2011年10月28日金曜日

お金と人生の真実(食べる読書69)




「お金ほしいなあ・・・。」と思う時って、特に何か具体的な目的があることは少ない。


ただなんとなく、あれもしたいこれもしたい、あれもいいなといった自分の揺れ動く心に翻弄されているだけ。


その為に、何にでも使えるお金があればオッケーという思考。


もうその時点で人生がダメなんだよなあ…、お金云々じゃなく。


幸せって、ただの感情だし、自分で選択できる。


だが、いまの社会はお金の循環する経済で成り立っている部分が大きい。


そんな中、お金と自分の人生をどう結び付けるか。いや、お金とどんな関係を築けばいいのか。お金に対する正しい考えとは。


本書はそれに対して答えているし、そういう視点で書いている。


一回読んだだけではいまいちぴんとこないが、その言葉や考えはお金に翻弄されてはいないと感じる。地に足をつけて生きてきて、時代の趨勢と今後の未来へも目を向けてきた人の見いだせるものだと感じた。


特に、お金に種類があるということ。言われてみればそうだなと感じた。ハッピーマネーを量産するぞ☆彡



明るい未来がそこにあることを感じさせる。



以下抜粋


稼ぐお金と使うお金の金額によって、その人のおおよその生活のスタイルが決まってくるともいえます。



大切なのは、お金とのつきあい方であって、稼ぐ金額や資産ではありません。



人は、お金がないためにお金の奴隷になるわけでなく、夢を生きる力を自ら明け渡してしまうために、お金の奴隷になってしまうのです。



何がほしいのかをはっきりさせて毎日を生きなければ、社会の価値観に洗脳されてしまいます。そのためには、自分の人生の優先順位を明確にしておくことです。



莫大な資産を相続しても大丈夫なのは、自分でお金持ちになる才覚があったり、お金のパワーに動じない子供だけなのです。



お金自体は、人間が考えた単なるシンボルですが、そのシンボルに見いだす幻の力によって、お金は他の何よりもパワーをもっています。



現代の資本主義のもとでは、それぞれの利益団体が自分たちの利益を主張するので、全員がハッピーになるポイントを見つけ出すのは、簡単ではありません。
資本主義が否応なしに変化していく時代には、それぞれの地域、社会システムで、一番バランスのいいポイントを見つけ出していく必要があります。



どういう感情を感じながら、稼いで使っているかも大切なのです。
自分の人生を流れるお金の量と質が、その人の幸せと豊かさを決めるのです。



人間的なふれあいは、金銭以外のところで発生します。



あなたが友情を実感したり、示せるのは、長いつきあいの中でも、いくつかの場面だけです。



今の人生に自然と感謝できる人、そんな人が幸せだと思います。



一番ありがとうカードをもらった人は、「一番ありがとうカードをあげた人」だったそうです。これが、感謝の法則、幸せの鍵だと思いました。



自分のお金や仕事に対する観念が、人生をつくっているという仕組みが見えてきます。



私たちはたいてい、自分の中にある矛盾と折り合いをつけながら、生活しているわけです。



お互いを愛していれば、相手を理解しようと努力するものですが、ことお金に関しては、どちらも譲らないことが多いようです。なぜなら、それはその人の生き方の核心にふれるものだからです。



投資の観点からみると、経済的に自立して両親に仕送りをしてくれるような子供は、資産です。迷惑ばかりかけるとしたら、その子供は親にとって負債になります。



高級品を自由に買える経済状態を身につけることと、高いセルフイメージをもつことは関係ないと知ることです。
セルフイメージが高い状態とは、自分には価値があるとしっかり認識できている状態です。高級な物をいっさい持つ必要はないのです。



お金を貯めることにフォーカスするのではなく、「お金を動かす力をつける」ことにフォーカスするようになりました。



手元に1億円残すことから、一億円の流れを生むことに意識がシフトすれば、年に1億円を稼ぐこともできるようになります。


彼らは、限られた時間、エネルギー、お金をいかに効率よく使うかに意識を払い、少しずつ人生を変えていったのです。



自分の人生と向き合って、本当にやりたいことを見つけ、それをプロのレベルまで高められれば、経済的自由が実現します。



お金のトラウマや家族関係の癒しが進むたびに、不思議に経済状態がよくなっていったのです。



お金持ちの人たちは、この世界にはお金がたくさんあって、自分が望めばたくさん手に入れられると語っています。



その人が、お金を自分の楽しみだけに使っていたら、それ以上その人が豊かになることはありません。しかし、その人が自分がもっと人に貢献できるようにお金を使っていたら、その人の収入はまだまだ増えるでしょう。



お金を自分とまわりの幸せのために使っている人は、年齢を重ねるにつれ、幸せに、豊かになっていきます。



経済を別の角度でみていくと、グループで固まって活動していることがわかると思います。お金持ちは、お金持ちどうしで豊かなサイクルでお金を回しながら、ますますお金持ちになり、豊かさから切り離されている人たちは、お金の流れのほとんどないところで、グループをつくっているのです。



これからの時代は、仕事やお金に忠誠心を尽くして人生を捧げている、これまでの大人たちの常識を軽々と超え、人生の主導権を取り戻し、自分を中心にして、なおかつ人の役にも立って生きていこうとする若者たちが、つくっていくことでしょう。



自分の大好きなことを追いかけてください。人生でもっとも大切なものにフォーカスすることです。自分の大好きなことを追いかけてください。それさえやっていれば、ほかの余分なことに惑わされずに済みます。大好きなことは、あなたが努力せずにできて、一番世の中に貢献できることです。



お金に、あなたのすばらしい人生を邪魔させないでください。家族、友人、子供、両親との間にお金を介在させると、せっかくの愛情が台無しになってしまいます。



つまるところ、人生は思い出でできています。そのために、お金と時間を使ってください。将来が不安なために今あるお金を使わないという生き方は、寂しすぎます。


以上
またね***



賢者の言葉

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以上
またね***

2011年10月26日水曜日

奇跡の教室(食べる読書68)




