2012年2月23日木曜日

「新しい働き方」ができる人の時代(食べる読書82)




いろんな人が今後の社会や働き方など未来に関して彼らなりの視点でそれぞれの本で語っている。


これまでそういった人たちの本を少しは読んでいたし、自分でも今の社会から今後どうなるのかなど考えていた。


だから、本書の内容は特に目新しい部分はそんなに多くはなかった。


しかし、ここまで体系立ててはっきりとわかりやすく論じているのは初めてであった。


実用的な働く際の考え方がある。


納得はする。


実際、世の中はもうこのような働き方に移行している段階だ。


だけど、欲を言えば、なぜこの働き方なのかをなぜ大多数の人が見いだせないのか。そこを明確にしたい。つまり、この社会の変化を見極め、己も変わるという大事な能力を身につけることに関しては言及していないのだ。結局、著者のような優秀な人に従うことでしか人々は自分の身を守れないのか、と思ってしまう。すばらしい考えだが、結局は対処療法でしかないんじゃないか…と。


今の変化を産み出したのは、まぎれもなく我々なのだ。グローバル化、中東の民主化、中国・インドの台頭…。自ら生み出した変化に対応できずに右往左往するのか?バカなんじゃねぇ?と思ってしまう。コントロールできていないんじゃないかと。己自身を。ただ反応しているだけなのでは。


これが、いま人類が直面している課題であるととらえる。


そういう意味で、本書の内容は直接的な解決にはならない。しかし、そこへ導く一つのヒントを与えてくれる気がする。


以下抜粋

管理にたけた人間が上層部を占めると、クリエイティブな仕事はとたんにスローダウンしてしまう。


市場・競合分析も必要ないし、自分探しも必要ないし、会社を辞める必要もない。
まずは会社の外へ出て、システムの外で生きている人たちに出会うことだ。そして、その人たちがどんな未来を見ているのか、感じるのだ。


今は固定費を抱えた組織に頼むよりも、柔軟に動ける個人とつながれる方がよほどスピーディに仕事が動く。


成功者が成功する理由は、学校教育のおかげだけではない



組織のかなめになるようなユニークな生き方を選べば、嫌われることだってあるでしょう。


工場で行われる単純労働においては、自分の領分以外に手を出すのは確かに危険なことですが、今の会社で必要な存在なのは、「やるべき仕事を自分で見つけてできる人」だけなのです。


チャンスは「組織に必要不可欠な存在」になったときにやってくるのです。


私はこれまで、組織のかなめとして活躍する、才能豊かな人たちと一緒に働いてきましたが、彼らがその他大勢と違っているのは「自分で自分を縛る考え方にとらわれていない」という、その一点に尽きる気がします。


チャンスをつかむには、ルールを変え、アプローチを変え、時には物の見方そのものを変えなければなりません。


もちろん、優秀な教師がいないわけではありません。そのような教師はちゃんといて、組織のかなめになれるような人間を育てようと必死に努力しています。問題は、”個性的でユニークな存在”を疎外し、官僚的な人間に厚く報いるシステムにあります。


現在、大きな価値をもっているのは、知識にもとづいて優れた判断ができる人です。


組織のかなめになれる人たちは、地図のない状態でも新しい道を探して、うまくやっていくことができます。


「前線にいる人間ほど、組織全体のイメージに大きな影響力をもっている」


創造し、人に与えるという行為そのものが、価値のあることですし、行動すればまわりの態度も変わってくるからです。


アーティストとは、洞察と創造性、現状を変えていく大胆さを兼ね備え、自ら挑戦していく人のことです。


「表現とは、他者にプラスの影響を与える行為である」


アーティストは自分が生み出した価値が自由に広がっていくことを望み、それを妨げるような見返りは求めません。


私のいう表現とは、仕事を通じて人々に影響を与えていく行為、つまり、物事の本質を見極めて、新しいイメージや体験、コミュニケーションで市場を変えていくことです。


「情熱や熱意は、対象がないと存在しない」のではありません。「情熱をもっている人が対象を見出す」のです。


一番大切なのは、どんな職種を選ぶかではなく、「どのような仕事をするか」なのです。


創作物は、形になって人に届いた時点で価値が生じます。


ベンチャー企業が新しい市場で大手企業より成功しやすいのは、意思決定に関わる人が少ないために協調しやすく、検討作業における混乱が起きにくいからです。


人間は本当にやるべき行動ではなく、刹那的に気持ちのいい行動を選んでしまうことがあります。


悪いアイデアでも気にせずにどんどん思い浮かべられるようになると、いいアイデアを思いつくのは驚くほど簡単になります。逆にいえば、まずいアイデアやリスクのあるアイデアを避け続ける人には、どんな発想術の本も役には立たないのです。


爬虫類脳は巧妙に人を操り、組織に適応させて目立たない存在にするか、失敗させて大それたことができないようにするのです。
爬虫類脳が働いているのは、たとえばこんなときです。
・期限を守らない
・「完璧にしたいから」と言い訳し、先延ばしにする
・アイデアを煮詰めない
・お金がないことを口実にする
・情報集めに執心する
・自分の仕事のハードルを必要以上に上げる
・インパクトのない月並みなものを意図的につくる
・平凡な仕事をする
・完成に向かっていると気づくと、それをやめる


何かをしようとしたときに抵抗や恐怖、疑念がわいてきたら、やる価値があるという証拠です。
心理的抵抗を感じる方向に進んでいきましょう。自分の中の埋もれていた資質が形になってくるほど、この抵抗は大きくなります。


どうにもならないことは受け入れてしまい、不毛な考えにとらわれないようにすることが肝心。


上司からの批判に耐えられず、余計なことをいいそうになっても爬虫類脳を喜ばせないことです。不安と共存できるようになるほど、人間は精神的に強くなります。逃げ出したくなる衝動に静かに耐えられる人は、周囲から信頼されるようになっていきます。


「利他的に振る舞えるのは、すでに成功して、あり余るほどもっている人だけでは?」と思うのは間違いです。逆説的ですが、実は世界でもっとも成功しているのは、お金を目的にしていない人たちなのです。


