2012年7月31日火曜日

水滸伝九(食べる読書111)




ひとりの女のためにすべてを捨てる。


林冲はそういう男だった。


それが林冲らしいともいえる。


それが弱さでもあるし、魅力でもある。



梁山泊一の豪傑の、まさに人間らしい一面が見れて、何というか、人間の奥深さと広さを感じた。



鄧飛が死んだ。かつて、魯智深をひとりで救出し、今回は柴進を救出した。



こういう男は嫌いじゃない。



不器用で集団行動はとれないくらい我がつよいが、自分なりの芯を持つ。



心に響いた。この男の物語が。



以下抜粋


人に頼んで入ろうとする。それは間違いなのかもしれん。


宋江の夢。ふと思った。宋江とともに抱いた、歴史を変えようという夢。それさえも、自分は捨ててきていた。



「鋭いというより、読み方が違う。おまえは、事実を分析し、積み上げ、結論を出す。袁明様は、報告書を書いた人間を見ようとされる。つまり、弱いところを摑むのがうまい」



「威すしかあるまい。なんなら、人質を取るとか」
「それもよかろう。もうひとつ方法があるぞ、聞煥章。牢城にいる山師を使う。釈放という条件だけで、本気で働くだろう。いい山師を、まず牢城に放りこむ、という手もある」



ものが大量に動けば、疑心を抱く


国というものについて、自分は考える資格があるのか。志を、しっかりと抱ける人間として生きているのか。



無駄なことをいっぱいやって、なにが大事なのかわかるんじゃないか



もう走れない。そんな気が、しばしば襲ってきた。
自分はいつも、ここでやめた。そう思った。ここでやめるのは、途中で投げ出すということだ。そんな生き方しか、いままでしてこなかった。



「袁明は袁明で、志を持っている。いまは強くそう思う。宋との戦は、志と志の戦でもある。まことの正義など、誰にも見えておらん。自らが抱いた正義を、まことと思うしかないのだろう」



「なにが、軍法です。そんなものが、人より大事なのですか。それは、軍法が必要だと言って作ったのは私であり、否定するにはいくらか気後れもありますが、人がいてこその法だ、とも言えます」



「いや、ほんの些細なことだが、やさしさの中にいることが、楊令をしばしば戸惑わせているのではないか、と思う。楊令は、やさしさを求めてはおらん。強さを求めておる。しかし注がれるのはやさしさばかり、という状態ではないのかな」



「楊令は、強さがなにかも知らぬまま、ただ強くなろうとしている。梁山泊にいる限り、ずっとそうであろうな。強いが、その強さが歪んでいる。そういう成長になりかねんな。といって、わしに方策があるわけではないが。とにかく、梁山泊にいるかぎりは」


男なら、時には本心を剥き出しにせよ。それで駄目ならば、縁がないと思えばいい。


考えるだけでなく、決めるのだな


「気力を失う者が、二竜山に、いや梁山泊に多くなってはならぬ。みんなそれぞれに、働いているという自覚をも持たせることだ。それで、兵はいくらかは負傷も恐れなくなる」



「林冲、おまえは人の心のままに動いた。人が人の心を持てる国。これが、梁山泊が目指している国でもある。おまえは、人として間違ったことはしなかった。しかし、軍規というものがある。死罪は私の苦渋の選択なのだ。わかるな?」



「人として間違ったことはしなかったが、軍人として間違った。そういうこともあるのだと、私はいましみじみ思っている。人として間違っていないおまえを処断することは、私にとっては痛恨のきわみである。私は、自裁しようと思う。私が死ぬことで、はじめておまえに死罪も申しつけられる」



「全員が、林冲を罰するべきだと言う。しかし、死罪を望んでいる者はいない。軍規もまた、いたずらに人を死なせるためにあるものではない」



人は、正しいと思ったことをやれば、泣きたい目に遭うこともある。そう思った。



「人生も、捨てたものではないな、馬麟」



少しずつ特別ではなくしていこうではないか。それこそが、人の集まりというものだろう。特別であればあるだけ、その存在が消えた時、集団は危機に陥る。結成されたころと較べて、梁山泊は大きくなった。そういう時こそ、私の言ったことを考えるべきなのだ。小さいころは、まだよかった。梁山泊の質そのものも、変わるべきなのだ



「宋江は、いつも本気だ。愚直と思えるほどにな。だから、みんなが慕うのだ」



「自分をくやしがるだけでは、なにもできんぞ、李袞。やれることをやれ」



ほんとうに欲しいのは、自分が生き延びることなどでなく、仲間だった。ともに、闘える仲間。死んだら、泣いてくれる仲間。



「なんのために生き、なんのために闘うのか、わかっていない男だった。だから、誰もが持っている卑怯さ、臆病さが、自分のすべてだと思いこんでいた。小さな山だけを自分の世界にし、そこを拡げようとさえしていなかった」



この正直さは、将校としての資質と言ってもいい。強がりより、正直さの方が、よほど強く兵の心を摑む。



「ああいう若者が、この国には多くいるのだろう。気概を持った者は、自分で梁山泊を目指してやってくるだろうが、どういう気概を持てばいいかもわからず、ただ流され、それが耐え難いと思っている若者が。晁蓋殿、そういう者を見抜いて眼を開かせるのも、大事なことだ。眼さえ開けば、気概だけの者よりずっと本物になることもある」



商人は、志などではなく、利で動く。



名簿を読むだけでも、人の思いも生き方も、さまざまなものだと改めて思う。それが、志のもとに、ひとつに集まっている。こんなことがあるのだろうかと、信じられないような気分に、しばしば襲われた。



躰は鍛えているか。心が挫けてはいないか。自分を男と思えるか。
考えただけで、心がふるえた。



「急ぐ時ほど、肩の力を抜く。そうすべきだということが、私にもようやくわかってきたようだ」



「堅陣は、兵に安心を与えます。心に余裕のある兵は、なかなか算を乱しません」



俺たちはな、いま人のやれねえことをやろうとしている。わかるか。


「ここで、踏ん張るのよ。三日、四日眠らねえから、なんだってんだ。男はよ、語り継がれるようにならなきゃならねえ。わかるか、楊林。あいつはすげえって、みんなに言わせるんだ。いまだけじゃなく、俺たちが老いぼれても、死んでもな」



「俺が、命を預かる。無駄死はさせんが、死なせることをためらいもしない」



冷たい風が吹いていた。時々砂が舞うが、空は晴れている。
俺が、語り継ぐ。兄貴のことは、俺が生きているかぎり、語り継ぐ。
空にむかって、呟くように楊林は言った。





以上
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2012年7月28日土曜日

大富豪の仕事術(食べる読書110)




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ノウハウではなく、考え方が載っていると感じる。


しかも、具体例を挙げての考え方なので、「その考え方があったかあ!」という印象は受ける。



なんだろう、ちょっとした思考の変化、視点をずらすといったとこだろうか。


しかし、そのずらすのは小手先レベルではなく、自分の目的と整合性があるかといったところかなとも感じた。



机上の空論ではないのは確かだろう。実践に裏打ちされているのだ。



この本も、何度も読んで自分の一部としたい本である。


以下抜粋


彼ら(成功する人たち)は勝算がどれくらいかを見極めている。そして、勝ち目がまあまああれば、大胆かつ精力的に進む。


失敗のコストは行動しないコストに比べればそれほど大きくないことを、成功者は経験から知っている。失敗の意味は、今度はもっと賢くやれるということである。



成功する準備ができているなら、あなたがすべきなのはそれだ。すぐに始めること。ただし、ほかの人々によって十分効果があると証明された戦略を使わなければならない。



マスタープランが有効であるためには、現実的で柔軟性がなければならない。資源や能力について現実的でなければならず、状況いかんによっては調整、および/または大幅に変更する必要がある。
正しく使えば、マスタープランは奇跡をかなえることができる。


自分の夢を実現したいのだったら、夢をゴールへえと変えていかなければならないのだ。



自分のコア・バリューに従って生きているのでなければ、どんな成功を手にしようとも、心が晴れるということはあり得ない。



幸福とは、自分の価値観が達成されたときに生まれる意識の状態のことである。



生産性というものは、偶然に達成できるものではない。自分を高め、周到に計画を練り、集中して取り組んだ結果である。



その日の計画を立てなければ、結局、自分のためではなく、他人のために働くことになってしまうのだ。



自分で時間を管理するには、自分だけのためにつくった課題リストに従ってその日の計画を立ててしまうのが一番である。



日記をつけているとき、ゴールを決めることは最も生産的な部分を占めている。最高に楽しいことではないのかもしれないが、長期的な計画を成功に導くためには欠かすことのできないものなのである。




よりよい人生を送ろうと思うなら、調子のよい日が続くようにすることだ。それには、自分の決めた優先順位に従って、特に重要なことを最初にすませるように、毎日の予定を立てるのが一番である。



