2011年9月29日木曜日

「なぜか人に好かれる人」の共通点(食べる読書60)






一緒にいて気持ちのいい人。




ただ一緒にいたい人。



一緒にいるとこっちも明るくなってくる人。





いろいろな人がいるが、自分はどっちだ?





まあ、そんなこと考えても人によって受け止め方が違うから、こんなことで悩むよりどれだけ自分自身が楽しい時を過ごせるかを考える方がいい。それができるようになったら、一緒にいる人全員が楽しい時を共にするにはどうするかといった具合で、同心円状に幸せの輪を広げられたらこれほど最幸なことはないだろう。






本書は嫌われる人と好かれる人を比較しながら、好かれる人の特徴を挙げている。






全部で99項目あるので、自分の思わなかったが言われると納得する好かれる人の条件も見つかって、人間を観る視野が少し広がるのではないかと思う。





ぜひ、読んでみてください。




以下抜粋



よけいなおせっかい。そう思っても、ひとまず「ありがとう」と好意だけは受けておこう。それで、あとにつづく断りの言葉も和らぐというものだ。







いくら完璧をめざしても、人は、完璧にできるものではない。できないから、心には不満が生じ、グチをいうようになり、不満たらたらになる。
完璧主義者は不平不満にもなりやすい。
それほど親しくない人たちからは「あの人は向上心があって頑張り屋」という評価を得られるかもしれないが、身近に接している人から見ると「不満たらたらな人」である。







「これだけ手に入ればじゅうぶん幸せ」と感じることができたとき、人は、自分だけではなく、まわりの人たちも穏やかな気持ちにさせることができるのではないだろうか。








「自分にも他人にも厳しい人」は、りっぱな人には違いないが、まわりの人をリラックスさせない人でもあり、つい、身を引いてしまうのである。









「自分にはほどよく甘くてほどよく厳しく、他人に対しては寛容」がいちばんだ。








「専門的な内容にまで話が及ぶから、一般の国民にはわからないだろう」






ほんとうの協調性とは、それぞれの希望を率直に伝え合い、それが食い違っても、お互いに歩み寄ることができる関係をいうはずなのだが。









自分を「ご機嫌」にさせてくれるものは何か。そういう意味で、長い人生を通してみれば趣味は大切なのである。








「ありがたい」と「ありがた迷惑」の分岐点になるのは、「私とあなたは違う」ということがわかっているかどうか、なのではないか。結局のところ、違いを認めていないから、善意の押しつけ魔と化すのではないだろうか。







「正しさ」を押しつけること、それを自己保身のために受け入れること、傍から見ればどっちもどっちだ。








子供が自分で道を見つけられるように、最低限だが最高の助言をしようという気持ちでいれば、子供はうまく自立する。「産んで育てて手放す」がスムーズだ。








なんでも楽観的に構えるのも危険だが、悪いイメージを膨らませるのは不幸だ。肯定的なイメージがもてそうになかったら、むしろ、よけいなことは考えないほうがいいかもしれない。いいも悪いもなく、すっかり忘れて日常を過ごすのがいい。







人というのは「自主的」であることが大切で、それがやる気につながり、活発な行動となって表れる。先回りされて、だれかに「命令」されては、やる気が生まれない。








人を慰めるというのは、相手の気持ちを推し量りながら言葉を選ぶという作業である。








実際、趣味に夢中になっていると、その分野の知識が増えるのは当然ながら、ものの見方や考え方に幅が出てくる。







「妬み」というのは、もっともやっかいな感情だろう。なぜかといえば、理屈が通らないからだ。







イヤなことも、大きな夢の前では小さなことに思えてくるものだ。「根にもたない」ことが、無心の活躍につながっていく。








よく眠るということは、イヤなことを考える時間をなくすということだから、それだけでも幸福ともいえよう。







下り坂に見える状況下でいち早く立ち直り、自力で道を切り開いていく人に、悪い印象をもつ人はいない。あなたは、どうだろうか。








話の内容に一貫性があれば、それぞれの人の相談にも応じられる。「自分の価値観」「自分の考え」というものの大切さをよく知っているから、それぞれの人の立場も尊重しながらアドバイスをする。







悪い噂は、
自分のところで止めよう







トラブルにさらされたときには、聞き手に回ってくれる人もありがたい。痛みをわかってくれる人もありがたい。いっしょに動いてくれる人もありがたい。
しかし感情やひとり合点を抑えて冷静にものごとを見ることができる人もまた、とても信頼されると思うのだ。







相手が歩くのを黙って見守り、転んだときだけ手を貸す。







自立はしているが、ときには素直に人の手も借りるし、貸しもする。そういう人でありたいではないか。








またあの人と食事をしたい。あの人となら冷めたコンビニ弁当だっておいしく食べられる。そう思われたら幸せだ。そういう人をめざそう。







意地の張り合いはやめよう。
さっさと「わからない」合戦から降りて、「じゃあじっくりあなたのトラブルを聞かせて」と切り出したいものだ。好感を与える条件とは、相手の気持ちをわかろうとつとめる姿勢があるかどうか、である。







自分がちゃんと立っていなければ、人を立てることはできない。人を立てるには、まず自分自身を尊重していなければならない。







万人に好かれる特効薬などない……だからこそ、だれもが幸福になれる可能性があるということも忘れてはならない。






最初の思い込みのまま行動しているだけだ。現実は変わる、人の態度や気持ちも変わるということがわかっていない。







どうしても譲れないこだわりがあるなら、まわりの人とこだわりを秤にかけて、優先順位の高い方を選べばいい。





以上
またね***




2011年9月24日土曜日

縦の人間関係の妙味

最近祖父の具合が悪いということで、祖父の見舞いに九州へ行った。





父の実家へは今回で3回目である。初めは私が一歳くらいの頃、二回目は小五の頃、そして今回31歳である。





祖父は全然元気で、食欲も十分だった。退院して、今はひと月に一度病院に行く程度だという。






墓参りも19年ぶりである。






墓は、畑の近くにあり、新しく造りかえられていた。





墓参りをして感じたことは、田舎での生活、人の生きる姿である。





ニーチェのいう「大地に根ざして生きる」



または、



小林よしのりのいう「大衆化されていない庶民」の姿を見た気がした。





祖父は農業をやっていた。なので、自然と共に仕事をし、そしてそこには代々続くご先祖様もいる。こんなに恵まれて生きるということはないなと感じた。






しかし、農業ではやっていけないということで、祖父は息子たちには農業を継がせなかった。





ここが難しいところだ。





家訓と表現していいだろうか、わが家系はこういう家系である。こういう価値観の基社会に貢献していくといったアイデンティティの根幹をなす価値観を言葉ではなく親の後ろ姿で理解できたのが昔であろう。仕事と住居が一体となっていた時代である。







ご先祖様の仏壇に手を合わせるのも19年ぶりである。祖父の家で一泊お世話になった。夜、仏壇のある部屋で布団を敷いて寝る。







心の中で仏壇を通してご先祖様に問いかける。高平家の家訓のようなものはなんですか?と。どんな人間を社会に送り出すのですかと。なぜなら、19年も御無沙汰の状態でわかるように、私は高平家の魂というか誇りのようなものを誰からも教わっていないからである。そもそもそんなものはあるのですか?と問うたりする。







そして、もし私ならどんな家訓を創るだろうと考えた。これは二十代半ばにも考えたことがある。当時の答えがなぜか思い出せなかったが、おそらく同じだと思う。私が子孫たちに説く家訓はこれである。






1、無知の知
2、勇気



どちらも私の座右の銘からのものである。






時代が変わっても子孫たちが時代に翻弄されるのではなく自らの足で自らの道を歩める力をつける指針となるものは何かと考えた結果がこれである。






1は「自分の無知に背いて語るものこそウソつきなのだ」というニーチェの言葉から。これは、情報が大事だということである。自分の生きる時代はどんな時代か。自分はどんな素質などを持っているか。そして、それらを基に何かしら自分の夢があるのならそれを叶えるために何をどうすればいいのか。その生きる戦術戦略も情報がないことには何にもならないからである。昔から、天下をとった者は情報を持っていた者であるからだ。だから、ただ多くの情報を持つのではなく、謙虚に客観的に自分に必要な情報は何かを見出し、獲得する能力を身につけてほしいという意味である。





2は「勇気とは人が恐れるべきことと恐れるべきでないことを区別することだ」という新渡戸稲造の武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?の中の言葉。この本で著者は「武士は死ぬべき時に死に、死ぬべきでない時には死なない」という武士道の精神が、西洋のプラトンの思想に通じるところがあると紹介したのが上の部分である。単に死ぬべきでないと表現するより、恐れるべきと表現した方がわかりやすかったからこちらを選んだ。これは情報に左右されない軸を作るということである。いくら情報があり、金があり、社会的に恵まれていたとしても、己の生きる指針となる絶対的軸がないことにはそれらに振り回されるだけである。社会的地位や金など社会的有利なものをすべてなげうつことでしか自分の求めていたものに少しでも近づけないなら、このチャンスを己の社会的有利で買う決断ができるかということである。自分は何のために生まれてきたのか。それを失うこと、それを放棄することが最も恐れるべきことなのである。







この二つがあれば、どんな時代であろうとどんな場所であろうと、人間として立派にやっていけるのではないかと考える。








私はまだまだこの二つを呼吸するように生活の中で行えていないが、昔に比べてできるようになっているのも感じる。








祖父は元気だったが、グラスを持つ手や箸を持つ手などふるえたりする。そんな祖父にお酌したりしながら、この人のおかげで自分が要るんだと思うといとおしく感じた。






普段血筋の上の人と接することがないため、こうしてたまに接するとその生命の神秘かつ人間社会の根幹をなすい家族をほんのささいなことで感じる。







また、今回の帰省で叔父たちがリンゴ狩りへ連れて行ってくれた。







取ったリンゴはその場で食べ放題ということでいろいろ物色した。





が、これは一期一会だ。直感で選んでそのリンゴをおいしくいただくのが自然に対しての礼儀だなと思った。





君かわうぃ~ね~♡





おいしかったです(●^o^●)




以上
またね***

2011年9月23日金曜日

汗をかかずにトップを奪え!(食べる読書59-2)





以下抜粋



おめでたい「正直もの」たちは、自分の目で見て、自分の足で調べ、自分の頭で考え、自分で判断を下すという大切な作業を、すべて放棄しているのである。








本当にリストラされているのは、オッサン連中ではなく、若者なのだ。正規従業員の減少と非正規従業員の急増は、その事実を端的に表している。









「安い賃金で働く大量の若手が、高い賃金の中高年を支える」という仕組みを、これ以上ない形で実現することができた。









即戦力を求めているということは、生え抜きのエリートが育っておらず、またこれから育てる余裕もない、ということの裏返しなのだ。









人を忘れた独立は、必ず失敗する。
君には、それだけの準備(人脈と信頼関係)ができているだろうか?