この社会でもっとも大きく変わったことは、「自分で決める必要が出てきた」ということかもしれません。


苦しさを乗り越えて登り続け、高みにたどり着いた人だけが、豊かな経験打たれ強さを身につけていきます。


彼らは都会育ちの本学の軟弱な青年百人分の価値がある。今を生きることに徹し、仕事が身につかなかったと恥じることもない。人生を先送りにすることなく、しっかり生きているからだ。


優れた企業は、目的意識をもち、友好者たちの集団が結束して一つの方向に進み、成果を生み出していきます。


顧客や取引先と関わり合うすべての人間が、それぞれにリーダーシップを発揮してマーケティングを行っていかなければなりません。


人を指導するときに大切なのは「知識を与える」ことではなく、自分の「心構え」をその人に伝え、自分と同じ「自信」をもてるようにすることだ


市場がネットワークでつながり、競争が激化している現在、「そこそこ」のスキルの人はどこにでもあふれています。「特殊」能力は、生まれもった才能ではく、自分がやりたいことをやるという選択をすることで手に入るものです。


カギになるのは、自分の考えや企画に上司の賛同をとりつけ、サポートを得られる進め方を見つけて、意外でない形で意外性のあることを実行していくことです。


組織に拒絶されるのは、それが間違った考えだからではなく、今はまだその人にステータスや実績がないからです。


以上
またね***





知の編集工学(食べる読書81-3)




人でも、本でも、彫刻、絵画、何でもいいが、自分の人生を大きく前進させる出会いはあるだろうか。


もしくは、この出会いによって大きく人生が変わったという出会いだ。


その出会った瞬間、この出会いは人生を変えるものだと認識できるだろうかという疑問はあるが、私にとってこの本は私に道を示してくれたと思っている。


私がスタート地点へ立つまでの道をだ。


「次の時代を切り拓く哲学思想を構築する」


これが私の夢であり、人生の目標でもある。


その新たな思想とは、「動きを表す情報処理技術」の獲得であると考えている。


しかし、これが何なのか全くわからない。今、目の前にないもの、いやあるのだがそれを認識する術を現在のわれわれは持ち合わせていない。そんなものをどうやって発見するのか。


正直言って何をすればいいのか、とっかかり自体がわからないという状態だった。


しかし、この本の「編集工学」はそのとっかかりになるだろう。



内容は、私の考えていたことと似通っている部分がいくらかある。そして、それについて著者は裏付けがあって本書に書いてある。


なるほど~。ここをこう研究すればいいのかあ。


当分、松岡正剛さんの著作をメインに読むことになるだろう。





<エディトリアリティ>や「述語」の概念は、「動きを表す情報処理技術」に通じるものがある。


特に「言葉」について書いてあるのは驚いた。


情報処理技術であるため、もちろん「言葉」の改造というか、言葉自体も変えないと「動きを表す情報処理技術」は得られないだろうとは思っていた。


しかしなあ、その言葉をつかって世の中を把握しているんだよなあ。その言葉以外で把握できるのかあ?できるとは思うが、社会を構成するために、それは伝達という役目も果たせるのかあ?ただ自分の中で完結していたんじゃあ、動きじたいできないぞお。


などと考えていた。


そういう意味で「述語」に焦点を当てているのは、衝撃でもあったし納得でもあった。



さらに、なぜ次の時代の新たな思想が「動きを表す情報処理技術」になるのかというと、いまの時代を支配している思想というか考えが、科学的思考であると考えるからだ。つまり、主体と客体を完全に分けて、そこで統計的データによってどこで線を引くのか決めるといった具合だ。これまでは主体と客体で、客体に対してこちらから作用を及ぼしていた。その作用された客体は対岸の火事といった具合で、こちら主体側には客体の変化は影響を及ぼさなかった。



しかし今、環境問題、国際的変動など、対岸の火事であったはずの客体がこちらに作用してきたのだ。この事態に対する対処法を人類は手にしていない。なぜなら、主体と客体の相互作用を把握しうる情報処理技術がないからだ。よって、次の時代を切り拓くには、主体と客体をそれ自体ひとつとみなし、その変化(動き)を全体として(または局所的に、焦点も自由に変えれるような)把握する「動きを表す情報処理技術」が求められていると考えたからだ。


こういう私の文脈の流れと大きな矛盾はないという論理で「述語」の重要性を説いているのはちょっと自信になりました。


まだまだ本書を理解したとは言えないが、ページをめくるたびに、本当にいろんなインスピレーションが頭をよぎり、なかなか進まないという状態だった。その分、疲れはする。しかしそれは、この本の内容と自分の考えとを照らし合わせ、さらに深めるために脳をフル回転させているから。ま、編集しているわけです。



「編集とは関係性の発見」と書かれてある。たしかにそうだ。


これに照らして表現すると、「動きを表す情報処理技術は、関係性を”産み出す”土台となる」だ。


以上
またね***




2012年2月18日土曜日

知の編集工学(食べる読書81-2)




引き続き抜粋


産業革命は「機械」という新しい自立システムを、アメリカ独立は「新大陸」という新たな地上のユートピアを、フランス革命は市民意識という別世界を現実のものにしてしまったのである。


ろくなワールド・モデルがないくせに、そのモデルを提出する主導権だけは、いまなおアメリカがもちつづけているのである。


たしかに、私たちはいつのまにか「問い方と答え方のモデル」をさっぱり失ってしまったのだ。


「卑しい民間の口誦物語、メルヘン、神話は、ある程度は民衆の信仰、その感覚的直観および力と本能の成果である。そこでは人々は知らないがゆえに物語に夢を見るし、見ないがゆえに物語を信じるのである。そこではけっして要素に分割することができない素朴な魂の全体が活動しているのだ」



「物語は文化間の通信が可能になる人類の普遍的特性である」


そもそも物語は最初から書かれたわけではない。…。ひとつの戦争を将軍が語るのか、町の市民が語るのか、誰をナレーターにするかによって、物語は決定的な特色を変えるのだ。


<エディトリアリティ>を厳密に定義することは難しい。厳密をこえている概念であるからだ。


<エディトリアリティ>は主体的でもなく主語的でもなく、かつ客観的でも対象的でもない、はなはだ関係的な両者の「間」を占める概念である。


いったい主体と客体をきっぱりと分けるという方法が、歴史的にはごくごく新しいものであり、しかも近代的な社会力学の必要に応じて生まれてきたものだった。


思想のための諸科学が自分たちの思弁や体系の都合によって、サブジェクトとオブジェクトの親密な関係を引き裂いてしまったということだ。


たとえばチョウは花々の情報を獲得するために、カエルは虫の情報を獲得するために、ヒトは相手の感情情報を把握するために、サブジェクトとオブジェクトが距離的に離れているにもかかわらず、その二つを透過させ、浸透させ、さらには相互作用させるのだ。