「一流って何だ?」と思うことがある。


何をもって一流となるのか。


例えば、イチローは一流だろう。だが、野球に関して詳しくない私はイチローのどこが一流たるゆえんかはわからない。ただ打率がいいことくらいか、そのプロ意識を反映した生活の徹底ぶりなどが分かるだけだ。バッティングの技術については全く分からない。だが、バッターとしては一流なのだろう。


専門家と似ているが、一流というのは細かいところまで区別・分類が出来るのではないかと思う。


なので、一見何の違いもないただの内角ストレートもそれがどういう球なのか瞬時に区別でき、どういうふうに体重移動し、バットを振ればいいのか、その際の腕の角度なども区別できることをいうのではないか。


つまり、普通の人が見えないものも見えている。そのほんのささいな違いに大きな違いが込められていることを知っている。それが一流なのではないか、と今のところ結論づけている。



本書は橋本武先生(通称エチ先生)のユニークな授業を取り上げている。


それは、一冊の文庫本を三年間国語の教科書として勉強すること。


この授業はまさに一流の素質を育てる授業ではないかと感じた。


ただ字面だけを追うのではなく、その時代背景・文化・風俗などを含めた上で、その文章はどういうことを表そうとしているのか。


まさに行間を読む能力を育てる。


こう、一言で表すにはとても表せられないが、その奥深さ、その大事さ、を本書を読んで感じてほしい。


以下抜粋


押しつけじゃなくて、生徒が自分から興味を起こして入り込んでいくためには、“主人公になりきって読んでいくこと”がまず必要だと思っていました。



いま思うと、橋本先生からは”センス”を学んだんです。気付くセンスこそが国語力なんだよ、何歳になっても、受け取る感性があれば人生は楽しいんだよって



この人のようにしゃんと生きなくてはいけない、そんな大人への憧憬を最初に強く抱いたのが橋本先生です



自分のほうから気持ちを起こして求めていけば、古くからの遊びや慣習や地方の言い伝えや年中行事、つまり私たちの生活周辺のことは、結局、ぜんぶ国語の力になると思うんです



「大物一点豪華主義」というのは、本物=質の高いものを徹底的に吸収することが、その後のすべての基礎をつくることになるということです。



「味読」というのは、その人の世界に深くはいっていって、それを自分の世界にまで引きつけていく。読書自体が体験になる読み方です



生徒たちは、一つのものを長くやることによって、研究することはただ読むのではなく、細かな、見逃しそうな点に目をつけて、それを分析して調べてみることを理解していったのでしょう。



一つのものを深くまで研究し尽くしたこと、そのこと自体が自信になっていくんですよ。



やはり、大物と徹底的に馴染むということです。



最近の調査で、小学生の家庭で、たとえば“端午の節句に、ちまきを食べる”とか、“冬至の日に、ゆず湯に入る”といった日本の歳時記を実践している家庭の子は成績がいい、という結果が出ています。



国語はすべての教科の基本です。”学ぶ力の背骨”なんです



“奇跡”とは短時間の生成物ではない



最低でも半年、自分の興味を定点観測することで、自分の方向性や新しいテーマ、そして何より、いままで知らなかった自分の個性に出会えるはずです



好きなことに、本気で思いこんで脇目もふらずに取り組めば、きっとそこには道はできるということを君たちに教えてもらった気がします



情報の量、そして“時短”が重視される時代になっていた。
言葉からイメージを広げる機会は、日常から次第に減っていった。



遺された蔵書には、調べたこと、疑問、反論、自分がそこから新たに考えたことが余白にびっしりと書き込まれている。書物との対話を通じて自らの思想を深め、海外で、複眼を身につけていったのだ。



すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる



先を急ぐより、物事の本質を掘り下げて、その根本原理、その背景にある理由を探求することが大事なんだ



天安門のときは、中国側の証言者全員が取材拒否と言ったけれども、NGと言った理由を番組にすれば、別のすごい番組ができるんじゃないか、と思えたんですよ。



ある一つの言葉にこだわることで、その背後に大きく広がっている概念や感覚や考え方と、つながってくるわけですよね。



その言葉が、社会の現実の中でどのような位置にあるのか、どう絡んでいるのか、それが例えば歴史的にどういう背景を、あるいは意味を持っているのか、そういう全体的な構造の中で情報をじっくりと捉えていく。で、そこではじめて知識になってくると思うんですよね。



絵を鑑賞するのと同じような美しさを感じるというのが、学問の世界でも大切だと思うんです。



知識というものを理屈だけでなく、そういう美的感覚、感動までも伝えられるようなやり方ができればいいですね



重い課題などはやはり小さなことから順番にひも解いて、関連をつけながら、その問題の性格っていうのを理解していきますね。



10代の勉強を“孤独な闘い”で終わらせたくない



諸君の卒業とともに、一体多の関係は一対一の関係に切りかえることができる。いまでこそ大学入試の重圧下に物を見、物を考えざるを得ないので、自分と大学とをつなぐ一本の強靭な糸にしばられた視野の狭さは争われないであろう。広い野に進み出た時、また“灘”をふりかえってもらいたい。



教室での関係はすでに終わった。授業料でつながれていた束縛はなくなった。目に見えない校則でしばられていた枷は外された。嘗て教室で国語を手がかりとする教師と生徒であったという、精神的な連帯感だけとなった。これから、諸君と私との間に、新しい楽しい関係が生じなければならないと思う。是非、そうしてほしいと思う。



一緒に「銀の匙」を読んだ生徒がねえ、還暦過ぎても、みんな前を向いて歩いている。それが何より嬉しい。それを知ることができて、ほんとうによかったですわ。「結果」が出て、よかった



「銀の匙」の子どもたちの多くが、エチ先生の授業で身につけた力の凄みは、実社会に出て、30歳くらいになって気づいたという。



以上
またね***





2011年10月25日火曜日

「余剰次元」と逆二乗則の破れ(食べる読書67)




