2012年1月28日土曜日

なぜ子供のままの大人が増えたのか(食べる読書77-2)




これが人間だ。


つらいこと、弱いこと、悪をも知ることで人を思いやれる。


だが、今はそういうものにふたをすることが多くなってきたように思う。


その意図はわからないが、この変化をどうとらえればいいだろう。


そもそも人間の在り方は普遍的なのか?


戦国時代・江戸時代は滅私奉公が武士の在り方だった。


だが、今はそうではない。


時代によって、場所によって人の在り方は変わると考える。


なぜか。


自分の存在と自分のいる環境とはリンクしているからだ。


魚は陸ではなく、水中にいる。なぜなら、もう魚という存在が水中使用になっているからだ。体の構造から始まり、水中における生態系も確立している。そして、そのこと全体が、海をも含む地球全体の中で見ても、魚にとっての環境である地球の存在という視点においても、魚の存在は地球の存在を否定することにはなっていないからだ。魚を含めての地球といえる時代である。


しかし、やれやれだが、事はそう簡単に説明はできない。


ある事象が存在するということは、その事象が生まれる条件がその事象が存在する環境にそろったということである。つまりその事象の出現は必然であった。


しかし、その事象が存在する今のその環境は、その事象が存在した時点でもう、昔(事象が存在する前)の環境とは変わっている。その事象が頻発すればするほど、その事象は己自身を否定するように環境に働きかける。


このことは身の回りで多く見られるのではないか。特にS字カーブとして表せられると思う。

つまり、導入期、普及期、成熟期というふうにだ。


産業の盛衰もこれで説明はできるのではないか。(ちょっと違うかなあ?)


まさに「過ぎたるは及ばざるがごとし」と思う。


だから、自分と環境はリンクしている。


言い換えれば、自分が環境を作り、環境から影響される。



翻って、著者の学んだ人間の在り方と今のそれはどうだろうか。


本書で失敗、不運、貧乏、苦労などによってはじめて人生で大きく羽ばたけるというような趣旨を書いている。確かにその通りだと思う。


しかし、その苦労の内容は変わっているのではないか。かつては一日二十時間働くことが苦労だったのだろう。しかし、今は、そんなことをする奴はただのアホと思われるだろう。なぜなら、与えられたことをひたすらするには今の世界はグローバルになりすぎている。つまり、そんなことは賃金の安い国へ外注すれば済むことだ。


また、人間の在り方に関しても、その価値観はどうだろうか。



かつての弱さが今は弱さとは見えなかったりするのではないか。例えば、バラエティ番組などでは、かつておバカキャラが売れたし、アメトークでは「中学の時いけてない芸人」や「運動神経悪い芸人」などが人気あるようだ。つまり、己の恥部だと思っていたことが笑いのネタとして活かすことができるということだ。

これは一例だが、視点の柔軟性が出てきたのではないか。


よって、かつての悪も悪ではなくなっているだろうし、かつてのつらさもそうではないだろう。


インターネットの普及により、情報化社会といわれ、さらに今は知識(知価)社会であるといわれている。


そんな環境にあって、エネルギーを注ぐ点は、価値を生み出すこと。


実際、フェイスブックやザッポスといった新しい価値を提供している会社が伸びている。


新たな価値を産み出すということは、既存の価値観をいじくり回すことでもある。そのことによって我々は環境を変えるだろうし、その変化後の環境から我々も変化を求められる。


ネオテニーという視点で見れば、「子供のままの大人が増えた」のにはそれなりの訳があるし、人類の歴史から見ればこの状況はよくないわけではないと思う。


逆に、このかつてない量の情報が場所を選ばず飛び交う時代にあって、そう簡単に大人という定義ができるほうがおかしい。そんなに人間は単純ではないし、その在り方も浅くはない。


ただ単に、昔の考えが通用しなくなった=今の社会がおかしいという考えは浅はかではないか。その通用しなくなった社会をつくったのは、昔の考え方であったはずだ。今度は、あなた方が変えた社会からあなた方が変化を要求されている番である。


