてくる」
「まったくです。ここですべてを見ていることが、次に繋がる。しかし、それを忘れてしまいそうになります」



いまは宋という国に、正面から闘いを挑んでいる。生きている、という気がするよ。全身全霊で生きている、と思える




勅命という力が動けば、この国は滅びにむかうかもしれない。特に、それが戦に及べばだ。口に出すことはできないが、戦を判断する器量など、帝にはない。




「おまえは、兵たちの気持に火をつけるものを持っている。そういうことでいいのだ。ほんとうに必要な時だけ、弓を遣え」




集まって気勢をあげることと、戦をすることでは、まるで違う、と私は思う。




「すべて、運に恵まれたのだと思う」
「運とは、呼びこむものである。それも、学びました」



人の命運は、自ら切り開くこともあれば、横から出された他人の手で決まることもある。どちらがいいなどとは、言えはしない。どちらも、命運であることには変わりないのだ。




「俺が、すべてを負う。それでいいではないか。負った重みに耐えかねたところが、俺が消える時期だと思うしかない」




そのために手を汚すことは、いとわなかった。汚れるだけ汚れて、これ以上は汚れようがないという時に、自分は多分死ぬのだろう。いまのところ、まだ左腕を一本失っただけだ。




流れに任せろ、張清。あるところまでは、流れに任せておくのだ。




「命というものは、尊い。そして、強く、同時にはかない。そう思い定めるのだ。」
「そう思ったら、なぜ?」
「人の力ではどうにもならない、と思える。生きるものは生き、滅びるものは滅びる。そういうものなのだ、と思える」



「戦は、大枠だけを決めておく。あとは生きものを捕えるように、指揮官が戦を捕えていく。そういうことなのだろう、と思うのですよ」




「宋江殿も、呉用も、そしておまえも、人であってはならないのだ。人を超えたもの、それが、梁山泊を動かす者には求められる。わかってくれ」




はじめたことを、ひとつだけやれ。人に認められるまで、ほかのことに手を出すな




熱いものが、こみ上げてくる。自分には、同志がいる。死んでも、生き返らせてくれる同志がいる。
これまで、強く感じたことのない、喜びだった。




「自分の力以上のものを持ってしまうと、どうなってしまうのでしょうか?」
「持てる力に合った自分になる。人間とは、そういうものだ」




人は、なんによって生きる。志があれば、飢えないのか。富があり、名誉がある。これは、人の本能が求めるものだ。志は、頭が求めるものであろう




「心配するな。私は、おまえの力をこれからも測り続ける。無理だと思うことを命じて失敗したら、それは咎めはせぬ」




以上
またね***



2012年9月10日月曜日

水滸伝十四(食べる読書123)




ついに宋が本気になったと考えていいだろう。二十万官軍攻撃である。



一方、梁山泊は五万にも満たない。



この圧倒的な数・力にどう対応するのか。



これはチャレンジャーの宿命だ。



こういう大戦を前に、個々人の人としての変化もある。



戦はしているが、それは人の営みの中でのことなのだと、当たり前だが感じさせられる。



結婚もあり、史進の裸での乱闘もある。こういうことは面白い。



張平のことは気になる。



人が人となるには、なにが最低限必要なのか。考えさせられる。




志だけでなく、一人一人の人間にスポットを当てているのが、この作品の魅力だ。



以下抜粋


美しさは、残酷であり、同時に非凡でもある



まともなことを、まともに言える者などいないのだ




「恐らく、宋の中でいろいろと齟齬があるのだろう。決戦と思う者もいれば、時期尚早と思っている者もいる。それをひとつにまとめて梁山泊にむかわせるだけの力が、蔡京にはない。蔡京と近い青蓮寺は、国家の意志を体現してはいないのだから。あくまでも、裏の組織なのだ。軍費の扱いひとつにしても、青連寺には難しいところがある」



「孤独で、苦しいと思う。それが、宋江殿の人生ということになる。耐えきれないと思えば思うほど、逆にその資格があるのだ。苦もなく耐えられるという男を、私たちは頭領と仰ぎたくはない」



「私の、どこが頭領なのだ」
「自分はこれでいい、とどこまでも思わないところがだ」



自分が泣くことなどないだろうと思っていた、私がだ。人の弱さも悲しさも、痛いほど伝わってくる。それでも人は生きるのだ、という思いも。そして、どう生きるべきかということも。



「宋江殿は、負けず嫌いだな。意地っ張りと言ってもいい。勝敗は超越したような表情をしていても、誰よりも勝ちにこだわっている。頭領はそれでなければ」



「裴宣、男と女が慈しみ合うのに、罰を与えるなどと、人の道にはずれていると思わぬか。梁山泊は、そういう人間の道にはずれたくなかったから、結成されたのではないか」



「慈しんでやれよ。男とは、そうするものだ。女を慈しむことで、男はさらに充実して生きられる。おめでとう」




「生と死の分かれ目がどこか、考えることはやめるなよ」




「必ずと言う言葉もよせ、樊瑞。すべては、流れの中で決めるのだ」




「なにがよくて、なにが悪い。人にそれを当て嵌めるのは、難しいことです。私は、なにひとつ楊令に押しつけようとは思いません」




長く力を蓄え続けた国と、梁山泊は闘おうとしているのだ。



「十年後は見える。多分二十年後も。しかし三十年後は霧の彼方で、五十年後はないも同じだ。俺はただ、いまを生きたい。生きていると思いたい。心の底から憎いのは、宋だ。しかしそれは、ちょっと間違えば、梁山泊になっていたかもしれん。憎しみは、役人が不正をなすからとか、税が高いとか、そんなところから生まれてはこない。大事なものを奪われた。そして二度と戻らない。そこからほんとうに、生まれてくるのさ。」



「憎しみを抱き、それをどこにむけていいかわからないとき、宋江殿にあった。宋江殿は、およそ憎しみなどとは無縁の人だ。それなら、俺の憎しみは、宋江殿と一緒にいることで、人でなくなるような燃え方はしないだろう、という気がした。ほんとうにそうだったよ、鄒淵。晁蓋殿と出会った時も、そう思った。だから、二人の意見が対立した時は、困ったもんさ」



生と死の分かれ目。すべてを死の方にむけられているとしても、その分かれ目に三日間立っていられる。見たくても見えなかったものが、見えるかもしれない。いま死んでしまうより、ずっとよかった。




「苦しいのかもしれん。しかし、俺がなくなって染むのだと考えると、苦しみも苦しみではないな」




人は、絶対にやらなければならないものを見つけた時は、強くなれる。




「私も、自分が安全である戦を覚えよう。安全であるが、同時に果敢でもある。そういう指揮をしてみたいものだ」



歴史は、覆すためにあるのです。




梁山泊が、結局は凡庸な叛徒の集まりだとしたら、この全体戦で殲滅させられる。
しかし、いままでの戦ぶりを顧みると、必ずどこかで非凡なものを見せる。防御に徹するなどという戦は、しないはずだ。防御に徹するというのは、局地戦の戦術にすぎない。だから、青連寺の二人は、全体戦を闘っているつもりで、いまだ局地戦しかやっていないのかもしれないのだ。



以上
またね***



2012年9月7日金曜日

水滸伝十三(食べる読書122)




この巻を読んでいた時、毎日がいっぱいいっぱいだったからだろう…。



初めて、涙した。



そんなに好きではなかった。



朱仝が死んだ。



壮絶な死だった。



雷横とともに梁山泊へ入った。梁山泊ができる前からの同志である。



この二人は似てる。同じ境遇だからだろうか。



朱仝も、いま己のできることをひたすらやり続けることで、梁山泊を守った。




それぞれの場で、タイミングで…。



何も言えない…。



敬服するのみ…だ。



その死を、その生を、その背後にある志を、想おう。




以下抜粋


「私も、そう思います。人がいれば、どろ泥もできます」
「それを、どう扱っていくかが、政事の問題なのだろう」



「父子の情と、志。そのどちらが強いか、長い時をかけて、宋江にわからせたい」
「志を貫くことは、父子の情をずたずたにすることか。それは面白いな」



「ますます、俺の好みだ。宋江という男の志がどれほどのものか、親父の血で教えて貰おうと思う。人の躰を殺すより、心を殺す。俺は、そちらに関心がある」



「切り捨てなければならないものは、もっと多くある。この国には、無用というより、害になるものが、まだ多すぎるのだ。梁山泊とぎりぎりの闘いをすることで、それはすべてきれいになる」



貧困の中にいる人間が、聞煥章は好きではなかった。当人が悪いのに、他人や政事のせいにする。貧困だけは、それが許される、というところがあった。貧困は、自らのせいである。そこから抜け出そうと思えば、努力でなんとでもなる、と聞煥章には思えた。
そしてまた、貧困の中で立ちあがってきた人間には、どうしようもないこだわりが常につきまとう。時には、それが行動を律してしまう。



緊張していると、見えるものも見えなくなる



「ほんとうに正しいことなど、まずないと思っておけ」




「お互いに縁があって、ともに戦っているんじゃ。肚の底を見せる時は、見せた方がよいのう」



それぞれの出来事は見つめていく。それが全体の中でどういう意味を持っているか、もっとよく考える。



志があった。晁蓋がいた。宋江はまだいる。そして、戦友がいた。
死んだ者のためにも、自分は闘い続けるしかない。



返事をしようと思ったが、秦明は声を出せなかった。
「林冲」
「おう、朱仝」
林冲は、しっかりと声を出した。
「おまえだけには、謝らなければならん。俺は、おまえより先に死ぬ。悪く思うな」
「いいさ、闘い抜いた」
「さらば」
見開かれた朱仝の眼にあった炎が、吹き消したように消えた。



「隊長は、死んだ。みんなよく見ておけ。これが、漢の死というものだ。泣く者は去れ。気を引きしめろ。隊長のために、勝鬨をあげる」



「とにかく、任せるところは任せるという度量を持て、呉用」



「みんな、戦をしている。宋江殿も私も、そしておまえも。戦場で闘って、おまえは林冲に勝てるか。林冲が、おまえのやっている仕事ができるか。そこを考えてみろ。おまえは、もっと大きなところでさまざまなことを考え、実際にそれが行われる時は、現場にいる者に任せるのだ」




「逆だ、関勝。みんなの前で厳しく言うことで、ほかの連中があれ以上責めることをできなくした。そうだと俺は思うぞ。あの二人の呼吸は、そういうものだ」




「私は、生きていると思いたい。その思いを、全身で感じたい。つまらぬことで、惑わされたくもないのだ。私を圧倒するような敵と、全身全霊で闘ってみたい」



「似ている。私になにか欠けているように、おまえにもなにか欠けている。それでいながら、常に生きているという実感を求めてしまう。おまえを好きになれないのは、そういうものが見えてくるからかもしれん」




人は、測りようのない妖怪のような部分を持っている。同時に、凡庸としか言えない部分もある。




「よく見えた。人はなぜ生きようとするかも、見えた。国の姿と、人が生きようとすることが、実は重なり合うのだということも、いまよりよく見えていた」




「人とは、そういうものだ。それぞれが、生きていこうと思った場所がある。そこを動くことは、生きることを否定する場合でもある、と私は思う」




「戦はつらいな、童猛。ついさっきまで語り合っていた者が、死んで行く。自分が死んだ方がずっと楽だ、と私は思うよ」




以上
またね***



2012年8月22日水曜日

水滸伝十二(食べる読書121)





梁山泊にとって厳しい展開になっていく。



しかし、それでも崩れないのは、梁山泊自身も変わっていっているからだ。



この巻では、三人の男の変化があった。



楊春は、解珍との旅により己を見つめ、一皮むけた。これは時間をかけ、変わるきっかけを与えてもらっての成長である。



官軍の関勝は、梁山泊に入った。これは、これからの活躍の場を変えた。そのことで梁山泊はその分大きくなる。



これら二つはこれからの梁山泊を良いほうへと導く変化である。



しかし、必ずしも準備万端整った後にものごとは動いていかない。



いまある危機を脱するには、その場でこれまでの自分を超えないといけない。



盧俊義を救出した燕青がそれである。人間業ではなかった。火事場のくそ力のようだが、おそらく違う。生きているのが奇跡のような状況を超えてきたのだ。敵もどうしようもない。



この変化。


いざとなれば、どうにかする。これまでの梁山泊は、多くの男達のこのような奇跡の上に立ってきたのだ。



おそらくこれからもだろう。



勝ち残るために変わる、そして超える。



以下抜粋


帝が、ただ帝であれば、それでいい。すべてのことが、帝の権威のもとで、進んでいくのだ。つまり、秩序の拠りどころであり、中心なのだ。



帝を暗殺するのがどういうことか、李富には容易に理解できる。帝を秩序の拠りどころにした国のあり方を、否定することだ。そして、帝をただの道具にしてしまうということだ。



「伏す者は、去れ。嘆く者は死ね。ひとりひとりが、自らの足で立つのだ。晁蓋に対してできることは、それだけだ。それぞれが部下のもとに戻り、私の言ったことを伝えてやってくれ。晁蓋が、勝利を待っていると」



生きていることが発する痛み、心が発する痛み。それは思想というより、独白に近いのかもしれない。思想は、独白の底流にあるのだ。



「感じやすい男だ。あの男の拳を見るたびに、そう思う」
「強さと弱さを持て余す。俺のまわりにいるのは、そんな男ばかりだ」
「私には見えるな、梁山泊がどういうところが」



「大きな場が必要なのだ、関勝殿には。器量も、それにしか合っておらん」



「わからんが、なんでもやってみることで、いままで道も開けてきた」



死ぬのは恐れはせぬが、理不尽な死は拒みたい



人には、それぞれ、身の丈に合った勝負というものがある。万余の敵を相手にした勝負なら関勝殿にふさわしいが、牢城の見張りではな



「言うさ。梁山泊は、おまえも欲しい。俺は、人たらしなのだ。どんな人間でも、必ずたらしこんでみせる」



「犬死にか。それもまた人生、という気もするが」



この男は、人とうまく融和しながら、いつの間にか自分の思惑通りに周囲を動かす。そういう揺らがないなにかを持っているから、副官にしたのである。



関勝殿の出方を見ている、と考えるべきです。それには、時を稼ぐことで対抗する。それが良策でしょう



「関勝殿には、どこか稚気がある。それが、人に誤解を与える。はじまりは、そこからでしょうね。特に、遠くから見ていると、稚気の部分は見えず、結果だけがすべてということになる。これが戦ならいいのですよ。勝敗という動かし難いものがあるのですから」




