2012年4月17日火曜日

成熟社会の経済学(食べる読書91)




経済には興味があり、経済に関する本は読み始めるが挫折ばっかりだった。


理由として、読んでもわけわからなかったからだ。つまり、現実のモノ・金の動きを表していると感じなかったからだろう。


本書は、わかり易かった。


今の日本社会は成熟社会に入っているので、従来の経済原理が違うように作用してしまうということだ。


つまり、成熟社会はそれに合った経済の考え方・政策が必要ということ。


本質をついていると感じた。


この不況を払しょくするには、需要を増やす必要がある。それは価値の創造ということでもある。


この試練に我々は応えないといけない。


以下抜粋


成熟社会の長期不況は生産性の低さではなく需要不足が原因ですから、政府が雇用を行って事業を行っても、余った労働力が使われるだけで民間の生産活動は阻害せず、そのまま総生産を増大させます。


成熟社会とは、物やサービスがそろい、お金の魅力を放棄してでも購入しようという欲望は伸びなくなったのに、潜在的な供給能力は資本の蓄積や技術の進歩で拡大し、需要を超えてしまった状態です。


欲望が土地や株式に向かえばバブルが起こり、お金そのものに向かえばデフレと不況が起こるのです。


成熟社会ではもともと生産力が余っているため、生産力を拡大しても企業の売れ残りが増えるだけで、経済拡大には結びつきません。


需要はたくさんあるのに生産力が足りない発展途上社会に必要な知恵とは、いかに生産力を増やすかです。いかに倹約して捻出した資金を投資に回し、生産設備を増やして生産効率を上げ、欲しい物やサービスをどうやって満足に供給させるかです。このような社会では、コスト削減や労働力のやる気ことが必要です。また、不要不急の消費はできるだけ我慢して生産力拡大に使うべきです。


実社会に入る第一歩で、よくきたと歓迎し、よく働きよく遊ぶ環境を整える。あり余るほどの生産力を身につけた国なら当然のことでしょう。大人は若者の作る物をどんどん買って職場を提供してあげればいい。それなのに大人が買いたい物も我慢して若者が働く場を減らし、自分の生活が大変だからと仕事ばかりして若者の分まで働けば、若者の職場が減るのは当然です。最近の若者は覇気がないとか、仕事ができないなどと非難する大人も多いですが、現在の需要状況では、もし若者が非常に優秀でやる気満々なら、仕事を失うのは自分たち大人の方なのです。


すべての人々が同じ能力を持ち、同じように努力をする気があっても、需要が足りない以上かならず誰かは職を失うことになる


成熟社会の不況では、生産サイドの構造改革ではなく、需要サイドの改革が必要です。需要を創出することで雇用を確保し、余剰人員を少しでも活用する。


経済学で言う本当の効率化とは、人々の効用(経済的な満足度)を高めるように、労働力などの生産資源を使うことを意味します。


個別企業の効率化が経済全体の本当の効率化になるには、作られた物やサービスがすべて使われ、働きたい人がすべて働けるという完全雇用の状態が保証されていることが必要です。


うまくいっていればどんどんやれといってあおり立て、うまくいかなくなると経済の悪い面ばかりを取り上げて規制強化を叫ぶ。物作りでも金融でも、現状追従の後付け論ばかりが横行し、景気の山と谷を深めているのです。


何も生み出さないまったく無駄な公共事業、何もさせずにお金を渡すだけの給付金や失業手当、あるいは何もさせずに税負担を減らすだけの減税などです。これらは、計算上の乗数効果の大きさは違っても、経済への実質的な効果は同じで、いずれも何も効果がなく、何もしないのと同じということがわかりました。


労働力が余っている長期不況では、増税して国民の役に立つ事業を行うと、再分配はあるが、経済全体での負担と便益を差し引きすれば、その事業が直接役に立つ分のプラスだけが残る、ということがわかります。