その要請に答えられるか。

それは「死ぬべきか生きるべきか」とまではいかないが、それくらい大きな範囲の内容が盛り込まれていると考える。


決して、著者の意見を全否定しているわけではない。逆に、共感する部分のほうが多かった。しかし、世の中は動いている。後戻りはできない。我々の役目は、それを前に進めることだ。だから、著者のように人生経験豊富な方の考えから何が見いだせるかを考えるべきである。


先に進むために。


以上
またね***





2012年1月15日日曜日

なぜ子供のままの大人が増えたのか(食べる読書77-1)




以下抜粋


甘いものであろうと辛いものであろうと、未来を意識するということは、つまり人生で予測を立てるということなのだ。


私が骨の髄まで自然に日本人として、人としてありつづけたから、相手はそのことに興味を持ったのである。


自由な境地、というのは、人種にも、宗教にも、階級にも影響されない強い魂のことを言うのだ、と私は察していた。


田舎育ちの母が、素朴に私に望んだのは、しっかりした宗教的基盤を持ちながら他宗教には寛大であり、自分は庶民中の庶民として育ってもどのような人の前に出ても礼儀正しく脅えず、静かに自分を失わない人間を創ることであったように思う。


激しさと優しさは、善悪で分けるものではない。それはただ、存在の姿の違いであることを、私は学んだのである。


テレビだけでなく本を読めというのは、ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)に頼ってどんどん実人生から離れることを防ぐためである。不思議なことに読書も直接体験ではないのだが、辛抱も身につき、哲学も残るのである。


平和は善人の間には生まれない、とあるカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に充分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果としてかろうじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。


肉体的には大人なのに、精神的に子供のままだという人が増えたのは、家庭でも学校でも社会でも「与える機会を与えられなかった」からである。


人はあらゆる行為に対して、もともと代償を払うべきものだ。損をするのが嫌なら、妥協もまた一つの凡庸な選択だと知って納得するのも教育である。


「働きと祈りと愛とでその日を満たせ」


「与え」るものは物質だと思っている人も多いだろう。そうではない。知恵、体験、忍耐力、健康、自由、納得、献身する姿勢、悲しみを通り抜ける術、不幸を受諾する勇気まで、物以上に力を発揮するものはたくさんある。私たちはそれらの存在の大きさをまだ知っていないように思う。


日本人は、戦争が必要である場合があるということと、それがいつでも常に悪であることとの双方を、決して同時に、苦悩のうちに認めることができないのである。


子供たちにも身を守る技術をつけさせることは大切だ。刃物を持った男に立ち向かうことはできないだろうが、指一本取って相手を動けなくするか、隙を突いて逃げる技術は覚えられるかもしれない。勉強ばかりして身を守れないのは、どこかアンバランスである。しかし教育の不備がここへ来ていよいよ明らかになったという人もいる。


「食事をすると決められた場所以外で、食事をしてはならない」


子供は、父と母を本当は尊敬したいのである。故に父が直面している生活の厳しさ、その成功例と不成功例は、共にたいていの子供が深く愛する話となる。父の職場を家族に見せる気運を社会に望みたい。
また家庭にあるときの母は、一つの重厚な存在感として子供の心に残る。父も母も理想ではなく、人間の存在のあかしとして認識されれば、それで家庭教育は成功したのである。両親は、子供が最も理解しやすい、人生で最初の教師である。


個性は、学校で受け入れられる場合と拒否され理解されない場合とがあるが、それは人生の如何なる時点でもあり得る矛盾である。それゆえ理解されない苦難にいかに耐えるか、ということも、一つの学習である。もちろんそれには、別の角度から、家族や友人などの支持が大きな助けになるのは言うまでもない。


教育はしばしば嫌われ、憎まれることによっても、その機能を発揮するのである。社会は必要な時に子供を叱る勇気を持つべきだろう。


教育は本来、父母、当人、社会が共同して行うものであり、そのすべてが効果に責任を有する。親だけが悪いとか、社会が自分を裏切ったから自分はだめになった、などと言うのは口実に過ぎない。