「思想を構成する部分のすべてが完結していてはならず、少なくともひとつは不飽和ないしは述語的でなければならない。さもないと、部分は相互に密着しないであろう」



「特殊」としての主語にたいして、述語が「一般」であることを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。いいかえれば、人間は自分自身の底辺にある「述語面」で、あらゆる意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。



私たちは主語を強調したことで思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。



私たちはもっと葛藤や矛盾に満ちたものであり、自分の中に「あてどもないもの」や「まぎらわしいもの」をいっぱい抱えている存在である。しかしそれだけでは仕方がないために、いささか非論理的な「見当」と「適当」をうけいれてきたわけだ。



「それは何か」(WHAT)と問うことが、もし「それはこのように使えるものだ」(HOW)という方法とつながれば、知識はWHATとHOWの溝を埋めてくれることになる。ただ、多くの知識はなかなかそういう便利なかっこうをとってくれない。ましてコンピュータの中では、私たちと世界の間にあって、かえって知識が溝をつくってしまっていることが多い。そこでついつい知識を数値的な単位に処理して扱おうということになる。



情報はアクターであり、システムは舞台なのだ。それには情報という役者は、たんなる意味単位であるだけではなく、どのような動きをするかという操作性を内属させたモジュールでなければならなかった。ただし、そこには少なくともひとつの「物語」が必要である。情報という役者はその物語によって劇的に動くのだ。


区切るとは、じつは「関係化」ということでもある。区切らなければ関係は生じない。


私たちはあえて編集を加えて自然や社会を見ているのではなく、観察することが必ずやどこかで<編集的創発性>を生じさせているということなのである。ということは、「見る」とはすでに編集することなのだ。


じつは植物と昆虫が別々にいて、それらがしだいに関係しあっていったというより、最初から「相互編集する情報の密度」があり、それがしだいに拡散しながら植物と昆虫を対発生させていったのではないかとおもえてくる。つまり、<編集的創発性>が植物と昆虫の両方を進化させたのである。



そもそも組織とは「情報編集システムを体制化したもの」であるからだ。


歴史が決して「安定」を求めるのではなく、つねに「混乱」をかかえこむ方向に進んできたことは、そろそろ大議論の対象になってよい。それは、結局のところ国家や民族や企業が、なぜ自己編集性を完結できないのかということにかかわっている。ようするに内部に矛盾が生じ、それが外部に流出したときに、執拗な交換を要求するために、そこに経済混乱と戦争混乱がおこるのだ。このことがわからないと、いつまでたっても「戦争ゲーム」の必然性や「市場の失敗」の理由がつかめない。平和憲法や国連軍では、どんな事態の矛盾の解決にもならないのである。


私はこのような生きた情報がそのまま行きつづけられるボランタリーな編集システムを、研究し、開発してみたいのである。そうすれば、どんな対象であれ、そこには自分に接続する世界の連鎖があらわれてくるにちがいない。



ここは一番、誰かが知の再編集に臨むのではなく、ネットワーク的に、グループウェア的に、そしてコレクティブ・ブレインとして、知識を立体的に並べ換えることである。そしてそのうえで、知識を編集するのではなく、編集を知識にするべきなのである。

私が考える編集は、まさにこうしたワクワクする<自由編集状態>の実現にある。しかし、それは自分の属する世界と無縁であるためではなく、逆にその根幹にかかわるためのものである。<方法の自由>と<関係の発見>にかかわるためなのだ。



情報は関係しあおうとしているということになる。この関係線を見出すこと、それが編集である。つまり編集とは「関係の発見」をすることなのだ。


以上抜粋


to be continued・・・



2012年2月16日木曜日

知の編集工学(食べる読書81-1)




以下抜粋

文明の成立過程や文化の成熟過程が情報の編集によって進んできたことを、これまで何度も強調してきたが、それが今日の情報産業社会の進行とともにいっそう編集の役割が重要になってきた


むしろ視聴者はテレビ局の編集の仕方に注目した方がいいということになる。


編集というしくみの基本的な特徴は、人々が関心をもつであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというプログラミングだったのである。


遊びでは<ルールの群>がスポーツや将棋のように非常にタイトであるか、逆に、雲の形を見て遊ぶ子供のように非常にルーズであるか(勝手に自分でつくっているか)、そのどちらかの状態が保証されているということだ。



これまでのコンピュータのプログラムは、ワンステップずつのルーチンをもつアルゴリズム(計算方式)をつかって、なんとか論理の計算にたよりきることによって高度な情報処理に近づこうとしていた。・・・。脳はニューロンの興奮のパターンを論理に還元しないで、そのまま相互作用をしている。きっと脳というのは、このニューロンの相互作用の組み合わせがしやすい方向に進化して、あげくのはてに脳というアーキテクチャ(設計構築物)に落ち着いたのである。


学習とは、自分がしたいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動をはじめるものである。舞台というのは、記憶をしたたり学習が進んだりするための、たとえば庭とか机のようなものをさす。そこで何がおこるかといえば、自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話をするのだ。


情報の系はある観察者から見たエントロピーの系なのである。


指を折ることをデジットという。「デジタル」という言葉はここから派生した。


指の分節化と言葉の発生は関係があるはずなのである。


分節化がオーダーとなり、そのオーダーがメジャー(ものさし)となって、別の分節化された情報を相互に測定できることが重要なのである。


先に文法があるのではなく、先に分節がある。分節力が文法を理解させるのだ。


先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから”生命という様式”が考案されたのだ。


注意の構造にこそ記憶システムの前駆性が隠れているはずなのだ。


コンピュータは、計算機として誕生し、そこに「数値化されたデータによって値を判断する」という大きな方向をもたらしたからである。


古代情報世界は語り部や文字だけで保存されたのではなかった。建築や彫刻や図像や文様などによっても、情報管理がされていた。


経済と文化をつなぎ、この二つを編みこむインターフェースは「好み」なのである。


私が注目するのは、この「壊れやすいからこそ、壊しにくい」という不思議な関係だ。
たんに弱者に気配りしようというのではない。それもあるけれど、むしろ自分の強さのレベルで相手に向かうのではなく、自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接することが、かえって情報交換をなめらかにするということなのである。やたらに強がっているだけでは本当の情報はやってこない。「強がり」はたんに情報システムを強靭な”物理”にするだけである。