財政負担の有無は、歳入と歳出の両方を見てはじめてわかることであり、税金の側面だけを見て負担を論じても仕方ありません。


政府が支援すべきは、経営的には独り立ちできないけれど、あった方が国民生活の質が上がるような分野です。


もっと生活を楽しむにはどうすべきか、そういう方向で頭を働かせれば、余った労働力や生産力が活用されて無駄が減る。これこそが成熟社会に生きる国の人々にとって必要な知恵なのです。
こうした分野を考えるのは、本来政策担当者ではなく、国民自身です。政府にビジョンがないという人がいますが、政府に国民の欲しい物を決めてもらうのではなく、国民自身が何をして欲しいか積極的に訴え、政府はそこから選ぶのが仕事です。自分で何が欲しいか考えることもせず、政府が何かをやろうとすれば無駄だ無駄だと言っているだけでは、失業も不況も収まらず、生活の質も向上しません。


需要を作るのは重要だが、需要は消費だけではない。投資需要も大切で、投資促進のために投資減税をしたり、投資補助金を出したりするべきだ、という意見もあります。しかし、投資は最終的な需要ではなく、あくまでも消費の裏付けがあってこそ意味があるものです。


不況下の成長戦略とは、どんどん伸びる産業を探すことではなく、いまある十分な生産能力をちゃんと生かし、働きたい者が皆働けるようにすることです。それによって完全雇用が達成され、すべての人びとが社会の役に立つことになれば、すでに巨大な生産力を手に入れている成熟社会では、それ以上の成長がなくても、人びとは十分幸せに暮らせるはずです。


目先の必需品ではなく、たとえ経営的には赤字であっても、ぜいたく品、不要不急品と思われるような分野において雇用を作る必要があります。


不況のときこそ公共心がいるのに、また、それによって自分にもプラスになる可能性が高いのに、そのときこそ人々に余裕がなくなり、目先だけを考えて一銭も出したくないと言い出す。


無駄をなくすという目的で予算を削れば、その予算で給与や補助金をもらっていた人たちが不満を言い出します。つまり無駄なお金がかかるということは本当の無駄ではなく、誰が払い誰がもらうかという分配の問題にすぎません。


本当の意味で無駄かどうかは、それによって経済全体から物やサービスの意味で便益が失われたかどうか、ということで判断すべきです。失業している人がいるなら、彼らを使っても失われる便益はありません。そのため、この場合のもっとも無駄な財政の組み替えとは、それまでなんらかの役に立っていた事業をやめ、ただお金を配るという目的にした場合です。


実際には、いまの日本では有利な投資機会がないのです。将来作った物が売れる見通しもなく生産設備も余っているのに、いくら金利が安くても、企業は投資して生産設備を拡張しようとは思いません。金融機関からも、貸し渋りではなく借り渋りだという声が聞こえてくるくらいです。こんな状態では、まったく新しい分野で需要が生まれないかぎり、まとまった投資需要など生まれようがありません。


消費税の効果とは、流動性の総量を消費税分だけ引き下げることです。これは、消費税をかける代わりに、日本銀行が消費税の割合だけ貨幣量を減らすことと同じ効果があります。


そもそも経済学に国力の競争などという概念はありません。経済学的に考えると、人口が減れば一人あたりの土地や資本が増えるから、国民の平均生活水準はかえってよくなるくらいです。


生活に追われて働かなければならないのに、そんな余裕はないと言われそうですが、日本人がそうやって消費もせずに働こうとばかりするから、物が売れず人が余って不況から抜けられません。保育所の受け入れ条件を広げれば、特に都会では、ただでさえ不足気味の保育所が満杯になって困る人も増えるでしょうから、財政資金を使って、もっと保育施設を充実させればいいのです。それによって雇用も生まれます。