優秀で魅力的な人材は、いくら本人が休みたいと思っても、周りがそうさせてくれないのである。











自分の意志で選んだ、大いなるヒマつぶし。それが仕事の正体だ。このことを大前提として頭に入れておけば、仕事に対する意識も変わってくるだろう。










会社の中でうまくやっていくためには「半径五メートル」への対応をどうするかにかかっている。
自分の性格や資質に合った対応を考えてほしい。









会社なんてものは、社会的使命を持った清く正しい中立公正な組織などではない。どこかのオッサンが、自分の欲を満たすためにつくった組織が会社であり、どこまでも人間臭く、どこまでも不完全な組織が会社なのだ。










どうしてありもしない理想郷を探すんだ。理想郷ってのは、探すもんじゃなく自分の手で周囲を改善していくものなんだ。










必要なのは「自分探し」ではなく、一段ずつ自分を積み上げていく「自分づくり」なのである。












第一に考えるべきは自分の苦手分野であり、「自分は何に対してストレスを感じるのか」なのだ。











下らない長期計画なんか立てる必要はない。どのみち、やれることといえば「目の前の仕事を完璧に片づける」に尽きるのだ。そこに全力を尽くすことである。










会社に利用されず、したたかに会社を利用してやるのだ。









ヨコの関係は兄弟関係になるのだ、ということを頭に入れておくだけで、今後の身の処し方も変わってくるはずである。










人間は、自分の目や耳で直接確認したものより、どこかでほんのちょっと漏れ聞いた情報のほうを信じてしまう性質がある。










トラブルの九割は「無知」から起こる










共に働く仕事場だからこそ、もっと心をオープンにして自分という人間そのものを知ってもらわないといけないのだ。










本音を明かす相手は、決して「遠くの誰かさん」じゃない。目の前にいる、生身の友達、家族、恋人、そして仕事仲間にこそ本音で語りかけるべきなのだ。










上に気に入られようと思うなら、バカを演じることだ。









大切なのは、どれだけ「言われてないこと」をやれるかだ。










仕事にしろ勉強にしろ、最後に勝つのは「頭のいいやつ」だ。要領がよく、合理的で、戦略性を持って、テクニックをふんだんに駆使して、最小限の労力で最大の成果を生み出していく人間。そういう「頭のよさ」が必要である。










本務と雑務の見極めがしっかりとでき、物事の優先順位についても、明確な指針を持っている。そしてクリエイティブワークと作業をうまく使い分け、一切ムダなエネルギーと時間を使わない。











まず、予定とは「休みからつけていく」というのが、おれの基本的スタンスだ。










楽しい仕事、面白い仕事から先に手をつけ、自分を勢いづかせることが重要なのだ。










人が誰かのことを好きになる時、減点法で好きになるなんてことはない。










「自分は引く手あまたである」ということと「断ることもある」ということをアピールするのだ。












どれだけ多くの仲間に囲まれているか。つまり、どれだけ人生を楽しんでいるかが、最終的な仕事力を決めるのだ。



以上
またね***





汗をかかずにトップを奪え!(食べる読書59-1)





過激なことを言うと、前から(十年前くらい)今の60代以降は早くくたばれと思っていた。




次の世代を次の時代を担えるよう指導もできないくせに、ただ昔話ばかりしやがって、しかも厄介なことは次の世代にたらいまわししやがって。それでいて威張りくさる。あほか!!!





以前在日外国人に日本語を教えるボランティアをしていた。当時教えていた人は中国人の男性だった。その人はとてもまじめで優秀だった。その人に言われたことがある。






「何で日本の総理大臣は一年で変わるの?」と。





日本の政治家には期待せずにあきらめていた自分だったが、外国の人にこう言われると自国の政治の情けなさが身にしみた。






答えに詰まって、たぶん





「何もビジョンがないからじゃない?あと、情熱もないから。」みたいな感じで答えたのかな?政治にくわしくなかったので話をそらしていったと思う。






反対に中国の政治についていろいろ聞いた。中国は共産党しか政党はないと思っていたが、彼が言うには小さいが他にもいちおう政党はあるという。あと、日本のマスコミが言うほど一党独裁ではないそうだ。まあ、日本人の受け取り方と中国人の受け取り方が違うから何とも言えないが、自国の政治に関して私よりきちんと話した彼はさすがと思いました。








それはさておき、既得権益にしがみつく老人たちは無視して若い俺たちは自分でもっと稼いでやろうじゃないか!!!というのが本書の内容。







つまり、これまでとは明らかに社会構造も変わり市場も変わり、働き方も変わっている現在で、今の老人たちと同じ道を進んではお先真っ暗です。だから、今の時代にあった働き方をしましょう。その考え方を紹介します。ということ。








なるほど、その考え方もあったか!!!と思うものもあれば、これは大事だし基本だなと感じるものもある。







以前の働き方がどんなものなのかわからないのでなんとも言えないが、老人たちが指南できないような内容ではあると感じた。








当たり前だが、結果を出す働き方をするには、上司やトップを観るのではなく、自分の仕事の場(足元)を観ながら決めていくのが王道だと感じた。









社会に対してどう影響を与えるのか、どんな影響を与えるのかといったことだ。







最近、二十代を対象にした仕事術の本が多く出版されているが、職場で誰も仕事を教えてくれる人がいないからなのかもしれない。




to be continued ・・・






2011年9月22日木曜日

なぜAiが必要なのか(食べる読書58-2)





以下抜粋




死因などにほとんど関心を持たないのは、単に自分が不幸な目にあっていないからだと理解できるはずだ。







「解剖至上主義」から「Ai優先主義」への転換は必須で、そうでないと日本の死因究明制度は近い将来、必ず破綻する。








日本のCT設置台数や検査数が多い理由は、国民皆保険制度によって気軽に病院を受診できること、医師数が少ないこと、CT検査料が欧米の数分の一と安いこと、検査好きの国民性など複数ある。









海堂尊は著作を通じ死因不明社会の存在を認識させ、Aiという現実的解決策を提示した。








死後CTデータを集積すれば日本人骨格データベースを容易に作成できる。…。CTを用いた日本人骨格データベースは人工関節に限らず様々な方面に利用可能で、問い合わせも多い。








再構成画像は一般市民への説明には適するが、注意点もある。元のCTデータは客観情報だが、再構成画像作成の際には、作成者による情報の取捨選択が行われ、必ずしも客観性のある情報でなくなってしまう点だ。臨床画像に習熟した放射線科医か診療放射線技師が作成することが推奨される。









確かにAiには弱点もあるが、Aiでなければ得られない情報もある。









医療にはわからないことがあるということを認めてほしい。でなければ医療は成り立たない。今回の件は最初に「異常死」として警察へ通報したが、反応がなかったため院内で病理解剖した。にもかかわらず病理解剖の「血管は無傷」との所見は判決では無視された。司法解剖では判決は違ったはずだ。









カンファレンスでは、医療と司法には相容れない性質があることにも議論が及んだ。








この事件は、医療の専門家にとっても明確な死因がわからないケースだった。にもかかわらず司法の専門家は「わからない」とは言わず、机上の推論で判断を下した。最高裁でK病院の敗訴が確定したことは医療者の一人として残念であった。








現在の医療崩壊は市民・メディア・行政による複合行為の結果であり、それは2004年に日本の医療費が先進7カ国中で最低になった時点で予想できた。








本来、医療行為にはリスクが伴うのだ。それは出産も例外ではない。事故や過失が、死亡や障害に直結するのが医療である。にもかかわらず、予見義務や結果回避義務の違反を罪とする業務上過失致死傷を、医療行為に適用することは不合理ではないだろうか。








ミスの有無ではなく障害の有無をもとにした判決は、結果として障害の残りそうな重傷者を診療しないという風潮を招くのである。








臨床現場を知らない法医学者は性悪説的な死因究明を求める。医療者は悪意がなかったことを自ら証明しなければならない。だが解剖では結果しか見えず、そこに至る経過がわからない。







人は死という概念を自らは体験できない。だが他者の死は認知可能である。








メディアとコンピュータ技術は、我々の脳の対応能力を顧慮せずに進化する。だからこそわれわれ人間は意味付けの負担を軽減する技術を必要とする。








「Aiによって獲得された情報は、既存の情報コントローラーからは利用可能性を制限され、さらにAiという情報獲得プロセスあるいは流通プロセス自体が制限される」








情報が多ければ多いほど、不確実性は増大し、受け容れられる情報は減少する。こうして、現代世界に生きるわれわれは、無知の増大を信頼によって埋め合わせるしかなくなる。……まさにインターネットこそ、知識の信頼性の問題をきわめて鋭く提起しているのだ。われわれの文化は、真実を知ることを断念して久しい。真実に取って変わるのは情報相互の競争を信頼するということである









科学技術そのものは価値中立的であるという議論に対して、挑発の議論は、新たな科学技術それ自体が社会を新たな局面に巻き込んでしまうと主張する。








フランクフルト学派とは、マルクス主義をベースに、批判理論による社会理論、哲学を研究しているグループの名称である。









われわれは世界で出会った出来事にとって受容可能なもの、納得できるもの、説明可能なものとするため、「物語」という形式を必要とする。









犯罪が成立するためには、構成要件に該当する違法な行為について、さらに、その行為者に非難が可能であることを要する。







法は国家や社会の秩序維持という大目的に奉仕し、個々の構成員についての公平性や正当性など考慮しない。










患者を救うべく医療行為を行っているにもかかわらず、結果が悪いだけで刑事責任が問われるというのは、医療者には大きな矛盾と感じられる。









人は注意深く行動しなければならないし、その行動に責任を持たねばならない。だからといって、エラーが生じたときに、個人を責めるだけでは、システムの安全化にとっても、同じようなエラーを起こすことを防ぐうえでも効果は低い。