編集は勝利や結果や無矛盾を求めない。編集は葛藤や弱点や矛盾を新たな展望に変換するためのものである。なぜ、そんなふうに言えるのか。編集は「弱さ」を起点に逆上するものであるからであり、しかも、「弱さ」は「強さ」の欠如ではないからだ。
これは来たるべき<自発性の社会>ともいうべきものが、ひょっとして私たちの身近にまで到来していることを告げているのかもしれない。



それまで科学が因果律や要素分類を重視してきたのにたいして、むしろ「プロセスを重視した科学」がありうることを告示していた。システムを要素の積み上げによって構成された静的なシステムと見るのではなく、生きた情報の意味を束ねるために相互連関をおこしている「動くプロセスの複合体」とみなしたのである。


文化とは、メディアをまたいで内容を編集しつづける作業のことだとみなせないだろうか。
しかり、文化は編集なのだ。


伝達され、流通しても欠如しきらないもの、それが<エディトリアリティ>である。


言葉によるラべリングを気にしないで進むということ。言葉の連鎖にしないで思い浮かぶままの分岐を進む。


編集行為というものが自他並列的であることが見えてくる。


編集は、時間とともに変化をする環境条件や意識の深化によって進行し、しだいにそこにかかわるすべての関係を変容させていくところに醍醐味がある。エディティングの進行は、ひとえに関係発見的なのである。あらかじめ決められた配置に話をもっていくのはエディティングとはよばない。それは談合であり、妥協なのである。


私は「アイデンティティ」という見方にも与さない。アイデンティティとは自己同一性とか自己一貫性とかと訳されるが、どんな意識においても変節や変容をもたないアイデンティティなど、とうていありえないとおもわれるからだ。


編集工学で編集方針というのは、何をアクシス(軸)にして編集を進めるかということである。内容をどうするかというよりも、どのような点に着目するかである。


世界の本質は世界のサイズには関係がない。一連の出来事がおこりうる場所、それが世界なのだ。


世界を語ろうとすること、それは世界の中で”どの事”をなすべきなのかという問いの出発を意味していた。ようするに人々は「世界」の前で編集をしはじめたのだ。


どんなばあいも私たちは様さまざまな「世界」というワールド・モデルを想定して話を進めているということであって、そのワールド・モデルがいちじるしく食い違えば衝突や排除がおこるということなのだ。<編集>とは、この使用済みのワールド・モデルを問いなおす作業なのでもある。


ワールド・モデルとはあくまでも、そこで「事」が進行する設定の舞台である。喜怒哀楽の感情や利益の得失はワールド・モデルそのものが担うわけではない。


to be continued・・・



OVER HEAVEN(食べる読書80)




空条承太郎:「まさかパロディだったとはな。・・・やれやれ・・・だぜ。」


DIO:「貧弱貧弱ウリリリリィィィィーーー!!!!」


この本を読んだら二人はこう言うだろうな。


なんで他の作者が書くとキャラクターが弱くなっちまうんだ?!


正直、つまんないです。


さらに白状すると、以前紹介した恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-もそんなに良かったわけではない。ただ、その文章の書き方など、ライトノベルを読まない私にとっては新鮮だったから、こういう表現の仕方もあるのかあと思ったくらいだ。


ジョジョ25周年の企画だから多分一年くらいしか執筆期間はなかったと思う。


この二冊はどうしても付け焼刃な部分が多すぎる。


どちらもプロの作家なのに、オリジナリティーがなさすぎる。


まあ、他人の世界観を壊さないように自分の世界観をさりげなく融合させるにはそれなりの時間と労力が必要だ。


そういう意味で、The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another dayは秀作だ。


読んでびっくりした。まさに、仗助や憶泰、露伴先生が原作のキャラそのままで何の違和感もなく感じるのだ。しかもそのストーリーには見事に著者の乙一さんの世界観もある。乙一さんはこの本を完成させるのに七年くらいかかったといっていた。何度も書き直したと。ジョジョに対する思いを感じる。


それに対して、”VS JOJO”の二冊はビジネス感、やっつけ感のにおいがプンプンするぜぇえ~!!!


この二冊は実際売れているので出版社的には当たりだろう。しかし、ファンとしては、もうこういうレベルの低いというか、表面的な企画はやめてほしい。ジョジョの質が落ちる気がする。


乙一さんのように、どうしてもジョジョを書きたい。そのために自分が納得いくまで書き直し、労力も時間もかけるという作家に書かせればいいと思う。ジョジョは、自然とそういう作家が出てくるほどの漫画だと思っている。もう、すでに多くのクリエイターに大きな影響を与えている作品だし。今のジャンプは、何かしら能力のあるキャラクターが多いし売れているが、それはジョジョの”スタンド”の影響だろう。


作家の登竜門とまではいわないが、何か意欲のある作家が挑むひとつの通過儀礼のように、鬼才荒木先生への尊敬をこめて自分の能力を試すために、ジョジョの舞台で自分を表現するという認識になればいいなと理想に想いを馳せてしまう。


爆笑してしまったところが二か所ある。


「駄目だった。

にべもなく断られたー何が不満だというのか、正直言って、このディオは想像もつかない。」


…ディオのセリフです。ポルナレフをとりあえず誘った後のセリフです。


ぜってーこんなこと言わねえだろおお!!ばかなのか?!


確かに三部で誘っているが、それはあいさつ代わりなだけだろ。別にお前(ポルナレフ)がいなくてもこっちとしては何も困りはしないが、そういうことも含めて相手に伝えておくか。このディオの次元の違う強さというやつを…。


ぐらいにしか考えてないはずだ。




あと、ここも面白かった。


「孤独は勇気を与えてくれる。

素数を書き連ねよう。

2,3,5,7,11,13,17,19、…、79,83,89,97-ふむ。

言うほど効果はないようだ。

しかし、とにかく落ち着こう。」



効果ねえのかよぉ~。


しかも、十分落ち着いてんじゃねえか!!!素数につっこむみ入れてるくらいだからな。


いつから芸人になったんだ?!人間をやめるとは言っていたが、芸人になるとは聞いてないぞっ!!