「えっ!!!そうなの!?」



「マジで?!」



といったことに遭遇したことはここ最近あるだろうか。



それは、今までの自分の常識を覆すまたは、新たな世界への扉だったりする。



こういうことを日常頻繁にあるとしたら、その人の世界は広く深くなっていく気がする。




本書は、まさに知らなかった常識の真実を突き付けられた印象を受けた本だ。



特に、逆二乗則はその実証された範囲があるという点だ。


ここは盲点だった。学校で学んでいて、まったく疑いもしていなく、どんな場合でも適用されるし、それが基準と成っていると思っていた。



そして、学問もそれ自体分かっている部分がまだ限定的であり、「えっ!!!そうなの!?」という事象との遭遇の繰り返しである。



未知なるものへの挑戦というロマンを感じる。



以下抜粋


余剰次元を探るということは重力をよく調べることである



非常に重力場の強い領域や、速度の大きな対象を扱う場合には、一般相対論の効果を考慮する必要があることが分かる。



次元とは、ほとんど単位のことだと考えてもよいが、単位との違いは大きさを区別しないことだ。




楕円軌道という現象はそれ自身、深遠な原理であるとは思いにくい。これは、より深い原理に基いて理解されるべき現象なのではないだろうか、という新たな疑問を生むこととなった。




一般に、力の法則がr^nに比例する場合、三次元空間で軌道が閉じるのはr^+1(=r)とr^-2の場合だけであることが示されている。




観察と洞察、そして理性のもたらした栄光の勝利である。その驚きは、人類を信仰と調和の時代から、近代科学と産業の道へ突き進ませる出発点となった。そして以後、およそすべての自然科学はこの実証論的方法をお手本として構築されていった。



実験で未確認の近距離で逆二乗則が破れる可能性があり、それが見つかれば余剰次元の存在の証拠となるかもしれないのである。



「磁気現象」とは、じつは動く観測者が電気現象を見た場合に違った力に見えるだけの、見かけ上での違いであって、元々は同じものである。



実験の計測原理を発見し、それを実用化して実際に実験を重ね自ら法則を導く、という自然科学者として最高の仕事をやってのけたのだ。



ある実験の邪魔になる問題がある場合には、いったんわざとそれが大きく出るような状況を作り、その性質を予め調べておくことが重要なのだ。



散乱という飛跡を曲げてしまうやっかいな現象が、ミクロの世界を探る道具に化けたわけである。



この媒介粒子は無条件にいつでも自由に存在できるわけではなく、必ず粒子から生成されて、すぐに相手の粒子に吸収されなければならない。そもそもこの荷量とはこの媒介粒子を発生させる能力の高さなのである。




本来何もない空間だった真空は、電荷を持った粒子を一つ置くだけで量子力学的には性質が変わり、あたかも物質のように振る舞うことが分かった。このような現象は「真空偏極」と呼ばれている。




力の法則は、「真空偏極」×「べき乗則」×「湯川型減衰」という形で一般的にまとめられる。



すべての力はこの一般形の枠組みの中の特別な場合として理解できなければならない。



余剰次元の数が二つ以上の場合はすべて実験と矛盾しない。



中性子が持つ、電気双極子モーメントという電気的な偏りの研究を行っており、これは時間の向きを逆転しても物理法則は不変である、という時間反転対称性という大事な性質が破れるかどうかを調べることを意味する研究だ。




光とは電磁波のことであるが、ホログラムは光の波長、すなわち色と、光の強さの他に、波の位相という情報を記録したものである。


以上
またね***





2011年10月19日水曜日

四畳半一間から億万長者になった男の知恵

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アメリカ生まれの彼は19歳の時に、
「日本、カッコイイ!行かなきゃ!」
と突然思い立ち、来日。

お金もない、コネもない、
日本語もロクに話せない、
そんな彼の当時の生活費は月5万円。

東京の下町で、線路とパチンコ屋に挟まれた、
手足を伸ばせば壁に届いてしまう様な、
狭い4畳半一間の部屋で暮していました。

彼はこの狭い四畳半一間の部屋を
8年間もの間抜け出す事が出来なかったのです。

ちゃんと仕事もしていたにもかかわらず、
預金残高はほとんどない、
人間関係もうまく行かず、
健康状態もよくないという最悪の状況でした。

そんな彼がどの様にして億万長者になれたのか?
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以上
またね***

自分を超える法(食べる読書66)




この手の自己啓発本は、たいてい同じことが書いてある。



こういうことすると成功するよと言ったノウハウに終始したりする。



この本もそういう形ではある。



思うのだが、もっとも大事なのは本書の内容を継続行動すること。



なのに、それに関してはどの自己啓発本も口を閉ざす。というより、本という形ではそれには関与できない。



こういう類の本は、感情の変化を与えるというより、もうすでに感情が高ぶっていて「何が何でもやってやるううう!!!」という人が読むのが効果があるのではないか。つまり、小説の様に感情の変化を売りにはしていない。今あなたの感じている感情を後押しするのが売りなのだろう。



だけどなあ…、感情というやつは常に変化し続けるんだよなあ…。



それをどうするかなんだが、著者はこう書いている。



「人生には自分の欲を満たす以上の何かがある、と気づくこと」


「感情面の成長が目指すのは”より多くの人への貢献”」



つまり、感情や欲の基準を自分がどうか?に置くのではなく、自分を超えたものに合わせるということ。すると、どんなに厳しいことが襲ってきてもほとんどブレずにいられる。と解釈した。



この本を実践するほどのモチベーションはあまりないのだが、良いことや本質がある。



特に、法則2の「お金のつくりかた」は参考になる。


物事にはタイミングがあるし、順序がある。こういう本が心に響かなかったからといってないがしろにせず、この本の言葉の意味が本当に腑に落ちるタイミングにこの本が手元にあるかという意味で、読んでて損はないだろうと思う。


以下抜粋


成功へのたった一つの答えは
不安定感に対処する能力を持つこと



行動のさなかでは、恐怖は消える



「不安定感に対処できるという絶対の安定感と確信」があれば、そのときから、あなたは全く違う人生を歩みます。


衝動を意識的にコントロールできないと孤独になります。そして、「重要感」を求めすぎると、本当に自分が求めている「愛とつながり」は、得られなくなってしまうのです。



すべて完璧で理想的な状況をつくり出すことが、人生の目的ではない



成長するための唯一の方法、それは、チャレンジすること。困難に立ち向かうことです!