自分の人生を変えたいと思うなら、元気で力に満ちあふれているときに最も重要な課題に取り組むことで、向かうところ敵なしの強さを自然と身につけてしまうことだ。
早起きしよう。早くオフィスに行こう。そしてまず、重要だが緊急ではない課題に取り組もう。



重要なのは、自分にとっての最終的なゴールを心に留めておくのに一番役立つことをするということである。



この課題をどうやってすませるかとか、あの問題をどうやって解決するかということを考えている。富と成功は、きちんと計画を立て、それに従って行動することで手に入れられると知っているからである。



言いにくいこと、批判的なことはメールには書かない。書いてしまうと、片づけるべきメールがさらに送られてきて、混乱するだけだからだ。肯定的なことなら、すかさず返事が書けるだろう。すぐに説明できないようなことなら、会って話すか、電話をかけるようにする。



自分自身に対するイメージが変わってしまうと、モチベーションが長続きするようになった。



可もなく不可もない活動の大きな問題は、私にとっては非常に大きな問題なのだが、活力が湧いてくるどころか、無気力にさせられ、空虚な気持になってしまうことにある。可もなく不可もない活動は、可もなく不可もない食事(満腹感の得られる食べ物など)のようなものだ。腹は満たされても、疲れ切ってしまう。


自分でコントロールできないことはコントロールできない。しかし、それに対する反応の仕方はコントロールできる。



「誰もが知っているとおり、人間は幸福を追求するのではなく、幸福になるための理由を探し求めているのである。(中略)一度、意味を探し当ててしまうと、幸福な状態になるとともに、苦痛に耐え忍ぶ能力をも手にすることになる」



彼らは、行動からモチベーションをつくりだす。



ゴールを持ち、そのゴールの達成を最優先にして、毎日それに基づいて行動する方法を見つけなければ、成功する可能性は非常に少なくなる。



唯一の目的から注意をそらすことは決してなかった。



1、長時間、懸命に働く
2、1つの目標に集中し続ける
3、成功するためには犠牲を厭わない



自分の中にある燃える思いを見つけなければならない。あなたの人生を生きるには、その思いを利用しなければならない。



達成したいゴールに取り組み、マスターしたいスキルを練習して、脳のネットワークを書き換えよう。



行動‐行動だけが、脳の大脳辺縁系の記憶を書き換えることが可能で、あなたを真の「成功マシン」に変えられるのだ。




失敗促進の原則はこうだ‐複雑なスキルを伸ばすためには、進んで間違え、失敗をがまんすること。間違いを犯し、その失敗で苦しむ時期が早ければ早いほど、スキルを習得するスピードが速まる。



私は、この書かないことに対する言い訳を正当化しながら、夢をあきらめるときに多くの人の心に芽生える自己欺瞞の構造を構築していった。



・自分のゴールは現実的か。以前にやったことはないか。もしあるのなら何度か。試したけれどうまくいかなかったのはどのくらいの頻度か。数字から見て、成功する確率はどのくらいか。
・ゴールの実現に必要なものを持っているか。知恵は働くか。学ぶ力はあるか。成功するための心のスタミナはあるか。



疑念は信念の反対ではない。信念の要素の1つである。




ゴールを書き出して、定期的にチェックしていると、達成できる可能性がずいぶんと高くなるという。



どんな組織でも、権力は否応なく人を説得するスキルをマスターした人のところに集中する。手段は、インターネット上だろうと、電話だろうと、あるいは面と向かってだろうとたいして関係ない。重要なのは、自分のアイデアが価値あるものだと相手を納得させる能力だ。



長期的に見て人生の質に最も大きな違いをもたらすのは、話術を向上させるといった重要だが緊急ではない課題なのである。だから、それを最優先事項にしなければならない。



重要なのは読書リストによって一年に一度、何を読むかを意識的に考えて決められることだ。衝動で決めるのではない。誰かに勧められて読むのでもない。
何が自分に役立つかについて自分自身で判断する。探しているのは「金」で、それ以外のものに費やす時間はない。



たいていの事業では、成功するためにすべてを知っている必要はない。



精神的な生き物である人間の意識は、常にエゴの収縮と弛緩の間を行き来している。自分本位の収縮的な衝動は仕事や創造的アートの原動力になるが、緊張、病気、絶望の原因にもなる。分解への衝動は愛情関係の源だ。それは私たちをリラックスさせ、自己の最終的な分解、すなわち死を受け入れる準備をさせる。



金持ちになるには、どれだけポジティブな人間か、あるいはネガティブな人間かではなく、具体的な行動をとることができるか、できないかによって決まる。


時間だけは誰にでも等しく、一日24時間が与えられている。その時間で何をするかが、あなたの成功と幸福を決めるのだ。



新規事業や新製品を立ち上げる際には、どうすれば最速で収支が合うようになるかを考える。



成功している企業家は、事業経営のために専門家を雇ったりはしない。自分の頭で考える。新製品や新規プロジェクトを動かすときは人を頼らず、必ず自分でやり遂げる。余計な仕事がどっさりあるとストレスになるし、時間を消費するかもしれないが、長い目で見ればそれだけの価値はある。プロジェクトに対する理解が深まり、非常に有益なものとなる。



生まれつきの知能は問題ではない。


商業の世界で問題になるのは、あなたの「考え方」だ。



新製品を見ると、「自分の業界で、同じか似た製品を生産するにはどうすればいいか?」と考える。


億万長者の思考法を持つ人は現実主義だ。常に自分の成功とほかの人の成功を分析し、そこから同どうやって学ぼうかと考える。



億万長者の思考法を持つ人は先を見越して行動する。


億万長者の思考法を持つ人は「成功の秘訣は何か?」とか「どうやったら自分にもできるだろうか?」と考える。


億万長者のような考え方をするには、変化に対する自分の本能を信じることだ‐が、変化を見極められるように、自分自身を訓練することも必要である。そうすれば、金銭面、感情面で大いに満足できる。



人生における幸福や充実感は自分のためではなく、ほかの人のために尽くすことにあると私は考える。



以上
またね***

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2012年7月27日金曜日

”みる”を見直す

”見る”でも”観る”でも、”診る”、”看る”、”視る”など、どれでもいいのだが、見るという動作は我々のなにを表しているのか。



他の生物と比較した場合、人間の視覚の意味が見えてはくる。だが、それは生物学的視点においてだ。



この”視点”ということも含めて考えてみたいのだ。




目的語が要る。



これが「見る」である。



見る主体があり、見られる対象(客体)がある。



主客が一致することはあるのか?



例えば、禅問答のようだが、「見ている自分を見ることは可能か否か」。



「我思う、ゆえに我あり」とは、一見それらしく見えるが、そうではない。この場合は単に視点を変えただけだ。つまり、主体が客体を変えることで新たな発見があったということだ。自分以外の客体から、それらを考えている自分を客体に変えることで、だ。



文法的問題なのかどうかはわからないが、主語と目的語が同じ「もの・こと」を示す文というのは存在するのだろうか。



「私が、私を見る」



パラドックスというのがある。アキレスと亀、うそつきの何々人、などなど。



以前も書いたような気がするが、パラドックスの存在は、言葉の限界を示していると考える。



つまり、言葉はどれだけ現実世界を正確に表現できるか、である。そして、言葉はそれを成し得ないからパラドックスが存在する。



無限ループに陥るような感覚があるのがパラドックスの特徴かと思うが、主客同一の文もパラドックスになるのだろうか。



と、こう問題提起してみたが、これは意味のある問題提起とは思えない。



以前、ゾーンについての本を読んだことがある。そこでは、弓道を極めるまでの外国人の例が書かれていた。



印象に残っているのは、「弓を引くのはあなたではない。何か知らないが大きな存在が弓をあなたに引かせているのだ。だから、その”とき”がくるまでは弓は引かれるだけの、そういうものではないのだ。」といった趣旨のことを師匠がこの外国人に言った言葉だ。



だから、この弓道の修業において、師匠は決して弓のひき方などを教えなかったという。




目的語とは、どうしても自分の外にあるものだ。なぜなら、主体が自分だからだ。もし、主客同一が可能ならば、それは、そういう存在であるということなのだ。



わかるだろうか。この転換が起こっている。



”見る”といった”~する”から、”~である”というふうに、概念自体がガラッと変わっている。



動作動詞から状態動詞への変換。




「私が、私を見る」から、「私は、私である」へ。




なにかをする際、われわれは”なにか”をするのである。




本を読む、勉強をする、売り上げを上げる、女を口説く、などなど。それはそのまま、本を読んでいない自分、勉強をしていない自分、売上の上がらない自分、女を口説かない自分、といった”状態”が前提となっている。