変化は、勇気と、時には不安や苦痛を克服して、実行しなければ得られない。
私たちは決して未来に絶望していない。道は厳しい。しかし厳しくなかった道はどこにもなかった。だから私たちは共通の祖国を持つあなたたちに希望し続ける。


人間は生きるためには、賢いことと共に愚行や蛮行も時にはしなければならないのである。



甘やかされた子供と、そうした子供のなれのはての大人は、無限に外界に要求する。同時にうまくいかなかったことはすべて誰かの責任にする。



戦後長く続いて来た日教組的教育は、個人の生活のゆがみは政治の貧困の結果だ、と教えた。要求することが市民の権利なのであった。しかしすべてのものの結果は、自分と他者と偶然と、この三つのものの結果だ、とは言わなかった。人は決して平等たりえない、とも教えなかった。


ものごとの不備を正視できるためには、「勇気」がいる。しかし発見すればそこに、温かい寛大な同感も悲しみも共有できる。しかし正視しないうわずった眼の孤独な大人ばかりが、亡霊のように怒りに満ちてうろうろしているのが現実である。


親のやったことに深く恨みを持っている子供を私もよく知っているし、その親にも当然欠点がある。しかしたいていの子供は逞しく親など乗り越えて行き、最後には結果的にそういう力を与えてくれた親に、私のように感謝するようになるのが普通だと思う。


私はそこにインド人の神父を同行していた。謙虚で頭のいい、率直な人である。日本の若者たちの印象を聞くと、誰もが幸福そうに見えなかった、と言う。彼らは皆、自由、経済力、健康、知能、すべてを持っているのに、である。
どうしてそう感じたのか、と聞くと、「彼らは自分がしたいことをしているだけで、人としてすべきことをしていないからだ」と明快な答えであった。


大人になるということは、今日から、その人が受ける側ではなく与える側になった、ということだ。


逆説的だが、人間としての義務に縛られてこそ、初めて凧は悠々と悲しみと愛を知って空を舞う。


凧の糸は、失敗、苦労、不運、貧乏、家族に対する扶養義務、自分や家族の病気に対する精神的支援、理解されないこと、誤解されること、などのことだ。それらは確かに自由を縛るようには見えるが、その重い糸に縛られた時に、初めて凧は強風の青空に昂然と舞うのである。


to be continued ・・・



2012年1月14日土曜日

成功への情熱(食べる読書76-2)

成功への情熱―PASSION (PHP文庫)



以下抜粋

努力が伴わなければ、いくら大きいビジョンでも単なる夢にとどまってしまいます。努力--意味のある努力をたゆまず続けることなしに、価値ある目標が達成されたことはありません。


ある時、劣等感にこり固まらずに、自分の欠点を素直に受け入れ、それを克服する努力をしようと決心しました。そうすれば、挫折感を味わうこともないと考えたのです。


心が充分に強くなければ、我々は容易に自分の才能の奴隷になってしまいます。


勝算を問われた時、答に窮するかもしれませんが、それはどうでも良いことです。創造の世界を司るのは、統計数学ではなく、それを創り出す人間の情熱と意志なのです。


プロジェクトが成功するまで、私はあきらめません。失敗というのは心のあり方なのです。


私たちは決して苦痛や悩みから解放されることはありません。しかし最悪の時でさえも、明るさを失わず、明日に希望を持つように努力することはできるのです。


あらゆることを真剣に繰り返すことにより、潜在意識が迅速に正しい判断を下せるようになるのです。


成功というものは、潜在意識に到達する願望の純粋さにかかっているのです。


同じことが事業の経営にも言えるのです。もし毎日の事業活動を細かく管理していなければ、決して目標を達成することはできません。


余裕が充分ある段階においても、危機感を持ち必要な行動を起こすことが大切です。これが安定した事業の秘訣なのです。


ビジネスのチャンスを摑もうとするなら、素早く行動できなくてはなりません。そのために、利益を蓄えて余裕をつくっておく必要があります。


強烈な願望を描き、心からその実現を信じることが、困難な状況を打開し、物事を成就させるのです。



徳性があるということは、優れた価格、品質、納期などを提供すること以上のものを意味するのです。ビジネスをする人間が身につけるべきは「哲学」なのです。言い換えれば、人を自然に敬服させる器量なのです。この資質を身につけることを学ばなければ、大きな事業を進めることはできません。