ビジネスでは「想定外」が当たり前、
それを支えるのが「情熱」だ!



経営することと、その事業に必要な技術的な仕事をすることは、まったく別のスキル



人は感情でものごとを判断し、後から理屈をこじつけるもの



交渉の相手があなたの提案を断った場合に受け取る現金よりも、あなたの提供するもののほうが価値が高い、と相手が感じる様な提案をすること



とにかく「実際に動く」、
そして拒絶は前向きに受け止める



常に「決定権のある人」と交渉する



起業に必要なのは「資金」ではなく、よりよい「戦略」



私が目標を設定する目的は、それを達成するためではなく、そこに向かう過程で「自分がどのような人間になれるのか」を発見するためだからです。



人類に大きな貢献をした歴史上の人物が、どのようにその偉業を成し遂げたのかを知ること。それが、知性を養う方法です。



学び続け、成長し続けること



信仰とは、「参考情報や経験がない中で、何かを信頼すること」です。



あなたが日々無意識に、自然体でできていることの中には、実は世界に大きく貢献している様なことがある



ただ毎日精一杯、最高に自分らしく存在すること



無限の知性、あるいは生命が、あなたの魂が進む方向に調和した道を示そうと、常にあなたに囁いています。それは、必ず、あなたのもとにやってくるのです。



リーダーは、「ありのままの自分に心地よさを感じる」のです。



リーダーとは、人にどう思われようと構わない、自由な人たち


承認への欲求、他人から認められたいという欲求を自分から切り離す



人生は、「ほしいものを自動的に運んでくる」ことは決してない



集中するために絶対にしなければならないのは、「限られた時間内でどのような結果を得たいのかを明確にする事」です。



感情が存在している目的は、感情を感じるためである



評価し、レッテルをは貼れば貼るほど、頭で考えれば考えるほど、感情は力を持つ



いつも何かに圧倒されていると感じたり、うつ状態に沈んでいる人というのは、「自分のことばかり考えている場合」が多いのです。



「大切なもの」があるにもかかわらず、「それを感じたり手に入れたりする条件を、非常に厳しく設定している」のです。



あなたはすでに「1人でも幸せ」なのです。ですから、「幸せにしてもらおうと、必死に相手にしがみつく必要がない」のです。



人生で力を得るためにもっとも大切なことは、「外側で何が起ころうとも、すべてを自分の力にする経験に転換する能力」です。



力を与える世界観は、常に自分が選びとる



失敗することが不名誉ではないということを実行するためには、
あなたが「高いレベルでの確信」を持てる必要があります。



ビジネスをスタートするのに「お金」は必要ありません。
「よりよい質問」を自分自身に投げかける必要があります。
それは、「どうしたらより多くの価値を加えることが出来るのか?」という質問です。



自分自身であれ。他の人はもうみんな埋まっているから



以上
またね***





2011年10月18日火曜日

個性を捨てろ!型にはまれ!(食べる読書65)




いいこと書いてある。


本質を突いていると感じる。



が、



対象者がふわふわしているし、論理も浅いとも感じる。



おそらく著者の周りの人は「型」なんかくそくらえ!みたいな考えの人が多いのではないかと感じた。



一方、私の周りにはそういう人はほとんどいなくて、「型」ばかりを求める様な人が多いと感じる。だから、それさえ出来ればいいと考えているように感じて物足りない。「型」が出来ればそれでオッケーなのだ。野望なんてものは持ち合わせていない。




特に今はその「型」を扱った書籍やセミナーなど盛況なのではないかと思う。




著者の「型」に関する考えは共感するが、今の時代に「型」が求められているという論は賛成できない。



というよりかは、著者の「型」論はもうちょっと視点を上げてもいいのではないかと感じる。



今求められている「型」は使い古された「型」ではない。



そもそも「型」とは何か。



原因と結果の“原因”である。それをやるとどうしてもこの結果しか生み出さない、というものだ。



いろいろ言い方はあるが、「始まりは、既に終わりを含んでいる」と言ったとこだろうか。



一つの事象、一つの現象はそれで“一つ”ではないのだ。その原因があって初めて“一つ”になる。ただ単に目に見えるものだけがすべてではない。それは結果なのか原因なのか。結果ならその原因は何か。原因ならその結果は何になるのか。



そして、ここが大事なのだが、「原因と結果は一つの価値・概念を表している」。



だから、「型」を極めるということは、一つの価値・概念を生み出すことなのだ。



早寝早起き、運動週四日という「型」は健康と言う価値を生みだすだろう。



一方、暴飲暴食、たばこ一日五箱という「型」は生活習慣病やがんという価値を生み出すだろう。



これがやっかい。



「型」を極めないとその行動が織りなす価値・概念が何なのかわからないのだ。



だから、今求められている“型”は、「型」を見極める「型」や「型」を変える「型」である必要がある。



著者のいう「型」は今既に証明済みの価値を生み出す「型」である。



今後どんどん世の中のスピードは進んでいく。



我々はこのような人類未体験な時代を生き抜いていかなくてはいけない。



そんな未体験の社会で既存の「型」を身につけても、それによって生み出される価値はこれからの時代にマッチしているのだろうか。



さらに言えば、これからの時代は価値観の多様化というより価値観の変化がテーマになると考える。



だからこそ、「型」を見極め変える”型”が求められている。



じゃあ、その“型”とは何だ?と言われれば、…わかりません。としか言えない。



だが、その“型”を見つけるのが私の夢でもある。



この“型”で最高の人生を過ごす時代にしまっせー(^◇^)