復興資金確保の制度が確立していれば、被災地にとっては、政府からちゃんとお金がくるという安心感が生まれますから、復興への行動も素早く、自発的に起こせるでしょう。


このような円高は外から降ってきたものではなく、日本企業が効率化努力によってみずから作り出したものです。


勝ち負けの議論があるのは、当該産業しか頭にないからです。ある産業の生産性が向上すれば、もちろん外国ではその産業が衰退しますから、日本の勝ちだといわれます。しかし、日本ではその産業に人も資本も集まって別の産業が衰退し、日本で衰退した産業で外国がシェアを伸ばすだけです。つまり、国全体の勝ち負けではなく、産業構造の転換が起こるにすぎません。


需要が大切という場合の需要とは、人びとの生活を快適で楽しくすることです。また、それが実現できるのは、お金ではなく物やサービスです。効率化を図って生産を増やし、外国人に日本製品を愛用してもらうのも結構ですが、我々もお金を稼ぐことばかり考えず、稼いだお金を使って自分自身の生活をどう快適に楽しくするかに知恵を絞らなければ、円高を誘導して失業を拡大するばかりで、せっかくの生産力も生かせません。


円高は、好況では生産性のバロメーターですが、不況では内需低迷のバロメーターです。


環境・エネルギー規制は、新市場を作ることによって巨大なビジネスチャンスを生み出すのです。それなのに、後ろ向きでコストの心配ばかりしていては、新産業も育たず雇用も増えません。


たとえば、タオル産業の生産性が中国のライバル会社より優れていても、日本の自動車産業の中国企業に対する優位さの程度がそれ以上であれば、タオル産業は衰退します。なぜかというと、もし自動車でもタオルでも中国に勝てば、日本の経常収支は大幅黒字になって対外資産が積み上がるからです。これが円高を呼び、相対的に弱いタオル産業が打撃を受けますから、経常収支の過剰黒字が調整されます。つまりタオル産業のライバルは、同じ国内の自動車産業なのです。もしタオル産業の生産性が大きく上がるなら、自動車産業の方が危なくなってしまいます。


したがって、TPPなどの自由貿易協定は内需の拡大とともに進めることが重要です。そうすれば、日本と外国の両社に大きな恩恵をもたらします。輸入を拡大せずに輸出ばかり画策していれば、円高が進んで日本経済はかえって苦しくなってしまいます。


農業保護による国土の維持も、生活の質の向上に結びつく内需の重要な選択肢なのです。


都会の製造業やサービス業と地方の農業との関係は、EU域内におけるドイツとギリシャの経済関係と似ています。いずれも同じ通貨圏における地域間生産性格差の問題だからです。


以上





2012年4月14日土曜日

水滸伝1(食べる読書90)




人生を変える一冊というものがある。


わたしにとってはいくつかあるし、それらの積み重ねによって今の私がある。


そして、人生を変えるということは、あなたの今の生活や人生では学べないことを教えてくれる本ということもできる。


つまり、このままじゃお先真っ暗。どうにかしないといけない、しかしどうすればいいかわからない。周りの人はみんな自分と似たり寄ったりだ。こんな状況から抜け出すには、外の世界を知らないといけない。


すなわち、本を読め!


現実の自分ではけっして味わえない世界がそこにはある。


そして現代日本社会では学べないことが水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)にはあると感じた。


これまでの日本社会はめざすべきモデルがあった。だからそれを基準にして今の自分に足りない部分を客観的に指摘してくれる人(上司だったり親)がいた。

しかし変化の時代の現在。大人たち自身どう生きればいいかわからず、過去の成功体験を引きずっている。だから、真正面から子供たちと話せる大人は少ない。


水滸伝は、国を変えようと立ち上がる男たちの物語。


それは既存の社会をぶち壊し、新たな社会を創ろうという志が基となっている。


その過程において、国を想うためひとりの人間としての自分を押し殺す一方、やはり一人の人間としての自分が出てきたり、その葛藤もえがかれている。


さらに、人への接し方だったり、組織として人も育てないといけないためどう適材適所に配置するか、などビジネス上でなかなか学べないことも俯瞰して見れるところも魅力だと感じる。