成功する企業とは、個々人の独創性の発揮や人間的成長を促しながら、それと同時に、一人一人のベクトルを会社として目指す方向にそろえる方法を知っている企業なのです。



長い目で見れば、目標を課し、規律をもって鍛える厳しい上司によって、部下ははるかに伸びていくのです。



誠実さが、聞き手と話し手を結びつけるのです。


私は仕事のために家族を犠牲にすることが美徳だと考えてほしくはありません。
しかし、企業のトップというのは、従業員だけでなく、従業員の家族に対しても責任があるのです。


集団、それはリーダーの人間性を映す鏡なのです。


「真の強さ」の秘訣のひとつは、完全に客観的でいる勇気を持つことです。もうひとつは、個人的感情を上回る強い信念を持って、自分自身の能力を信じることです。



たくさんの現象の中から、エッセンスを抽出できる能力が、経営においても、技術の研究開発においても重要なのです。


複雑な問題を解決するには、まず自分の心の次元をひとつ高めて物事を見ることが必要なのです。


真にクリエイティブなインスピレーションは、神からの啓示を願うほどの切羽つまった状況、そして謙虚で真摯な態度からしか生まれてこないのです。そのためには、まず困難に真正面から取り組む姿勢が必要です。


「発明・発見のプロセスは哲学の領域である。それが論理的に証明された時に科学となる」


日本株式会社には、魔法の経営システムなどありません。意欲がある従業員に勝るものはないのです。


障害は数多くありましたが、私たちはビジョンがはっきりとしていたため、乗り切ることができたのです。


行く手にどんな障害が待ち受けていて、どのような道を通ればその障害を避けてゴールにたどり着けるかということがすべて心の中に思い描けているということこそ、成功の条件なのです。初めて行う仕事であっても、いざ着手する時には、あたかも以前に経験した気がするほど、熟知した状態でなければなりません。


夢に酔っていればこそ、それを実現させる情熱が湧いてくるのです。


「人生に対して楽観的で前向きな物の見方をすることは、人間として素晴らしい人生をおくるために、いちばん大事な前提条件だ」と言っています。
私も全く同感です。自分が期待する方向に人生というのは向いていくものだと信じることが大切なのです。すべてのことに対し、前向きな結果を期待して、人生を歩みたいものです。


状況の奴隷になってしまうと、状況が悪いことを理解し、自分の夢が非現実的であったという結論を出すだけになってしまいます。しかし強い願望を持っている人は、問題を解決するために創意工夫と努力を始め、目的に到達するまで、決してあきらめないのです。


経営者は、完全性を追求することを、日々の習慣としなければなりません。


「完全」をめざすということは、自らの内なる理想に対するあくなき追求を意味します。


以上
またね***

成功への情熱―PASSION (PHP文庫)



成功への情熱(食べる読書76-1)