恐ろしいことだが、「よしっ!!勉強するぞ」と張り切ったところで、それは勉強しない自分がノーマルであることを宣言しているのである。



女を口説くのもそうだ。週末女性を口説くかあ!!と言ったところで、日ごろ女性を口説かない自分を認めちまっている。それが、自分であると。女性を口説いている自分が非日常的なのだと。それはそのまま、平日は”冴えない自分”を受け入れちゃっている。



何かを見る、何かをする、といった場合、われわれは普段とは違うことをしているのである。たとえ、それが自分の日常的な行動であろうと、それがあなた自身にさえなっていないのなら、同じだ。




「なぜ、山に登るのですか?」
「そこに山があるから」


と答えた登山家がいた。



そういうことなのだろう。



山があり、それに登る。その一連の行動習慣全体で”登山家”なのだ、彼にとって。



富士山だから登る、ではないのだ。



見えてきただろうか。”見る”という動作をしている限り、カミュの「異邦人」よろしく、いくら真剣に集中していたとしても、それがあなたではないのだ。



サッカー観戦を楽しむより、サッカーを楽しむ。


ロンドンオリンピックだが、マスコミに騒がれる選手たちはどういう”状態”で演技をするのだろうか。


「金メダルをめざす」のか「金メダルを取っているのが自分」なのか。自分の外にあるメダルなのか、そのメダル事態自分なのか。



動作動詞と状態動詞。



常日頃、どんな言葉を多く使うのか。


また、その言葉を使う目的より、それを使っている自分を”観て”、どんな”状態”なのか知ることは大事だろう。



”見る”から自分の現在地を知り、己を変える。変わったかどうかは、以前とは違う景色を”見て”いるかでわかる。



”見る”はあくまで、現状認識に使うべきだ。決してそれが目的になることはない。



”見る”を活かす。



自分の在り方を知るために。





少し焦点がずれるかもしれないが、こういうことが日常的に言えるのではないか。



自分が”見て”いるかどうかを知るいちばんわかりやすいのは彼女や家族の反応だろう。


彼女とデートなどしていて、そのデート自体を楽しんでいなく、そのでデートを”見て”いたり他のことに気を取られ心ここにあらずだったら、どえらい空気になります。


家族でもそうだろう。子どもがいるなら、子どもは集団でいるのだが、自分を優先するようになるだろうし、奥さんは不機嫌になるだろう。


「家族や恋人といるときは愛を感じているのが自分という存在である。」こう定義してみたら、少しはましになるのかも。


こういう場合は、キーワードは”見る”ではなく”感じる”なのだろう。


”感じる”についても、考察していきたいな、今後。



愛してます。



以上
またね***

2012年7月24日火曜日

水滸伝八(食べる読書109)





祝家荘戦である。



これまでにない闘いだった。その闘いの質において、厳しく、初めから人材を発掘するしかなかった。



その現状の中で使える方法を考えていくという意味でおもしろかった。



解宝・解珍、李応がいたのは運が良かったのだろう。



というより、どこかしらに梁山泊に呼応する人物がいるということはある意味で、梁山泊が宋の本質を衝いているということである。また、宋の本質だけでなく、人の本質も併せ持っている。これらは表裏一体ではあるが。つまり社会とは人である。このことを考えさせられる巻だった。



以下抜粋


しかし、ほんとうに生きたのか。自分を見つめることから逃れて、ただ歳月を重ねただけではないのか。


自分の人生に、臆病だった。それは、虎とむかい合った時、臆病になることとは違う。


「変わったものは、よく頭に入れておけよ、解宝。なにかと考えるより、できるだけ覚えておくのだ」



「私は、いきなり孫立に頼みごとをした。人生を左右するのは間違いない頼み事だ。頼み事をしながら、貫く義がなにひとつとしてない。梁山泊の志は別として、私自身の話になるのだが。捕えられ、八つ裂きにされても構わん。私はここで、孫立を待つ」



「猛き心を取り戻すことだ。すべて、心だ。身は老いても、雄々しくあることだ」



「もう、これはわしには必要ない。これからは、自分自身で戦うからだ」



炎を見つめながら”替天行道”をすべて燃やした。密かにあこがれだけを抱いていた過去が、これで消えた。



目的がある。どれほどでも、卑屈になれた。


「俺を、信じろ。多くは言わん。信じて、ただ闘え。生き残ろうと思うな。死のうとも思うな。生死を超越し、ただ闘うのだ」



純真な眼をした男だった。修羅場を、修羅場とも思わず、潜り抜けてきたのだろう。こういう男も、秦明は嫌いではなかった。
「さっきから聞いてりゃ、難しいとしか言ってねえよ、あんた。死ぬ気になったら、なにが難しい?」



考えすぎるのは、弱さでもあった。


「やさしすぎるのだな、あなたは。これからの人生で、それがまたあなたを傷つけることがなければいい、と思うのだが」


こういう時こそ、総大将の決定です。戦の流れを作るということですから



そうやって、重いものを背負わなければならない。上に立つ方の宿命ですな。



「私は、自分の部下を信じる、呉用殿。自分の命を、自分で守るということも、ともに学びながら、あの調練を続けてきたのだ」



「頭が固すぎると思うか、杜興?」
「いえ、美徳をお持ちです。相手がどうであろうと、盟約は守るべし。それは、美徳と言ってよいでありましょう」
「美徳で、人は救えん」
「確かに。しかし、美徳を持った人生は、豊かなものだという気もしますが」
「私は、生ききっていない。楽な人生に安住して、ほんとうに生きてはいない。このところ、そんな気がしてならん。生きている、と思いたいのだ、私は。こんなことしか考えられない男が、荘の長などしていいものか。父が長であったというだけで、私は自分の力で長になったのではない。」


頼りないが、しかし動じない。動じないところが、宋江の総大将としての資質だった。



そのあたりは、鷹揚というより、関心がないのではないか、とさえ思えてしまうところだった。しかし総大将には、負ければ死か際限のない屈辱が待っているだけである。
すべてを預けて、平然としていられる。これも、上に立つ者の資質だろう。



「あらゆるものを使い、あらゆる手段を取ります。逡巡は、負けに繋がります」


祝家荘が勝とうが負けようが、どうでもよかった。見えてきたのは、安逸の中で生きる自分の姿であり、ほんとうに望んでいるのは、そこからの脱出だった。
生きていない。そう思う。このままでは、生きたという実感も持たぬまま、一生を終えてしまうかもしれない。それを、拒みたい。自分が、思う通りきちんと生きたのだと感じていたい。
しかし、どうすればいいのか。


秋は待つ。しかし、作ることもやる。ほんとうに待つとは、そういうことだ。



上に立つ者は、人に思い入れをこめてはならない。晁蓋や宋江は、深い思い入れを示すが、それはすべての人間にたいしてであり、だから思い入れなどではないとも言えるのだ。思い入れは、孤独に耐えられない弱さゆえなのだろうか。


「この宋とたちむかう。そう決めた時、生きてはいられまいと思った。いまも、それは変わっておらん。ただ、これほどに闘った者たちがいた。それは、後世にも知らしめたい」



李忠は、傑出した軍人というわけではない。槍の腕もいまひとつで、兵の中にも李忠に勝てる者がいるはずだ。ただ、公平で、視野も狭くなかった。なにより、弱い者の気持をよく理解できる。中隊や大隊を率いるのに、適任だろう。



「違う。めぐり合わせだった、ということだ。頭目になるめぐり合わせだった。今度の戦でもそうだ。杜遷、宋万が死んだ。それで私とおまえが隊長になった。めぐり合わせだな」



「わからぬ。が、私は梁山泊の頭領のひとりと言われるようになってから、常に恥ずかしいと思い続けている。腕は立たぬし、臆病であるし、しばしば手間もかけさせる」
「そんなことは」
「いや、そうなのだ、焦挺。ただ、それも仕方あるまい。私が恥かしさを感じなくなったら、それで終わりなのだ」



「おまえの中で、母御は生きている。そうやって、おまえは生きるしかない。そのうち、心の中は死者で溢れる。それが生きるということでもあるのだぞ。おまえが死ねば、誰の心の中で生き続けるのであろうな」



やれることを、やればいい。杜遷も宋万も、ああいう死に方をしようと、以前から思っていたわけではあるまい。あれが、あの時、二人がやれることだったのだ。



不思議な、解放感があった。自分は、豊かと言われている、独竜岡の荘のひとつの長ではなく、ただ自分のために闘おうとしている人間なのだ。梁山泊の掲げる志には、賛同している。しかし、闘うのは、志のためではない。自分を解き放つため。少なくとも、いまはそうだ。それにだけ、命をかけられる。



男の人生。李応はそう思う。どこかで自分を解き放ち、思うさま生ききってみたい。
閉じていた眼を開いた。



「深刻に考えても、どうにもならぬものを、私は深刻に考えようとは思わない。確かに、おまえは戦場の軍師であると同時に、梁山泊全体のありようも考えなければならない立場にいる。言っていることの意味は、よくわかるぞ。おまえの立場なら、最悪の場合を考えざるを得まい。しかし、もの事はすべて、最悪で進むわけではない」



「人の生死に、余計な思いを紛れこませるな、呉用。林冲も、李逵の板斧で首を刎ねられ、頭を鞠のように蹴り回されていた祝一族の者たちも、同じひとつの命なのだ」



以上
またね***



金持ちになる男、貧乏になる男(食べる読書108)




さわやかな人はいつでもどこでもさわやかなんです。



不機嫌な人はいつでもどこでも不機嫌なんです。



笑い上戸の人はいつでもどこでも笑い上戸なんです。



気を使う人はいつでもどこでも気を使うんです。



幸せな人はいつでもどこでも幸せなんです。



「その人が繰り返し行っていることがその人なのだ」とはアリストテレスの言だ。


この本を読んで、



金持ちになっチャオ☆




以下抜粋


お金は何かを生産する人たちの道具です。
あなたはそれが邪悪なことだと思いますか?