闘いはまだ始まっていない。


まず、闘いの舞台を整えることだ。


以下抜粋


いまは、ひと粒の麦に心を傾ける民が、むなしく麦とともに踏みつぶされていく時代ではありませんか


醜いものは、見ようとされない。


「きちんと生きたからです。別れる時涙が出てしまう友を持てたのは、あなたがきちんと生きたからですよ、進」


槍の腕だけが立つ師範代。鋭いところは何も持たず、だから警戒されることもない。自分はそういう存在でいるべきだ。


間が抜けているが馬鹿ではなく、多少の欲もあるので扱いにくくない。武術師範はその程度がいいのだ。


拠って立つ場所と人を、網の目のように張りめぐらさせる。


私は、あの男に賄賂が効くとは、どうしても思えん。贈れば受け取る。効いたか効かぬかわからぬ程度に、効いたりもする。そういうところでも、人間を測っている。


このままでは、自分は腐っていく。ほかの者とは違う腐り方だが、腐肉になってしまえば同じだった。自分が毀したいものの中にいて、なにもできないでいる苦痛は、魯智深にはわからないだろう。



「私のために、あなたは人を斬ったのですから。私は、その愛に応えなければなりません」


「死ぬのを避けることができても、避けずに死んでしまう。それは、志への冒涜ではありませんか。同志への裏切りでもある」


やるのだ、魯智深。口だけで戦はできぬ。


「ひとりでなにができる、と嗤うだろう。しかし、なんであろうと最初はひとりなのだ。俺は、そう思う。愚直と言われれば、そうだろう。しかし俺は、これと思った人間には、かならず自分の言葉で語るようにしている」


晁蓋は、乱れたものを、さらに乱そうとしたのだ。乱れきったところから、なにか別のものが立ちあがる。


志がなんだ。そういう時は思う。志などというものがあったために、張藍への愛をついに自覚することがなかった。張藍が死んでからの自覚など、自覚ではないのだ。
生き延びるべきなのか。


銭と無縁で暮らされてはなりません。それは人の営みを忘れることでもあるのですから


耳元の呻きは、感情を逆立てる。遠い呻きは、心の底に響く。


ここに、大人などひとりもいないぞ。大人の智恵で、いまの世は変えられん。みんな、子供であらねばならん。子供の眼で、正しいか悪か、見極めるのだ。


「血の気は多いが、弟は天に恥じることは断じてやっていない」


「人の世には、縁というものがある。それがどう生きるかだ」


「なにかひとつ必要なもの。それは、史進をこの世から消そうとする力だ。それは、ひとりの人間の力ではない。権力というものだ、と俺は見た。州の軍兵がそれをやってくれたら、史進は少華山に向かって踏み出すしかなくなる」


私は、私のためにやっている。生きている。そう思いたいからだ


猜疑心の強いやつには、それなりの理由が必要でしょう。


「強さと弱さか。人間というのは、厄介なものだな、花栄」
「そう思う。志があればいい、というものでもないのだな」


「私は、躰を治すことしかできぬ。しかし、心が躰を左右することはよくあるのだ。心さえしっかりしていれば、死ぬことはなかったという病人を、何人も見てきた」


「あの男は、自分が抱いた悲しみを、どんなかたちであろうと、自分で克服するしかないと思う。それができないのなら、厳しすぎるほど厳しくするしかないな」


「私も白勝も、一度死んだ。おまえがいなければ、間違いなく死んだのだ。私たちの命は、おまえに預けるべきだと思う。それから、礼を言わねばならない」


以上
またね***



2012年4月12日木曜日

29歳の誕生日、あと一年で死のうと決めた。(食べる読書89)




人は変われるし、変わる。


自分の変わりたいように変われたか。


そこから目をそむけず見続け、向かい続けたか。


すると、すでに変わっている自分に気づく。


本書はひとりの女性が最高の人生を手に入れる物語。


日々の雑事に振り回され、気が付けば人への優しさだったり、自分へのいたわりがなくなってしまったと感じているのなら、そこから彼女はどう脱出したか参考になるだろうと思う。


おもしろかった。


人生こうでなくちゃなあ~。


楽しくハッピーで行こう!