「誰もが、関勝殿の力を認めているからですよ。だから忠誠であると信じられないかぎり、どこかで外へ押し出そうとする力が働くのです。その外が、雄州ならばいい。さらに力が働けば」



「人は、果たさなければならない責務というものは持っている。それさえなせば、あとは好きなように生きたいものだ、と思う。俺はそうだ。卑屈になりたくもない」



「雄州という池は、関勝殿という魚には小さすぎます。狭い池では、魚も大きくなれないと言いますし」



「この暮らしを大事にしたい、という気持ちはあります。しかし、過ぎたものだという思いもまたあるのですよ。ここで静かな暮らしを持った代償は、死であっても構わないのです。意味のある死なら」



「役人の数が、多すぎます。諸国が乱立していたころの役人を、そのまま抱えているようなものです。役人は、以前は仕事を持っていました。実入りになる仕事をです。しかし宋として統一されると、民が商いをするようになりました。生産もです。役人に残されたものは、権限だけです。その権限が、賂を招くのです。それ以外に、昔のように役人が儲ける方法はないのですから」



「浪費そのものが悪ではなく、浪費によって富める者が、ごくかぎられた数だということが悪なのです。働かされる者が、きちんと賃銀を貰えば、それが使われ、またものが、動きます。いまは、そうなっていません。働く者は、徴発され、自らの生産を中止して、労力だけを出すのです。これでは、国は疲弊します。なぜそうなるのか。一部の者が、私腹を肥やそうとするからです」
「人は、欲で動くものだからな」
「その欲を果たすために、賂を使います。これも、民の手には渡りません。民の手にまで動く富が行き渡れば、浪費は決して悪いことではないのです」
「いま、民は無償で駆り出され、働かされているだけだ」
「だから、腐るのですよ。腐る原因は、富める者がごく一部いて、ほかの者がどんどん貧しくなっていくことからはじまっています。それを修正できるのは、政事だけということになります」



「とにかく、やらねばならぬことが、次々に出てくる。人の営みとはすごいものだと、改めて考えさせられる」
「その営みの中で、人は悲しんだり怒ったり、そして喜んだりしているのですね」



学べば学ぶほど、法と実際の社会は違うのだ、と思わざるを得なかった。解釈の仕方で、どんなふうにも法は曲げられる。しかし、人の世を律するものとして、法以外には考えられなかった。



張りつめ、決断する時はもう過ぎた。あとは待つしかないのだ。



「法は、いつでも人のために作られる。どんな法も、最初はな。それから、少しずつ執行する者が都合よく解釈するのだ。そういうことができないようにしても、時が経つとそうなる」



「それぞれの戦がある。盧俊義様も、そう思っておられる。寝ても醒めても、続く戦がある。それは実戦より苛酷だ、と私は思っている」



兵としての強さではなく、人としての強さと闘わなければならない。
「まず、希望を打ち砕く。かすかな希望を抱かせ、打ち砕く。それをくり返すということだな、沈機?」
「まさしく、そこからはじめます、聞煥章様。躰の痛みは、躰を打ち砕くのではなく、希望から打ち砕いていくのです。行き着くところは、死ではなく、荒廃。つまり命はあっても、人ではなくなるということです」
「責める者は、相手の心とむき合い続けていかなければならない、ということか?」
「責める者が、負けることもあり得ます。その時は、なにも得ず、ただ殺してしまったということになります」



「いえ、聞煥章様。そこだけには触れません。恥じているものは、人を頑なにもします。触れない方が、かえって傷つくのです。その傷つき方には、無力感が伴うと思います。だから、頑なになることもありません」



「周囲から、人の気配は断った方がいいのです。たまに現われる人間が、私ひとりの方が。私を待つという心境に盧俊義がなった時は、半分落としたようなものでしょう」
「責めるのか?」
「私が行くたびに、痛い思いも苦しい思いもさせます。殺さない程度にです」
その痛い思いや苦しい思いを、やがて待つようになるということなのか、と李富は思った。



都合の悪い時のための頭領として、宋江は巧妙に晁蓋を使うつもりなのだろう。茫洋として、誠実という印象が宋江にはあるが、無情でしたたかな面も持っているのかもしれない。頂点に立つ男は、そういうものだと呼延灼は思っていた。



人間離れした、異様な力が作用したのだ。奇蹟と言ってもいいだろう。理屈を超えたものは、確かに存在している。聞煥章はそれを認め、敵にそういう力が作用した時は、割り切って諦めることにしていた。いつでも、どこでも、そういう力が作用するわけではない。



ほとんど勝ちを手にしながら、人間離れした力が働くと、最後の最後で逆転ということもあり得る、と痛感する出来事だった。



「人には、いるべき場所というものがある。私は、そう思っています。私のいる場所は、関勝殿が作ってくれた」
「俺のいるべき場所は?」
「自分で作るしかないのですよ。他人が作るには、関勝殿は器が大きすぎる」



「勝手にひねくれていろ。俺はいま、長い友であった韓滔の最期を、ただ語っているだけだ」


「先の先まで考える。百年、二百年先まで考える。それは不遜だと、私は思う。おまえの欠点は、国家のありようというものが、いつもあるところで思考を遮ることだ。国家がこうあるべきだというのは、逃げにすぎん。ありとあらゆる方法で、直面している現実を切り開くのが、われらのなすべきことだろう、李富?」



「私は、どんな手段を使っても、梁山泊を潰したいと思っている。国がどうとか、そういうことではない。私は、宋という国の、青蓮寺という組織で、仕事をすることになった。その仕事を全うすることで、歴史が動くとも思っている。だから、いま直面しているものがすべてなのだ」



梁山泊は、闇の塩を糧道にして、宋を乱している。ならば、こちらも闇を使う。城郭を三つも奪ったということは、世俗にまみれるということでもある。



「楊春殿はまた、楊令が持っていないものをお持ちです。じっと耐える。それができる。苦しみや痛みではないものにも、耐えられます。心が弱い。それを、誰にも頼らずに克服している」



「部下の三人も、私も、関勝殿に運命を懸けている。虚心になっていただきたい」



「生き生きとしているぞ、関勝殿。男は、やはり思うさまに生きるべきだ。私の人生は、関勝殿と出会ったことで、どれだけ救われ、豊かになったかわからないほどだ」



以上
またね***



2012年8月21日火曜日

動きたくて眠れなくなる(食べる読書120)




成長という変化なのかどうかは保証できないが、少なくとも「変わる」という点においてはクリアする。それは今までとは異なるものの見方をすればいい。



しかし、そんなものの見方を知っているということはすでに試し済みといったところだ。



つまり、どういう基準においてかは人それぞれだが、今のあなたのものの見方があなたにとっては最高な見方である。



それでも、自分で納得、満足していないなら、新しい見方を仕入れないといけない。



本書はその手助けになると思う。



「なるほど、こういうふうにとらえればいいのか。」といった内容が多々ある。



より良い自分、理想の自分へ



変・身!!!



以下抜粋


からだの器官がすべて不可欠であるように、無駄な感情なんて一つもない。いますぐ「自分を邪魔する感情がある」という考え方は捨てた方がいい。すべての感情はいつでもあなたの役に立とうとしてくれている。あなたの人生がより良い方向に進むように、24時間見守っていけくれている。



痛みの感情は、あなたに「行動を変えろ」と知らせてくれている。



感情はつねにあなたの人生がより良くなるようにメッセージを送っている。メッセージを受け取ったら、行動を変える。行動を変えたら、感情に感謝して、その感情を手放そう。



「行動力がある人」とは、つまり「行動する感情の状態を作りやすい」ということになる。




明確な言葉に向かって、発想と力が引き寄せられる。
もっと言うと、のぞむ結果を出すために必要な知識や情報を、あなたの意識が自動的に拾い集めてきてくれる



目標の本当の価値は「達成するため」にあるわけではなくて、「感情にスイッチを入れるため」にあるからだ。



現実を見ていやな感情が生まれたら、それは現実がいやなのではない。自分が見ている景色がいやな気持を作っているだけなんだ。その景色が気に入らなければ、もっといい景色を見られるように質問を変えてみればいい。



変えられないことは受け入れる。それ以外のことはなんでも変えられる。変えられることを、変えるのは自分しかいない。



行動までスムーズにつなげるには、頭でする質問に「感じたい気持ち」も一緒に入れてしまうといい。



はじめから「面倒くさい仕事」というものも、「ワクワクする休日」というものも存在しない。それをどう感じるかを決定しているのは、すべて自分の質問なんだ。



毎日同じ人と顔を合わせなさい、同じような振る舞いをしなさいと言われているわけではない。なのになぜか今日も一日、一年前と似たような一日を過ごしている。
それは「私はこういう人間だ」という思い込みと矛盾しないような行動を、無意識のうちにとっているからだ。




「わかっている」は人生のトラップ。
「わかっていないかも?」という姿勢が人を成長させる。



大切なのは「主体的に」思い込むこと。「これを信じられたら、今の自分に都合がいいはず」というものを見つけることだ。



自分の心に、
すてきなほらを吹こう。



多くに人は、自分の思い込みに従えば、自分の望みが叶うと信じている。「生きていくための思い込み」と「のぞみを叶える思い込み」は、根本的に違うのにもかかわらず。



できる人は、できる理由を、
まるで他人事みたいに語る。



多くの人は自分がなにを求めて前進するのか、なにを避けて後退するのかあらかじめ決めていない。だから場面場面で、ころころ変わってしまう。



人生に待ち受けている大きなトラップとは、なにを大切にするか、自分の意思で決めていないこと。そして与えられた環境だけが、それを決めるスイッチになってしまっているということだ。



多くの人はなにかを追い求めることに夢中だが、自分がなにを大切にして生きていきたいのかを考えない。
なぜなら欲しいものを手に入れると、幸せになれる。そう教えられてきたからだ。
でも実際にそれを手にしたときはどうだろう。「あれ?こんなもんだっけ?」と物足りなく感じたことはないだろうか。それもそのはず、自分を幸せにするのは、自分自身のものの見方でしかないからだ。



人生を充実させる質問はいつも、いつまでも変わらない。「自分が本当に大切にしたい気持ちはなにか?」そして「どうすればその欲しい感情が手に入るか?」。



より経験したくないことはルールを厳しく、より経験したいことはルールをやさしくしよう。




小さなことで喜びを感じられるようになると、人生全体で幸せを味わえるようになる。



リーダーの仕事は、部下を反省させることじゃない。
「なんでやらなかったんだ」とフィードバックしてもあまり意味がない。
大事なのは、まずそれをする意義をしっかり理解してもらうこと。そしてそれをすることのメリット(快感)と、しないことのデメリット(痛み)をどれだけ多く伝えられるかにかかっている。



なにか失敗しても、自分のせいにしない。かといって他人のせいにしてもいけない。「どういう行動をとればよかったのか?」を考えるようにする。
自分で法則を作るのは楽しい。信じたいことを信じられるようになり、動けることの範囲が広がっていくからだ。
法則を変えれば、人生が変わる。



自分ひとりでがんばる必要なんてない。
人生の豊かさはチームプレーにこそある。




会話中、意識の焦点を「相手とどこが違うか?」に向けているとケンカになるが、「相手とどこが同じか」に向けて、ちょっとの同じ、ちょっとの同じを積み重ねているうちに、ラポールが作られていく。




コミュニケーションがうまい人とは、抵抗なく相手の世界観に入り込める人。
そして相手に合わせ、自分の言葉の使い方や声のトーン、呼吸のペースを変えることを楽しんでいる人のことをそう呼ぶんだ。




問題が完全に解決する前に、行動パターンを元に戻してしまう。それは問題を解決する過程で「ニーズが満たされない」からだ。人が動くのはニーズが満たされるときに限る。
痛みは友だちだ。問題解決に向かう、小さなきっかけを生み出してくれる。でも大事なのはその後。その小さなきっかけを長期的なモチベーションに変換させたい。



1 変えたいのなら、それは”今”変わらなければ”ならない”。
2 ”私”はそれを、”今”変えなければ”ならない”。
3 ”私”はそれを、”今”変えることが”できる”。



いつも明るい人は、
心の中の言葉づかいが明るい。




たとえば5年くらいかけてじっくり成果を出していきたいプロジェクトについては、「このプロジェクトは、”農業”のようなものだ」と伝えることで、とり組む価値のイメージが伝わりやすい。



メタファーを使って、いまその人が置かれている状況を、サクセスストーリーのある段階にあてはめてあげるやり方もある。
現実の世界も架空の世界も、成功にいたるストーリーはほとんど同じだからだ。



安心してほしい。あなたが負けたまま、物語が終わることはない。
壁にぶつかって先が見えないときは、壁を”サランラップ”にでもたとえて前に進もう。



人生は自分探しの旅ではなく、自分を作り続ける旅なんだ。




「成功とは、正しい判断の結果もたらされる。
正しい判断とは、数多くの経験から可能になる。
もっとも重要なことは、数多くの経験のほとんどが、誤った決断から作られているということだ」



「よしやろう!」を
一日何回言えるかどうか。




どんな夢に向かって、どんな生き方をしているのか。
ただその事実だけが、自分が自分であることを認めてくれる。



ひとは、その最期のときの覚悟をもって、
生きなければならない。



以上
またね***





2012年8月20日月曜日

器(食べる読書119)




心が充満してくる。とうめいで、やわらかく、やさしい感じのあるもので。



幸せと感じるし、もうすでに、満たされているとも感じる。



世の中はもう完璧だとも思える。



この世のすべてが奇跡であり、ありがたいのものである。



笑顔になる。



この本と向き合う時だけ、満たされた感じになるのではなく、日常生活の中でもこのようなときを増やしていきます。



ありがとうございます。



幸せいっぱい、夢いっぱい!