ま、この二か所でこの本はパロディだと悟りました。


本の装丁・デザインにだまされたぜ~。


だが、ディオのイラストがいいので許してやる。


以下抜粋

笑われながら死に。
殴られながら死んだ。
それでも彼女は、最後まで、誰も責めることも、誰も恨むこともなかった。


「俺が短い人生で学んだことは……人間は策を弄すれば弄するほど、予期せぬ事態で策が崩されるってことだ……」


そう、大丈夫だー進んでいる。私は前進している。
時の流れに従って、ちゃんと、しっかりと、確固たる足取りを持って前へと進んでいるーどれほど足りなかろうと、どれほど失おうと、それだけは確かなのだーそれだけは疑ってはならないはずなのだ。


「覚悟」がなかったから。
予期せぬ事態に、不安になる。


わたしにできることは本当にわずかだ。百年前から。


なんとも理想的だーあまりに理想的過ぎて、「それができれば苦労はない」以外の言葉が見つかりそうもない。


「受け継ぐ者」
として、充実した生活を送っている彼らには、「天国」を自分の目で見たいというような欲求はないのではないだろうか。


彼らはきっと「未来」を見ているのだ。
知らず知らずのうちにー「覚悟」を持って未来を見据えている。
だから「天国」のそばにいる。


「未来」へ向かわなければならないわたしにとって、「過去」を振り返るという行為はあまり意味はないのだろうが、しかし実際に振り返ってみると、すべてが必然的だったかのように、解き方のわからないパズルのように組み合わさっていて、それは、人と人とが引き合った結果としか思えない。


「信念さえあれば人間に不可能はない」
「人間は成長するのだーしてみせる!」


以上
またね***





2012年2月15日水曜日

武器としての決断思考(食べる読書79)




詐欺じゃねぇのかぁ?と思う一方で、確かにこれが今の社会の現実を表してもいるのかもなと納得する部分もある。


読んだ感想である。


確かに「武器」として使える考え方だと思う。だけどなあ…、結局武器に過ぎないんだよな。


今は、どんな時代と思っているんだ?


この本は震災前の京都大学での授業をまとめたものであるので、何とも言えないが、もうこの国の生存が問われている段階に入っていると思うのだがどうだろう。財政はここ五年くらいで破綻するといわれてたりするし、その現実味もある。


「武器」というのは、それだけで成り立っているわけではない。


以前話したたそがれ清兵衛 [DVD]のなかのくびになった武士は、黒船来航までは剣の腕が「武器」だった。しかし、時代の急速な変化により、社会の中での「武器」自体も変わった。
その変化に対応できなかった悲劇というか不幸がこの映画の一部としてえがかれている。


この本のいう「武器」は、今の時代を前提とした「武器」にしか思えないし、何しろ、自分のことしか考えていない「武器」のように感じる。


つまり、これから時代の変化に伴う荒波が来る。そんな荒波でも、君たちはその荒波をうまく乗り切る必要がある。その荒波を乗り切るための「武器」がこれだ。


えぇ~!!!?


ちがうだろ!!!


これじゃあ、奴隷のままじゃん。


いつの時代もそうだし、いつでもどこでもそうなんだが、自分が生きるということは、自分の波を起こすことだ。


わかるかな。


なんで、社会に合わせるのが自分なんだ?もうそんなことで生きていける時代はおそらくないんじゃないかと思うのだが、どうだろう。


グローバル化にともない、世界が労働市場になった。それは、身分によって保証されることはなくなっていく方向にあるということである。そして、新興国の台頭により、日本は次のステージへレベルアップしないと、これらの新興国にのまれることにもなる。


これは十年くらい前にいわれていたことだが、中国は日本の東大卒レベルの学生が、日本の東大卒の人数の約十倍が毎年卒業していく。だから、日本が生き残るには、知的財産などの知価社会へと移行し、そこで勝負する教育をしないといけないといわれてはいた。が、動きの遅い大学教育はうまく対応できていないように感じる。


この本のいう「武器」は、まだ工業社会での「武器」じゃないのかあ?と思ってしまった。


その根拠が、社会の動きに対してどう対応するのが最適かを知る方法が「武器」と説いているからだ。


決して、新たな”知的財産”によって社会に波を起こすことではない。


しかし、戦後の日本社会の在り方、その中での東大をはじめとする大学の社会に対する役割、その大学のヒエラルキーでも上位にある京大。まあ、そういう視点で世の中を見るし、教育もするわな。


こういう授業が人気ということ、そしてこの本が売れているということ。


自分だけはどうにかしよう。どうにか生きていかないといけない。という意識が見える。


気高さというか、高貴さは、そこには感じられない。


人を動かすのは、気高さだったり、カリスマ性だったり、何かしら人々の心に尊敬させるものがある。それは決して技術的なものではない。その人の内側からくるものである。


「人に先んずれば人を制せる 

人に先んずられれば人に制せられる」


人々を導ける人材の育成。


これが、いま日本が力を入れる分野である。


まずそこからずれていると思う。


まあ、でも、良いことはいっていた。


だから、以下抜粋


ゆがみやすい個々人の考えをぶつけ合うことで、修正し、より優れたものに昇華させていく。それが重要なのです。


ひとりでものごとを決めようとすると、ゆがんだ答しか出てきません。
そこで必要となってくるのが議論です。


ブレない生き方は、下手をすれば思考停止の生き方になります。


ディベートは決して万能のツールではないのです。あくまで、考えるための筋道をつけてくれる道具にすぎません。


本当は、数億円ものお金を設備投資に回すべきか否かという議論に時間をかけるべきであって、ホワイトボードか黒板かという話はどうでもいい。明確に結論は出るかもしれないけれど、議論に値するものではありません。