以下抜粋


「なんでもそうだけれど、一流とか、高級とか、そういう言葉には気をつけないとね。本質を見えづらくしてしまうから。だからこそ、経験を通じて自分のものさしを持つっていうのはとても大事なことなんだ。それを君は人の評価から解放してくれて、生きることを楽にもしてくれると思う」


思い切った行動でしかぶち破れないときってあるよね


自分がバーストしにくく、ディーラーがバーストしやすい場面を、確率から導き出せばいいのだ。


人がどう思おうと構わない。誰にも迷惑はかけていないはず。大切なのは、私が最高に楽しんでいるかどうかだ。


今は不思議と「さあ、これから何をしよう!」というエネルギーが湧き上がるのを感じている。


私は、家族が大好きだった。生まれ育った温かい家庭が好きだった。私の中には、いつも愛し、見守ってくれる家族の存在があった。それなのに私は、なぜか「自分はダメな人間だ…」と勝手にいじけて、疎遠になっていた。自分は家族から必要とされていないと思い込んでいた。


余命とは、自分に残された時間のことだ。
私は、人生に限りがあることを意識していなかった。だから、時間を無駄にし、何のビジョンも持たずにただなんとなく生きていた。何もせず、ただ嘆いてばかりいた。


幸福の形は人によってそれぞれだけど、それはきっと気持ちの持ち方ひとつ。ラスベガス以降はそんなふうに思えるようになりました


以上
またね***



2012年4月11日水曜日

男を磨く女女を磨く男(食べる読書88)




はっきり言って女性経験は少ない方だ。


そんな貴重な経験を振り返ってみても、本書にあるような関係を築けたことはない。


まだまだ上っ面の吹けば飛ぶような関係しか作れなかったと痛感する。


その原因として、自分に対する自信のなさが挙げられる。相手の女性はそんなことは求めていないということもわかっているし、そのままの私を認めてくれているということも感じるのだが、どうしてもおのれの弱さとどう付き合っていけばいいのかわからずもやもやしたままになる。


それは、相手の女性と今後どうなりたいのかという願望だったりがないためだと感じる。または、ただ一緒にいるだけで満足だというような本気で惚れ込んだことがないからということもあるのだろう。


どちらにしろ、一人でいるときは顕在化しなかった自分の弱い部分が出てくる。それにどう対処すればいいのか。


今気づくのは、私には”厳しさ”がなかったということだ。


私自身に対する”厳しさ”でもあるし、彼女に対する”厳しさ”でもある。


人はそう簡単に割り切れるものじゃない。


身をもって経験していくことで分かっていくことだろうが、目指すべきモデルとなる男女関係の形が本書にはある。


”厳しさ”をキーワードに己も女性も、男女関係も磨いていきます。


以下抜粋

恋愛も仕事も、断られてからがスタートだろう。断られても、一度や二度ではめげないで、一生懸命に誠意を示せばいい。傷ついている暇などない。それでもダメなら、未練を捨ててすっぱりと諦める。違う女性、違う企画を考えればいいだけのことだ。


自分の手に余る仕事、神経を使う仕事、煩雑な仕事、突然の残業などなど。できればやりたくないような仕事でも、まずは不平、不満ではなく意欲や誠意を見せる。そんな女性の前では、不思議なことに、男は「身勝手」を忘れてしまう動物なのだ。その代わり、知らぬ間に湧いてくるのが「男気」なのである。


プライドを主張するあまり、周囲に不快な思いをさせれば、つまるところ自分の評価を下げるだけである。自分のプライドを大事にするなら、他人のプライドにも配慮できる度量が欲しい。


干渉と世話焼きの違いはどこにあるのか。それは、自分のためにやっているか、相手のためにやっているかだろう。


女性の変わらぬ美しさや気立てのよさが、男にとって有効な場合があるということだ。つまり、女性の存在そのものが男を伸ばす力になることもあるということ。いくつになっても妻が美しくあるために、努力して身だしなみにも気を使うのは、夫にとって大きな力になることは間違いない。