以下抜粋


真に魅力的な人とは、人間的に大きく、さまざまな側面において優れている人であり、それを言いかえれば器が大きい人、器量のある人と言えるのではないでしょうか。



税金って、俺にとっては種をまいているのと同じなの。たとえ悪いかもしれないけど、公務員の人たちって、俺に代わって日本という畑を耕して種をまいてくれる自分のところの社員みたいなものなんだよね。そのおかげで日本全国が潤って、経済という大きな実を実らせることができるの。そしたら今度は商売をして、その実を収穫すればいいんだよ



一人さんって、日本中が自分の庭で、公務員は全員、自分の社員。税務署は自分の監査役と思っているんです。器の大きい人って、考えるスケールも大きいのですね。



逃れられないようなことが起こったとき、それは自分に必要なことなんだって一人さんは言います。




たとえば新商品を考えるときに、お客さんのためになって、それで世間も喜んでくれる商品で、うちもしっかり利益を出すことを考えるの。そして、そのことで天が”まる”をくれる商品だったら、絶対失敗しないんです




成功して社長になったり、偉くなったからといって威張っていると、世間から応援してもらえなくなりますし、天も味方してくれなくなるのです。



私が伝えたい「奉仕の気持で働く」とは、決して無償で働けということではありません。「奉仕の気持で働く」ことによって人は活かされ、その仕事を通してさまざまな気づきや学びを得られるようになるのです。



自分の仕事でけでもつつがなく終わらせるのは大変なことです。さっさと終わらせるためには要領や段取りがよくなければできません。さらにそのうえ、人の仕事も手伝おうとなったとき、その人にはすごい力が身につくのです。
普通の人は、自分の仕事が終わったらさっさと帰ります。それで余った時間は自分のために使うのです。しかしその貴重な時間を他人のために使うことができたとき、その人の器は一段と大きくなります。



自分の限界は「自分には無理だ」とあきらめたときに訪れるものだと言えます。しかし、方法を一つとは考えず、自分の「目的」に思いを広げれば、可能性の幅は広がっていくもの。あきらめずに行動していれば、必ず道は開けてくるのです。目的に対してのやり方は無限にあります。「何度かがんばってみたけど、うまくいかなかった」というのは、やり方が間違っているからではないでしょうか。そのときは他のやり方を探してやればいいのです。



私が手に入れた成功や幸せは、決して何もしないで手に入れたものではないのですが、かといって、それを手に入れるのにすごくつらかったということもありません。正当な努力もしましたし、いろんな困難なこともあったけど、その成功や幸せを手に入れる過程を楽しんでやることができたということなのです。



勝ったときに驕らない、威張らない。負けたときにいじけない、くじけない、そして妬まないということです。



面と向かってケンカするのは問題があるけど、心の中で「ふざけるな!今に見てろ!」と思って、家に帰って猛勉強するの。それで偉くなって、その上司を見返してやればいいの。それで成功したときは「あなたのおかげです」と言えれば、その人の器が大きくなるの。



「必死でがんばる」と言いますが、必死とは”必ず死ぬ”と書きます。たとえば、「あなたはこれができなければ、三日後に銃殺の刑に処する」と言われれば、誰もが死ぬ気になってがんばりますよね。それでもできなかったとしたら、それは今の、あなたの限界なのです。必死でがんばるとはそういうことだと思います。



器って受け皿だから、大きいほうが、より多くの人を受け止めることができるの。でも、一人の人を受け止めるだけの器も大切なんです。
だから、あなたは誰のために器を大きくしたいですかっていうことなの。その誰かを受け止めるだけの器を、一生かけて大きくしていくのが人生なのです



いちばん注意しなければいけないのは、自分の驕りなんだよ。人におだてられて、やらなくていい仕事までして、借金だらけになるのはバカバカしいよね。自分の足元を見て、しっかり歩こうね。



男性で女に弱い人は女で失敗したり、芸能人に弱い人は芸能人にはまって引っかかったりするの。こうやって天の試練は必ずその人のいちばん弱いところに現れて、その人の器量を試すんです。
人生はそうやって、弱いところを強くするという修行なんだよね




自分の心にもない使い方をしたとき、お金を粗末に扱ったことになるの。そうするとお金が逃げて行くんです。
自分が本当に納得しない使い方をしているとき、お金は逃げて行って、入ってこなくなっちゃうの。
「いっぱいあるから別にいいや」って思うかもしれないけど、お金は粗末に扱ってはダメなんです。お金も人も大切なんです。



人間は、心からやりたいときが、そのときなんだよ。



たくさん学び、たくさん実践すれば、人は必ず成功します。そのうえ、そのことをまわりにも教えてあげたら、あなたは成功者のうえに、いい人になるのです。




人は、一生をかけて勉強し、学んで器を大きくしていくのです。そしてそれは、器を大きくしていくという修行であり、人生という旅でなのです。




いつも「不機嫌」は人には、不機嫌な出来事がしょっちゅう起こります。
「中機嫌」の人は、機嫌がいいときもあれば、悪いときもあります。つまり、普通の人です。だから普通の人には、普通のことしか起こりません。
これが「上気元」の人のところにはなぜかいいことばかりあって、さらには奇跡が起こるのです。



事業家は、世の中の流れを変えることができる、とても重要で楽しい仕事なんだよね



世の中にはお金が流れる川があるんだよ。その川にちょっと手を入れると、川の流れが自分のところにスーッと入ってくるの。
どうだい。その川に手を入れて、流れを変えてみないかい?



俺が言う”困ったことは起こらない”っていうのは、困ったことが起きてるんじゃなくて、やり方を変えなさいっていう合図なんだよ。それで一生懸命やってみて、それでもうまくいかないときは、それって本当に必要なのか、それがないと目的は達成できないのかって考えるの。
そうしたときに、本当に大切なことが何かってことが見えてくるんだよね



「人は急に高いところに上るとまわりが低く見えるから、それで怖くなるんだよ。だけど、そのうち慣れるから大丈夫だよ。
それに、恵美ちゃんはお客さんに喜ばれて、世間の人にも喜ばれているんだよね。あとは天が喜んでくれるようなことを心がけていたら、天が必ず味方してくれるから、心配しなくても大丈夫だよ」




うまくいっているときにこそ、相手に、世間に、そして天に感謝。そして失敗したときは、失敗の原因を知り、二度と同じ過ちをしないようにするのです。そのことから学ぶことができれば、失敗も成功への大きなステップとなるのです。
そして、その失敗を克服したとき、その人の器はまたひとまわり、大きくなるのだと思います。




”本当にそれが必要なんだろうか”っていうことがあるんです。あなたが人に「どうでもいいよ」って言えないのは、それは単なるあなたの”我”じゃないんですかってことなの。



人間は機嫌が悪いよりも、機嫌がいいほうが絶対にいい。はたから見て、その人の器が大きいかどうかというよりも、その人の機嫌がいいかどうかのほうが大切なんです。




世の中には、自分の思いどおりにいかないことなんて山ほどあります。それをいちいち、自分の思いどおりにいかないからといって自分の機嫌を損ねていたら、ずっと腹を立てていないといけなくなってしまいます。



偉い人は他人にほめてもらうことより、他人をほめることを考えるの。



花は人に咲かせるものなんだよね。
自分ばっかりが咲いてちゃだめなんだよ。
自分もしっかり咲いて、さらにまわりにも花を持たせてる。
それが俺は器量だと思うんだ




以上
またね***



水滸伝十一(食べる読書118)




大事は小事の犠牲になってはいけない。



なにかを成す際、目的を見失わないため、普遍的な真理だ。



わが道を進むにあたり、これは一つの手段なのか、近道なのか、どうでもいいことなのか、見極めないといけない。



梁山泊の目的は何なのか。何を成すのか。



晁蓋と宋江の意見が分かれているが、梁山泊にとって一つの手段にすぎないように感じる。兵力三万か十万か。



数にとらわれ過ぎてはいないか。



戦に勝つことだけが梁山泊の目的ではないはずだ。戦に勝つのは、目的達成の条件の一つに過ぎないはずだ。



宋江はまだ、明確な国の形を示してはいない。



宋に代わる国をつくるなら、ここを明確にすべきだ。そして、この構想を形にする人物が梁山泊には欠けている。



戦に勝つことで人民の心を摑むのではなく、たんに宋が嫌だからということで梁山泊に取り込むのではなく、宋よりも民にとってよりよい国とはこういうものだということで人民の心を摑むべきだ。



税の扱い方や還元の仕方、他にも食い入る面はあるはずだ。



民のための闘いというのなら、民の新たな生活像を提案すべきだ。それが目的ではないのか。それなしで、三万、十万と唱えても何にもならない。



夢。



ただ、強いものと闘うことが夢だったのか…、晁蓋。



言いたくはないが、



晁蓋は、結局、小事でしかなかった。



晁蓋最期の巻。



以下抜粋


「戦で死ぬのではなく、むなしく死んでいく。それをやっても、揺るがない心を持った者を、私は必要としていた。これは、晁蓋殿や宋江殿に、知られてもならん。あの二人は、志の高潔さを失ってはならぬのだからな。私と二人だけで、暗殺というものが持つ、背徳に耐えられる心を保てるかどうか。そういう人間を、私は捜していた。そして、おまえを見つけた」




「いや。俺は、李俊殿が好きになってきた。人間ってのは、志だけじゃ飯は食えねえよ。だから志を捨てるってわけじゃねえが、きれいごとだけ並べて、戦ができるのかとも思うな」



「いいか、おまえら。隊長というのは、自分ですべてを済ましてはならん。時には、兵に女も抱かせてやらなきゃな。二人とも、それをよく頭に入れておけ」



「俺は、長く放浪を続けましたが、世間を知ってよかったと思ったことは、あまりありません。どこにも、人の愚かさや醜さが満ちていて、心を打つ者など滅多に見ることができませんでしたから」



ただ無頼に生きてきた。そしてそこから得たものはなにもなかった、といまにして思う。



「剣に、邪道などありません。それぞれの剣があるだけです」



「わかる必要はありませんよ。あなたにとって大事なのは、これ以上強くなることではなく、その剣を生かせる場所を見つけられるかどうかでしょう」



「わかっています。ただ暗殺の的にされる。それは運命が尽きかけているからです。それでも強いものがあれば、生から死へ押しやることはできない。尽きかけていれば、そこで死ぬ。運命に対する、ちょっとした手助け。それが、暗殺でしょう」



「わかるか。これが生きているということだ。泣きたくなったり、腹が減ったりする。おまえはまるで、自分が死んだような気になってしまったのだ。それは、死ぬ時は、人は死ぬ。しかし、おまえは生きている。おまえにできるのは、死んだ友のために泣き、そしてその男を忘れない、ということだけだ」



力が及ばなければ死。その覚悟をしているから、自分のやっていることはただの仕事より面白く、刺激的でもあるのだ。



「いや、徹底的に絞めあげたらしい。ただ、史進は強すぎる。多分、強いところで絞めあげる。杜興は、自分の弱いところで兵たちを絞めあげた。だから、憎んだり怒ったりはしても、恐れはしなかったのだろう、と私は思う」



夢があった。男として、その生のすべてを懸けるに値する、夢があった。
夢はやがて、少しずつかたちを持ち、いま、生きたものとして立ち上がろうとしている。間違ってはいない。なにが欠けているわけでもない。ただ、夢が充溢していただけだ。ほかのものが、入る余地などなかった。



「完全を求める李応の気持も大事だろう。完全とは夢のようなもので、行き着くことはないと思う。それでも、求めるがゆえに、前には進めるのだ」



志がどうのと、口で言ったりしてどうなるわけでもない。この男は、人を食ったやり方で、面白いことを試みる。そしてその底に、はっきりと志は感じられるのだ。



「死にたいわけではない。どうでもいい、と思っているだけだ」
「なら、死ねぬのう。死ぬのをこわがってもおらん。そういう人間は、死神も避けて通るんじゃよ」



「私は、おまえと同じなのだよ、聞煥章。自分の手で国を動かす。歴史というものも動かす。それが面白く、人生のすべてを懸けてやってみたいのだ」



以上
またね***





運命を拓きゆく者へ(食べる読書117)





約百年前の人物の言葉。少々現在には少し当てはまらないような論も感じたが、ほとんどは貴重だ。


その内容は、現代でもよく言われる内容ではあるが、昔の視点からの言なので、どこかしら背筋が伸びるような、そういう言い方もあるのかとも感じる。


明治から大正、そして昭和へと日本国が大きく変わっていく時代を生きた人物の言である。


当時と今は、そんなに社会の人々の意識は違わないんだなとも感じた。


厳しい言もある。


どう活かすか。


時代を超え、私を支えてくれ、励ましてくれるすべての先人たちに感謝をこめて、



愛しています。



以下抜粋


自己の範囲はただ己れ一身の欲望を指すものではなく、その発展の方法は自己そのものを損なうものであってはならない。



試練を経ぬ者は世の役に立たない、大きな発展の前には大きな屈折がある



準備とは心の持ち方である。
僕は、心の持ち方以外に自己を成長させるための準備はないと考えている。



学問とは融通のきくもので、それを天文学に用いることもできるし植物学に応用することもできる。



人の上に立つ者は特に意識して、小事は人に任せ、自分の本来の目的を妨げない限り、一歩も二歩も人に譲って、他人の意志に叶うよう努めるべきである。



見切りをつけるとは、新陳代謝の一つの方法なのである。



誰かが落胆しているとき、その人に慰めの言葉をかけたり、その人の涙を拭いてやるということは、消極的にその人の苦しみを減じてやることではない。積極的に新しい力を与えるという意義がある、と僕は思う。



自分の家の門を閉じていて外来の客を迎え入れることはできないのと同様、苦しいときも嫌なときも、思いがけない光が入ってくるよう、心は開いておきたいものである。




宗教をすすめるわけではないが、祈りはそれを防ぐよい手段である。神を信じないなら自分の祖先の霊に対してでもよい。仏に対してでもよいし、自分を超えた何者かに対してでもよい。
そうしたものに対し自分の考えを述べ、力を求めることは、弱いものを強くする秘訣である。頑張る力が足りない者は、このような方法を用いていっそう自己修養をなすべきであろう。