何か大きな問題について考えなくてはならないときは、問題を小分けにして、同時に2つか3つの「議論すべき論題」について考えていけるように習慣づけてください。


相手の主張に反論するときは、相手の主張を支える根拠や推論に対して直接、反論を行ってください。


一般論から個別の事例を説明するのが演繹の考え方ですが、詭弁を生みやすいものでもあるので注意が必要です。


個別の事例から一般論を説明するのが帰納の考え方ですが、いちばんよく見かけるのが、都合の良い事例、偏った事例だけを集めてしまうことです。



「英語ができる」「年収が高い」というのは、「学歴が高い」という共通の原因から起きた複数の結果にすぎないわけです。



他に原因がいくつもあるかもしれないのに、特定の原因にのみ着目しているところが問題なのです。


因果関係で注意すべきは「因果関係が逆」「因果関係と相関関係の混同」「特定の原因にのみ着目する」の3点になります。



ディベートというと、自分の主張を通すことに重点が置かれがちですが、実は逆で、自分の主張を無理やり通そうとしている人に反論することのほうが大事です。


公開情報を組み合わせることで、新たな情報を生み出すこともできます。


メディアの報道や風評を信じるのではなく、自分の頭と足を使って、本当のところを確認しに行った方がいいわけです。


たとえば、「コンサルティング会社は学歴重視だ」とリクルーターを務めているОBが言い出したら、「やっぱり東大や早慶が多いんですか?」と聞き、そのあとに「それより学歴下の人で採用された人がいたら、どういう人か教えてもらえますか?」と質問すると、実はその会社が学歴以上に重視している採用基準が見えてきたりします。


大学以降の人生では、情報に接したら、それが本当かどうかをまず疑ってください。「本にこう書いてあるけれど、偉い人がああ言っているけれど、それは本当なのか?」と考えることを習慣にしなければなりません。


短期的な量だけでなく、将来を含めた長期的な量も視野に入れて考えるということです。


なんらかの絶対解や真実を求めようとすることは、「誰かの決めた正解」や、すでに役割を終えた「古い意思決定」に頼ってしまうという、もっとも危険な考え方、そして生き方につながります。


自分の人生は、自分で考えて、自分で決めていく。


以上
またね***


たそがれ清兵衛 [DVD]


2012年2月14日火曜日

運命を拓く(食べる読書78-3)




中村天風の本は以前紹介した君に成功を贈るくらいしか読んでなかった。数回はすでに読んでいた。


だからかもしれない、



運命を拓く (講談社文庫)は、すごいというのが読んだ感想だ。


心に一言一言がズシンズシンとひびく。


だんだん中村天風のすごさがわかってきた感じだ。


人は幸せや充足など真理を外に求めてしまう。ある人はそれを仏教などの宗教に求めたりする。また、その他大勢は真理なんて求めない。


そして、その真理は外にはない。もうすでに己自身にある。今の自分が今の自分であるのもその真理が働いた結果である。


中村天風はそれを”心”の持ち方ひとつであると説く。


結局、己以外に真理はない。


日々のさりげない一言であったりしぐさ、我々は結構こういったことに心を揺さぶられていることがある。これでは、己を貫くことなんてできない。


どんな時でも、どんな状況でも、自分の進む道を進むための”心”でいることが大切なのだ。


しかし、今の世の中はなかなか厳しいといえる。マーケティングが発達しているため、何かしらの広告は人々の心を揺さぶる術に長けている。


じゃあ、広告に自分の人生を明け渡すのか。


そんなバカなことはない。自分が経済を動かす側なのに、自分が動かされてどうするんだ。そして、この経済の在り方も時代によって変わってくる。だから、自分はどういう形(経済活動)で社会に貢献するのか。それが、己の真理から出たもので、自覚したのなら、広告ごときでは”心”はほんの少しも揺るがない。


まだまだ未熟者であることを思い知らされると同時に、そんな未熟者でも自分のかけがえのなさというか自分自身を好きになる本である。


真剣に生きるなら、自分自身に克てばいい。


自分が自分をコントロールするんだ。


今日、自分と対峙したか。


どういう”心”であったか。


以上
またね***





2012年2月11日土曜日

運命を拓く(食べる読書78-2)




引き続き抜粋

この生命の本来である創造意欲は、常に価値の高い目標で定めねばならない。もっと目標の高いものを標準として、自分の創造意欲の情熱の火を燃やさなければならない。それは、第一に、”自己向上”ということである。


ただ変わったと思うのは、心の中の知恵分別や、体の発達の状態、あるいは身分などで、人間そのものは、変わりはないはずである。変わりのない人間であったら、ますます研ぎ上げたらどうだ!
そうすることが、つまり活きている間に、一日一刻といえども、完全に活きることが、この貴重なる生命を与えてくれた造物主への正当な義務である。


「人間は、健康でも、運命でも、心が、それを、断然乗り越えて行くところに、生命の価値があるのだ!」


「断じて行えば、鬼神もこれを避く」


人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊と一体である。そして人の心は、その宇宙霊の力を自己の生命の中へ、思うがままに受け入れ能う働きを持つ。


自己を向上させるために、勉強するんだから、試験を受けるために勉強しているんじゃない。自己を向上させるために、勉強するんだから、試験は楽しいものでなくてはいけない。試験がなければ、自分が進歩したかどうかわからないじゃないか。それなのに試験が嫌いになった学生は、すでに学生としての資格を、自分でスポイルしていることになる。


理解と自覚とはまったく違う。理解というのは、ただわかったというだけであり、自覚というのは、本当に自分の魂に受け入れたことなのである。


「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」


信念が出てこないと、人生は不可解なことがいっぱいなんだから、あっちへウロウロこっちへウロウロとして、本当に安心立命の人生に活きることが出来ないという滑稽な結果だけになってしまう。信念を持つということを多くの人は、大変むずかしいことのように思っているが、決して難しくもなんともないんだよ。


要らないことには、全然、心をおびやかされたり、関係させたりしないことである。


本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいうのだ。いくら心身統一法を何十年やっても、幸福は向こうから飛び込んで来るのではない。自分の心が、幸福を呼ばなければ、幸福は来やしない。


「出来るだけ平素、幸福の方面から人生を考えよ」


修業を積み、本当の気持ちが出てくると、感情をいつわらなくなるのだ。


恐怖というものは全く余計なものなのである。考えなくてもいいことなのだ。心に犬小屋みたいな設計図を画いて、宏壮な邸宅など出来るはずがない。


考えてみると、無自覚というものは、全く価値のないものである。


いつも口癖にいうとおり、「己れを守るものは、己れだ!」


原因は勇気が欠けているからで、勇気が欠けているから、消極的な心や気持ちが起こってくるのである。


勇気は常に勝利をもたらし
恐怖は常に敗北を招く


心の生活を豊かにするには、もちろん、心で思ったり、考えたりすることが、功利的であってはいけない。終始宇宙本体と同じように、”真””善””美”であらしめると同時に、理想もまた、終始、気高いものを心に描いていなけれなならない。