ただ相手の意見にうなずくばかりではなく、ときに間違いを正し、場合によっては叱責してくれるような人。そういう人が結果として、人に好かれるのだ。


ファッションばかりではないが、トータルな外見の印象こそが、人間関係のスタートを決めると私は思っている。外見を整えることは、人間関係の門を広げるためには、とても有効な手段なのである。


たしかに男でも女でも、セックスライフが充実しているか、していないかは、人生にとって大きな意味がある。セックスを生殖目的から切り離して、快楽の手段にしてしまった動物は人間だけである。快楽を求めることは、人間が生きている証。それをどんな形で実現するかは、各人各様だが、満ち足りたセックスライフは男女間をより密接なものにすることは確かだ。


恋愛とは、どちらかが一方的に自分を相手に同化させることではなく、惹かれ合った双方が互いのアイデンティティーを尊重し合い、歩み寄ることで、はじめて成り立つものだからである。お互いに、これができないと恋愛は長続きしない。


これまでの自分を脱ぎ捨てても、という女性の献身は、男にとってはつらいだけのものなのである。


女の理想は、仕事もバリバリやるけど、恋人との時間や家庭の時間も大事にする男なのよ


妻の不出来は夫の責任なのである。逆に妻の出来のよさは夫の評価を上昇させる。


「その異性を本当に自分が独占したいか」ということである。この要素が大切だ。そして、独占させてもらうために、きちんと自分の欠点を見直し、相手に対して譲歩できるかということである。間違いなく、結婚とはお互いに「独占契約」を結ぶことだ。


結婚相手探しは、完成品探しではなく素材探しである。


「独身(ひとり)ということは自由ではあるけれど、その分”実り”のないことだとつくづく思う」


「祖母や母の時代に比べ、人生の選択肢は広がりました。そのぶん迷うのはわかりますが、選択したらその結果を引き受ける覚悟だけは持ちたい。女性は男性に比べて、選択の結果を他人のせいにする環境にあります」


子離れとは、子供の価値観を尊重し、自分のそれを子供に強要しないことである。


個人的に当事者責任はないにしても、会社という組織が直面した「公」的な場では、「公」を演じなければならない。この使い分けができるのが社会人というものだ。


昨今、男女を問わず自分の事情ばかりを口にして、社会的責任という意識が欠如しているような人間が多すぎる。


男女共に、磨き合うカップルにとって必要なことは、つねに「どうしたの?大丈夫?」と声をかけるのではなく、相手の窮地を察する目を持って、ここぞというときに出せる助け舟なのである。


人生における大きな決断の局面では、単純な言葉こそ説得力がある。


大切なことは、ふだんは適度な距離感を保ちつつも、イザという時に相手の心に響く、とっておきの「隠し言葉」を口に出せるかどうかなのである。


以上
またね***





2012年4月10日火曜日

世界経済図説(食べる読書87)




多様な視点から、簡単な資料付きで現在の世界経済に関してまとめている。


ただ紹介しているという形なので、何かしら目新しい思想だったり考えがあるわけではない。なので、文章は単なる説明に終始している。


しかし、自分がこれまで関心がなかった視点からも書かれているので、自分の嗜好が客観的に見れるかなと思う。


また、切り口はいろいろだが、そこから見えるのは世界的規模で見ているので、大いに視野が広がると思う。


以下抜粋

国家とは、一般的に、一定の領土とその住民を治める自主的な権力組織と統治権とを持つ政治社会で、国際的には領土、人民、主権を持つ独立の対象と認められているものをいう。


財やサービスの生産は、原材料、労働力、資本が揃って行われるものであるが、その効率を決めるものは技術である。つまり、技術は生産要素をいかに巧みに組み合わせて、効率的に品質のいいものを作るかという手法・技法である。したがって、技術は経済の発展・成長を左右するものである。