哲学者は世界をあれこれ語ってきただけである。大切なことは世界を変革することである。



以上
またね***




なぜAiが必要なのか(食べる読書58-1)




題名の通り、Ai(オートプシー・イメージング)は必要だよ!と言っている本。



「解剖制度が社会的に未整理で、非論理的検査になってしまっている。死因究明のための解剖制度は司法解剖、行政解剖、承諾解剖、病理解剖と、行政的に4つに分断され、責任官庁が違い、取りしきる法律も違う。これでは解剖を増やそうと頑張っても、誰が主体かわからなくなり、そうした運動は求心力を失う。」



と本書にあるように、読んでいてどこに焦点があるのかわからなかった。






Aiを歴史、医療、捜査、司法、倫理の面から記述している。だが、単に現状説明に終始しているだけのように感じる。Ai導入による利点は説明で分かるのだが、それによって社会生活がどう変わるのかがイメージできない。また、Ai導入により、人々の社会認識というか価値観がどう変わるのかもいまいちピンとこなかった。心にあまり響かなかった。必要なのは分かるが、では我々一般市民はその導入に対してどうすればいいのかもわからなかった。






新たな科学技術は見えなかったものを見えるようにする。これが厄介。我々は未知なるものに対する迅速な対応法を持っていない。長い年月をかけて新しいものに対する情報が貯まり、統計学的にある程度どういうものかの概略がわかった時点で適切な関わり方がわかるという形だ。








以前も書いたが、いま人類の持っている情報処理技術では、今後どんどん出てくるであろう新たな科学技術に対してスムーズに対応できない。よって、Aiのようにどこをどう攻略しいけばいいかわからない、またはその技術自体が新たな問題を産みだすといったことを乗り越えないといけないことが多くなるだろう。








そういう意味で、“法”の概念自体が最も変化を要求されるのではないかと考える。法律は社会秩序を保つためのもの。その社会秩序というのは「状態」のことであり、一つの価値観に照らして、ある事象が妥当かどうかを判断するものである。社会秩序と法は一対一に対応しているということである。今の日本は資本主義・民主主義という価値観の基(実際はこの言葉で語れないほど複雑ではあるが)社会秩序を形成している。なので、資本主義の根幹を脅かす技術、または民主主義が成り立たなくなるような技術により人々の意識が変わるということが起こると、それに合わせて“法”は変えないといけない。 だけど、リアルタイムでその都度、市民の言動の基準という面も持つ“法”が変わることができるだろうか。もし変わったとして、その変わるということ自体が、社会秩序を保つことに反することになるのではないか。“法”自体が“法”を否定しているという奇妙なことも起こりかねないのではないか。








よって、新たな考え方が求められている。







今は要素還元主義と二元論でほとんどのことを捉え、今の社会を創ってきた。







だが、今後単純に要素還元主義や二元論では語れないことが増えてくるだろう。







Aiは、制度構築で時間かかっている。法律や人材育成、設備導入のための予算、人々への啓蒙など、やるべきことは多い。なぜなら、人々の死因究明に対する価値観を変えることを意味するからである。







だからこそ、Ai導入への軌跡は大いに参考になるだろう。



to be continued ・・・





2011年9月21日水曜日

絶望の日々からのV字回復(食べる読書57)





身近な人とどれだけ濃い関係を築いているだろうか。




あるいは、あなたにとって人間と関わるとはどういうことだろうか。



どっちにしろ、人は一人では生きていけない。





心を揺さぶられるものは、本・映画・絵画何にしろ、一人の人間を対象にして語りかけるものである。






本書はまさにそういうたぐいのものである。




心に響く。





著者の、まさにV字回復の軌跡がつづられている。






生の人と人とのやり取り、そんなやり取り一つ一つが人間の息吹であることを気づかせてくれる。






薄い本だが、人によっては止まりながら読むことになり、意外と時間がかかるのかもしれない。著者の半生から、自分の半生で見つめ直す個所が多々あるはずだからである。






さらに前へ進む自分との対話のきっかけになるかもしれない。





以下抜粋




好きなことをやっていたら思いもよらないいいことがやってくる。








子供のありのままの気持ちを受けとめて、共感しながらもっと長い目で見守っていこう






その子先生が“命がけでこの仕事をしている”ということが、一瞬で私の心に伝わったからだと確信しています。「見ず知らずの僕のためにこんなにも熱く…。この人なら信じられる…」と身体が熱くなり、嬉しくて涙が溢れました。








命を助けてもらっただけではなく、さらに生きる希望ももらいました。







本人が自覚している能力の限界点をはるかに上回る水準で、その人の可能性を信じ切ってあげよう!!






自分の可能性を心から認めてもらえた時、心から信じてもらえた時、人はパワーが出ます。








両親や家族に感謝できない人は周りの人たちにも感謝できないし、何より自分にも感謝できない。









「よく来たね」と一人一人に触れて、「あなたなら大丈夫よ」と口先だけではなく、本心で言える人。心の底から相手にぶつかっていく人。私のように悩んでいる人にとっては、本当に神様のように暖かい存在でした。









劣等感・恐怖感を、安心感・ワクワク感に変えてあげよう!








この人は自分にとって安全で心強い味方だなという安心感がわいてきて、グッと近く、頼りになる存在に感じられました。








自分にとってはすごく恥ずかしくて引け目に感じていることでも、意外と周りはそうでもなかった、ということがある。








挫折したことは人に隠したい部分ですが、決して恥ずかしいことではありません。









様々な悩みの種(背景)には、必ず人間関係にまつわる問題が潜んでいるのです。友達や上司とうまく行かないといった人間関係の悩みにも、そのもっと奥に、例えば家庭で問題を抱えているなどの根本的な人間関係のところに不安定な要因が見つかるのです。









親も子どもも、お互いにいろんな人間関係の問題を抱えていて、それが複雑に絡み合って悪循環をまねいていたように思います。










「今までの経験は全部無駄じゃなかったんだ」、「失敗して良かったな」、「失敗したって大丈夫だ」と心底自分の人生を認められるようになったのです。










私はコーチとして、挫折して悩んでいる人に対しては、その人の経験から必然性を見いだしてあげる、運命的なものを感じさせてあげるということを大切にしています。








「自分のコンプレックスや癖を直すのは辛い。それよりも、そんな自分をすべて認めてあげて、自分のコンプレックスとこれからどのように付き合っていくかということが重要である。欠点を直すことよりも、欠点との付き合い方を研究しよう」








叱咤激励しすぎないでください。それよりも、変化のプロセスをよく観察してください。今、その人の心の中で何が起きているのか、これからどこへ向かおうとしているのか、そういったところに注力して、むしろ、目標が変わっても「○○さんの視野が広がってよかった!成長したね!」と温かい眼差しで見守ってあげてほしいと思います。






そのときの自分にしっくりくるスタンスでいいのです。



以上
またね***




人を動かす「韓非子」の帝王学(食べる読書56-2)





以下抜粋



資金力もなく、総合的に劣る会社がライバル会社に勝つには、ゲリラ戦、すなわち、一人一人の人材パワーに負うところが大であるから、いたずらに外に打って出るより先に内部固め、すなわち、商品力、営業力、人材育成の充実を図らなければならない。
とくに中小企業はそうである。










部下の一生は最初の上司で決まる。それだけ、基本が大事だということでもある。そして二番目の上司で、部下の将来は九割方は決まってしまう。










スキル、ノウハウはいつでもたたき込むことはできる。大事なことは、仕事への取り組み姿勢である。精神的なこと、心の部分である。
これを価値観と呼ぶ。
リーダーが教えるべきことは、この価値観なのだ。










孫氏が連戦連勝を収めた理由は、軍律を厳正に徹底させたことにある。・・・。私情が判断を誤らせる最大の敵なのである。惜しむべき者であればこそ、断じて軍法を正さなければならない。











逆説的な言い方だが、指導者が無私だからこそ、部下は「手柄を上げたい」「褒めてもらいたい」「ライバルに勝ちたい」という私心をエネルギーにして働けるものである。










わたしの友人は社員数三百人の販売会社を経営しているが、いまだに銀行振り込みではなく、頑固に手渡しにしている。いま時、こんな時代遅れな人間がいるかと呆れるが、彼にしてみれば、これも大変な意味があってのことだという。
「これだけ増えると、たまにしか会わない社員ばかり。だからこそ、人間が最も素直になる瞬間をとらえて教育しているんだ」










亡君とは滅んだ国の君主ではない
外国の力をあてにする君主のことだ!










説得の難しさは説得相手の心を読んで、自分の説をそれに合わせることにある。










他人の心ほど移ろいやすいものはない。それだけに自分のポジションをきっちり定着するまでは、相手を刺激してはならない







ワンマンになればなるほど、優秀な人間よりも本当は自分を裏切らない人間を寵愛するのである。








相手に疑心暗鬼の念を起こさせないようにコミュニケーションを密にすることが大切だ、ということだ。










人の心は移ろいやすい。それだけに、つなぎ止めるには努力が必要なのである。そのためには、不断のコミュニケーションが重要だと心して欲しい。










守りに徹する、チャンスと見れば打って出る。「危機」という字はリスクとチャンスと書くけれども、リスクをあえて冒す必要はない。







望みがかなわない理由は「迷い」だ
迷わず行け、行けば叶う!