学校は学生に知識を詰め込むのではなく、学校を出てから伸びる力を授ければよいのである。そうすれば学校を出てからも、各人が勉強し進歩することができる。



また一冊の書物を読むときは、一章ごとにその大意を知るように努める。この章は何が目的で書かれているのか、その主旨は何かを章ごとに読む。そして最後に書物を伏せて、この書が書かれた目的は何であるか、その目的に到達する議論はどのように組み立てられるのかをじっくり考えてみるのである。



大切なのは内部の沈黙であるが、外部の沈黙もまた必要なのだ。カーライルは「蜂は暗闇でなければ蜜をつくらない。脳は沈黙でなければ思想を生まない」と語っている。



相手の気に入るように追従したことで、かえって己の愚をさらすことになる。
自分を忘れて相手の気に入るように力んではいけない。



どんなに性質が異なっても、相手を悪くいってはならない。性質の異なる者を受け入れる度量を持つ、そうすることで自分の人間としての大きさも増すのである。



人の批評をしているのを聞くと、批評されている人物より、批評する人物の基準が現れて面白い。



人の悪口をいわないのは一つの克己であり、己を制する方法である。
いいたいことをいわないだけと思えば消極的に聞こえるかもしれないが、これはとても積極的な修養法なのである。




親切の修養法はいたって簡単である。気づいたら必ず実行することである。



習慣は社会の多数に行き渡ったものであるが、最初は個人から起こったものであろう。社会には独創の力はない。世論というものも全国民に一時に起こったものではない。やはり最初は個人個人から発し、それが各方面に伝わったものである。




法律の力だけで成立している社会はきわめて冷やかである。社会にあたたかみを添えるのが親切であり、親切があって初めて社会は円滑になるのである。



書物を十冊読むより、一度の実行が大切である。



人にした親切は忘れる、あるいは大したことではないと思うことである。



人生の目的は何かという問題に入る始めの一歩として、自分は何のためにこの世に生きるのか、と問えば、自分は何をしたら一番自分の心を満足させられるのかという問いに行きつくはずである。



カーライルはかつて、「自分は不幸だといい、常に不満を口にし、あるいは煩悩に陥る者の大多数は、自分を忘れている」と述べた。
つまり、大多数は自分の本分を忘れ、なすべきことを怠り、空想にふけり、得難いものを望み、そのためにますます悩んでいるのである。



偉いということは、天より賜った自分の力を十分に発揮し、自分の務めを忠実に果たし、その天命を喜ぶ‐ということであろう。世間にほめられるかどうかは、偉さを決める基準ではないのだ。



自分はこんなに有能なのに世間が自分を受け入れないといって回る人間の大半は、知人を欺き、不義理をして世間を狭くしている者たちである。
世のために不遇になったのではなく、自業自得なのであり、欠陥のある人間が多い。



小さな仕事をやらせても完全にこれを成し遂げ、余力があっても自分には不足の仕事であると不平を唱えたりしない。己の義務を完全に尽くす。それが立派な人間なのである。
したがって、自分の現在の義務がなんであるかがはっきりわかっている人は、人生の義務と目的を理解する道に進むことのできる者だと僕は思う。
人生の目的を理解するには、自分の生きる目的を理解することだ。
自分のいる場所、就いている職業、周囲の要求する義務を、それがどんなに小さくつまらないものでも、完全に成し遂げることである。



「いかに世が移り変わろうとも、犠牲と奉仕の心も持たずに、人類が幸せになるとは思えません」



以上
またね***



2012年8月16日木曜日

水滸伝十(食べる読書116)




これぞという人物はそうそういない。これが現実。


自分がそういう人物であるかといわれれば同じくらいそうそうない。


この巻全体は、呼延灼を梁山泊へ引き込むために割かれた。



それほどの人物である。実際、官軍として一度梁山泊軍に完勝している。



相手の心を摑む。これが常套手段。そのためには、今の相手の境遇を調べ把握する必要がある。


そして、心が決まるスイッチを押すのだ。


そういう調略は魯達にあっているのだろう。いつのまにか、そういう役回りになっている。まあ、初めからか…。



美しい部分もあれば醜い部分もある。人の生きる姿がそこに見える。


醜い部分には打ちのめされるが、美しい部分には奮い立たされる。そんな反応をしていたんじゃあ、なんにもならないが…。それらを淡々と受け入れ、己の道を進める人物となりたい。


以下抜粋



「土地や屋敷で、男は生きるものではない。人は、土地や屋敷にはついていかんからなあ。見ろ、なにもない俺にでも、ここにいる者たちはついてくる」



汚れていない。それだけに、優れた上官には影響を受ける。



「誰でも、自分の時代が来て欲しいと思う。そういうものだぞ」



「凌振よ。人はいつでも、なにか違うものをいくつも抱えて生きておる。俺は、戦がなくなればいいと思っているが、同時に戦が好きでもあるんじゃ。それが矛盾すると言うのは、人間が一面しか持っておらぬと青臭いことを言っているのと同じじゃ。百年、二百年あとに、戦がない時代が来るなら、俺は、いまだけ戦を愉しもうと思う。それが、人というものではないかのう」



自分が理解できないことについては、拒絶することはない。認められるものを見つけようとする。そういう男だ



死の淵を歩き、片腕をなくした。死ぬ時は死ぬし、死にたくても生き続ける者もいる。いま生きている自分を見ると、そう思うしかなかった。生かされている、などと大それたことも考えなかった。死ぬまで思ったことをやり、死ねばそれで終わりということだ。



志は心にしっかり収いこんでいるが、日々は気楽に、愉しく過ごしたかった。命をかけることでさえ、愉しみたいと思っている。
怒りや悲しみやむなしさや諦め、そういうもののすべてを心にしみこませながら、しかし、なんでもないことにこそ心を動かす。



自分にない愚かさを見ていたのだろう、といまは思っている。いろいろなものに抗いながら、生真面目に生きてきた。だから抗わなければならなかった、とも言える。愚かさは命取りだ、と思っていた。堅苦しい生き方だったのだ。志まで、それに加えた。



役人に対する憎しみだけが、二人からは消えていなかった。それが、梁山泊と結びついている。志を声高に叫ぶ者より、むしろ役に立つことが多い。



それでも耐え続けながら、のしあがろうとするのが男だ。怒りにまかせて、博奕に手を出すのは、もともと駄目な人間だからだ。そう言うのは、たやすかった。
しかし、人とはそういうものでもある。強い人間の方が、むしろ少ないのだ。



自分の悪口も言われているだろう、と魯達は思った。聞いてみたい、という気もする。腹を立てるほどの悪口を言えるなら、張青も捨てたものではない。


酔うと、張青の悪口は露骨になってくる。もしかすると、弱い者に対しては強く出るようなところもあるかもしれない、と魯達は考えはじめた。


宋江には生まれ持った胆の太さがある。豪傑というようなかたちでそれは出てこないが、決断する時は、晁蓋も驚くほど果敢だった。



自分は死ぬのだろうか。ふと、思った。やりたいことを、力のかぎりやってきた。しかし、まだやり足りない。生ききってはいない。夢は、これから拡がるのではないのか。
死ぬかどうかなど、誰にもわかりはしない。ただ、もういいと思うことはあるだろう。
まだだ。これからだ。いまは、そうとしか思えない。それでも、死ぬ時は死ぬ。人にとって、死ぬとはそういうことだ。



「それこそ、戦よ。劣勢の時に踏み留まり、反撃の機を摑むのが戦。呉用、ここは腹を据えよ」



「夢にすぎなかったものが、近づいてきた。すると、どうしようもなく、重たくなってきた。こんなはずではなかったと、しばしば考えるぞ」



これが、死というものなのだ。そう思い続けた。こわくはなかった。安らかな、命を休める場所が、死ではないのか。



「人には、闘うための理由がいるのだ。軍人であるとかということとはまるで違う。人間らしい理由が」



「そんなものは、持っている方がめずらしい。やむを得ず闘う。それが人間なのだと、私は思います。志などと言うと、戦がきれい事にすぎるという気がします」



「死ぬことは恐れるな。しかし、無駄で愚かな死は、禁じる。調練は、これまでより厳しい。生き残るために、苦しい思いをすると思え。俺は、双鞭と呼ばれている。嫌いなのは、二度同じことを言わされることだ」



以上
またね***



科学の解釈学(食べる読書115)




実用的というと、外部に働きかけるすべのことを指すことが多いのではないか。


しかし、ここでいう実用的とはある限定された事象のことであろう。


例えばこの本のようなものは、はたして実用的であろうか。


それは実用的の定義にも拠るので何とも言えないが、少なくともこうは言える。



この本は自分を知る手助けをする。


つまり、外部にたいして働きかけていない。ベクトルは己に向いている。人が認識するとはどういうことなのか、ものごとをどう受け取っているのか。などなど。


だが、明確な答えが記述されているわけではない。単なる考察だ。しかし、この考える契機を与えてくれているという点において価値がある。


己を知ることがすべてを制することになる。



学者は、方程式ができあがったところで満足するが、素人はその方程式から導き出された数値を見ないと満足しない。



以下抜粋


観察とは生まの事実をあるがままに受動的に写し取ることではなく、逆に理論的枠組みに則って事実を解釈的に<構成>する能動的な行為なのである。


観察は理論に依存しているとしても、理論は観察に一義的に依存することはないのであり、その意味で<純粋理論>と<純粋観察>の区別は排棄されたとしても、<理論>と<理論負荷的観察>との区別は否定されてはいないのである。このことは、同一の観察事実を説明する複数の理論構成が可能であること(クワインの言う「理論の決定不全性」)からも傍証を得ることができる。


科学者は常に、一定の<先行的了解>あるいは<先入見>をもって自然に臨むのである。そのような観点からすれば、<先入見>は科学的認識の障害物なのではなく、むしろ認識が<科学的>であるための不可欠の基盤なのだと言うべきであろう。この先行的了解は、いわば研究を主導し規制する一群のルールであり、科学者たちの行動を律する一種の<共同規範>にほかならない。



ここで<通常科学>とは、「特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究」を意味しており、クーンはそれを<パズル解き>になぞらえている。言い換えれば「パラダイム(範型)」とは、現場の科学者たちが暗黙のうちに共有する<価値理念>や<認識関心>の総体であると同時に、より具体的には科学研究を導く指針や手続きの体系、すなわち「何をいかに探究すべきか」という研究のオリエンテーションを行う実践的枠組みのことにほかならない。


近代科学は物理学を頂点とするヒエラルキーを形作り、爾余の諸科学は物理学の体現する精密科学的方法を分有する度合に応じてピラミッドの各所に位置づけられることになった。つまり、学問的価値の一元化が行われたわけである。この学問的価値の一元化が自然諸科学のみならず人文・社会諸科学をもその網にからめ取っていることは、今日の学問的趨勢からして明らかであろう。


科学的諸概念は知覚的経験に一定の方法的操作を加えることによってはじめて成立する。それゆえ、科学理論が照合されるべき検証の基盤は、生まの「知覚的事実」ではなく、<方法>というスクリーンを通った「科学的事実」のほうなのである。


ひとたび成立した「規約」は、法律などの場合と同様に、研究活動を律する超越論的規範として共同体に対する支配的<制度>に転化する(パラダイムは科学者の研究手続きを制約することによって「科学的事実」を創り出すという意味において、すぐれて「超越論的」な働きをするのである)。この支配的な制度と研究上の生産性との間の軋轢が頂点に達し、制度がむしろ桎梏として意識されるようになったとき、パラダイムの交代すなわち「科学革命」が生ずるのである。


言語による<制度化>と<再分節化>の働きによって、この「構造的安定性」は生活世界を分節化する「分類整序体系」とでも言うべきものを形作る。そしてこの分類整序体系は、その中で生きるわれわれの世界経験を可能にするという意味でまさに「超越論的」であり、また個々人の経験に先立って作動しているという意味でアプリオリなものなのである。


「われわれが天使になるのでもなく動物になるのでもない限り、理論言語は、対象領域の諸構造を、別の客体領域の諸条件へ変形することができない」


概念枠とは、経験を組織する仕方だと言われている。それは感覚のデータに形式を与えるカテゴリーの体系であり、個人や文化や時代が眼前の状況を見渡す視座のことである。一つの枠組から別の枠組への翻訳はおそらくできないであろう…実在それ自身が枠組に対して相対的なのであり、ある体系で実在と見なされるものは、別の体系では実在ではありえない。


概念枠が言語に組み込まれている以上、すべての概念枠から中立的な立場に身を置くことは、言語の使用を停止することを意味する。それゆえ、「概念枠」は同定や個体化の基準をもちえない空虚な概念にすぎない、というのである。


この隘路を開く鍵は、ごく単純なところにあると思われる。すなわち、ある「論証様式」の内容を<理解>することと、その「論証様式」にコミットし、それを自らの行為規範として積極的に選び取ることとを区別することである。通訳不可能性のアポリアは、この<理解>という行為と規範に服する<コミットメント>という行為とを同一視することに由来している。


特定の歴史的刻印を帯びた解釈共同体の<認識関心>が、特定の論証様式を選び取り、それを共同規範として承認するのである。それゆえ解釈共同体の認識関心の心の変化は、当然にも一つの論証様式の廃棄と変更あるいは再選択を意味するはずである。認識関心の変化とは、知的活動に関する自己理解の変容と言い換えてもよい。この場合、自己理解とは解釈共同体の成員、すなわち人間がいかなる存在として環境世界の中で生を営むのかについての倫理的決断をも含むものであり、当然にもそれはありうべき社会構想にまで及ぶであろう。それゆえ、いかなるメタ・コミュニケーションのルールを規範として受け容れるかは、解釈共同体の自己決定あるいは関主観的合意に委ねられているのであり、それは絶えざる自己理解の深化と更新とを目指す解釈共同体の、ありうべき未来へ向けての一つの根源的な<投企>にほかならないのである。



特定のパラダイムにコミットすることによって、逆に異なるパラダイムへ接近する方途が得られるのである。それゆえ、理解とは常に一定の立場からの絶えざる「解釈」の営みにほかならない。あるいは、理解には常に一定の視点を反映した遠近法的な「歪み」が伴う、と言ってもよい。しかし、「理解の歪み」はむしろ自己理解の<鏡>として捉えられるべきものである。われわれは異なるパラダイムと出会い、それを理解しようと努めることによって、逆に自己のコミットするパラダイムを新たなパースペクティヴの下に置き直して対象化することができる。それゆえ、「通約不可能性」という概念は、そのような解釈学的経験の一階梯を表す言葉として理解されるべきものなのである。