技術は本質的に普遍的なものであり、発展の成果は万人を潤すべきものである。しかし、現実にはそれが国際競争力を左右するものであるから、近代国家では、軍事機密と並んで民間技術の保護に意を払っている。


できるだけ少ない労働・資本・資材の投入でできるだけ多くの生産をあげる、といってもよいし、与えられた生産要素で生産を極大化するといってもよい。近代経済学では、「経済」をこの狭義の意味で使うことが多い。それは一面で計量経済学の進歩を促したが、他面、経済問題から歴史性や倫理性を捨象してしまったとも批判されている。


エネルギーは政治的商品の性格を持ち、経済的要因だけで国境を移動しているわけではない。


農畜林水産品貿易は、基本的に生存に関わるものが多く、また国内の農業との関係において政治性があり、さらに最近では環境問題と関連して、注目すべき貿易分野である。


関税や非関税障壁は、国内生産の確保、輸入の抑制を通じて国内産業・雇用を守ろうという目的、特に途上国の場合、いわゆる幼稚産業(インファント・インダストリー)を保護し、また衰退産業に調整のための時間を与えようという目的を持つものである。自由・無差別な貿易を理想とする自由貿易の下では、関税・非関税措置は慎重に運営すべきである。


一般的にいって、経済合理性に基づいた多国籍企業の活動は、一面では本籍国政府の保護を受けながら、他方では政治的・行政的な意味での”国境”の存在を崩しつつある。具体的には、モノ、サービス、資本、技術、情報の国境なき移動を活発化する担い手となっている。ただ、本籍国との結びつきがなくなるわけでなく、過渡的には強まりさえする。


WTOは従来のモノの貿易に加え、サービス、知的所有権などの分野を対象とし、紛争解決手続きの強化・改善が図られている。


為替レートは、市場経済にとって最も重要な価格である。各国の生産性が異なった動きをするといった経済的要因からばかりでなく、政治的要因によっても変動するから、それを「固定しよう」と考えるのは非現実的である。しかし、すべてを市場に委ねるのも問題である。きわめて持続的な通貨高は、物価安定には貢献するが、輸出産業の収益にはマイナスだし、逆に恒常化した通貨下落は、輸出の競争力を増すが、輸入物価の上昇をもたらす。したがって、通貨当局はその安定のために市場に介入し、そのとき外貨準備を使う。


農薬は作物や土地そのものを損傷するケースもあり、またコスト増の要因にもなっている。


マクロ的には肉類の消費が家畜用の飼料の増大を伴っていることである。飼料穀物の増加が、主食用の穀物生産を圧迫したり、そのため穀物の国際取引が増加していることである。”食”に関わる財貨の生産・消費・輸出入の問題が市場原理だけで律しうるものかどうか、WTOなどで議論されている。


エネルギーは人類共通の資産であるが、実際には主権を持つ異なった国家によって所有かつ生産され、他方、消費は生産国とは異なった国で多分に行われている。したがって、生産・消費をめぐって政治的利害が対立し、経済的には価格決定がこれまた政治的色彩を帯びる。かくして、国家利害が衝突しやすいだけに、逆に国際協調が不可欠なのである。


「他の国家やその政府の利害、不安、希望を認識することが必要なのである。”敵のイメージ”から出発する者には平和を樹立することはできない」


武器取引が冷戦終焉の後もつづいているのは、奇妙なことといわねばならない。特に軍縮の先頭に立つアメリカ、ロシアをはじめ、国連安保理事会の常任理事国たるフランス、イギリスでも武器輸出がつづいているのは、政策の整合性がない。おそらく、自国内の軍縮が進む結果、国内の武器市場が縮小しかねないという事態を恐れた軍需産業が、困難な民需転換よりも、輸出市場にその販路を求めていることが、実質的な動機であるように思われる。私企業にとっては、利潤を生むかぎりにおいては、武器も商品である。



途上国の中には、国防法支出がGDP比で見て非常に高いにもかかわらず、保健・教育支出が極めて低い国がある。これらの国は、武器輸入をすると同時に経済援助も受けいているのが一般的である。