はっきり計算して、できないと判断することはいい。しかし、「これは五分五分だ」という段階で躊躇している時間があるなら、チャレンジしてみてはどうだろう。











イマジネーションとは想像力のことだが、まだ全体像が見えていない時に、これはこうなる、こうしていくと絵を描いていく。そして、絶対にものにする。ものにできるという確信をずっと持ちつづけていく。
これを執念というのだ。








経営者は部下をポジティブ・シンキングに洗脳する教祖でなければつとまらない。自信のない部下に言葉一つで自信を与える力がなければならない。







自信とは「自分への信仰」という意味なのだ。わたしはできる、絶対にできるという、絶対的な信仰を持つこと。これを自信というのである。信頼などという弱いものでは決してない。








「実学とは一流の人と出会うことである」







一流には、いつ、どこを切っても同じ哲学が流れているものだ。そういう人はおしなべて人間通なのである。










怖さを頭ではなく、肌身に染み込んで知っている。それが謙虚さを生むのだ。









安らかにする方法の第一は、賞罰は是非に従うことだ。第二は、禍福は善悪に従うこと。第三は、殺すこと、生かすことは法に則って行うこと。第四は、賢いかどうかで判断しても、愛憎で判断してはならないこと。第五は、愚者と知者かで評価しても、誹謗したり、誉めたりはしないこと。第六は、尺寸という物差しで考え、推量はしないこと。第七は、信義があり、詐欺がないこと。









形而上とは美学、理念など数字では表現できない価値観のことだ。形而下とは、逆に売り上げ、利益といった数字で表現できる価値観のことだ。











人に依存するよりも自分に頼るべきだということを明らかにするものだ。人が自分のためにするより、自分で自分のためにするべきだ、ということを明らかにしている。










「弱者救済」が政治家の務めなのではない。自助努力を促すことが政治の務めなのだが、そこに票と献金という二大フィルターがあると、たちまち、イエスマンに成り下がる。









世の中で成功したリーダーは、すべてがすべて、リーダーと部下とのチームワークがきちんと機能しているのである。









もし、汚職をなくしたければ、汚職が発生しないようなシステムを作らなければならない。人間の理性に訴えるということは、簡単なようで実はもっとも難しい問題なのである。




以上
またね***



2011年9月20日火曜日

人を動かす「韓非子」の帝王学(食べる読書56-1)





「荘子」、「孔子」、「孫氏」、「韓非子」、「老子」、西洋では「プラトン」、「アリストテレス」など、偉大な古典は多くある。





時代も場所も違えば、価値観も異なる社会の人が書いた古典をなぜ人は読むのか。




何千年の時をこえて存在し続けてきた古典。だからこそ普遍的な内容が記されていると思い、読む。




腑に落ちないのは、こんな偉大な人たちがいたにもかかわらず、いまだにこういう古典の内容を人々は実社会で身につけていないのではないかということである。







だから、何千年も存在し続けることができた。





少し疑いを持っていうと、もともと人間にそんなことはできないのではないか。できないことをいかにもできるかのように見せる。ちょうど、目の前にニンジンをぶら下げてロバを進ませるように、我々は古典というニンジンに踊らされてはいないか。






この視点に答えが詰まっているように感じる。





人間は想像の生き物だということだ。古典の内容を自分の現状にあてはめて、解決策を見出す。そこには想像力がフル稼働している。そして、自分の人生を創造していく。







つまり、古典は実践的ではない。ただ、夢を見せ続けるだけのもの。ただし、人類が生き続ける為の夢をだ。







だから人は決して事実を見てはいない。その事実に対する解釈を見ているのだ。






本書は、「韓非子」の各篇を著者が解説する形をとっている。その解説は著者の経験に基づくもので、実践的である。が、たまによけいわからなくなったりする個所もある。






人によって解釈は異なる。だからこそ一筋縄ではいかない。同じ古典を読んでも受け取り方は千差万別。だが、少なくとも価値あるものとほとんどの人に思ってもらわないと古典であり続けることはできない。






そういう意味で、古典はそのままで読んだ方がいいと感じた。誰かの解説が入っていると、偉大な偉人の思想ではなく、その著者の思想を知ることになるからだ。






古典を実生活でどう活かすかという視点ではこういう解説された本は役に立つ。




to be continued・・・





2011年9月18日日曜日

妖怪学講義(食べる読書55-2)





以下抜粋


哲学のめざすところは合理的な思考に基づく心理の主体的な探究です。であるならば、真理をおおいかくす迷信の正体をあばいて撲滅していくのが妖怪学のめざすところ。じつに哲学と妖怪学は表裏一体の学問であったのです。





わけのわからないものにひかれていく人間の心性に目を向けることが、妖怪学を学ぶ第一歩です。そのうえで、科学的な検証と明晰な論理によってその本質を見きわめ、根拠のない思い込みや理不尽な偏見を打破していく。そうした批判精神を養うことを目標にしたいと思います。









「洋の東西を論ぜず、世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理を持って解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す」









「死んだ筈の人間が現れたら、それはやはり幽霊なのである。それが固有名詞を失ってしまったら、お化けと呼ばれるかもしれない」








そもそも水子が祟るという発想は、江戸時代はもちろんのこと昭和の中ごろまでありませんでした。水子供養がはやり出したのは1970年以降とされています。まったく現代的な風習といっていいのです。








おろされた子は怨んだりしません。祟ったりはしません。けれど、泣いている。その思いは一生持ちつづけていくしかないのです。










妖怪はやはり民俗学の色彩が強くあるようです。かたや幽霊は文学的な要素を多分に持っていると言えます。浮世の人間模様が背景にあるからこそ、幽霊話は文学であり、人情話にもなるわけです。・・・。そこには恐ろしさや人の心の醜さだけではなく、悲しみがあります。美しささえあると私は思います。










昔の人々にとっては霊という存在、その力の発動は、生身の人間などてんで比較にならないほど強烈なものと意識されていました。









およそ文学であれ芸術であれ、それが生まれ出る土壌は、怨霊が現れる時空観と重なり合っています。もともと満ち足りた真昼の明るさの中から、あえて文学が語りだされる必要はありません。
ひたむきな思い、それがかなわなかったことのくやしさ、くちおしさ……それこそが浮かばれない霊にとって、この世に残留する本質的な契機であるにちがいありません。そうであるならば、それを受けとめていくのが宗教であるのかもしれません。それを昇華させていくのが文学や芸術である、とは言えないでしょうか。










人にも知らせず文字にも記さない。これこそ呪いの清く美しい姿。呪いの本質にかかわることなのです。









予言もまた呪いと相似形をなしています。予言の自己成就というのがまさしくそれに該当します。
語られた言葉が呼び起こす具体的なイメージは、いまだ限定されていない思いに限定を与え、修正を加えます。やがて行いまでも制御するようになっていきます。外から威圧的に言葉がくだされた場合はなおさらです。意識に刻みつけられた言葉をなぞるように、人は行動へと駆りたてられていくのです。









人の不幸を願うのが「呪い」ならば、人の幸福を喜ぶのは「祝い」です。・・・。旁の「兄」は、ひざまずいて器をさし出す形を表している。…、現在の文字学では、たまわったものを受ける器と理解されています。誰から何をたまわるのかというと、それは天から天の意向をたまわるのです。









この世の中には因果関係で結びついているわけでもないのに、何らかの一致を彷彿させる現象がありはしないか…。








不可解なものが効力を発揮するという点では、これまた円了先生の言う妖怪現象に他なりません。








ここではすでに妖怪は、「起きること」ではなく「現れる者」に転換してしまっています。
私たちが妖怪を具体的な存在として想像していることと、円了先生が妖怪を不思議な現象と捉えていたことのあいだにある溝は、このように理解することができるでしょう。










私たちは普段でも、「ついている」とか「おかげさまで」とか「縁起でもない」という言葉を使ったりします。目に見えず理屈で割り切れない何ものかを、私たちは期待してもいるし、遠ざけようともしています。









円了先生が打破しようとしたのは、妖怪そのものであるよりは、妖怪を信じてしまう民族の心性であったのかもしれません。そしてそれはなおも変わらずありつづけているのです。





以上抜粋





呪いと聞くと、第二次世界大戦中にアメリカのルーズベルト大統領が急死したという話を思い出す。本当の話かどうかは知らないが、戦争中、比叡山だったかな?の坊さんたちがルーズベルト大統領に対して呪いを僧侶一丸となってかけていたらしい。それで、ルーズベルト大統領が死んだ時大喜びしたそう。




民族性なのかな。他にできることはなかったのかあ?と思った。ルーズベルト大統領がすべての根源ではないはずだろうし、呪い以外にも勉強してもよかったのかも。言い古されてはいるが、どんな技術もそれを使う人によって悪にもなるし、善にもなる。だが、怨みがとどめあえずに渦巻く歴史を持つ日本らしいではある。そして、そこに少しばかり癒しを感じたりもする。




以上
またね***






フルタ 百鬼夜行 妖怪コレクション バラ:楽オク中古品


京極夏彦氏特別協力・初摺限定300セット高品質の復刻浮世絵葛飾北斎「百物語」全5図セット

2011年9月17日土曜日

妖怪学講義(食べる読書55-1)




私は妖怪大好き人間です。正直怖いけど…。




真剣に妖怪に会いたいと思っている。鬼太郎に会いたいなあ(●^o^●)






本書は東洋大学で行われた妖怪学の講義をまとめたもの。






本書でなぜ私が妖怪が好きなのかが、明確に言葉にされている。







「妖怪現象の解明というのは、人文・社会・自然科学のあらゆる領域から取りかからなければならないというのです。つまり、さまざまな学問を総動員して取り組むべき問題群ということになります。ここから円了先生は、“妖怪学を持って全知全能の学となす”と述べています。」




「妖怪はなんにでもつながっている。だからこそ楽しい。と同時にだからこそ難しい。なぜなら、知性も感性もフル回転させて取り組まねばならないからです。清純な心も邪悪な心も射程に入れて取り組まねばならないからです。」




円了先生というのは、今の東洋大学の前身哲学館の創始者で、120年前にその大学で妖怪学を講義していた人。妖怪学の第一人者といってもいいのではないか。あの水木しげるさんが、今も頼りにしているのは円了先生の井上円了・妖怪学全集〈第1巻〉
というほどの人です。






本書を読んでいろいろ考えるところがある。時代とともに、妖怪の様相も変わる。どちらにしても共通しているのは、“想い”が妖怪を生みだし、妖怪そのものであるということ。