科学とは「真理の探究」であると言えば、これほど陳腐な決まり文句もまたないであろう。まさにこの陳腐さの中でこそ、「科学」という物語は過不足なく機能し続けてきたのである。


これらの「決定実験」が科学的知識の正統化という文脈の中に組み入れられることによって、科学を囲繞する「啓蒙」と「進歩」のメタ物語を増殖させる神話作用を発揮してきたことの方に注目せねばならない。


仮説演繹的方法を非合理的推測として神秘的に解釈することは、発見のコンテクストと正当化のコンテクストとの混同から生じる。…しかし、科学的発見を説明することは、論理学者の務めではない。彼になしうるのは、所与の事実とそれらの事実を説明するとして提示された理論との間の関係を分析することだけである。言い換えれば、論理学は正当化のコンテクストにのみ関わるのである。


実験による「反証」と理論の「棄却」とは論理的には独立の事柄であり、科学者はむしろ「反例」を未解決の「課題」として意識し、既成の枠組の内部でその解決に腐心するのである。そのような科学者の行動様式を、I・ラカトシュは、「科学者は厚顔なのだ」と単刀直入に言い表している。


決定実験とは「事件の後だいぶ経ってから、つまりある研究プログラムが別のプログラムによって打倒されてしまった時に、ある変則事例に贈られる敬称」にほかならず、その認定は常に「後知恵」によるものなのである。ここにこそ、われわれは科学的発見を顕彰する「進歩」の物語が、その舞台回しとして「決定実験」を必要とする理由を見て取ることができる。決定実験とは、科学の歴史において常に勝者の陣営が掲げる「錦の御旗」にほかならないのである。


現代の科学論は「科学とは何か(What is sceince?)」という問いから「科学はいかに作動しているか(How science works?)」という問いへとその舳先を大きく向け変えたのである。


この産業化科学のあり方を知識生産の様式(モード)の変化として捉える。端的にいえば、「科学(science)」の担い手としての「科学者(scientist)」から「知識(knowledge)」の生産者としての「実践家(practitioner)」への転換である。


科学理論の進展は全体系の攪乱を最小限に留める<微調整>を通じて連続的に進行するのであって、不連続的で急激な<変革>によって行われるものではないことになる。


いわば「パラダイム」的言明はさまざまな関連する補助仮説によって「保護」されているのであり、知のネットワークの内部では、数学や論理学の言明と並んでその中心部に位置しているのである。しかし、頻出する「変則事象」が<微調整>による体系の均衡維持の域を超えたときには、当該のパラダイムは破棄され、別の一群の言明から成るパラダイムによって取って代わられることになる。これが「科学革命」と呼ばれるものである。


破棄されるのは知のネットワークの全体ではなく、あくまでも一群の「パラダイム」的言明にすぎない。しかし、それらの言明はネットワークの中心部に位置するがゆえに、その変更は直ちに体系全体に波及し、急激な変化をもたらす。いわば「パラダイム」的言明の変更は、ネットワーク全体の<布置>を変化させ、諸言明間の<関係の織糸>を更新するのである。



科学を学ぶ学生はある問題にぶつかると、彼が以前すでに出会った典型的な問題のどれかに似たものとしてそれを見ようとする。彼は導く規則がある場合には、もちろんそれを使う。けれども、彼の根本的な規準は類似性の知覚なのであって、その知覚は、その同じ類似性の固定を可能にする他のどのような多数の規準にたいしても、論理的にも心理的にも先行するのである。類似性が見て取られるようになってはじめて、規準を問うことができる。規準を問うことがしばしば意味をもつのもその時からなのである。


名前の指示対象は、その名前を伝承する共同体の歴史的連鎖をたどることによってのみ決定されるのである。それゆえ、指示行為は「個人的実践」ではなく、「共同体的実践」にほかならない。


科学理論は「経験の流れの中に扱いやすい構造をつくるための装置」にほかならず、その優劣は「感覚的経験の処理をどの程度促進するか」というプラグマティックな規準によってのみ判定されるものであったことは、改めて指摘するまでもない。彼が明確に述べているように、知のネットワークの改訂作業に当たっては、「保守主義がこのような選択に現われて、単純性を追求する」のであり、その保守主義はわれわれに生来の自然な傾向性に属するものであり、何らアプリオリな根拠をもつものではないのである。


クワインにとって論理学とは、われわれの観察的経験を組織的に整序し、宇宙体系を最大限の単純性をもって記述するための準拠枠組にほかならない。そして、いかなる論理体系をその記述枠組として選択するかという問題は、あくまでプラグマティックな規準に基づいて決定されるほかはない。


連続的であり、明瞭な境界線が引けないことは、そこに何の区別も存在しないことを含意するものではない。ましてや、一方が他方に従属しており、還元可能であることを意味しはしない。哲学的言明と科学的言明との間には、確かに「種類」の違いは存在しないものの、「機能」の違いは認めることができる。つまり、知のネットワークの中に占める「位置価」の違い、あるいはネットワークの構造力学に寄与する役割の違いである。その役割を、いささか陳腐な表現ながら、「規範的」機能と特徴づけておけば、知のネットワークの内部には、「種類」においては記述的でありながら、「機能」においては規範的であるような言明が確かに存在するのである。例えば、われわれはウィトゲンシュタインの「世界像命題」を、そのような機能をもつ言明と考えることができる。それゆえ、機能における相対的区別を堅持する限り、われわれは認識論を経験的心理学に同化させずにすむ道を、かすかな踏み跡程度ではあれ確保しうることであろう。



それ(信念)は、われわれに一定の状況下での行為の仕方を教示する「行為の規則」あるいは「心の習慣(habit of mind)」なのである。


プラグマティズムとは、あらゆる問題、とりわけ不明晰な観念の意味を現実的な行為の過程に引き戻して、そこで得られる具体的帰結を手がかりにして明らかにしようとする哲学的態度のために選ばれた名前であった。


「真理」という概念は、われわれの探究の過程を外挿した果てに遠望される無限遠点を名づける名称として以外には、われわれはそれを理解するすべをもたないのである。


どの思考もそれに続く何らかの思考をもつという主張は、どの時点もそれに続く何らかの時点をもつという事実に対応する。それゆえ、思考は瞬間的に生み出されるものではなく、ある時間を要するものだということは、どの思考もそれに続く他の思考の中で解釈されなければならないということ、つまりすべての思考は記号的であるということの、単なる言い換えにすぎない。



パースは人間の思考が記号に媒介され、記号解釈の連鎖という形で時間過程の中に否応なく組み込まれていることを明らかにした。そのことは、時間の腐食作用を受けない無時間的に妥当する第一の真理は存在しないこと、すなわち「アルキメデスの点の不在」という事態をこそ意味しているはずである。


われわれは、時間の流れに身を浸し、歴史の重荷を背負うことから出発し、歩を歩進めるほかはない。プラグマティズムの眼差しが向かうのは、「出発点」の確実性ではなく、一歩を踏み出したところに生じる「結果」や「帰結」の豊饒さである。


われわれの認識過程は、まずもって所与の信念体系をわがものとして引き受け、そこから具体的行為へと一歩を踏み出し、そこに生じる帰結に応じて信念体系を改訂するという一連の作業になぞらえることができる。したがって、真理は時間過程の中で、<生成>するものであり、掘り起こされるのを待ち受けて地中に<存在>しているものではない。


「プラグマティズムの真理観の全本質は、次のような公式に要約できそうである。つまり、他の学説にとって新しい真理は発見であるが、プラグマティズムにとってはそれは発明である、と」



対話が「目的志向的」に究極の一致を目指す活動であるのに対し、会話はその外部に目的をもたず、会話の継続それ自体を目的とする活動である。



合理性を市民的教養性と見るプラグマティズムの見方からすれば、探究とは個々の問題に基準を適用することではなく、むしろ信念のネットワークを絶えず編み直すことである。



われわれが使用する日常言語は複雑をきわめた「暗黙の約定」に取り囲まれており、容易なことでは論理の筋道を見通すことはできない。そのため「日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能」なのであり、翻っては「言語は思想に変装を施す」ことにもなるのである。



哲学の目的は思想の論理的な明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。哲学的な著作は本質的に釈義からなる。哲学の成果は「哲学的諸命題」ではなく、諸命題が明晰になることである。哲学は、そのままでは不透明とも曖昧ともいえる思想を明晰にし、その境界を明確にしなければならない。



「理論負荷性」とは観察、事実、データなどに対する理論や知識の認識的先行性を主張する科学哲学上の概念にほかならない。つまり、理論や知識の影響を被らない「純粋無垢の観察」ないしは「生まの事実」なるものは存在しない、というテーゼである。



論理学は<理想>言語に関わるのであってわれわれの言語に関わるのではない、ということであれば、何と奇妙であろうか。というのも、この理想言語は何を表現するというのか。やはり、今われわれが日常言語で表現することを、であろう。そうとすれば論理学はこの日常言語を研究せねばならないのである。



「文脈」とは規則が機能すべき<場>の謂にほかならない。



ウィトゲンシュタインによれば、想像力の行使は「意志の支配下」にあるのであり、それゆえアスペクト転換を経験するためには、いかほどであれ意志の自発性が、すなわち具体的世界から身を引き離して可能世界へと跳び移る意志的努力が要求されるのである。


以上
またね***



2012年8月15日水曜日

ミリオネア・マインド(食べる読書114)




どうやるかではなく、やっぱり、どういう人間かということが出発だと確信した。



どんな人生にするかも、その人生に相応しい人間になればいいんだよ。


たったそれだけ。


そのためにいろいろ身につけるべき考え方だったり、習慣はある。


もっとも自分を輝かせる考え方・習慣を探し、身につけるのが人生の目的を達成するための近道だろう。


以下抜粋


「目に見える世界」である現実を変えるには、「目に見えない世界」を変えなければならない。



財産、健康、自分の体重でさえも、あくまで結果でしかない。私たちは原因と結果の世界に生きている。



「私の内面の思考が、外面の世界をつくり出す」


プログラミングから思考が生まれる。
思考から感情が生まれる。
感情から行動が生まれる。
行動から結果が生まれる。



潜在意識化では、倫理などまるで意味がなく、深層心理にある感情が常に勝つ。



「今までに聞いたお金に関する言葉は正しいとは限らない。将来の幸福と成功のために、ここで新しい考え方を選択し、自分のものにする」



心の中で「お金イコール怒り」という図式があれば、金持ちになればなるほど、怒りが募ることになる。



自分は十分価値のある人間だと信じていれば、十分なお金が手に入るようになる。心が「十分な」状態であれば、「豊かな生活を送っている自分」があなたの自然な姿になる。



妻が浪費するのを見るたびに、私は「妻が将来の経済的自由を台なしにしている」と解釈していた。妻はと言えば、私が妻の浪費を注意するたびに、「生きる喜びを奪おうとしている」と解釈していた。



自分のお金に関する可能性を最大限に活用する



ビジネスの成功も、あなたのお金の設計図次第なのだ。



「私は常に自分の考えに注目し、自分のためになる考えのみを頭の中に残す」



金持ちになれる人は「人生は自分で切り拓く」と考える



お金に縁がないのは当たり前だ。欲しくもないのにオートバイを買ったり、飼いたくもないのにオウムをペットにしてしまうからだ。お金が大事だと思うからお金が入ってくるのであり、お金なんてどうでもいいと思っている人がお金に縁がないのは当然の結果なのだ。



「自分がどれだけ金持ちになれるかを決めるのは、私だ」


自分が責任転換をし、正当化をし、愚痴を言っているのに気づいたら、人差し指で、のどをかき切る動作をする。



金持ちになれる人は「成功と富」をめざす



あなたのゴールが快適な生活なら、金持ちには決してなれないが、金持ちになるのがゴールならば、快適さをとことんまで追求できるようになるということだ。


金持ちになれる人は「絶対に金持ちになる」と考える



大多数の人が本当に望むものを手に入れられないのは、自分が本当は何を望んでいるか、わかっていないからだ。



「死んでも金持ちになってみせる」と言い切れる人はそう多くない。「この先十年を賭けて、財産を築く決意があるか」と聞かれれば、大多数は「とんでもない」と答えるだろう。
金持ちとお金に縁のない人の差はここにある。全力で金賭けに専念する決意がないのだから、金持ちであるはずもなく、この先、金持ちになれる見込みもない。



一日十六時間働く覚悟があるか。金持ちになれる人は働く。週七日休みなしに働けるか。家族や友達と過ごす時間、趣味やレジャーの時間を犠牲にして頑張れるか。金持ちになれる人は頑張れる。成功の保証などないビジネスに、自分のお金と時間とエネルギーのすべてを賭けられるか。金持ちになれる人はそんなリスクをものともしない。



「全身全霊をささげて取り組まない限り、引き返すべきかという迷いや無力感がつきまとうものだ。行動を開始するにあたっては、ある基本的な心理の存在を知るべきである。もしこれを無視すれば、数多のアイデアや計画が水泡に帰すだろう。その真理とは、全身全霊をささげて専念した瞬間に、神意が働き出すということだ。夢にも思わなかった様々な偶然や出会い、物的支援に恵まれるのである」



金持ちになれる人は「大きく考える」



「私たちの人生の目的は、現在、そして未来の世代の人々のために新たな貢献をすることである」



一番幸福な人とは、自分の才能を最大限に活用している人だ。人生の目的は、自分の才能を生かして、なるべく多くの人を助け、よい影響を与えることなのだ。



「私は大きく考える。何千人、何万人もの人に貢献する道を選ぶ」



金持ちになれる人は「チャンス」に注目する



金持ちになれる人は、どんな結果であろうと責任を取り、「絶対にうまくいく。俺がうまくいかせてみせる」と考えながら行動する。



金持ちになれる人は計算されたリスクを取る。事前に綿密に調査し、評価をし、確実な情報と事実に基づいて決定を下すのである。できるだけ短期間で必要な情報をまとめ上げ、やるだけの価値があるかどうかを判断するのだ。