以下抜粋


世の中には、成功するための「型」がある。
個性も才能もいらない。ただ用意された「型」にはまればいい。



あなたは自分の成功について、どれくらい真剣に考え、実行に移しているのだろう。




これは断言してもいいことだけど、「いつかそのうち」の夢なんて、絶対に実現しないまま終わってしまう。



ラクをしたいと思うのは、なんら恥じることのない当然の欲求だ。



自分で考える自分の長所、あるいは自分ならではの個性なんて、ほとんどの場合が「こうありたい自分」の姿でしかない。



本当の個性とは、他人と同じことをやっていく中でこそ、明らかになってくるものなのだ。




「型」の習得というファーストステップを無視して「型破り」を試みたところで、なにひとつ成功しない。




「対立」→「葛藤」→「和解」を踏まえた物語にすれば、まず失敗することはない。




その「型」があってこそ、外からの多様な価値観を受け入れ、自分をレベルアップさせていく人間になれるのだ。




自分の過去、つまり経験とは、徹底的に利用してこそ価値が出てくるものなのだ。




夢は、必ずしも必要なものではないし、夢なんかなくても幸せになることはできる。自分を押しつぶすだけの夢なら、とっとと捨ててしまうことだ。




貧乏くさい習慣が身についた人は、きっといつまでもその場にとどまる。
生活にそれなりの余裕が出てきたら、ちょっと上の習慣をスタートさせたほうがいい。習慣とは「型」なのだ。




とにかく、組織をうまく回したければ、その組織は徹底的にタテ社会にすべきだ。




個人攻撃をせずに、問題を全体の責任として注意することが大切なのだ。




特に若いうちには、上から言われたことを口答えせずにそのままやってみたほうがいい。




個性を伸ばしたければ、それは学校以外の場所でやる。子供の個性を見つけ、伸ばしていくのは、原則として親の仕事である。




子供になにかを教えるとき、つねに理屈を用意するのは不可能だし意味がない。




仕事とは「他人の需要に応えるもの」だ。




「誰かに役に立つ」あるいは「誰かに求められる」ということこそ、最大の個性だと思っている。



以上
またね***





2011年10月17日月曜日

マッチポンプ売りの少女(食べる読書64)





率直な感想として、



おもしろかった!!!



なるほど~、こういう本の出し方もあるのかと新たな発見だった。



各業界の仕組みというか成りたちを公開するだけで、本は出せる。




この本のヘッテルとフエーテルは現実社会において、経営者はあまり対象者にはならないのではないかとふと思った。



本書の登場人物であるこの二人は、消費者の目線でしか物事を判断していないからである。



だから、経営者だと、この会社・業界はどうやって稼いでいるんだ?と経営者目線で情報収集・処理し、判断するのではないかと感じるからだ。




要するに無知が生む悪夢である。




しかし、最後の話はどうしようもない…。ひどい。



たしかに、預金封鎖と新円切り替えは過去にあった。が、それがこんなにもひどいこととは分からなかった。




おそらく、財閥解体や農地改革も似たようなことなのだろう。




どちらにしても、この本から学ぶ教訓は、なんだろう?




確かな情報ルートを得ることが豊かな生活へと結びつくということかなあ・・・。




その確かな情報ルートを得るには、やはり自分自身が魅力的な人物であることが重要なのかなあ…。




そこまでの道は、たった1300円じゃ教えてくれないか。




胡散臭く感じていた事象のその理由がわかったものもあったのでそれはそれで良かったです。



以下抜粋


ネットの沙汰も金次第。
都合の悪い事実も
金でもみ消せる。




大賞が大金で受賞者が有名なら、
それだけで話題になって売れる。




ヘッテルが流行りでオシャレだと思っていたものはすべて、アパレル業界と出版業界と芸能界がこぞってつくっていた人工の流行だったのです。




いびつにつくられた養殖の流行に乗っかってもすぐにはしご外されちゃうからね。





流行ったモノを否定して、
流行っていないモノを流行らせれば、
人はモノを買い続ける。




世界の不幸を見つけて自分が火消しのフリをすれば、
寄付がたっくさん♪




新築のマンションは、管理会社が最初から決まっていて自分では選べない




安く売る会社と、
ぼったくる会社を分ければ、
バレることなく、長い間ぼったくり状態。




なんでみんな、よくないことは見なかったことにするのかしら。




別に不動産に限った話じゃなくて、最近だと、バイク買い取のバイクキングが、自分の子会社を5社使った比較サイトで、見積もりが安いふりなんかしてたわね。




談合をする側が考えてるのはただひとつ。
いかに高い価格のまま、競争せずに継続して仕事が取れるかってこと。





複数の選択肢の中から選ばせれば、
相手は信頼してくれる。
その選択肢すべてを自分で
コーディネートしよう。





商品が自社に不利になったら、
使い捨て社員を言いくるめて、
自社に有利な商品と
取り換えさせる。




50歳前後で早期退職させられて、年金が出る65歳までの仕事がなくなって困った官僚さんが、わが身を守るためにつくった仕組みが「天下り」なの。




政治家さんの「天下りは許しません!」はなんの解決策も提示してない、票集めのためのアピールだってわかったかしら?





関与先(天下り先)の
生殺与奪件(決定権)を握って、
逆らう人間はすぐ粛正。





国はお金が足りなくなったら、
開き直って自己破産。
損するのは庶民だけ。



以上
またね***





2011年10月16日日曜日

夢に日付を(食べる読書63)





ワタミグループの渡邉美樹社長が書いた夢の実現への指南書。




手帳を己の夢への道標としてどう活用していくかという視点から、日常の過ごし方などまでもフォローしている。




この時代にリアルタイムで夢を実現してきた著者の行動をその軌跡と絡ませて書いてあるので、単なる解説ではなく、心に響くものがある。





その哲学がすべての人に適しているとはいえないだろうが、そこには普遍性があるだろう。




その普遍性を活用し、夢を現実のものにするには、どうすればいいか。




本書の言葉から何かしら得られればと思う。




以下抜粋



人間は描いた夢を実現するために目標に向かっていく。そのプロセスの中で自分を磨き、世の中の人々から「ありがとう」を集めていくために生まれてきた





夢を実現することは、実は目的ではないのです。夢とは自らが進むべき道筋をつけるために一つのゴールとして設定しているにすぎません。




あきらめない限り、失敗はない。



二度と来る事がない今日、この一瞬一瞬を最高の状態で生き切るために、夢に日付を入れるのです。




30歳まではがむしゃらに仕事・勉強をしなさい。
それは、社会人としての基礎体力をつくるためです。
休もうとか、遊ぼうとか思っても我慢しなさい。




人生は有限ですから、すべての夢を完全な形で達成することは不可能です。優先順位が低いとなったら、ばっさりと切り捨てる勇気も、ときには必要だと思います。




お金にとらわれることなく、自分に必要な物は迷わずに手に入れる。




たしかに人類社会において「欲」は発展の原動力です。しかし、その「欲」をコントロールする力を自ら持つこと、そして「人類の魂の本来の性格」に気づき、その「本来の性格」を磨く努力を続けることが、人にとって大切なことだと思います。