詩人は詩的に、哲学者は哲学的に、普通の人よりも高級な組織で、その想像が組み立てられる点と、その想像の内容が統一されている点に相違があるのである。


我々は常に自己の欲する事物を、完備し、しかも、チャンと一定した形に積極的に描かねばならない。そして、その求るところのものを心に描き終ったならば、それを固く固く心に守り、どんなことがあっても、決して変更させたり動揺させたりしてはならない。と同時に、特に特に必要な事柄は、確実に自分のものにすることが出来るという”信念”を堅固にして、ゆるがせにしないことである。


以上抜粋

to be continued・・・



2012年2月10日金曜日

運命を拓く(食べる読書78-1)




以下抜粋


行きぬくために生命は、強い力とすばらしい智恵を保有している。
生命は、力と智恵を行使して、絶妙な創造活動をする。


悟りというのは、自分の心が真理を感じたときの心の状態をいうのである。


”アイディア”というのは、”気”の動く場合における、現象事実に対する名詞である。


「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」


人間の心が、病や運命を気にしないという積極的状態であるとき、すなわち心が無念無想に近い状態であれば、宇宙に隈なく遍満存在している、幽玄微妙な気の持つ霊智を受け入れる分量が多くなるが、肉体や、肉体から発生する本能とか感覚に心が縛られて、心の融通性の極めて狭い消極的な心になると、その受け入れ態勢を妨害することになり、この尊い力からも、働きも十分に生命の中に受け入れることができない。事実をもって、これを自分の体で経験したのである。


所詮、人生は心一つの置きどころ。


何事においても、そのときの心の態度が、成功を生み、また失敗にも追いやる。ちょっとしたことでも例外ではない。紙に一本の線を引くにも、丸を画くにも、心の在り方いかんですぐ乱れがきてしまうのである。


「悟れば、一瞬にして幸来る」


人間はそれ自身を宇宙の創造を司る偉大な力を持つ宇宙霊と自由に交流、結合し得る資格をもっている。資格があるから、同時にこれと共同活動を行わせることもできるのは当然のことであり、そうすることによって万事を想うままに成就できるのである。


「人間の背後には、人間が何を欲するにも、また何を人知れず思うにも、その一切を現実の形として現わそうと待ち構えている宇宙霊が控えている」


考えて、考えて、考えつくまで半年かかった。しかし考えていくうちにだんだん魂の夜明けがきた。そしてようやく、宇宙の根本主体の持っている働きの方から人間を考えてみようという考え方が出てきたのである。


「ぜいたくをしにきたのでもないし、病をわずらうために出てきたのでもない。何か人間以外にできないことを人間にさせるために、他の生物にない力を与えられている。その力があるから万物の霊長なのだなあ」


自分というものは、ひとりでいるのではない。常に宇宙霊というものに包まれていて、しかも宇宙霊は全知全能の力をもっている。それと結び付いている生命を自分が持っているのである。


「普通の人間のことをいっているんじゃない!俺のところに来てこういうふうに毎日毎日真理を探究している以上は普通の人間じゃないんだ!まだ自分は普通の人間だと思っているのか、お前は!普通の人間はお前のように毎日毎日真理と取り組んで貴重な時間を過ごしちゃいない。毎日毎日くだらない人事、世事にせわしなく働き、やたらとその言葉を汚し、実に、自分ならびに他人をも悪くするような言葉のみを終始使っているのだ。それは凡人のいうことだ。真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に愧ずかしいことで、結局、極端に自己を侮辱していることになるじゃないか!・・・」


いろんな理屈をさかんにいって、卑近な学問を研究したために、普通の人よりも人生に関する理屈をべらべらいうだけで、いっているそばから、自分のいっている理屈に自分が苦しめられていた、ということを考えてみると、実際自分ながら、あんまり利口じゃないなあと思った。


あなたがたが四六時中使っている言葉…。
自分の言葉に自分が尊敬を感じるような言葉をいっているか!


潜在意識の状態が実在意識の状態に同化してくるのである。そして、その結果が気高い言葉、神聖な言葉であり、いい換えれば、積極的な言葉を表現した場合には、生命の一切が極めて状態のよい事実になって現われてくる。けれども、万が一、消極的な、怒り、悲しみ、悶え、迷い、そして悩みが遠慮なく口から出されるという場合には、もう恐ろしい結果を神経系統の生活機能に与えてしまうのである。


何気なく出てくる言葉というものはあるものではない。どんな人の言葉ですら、その言葉になる前には、観念が言葉を創るのだから。


「さあ心配するな!俺が来たからもう大丈夫だから、いいか!俺が駄目だと言ったら覚悟しろ。俺が駄目だといわなければ大丈夫だから!」


絶対的なものは、人々の心でのみ創られる。


よく考えてみよう。自分を貧弱な哀れな人間と思う考え方ほど、およそ値打ちがなく意味のない人生はないのだということを。


宇宙真理がいったのならともかく、何とまあ、貴重な自分の人生を、他人にかきまわされ、自分自身の自由を拘束されて活きているのだ。


腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。


必要な物だけを取り入れればよいものを、不必要なものを取り入れているから、心が消極的ななるのだ。どんな場合があっても、心がいつまでも長くひっかかっているのを執着という。腕の秀でている剣客が、相手の斬り込んでくる大刀を、大刀風三寸、すっとかわしていくがごとく、心を汚さないようにするのだ。それを悲しまずにおられるか、これが怒らずにおられるか、これが憎まずにおられるか、というように人々は理屈をつける。


習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。


「すべてのことを喜び、すべてのことを感謝して行く」


つらいこととか、悲しいこととか、苦しいこととかいうのは、自分の心で決める評価なんだから。つらいことがあっても、
「ああ嬉しい!こうして生きていられる!」と思ったら、ニコニコして暮らしていけるじゃないか。殺されるよりいいじゃないか。