金持ちになれる人は「自分の欲しいもの」に意識を集中させるのに対し、お金に縁のない人は自分の欲しいものに意識を向けることだ。



時間とエネルギーは、自分の欲しいものを手に入れるために使うべきだ。



限られた時間とエネルギーを効果的に使える人が、目標に向かって着実に前進できるのだ。



お金に縁のない人は「起こり得るすべての問題を考慮し、その対策がわかるまでは何もできない」と言い訳しながら、何もせずに過ごすのだ。何もしないのだから、成功するわけがない。



自分の「弱み」ではなく、「強み」に注目する。



金持ちになれる人は「成功者を賞賛する」



「自分の望むものを祝福すべし」



成功した人に手紙またはメールを書く。どんな分野でもかまわないし、個人的に知っている必要はない。その人をどれだけ尊敬しているか、またどれだけ彼らの業績を誇りに思っているかを相手に伝える。


金持ちになれる人は「成功した人」とつきあう




もし金持ちになりたければ、自分の心の設計図を書き換えて、どんなにすごい億万長者も、自分と何ら変わらないのだと固く信じることが必要だ。



金持ちなれる人は、セールスに「積極的」である



積極的に売り込みができないのは、商品に自信がないか、自分の力を信じられないからだ。



「私は情熱を持って、自分の価値を売り込む」



いろいろな本を読み、セミナーのCDを聞き、マーケティングや営業の研修を受ける。



金持ちになれる人は、自分が抱える問題より「器が大きい」



今、大きな問題を抱えているということは、あなた自身の器が小さいということだ。



富は人間としての成長度によって決まる



富を手に入れる人たちは、常に解決方法を見つけることに専念する。問題が発生すると、解決に向けた戦略と計画を練ることに時間とエネルギーを費やし、問題が再発しないよう新しいシステムをつくり上げる。



「大きな」問題に直面して浮き足立ってしまった時は、自分を指さしながら、「小さい、小さい、小さい!」と言ってみる。



金持ちになれる人は、富を受け取るのがうまい



富を手に入れたいと思うなら、選り好みせずに何でも受け取る姿勢を持ち、受け取ったものを大切にすることだ。



「私は受け取り上手だ。大金が転がり込んでくるなら、いつでも諸手を挙げて受け取る」



金持ちになれる人は「成果」に応じて報酬を受け取る



金持ちになれる人は自分に自信があり、自分の価値を知り、その価値をうまく人に伝えるすべを心得ている。



時間で報酬を得ること、イコール、金持ちになる可能性を否定すること。



「就職して、給料をもらっていたのでは金持ちにはなれない。就職するなら歩合制の仕事をしろ。そうじゃなければ、独立するんだな」



金持ちになれる人は「両方とも手に入れたい」と思う



正真正銘の金持ちは、お金と幸福の両方を手に入れなければ意味がないことをよく理解している。



金持ちになれる人は「総資産」に注目する



「何かに注目すると、そこにエネルギーが流れ込み、よい結果が出る」



資産を構成する「四つの柱」すべてに神経を集中させる。所得を増やし、貯蓄を増やし、投資益を増やし、無駄を省いて生活費を節約する。


金持ちになれる人は、お金を「上手に管理する」



お金の管理は自由を束縛するどころか、反対に、あなたをもっと自由にしてくれる。



お金は人生の重要な部分を占めている。自分の経済状態を自分で管理することができれば、人生はすべてよい方向に向かって動き出すだろう。



経済的独立用に10パーセント
遊び用に10パーセント
自己投資に10パーセント
必要経費に55パーセント
寄付用に10パーセント



金持ちになれる人は「お金をフル活用する」



金持ちは賢い働き方をしているから、長い休暇も取れるし、一日中遊んでもいられる。



初めはお金を稼ぐためにフルに働き、その後で自分のためにお金をフルに活用するのだ。



ただ欲しいからという理由で物を買うのは、失望感から解放されたいがための無駄な努力に過ぎない。



浪費や衝動買いは、日常生活での満たされない思いを補うのが目的であって、何を買うのかはどうでもいいのである。



長期的な視点でものを考える金持ちになれる人は、投資のためにお金を稼ぎ、将来設計にもぬかりがない。


「私は自分のお金をフル活用することで、ますますたくさんのお金を手に入れる」



金持ちになれる人は、恐怖に負けず「行動する」



「安易な道に逃げると、人生は困難になる。困難に立ち向かう人に、道は拓ける」金持ちは、お手軽で簡単なことからやろうとはしません。それはお金に縁のない人と中流階級の人たちのやり方です



人間が成長する瞬間とは、その人が快適ゾーンからはみ出した時なのである。



快適さばかりを求めると、行動力や成長すらも阻害されてしまう。快適さは諸悪の根元とも言える。



パワー思考では、すべてが中立で、「自分が意味を与えない限り、何ものも意味を持たない」という前提がある。自分で物語をつくり上げ、それに意味づけをするのである。



「恐怖に負けずに行動する」
「疑念に負けずに行動する」
「心配に負けずに行動する」
「障害があっても行動する」
「不安があっても行動する」
「やる気がなくても行動する」


幸福と成功に直結する思考だけに注意を向ける。



金持ちになれる人は「何でも学ぼう」と思う



「いつもやっていることをやっていれば、いつも手にはいるものしか手に入らない」



「学習し続ける者は地球の未来を受け継いでいくが、学ぶ意欲を失った者は博物館の標本になる運命だ」



成功は、努力して身につけることができる”技術”である。



金持ちになれる人は、成功への道は、「まず人間性、次に行動力、最後にお金」という順番だと理解している。



富を築くとは、「何が何でもお金を稼ぐことではなく、考え得る最高の人間になること」である。人間として成長することこそゴールの中のゴールと呼ぶべきものだ。



最高の収入を得るには、最高の人材であらねばならない。



技術を磨けば、稼ぎも増える



金持ちは常に学び続けるだけでなく、必ず先駆者から何かを学ぼうとする。



「私は常に学び、成長するための努力を惜しまない」



金持ちになれる人は、自分にも周りにも与えるのが好きである



金持ちになれる人は、セミナーに行く



金持ちは、自分の未来にエネルギーを注ぎます。将来のある時から逆算して、今自分が何をやるべきかを考えます。自分の人生に余裕があるので、社会や世界の未来を考えます。



以上
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2012年8月3日金曜日

思考機械(食べる読書113)




人は”虚”によってしか現実を把握できない。その基本的なことを忘れ、論理のみが”実”を映すと考えるのはナンセンスであると主張している内容と見た。


おもしろかった。


「機械は思考できるか?」という疑問に対する著者の考えがこの本にある。


人間の内部で行われている知的活動、思考など。実際は、記憶メカニズムを外部に出したのが、人工知能という。


まあ、納得はする。



人工知能そのものや「機械は思考するか否か」にたいしては、そんなに興味はない。時代は変わり、その精度も質も変わっていくだろうが、どちらにしろ、機械が表現できるのは人間の一部のみである。だから、その一部をどう活かせば、人間はさらなる発展をするのかということに興味がある。


これまで、なかなかつかめなかった自己に眠る記憶装置。それを外部に出すことで、われわれは何を手に入れたのか。それらをうまく活用して、さらなる境地へといっているだろうか。


だが、そのことを知るにも、人間自身を知らないといけない。そうでないと、どこを・なにを目指すのが人間なのかがわからないからだ。


やはり、言葉かあ。このわれわれの最大の武器ともいえる、言葉の制約に縛られている。それが、人類全体の限界をつくっている。


決して、言葉だけで社会が成り立っているとは言えない。しかし、より多くの人、何度でも、といった再現性を満たすには、言葉の力を借りずにはいられない。


言葉では、汲み出せない部分。なぜイチローがヒットを量産できるのか。機械化できない職人技。さらには、まだ言葉を発せない赤ちゃんや幼児の感情や訴えなどなど…。


言葉に変わる思考ツールといえばいいだろうか。そんなものは存在するか?ということもあるが、人類はまだ”虚”を自由自在に操れるようにはなっていない。


だが、だからこその”虚”でもある。このパラドックス。この、あちらを立てればこちらが立たないという状況を打開できるのだろうか。


いろいろ興味は尽きないが、”虚”が次を拓くというのは確かだろう。


未解決の問題の”虚”の部分を少しずつ崩していけば、なにかしらの解決が見えてくるのかなあ。


なんか人類の営みを見るようだ。


以下抜粋

むしろ、虚構性をふくんだレトリックが、世界に意味を与え、世界を変容させる説得の言語装置としていかに機能しているかが肝心なのだ。



言語実践は原始人にとっても本当は事物に対する距離を前提としているのに、ことばが精神的外界、抽象過程としては考えられないのである。ことばが、肉体や自然の動力と混同されて、肉体や自然の宇宙的要素として参加するのだ。ことばと肉体的・自然的現実とのつながりが、抽象的もしくは慣習的ではなくて、現実的で物質的なのである。



高橋氏の意見では、物語とは、「幻想世界(仮の原因と結果の世界)の想定のもとに、解釈不能な事態を仮に解釈しておくという、家庭的解釈回路が成立したとき」に発生したという。


一つの集団=共同体のなかで、伝達され、再生される「解釈系としての物語」は、決して単なる<嘘>ではない。偽りでもない。むしろ、その集団が主体的に選びとった価値体系の表現なのである。



<モノ>としてのコトバを、レトリカルな<かたり>によって組織化・秩序化していったものが、どうやら我々の言語のようである。だが、<かたり>が<詐術・偽り・欺き>という負のニュアンスを持つことからも示唆されるように、様々の錯乱もまたここから生じるわけだ。



むしろコトバの本来の役割は、現実を錯視させ、真実を覆い隠すところにあるとさえ言えるのだ。
コトバは、一回性のある出来事に同一の名称をつけて、あたかも反復可能な事象のあらわれのように見せかける。さらに空疎な概念と情念の入りまじった、恐ろしい構造体を作りあげる。同種族殺しの特異な生物である人間は、永遠に気違いロンドを踊り続けねばならない。言語とは、実に奇怪な呪術装置なのである。


いうまでもなく役者の仕事とは、時空のうちに局限されている、自らの身体の可能性を解きはなつことである。



むしろ、ファジィな日常言語をいかに工学的に扱えばよいかが、取り組むべき問題ではないだろうか?日常言語であらわされる知識を、機械で形式的・合理的に処理するための理論を、研究すべきではないだろうか…?



ファジィ述語からあらゆるファジィネスを除去し、それを正確で厳密な述語に置き換えることができるという仮定のもとでのみ、パラドックスが生まれたのである。


日常言語=自然言語にひそむ<虚>の部分とは、排除すべきものというより、意味創成=解釈の自由をゆるす空間なのである。われわれは<虚>の部分を、自ら主体的に<実>の部分に変えていく。そういう主体的でダイナミックなプロセスこそ、<虚>のひらく豊かな可能性なのだ。


いかなる言語にも共通した、<概念=意味>の構造が存在し、その顕現として、多様な意味表現文があらわれるというものだ。



表層にあらわれる文の奥底に潜んでいるのは、「要素概念から組み立てられた、明確な原言語」ではない。深層意識がつくりあげる、多義的で、矛盾した、「言分けのダイナミック・スペース」なのである。発話文=テキストの奥には、それと様々な位相でかかわっている関連テキストの大群が、未だ不鮮明のままうごめいている。



<トポス>や、そこではたらく<レトリック>というものは、多様でダイナミックな世界において、いかにコトバを使っていけばよいかという議論なのだ。そこでは、論理的整合性ばかりが追及されるわけではない。


「人間は語ることができるより多くのことを知ることができる」



人間は思考するために、ものごとの意味をある程度、<固定化=形式化>せざるをえない。



新しい類似記憶の学習で古い記憶が損なわれるのを<逆向抑制>、古い類似記憶の影響で新しい記憶が妨げられるのを<順向抑制>とよぶが、いずれにしろ、<記憶>というものは相互干渉によって検索されにくくなり、結局は忘れられてしまうのだ。



コトバそのもののなかに、元来「形式化にむかうダイナミズム」が巣食っている。暗黙知の理論がしめすように、人間がものごとの<意味>を認知するときには常に<イマジネーション>が先行する。イマジネーションとは一種の<虚構=期待=思い込み>だから、コトバはかならずリアリティからずれてくる。



ブレを抑え込むメカニズムは、ロジック自体のうちにあるのではなく、学会アカデミズムの相互評価システムを中心とした、我々の社会的努力のなかに存在するのである。



中世までの美術作品には、ふつう署名はない。署名が大切になったのは、近代的な個我による創作が職人仕事に置きかわったルネサンス以降のことである。



人工知能は、分析的な近代知の産物ではあるが、<総合知・普遍知>という性格をも併せもっている。それは、知識の伝達・学習・構造化・組織化などにかかわる、一種のメタ知識(知識に関する知識)を扱うからである。



要するに<普遍言語運動>とは、コメニウスの私淑するアンドレーエのめざした「諸国民のあいだの神秘的な和睦」をもたらす手段だったのだ。



もともとファジィな命題を、形式的推論で組み合わせたところで、全体としての厳密性は保証されるわけではない。
けれども、この<二重構造>こそが、人工知能に<総合知>への道を拓くのである。
なぜなら自然言語は、人間が世界を全体的に把握するための融通無な柔構造をそなえているからだ。宇宙は時々刻々変容していくカオスティックな存在である。それを映すコトバの意味もつねにゆらいでいる。



本来ものごとの<意味>は、時空間に一回かぎり出現する。繰り返しのきかないものである。それは誰でも知っている。だがその<意味>を、人間はイマジネーションという<虚構システム=出来事に先行する仕掛け>を通してしか認識できないのだ。



古代から連綿とつたわる記憶術の究極的段階として、<頭脳=内部記憶システム>の一部をついに外に出した<外部記憶システム>こそ、人工知能コンピュータというしろものに他ならないのである。



人間が自己の内部メカニズムをコトバによって分析し、概念化していくというプロセスを続けるかぎり、その分析結果を機械装置として再現することは(原理的には)可能だからだ。人間は常にみずからの内に、未知のもの、既存の概念構造から新たにハミ出してくるものを見出すに違いない。
我々の<思考>とはそういうものである。そして、<機械>とはそういうものなのである。