「見えない目標は、見えないままで置いておいてよい」のです。ただし「現在は見えていない」と意識することが大切です。




ダイエットはイメージという意志の力以外の何者でもありません。物事を達成するためには、このイメージと意志の力が絶対に必要なのです。




意志が行動を生むことはたしかです。しかし「…べき」と意志は継続力が強くありません。一方「…でありたい」というイメージは、意志以上に力を発揮します。人間の潜在意識は、顕在意識よりも強いのです。




もし予定がこなせないときは計画を修正し、絶対にやり遂げることが大切です。





足りないことを明確にすることは、同時に自分に欠けているものを埋めていくストーリーを書くという作業でもあります。





達成予定日がずっと先になるものに関しては、…明確なイメージを持つことが大切です。
つまり、五年後の自分、十年後の自分をイメージすることは、長い道のりを迷うことなく歩くためのマイルストーンという訳です。





目標の達成予定日は、「死ぬほどの努力を続けた結果、達成できる最短の日にち」に設定する、と言いましたが、この「死ぬほどの努力」を、もう少し具体的に表現するならば「毎日を120%で生き抜く」ということになります。





自分の人生は有限だと意識している人、自分はいずれ死ぬというイメージを根本的な思想として持っている人は強い。実際にそのような死生観を持っている人は、しっかりと夢をカタチにしていきます。





行動の価値が薄まってしまうような無理はいけません。しかし、一定の無理は自分を活性化します。





絶対にできるという思い込みを、具体的な行動として手帳に落とし込まなければ、それは単なる妄想に終わってしまうかもしれません。




「私はいつまでに、このことを絶対に成し遂げます。だめだったら死ぬ覚悟があります」と言って初めて仕事なのです。




目標はすべて数値化しておかなければならない




自ら決めた行動を、全身全霊を傾けて実行し続ければ、必ず夢は叶うということを知ったのです。




ルーティンワークは退屈な仕事ではありません。夢を実現するために最も大切な「緊急じゃないけど大切なこと」を実践する貴重な行動なのです。





「緊急じゃなくて大切なこと」にはその人の人生観、価値観、思いやりや真心も表われているのです。





自分の24時間から「意識していない時間」を完全に排除していくことを目指してください。





だれしも病気にはかかります。そのときは体を休ませる必要があるでしょう。しかし心まで休ませてはいけません。
心の戦いを避けてはならない。心は絶対に戦線離脱してはいけないのです。




夢を達成するためには毎日の修正が必要だ




私は、イメージを細部まで行きわたらせることで、目標達成までのストーリーの精度を高めているのです。




夢は何度も繰り返しイメージすることで、実現に近づいていくものなのです。




明確でないところを徹底的に検証し、情報を集めて現状把握をする。そうやって細部を詰めていく作業が必要なのです。




大きな目標も、現実とのズレや環境の変化を取り込みながら、常に修正をかけていくことが大切なのです。





そもそも明確なイメージがない計画ならば、修正することさえできません。現時点での完全なイメージがあるからこそ、環境の変化に素早く対応できるのです。だからこそ、細部に至るまで明確なイメージを持っておくことが大切です。





目標は環境の移り変わりに合わせて変化します。しかし、その時々でしっかりとカラーでイメージすることを怠らないでください。これは夢を実現するための非常に大切なポイントです。






この「行動基準カード」も「夢カード」と同様、何度も読み返します。読み返すことによって、自分がどのような行動をとるべきかが確認でき、自分の行動を振り返ることになります。振り返ることによって、自分がなりたい人間、ありたい姿に一歩一歩確実に近づいているのです。





日記は単なる記録ではありません。書くことによって一日に決着をつける。つまり、「一日をリセットする」ためのツールなのです。






一流の人間になりたい、と思っているのならば、ぜひ一流の品を置いてほしいと思います。






この山は高すぎて、長城は雲のはるか彼方にあります。しかし、登りたいと思ったのなら、思うだけでなく登り始めることが大切です。とてつもなく高く思えても、第一歩を踏み出すことが大切なのです。




以上
またね***






2011年10月15日土曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-3)





普通の付き合いにおいて、自分が相手から嫌われているのに相手を好きというケースはあまりないという事が言えるのです。どちらかが、好き嫌いのイニシアティブすなわち主導権を持って、そのお互いの感情を増幅させてゆくという事が言えます。相手の反応は自分の鏡、と言われるゆえんは、すなわち自分の行動がそのまま跳ね返ってきているという事です。




自己価値観人間の場合、相手を価値あるものとして、簡単に嫌ったりはしませんが、好きとか嫌いとか言われる事に自分の価値を依存していないので、自分の合わない事に対して、きっぱりと断れる主体性が存在します。片想いなどという場合でも、自分と相手を価値あるものとして扱うからこそ、自分に合わない相手を、拒絶する事で、お互いの価値を尊重しようとするのです。






自分よりもある部分において社会的価値に劣る人に対して、自分の社会的価値と比較して、自分の無価値観を癒そうとするという思考のベクトルを自分に向けるのではなく、その相手に向ける事、すなわちその相手の気持ちを理解しようとする事とそれに基く行動こそが、自己価値観人間の思考の方向性と行動です。






人間はそこに存在する事自体に無限の価値がある以上、自分にも無限の価値があるから相手は自分を価値ある存在として接するべきだという考え方は、単なる甘えであって、自分を価値ある存在として接しようがそうでなかろうが、相手には人間としての無限の価値があるという点を理解する必要があります。