たしかに金持ちになる男も貯蓄は大切だと考えているが、世の中の問題を解決し、人びとの役に立つことによって大金を稼ぐことを考える。


金持ちになる男はつねにより豊かになることに意識を集中している。


金持ちになる男は戦略的視点からもっとも儲かる分野に労力を集中し、人脈、信用、能力にレバレッジをかけて結果を最大化する。レバレッジとは、「てこ」の原理を利用して小さな力で大きな力を発揮することである。



貧乏人が自分の外に答えを見つけようとするのに対し、金持ちは資産が心の中でつくられることを知っている。まず、金持ちのお金に対する信念を学び、それにしたがって行動しよう。結果は行動のあとに表れる。


金持ちになる男は、社会のために価値を創造するなら、誰でも金持ちになる権利があると考える。



貧乏になる男は金持ちになるのは統計的に不可能だと思いこんで現状に甘んじる。一方、金持ちになる男はそんな統計を無視して積極果敢に挑戦する。



金持ちになる男は自分に責任をもち、財産を築くために全力を傾ける。言い訳をして時間と労力を浪費するのではなく、創造性を発揮して問題解決のために時間を有効に使う。



自力で財産を築いた人たちが野心的でいられるのは、自信をもって考え抜き、粘り強く目標を追い求めるからである。自分の能力を信じるだけでは金持ちになれないが、それにもとづいてたゆまぬ努力を続ければ、やがて金持ちになることができる。



チームワークはきわめて重要である。チームワークを大切にしなければ、あなたが能力を最大限に発揮したり大金を稼いだりすることはまず不可能だ。



金持ちになる男はこうしたマイナスの信念(お金は大切ではない)を排除し、財産を築くことに集中する。たいていの場合、その目的は、お金の心配をせずに自由に暮らすことだ。


経済的余裕のある人間は境遇をコントロールできるが、経済的余裕のない人間は境遇にコントロールされ、多くの場合、判断力を行使する機会すら得られない。


金持ちになる男は自分を正直で戦略的だと考え、財産を築きたいという願望を堂々と語る。



学校教育は社会で生きていくための基本的な知識を教えるが、それは時間をお金と交換する方法であり、資産形成に役立つことはめったにない。



金持ちになる男の最大の秘密のひとつは、知識ではなく感性に頼るので問題解決のための発想が豊かなことだ。


自分の究極のビジョンに近づくテーマを研究するために、毎日少なくとも一時間を投資しよう。



解決策がなかなか見つからないからといって、それが存在しないということにはならない。



金持ちになる男はお金について論理的に考え、明晰に物事をとらえる。お金が自由と機械をもたらす有益な道具であることを知っている。お金は幸せとはほとんど関係ないが、人生というゲームの中でもっとも重要な道具のひとつであることを理解している。



貧乏になる男からすると、金持ちになる男はいつも働いているように見えるが、大好きなことをして利益を追求しているだけだ。金持ちになる男はいつも、「お金をもっていることの最大の利点は、したくないことをしなくてすむことだ」と言う。そしてそれにはお金を稼ぐ方法も含まれる。
主な違いは、大好きなことをして稼ぐか、大好きなことをするために嫌いな仕事をして稼ぐか、ということだ。私が長年にわたって話を聞いた金持ちの大半は、「大好きなことをするまでは、たくさん稼ぐことができなかった」と言う。
大好きなことをするとき、人は一日中ずっとそれについて考える。それだけの時間と労力をひとつのことに集中すれば、それが何であれ、やがて成功することは間違いない。



子どものころに周囲の人からマイナスの信念を教え込まれたとしても、それは排除できるからだ。好きなことをして財産を築くことができるという信念をもちさえすれば、これから何でもすることができる。


多くのお金を必要とするとき、金持ちはお金が手に入るかどうかを考えるのではなく、問題解決のための新しいアイデアを生み出し、大金を稼ぐ。これがどんなに効果的かわかるだろうか。あなたも同じことをすれば、同じ結果を得ることができる。


金持ちが幸せなのはお金があるからではない。彼らにとって幸せとは、「誰かが助けに来てくれるのを待たずに自分で目標を設定し、ひたむきに努力してゲームに勝つこと」なのだ。お金はそのための目安にすぎない。



金持ちが金儲けを得意とするのは知能が高いからではなく、一定の行動計画にしたがってしたたかに振る舞うからである。
金持ちになる秘訣は、財産を築いた人を観察し、お金についてどんな信念をもっているかを学ぶことだ。



金持ちになる男は、お金がその人の本性をあらわにすることを知っている。



「大好きなことしているなら、あなたに必要な唯一の報酬は、それをするということだ」



夢や目標を達成するためにはどんな人物になる必要があるかを考え、そういう人物になる努力をしよう。



どの投資家も時折損失をこうむるが、金持ちになる男は逆境を乗り越えて稼ぐことができると確信している。



野心家は資本金として一万ドルより十万ドルを借りるほうが簡単だということを知っている。貪欲な狩人が大きな獲物を狙うのと同じように、野心的な投資家は大きな金額とワクワクする取引を好むものだ。



お金は問題解決のアイデアに向かい、アイデアは無限にあるのだから、お金も無限にある。この考え方を意識に定着させて行動すれば、夢のような繁栄を実現することができる。



長年、多くの金持の話を聞いてきて、「お金が幸せの秘訣だ」と言うのを聞いたことがない。実際、彼らの多くは「お金と幸せはほとんど関係ない」と言っている。しかし、お金があれば快適に暮らせるし、可能性の扉を開いてチャンスが広がることは紛れもない事実である。



財産を築く過程では、最初こそ自分で努力して道を切り開く必要があるが、それ以降は多くの成功者の助けを借りながら前進し続けることができる。その違いは、貧乏になる男が何もせずに初めから誰かの助けを期待するのに対し、金持ちになる男は誰の助けも期待せずに自分で積極的に行動することだ。


金持ちになる男は、市場を動かしているのが感情と強欲であることを知っている。だから、すべての取引でそれを計算に入れる。彼らは人間の本性を熟知し、それが取引に及ぼす影響を考慮に入れることで優位に立って財産を築くのだ。



金持ちになる男は収入の「範囲内」で生活する



金持ちになる男は宇宙や神、高次の力が自分にひたむきな努力に共鳴し、究極のビジョンへと導いてくれると信じている。そしてたえず力を貸してもらっていると確信して目標と夢に向かって前進する。



どれだけ働けば給料がもらえるかを考えるのではなく、人々の暮らしに役立つアイデアを思いついて、それをもとにお金を稼ぐ方法を考えよう。



人生に対する期待を高めて、幸運に恵まれても驚かないようにしよう。



貧乏になる男は多くの問題を抱え込んでなかなか寝つけない。一方、金持ちになる男はどの問題も解決できると確信してぐっすり眠る。



金持ちになる男にとって最大のモチベーションは、多くの場合、したいことをしたいときにする自由を手に入れることだ。



人生で何を手に入れたいかを考え、その願望を実現するために全力を尽くそう。



自力で財産を築いた金持ちはみな、財をなす過程では自分の利益を優先しなければならない時期があると指摘する。彼らはそれが崇高な考え方ではないことを知っているが、成功するために必要だと確信している。しかし、一定の財産を築くと、考え方をレベルアップして、他人の苦しみを軽減することに意識を向ける。地域社会への恩返しを義務づけられているわけではないが、多くの金持は自発的にそれを選ぶ。




金持ちになる男は成功する前の段階で、失敗するたびに周囲の人から「無謀なヤツだ」と批判される。その後、地道に努力を重ねて成功を収めると、周囲の人から「幸運なヤツだ」と冷ややかに言われる。
貧乏になる男が金持ちの成功をさまざまな表現で説明しようとしている間、金持ちになる男はさらに成功するために次の課題に取り組んでいる。彼らは他人の成功をやっかむ人たちを無視するすべを心得ている。たとえ途中で手痛い失敗をしても、努力を継続すれば必ず成功すると楽観しているから、外野からどんなに野次られても平気だ。