解明されていない現象を妖怪というなら、人の“想い”は解明できない。なぜなら、人の“想い”は変わるからだ。だが、変わっても“想い”には違いない。だからこその“想い”。








アインシュタインは、重力は時空を歪めるといった。なら、“想い”は概念を歪める。その時代の社会の「常識」という概念を。






なぜ、概念を歪めるのか。人間が生きているからだ。





物体が動くというのはそこに力が働いているからだ。その力は重力とも言い換えられる。





その社会の常識に合わせるのみなら、人間は生きてはいない。なぜなら、それはロボットの特徴だからだ。決められたルールに愚直に従う。その場合、「常識」という概念には力が働いていない。「常識」は歪められていない。そこには新たな動きなどあろうはずがない。なぜなら“想い”という力が働いていないからだ。







本書の中で、遊牧民族には妖怪伝説の類はほとんどないと書かれている。なぜなら、嫌な人とは我慢して一緒にいる必要がないからだと。彼らには、新たな土地でのさらなる幸せへの“想い”が働いている。一方、日本は島国で村社会である。そこには村のためといった社会のために自分を犠牲にする際の悔しさやつらさ、恨めしさなどが強くなる。よって、妖怪伝説が多いと。








”生きるということは動くということだ”






ここで、私が体験した霊体験を紹介したい。




もう5,6年前になるだろうか。



当時、わたしの部屋は壁にベッドをつけていた。右側に壁で、左側が机などの置いてあるスペース。



夜中だった。私はあおむけに寝ていた。



と、がさごそと音が聞こえる。誰かが私の部屋で何か探し物をしているようだ。まあ、夢だろうと思い特に気にしなかった。




しばらくして、そいつが私の方に振りかえり、私のベッドのほうへくる。まあ、夢だしなあ、なんだろうなあ…。ぐらいの気持ちでいた。まどろみの中で。




だが、そいつが私のベッドに上がった時に、「なんかこいつおかしい、というかなんだ?やばいぞ」と思った。なぜなら、そいつがベッドに上がった時、妙にリアルにそいつの挙動がわかるのだ。サクッ、サクッとした感じで、そいつの重みで布団がへこむのがわかる。しかもそいつのふんだ形にへこむ様子がだ。普通誰かが、寝ている自分の足の上に乗ると重くて痛いだろう。しかし、そいつは私の足の上に乗っているのにもかかわらず全然重くなく、だが確かに、しっかりとそいつが自分の足に乗っているのがわかるのだ。重みがあるというかは、やわらかく変な気持ち悪い感じだった。だから、「幽霊か?と思ったが、まあ夢だろうしな…。」と眠気を優先していた。



そして、そいつがベッドに上がってくるとほぼ同時くらいに、気がつけばわたしは口を開けていく。ちょうど、気道確保して人工呼吸するような順序で、自分の意志とは関係なく自ら口を開けていくのだ。「マジか、もしかして魂抜かれるのか?」と思いつつもどうしていいかわからなかった。





その時、急にバッ!!!と、映像があらわれる。それは、私の上に乗ったそいつの姿。白い着物のような、一般的な幽霊の服装で、少しぼんやりその白さが光っていた。夜なので周りは真っ暗で、その白い弱い光の中で、そいつは大きい口で「にや~」と笑っている。顔で見えたのはその大きな口だけで、他は見えなかった。髪もどれくらいの長さだったかもわからない。男か女なのかも判別できなかった。だが、その様子からは嫌な感じしかしなかった。そして、なんとなく自分の口を強引に開けさせられているような気がする。



すると、左側からカメラのフラッシュのような光が光る。「何だ、やっぱり夢で、誰かがカメラ持ってイタズラしてたのか?」と思ったが、そうではなかった。



当時、私のケータイにはたくさんの迷惑メールが来ていた。その光は、メールが来ていることを知らせるライトの光だったのだ。


その光は私にとってかなりまぶしかった。ので、その光を止めようと体を起こし、ケータイを手にし、操作する。


もう、その時点で私の意識はケータイに向いていたので、あの幽霊のことはほんの少し、2~3秒の間だったが意識外だった。


そして、その時気づいたのだが、ケータイを取ろうとした時に私は初めて目を開けたのだ。


なので、その幽霊は私のどこか、意識に働きかけて姿を見せたのだ。


ケータイを見ると四時過ぎころだった。


そしてすぐにベッドに戻り、すぐ寝るのだが、どうしても視線をベッドの上に移したくないのだ。なので、ケータイしか見ないようにしていた。



というか、ベッドに戻るとそいつはまだいるのだ。さっきのように映像を見せてはくれないが、確実にいる。


もうすでに、私はばっちり起きてて、怖くて、でもどうすればいいか必死こいて頭の中で考えていた。もちろん目はつむったままでだ。


だが、わかるんだよ、じーっと私の顔をのぞいているのが。「てめー、見てんじゃねえ、こえーだろっ!!!」と思いながら、でもいろいろ考えた。



何かあるんじゃないか?こいつは何かを探しているようだった。何か俺に伝えたいことがあるんじゃないか?俺にどうしてほしいんだ?とかいろいろだ。どうすればハッピーエンドで終われるかを考えた。



で、その幽霊に話しかけた。もちろん、目をつむりながら。



「何か意味があってあなたはここにきたと思う。あなたの身に何があってきたのかはわからない。また、私には私の人生がある。まだ、私は死ぬわけにはいかない。やることがある。だが、あなたも何かそういう意味があってここに来たのなら、私には何ができる?大事なのはお互いの目的を達成することだと思う。私は霊感がないし、あなたの世界ではどうすればいいかわからない。他の人を当たったほうがいいと思う。(あなたの目的を私に伝えてくれるか?)」


という内容だったと思う。もう、怖くてあまり覚えていないが、こんな感じだったと思う。カッコ内は言ったかどうか定かではない。



でも、意志の疎通ができてないなあと感じたのは覚えている。



こんなことを言ったが、相手の反応がよくわからない。というか、怖くて目を開けていないので、視覚に訴える返答だと困るなあ…。なんて当時はこれっぽちも思わなかった。もし必要なら、一日中だって目をつむってやると意気込みながらの、まあ、会話だった。



で、私自身も、4時という中途半端な時間帯に起こしやがって、これから寝たいけど怖くて寝れないし、だからと言って怖いから起きれないし、何してくれてんねん(-"-)


みたいに逆切れで気を紛らせていた。


まあ、その後の幽霊は、私の体をなでまわすようにしばらくまとわりついていた。


もう、私はシカトして話しかけもしなかった。


そして、目覚ましが鳴り、普通の一日が始まった。その時には、幽霊の気配はなかった。その時まで、目はつむっていたが、一睡もできなかった。





後半グダグダだな(・.・;)







いま振り返ると、当時も今も自分はここぞというときに何もかも投げ出して勝負していないなと気づいた。一度もそういうことしなかったんじゃないかとさえ思う。どうしても先のことを考えてしまう。それをした後はどうなる?と。




あの、幽霊がまとわりついていた時。口を開けられていた時。幽霊の力はそんなに強くはなかった。だから、ハッ!!!と気合を出せば、幽霊を圧することはできると算段をふんでいた。しかし、できなかった。それを、もし誘っているとしたら?と。相手は俺の口を開いてきた。それは魂をとるためじゃないのか?なら、ここで気合を出すのは魂が外に飛び出ることなのかもしれない。そうではないかもしれないが、その確証がない。今は、相手の様子をうかがいながら、大事な砦は堅守することだと決断した。よって、後手後手に回った。





しかし、私自身はこの幽霊を、ご先祖さんか何かだと思っている。私のために来てくれたのだと。



なぜなら、当時の私は生きることを放棄しているような状態だった。生活も最悪。ただ、自分の未来を信じれなかった。遅かれ早かれどこかで野垂れ死にするだろうと自分で思っていた。もう身動きが取れず何もかも真っ暗だったのだ。だから、一日中部屋に引きこもっていたこともしばしばだった。




そんな自分のけつを叩いてくれた。そんなことも分からず、幽霊の出た日は外に出て自分のやることに精を出した。




その後も今も苦しい戦いは続くが、いつも私は誰かに助けられている。




本当に、もうこれで最後というところでいろいろな人に、多くの人に助けてもらっている。




だが、そんな人たちの恩になかなか報いれていないことに少しいらついてもいる。しかし、そんなことを気にしているようじゃまだまだ本気で取り組んでいないということも自覚している。






といった具合に、私にとって幽霊や妖怪はただ怖いだけの存在ではない。たぶん、日本人にとって、あるいは人間にとっても怖いだけの存在ではないと思う。





すこしは幽霊や妖怪、それと関わる人間の複雑さ、奥深さ、矛盾を感じ取ってもらえたら嬉しい。



ご先祖様や多くの先代の人々に感謝しつつ


to be continued ・・・






2011年9月16日金曜日

Amazonを震撼させた会社の戦略

http://123direct.info/tracking/af/346595/FxOrZBp4/




ザッポスという会社をご存知でしょうか?


この会社は靴の通販で大成功を収めて
売上1000億にまで急成長し
最終的にAmazonが買収した会社です。


急成長の秘密は顧客満足度がとても高く、
通販でリッツカールトンやディズニーランド
レベルの顧客サービスを実現しています。


それだけでなく社員満足度も異常に高く、
働きたい人が募集枠を求めて
空きが出るのを待っているそうです。


社員全員が幸せだからこそ
顧客にも幸せを届けることができる
というわけです。


優秀な人材が向こうから集まってくる会社は
やる気のない社員ばかりで成り立っている
会社とは勢いもパワーも全然違います。


Googleなどがその分かりやすい例です。


そのザッポスのCEOトニーシェイが
「ザッポスで無意識にやろうとしていたことが
体系化されている」
と絶賛した本がこの「トライブ」です。


人の問題で困っている人にとっては
とてもオススメできる本です。


http://123direct.info/tracking/af/346595/FxOrZBp4/



■人を動かすのにリーダーシップは不要です

なぜ、優れたリーダーでも
新しい環境では失敗することが多いのか?


なぜ、並のリーダーでも
本来の能力よりも優れているように見えるのか?