「習慣がその人である」といった内容をアリストテレスは言った。


理想の自分になっていないならそれにふさわしい習慣を身につけていないといえる。


我々は状況や環境にただ反応するという習慣になっていないだろうか。


そして、またこうも言える。


この社会の中でなかなか実現できない習慣をすれば、その人はそのままでオンリーワンの存在である。


なぜ、松下幸之助は松下幸之助たりえたのか。


なぜ、ロックフェラーはロックフェラーたりえたのか。


なぜ、ガンジーはガンジーたりえたのか。


なぜ、スティーブ・ジョブズはスティーブ・ジョブズたりえたのか。



私が理想の私たりえるための習慣とは何か。


この答えはすぐには出ない。


常に、何年も自分を見つめるとこでしか出てこない。


細かいところまで明確になっていなくても、ある程度の方向は決まっているなら、そこから追及する姿勢を崩してはならない。


その姿勢を保つために、己の目指すところを忘れてはいけない。


そのパッションを保ち続ける一つの習慣として、目指す方向へと自分を後押ししてくれるような本を読むことが挙げられると思う。


本書はそういうたぐいの本であり、一気に読んだというより毎日数ページずつ読んだ。


読んで気づくことは、私は日頃本書に書かれてあることに注意を払わない日常を過ごしていることである。


そして、稲盛さんのその志と謙虚さに感服し、自分の小ささを感じ謙虚な気持ちになるのである。


今年中に最低七回は読むぞ!!!


to be continued ・・・




2012年1月12日木曜日

斉藤一人の絶対成功する千回の法則(食べる読書75)





遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。



さて、新年あけて十日ばかり経つが、口角をめいっぱいに上げて満面の笑みを浮かべたのは何回くらいあるだろうか。



早くも3桁に達しているあなたは最高だ。もちろん、そんなあなたを見て周りの人たちも口角上がりまくりだろう。



本書はそんな本である。



読後感もさわやかな風が吹いたようにすがすがしいが、読んでる最中にもう笑顔になっている自分に気づく。



成功している人はやはり違う。成功ということは良いことが頻繁に起こっているということだろう。つまり、そうなる何かしらの条件を満たしている人が成功しているといえる。



というか、そもそもいいことばかり起こるのにわざわざ悪いことも自分の身の周りに置く必要はない。



ところで、言葉ってどうしてできたのだろう。特に研究したわけではないが、少し考えてみたい。



初めは目の前の事象を表すために発明されたのではないか。「石」、「川」、「木」など。しかし、いつしかそれ自体が目の前にないのにそれを表せるようになった。「川のそばの木で休もう」など。(どんな会話だ?!)



これは架空の世界をつくれることを意味しているといえる。つまり、イメージできるということ。初めは目の前のものに従じていた言葉が、時には言葉に従じて目の前に事象が起こるという逆転現象が可能になった。



この「言葉→事象」という能力。これは大きな変化だった。進歩ともいえないし進化ともいえない。全く別物だと思う。人間が他の動物と異なる大きな要因の一つといえる。



だから、この「言葉→事象」の能力を使うのが人間。いや、もう人間という存在自体がすでにこの能力を使っている。この能力を使わない人は人間を放棄しているといえる。というか、使わざるを得ない。どうしても。人間とこの能力は一体ととらえていいのかも。



要は、どうこの能力を使うか。


その最高の使い方を著者の斉藤一人さんはしている。



だから、本書を読んで笑顔になっちゃった(^_-)-☆



言葉の使い方を学ぶということは、人間のあり方を学ぶことだと結論つけることができる。



私は多くの人のそれぞれの道の追及・探求の手助けとなる言葉を使えるようになります。



以下抜粋


心も人間の身体の中にあることを忘れてはいけません。つまり、心は人間の身体よりも大きくないのです。



何があっても、「幸せだなあ」などの言葉をいい続けましょう。
おもしろいことに、やがてまわりの人の見る目が変わってきます。あなたのひとり言は風景の一部になって、世の中に溶け込んでいるはずです。
そうなる時期が「ひとり言」を千回いったあたりなのです。



きれいな心の水で、あるきれいな言葉を声に出すときに、気をつけなければならないことがあります。それは、努力してはいけないということです。




努力というのは、やりたくないことを嫌々するということです。やりたくないことをしている人間が幸せであるはずがありません。
つまり、努力すると人間は不幸になるのです。
幸福と努力の間には何の関係もありません。むしろ、努力することは不幸への第一歩なのです。