貧乏になる男が資産形成は不可能だと考えているのに対し、金持ちになる男は資産形成が考え方次第だと考えている。それは「原因と結果の法則」だから、原因を変えれば、結果も変わる。
金持ちになる男は「原因と結果の法則」を理解している。だから、原因を変えるために、自分より金持ちの人たちをつねに研究して、お金に対する考え方をたえずレベルアップしている。



たしかに金持ちは学校教育の重要性を理解しているが、学校で習ったことが資産形成に役立ったと主張する人はほとんどいない。
金持ちになる条件は知性や学歴ではなく、明確な目標を設定し、それを達成するために全力を尽くすことだ。



収入を増やすためのもっとも効率的な方法は、他の誰も解決できない問題の解決方法を考えついて、画期的なモノやサービスを提供することである。その問題が大きければ大きいほど大きな報酬が得られる。これが莫大な富を築くための究極の方法だ。



貧乏になる男が中途半端な気持で多くの目標を掲げるのに対し、金持ちになる男は一回にひとつの大きな目標を設定して全身全霊を傾ける。



金持ちになる男は人一倍の「努力」をする


金持ちになる男はひたむきな努力の重要性を理解し、一時的な苦しみに耐える精神力があれば、いずれ莫大な財産が得られることを知っている。



金持ちになる男は、過去に生きて未来に悲観的になるのは臆病だと考える。彼らが金持ちになるのは、自分を信じて未来を積極的に切り開き、夢と目標の実現に努めるからだ。



自分の経済的目標を検証し、それを少なくとも50%引き上げよう。現時点でその目標を実現する方法を知らなくてもいい。このエクササイズによって考え方が変わり、期待を高める習慣を身につけることができる。



遊ばずに仕事ばかりしていると退屈な人間になるといわれるが、一心不乱に仕事に打ち込んで創意工夫すれば、大金を稼ぐことができる。お金がたくさんあれば、思いきったことができるから退屈な人間にはならない。



お金を稼ぐことは単純であり、お金は無限にあり、もっとお金を稼ぐには考え方をレベルアップすればよいというのが、金持ちになる男に共通する考え方である。



本当に家族を大切にしたいと思うなら、金持ちになって家族と一緒により多くの時間を過ごし、お金で買える機会を家族に与えるために努力すべきだ。



金持ちは投資に対して大きな収益が得られないとわかったら、その活動から手を引く。金持ちになる男はお金についてきわめて敏感である。なぜなら、経済的に自立するまでは本当の意味で自由になれないことを知っているからだ。



金持ちになる男は起業が資産形成の最速の方法だと考えている。彼らにとって最大のリスクとは、自分を信じないことだ。


銀行の融資担当者は起業家の情熱、集中力、粘り強さを見落としがちだが、金持ちになる男はこれら三つの要素が成功に不可欠であることを知っている。だから、貧乏になる男が安定を求めて現状に甘んじるのに対し、金持ちになる男は事業を起こして現状を打破するのだ。



数日間、自分が楽しいと感じる事業を起こすことを考え、書店に行ってどんな分野に興味をひかれるかを調べよう。事業は心で決めて、頭で運営するものである。



資本主義社会では一握りの人が富の大半を独占する。しかし、それは貧乏人に機会が与えられていないからではなく、与えられている機会を恐怖のために逃しているからだ。自分で財産を築く努力をするより、金持ちを強欲な利己主義者と非難するほうがたやすい。



賄賂から麻薬の密売に至るまで、お金はさまざまな場面で悪者扱いされているのが実情だ。
しかし、お金は取引の道具であり、社会の腐敗の原因ではない。



金持ちの子どもはお金を、少数の人が大勢の人を支配するための道具ではなく、世の中をよくするための生産的な力とみなすようになる。金持ちの親が子供に伝える最も重要な信念は、望むだけのお金を自助努力で手に入れる力を自分はもっているということだ。それは学歴や知能指数、学業成績とは関係ない。



金持ちの親は世の中の現実を客観的に見るように子どもをしつけているだけだ。経済的地位に関係なく、すべての人が平等に社会の恩恵に浴することができればすばらしいが、残念ながらそれは現実ではなく夢物語である。正しいか間違っているかは別として、お金があれば特権を得ることができる。子どもが早いうちにそれに気づけば、自分はどうすればいいかを自然に学ぶようになる。



金持ちになる男は成功やお金、ビジネス、投資などの実用的な知識が得られる本を読むように子どもに教える。



自力で財産を築いた人はみな、多くの人の支援と協力があったからこそ成功したことを実感している。



貧乏になる男がお金の重要性を子どもにあまり教えないのに対し、金持ちになる男はお金の重要性をしっかり子どもに教える。そのなかには、お金に対する考え方だけでなく、誰の意見を聞くべきか、さらに誰の意見を無視すべきか、ということも含まれる。



理不尽な世の中で成功するには効果的な処世術を教えることも重要だ。



学校教育は生計を立てるのに役立ち、
自己啓発は財産を築くのに役立つ。



自己啓発に興味を示すのは総人口の五パーセント程度だが、彼らは社会でもっとも成功している人たちだ。彼らの多くが「自己啓発の大家と呼ばれる人たちから成功の秘訣を学んで金持ちになった」と証言している。



異文化について学べば学ぶほど、仕事の会合や社交場、慈善活動で重要人物と知的好奇心にあふれた会話をすることができる。
人々は信頼できて好感のもてる人と一緒に仕事をする。国内では得にくい経験を共有し、世界各地の文化や習慣を学ぶことは、多くの金持ちと接するうえで大きな意味をもつ。



金持ちになりたいなら、金持ちの行動パターンをまねて積極的に外国に出かけ、異文化をじかに体験するといい。金持ちになりたいなら、金持ちが興味を抱くような人になることが重要だ。



金持ちになる男は「洗練された社交術」を身につける



金持ちになる男は、アイデアが事業を発展させ、資産を増やす原動力になることを知っている。億万長者の邸宅に行くと気づくのは、成功の秘訣が記された本が書棚にずらりと並んでいることだ。



金持ちが世界の富の大半を独占している主な理由は、飽くなき探求の精神をもって生涯学習に徹しているからである。要するに、成功の秘訣を学べば学ぶほど成功して金持ちになるということだ。きわめて単純な原理だが、実践している人はわずかしかいない。



金持ちは財産があるから欲しいものは何でも手に入れ、自由に夢を見ることができる。彼らは人生を楽しむためのワクワクする方法を思いつくのが得意だし、友人をもてなすのも上手だ。金持ちにとって選択肢はほぼ無限にあるから、遊ぶことにかけては彼らの右に出る者はいない。



貧乏になる男は、好きなことをすることと金持ちになることが相いれないと考えている。一方、金持ちになる男は、大好きなことをして、それを心から楽しみながら努力することが金持ちになる秘訣だと考えている。



貧乏になる男 「お金は人間を堕落させる」
金持ちになる男 「お金は自立を促進し、心にゆとりをもたらしてくれる」



世の中は問題の解決策に報酬を与える仕組みになっています。したがって、それを利用するのがチャンスをつかむいちばんよい方法だといえます。



以上
またね***



2012年7月9日月曜日

知性の限界(食べる読書107)




おもしろく多様な考えを知ることができると感じた。


本書には極端な人たちが登場し議論を進めていく。論理実証主義者、カント主義者、哲学史家、フランス国粋主義者などなど…だ。


彼らの発言がその考えをそのまま表現しているため、どう表現すればいいかわからないが、何というか”思考の擬人化”みたいな感じを受けた。そのため多様な思考とともに、人類の思考の歴史も知ることができる。


読みながらいろいろ考えさせられたが、ちょっと退屈に感じた個所があったことも確かだ。


なぜなら、その議論って大切かあ?と思う個所があったりしたからだ。そもそも問題提起自体がずれているから、そこに全力で取り組んでもなあ…、みたいな。


しかし、そうは言ってもとても勉強になる本であることに変わりはない。


多様な考えの紹介本という位置づけだと思う。この本で興味のある分野が見つかったのならその専門書をかじればもっと理解が深まるだろう。


いろんなとこに話題が飛ぶが、楽しかったです。


ありがとうございます。


以下抜粋


なぜなら、科学者共同体の認識そのものが、歴史・社会的構造の一部にすぎないわけですから…。


この世界で「明らかに語りうる」ことは、真か偽かを「論理的」に決定できること、あるいは事実か否かを「経験的」に実証できる言語に限られるということです。


「疑いが成立しうるのは、問いが成立するときに限り、問いが成立しうるのは、答えが成立するときに限り、答えが成立しうるのは、なにごとかを語りうるときに限る」


世界内に存在する私たちには語ることはできないにもかかわらず、「語りえないこと」があることを認めているように映りますね…。


真の平等が保証されなければ、誰も哲学など語る権利はないのよ!