なぜ、失敗ばかりしているリーダーなのに
部下に慕われるのか?


この疑問の解明に取り組むために
ある1人の男が2万4000人を対象にした
10年に及ぶ追跡調査を実施しました。


すると意外なことに
会社の中で部下を動かすのに
リーダーシップはほとんど関係ない
ということが分かったのです。



組織やチームで
人を動かすために必要なこととは?


⇒ http://123direct.info/tracking/af/346595/FxOrZBp4/

■神田昌典さんが絶賛した英語学習法!

「今月のゲストは、私が長い間、こんな面白い人が世の中にいるのか、
 というふうに気にかけておりました、本城式英会話スクール校長の
 本城武則先生をお迎えしております」


これは、あの有名なマーケティングコンサルタントの
神田昌典さんのオーディオセミナーの冒頭部分です。

神田さんに紹介された本城さんは、
雑誌「anan」で紹介されるなど、
全国で既に5000人以上の英語ペラペラ人間を
輩出してきた、知る人ぞ知る英語教師なのです。

そんな本城先生が、
日本全国の英語コンプレックスに悩む人たちを救うために、
英会話のホームスタディコースを発表されました!

今回は、そのプロモーションとして、
本城式のメソッドをより多くの方に知ってもらうために、
本城先生の講演会DVDが
無料でプレゼントされています。



本城式EQ英会話スクールは、
通常のスクールとは違い、
たった3ヶ月で卒業となります。

そう、たった3ヶ月で英語がペラペラになるというのです。

もちろん、ほとんどの方は、
これまで英語をさんざん勉強してきたにも関わらず、
一向に英語が上達しない状況を経験してこられているので、
信じられない方も多いと思います。

このホームスタディコースを受講するか?
本城先生のメソッドが本当に効果があるのかどうか?

まずは、この無料DVDで確かめてみてはいかがでしょうか?


- あなたの名前


PS.
この無料DVDのプレゼントは、
初版プレス分の1000枚で終了するそうです。
英会話に興味がある方は、急いでチェックしてみて下さい。
なぜ私たちは3ヶ月で英語が話せるようになったのか?

2011年9月13日火曜日

般若心経、心の大そうじ(食べる読書54)



般若心経で心をリフレッシュし、明るく楽しく生きようという本。




著者の経験などを例に挙げながら般若心経をわかりやすく解説している。




目の前に見える事象はすべて“縁”により成っているという考えが最も腑に落ちた。




この部分を読んでいると、空のことを思い出した。





すこし前から、空はすごいと感じていた。実際は空模様なのだが、一日たりとして同じ空模様はない。もちろん一刻一刻変化している。そこに作用している原理・法則は単純で圧力に関する法則(ボイル・シャルルの法則)くらいだろう。なのに、一度として同じ表情を我々には見せないのだ。それがすごいと空を見上げながら感じていたのだが、この“縁”の思想から、まさにそういうことだなと実感した次第です。






色即是空 空即是色




この思想はこれまで読んだ本の中でも幾度かであっているので、親しみを感じるし、日々の中で実感することもある。





本書はわかりやすくていいのだが、逆にそれがこちらがその真意を知るために思考することを妨げてもいるんじゃないかとも読んでて感じた。なので、味わい深いとは読んでてあまり感じなかった。解説している般若心経はきっと味わい深いに違いないだろうに。そこが、逆説的で面白い。仏教的にはこういう現象をどう解釈するのだろうか。




それは”行”だから、それも“空”なのです。また、この本が味わい深いと感じないのは“識”です。もちろんこれも“空”です。なので、この本が興味深いかどうかに焦点を当てるのは、本質を見失っていませんか。著者はこの本で何を伝えようとしているのでしょうか、般若心経は何を伝えようとしているのでしょうか、あなたは何を求めてこの本を手にしたのでしょうか。全てが“空”なら、この本にたどり着くまでの一連の心の動きと実際の行動、また本書を読んだ後の心の変化と言動を1つとみなした場合、何が見えてくるのかと考えてみることも可能だと思いますがどうですか。その時の“識”、”行”がすべてではないのですよ。





と、仏様は言って下さるだろうか。まだまだ悟りには遠い私ですが、少し考えてみました。




以下抜粋



「色(物体のこと)」が空と異なることはない、条件が集まっているにすぎないことを否定表現で「色は空に異ならず」と説きます。






食べ物が食卓に並んだ時、そこに農家、漁師、運送した人、調理した人など数多くの縁を観じて、「空(縁によってこの食事は今ここにある)」をふっと思ってみてください。そして何よりそこに命の犠牲があることも。死を含めた命を考えることなしに、心のそうじはできないでしょう。







「私はね、ここにいる間にそんな自分のことしか考えていない人たちの目を、たくさん観察しようと思っているんです」







考えると、死は無になることではありません。一つの変化の過程、通過点と考えることができます。







人にどう思われるかは、芸や仕事の上では大切なことでしょう。しかし、トイレそうじは、後から使う人が気持ちよく使うため、たったそれだけのためにすればいいのです。









「有(在)ること難い」で「ありがたい」です。・・・。相手に感謝する言葉を「普通ならあり得ないようなことが、あなたのおかげで起こった」という意味で表現するのです。









生きている人間にはなかなか集めることができないメンバーを、葬儀や法事では亡き人が集めてくれます。それだけでも、亡くなった人はたいしたものだと思います。








好きなことしてるんなら嫌な顔しなさんな







若い時から、自分の心を磨くために、その時、その時、やれることをやっていった結果、70歳にして矩を踰えずという心境になれたはずです。






いままで自分ができなかったことをやるのが“練習”って言うんですよ








心のそうじは毎日の作業の積み重ねでもあるのです。









あなたも、何かの問題にあたった時に「こんな時、仏さまならどうするだろう」と考えて真似してみてください。その真似ができたとき、あなたは菩薩なのです。菩薩として心のそうじをしてみるのです。








足なんか引っぱらないで、手を引いてくれればいいのに







「私のことを分かってくれないと思っている自分は、どれだけ人のことを分かろうとしているだろう」








一人で暮らせるようになってしまったら、支え合うという意味からはもう人ではなくなってしまいます。









煩わしさを嫌がり、ニヒルを気取り、卑屈になるよりも、死ぬまでの生きている間の人生を、しがらみを楽しみながら、心を大きくしていきたいものです。









わからないことをわからないとしておく勇気








家に帰ってまず何をするかといえば、食事の心配をすることでもなく、明日の仕事の段取りを考えることでもありません。「ただいま」と笑顔で言うことでしょう。








自分の大変な時と人の楽な時を比べれば、誰だってうらやましくなります。本当は、そんなことを比べずに、自分がやることをやったのだということで満足するべきですが、なかなかそうはいきません。どうしても比べたいのなら、他人の大変な時と自分の楽な時を比べてみるべきです。









まさか…という坂をこえるには、おかげというかげをおいかける







自分から考えて行動するのではなく、他から与えられた指令によって行動を決めていく姿を見るにつけ、その人自身の生き方の不安定さを垣間見るような気がします。人から指図されなくても、自分の中にしっかり生きていく勇気と元気たあるのに…と思うのです。








「あなた自身の中にある、生命力や反省して向上しようという力。その力を、足元を照らす燈明として人生を歩んいけばいい。バランスの取れた仏の教えを寄辺として、自ら考え、感じ、行動していけばいい」









私たちが日常の中で直面することは、すべて「真実にして虚しからず」なのだと思います。
虚しくしてしまっているのは、私たちの心なのです。








あなたにとって、叩かないで渡るべき島は、何ですか?
心のそうじを躊躇することはありません。実行あるのみ!です。




以上
またね***



2011年9月12日月曜日

希望は絶望のど真ん中に(食べる読書53-2)



以下抜粋


私は一ジャーナリストとして疑う。ビン=ラディン氏に発言させないで始末することを望んだ人たちがいるのではないか、と。ミスター・オバマよ、この疑問にどのように答えますか。







戦争が進めば進むほど、国家と国民の関係は冷たくゆがんでいった。交戦権は国家の権利とされたが、それは支配階級だけの極秘の特権だった。国民は、戦争の開始や目的、その進行について、政府からまともな相談や報告は、一度も一個も受けなかった。








歴史の下す因果応報の裁きは厳しい。人が人として必ずやらねばならぬことをやり遂げない人に対しては、後退させることはあっても、歴史の道を前へ進ませない。・・・。人としてやるべきことを必ずやり遂げようと努力し続ける人がおれば、その人たちが仕事を完了するまで、いつまでだって待っている。







自分たちの戦争行為を自分たちの手で裁くこともやらなかった。GHQの極東軍事裁判にまかせて、それで済ませた。日本そのもののよみがえりを導く日本国憲法も草案をGHQから受け取って、それで済ませた。必ずやらねばならぬことをやらなければ、その報いのくるのは当然ですな。







約200の加盟国の中でアメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスが常任理事国とされたのは、世界平和のために働く能力とモラルが秀れているからでしょう。そうでなければ、おかしい。その五カ国だけが、核爆弾の製造・貯蔵を許されたのはなぜか。どこのどなたが、何を根拠に五カ国にそんな許しを与えたか。納得のいく説明を私は全くどこからも聞いたことがない。もちろん自分では説明できない。あなたは?