不安や葛藤やその他様々な精神的肉体的不快感を抱えている自分は、それらを抱えていても、その存在自体に無限の価値がある、だからそれらを抱えていても人間として無限の価値があると、地獄の不快感を抱えながら生きて行く決心と、そういう不快感を抱える自分を受け入れる事が、その結果として必要以上の不快感を押さえ、本来の必要な本能的レベルへと戻す事が出来るのです。






緊張なら緊張、不安なら不安に抵抗しなければ、過去の嫌な出来事に目を向けない新たな行動により過去の嫌な出来事を思い出さずに済みその呪縛から脱する事が出来るがごとく、結局は自己無価値観から来る不快感や弊害に影響されない人生を送る事が出来る様になります。






人間の真の価値を理解した上で、その動機を元にした行為を重ねる事で、ますますその確信を深めてゆきます。そして、先の矛盾に対して、行き辛さというそれ自体が、自分や他人を守る為に本来人間が持ち合わせている必要な要素であると気づき、それを消す事に目を向ける事をやめるのがこの最後の段階です。そして生き辛さをありのままに受け入れられる様になります。






人それぞれその生き方は様々ですが、同じ事をしている人の中でも、尊敬したくなる人、輝いている人、清々しい人などには何か共通しているものを感じます。それは一様に、その人を接したその行動の中に、その人からこちら向きの愛情が伝わってくるという事が言える様に思います。






歴史と共に文明が発達し、我々にとって便利な物や魅力的な物などが溢れ出し、また、支配者層が人々を支配する為に、社会の秩序としての序列が形成されて来ました。これに伴い、良い物、良い事、偉い人など、いわゆる社会的価値に基づく価値観が形成されて来ました。







いじめられて自殺する子の中に自己無価値観人間たる親によって自己無価値観を形成された子が多いという事も言えるのではないでしょうか。いじめられる自分についての人間としての価値を喪失し、条件付きの偽の愛情によって作られた自己無価値観人間であるがゆえに、いじめに抵抗出来ず、そもそも僅かしかない自分の存在への価値の確信を失い死を選ぶという事ではないかと思われるのです。






世の中お金持ちの家の子もいれば貧乏な家の子もいます。それでも人間としての価値は同じであると教える事が真の平等意識を育てる事で、社会的価値を同じにして、それを平等とする事は、この例に限らず、単なる自己無価値観人間の足の引っ張り合いでしかありません。






偽の愛情、すなわちあなたはこうでなければ人間としての価値が無いという確信を植え付けられたが故に、経済発展、豊かさという社会的価値に対して、こうでなければならないと、がむしゃらに取り組んだ結果としての経済復興、経済発展ではないでしょうか。






純粋に価値ある対象として人を思いやってという人の他に、相手への配慮など無く、ただ単に正論を振りかざす人などを見ると、社会的に価値がある行為をすることをアピールしている人が、自分は、価値ある事をする価値ある人であるという意味でアピールし、自分の自己無価値観を癒そうとしているのではないかと思われる時があります。






自己無価値観人間は、人間の基本的欲求である存在の価値を認められたいという欲求を自己補給出来ずに、社会的価値においてそれを自分の人間としての価値を絡めて得ようとする結果、そんなに何もかも優れた人間や何もかもうまくゆく人間などいようはずがなく、自己無価値観をより深めてゆき、その結果、認められたい、適合出来ない、達成出来ないなどなどありとあらゆるストレスを抱え込み、何かに依存して現状から逃避しなければ耐えられない状況にあるのです。





現実を直視出来ないとは、すなわち現実に対して、自分の存在に確固たる価値を認識出来ないでいる事に他なりません。タバコには、唇という敏感な部分で刺激を得てその行為により無意識に母親の保護を求めて幼児返りすると同時に、ニコチンにより覚醒作用も手伝って、現実から逃避するという効果がある様に思えます。






自己無価値観ゆえに、自分は平凡な一人の人間であるという事を認められずに、社会的価値の達成を約束された特別な人間であると思い込む事で、自己無価値観を癒そうとし、努力や根拠の伴わない、運まかせの様な人生を送る人なども、ギャンブル狂と言えなくありません。







過剰な自己防衛の必要性とはすなわち自己無価値観から来る動機に他なりません。自分の存在に確固たる価値を認識出来ないがゆえの、自分の人間としての価値に対する必死の防衛なのです。





言論の自由とは、自分にとってどういう相手であれ価値ある存在であると尊重し、初めて成り立つものでしょう。





規律の為の規律ではなく、自分と他人を価値ある存在として大切にする為の規律として、真の愛情を持って厳しく接してゆく事、これしかないと思います。






かつては、いわゆる社会的規範によって、それを守る人イコール価値のある人とのこれも自己無価値観に基く一定の抑止力がありましたが、これも元々どんな相手をも価値ある存在として認識するという自己価値観に基かないがゆえに、偽の平等社会による社会的規範の崩壊により、自己無価値観ゆえの冷酷さが表に現れて来たと言えるのではないでしょうか。






ぬいぐるみやキャラクターグッズや、更には異論があるのは承知の上で言えば、宗教的な像に至るまで、実際の人ではない、いわゆる偶像を可愛がったり、自分を愛してくれる対象としてすがったりする事は、一時的に心を癒してくれる事はあっても自己無価値観から来る様々な弊害への根本的な解決につながらない事は当たり前の事です。正しい動機により行動する事が唯一の解決方法である事は、今更言うまでもありません。






人間社会を学校に例えた時の勉強とは、すなわち身につけるものが、自己価値観であり、それを行動というトレーニングによって、強化する事ではないでしょうか。





人間には感情が存在する事から、機械でないと結論づければ、人生とは、人間社会での寿命のみでないという事が理論として成り立つのです。そういった意味では、現世主義といわれる、社会的価値観に執着した、いわゆる自己無価値観的生き方がいかに意味の無いものかが段々分かって来ます。






多くの人達が様々な悩みを抱えて生きる現代社会。大体、悩みやストレスの大半は現代の様々な社会的価値観に照らして、それを絶対視し、それに適合出来ない事と自分自身の人間としての価値を絡めて考えるところから来るものでしょう。