ウィーン学団は、ウィトゲンシュタインのスローガンをされに推し進めて、世界を論理によって分析し、科学によって実証して認識しようとする「科学的世界把握」の立場を掲げました。


現実社会で一種の論理実証主義を実践しているのは、裁判所です。法廷において、検察官や弁護人や裁判官の論述は、何よりも「論理」的に構成されていなければなりません。また、裁判に登場するいかなる証拠や証言も経験的に「実証」されなければ意味を成さないわけです。


言語が意味を持つのは、ルールにしたがうためであり、そのルールは、社会集団の「生活形式」によって習得されるとみなされるわけです。


地球上のあらゆる人間は、基本的に何らかの文化圏に所属して生きているわけですから、文化的に完全にニュートラルな人間など存在しません。すべての人間が思考を始めた時点で、何らかの自文化を基準としているはずで、その影響なしに思考することはできないのです。


「語が何を指示しているのか」という問題を追究するとき、私たちは言語を用いて答え続けるしか方法がありません。しかも、どこまで適用範囲を狭めて問題に答え続けたとしても、その言語が、言語外世界の特定の対象に対応していると確定することができない…。つまり、「指示」の問題は、あくまで言語内部で生じる問題であって、言語を超えて「語りえない」点に限界があるわけです。


後期ウィトゲンシュタインの本質的な主張は、「言語の意味とは、その使用である」という結論に表されています。


近代科学が前提とする「帰納法」は、何よりも多くの個別的事例を「観察」して、それらの共通する普遍的パターンとしての「理論」を発見する方法でした。その集大成ともいえる論理実証主義においては、あらゆる経験的知識が、「純粋な観察」の集積によって与えられるものとみなされたわけです。
ところが、ハンソンによれば、そのような「純粋な観察」は存在しません。「観察」は、常に一定の「理論」を背負っているわけで、「理論」に基づかない「観察」は存在しないのです。これをハンソンは「観察の理論負荷性」と呼んでいます。


物理学者が観測データを通して物質の構造を「見て」いたり、音楽家が楽譜を読むだけで曲の流れを「見て」いることと同じで、彼らは、その背景理論を知らない素人には理解できない内容を認識しているのです。


私たちが、お互いの認識の一致を絶対的に確定することのできるような客観的基準が存在しないわけですから、私たちは言語に対して相対的な認識しか持つことができないのです。


とくに、ある種のテクストが難解なのは、きわめて深遠な内容を扱っているからだという評判を「脱構築」したいのである。多くの例において、テクストが理解不可能に見えるのは、他でもなく、中身がないという見事な理由のためだということを知っていただきたいのである。



「普遍」的な前提から「個別」的な結論を導く推論方法は「演繹法」と呼ばれ、その逆に、「個別」的な前提から「普遍」的な結論を導く推論方法は「帰納法」と呼ばれます。


ゼロからスタートする「企業家」は、過去に例のないことに挑戦します。ですから、彼らが直面するのは、過去の統計・確率から推定できる「危険性」ではなく、まったく未知の「不確実性」なのです。


これまでの科学は、系を構成する要素の法則を明らかにして、それらを足し合わせれば系全体の動きを予測できるとする「要素還元主義」に基づいていました。ところが、複雑系では、系を構成する要素の法則を足し合わせても、予測不可能な運動が内部に発生するため、系全体の動きを予測できません。その意味で、複雑系はまったくランダムに動くように見えます。


ファイヤアーベントは、方法論的アナーキズムを科学や哲学ばかりでなく、合理主義や西洋文明一般にまで推し進め、そこから彼が導いた結論は、単に科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準は存在しないというものだった。


反証された理論を生かし続けることにも重要な意味があるのであって、これを絶滅した恐竜と同じ扱いにはできないということだよ!


ファイヤアーベントは、「科学」を進歩させるためには、観察とはまったく無関係の「形而上学」が必要だと述べている。論理だとか実証だとか、法則だとか観察だとか規制ばかりを押しつけてくる「理性」に拘りすぎるなということだよ。


基本的に、多くの哲学者や形而上学者の論法は、頭からすべて間違っているようなことはありません。それぞれ一面では正しいことを言っていても、それらを統合した結論が大きく違ってくるのがおもしろいところでして…。


「自分の話し方の基準にこだわって、その基準に合わないものは何でも拒否してしまう。いったん話題が馴染みのないものになり、自分の型にはまった判断からはみ出すと、たちまち見慣れない服を着た主人に出合った犬みたいに、途方にくれてしまう。逃げ出したらいいのか、吠えたらいいのか、咬みついたらいいのか、それとも顔を舐めたらいいのか、ってね…」


以上
またね***



2012年7月4日水曜日

視点をずらす思考術(食べる読書106)




自らKYであることを告白した著者の文章を集めたつくりとなっている。


これまで私が出逢ったとらえ方とは違った視点でものごとを見ている。だから、視点をずらすというか、その対象がこれまでとは違った世界をもっていたのだと知ることになったといった感じだ。


自分はまだまだ物事に飛び込んでいないんだなと感じる反面、世の中の深さ、複雑さ、不条理、などなど、やれやれ、なかなか面白い世の中に生きているじゃないか、この俺は…、とワクワクもした。


この世が楽園じゃなくてよかったよ。ほんと。


だからといって地獄でもない。


地獄ほど単純でもないし、天国ほど退屈でもないとこが最高だな。


こんな最高の場で最高の存在になれるか。


と、こう言ったところで、最高だけが目指すべき目標でもないというとこがまた、味があるんだよ、この世は。


この生を楽しむにはどれだけ多くの視点をもてるかなんだろう。


この躰はどうしてみても、ひとつだ。しかし、視点はいかようにも変えられる。ひとつの事象でも、70億の人間がいる時点で、それだけの視点を同じ対象にたいして少なくとも持つことができる。


だからといって、視点集めだけの人生はつまらなすぎる。


視点は変わっても、変わらないのは私自身だ。この変わらない自分を変えるために、もっとよりよく、人生を満喫するために、視点を変えるのだろう。


なぜなら、人は選択できるのだ。あとは、どれだけ多くの選択肢をつくるかだ。


自由。


酸いも甘いも、泥水をすするのだって、赤っ恥をかくのだって。血の小便をするのだって、女の躰におぼれるのだって、共依存になるのだって、人に言えない変態行動をとるのだって。


自由だからだ。


だ・か・ら、自分が不幸なのは自由のせいなのだ。


あなたのせいじゃあない。


自由のせいだ。


自分の自堕落はすべて自由のせいにしちゃえ!というのも自由。


だから、私は自由が大好きです。


かけがえのない、永遠の愛をこの口で、この体で表現し、心から自由を愛し、抱きあい、ひとつになることで、私は自由を手にするのだ。私が自由で、自由が私。



以下抜粋

皮肉なものだ。天敵が存在しないことが逆に不安になるのだ。だから必死に探す。いなければ作り出す。仮想の大義を。


ファシズムという政治体制は、二十世紀以前には歴史に存在していない。ドイツとイタリア、そして日本という枢軸国を中心にファシズムが同時多発的に生まれた時期は、誕生したばかりの映画とラジオが広がり始めた1910~30年代にぴたりと符合する。


人は脅威に弱い。近代の戦争のほとんどは、侵略ではなく自衛の意識で始まっている。つまり過剰防衛。先制攻撃しなければ自分たちがやられるとの危機管理意識が、戦争勃発の際のもっとも重要な大義であり、戦争継続の燃料なのだ。


ただしメディアの嘘を見抜くことなど無理。たとえば映像の嘘は、一応は映像のプロである僕にもほとんど見抜けない。なぜなら表現とは、そもそもが嘘の要素が混在する領域なのだ。
だから僕のメディア・リテラシーの定義は、「メディアは前提としてフィクションであるということ」と「メディアは多面的な世界や現象への一つの視点に過ぎない」という二つを知ること。視点をずらすだけで新しい位相や局面が、断面や属性が、まるで万華鏡のように現れる。


法律は国民の行動を規律し、そして憲法は統治権力(国家)を規律する。つまり方向がまったく違う。法律の主体は国家や行政だけど、憲法の主体は主権者である国民一人ひとりだ。憲法が法律の上位に位置する理由はここにある。


皮肉な現象だけど、メディアが発達することで逆に様々な言葉が封印されてしまったことは事実だ。



つまり国家とは、あくまでも人為的に作られるもの。だからこれを成立させ持続させるためには、民族や宗教や言語など、構成員すべてに共通する属性を掲げることが最も手っ取り早い。でもこれも厳密にはフェイクだ。民族や宗教や言語が完璧に一枚岩の国家など存在しない。