折にふれ、ふっと安定打坐に心を向け、時あるごとに活力を吸収し、そして自分で肉体を鍛えていって、心をしょっちゅう綺麗にする、このことを忘れないように心がけ、実行しよう!


to be continued・・・



2012年2月4日土曜日

「カッコーの巣の上で」、「フィールドオブドリームス」、そして「たそがれ清兵衛」


この三作品はこれまで観てきた映画の中で特にいいと思った三つである。


しかし、くくりとしてたそがれ清兵衛 [Blu-ray]フィールド・オブ・ドリームス [DVD]カッコーの巣の上で [Blu-ray]は違うと最近不意に思った。


洋画の二作品はテーマが明確で、そのテーマは人間としてとても重要なものであると感じる。そして、その大切さをうまく表現している。


観ていて自分の未熟さを思い知らされたり、胸に熱いものがこみあげてくる。


しかし、たそがれ清兵衛 [Blu-ray]は違う。


初めて見たときの衝撃は覚えている。ちょうど公開された時に見た。



「映画っていうのは、こんなにも美しいものなのか!!」というのが観た感想だった。


上の二作品は人生の中での大事な部分をピックアップしてえがいている。つまり、切り取られた人生である。


しかし、たそがれ清兵衛 [Blu-ray]はあるがままの人生・生活をそのまま、特にどこかを誇張することもなく表現していると感じた。



そのあるがままの姿に”美”を感じた。


この作品のテーマは人により変わると思うが、私はこうとらえた。


「勉強と人が生きることとの関係」


である。


よく映画や小説などで、その作品の中で最も言いたいことを、その登場人物の誰かに言わせるということがある。


たそがれ清兵衛 [Blu-ray]においては、冒頭の部分。清兵衛の娘の口から発せられたと感じた。


「なんで勉強しないといけないの?」

だ。


決して裕福ではない清兵衛の家計。娘二人は寺子屋へ通っている。家計は厳しいが、一応武士ではあるからだろう、下人が一人いる。


時代は、黒船来航後のころ。時代の転換期である。


それから映画はいろいろストーリーが展開していくのだが、その中で、二人の男の姿が私の胸を打つ。


一人は、剣一筋で生きて、滅私奉公でやってきた男だ。しかし、くびになった彼は屋敷に立てこもり、連れ戻しに来た武士を切り殺している。その彼の説得のために清兵衛が赴くのだが、そこでのやり取り・チャンバラの後、最後にその男の放った言葉が、


「見えない。真っ暗だ、目の前が真っ暗だ…」みたいな言葉だった。


それまでは、剣の腕が評価の対象だった。しかし、黒船来航後、近代兵器が西洋から入ってきて、剣の時代ではなくなっていく。そんな時代背景のことを考えると、彼のことは仕方がなかったと思ってしまうが、どうだろう?


もう一人は、清兵衛の家の下人、男性である。清兵衛が外出する際には必ずお供し、どこかの屋敷に用事で清兵衛は入れるが、彼は門の外で縮こまって待つのである。さらに、どうやらあまり言葉が話せないらしい。決して病気か何かで話せないのではなく、生活するうえで自分から何か発言することがほとんどないのだろう。聞くことはできるが、ほとんど話さないのである。

この教養の差。

これまでは、雇われればそれ以外は考えなくてよかったということの象徴であろう。しかし、国家が根底から変わろうとする当時において、話せないのは、…どうなるんだこいつは…。と思ってしまう。


そしてエンディング。


清兵衛の娘が、洋服を着て明治政府の時代になった時から父のことを思うというシーン。


何があっても時代は変わっていく。その中で多くの人がのみこまれた。そんな状況では善も悪もない。ただただ、先へ向かうだけだ。


そして、新しい夜明け。


その過程には多くの屍がある。しかし、逆に富んでゆくものも多くいる。


西洋作品においては、善と悪との対立がどこかしら見え隠れする。それはそこに焦点が当たっているからで、言い換えれば視野が狭い。


たそがれ清兵衛 [Blu-ray]では、善も善とせず、悪も悪としない。すべてを変えた時代の変化。その変化に”美”を感じた。


しかも、その”美”をこうも鮮やかに、醜い部分も含みつつ、決して良い部分の描写が多い作品とは言えないが、人々の日常へ密着するという視点から、時代の変化までこうも焦点の遠近の幅が広い作品はお目にかかっていない。これがすごい。


わかるだろうか。こんなにも時代は変化するが、人間はそれでも生きてゆくという、人間の泥臭さも感じるのである。


本当に、綺麗な、細工の細かいガラス細工のような印象をこの作品から受けた。それは、その構成からカメラアングルなどまで、どれか一つでも違っていたらこんなにも壮大な人間の姿を表現はできなかっただろうと思うからだ。映画には詳しくないが、すごく美しいと感じた。


そして、時代は変わっても人間は生きてゆくのだが、その変化をどう乗り越えればいいのかも、その答えをこの作品の中で示している。


それが、冒頭の「なんで勉強しないといけないの?」だ。


このために人は勉強する。

生きていくために。

たとえ、どんなにおのれを取り巻く環境が変わろうともだ。

この、今ここにいるという自分という存在、この存在を最も確実なものにするために、我々は勉強するのである。


具体的には、環境の変化を敏感に察知し、素早く行動する。それを可能にするのが勉強だ。


情報収集・情報処理そして情報創造能力。


70年説という、70年で時代は変わるという考えをしている人がいる。


70年前は、戦争敗北の時、さらに前は幕末維新、ちょうどたそがれ清兵衛 [Blu-ray]の時代。


この変化の時代を、私は優雅に生き抜いてやります。


ハリウッドが映画産業においては群を抜いているが、彼らの発する情報に少し飽きてきました。もちろんいい作品もあるが、これから生きていくうえで、それは逆に足かせになるだろう。逆に、こういう時代もあったねと過去の参考文献として見るのがいいかも。


よって、人間の存在意義などとつまんないことを言っていないで、自分の生まれたこの時代を自分らしく生きぬいてみろよ。とたそがれ清兵衛 [Blu-ray]に言われた気がします。


そのためには、カッコーの巣の上で [Blu-ray]フィールド・オブ・ドリームス 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]も観てて損はないと思います。



結論として三作品共に良いです。しかし、たそがれ清兵衛 [Blu-ray]はそこに”美”があります。


美しい、優雅な人生を♡


以上
またね***






一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...