現実の世界状況から見て、交戦権と軍隊と兵器の所持は、国家であることの条件であり資格だ。日本社会からそれを除去することは、国家としての外形は許しながら、心臓を抜き去ったようなものですな。








あの敗戦時に日本国民が力を合わせて、自分らのやった戦争行為の一切をわが手で裁き、迷惑をかけたすべての人々にありったけの真心を込めて詫びて許しを請い、そして自分らの進路を自分らの力で開拓したら、物事の姿が二面であれ、もっと多面であれ、真相をハッキリと見て取ったに違いない。








教育の本質を曲げて株式会社たちの求めに応じようとした余り、社会の現実の職場で役に立つ能力を青少年から奪ったのではないか。ここに私の確信する判断を刻んでおく…「やると決めたら100年続けてやり通すし、やり通せるもの、それこそ、それだけが教育というものの方針である」







独立独歩、自主自立。二足で直立歩行の姿そのものが心の姿である。







人類は未開・野蛮から文明・文化へ進んできたと今の人は皆そう思っているようだが、ほんとうは逆方向ではないか。遠い過去の人間たちは外見も持ち物も貧弱だったが、内には気高い誇り、とても温かい心配り、そして絶対にあきらめない決意を持っていたのでないか。だから、あらゆる困難を克服して生命のバトンを今日に至るまで渡してきたのであろう。






国際主義は国家主義の否定でもなければ、ナショナリズムの克服でもない。各国のナショナル・エゴイズムのへりをすり合わせて妥協することだ。まさに過去60年間、国際連合の中で踊らされてきた会議の成り行きは皆そうではないか。








戦争を肯定したのは、クラウゼヴィッツというプロイセンの職業軍人だった。・・・。戦争は、形態は通常の政治行為とは違うけれどやはり政治行為だと、言葉のアヤを操って、戦争は国家の権利と認めたわけだ。・・・。戦争は、人類のどのような公の場でも肯定されて承認されたことは今日まで全くゼロです。







政治工作を隠したり、自分らの失敗をごまかしたり、民衆の権力に対する不満を抑えたりするために、わざと戦争状態を工作してごまかそうとするなどだ。






戦争は、国民生活の中で全く惰性化していた。






世の中の大事な問題であればある程、それを世の中に持ち出すことにブレーキがかかる、そんな雰囲気が戦争中の社会に立ち込めていた。








戦争体制は、自分らの主張と行為に弓を引くものは、すべて利敵行為だ、国家への反逆として極刑で処理する用意をしているからだ。






その当時、私は世帯数が500の町内会の副会長をしていたが、物資の配給でちょっぴりでも不公平なあやまちをしたら、大騒ぎになった。何でもない顔つきで、実は生活内容をお互いに監視していた。家庭生活でも夫婦や親子のしっとりとした温かい心づかいまでが、外部からの刺激でひび割れを起こした。その根本の理由・原因は戦争そのものからきている事実を、私は若い人たちに語り伝えねばならぬ。








戦争に殺されまいとしたら、こちらが戦争を殺さねばならぬ、この厳しさをわが身に刻まねばならぬ、絶えず戦争を見据えて対決して、戦争を否定していかなくてはならぬ。・・・。
その時に日本には本物のジャーナリズムは存在しなかったのだ。そこからサラリーをもらって衣食をまかなっていた私は、ジャーナリストではなかった。







当時の日本人たちは本物の救いを求めていた・・・。新聞の復活は、新聞本来の姿に立ち返って努力するしかなく、本質の姿に戻れば必ず生き返ることができた。








「問題の本質をごまかしたり、すり替えたりしてはいけないよ。常に問題の本質と真正面から取り組んで、やるべきことをやり抜かないといけないよ、その努力を続ければ、きっと活路が拓ける。」







カオス(混沌)はものを産む圃場です








ヒューマニズム、デモクラシー、社会主義、そして資本主義です。その哲学と倫理の提唱者たち、その制度や事業の開拓者たちは、種種の歴史書にその名を星のように刻んでいるけれど、どれも実を結ぶに至らず、空転または崩壊しているではないか。なぜなのか。何が原因か。そこをまっすぐに抉り出して正解すれば、それこそは、まさに人類がこれから取り組まねばならぬ第三革命への道標そのものではないだろうか。







当時の女性は男性の愛玩物であり出産具だった。中世において男どもが戦争に出掛ける時には、自分の妻もしくは愛人に鉄製の貞操帯をはめて、カギは自分でもって出掛けたことでも想像される。そんなところで「人間第一」「男女平等」の思想が育つわけはありませんな。








そんな社会環境の中でイギリス人の口にしたヒューマニズムは「万民平等」でも「人権尊重」でもなく、人間らしい人間はどんな条件を満たさねばならぬか、その姿を描いたものだったという。







理想につながるものの考えや社会の仕組みを対象として検討する時には、言葉の持つ美しげな響きに自分からうっとりとする愚かさは厳しく切り捨てねばなるまい。








革命家と自称した人々ですら誘い込む毒が、権力そのものにあるのかな。それならば、人間生活から日没と停電による以外の暗黒を除去しようとしたら、どのような性質のものであろうと、一切の権力を人間の世界から放逐しないといけませんな。








人と人との結びつきで何が望まれるか。薄っぺらな愛ちゃんでもなければ、人のハートを凍らせる憎しみでもない。では何だ。この問いに、人間として人間らしい答えを自分で提示して生き営んでいく、それによって人は人になる、それが人間みんなの一人ひとりの課題だ、と私は考える。









「王は支配する、しかし政治責任は一切負わない」という絶対君主制は、人民の反抗を抑えつけるために法律と道徳というブレーキを人民に加えてきた。それに宗教集団が勢力を広げるにつれて君主制と抱きあった。そして、信者への戒律を厳しくして、人民のエネルギーを拘束した。とりわけ欲望の拡大と自由の飛躍は、悪魔に負ける罪悪だと縛りつけた。そのナワを資本制度経済は切り落として、人間のあらゆる欲望を解放した。自由への礼賛を大声で歌った。人々がそれを受け入れて、資本制経済が世の主流となってきたことは当然であろう。









戦争は、20世紀に関して言えば、資本主義を救う手段として使われてきた。こう断言しても反論できる国家権力は、どこにもおるまい、恥というものを知るなら。








いま人類にとって肝心の問題は、一つの社会制度の末路なんかではない。死ぬものは死なせて、生まれてくるものを生まれさせればよい。よくないのは、事実をごま化すことだ。事実をごま化して安楽の惰性をむさぼることだ。







お互いに胸に刻んでおきましょう。人間の尊厳を殺すものは、何であれ必ずみじめに自滅する。








「大きな間違いなら誰の目にも見えやすいだろうが、問題は小さなことの見過ごしだ。それが大きな悔いの種になる。人間の太陽に対する童話みたいな感情が、そのまま人間対人間に伝染したら、どうなる。英雄崇拝、英雄への依存、人民の自己放棄だ。仮説ではないよ。すでに幾たびとなく、そのみじめな喜劇を反復してきたではないか。それを何ゆえに放っておくのだ」








人間全員の一人ひとりがかけがえのない存在なのだ。そこの認識を踏まえて、そこから人間のあらゆる問題を考え直して出直すべきだ。








70億通りの人の生き方が毎日ばらばらに営まれている外観ではあろうが、しかし意識の内側では、人の喜びでも嘆きでも、それが切実なものであればあるほど多くの人々に共通していて、根っこは一つと強く感じて来ているのではあるまいか。







「人は人を支配することにしくじり、人に支配されることにも落第した」







学習あるいは教育という行為の本質は開拓、開墾であり、創造だと私は思っている。








車座を組む効果は、参加者たちがお互いに人格を敬いあいながら本音で学び合いつつ協力を強めていくのに適していることだ。この特徴を生かしつつ努力を続けたら、社会に新しい風を呼び起こすのではあるまいか。









「仕事に取り組む時、中途半端な態度なら一切手を出すな。取り組むなら、命をかけて、死にものぐるいで取り組め。そしたら道がきっと開ける」








やるべきことに全力で取り組んで努力するから、だからゆっくり生きられるのではないかと老人は考える。









「…。先生は、私は教師でお前は生徒だと言う。近所の大人は、おれたちは大人でお前らはガキだという。大人たちの声は、いつも上から下へ斜めに走ってきた。むのさんに会ったら、両方の声が同じ高さで行き交う。だから安心して、自分をさらけ出してものを言っているのですよ」







アメリカの政治権力の体質は大統領の皮膚の色なんかで簡単に変わるわけがないことだ。





抜粋は以上




to be continued  ・・・



希望は絶望のど真ん中に(食べる読書53-1)



私は今31歳だが、これまで私の人生の中で出会った人生の先輩たちは、現在40後半、50,60代の人たちが多いのではないかと振り返って思う。そして、その先輩方の発する言葉、態度に魅力を感じることはなかった。理由は簡単で、年下に対して話すのは社会の仕組みや時代の隆盛を前提にしていたからである。つまり、いい人生を送りたいなら、こういうことをしなさい。今の時代はこうだから、ああしなさいなどである。単に世間のルールに如何に自分を合わせられるかのみが評価された。





そして、現在、既存の社会のルールでは機能しなくなっているのが明らかになっている中で、彼らは新たなルールを創ったり、またはそれに対する知恵などは持ち合わせていないように感じる。





これが高度経済成長を支えてきた人々の実態である。如何にルールを守り効率的に行うか、それが成功への道と信じ生きてきた人たちである。







なので、その成功へのルールから外れると、どうすれば成功するのかわからないのである。そういう人が教育者になるのが悲劇なのだ。自分の成功の方程式に当てはまらない生徒がいると「今のままでは人生を棒に振ることになるぞ」と脅す。これはもうやくざです。ただ単にその子の良さを見つけられず、また伸ばす術を知らないだけなのにだ。しかし、そもそも公教育は国が金を出しているので、どんな人間にするかは国が決めることなので仕方のない部分はある。






以前、過去は今の時代を客観的に知るために活用できると書いた。






現在の社会において子供たちと接する人の年齢層はどの世代が多いだろうか。その年齢層の人たちの価値観は何だろうか。







私には夢がある。”次の時代を切り拓く哲学思想を構築すること”だ。だから、私の育った時代の価値観、その前の価値観、今の時代の人たち、前の時代の人たちこれらがどう歴史を育んできたか知る必要があると感じるのである。そう考えたとき、もっと多様な時代の人たちの考えに触れる必要があると痛切に感じたのが今回紹介する本である。







衝撃でした。文章の端々から、真剣に物事に取り組んできたことが感じられるのである。こんな視点を持つには普通に過ごしていたのでは持てないと思う箇所も多々ある。






戦時下で新聞記者をしていた著者は現在96歳。その洞察力の深さ、そしてそれが故に見える現実社会の醜い部分に対して目をそらさずに向き合う姿勢に、ただただ感服するしかない。







読むのにエネルギーがいる。だが、目をそむけてはいけないことなのである。





to be continued ・・・


2011年9月9日金曜日

宇宙は本当にひとつなのか(食べる読書52)




すげ~\(◎o◎)/!