現代において、宇宙の全体像をとらえるためには、<比喩=照応>による他はない。言うまでもなく、これは芸術家のまなざしである。<虚>によって<実>をうつす仕掛けである。




以上
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モンタナ・ジョー(食べる読書112)




マフィアだったりギャングだったりには少なからず興味はある。これまで、数本の映画を観たし、アル・カポネの本も読んだことがある。


これまでマフィアなどは必要悪だと思っていた。それは、表の社会だけでは人間の生活をすべて満たせないためだと。もっとも有名で悪名高いアル・カポネが活躍したのは、禁酒法時代である。


表の社会がその悪をも少なからず飲み込んでいれば、裏社会はその分小さくなるのではないかと思っていた。



しかし、本書を読んで少し見方が変わった。



日系二世の男の物語。



生まれも育ちもアメリカで、心もアメリカ人のつもりだが、まわりからは「ジャップ」と馬鹿にされ、差別され、侮辱されてきた。第二次世界大戦中は排日運動が激しく、強制収容された。そして、日系人で構成された軍の部隊で戦場に行き、戦う。



そんな、排斥や迫害の中を飛び出し、自分の力で自由に生きるようとする。



つまり、ギャングを生み出す土壌がある。そんな時代がある。社会がある。そして、ジョーのような男が生まれていく。



いま現在、裏社会はどうなっているんだろう。規模は大きいのだろうか。


少なくとも日本は縮小しているのではないかと思う。そういう、やくざになる人が生まれる土壌は昔ほど減っていると感じるからだ。それは、いろいろな面での、改善が挙げられる。生活水準、差別、弊害、迫害などだ。


そう考えると、中国がいまは裏社会が大きくなる土壌にあるのではないかと思う。都会と田舎の経済格差が激しく、いまだに解消はされていないからだ。また、都会に流れてきても、オリンピック・万博の終った都会では、仕事はないだろう。


そんな現実への不満・怒り・または劣等感などをどう消化していくか。たいていの人は、ギャンブル・酒・麻薬・女などで気を紛らせ、自分をごまかすことで過ごしていくのだろう。そして、そういう人が増えるということは、その市場が大きくなるということで、その事業を扱う者が大きくなる。いわゆる裏組織だ。


需要と供給にとっては、裏も表もないのだ。このルールさえ押さえておけばどの世界でも勝てる。この本を読んで思ったことのひとつだ。


実際、ジョーは事業展開や、先を見通す眼も持っていた。だから、ファミリーのトップに成れた。



今後マフィアやギャングなどがいなくなることがあるのかどうかと問われれば、そういう社会を創ればいいと答えるしかないだろう。誰もが、生まれた時から十分な愛情を注がれ、精神的に健康で、幸せであるような社会をだ。


だが、そんなものは吐き気を催すほど、逆に気持ちが悪いと感じる人が多いだろう。そんなのは人間を侮辱しているとも感じる。


要は、どう自分と社会とを調和させるかだ。侮辱されたからといって殺人を犯す理由にはならないし、逆に偉くなって相手を見返す理由にもならない。そうなる理由は、ただ一つ、自分でそれを選んだから。別に、過去がどうだっていいんだ。


松下幸之助は、小学校しか卒業しなかったから人の話を聞けたし、何でも人に相談できたという。


別にジョーの選択が悪かったと言いたいのではない。その土壌があった。だが、それは単なる環境だけで済ませる問題ではないのではと思う。


裏社会を否定するつもりもないが、なぜ裏社会が存在するのかについては興味がある。必要だから裏社会はあるのだろう。それはニッチなマーケットかもしれないが、だ。必要なのに、なぜ、表へ出られないのか。そこが知りたい。


水滸伝の梁山泊は、宋という国にとって裏なのであろうか。おそらく違う。段階的な面でいえば、裏と見える段階もあるだろうが、目指すところは国であり、宋と並ぶことだ。つまり、表でありそれを創り出していっている。


一方、裏組織はどうであろうか。目指すところが見えない。麻薬・ギャンブル・売春などを生業としているのだろうが、それらに共通する面がある。


人間の弱さだ。


社会の中で満たされなかった愛情などを麻薬などで補う。いうなれば、表の取りこぼした自尊心といった何かしらの人間を保つものを補う受け皿といったところだろうか。つまり、ハイエナのような残り物をあさっている感じだ。表の市場の残り物を補っている。ほんの少しの残りかすだ。


なぜ、残りかすなのか。残りかすは残りかすだからだ。それらが未来をつくることはない。栄養もないアスファルトやコンクリートの壁でも咲く花のように、自ら生きるために養分のあるところまで自分を伸ばすようなものではないのだ。たとえ、真っ黒な雲に覆われ、光も届かないようなときでも、その雲の向こうに太陽があることを信じて自分を奮い立たせる人間ではないのだ。需要側も供給側も。どちらもただのマスターベーションをしているにすぎない。


市場が補わなかったからなんだというんだ。自分で補え。いやむしろ、自尊心などは自分自身で満たすものだ。



だが、どうしても、人間は、こんなにも弱いものなのだ。



その弱さを知る。そして、その弱さと興じる。戯れる。


弱さを楽しむ。この楽しさを知れば、ギャンブルや麻薬などは、見向きもしなくなると思うのだが、どうだろう。これほどの楽しみは、人生においてはないし、これが人生ともいえる部分だ。



”目的”、”目標”がそれを成しうる。


そういう意味で、目的や目標について語る人、または考える機会があれば、たとえ厳しい現状であっても、むやみに裏社会へは流れないだろう。



社会はそれ自身を維持するために存在している面がある。自分を脅かす存在は排除したい。だから、人間の弱さは裏で処理されるのではないか。


目的、目標があって初めて弱さがある。目的達成のために目標を立て、人は成長する。しかし、人の弱さはそれとは逆の働きをする。目標を達成したいけど…、しない。つまり、怠慢、無気力、責任転換、などなど。


社会は多くの人の成長のうえに成り立っている。先代から学び、次世代へ伝えていかなければいけない。その循環は、成長の力によってまわっている。


だから、社会は人の弱さを表に出さない。弱さを中心に社会はまわっていないからだ。成長を中心に回っている。それは、人の強さの表れだ。




裏社会を否定しているわけではない。ある意味、人間の弱さと調和しているのが裏社会なのだ。そういう意味で、愛でるように愛しい。大事な自分の一部なのだ。この社会で生きているうちに捨て去った自分の一部がそこにある。だから、人はマフィア映画やギャング映画などを見るのだろう。


かつての自分。


ジョーやその仲間たちにその一面を垣間見た気がする。


だが、俺は違う選択をするからよ、ジョー!



以下抜粋


思ったことは何事も怖がらずに最後までやり通すんだ。やり通せる強い男にならなければならない


自分が置かれた状況をいつ何時でも冷静に判断し、最良の選択を下す。そしてその状況の中で、常に最高のパフォーマンスを残すこと。それが可能だったのがジョーであり、そしてこの資質こそが、その後ジョーがマフィアの世界で生き抜いていく上でも最大の強みとなるのだった。



彼は人間が何に縛られ、なにに足元をすくわれるのかを知っていたのかもしれない。祖国の血、親兄妹の絆、頂点に立とうとする野望の行き着く果ての虚しさ。そんなものが、振り返る一瞬の隙も与えずに一人の人間の生命を奪うことを彼は熟知していた。事実、彼はそうやってのし上がってきたのだ。



すでに暴力で他を圧倒するマフィアの時代は終わった…。冷静にそう見極め、「企業体」としてのマフィアを存続させる才能の持ち主だけが、この世界で生き抜く権利を獲得できたのである。



一度抗争に火がついてしまえば、鎮火するまでには両者ともにそれなりの犠牲を払うことになる。それはマフィアの世界では避けられないことだ。



「エディ、男というものは、何事も一度決心したら最後までやり通さなければいけない。そして、決して死を恐れてはいけない。死を一瞬でも恐れたとき、もうそいつは男じゃないんだ」



エディは愛する人の死を心底恐れていた。



人間の欲望が最も強く表面に出ているのが、マフィアの世界というものだ。そしてマフィアの世界は互いの信頼で成り立っているといっていい。だが、それは裏返せば、信頼が不信に変わった瞬間に、すべてが驚くほどもろく崩れ去るということを意味している。昨日の友はあっけないほど簡単に今日の敵となる。そして自分が生き抜くためには、敵を殺すだけである。そのルールに則って生き抜き、そして同じそのルールに従って命を落としたのがマガディーノだった。



以上
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2012年7月31日火曜日

水滸伝九(食べる読書111)




ひとりの女のためにすべてを捨てる。


林冲はそういう男だった。


それが林冲らしいともいえる。


それが弱さでもあるし、魅力でもある。



梁山泊一の豪傑の、まさに人間らしい一面が見れて、何というか、人間の奥深さと広さを感じた。



鄧飛が死んだ。かつて、魯智深をひとりで救出し、今回は柴進を救出した。



こういう男は嫌いじゃない。



不器用で集団行動はとれないくらい我がつよいが、自分なりの芯を持つ。



心に響いた。この男の物語が。



以下抜粋


人に頼んで入ろうとする。それは間違いなのかもしれん。


宋江の夢。ふと思った。宋江とともに抱いた、歴史を変えようという夢。それさえも、自分は捨ててきていた。



「鋭いというより、読み方が違う。おまえは、事実を分析し、積み上げ、結論を出す。袁明様は、報告書を書いた人間を見ようとされる。つまり、弱いところを摑むのがうまい」



「威すしかあるまい。なんなら、人質を取るとか」
「それもよかろう。もうひとつ方法があるぞ、聞煥章。牢城にいる山師を使う。釈放という条件だけで、本気で働くだろう。いい山師を、まず牢城に放りこむ、という手もある」



ものが大量に動けば、疑心を抱く


国というものについて、自分は考える資格があるのか。志を、しっかりと抱ける人間として生きているのか。



無駄なことをいっぱいやって、なにが大事なのかわかるんじゃないか



もう走れない。そんな気が、しばしば襲ってきた。
自分はいつも、ここでやめた。そう思った。ここでやめるのは、途中で投げ出すということだ。そんな生き方しか、いままでしてこなかった。



「袁明は袁明で、志を持っている。いまは強くそう思う。宋との戦は、志と志の戦でもある。まことの正義など、誰にも見えておらん。自らが抱いた正義を、まことと思うしかないのだろう」



「なにが、軍法です。そんなものが、人より大事なのですか。それは、軍法が必要だと言って作ったのは私であり、否定するにはいくらか気後れもありますが、人がいてこその法だ、とも言えます」



「いや、ほんの些細なことだが、やさしさの中にいることが、楊令をしばしば戸惑わせているのではないか、と思う。楊令は、やさしさを求めてはおらん。強さを求めておる。しかし注がれるのはやさしさばかり、という状態ではないのかな」



「楊令は、強さがなにかも知らぬまま、ただ強くなろうとしている。梁山泊にいる限り、ずっとそうであろうな。強いが、その強さが歪んでいる。そういう成長になりかねんな。といって、わしに方策があるわけではないが。とにかく、梁山泊にいるかぎりは」


男なら、時には本心を剥き出しにせよ。それで駄目ならば、縁がないと思えばいい。


考えるだけでなく、決めるのだな


「気力を失う者が、二竜山に、いや梁山泊に多くなってはならぬ。みんなそれぞれに、働いているという自覚をも持たせることだ。それで、兵はいくらかは負傷も恐れなくなる」



「林冲、おまえは人の心のままに動いた。人が人の心を持てる国。これが、梁山泊が目指している国でもある。おまえは、人として間違ったことはしなかった。しかし、軍規というものがある。死罪は私の苦渋の選択なのだ。わかるな?」



「人として間違ったことはしなかったが、軍人として間違った。そういうこともあるのだと、私はいましみじみ思っている。人として間違っていないおまえを処断することは、私にとっては痛恨のきわみである。私は、自裁しようと思う。私が死ぬことで、はじめておまえに死罪も申しつけられる」



「全員が、林冲を罰するべきだと言う。しかし、死罪を望んでいる者はいない。軍規もまた、いたずらに人を死なせるためにあるものではない」



人は、正しいと思ったことをやれば、泣きたい目に遭うこともある。そう思った。



「人生も、捨てたものではないな、馬麟」



少しずつ特別ではなくしていこうではないか。それこそが、人の集まりというものだろう。特別であればあるだけ、その存在が消えた時、集団は危機に陥る。結成されたころと較べて、梁山泊は大きくなった。そういう時こそ、私の言ったことを考えるべきなのだ。小さいころは、まだよかった。梁山泊の質そのものも、変わるべきなのだ



「宋江は、いつも本気だ。愚直と思えるほどにな。だから、みんなが慕うのだ」



「自分をくやしがるだけでは、なにもできんぞ、李袞。やれることをやれ」



ほんとうに欲しいのは、自分が生き延びることなどでなく、仲間だった。ともに、闘える仲間。死んだら、泣いてくれる仲間。



「なんのために生き、なんのために闘うのか、わかっていない男だった。だから、誰もが持っている卑怯さ、臆病さが、自分のすべてだと思いこんでいた。小さな山だけを自分の世界にし、そこを拡げようとさえしていなかった」



この正直さは、将校としての資質と言ってもいい。強がりより、正直さの方が、よほど強く兵の心を摑む。



「ああいう若者が、この国には多くいるのだろう。気概を持った者は、自分で梁山泊を目指してやってくるだろうが、どういう気概を持てばいいかもわからず、ただ流され、それが耐え難いと思っている若者が。晁蓋殿、そういう者を見抜いて眼を開かせるのも、大事なことだ。眼さえ開けば、気概だけの者よりずっと本物になることもある」



商人は、志などではなく、利で動く。



名簿を読むだけでも、人の思いも生き方も、さまざまなものだと改めて思う。それが、志のもとに、ひとつに集まっている。こんなことがあるのだろうかと、信じられないような気分に、しばしば襲われた。