現状の国際社会において、国家は大切な概念であり、基盤となる制度だ。だから丁重に扱うし尊重もする。でも愛することはない。愛してもいないのに愛するふりはできない。土地は愛す。季節や風土も愛す。ここに暮らす人たちも愛す。でも国家はインフラだから、僕にとって愛する対象とは少し違う。愛さない。尊重はするし丁重に取り扱うけれど、愛せと言われてもそのとおりにはできない。


DSM‐Ⅳについての功罪はいろいろ取り沙汰されているけれど、その最たるものは、精神という徹底して不定形で曖昧な領域に名称をつけたことだろう。本来は領域であるものが、与えられた名前によって限定された病理となった。限定された病理は類似するものを貪欲に咀嚼しながら膨張する。こうして病理は症状を激化させる。場合によっては、ないものまでが惹き起こされる。敗戦後の日本で心的外傷に苦しむ人は、実は決して少なくなかったはずだ。でも誰も名前を与えなかった。だから少なくとも感染はしなかった。


言い換えれば要因でしかない。駆動力は別にある。


凶暴さと殺戮は等号関係ではない。むしろ「優しさ」や「善意」が自衛の意識と融合しながら、歯止めの効かない殺戮への衝動に発展する場合が多いのだ。歴史を仔細に点検すれば、そんな事例を人類はずっと繰り返していることに誰もが気づくはずだ。


メディアの機能は、伝えることで罰することじゃない。後ろめたさや引け目を取り戻すためには、人の不幸を飯の種にする賤業なのだと思うくらいが、ちょうど良い。



作品を観ずして、「モラルとして取り上げない」との論理は、僕には正当な判断とは思えない。


いわばメディアは視点なのだ。撮ったり書いたりする主体がどの位置に立つかで、事象や人物像もまったく変わる。つまり客観性など幻想なのだ。


ただし自らの立ち位置はつねに相対的な座標でしかないとまずは自覚したうえで、可能なかぎりの客観性や公正さを模索するその行為を、僕は否定する気はない。それはジャーナリズムの限界であると同時に、あるべき姿だと思う。ところが組織に帰属すると、この前提が消える。自分はアプリオリに公正中立で客観的なのだと、いつのまにか思いこんでしまう。
この瞬間、正義が発動する。そもそもの座標軸が歪んでいるのだから畸形の正義だ。しかし当人はそれに気づかない。


第四の権力などの慣用句に、僕はどうしても馴染めない。なぜならばメディアは自らの力に無自覚だからだ。権力を権力たらしめるものは自覚だ。メディアにはそれがない。だからこそ無軌道になる。


事件や現象はそんな一面的なものじゃない。もっと多面的なはずだ。でもメディアは、その多面性からどうしても目をそらす。そしてその帰結として、事象や現象はかぎりなく単純化される。
こうして世界はメディアによって矮小化される。そしてこの矮小化された単純簡略な情報に馴れてしまった人たちは、複雑な論理を嫌うようになる。つまり胃袋が小さくなる。後はもう悪循環。


信仰のリスク。善意や優しさの危険性。危機管理意識が高揚することの副作用。オウムの事件はこの三つのテーゼを日本社会に呈示した。でもオウムへの憎悪と嫌悪に支配された社会は、このテーゼを咀嚼しようとはしなかった。メディアも見つめようとはしなかった。


あらゆる矛盾や葛藤をしっかりと内部に充填しているからこそ魚住は強い。それも剛直な強さではない。弱さの裏づけがある強さだ。優しさの担保がある残酷さと、倦怠の骨格を持つストイシズム。だから大胆でありながら臆病だ。そして絶対に忘れない。


メディアは人を加害する。これは避けられない。もちろん魚住はそのことをよく知っている。そしてまた、自分自身がその加害装置の一員であることも自覚している。その自己矛盾の渦中にいる。自覚しながら必死に吼える。歯噛みする。唸る。放った毒で自らも苦悶する。でもやめない。


戦争はすべて自存自衛なのだ。過剰な危機管理意識だから押さえが利かない。さらに宗教やイデオロギーなどの高揚が高邁な使命感となったとき、過剰な危機管理意識は無慈悲な先制攻撃へといつのまにか変質する。つまり当事者にとっては自衛だが、傍から見れば侵略なのだ。


人の一生は短い。限られたこの時間の中で、僕はできる限りはいろんな断面を見たい。聞きたいし知りたい。そんなことの繰り返しで、この世界は意外と捨てたものではなく、人って素敵な存在なのだと思うことができる。


以上
またね***



2012年7月2日月曜日

水滸伝七(食べる読書105)

理想の死にざま、いやそれがそのまま生きざまだった。


これまで多くの男たちが死んでいった。


しかし、この巻では私が最も理想とする死場を決めた男がいた。


雷横である。


元官軍で、宋江逃亡時に官軍をやめた。


あまり目立った活躍をしたわけではないが、しっかりと役割を果たしてきた。もちろん腕は立つ。


絶体絶命の中どうにか宋江救出に成功した梁山泊軍。しかし、まわりは官軍に囲まれているのに変わりはない。そのまま双頭山まで逃げ切れるかどうかといった状況だった。


そのまま官軍と対峙していては数に圧されてしまう。また、宋江の存在が思い切った戦術の妨げにもなっていた。まずは宋江を双頭山入りさせるのが先決だった。しかし、官軍は北からもやってくる。


移動しながらの決断だった。敵の数と質、味方の数と双頭山までの距離。一丸となって移動していたのでは敵に宋江の居場所を知らせるようなものだった。


おとりを複数つくった。


敵がおとりにひっかかるかはやってみないことにはわからなかった。そして、おとりの意味も決まっていた。


運よく、といえばいいだろうか、雷横のおとりに官軍はついてきた。


ついてきた官軍と宋江との距離が充分に離れたのを確認し、部下たちに双頭山への帰還を命令。


自身はひとり、五・六百騎を相手にする。


そして、…全うした。


敵を引き付け、部下を双頭山へ帰還させた時点で雷横の役目は終わっていた。あとの敵との戦いは、雷横自身の楽しみだったように感じる。誰にも邪魔されない、ただひたすらおのれの力を存分に出し切る。なにひとつ気にかけるものはない。ただひたすら、駆け、跳び、斬り、断つ。


最後のほんのわずかであったが、裸のありのままの人間の姿を見た気がした。


なぜ、雷横の死が理想と思ったか。


自分の命も含めて冷静に物事を判断し、結果として死んだからだ。命を恐れてもいないし、求めてもいない。ただ、なすべきことをやった。それだけだった。


武士道に言う「武士とは死ぬべき時に死に、死ぬべきでない時には死なない」を体現したと感じた。


そして、ソクラテスの死に通じるものを感じた。ソクラテスも、己の考えに従った結果として死んだ。哲学者は死を恐れるべきではないと。ただ真理にのみ忠実でいると。


死ですらおのれの目的を果たす一つの選択肢でしかなかった。


死をも含めて、俯瞰した視点でものごとを見ていた。


そして、どちらもあるがままに死んだ。まるで初めからそうなるようになっていたかのように。ほんとうにしぜんで、人生それ自体であるがまま死への流れとなっているのを感じた。美しさを感じる。死をもって完成するというと不謹慎かもしれないが、そう感じさせるのだ。


俺はこんなに美しく”高平大”という生を全うできるだろうか。


ものごとにとらわれ過ぎているな…。まだまだ小さい。この俺は・・・。


だが、この小ささを克服することもできる。


美しく、優雅に生きてやろう!