神様が私たち人間に与えてくれるものは、水や空気、緑の大地など、見返りを求めない創造物ばかりです。



失敗と成功の間にはなんの関係もありません。失敗していたから苦労しただけ、うまくいったから成功しただけ、なのです。




歴史を振り返ってもわかりますが、地球上のあらゆる国は、必ず過去より現在のほうがよくなっています。



神様はあなたを困らせようとはしません。それなのに困ったと思っているとしたら、神様があなたにこう伝えたがっているのでしょう。
ーそのやり方はまちがっていますよ。



変わらないものを変えようとしたり、何かを期待することはいちばん苦しいことです。




この世では、「似つかわしくない」ことは起こらないことになっている



病人が明るく元気に生活しはじめたわけです。
それからは、年々元気になって、いつのまにかすっかり健康になってしまいました。「明るく元気な病人」というのが似つかわしくなかったので、「明るく元気で健康な人」になったわけです。



元気になるような言葉を声に出して、どんどん似つかわしくないものにしていった



本を読むのが苦痛ならやめてください。本を読んでいて楽しいと思う人だけ読みましょう。



「計画」は人間の力ですが、「ひらめき」は神の力です。




知識をもらったお礼にお金を払わなければ、自分の血となり肉とすることはできません。



いまよりも上のレベルに行こうと思ったら、いま知っていることをまわりの人に伝えましょう。



いくらたくさん貯め込んでも、死んだらそれでおしまいです。だったら税金をケチるのはやめたほうがいい。この世をよりよくするために使ったほうが、結局自分のためにもなるのです。



具体的な目標を言葉にして声に出すようにしましょう。具体的な目標を声に出すことは、目標に結んだ紐を引っ張ることなのです。



目標に向かっているときは、かならず途中の目印を見つけておくようにしましょう。
目印を目指していくうちに、いつのまにか大きな目標にたどり着いてしまったというのが一番です。




じつは、頼まれごとというのは、自分の未来や将来が具体的になった姿なのです。
未来というのは、人間が向かっていくものだと思っている人が多いはずです。でも、本当は、未来は波のように向こうからやってくるものです。



眉間を広げて第三の目を開いていれば、いつのまにか豊かで幸せな道があらわれます。「オレの人生の目的はなんだ」なんて難しいことを考えるのは時間のムダです。



世間一般でいわれている「ダメ人間」のほうが成功する可能性は高いのです。
大事なことは、あらかじめ何をするのか決めてから行動してはいけないということです。



いま立っている場所からでも、向きを変えるだけですぐに幸せになることができます。幸せのある方角に向きを変えればいいのですが、それは貧乏神を追い出して、福の神を招き入れることなのです。



うまくいったところを見つけて自分で自分を褒めてあげるわけです。何をするにしても、よかったところを見るようにするので、はじめる前に結果を恐れることがありません。



この世のできごとは、すべて改善されながら進歩しています。
いつも何かが欠けている、どこかがうまくいかないから、改善しようとするのだし、改善できてしまうのです。
そう考えると、未来はかならず明るいことがわかってきます。なぜなら、未来は改善されて、かならずいまよりよくなっているからです。



自信をもって派手にふるまっていると、自分が欠点だと思っているところも、まわりの人には輝いて見えるのでしょう。人間にとって「自信」はとても大きな意味を持っているようです。



いちばんいいのは、「大丈夫だ」という言葉を声に出すことです。「大丈夫だ」と口癖のようにいっていると、まちがいなく女にモテます。



「どうせ誰かと結婚するんだったら、オレのほうがいいぞ」というのもいいでしょう。自分の意思表示だけをしておけばいいと思います。
「オレはお前のことを気に入っているから、オレのことをよく見ててくれよ。オレを気に入ったら付き合おう」でいいのです。あとは女のことは忘れて、仕事や趣味にのめり込んでいきます。



「オレのものはいいから、自分の服をドンドン買いなさい。男は作業着でいいんだ。いい女を連れて歩いたら男の株が上がるというものだから、いつもきれいにしていてくれ」
と、優しく声をかけましょう。



以上
またね***





生きる

生きることを目指してきた いつからかはわからない 単に意味を見いだせなかった いや、自分本来の好きなことをする余地がなかった ただそれをしているだけでいい 別に生きる目的などなくても、それをしていればいい それをすることで飯を食っていくことはできない世の中...