経常収支は世界全体ではゼロだから、経常収支赤字国の問題は黒字国の問題でもある。大きな経常収支の不均衡は、是正に向けた努力をしないと長期に継続する可能性がある。黒字国は内需の振興を、赤字国はもっと貯蓄を高める必要がある。


アングロ・アメリカ型の特徴は、市場の機能を重視し、供給者の自由な競争と需要者の選択の自由と自己責任が求められる。望ましい政府とは、市場に介入せず、公正で効率的なこと。その一方で、ボランティア活動などが盛んである。


問題は、権威主義体制が崩壊した後の政治体制である。長期にわたる専制的抑圧によって、受け皿となる政党の基盤が不足している。部族、宗派間の対立を超えた民主的安定が求められている。


個人に社会的安定感を与えない限り、政治・経済の安定は得られず、国際社会への協力も期待できない。


冷戦終結による軍事費からの解放や、軍需から民需への転換は、一部の国を除いて進んでいない。武器の国際間取引は逆に増大している。「平和の配当」を確実にする方法を人々は模索している。


以上
またね***




質量はどのように生まれるのか(食べる読書86)




物質を細かく見ていくと、これ以上分解できない素粒子というものに出会う。しかし、科学の発展により、それらの素粒子はさらに小さな素粒子から成っているということが次々わかってくる。


このことと、


光は粒子の側面を持ち、それは光子と呼ばれるが、これは質量をもたない。


物質を分解していっていきついた素粒子は質量をもち、光子は質量をもたない。この違いをもたらしている要因はなんなのか。


つまり、質量はどんな時にどのように発生するのか?に答えるのが本書である。


読んだ感想としては、難しかった。比較的優しく説明されてはいるが、量子力学自体がイメージしにくいためなかなか理解できない。まあ、でもおもしろかったことは確か。


何度も読めば理解できるだろう。


普段我々の見ている世界とは異なる物理法則が働いている素粒子の世界。そこに思いをはせるには想像力をフルに働かせる必要がある。しかし、それが魅力でもあるし、ワクワクすることでもある。


考えの幅を広げるという意味で量子力学の世界を知ってても損はない。


以下抜粋


あらゆる現象はエネルギーの低くなる状態をめざして進んでいくのだ。


行列というのは、異なる成分を混ぜることを考えると出てくる。


最小限の仮定だけから出発して多くの実験事実を説明できるのがよい理論で、一つの仮定で一つの現象しか説明しない理論はゴミ同然。これが理論物理学者の価値判断だ。


素粒子理論の世界で「いいことがある」というのは何かというと、それを考えることで何か他のことも説明できるか、ということだ。



この粒子は、右巻きと左巻きを行ったり来たりしながら、それと同時に前に進んだり後ろに戻ったりをくりかえしている。これこそが、質量をもつ素粒子で起こっていることだ。これは、素粒子の固有の性質というわけではなく、真空に凝縮している「何か」の性質を反映している。南部が考えた理論では、素粒子はこうして質量を獲得する。



結局のところ話のミソは、粒子と反粒子のペアが凝縮した真空の中で、粒子がある種の抵抗を感じて思うように進めなくなりそれが質量の源になっている、というところだ。


きちんとした実験的証拠があれば、信じるべき仮説という段階から確固たる事実に格上げできる。


この電子の波を使えば、その波長と同じくらいの長さのものを”見る”ことができることになる。実際には標的に当たって跳ね返った電子の方向とその数を数える実験をやることになるが、考え方としては物(標的の陽子)に電子の光を当てて映し出される像を見ているのだと思えばよい。


陽子や中性子はクォークからできている。そして、クォークに働く力は量子色力学だ。


どうやら量子色力学の真空は、静かに何も起こらないところではなく、余分なエネルギーをあたえることなくクォーク・反クォークがそこらじゅうで生まれたり消えたりしているものらしい。


以上
またね***





一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...