以下抜粋


「頭ん中で、振り回せばいいんだよ。うまく言えねえが、頭ん中じゃできるはずだ。それが大事なんだぜ。必ずできる。そのうち、俺じゃなく、おまえが頭ん中で、鉄鍬を振り回している。そんなもんなんだ」


以前は、死ぬことさえ許されないのかと、嘆いた。いまは、死ぬことだけは許されない。


信じることは、人にとって大切だぞ


「これを信ぜずして、なにを信じる。たとえ信じて裏切られたとしても、私は悔いることはないと思う」


「宋江様。私はいま、ほんとうに生きていると思えます。自分がやらなければならないのがなんなのかということも、私なりにわかっているつもりです」


「志がどうあるべきかなど、ひとりひとりで違う。おまえは土を捨て、闘いを選んだ。大事なのは、それなのだ。闘い抜くことができるのか。自分が選んだことを、やり遂げられるのか。志は、難しい言葉の中にあるのではない。おまえのやることの中にある」


「立ち止まらずに、考えろ。闘いながら、考えろ。それで、見えてくるものがある。立ち止まっていれば、いまと同じものしか見えん。そういうものだぞ」


「しかし、この世をなんとかするためには、必要なことです。世直しという志を私が知らなかったら、ほんとうに残酷なことだと思ったかもしれませんが」


兵たちは、気力を失ってはいなかった。徴兵された官軍の兵とは違って、自ら闘いを望んだ者たちだ。闘う目的も持っている。ぎりぎりの勝負では、作戦や指揮より、そちらの方が決め手になってくる。


私は心を動かさないことにした。戦だからだ。これからも、同志の死に出逢わなければならぬかもしれん。心を乱せば、判断を誤ることもある


ひとりひとりが、それぞれに生きている。宋江は、そう思った。それがひとつに集まり、梁山泊というものを、作りあげている。


「名誉は、自らの力で守るもの。私は、そう思っています」


誇りを穢された。だから闘う。史進が言ったことは、なんの抵抗もなく陳達の心にも沁みてきた。男とは、そういうものだ。


「馬鹿でいい。友だちを見殺しにするような男より、俺は馬鹿でいてえんだよ」


「解き放たれている。そうなるために、死の淵を歩いたのだろう。腕も、そうやってなくしたのだろう。しかしそれでおまえは、解き放たれた。心のままに動き、心のままにものを言える。そしてそれが、人の心を動かしてしまう。いいな、と私には思える」


「どんな些細なことかわからんが、逼塞している人間にも、必ず時は来る。兄であるおまえが、それを見逃さないでいてやることだ」


「裏切れないなにか。李応の弱いところを、ひとつしっかり摑むことができれば、たやすいのだがな」


人民を、どうやって使うのか。民の力を、どうやって借りるのか。思うに、魯達は大変な智恵者です。牢城では囚人を、城郭では民を、どう使えばいいか心憎いほどよく心得ています。


「とうに、なっているつもりです。諸葛亮孔明を気取るつもりはありませんから。ただ、いまはまだ、お側にいない方がいい、という気がするのですよ。時代の大きな流れを、あの庵から見つめていたい。名もない人々の声を聞きたい。いずれ、関勝殿に秋が来た時、私は必ずお側にいます」


民の力を、どうやって借りるのか。魯達はいま、それをはっきりと見せていた。鄭敬の手下はおろか、役人さえも手が出せない。そういう状況を、魯達は民の力を借りて作り出した。


「このけだものが、おまえを犯したか。そんなことで、人は穢れはせん。おまえはまだ、清いままだ」


「おまえは、穢れてはおらん。人は、自ら穢れるのであって、他人に穢されるのではない。そうなのだぞ、金翠蓮」



巧妙なやり方だと思ったものに、穴がある。


「恐らく、人民の姿に紛れているのでしょう。しかし、まとまっています。まとまった人間は、まとまったものを消費します」


人に吹き込まれた志が、本物であるはずがない


自分と較べると、どこか太いところがある。鼾を聞きながら、自遷はそう思った。


「これは、絶対に負けられぬ。すべての闘いは、ここからはじまると言ってもいい。梁山泊が、これからさらに大きくなるのか、ひと時の勢いを見せただけの叛徒で終わるのか、境目の時だ。いいな、みんな。民のために、志のために」


「死ぬなよ。しかし、死を恐れるな」


「自分では、馬鹿だと思ってる。それだけのことで、ほかの人間からはそう見えてねえ。肝心なのはなあ、石勇、自分が馬鹿だってことを忘れねえことさ。俺たちは、宋江殿や晁蓋殿、呉用や盧俊義や魯達と違って、馬鹿なんだ。ただ馬鹿は馬鹿なりに、守らなけりゃならねえもんはある」


以上
またね***



情報の歴史を読む(食べる読書103-3)




本書をきちんと理解できたわけではない。が、多くを学んだと思っている。


また、まだまだ学ぶべきことは多いとも感じた。


たしかに情報それ自体にすでに価値観が含まれているのだろう。それは無秩序から秩序をうみだす過程においてどうしてもそうなってしまう。どう”区切る”かによって情報も変わるからだ。そして、そういう”区切り”方をすることで浮かび上がってくるものが関係の発見になる。


ニュートンの区切り方に対してアインシュタインは新たな区切り方をした。そのことによって現実世界の見えてなかった関係が見えてきた。


そして、言葉自体もなんというかその文化の概念に縛られたものである。


歴史は関係の発見の連続と今から振り返るとわかる。


では、現状を打開しより良くするにはどんな関係を発見すればいいのだろうか。また、どうすればその発見ができるかをわれわれは事前に知ることはできるだろうか。


おそらくどちらもできない。どんな発見が必要か、どうすればその発見ができるかどちらも事前に知ることはできない。


しかし、ある程度の予測というか、どこにあるかという範囲というのはわかるのではないか。


歴史は強者の情報独占の連続ともいえる。つまり、その独占した情報は当時の一般市民にとってどんな意味を成していたかがわかればいい。この一つをおさえれば人は自分の言いなりになるといった情報だ。下世話な言い方をすれば弱みを握る。


いや、そうではない。おそらく洗脳だ。ここでいう情報独占とは他の人が持っていない情報を自分だけが持っているということではない。言葉以前の観念においても自分の都合のいいように作り変えることだ。つまり、文化自体をコントロール下に置くこと。


なんだか陰謀論のようだが、おそらくそうだろう。


いま水滸伝を読んでいるが、梁山泊が天下をとるにはなにか、もっと決定的ななにかが足りないと感じる。戦で勝つだけではすべてを掌握はできない。人の生活すべてにおいて一貫した、なにかしらの価値観を植えつけないことには…。戦だけにそれを背負わせるには荷が重すぎる。たしかに、街に宋とは違った経済を確立しようとはしているが心もとない。


むずかしさがここにある。新たな関係の発見のだ。もうすでに既存の価値観にどっぷりつかっており、そういう社会でおのれを確立してしまっているのだ。一般の社会人などは。新たな関係を発見するというのは、自分自身だけでなく、この社会をもある意味否定することになる。



だからダーウィンは「進化論」の発表を16年待ったし、デカルトも自説の発表に関して気をもんだ。ガリレオ・ガリレイは時勢に翻弄された。


ということを考えてみると、現状を打開する「関係の発見」とは、まずその条件として、既存の価値では見えない関係であること。それを発見する能力。それだけではだめで、この関係を世間に広めることのできる能力も不可欠ということになる。この二つがそろって初めて次世代は拓かれる。


これまで、いや現代においても”関係の発見”をしている人は多数いるだろう。しかし、いまはまだそんなセンセーショナルなことは話題にも上らない。なぜなら、彼らに現代社会を利用して自説を広める能力がないからである。誰かと手を組めばいいのかもしれないが、その人を口説き落とせる能力も必至といえる。



規模は小さいが、今話題の橋下徹は、後者の能力をもっているのではないかと思う。つまり、世間に広める能力だ。また、元首相の小泉純一郎もこの能力のある人なのだろう。どちらも中身はないが、人気は絶大だ。



現実は厳しいが、以上のことからこのことが言えるのではないか。既存価値とは異なる新たな関係の発見をする人は比較的多数存在するが、それを広めることのできる人物が極端に少ない。つまり、幸運にもあるいは偶然にも世間に広める能力も持ち合わせていた、あるいはそんな人と手を組めた人の自説のみが次世代を拓くといえる。はっきり言ってどう展開してもいいのだ、いまとは異なることになれば。人類は、またそこから自由に展開していける。


可能性は無限大。しかし、そこには次世代を呼び込むため現在を思い切り活用できる者にすべてかかっている。だから、可能性が無限大なのはその人だけであって、その他大勢は可能性はつねにひとつなのかも…。


また、こうとも見ることはできないだろうか。区切りとは物語と本書にあった。それはある観念を伝える・浸透させる・植えつけるためであろう。あるいは、そういう物語というかたちでないと観念として定着しない。まあ、どちらでもいいが、その植えつけられた観念のもとにできる社会は一つであろう。つまり、ひとつの状態を表すものである。一方、物語の役目は世間に広めることであるといえる。二つの能力のうち橋下徹のほうだ。


つまり”静”と”動”。


古代インドではこの”動”にあたる”なる”という動詞がないとあったが、時代はこの”静”と”動”の組み合わせであるといえるのではないか。


”動”に挟まれた”静”の時がひとつの時代。


こう2つに区切れるとは思ったが、”静”についてはなんとなく説明はできるが、”動”に関してはどう説明すればいいのやら。


どうやらこの区切り方は本質から遠ざかっているようだな・・、と思った瞬間に、この「静・動」という言葉自体が成り立つ現代社会の観念はどんなものなんだ?と興味がわく。


もし、静も動もないとしたら。我々はどんな文明を築いていたのだろう。いや、いまの文明に静と動はどう関わっているのか。


・・・



・・・


・・・


こんな、止まっているのか動いているのかわからない答えのない問いの答えを求めながら、筆を置きます。


以上
またね***



一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...