なるほどお。



宇宙は暗黒物質と暗黒エネルギーがほとんどを占めているのかあ。





とてもわかりやすい。





中学生や高校生が読むといいと思う。






本書のもっともすぐれているところは、最新宇宙論をわかりやすく理解できるところというより、未知なることに対する科学者たちのあくなき挑戦、それは人類全体の歴史の中にある営みを感じることができるところだと感じた。







私ごとではあるが、高校時代(10年以上前になるが)、物理の中で最もおもしろいと感じたのは、物理Ⅱの分野の原子に関する部分だった。光は粒子なのか波なのかに対していろいろな科学者が自分の説でもってその謎へ挑む。など、一つ謎が解けると更なる謎ができ、またその解明に取り組んでいく・・・。






その姿勢に人間の生きる姿を観た気がしたのだろう。






そして、本書を読んだ今、そのことをまた強く感じた。







学問はそれ自体が目的だというが、そういうことなのかもしれない。







武道など、“道”のつくものはその“道”を極めることが目的であり、生きる姿勢となっている。実は、こういう学問もそうなのではないか。







しかし、現在はその学問が現実の経済に左右されていると感じる。大学は、学問を究める場というより就職予備校といわれて久しい。純粋に学問を追求するには、社会とある程度距離をとらないといけないのかもしれない。








そして、この科学の分野では莫大な研究費がどうしても必要である。本書でも大がかりな実験を多数紹介している。







これまでいろんな分野でイノベーションをおこしてきた人たち。デカルト、ニーチェ、などは当時の学問とは距離をとっていた人たちであり、アインシュタインは膨大な研究費の下ではなく、己の頭と紙、鉛筆で相対性理論を発表した。








方法は問題ではない。自分がこの人類の営みに参加するかどうかである。自分の武器は何でもいい。しかし、その武器は自分自身で作らないといけない。それが人類の営みへの参加券だと思うのだ。







今の時代だけを観るのではなく、人類全体のために、いまの時代にいる「私」は何をするか。








まだまだ未知で深く大きく、私たちを包みこんでいるこの宇宙に対する人類の挑戦の物語を読みながら、思った次第です。





以下抜粋




唯一、重力を伝える粒子だけが未だに発見されていません。四つの力の中で三つまでもが、粒子によって力の伝達がされているのに、重力だけがそうなってはいないと考えるのは不自然です。








実験や観測で得られた事実をつなぎ合わせて、矛盾がないような説明を考えることをしています。








重力波は重力の変化によって生じる時空の歪みが波動となって伝わるものです。








電子と陽子をぶつけて、その前後でエネルギー収支が合わないケースを探していきます。重力が異次元にエネルギーをもち去ってしまい、エネルギーに差ができるためです。そして、ぶつけるエネルギーを変化させながら、この実験をおこなっていくと、私たちの宇宙は何次元なのかがわかってきます。









重力は空間としての性質として説明できるので、異次元であろうと空間には違いないので、空間である限りは、重力の作用で曲がると考えられるのです。








この宇宙に働くすべての力が説明できるということは、すべての自然現象を説明できるということです。原理的には、自然に関わるすべての数字、電子の重さや電磁気力の強さなどが計算できるようになる







たくさん生まれた宇宙の中で、ごく稀に条件がそろった宇宙に人間が生まれ、そのような特殊な宇宙だけが科学の対象になり、私たちが見ることができるという理論になっています。


以上
またね***


2011年9月8日木曜日

次世代インターネットの経済学(食べる読書51)



経済学の観点から、次世代インターネットへと移行中の現在の日本の状況について述べている。





本書を完全に理解できたとはいえない、少し自分には難しかった。経済学勉強しないとなあ…。






だが、経済学という視点であるため視野が狭くなっているのではないかと感じた。







経済学者なのでどうしてもそうなってしまうし、本書の役割もそうなのだが、次世代かつ現在の情報通信の状況を経済学で把握しようとしている。そうなると、現在使われている、あるいは発表されている経済学説の数や質に依存してしまい、本質を見抜けないんじゃないか。しかも、対象とするのは、人類がこれまで経験しなかったような大規模情報通信による経済である。








そして、そのことがそのまま「ブロードバンド立国」、「規制と規制緩和」に関して適切な対応が見いだせていない現状の原因にもなっているように感じる。






学問は二元論をもとに発展してきた。主体と客体がきっかり分かれているから、対象事象をあらゆる角度から観察し、そこに潜む法則を発見できるのだ。経済学も例外ではない。すでにある経済活動を観察することでその活動を適切にある程度コントロールできるようになるのだと考える。








本書では、“両面市場”を取り上げたりしながら、現在の経済の変化を示している。





「デジタル経済化は、単純系の経済学から複雑系の経済学へのパラダイムの転換を求めている。」





と本書で述べている。





そして、






「複雑系の経済学は、企業の栄枯盛衰、技術革新の創出、製品のライフサイクル、消費者選好の変化、産業構造の変化、地域・国家の興亡のような自己組織的現象も研究対象とすることになるのだ。」





と締めくくる。





のに、第4章”「規制」と「規制緩和」の経済学”と終章”ブロードバンド立国への提言”ではこの自己組織的現象の視点が抜け落ちているように感じた。







この2章では、供給側や規制側の視点でしか語られていない。そもそもインターネットはまだまだ人々の生活に新たな価値を与えるには至っていない。人々はインターネットがどんな利益を与えてくれるのかわからないのが現実だと感じる。







なので、ブロードバンド立国を目指すなら、まず最終サービスから考えていくのがいいのではないか。つまり、コンテンツサービスを出発点にし、それに合わせてプラットフォームサービス、通信ネットワークサービスを整備していく。さらに、これは国家的プロジェクトで膨大な資本が要る。だからこそ、人々の生活になくてはならないサービスを提供しないことにはなかなかうまくいかないだろう。








新たな価値を人々に啓蒙するには時間はかかるだろう。
初期の車を資料か何かで見たことはあるだあろうか。今のようにスポーツカーのような形はしていなかったはずである。どちらかというと馬車に近いフォルムだったはずだ。また、初期のテレビはどうだろうか。むかしの家具に近いデザインだったはずである。






人々にこれは「何ができるか」を啓蒙するには、それに近いものに似た形にするのがいい。「あぁ~、代替物なんだ」、「新しいタイプか」と思わせればいいのだ。







それをインターネットにあてはめるとどうなるか。





私は、病院のカルテはどうだろうかと提案したい。カルテは人々の病気の経歴が載っている。しかし、それは病院単位である。なので、一人の医師の診断しか載っていない。また、病院を変えれば過去の病歴とそれに対する療法などは載っていない。病気は変わっても、それに苦しんでいるのは同じ一人の人間である。よって、カルテを病院単位で管理するのではなく、個人単位で管理してはどうだろうかと提案したい。病院に行けばその病歴はカルテに書きこむが、それは個人のインターネット上に載せるのである。なので、医師はインターネット上のカルテを観てその人の病歴から、いま来院している人の症状を診断できる。なのでより良い医療ができるのではないかと考える。そして、このことは膨大な医療費の削減にもなる。自分が自分の病歴を管理しているため、自分の体に関する医学的情報を把握しているからである。なので、人それぞれ自分に本当にあった生活を選択できるようにもなるのではないか。





以上が一つのインターネットによる人々の生活を変える提案である。これを前面に打ち出せば、国民もブロードバンド整備に対して金を出す気にはなるだろう。自分の健康に関することだからだ。医療訴訟も少なくなるだろう。





問題はインターネット上での安全性だろう。ここをクリアすれば、上の提案は現実味を帯びてくるのではないだろうか。




まずは国民を納得させる大義名分があるかだ。






どう思いますか?







以下抜粋



固定インターネットと携帯電話のネットワークサービスを融合させたFMCサービスが技術的には供給可能な状況にありながら、NTTグループへ課されたボトルネック規制のために提供できずにいて、利用者の潜在的利便性が損なわれている。







他人にただ乗りしようとして、結局、誰からも供給されなくなる財を公共財という。コンテンツは公共財的性格を持っている。








悪化が良貨を駆逐するように、バーチャルがリアルを駆逐する。我々は、デジタル革命のデメリットにも目を向ける必要が出てくるだろう。







消費者の本離れがどのような理由によって起こっているかは慎重な考察が必要であろう。しかし、デジタルブックの登場によって価格が下がっているにもかかわらず、売り上げ冊数も下がっているという奇妙な事態が進行しているのは気に掛かる。デジタルブックは読書家の草の根を広げるにはいたっていないのだ。






情報通信産業の費用構造は莫大な固定費とゼロ同然の限界費用によって特徴づけられる。このような供給側の規模の経済性が第一のデジタル経済の法則である。








エコシステムとは生物学でいう生態系のことであるが、近年、ビジネスの世界でも使われることが多い。要するに、一企業の利潤最大化ではなく、複数の企業がお互いの競争優位性を代替、補完させながら、産業全体の収益構造をどうやって維持拡大していくかという考え方である。








利活用が生む真の付加価値。これを実現できている国や事業者はまだどこにもいないのだ。チャンスは日本にもある。









インセンティブ規制において、ネットワーク産業固有の供給側と需要側の規模の経済性がもたらす経済的帰結が十分には解明されていない









情報リテラシー向上のための木城町が行った啓蒙活動も積極的であった。インストラクターによるパソコン講習会を毎日開催し、二十四時間体制のトラブル対応に備え、ウイルス対策の相談にも随時対応した。山間のために、ラジコン飛行機で光ファイバを架線するなどの苦労もあった。









加入率30%は後続の地域でも共通して観察された数字であり、自然加入に任せた場合の限界値なのかもしれない。







「こんな小さな画面で子供の病状までわかりますか。」
「自分の子供の顔色くらい、見ればわかります。」
大学の先生の質問に最初はおどおどしていた母親がその時だけは毅然と答えた。利活用は上から与えるだけでは駄目で、利用者目線で実際に使ってもらわなければ分からないものだ。



以上
またね***





一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...