躰は鍛えているか。心が挫けてはいないか。自分を男と思えるか。
考えただけで、心がふるえた。



「急ぐ時ほど、肩の力を抜く。そうすべきだということが、私にもようやくわかってきたようだ」



「堅陣は、兵に安心を与えます。心に余裕のある兵は、なかなか算を乱しません」



俺たちはな、いま人のやれねえことをやろうとしている。わかるか。


「ここで、踏ん張るのよ。三日、四日眠らねえから、なんだってんだ。男はよ、語り継がれるようにならなきゃならねえ。わかるか、楊林。あいつはすげえって、みんなに言わせるんだ。いまだけじゃなく、俺たちが老いぼれても、死んでもな」



「俺が、命を預かる。無駄死はさせんが、死なせることをためらいもしない」



冷たい風が吹いていた。時々砂が舞うが、空は晴れている。
俺が、語り継ぐ。兄貴のことは、俺が生きているかぎり、語り継ぐ。
空にむかって、呟くように楊林は言った。





以上
またね***



2012年7月28日土曜日

大富豪の仕事術(食べる読書110)




http://123direct.info/tracking/af/346595/dVZwZj1O/


ノウハウではなく、考え方が載っていると感じる。


しかも、具体例を挙げての考え方なので、「その考え方があったかあ!」という印象は受ける。



なんだろう、ちょっとした思考の変化、視点をずらすといったとこだろうか。


しかし、そのずらすのは小手先レベルではなく、自分の目的と整合性があるかといったところかなとも感じた。



机上の空論ではないのは確かだろう。実践に裏打ちされているのだ。



この本も、何度も読んで自分の一部としたい本である。


以下抜粋


彼ら(成功する人たち)は勝算がどれくらいかを見極めている。そして、勝ち目がまあまああれば、大胆かつ精力的に進む。


失敗のコストは行動しないコストに比べればそれほど大きくないことを、成功者は経験から知っている。失敗の意味は、今度はもっと賢くやれるということである。



成功する準備ができているなら、あなたがすべきなのはそれだ。すぐに始めること。ただし、ほかの人々によって十分効果があると証明された戦略を使わなければならない。



マスタープランが有効であるためには、現実的で柔軟性がなければならない。資源や能力について現実的でなければならず、状況いかんによっては調整、および/または大幅に変更する必要がある。
正しく使えば、マスタープランは奇跡をかなえることができる。


自分の夢を実現したいのだったら、夢をゴールへえと変えていかなければならないのだ。



自分のコア・バリューに従って生きているのでなければ、どんな成功を手にしようとも、心が晴れるということはあり得ない。



幸福とは、自分の価値観が達成されたときに生まれる意識の状態のことである。



生産性というものは、偶然に達成できるものではない。自分を高め、周到に計画を練り、集中して取り組んだ結果である。



その日の計画を立てなければ、結局、自分のためではなく、他人のために働くことになってしまうのだ。



自分で時間を管理するには、自分だけのためにつくった課題リストに従ってその日の計画を立ててしまうのが一番である。



日記をつけているとき、ゴールを決めることは最も生産的な部分を占めている。最高に楽しいことではないのかもしれないが、長期的な計画を成功に導くためには欠かすことのできないものなのである。




よりよい人生を送ろうと思うなら、調子のよい日が続くようにすることだ。それには、自分の決めた優先順位に従って、特に重要なことを最初にすませるように、毎日の予定を立てるのが一番である。



自分の人生を変えたいと思うなら、元気で力に満ちあふれているときに最も重要な課題に取り組むことで、向かうところ敵なしの強さを自然と身につけてしまうことだ。
早起きしよう。早くオフィスに行こう。そしてまず、重要だが緊急ではない課題に取り組もう。



重要なのは、自分にとっての最終的なゴールを心に留めておくのに一番役立つことをするということである。



この課題をどうやってすませるかとか、あの問題をどうやって解決するかということを考えている。富と成功は、きちんと計画を立て、それに従って行動することで手に入れられると知っているからである。



言いにくいこと、批判的なことはメールには書かない。書いてしまうと、片づけるべきメールがさらに送られてきて、混乱するだけだからだ。肯定的なことなら、すかさず返事が書けるだろう。すぐに説明できないようなことなら、会って話すか、電話をかけるようにする。



自分自身に対するイメージが変わってしまうと、モチベーションが長続きするようになった。



可もなく不可もない活動の大きな問題は、私にとっては非常に大きな問題なのだが、活力が湧いてくるどころか、無気力にさせられ、空虚な気持になってしまうことにある。可もなく不可もない活動は、可もなく不可もない食事(満腹感の得られる食べ物など)のようなものだ。腹は満たされても、疲れ切ってしまう。


自分でコントロールできないことはコントロールできない。しかし、それに対する反応の仕方はコントロールできる。



「誰もが知っているとおり、人間は幸福を追求するのではなく、幸福になるための理由を探し求めているのである。(中略)一度、意味を探し当ててしまうと、幸福な状態になるとともに、苦痛に耐え忍ぶ能力をも手にすることになる」



彼らは、行動からモチベーションをつくりだす。



ゴールを持ち、そのゴールの達成を最優先にして、毎日それに基づいて行動する方法を見つけなければ、成功する可能性は非常に少なくなる。



唯一の目的から注意をそらすことは決してなかった。



1、長時間、懸命に働く
2、1つの目標に集中し続ける
3、成功するためには犠牲を厭わない



自分の中にある燃える思いを見つけなければならない。あなたの人生を生きるには、その思いを利用しなければならない。



達成したいゴールに取り組み、マスターしたいスキルを練習して、脳のネットワークを書き換えよう。



行動‐行動だけが、脳の大脳辺縁系の記憶を書き換えることが可能で、あなたを真の「成功マシン」に変えられるのだ。




失敗促進の原則はこうだ‐複雑なスキルを伸ばすためには、進んで間違え、失敗をがまんすること。間違いを犯し、その失敗で苦しむ時期が早ければ早いほど、スキルを習得するスピードが速まる。



私は、この書かないことに対する言い訳を正当化しながら、夢をあきらめるときに多くの人の心に芽生える自己欺瞞の構造を構築していった。



・自分のゴールは現実的か。以前にやったことはないか。もしあるのなら何度か。試したけれどうまくいかなかったのはどのくらいの頻度か。数字から見て、成功する確率はどのくらいか。
・ゴールの実現に必要なものを持っているか。知恵は働くか。学ぶ力はあるか。成功するための心のスタミナはあるか。



疑念は信念の反対ではない。信念の要素の1つである。




ゴールを書き出して、定期的にチェックしていると、達成できる可能性がずいぶんと高くなるという。



どんな組織でも、権力は否応なく人を説得するスキルをマスターした人のところに集中する。手段は、インターネット上だろうと、電話だろうと、あるいは面と向かってだろうとたいして関係ない。重要なのは、自分のアイデアが価値あるものだと相手を納得させる能力だ。



長期的に見て人生の質に最も大きな違いをもたらすのは、話術を向上させるといった重要だが緊急ではない課題なのである。だから、それを最優先事項にしなければならない。



重要なのは読書リストによって一年に一度、何を読むかを意識的に考えて決められることだ。衝動で決めるのではない。誰かに勧められて読むのでもない。
何が自分に役立つかについて自分自身で判断する。探しているのは「金」で、それ以外のものに費やす時間はない。



たいていの事業では、成功するためにすべてを知っている必要はない。



精神的な生き物である人間の意識は、常にエゴの収縮と弛緩の間を行き来している。自分本位の収縮的な衝動は仕事や創造的アートの原動力になるが、緊張、病気、絶望の原因にもなる。分解への衝動は愛情関係の源だ。それは私たちをリラックスさせ、自己の最終的な分解、すなわち死を受け入れる準備をさせる。



金持ちになるには、どれだけポジティブな人間か、あるいはネガティブな人間かではなく、具体的な行動をとることができるか、できないかによって決まる。


時間だけは誰にでも等しく、一日24時間が与えられている。その時間で何をするかが、あなたの成功と幸福を決めるのだ。



新規事業や新製品を立ち上げる際には、どうすれば最速で収支が合うようになるかを考える。



成功している企業家は、事業経営のために専門家を雇ったりはしない。自分の頭で考える。新製品や新規プロジェクトを動かすときは人を頼らず、必ず自分でやり遂げる。余計な仕事がどっさりあるとストレスになるし、時間を消費するかもしれないが、長い目で見ればそれだけの価値はある。プロジェクトに対する理解が深まり、非常に有益なものとなる。



生まれつきの知能は問題ではない。


商業の世界で問題になるのは、あなたの「考え方」だ。



新製品を見ると、「自分の業界で、同じか似た製品を生産するにはどうすればいいか?」と考える。


億万長者の思考法を持つ人は現実主義だ。常に自分の成功とほかの人の成功を分析し、そこから同どうやって学ぼうかと考える。



億万長者の思考法を持つ人は先を見越して行動する。


億万長者の思考法を持つ人は「成功の秘訣は何か?」とか「どうやったら自分にもできるだろうか?」と考える。


億万長者のような考え方をするには、変化に対する自分の本能を信じることだ‐が、変化を見極められるように、自分自身を訓練することも必要である。そうすれば、金銭面、感情面で大いに満足できる。



人生における幸福や充実感は自分のためではなく、ほかの人のために尽くすことにあると私は考える。



以上
またね***

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2012年7月27日金曜日

”みる”を見直す

”見る”でも”観る”でも、”診る”、”看る”、”視る”など、どれでもいいのだが、見るという動作は我々のなにを表しているのか。



他の生物と比較した場合、人間の視覚の意味が見えてはくる。だが、それは生物学的視点においてだ。



この”視点”ということも含めて考えてみたいのだ。




目的語が要る。



これが「見る」である。



見る主体があり、見られる対象(客体)がある。



主客が一致することはあるのか?



例えば、禅問答のようだが、「見ている自分を見ることは可能か否か」。



「我思う、ゆえに我あり」とは、一見それらしく見えるが、そうではない。この場合は単に視点を変えただけだ。つまり、主体が客体を変えることで新たな発見があったということだ。自分以外の客体から、それらを考えている自分を客体に変えることで、だ。



文法的問題なのかどうかはわからないが、主語と目的語が同じ「もの・こと」を示す文というのは存在するのだろうか。



「私が、私を見る」



パラドックスというのがある。アキレスと亀、うそつきの何々人、などなど。



以前も書いたような気がするが、パラドックスの存在は、言葉の限界を示していると考える。



つまり、言葉はどれだけ現実世界を正確に表現できるか、である。そして、言葉はそれを成し得ないからパラドックスが存在する。



無限ループに陥るような感覚があるのがパラドックスの特徴かと思うが、主客同一の文もパラドックスになるのだろうか。



と、こう問題提起してみたが、これは意味のある問題提起とは思えない。



以前、ゾーンについての本を読んだことがある。そこでは、弓道を極めるまでの外国人の例が書かれていた。



印象に残っているのは、「弓を引くのはあなたではない。何か知らないが大きな存在が弓をあなたに引かせているのだ。だから、その”とき”がくるまでは弓は引かれるだけの、そういうものではないのだ。」といった趣旨のことを師匠がこの外国人に言った言葉だ。



だから、この弓道の修業において、師匠は決して弓のひき方などを教えなかったという。




目的語とは、どうしても自分の外にあるものだ。なぜなら、主体が自分だからだ。もし、主客同一が可能ならば、それは、そういう存在であるということなのだ。



わかるだろうか。この転換が起こっている。



”見る”といった”~する”から、”~である”というふうに、概念自体がガラッと変わっている。



動作動詞から状態動詞への変換。




「私が、私を見る」から、「私は、私である」へ。




なにかをする際、われわれは”なにか”をするのである。




本を読む、勉強をする、売り上げを上げる、女を口説く、などなど。それはそのまま、本を読んでいない自分、勉強をしていない自分、売上の上がらない自分、女を口説かない自分、といった”状態”が前提となっている。




恐ろしいことだが、「よしっ!!勉強するぞ」と張り切ったところで、それは勉強しない自分がノーマルであることを宣言しているのである。



女を口説くのもそうだ。週末女性を口説くかあ!!と言ったところで、日ごろ女性を口説かない自分を認めちまっている。それが、自分であると。女性を口説いている自分が非日常的なのだと。それはそのまま、平日は”冴えない自分”を受け入れちゃっている。



何かを見る、何かをする、といった場合、われわれは普段とは違うことをしているのである。たとえ、それが自分の日常的な行動であろうと、それがあなた自身にさえなっていないのなら、同じだ。




「なぜ、山に登るのですか?」
「そこに山があるから」


と答えた登山家がいた。



そういうことなのだろう。



山があり、それに登る。その一連の行動習慣全体で”登山家”なのだ、彼にとって。



富士山だから登る、ではないのだ。



見えてきただろうか。”見る”という動作をしている限り、カミュの「異邦人」よろしく、いくら真剣に集中していたとしても、それがあなたではないのだ。



サッカー観戦を楽しむより、サッカーを楽しむ。


ロンドンオリンピックだが、マスコミに騒がれる選手たちはどういう”状態”で演技をするのだろうか。


「金メダルをめざす」のか「金メダルを取っているのが自分」なのか。自分の外にあるメダルなのか、そのメダル事態自分なのか。



動作動詞と状態動詞。



常日頃、どんな言葉を多く使うのか。


また、その言葉を使う目的より、それを使っている自分を”観て”、どんな”状態”なのか知ることは大事だろう。



”見る”から自分の現在地を知り、己を変える。変わったかどうかは、以前とは違う景色を”見て”いるかでわかる。



”見る”はあくまで、現状認識に使うべきだ。決してそれが目的になることはない。



”見る”を活かす。



自分の在り方を知るために。





少し焦点がずれるかもしれないが、こういうことが日常的に言えるのではないか。



自分が”見て”いるかどうかを知るいちばんわかりやすいのは彼女や家族の反応だろう。


彼女とデートなどしていて、そのデート自体を楽しんでいなく、そのでデートを”見て”いたり他のことに気を取られ心ここにあらずだったら、どえらい空気になります。


家族でもそうだろう。子どもがいるなら、子どもは集団でいるのだが、自分を優先するようになるだろうし、奥さんは不機嫌になるだろう。


「家族や恋人といるときは愛を感じているのが自分という存在である。」こう定義してみたら、少しはましになるのかも。


こういう場合は、キーワードは”見る”ではなく”感じる”なのだろう。


”感じる”についても、考察していきたいな、今後。



愛してます。



以上
またね***

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...