以上抜粋





抜粋多すぎだが、新たな価値観に慣れるには時間とエネルギーが要る。なので、出来るだけ本書の内容で大事と思ったところは削らなかった。困った時や悩んだ時などこれを見返します。




以上
またね***




2011年10月14日金曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-2)





以下抜粋


今まで人間の様々な悩み対して、様々な分析や試みがなされて来ました。しかしどれもが表面的、部分的な現象を取り上げて、根本的な原因やそれに対する解決方法を示すに至っていない様に思われてなりません。




社会的価値は人間社会を豊かにする為、そして生きてゆく上で当然必要なものですが、人間の価値の尺度にする為のものではありません。




たとえば社会的地位が上だから人間としての価値がある、お金持ちだから人間としての価値があるなどと、そもそもそのような社会的価値イコール人間の価値と考える人こそが、その社会的価値を追い求めて、日々過大なストレスを抱えて生きている人ではないでしょうか。





例えば高級品を身につける事で、自分が人間として価値があると思いこもうとする動機においては、そのもののランクが重要なだけです。高級品であるという社会的価値を自分の人間の価値に絡めているのです。これに対して人間の価値と物事の価値を分けて考える動機においては、単に高級品だからという理由ではなく、なぜ高級品なのか、そのもの自体の価値を見い出し、大切に扱う事でその価値をより高めてゆく事が出来ます。




自分の存在に無限の価値を確信出来る人間こそが、自分の周りの様々な事に価値を見い出し、心から幸せを感じる事が出来るのではないでしょうか。




行為を憎んでもその人を憎むことのない人かどうかで、その人が本当に優しい人かどうかの見分けがつくものです。





自己無価値観人間の場合は、心から人を許すという事がなかなか出来ません。それは、許す前は、自分より社会的価値観に照らして劣る相手だったのが許す事によって、その対象が、自分と同じ価値となり、優越感によって自分の自己無価値観を癒す事が出来なくなるからです。






自己無価値観人間の場合はどうかというと、目標への悲壮感は無く、むしろ困難な中にも楽しさを感じる余裕があります。そして、何事にも物事そのものへの価値を見い出そうとする価値観の創出が、自分の存在の価値の確信を更に深めてゆきます。





そもそも正しいという概念自体、社会的秩序と照らしてという意味である場合と、自分の価値観に照らしてという場合があるのですが、自己価値観人間の場合は、自分の人間としての価値をその存在により無限に感じ取る事が出来ますから、正しい事という意味を社会的秩序に照らして考えるよりも自分が本当にそう思う事、すなわち自分の価値観に照らして考えます。そして、他人の価値観に対しても自分の価値観にこだわらずにそれを認める余裕があります。






自己無価値観人間の場合、しばしば、大志や大きな夢が、自己無価値観ゆえの、こうでなければ自分には人間としての価値がないという、いわゆる誇大妄想となる場合があります。






自己無価値観人間は、意識的行動を表面に出す割合が少ないほど、無意識の動機によって、自分自身や周囲の人の価値を尊重できない行動をどり、自分自身と周囲に不快感を与え、不幸をまき散らしながら生きているという事が言えます。






騒がない子は良い子で騒ぐ子は悪い子、と一見正しい様に見えて実はとんでもない誤りである躾をされた子は、これこれこうでなければ自分には人間としての価値が無い、あるいはこれこれこうでない人は人間としての価値が無いというふうに、人間の価値を社会的価値に依存する様になり、その結果、特定の場面で表面的には社会性がある様に見えても、実は内面に強い抑圧や冷酷さを抱えてゆくという事になります。





その行為や言動をいちいち真に受けるのではなく、自己無価値観から来る言動として、冷静に対処する事が、最善の対処法と言えるでしょう。




本当に愛情を必要としているのは、好かれている人ではなく、真の愛情を受けずに育ったがゆえにそうなった、嫌われている人であるという事に気付くべきです。




自己無価値観人間、つまり人間の価値を社会的価値に依存する人を、哀れな人、と割り切りましょう。





自己無価値観人間の場合は、自分の存在に人間としての価値を確信出来ず、社会的価値イコール自分の人間としての価値として、自分の無価値観を癒そうとしている以上、自分に関わる様々な出来事に対して、その結果と、自分の人間としての価値が密接に関わっており、この為、自己無価値観により、元々僅かしかない自分の人間としての価値を必死に守る為に、自分に関わる物事の結果は、絶対に社会的に価値のあるものとしなければならず、しかし結果など出てみなければ分かるはずはなく、結果が出せるかどうかという動機をベースに、不安となるのです。





一般的に、感性という点では、自己価値観人間は、自己無価値観人間にかないません。それは、とことんまで、自分の感じ方を追求するがゆえの感性の鋭さと言えるでしょう。まあいいかと物事の価値を見い出し、すぐに受け入れてしまう自己価値観人間では、現象を繊細にとらえたりという事がなかなか出来ません。





要は、その表面的行動の社会的意味合いではなく、その動機の方向性、つまり思考のベクトルがどちらを向いているかが重要なのであって、例えば内向的な人が外交的な人になりたいと、表面的行動だけを変えても、本質的には内向的な人が外交的になれるハズがありません。





そもそも自分の存在に価値を認識できない以上、社会的価値を自分の人間としての価値として追い求める訳ですが、世の中そうそう思い通りにゆくものではなく、何かささいな事につまずいただけで、すぐに思い悩み、傷付き、そして、自分や他人を責めるという行為に出ます。





自己無価値観人間は、情緒未成熟の親の対人緊張による抱かれた時の緊張感や、甘えが許されない居心地の悪さや恐怖感、親の気分次第でコロコロ変わる自分への接し方への混乱などにより、自分はここに居てはいけないのではないかという疑問を無意識のうちに芽生えさせます。





その人がその人自身の苦痛から逃れる為には、自分が自己無価値観人間、すなわち良い人でも何でもなく、子供以下の情緒未成熟人間であることを認めた上で、自己価値観人間への脱皮を図ることが必要なのです。





悪い事は悪い事として、しかって矯正するのはもちろんの事で、また、良い事は良い事としてほめてあげる事はもちろんの事ですが、その親の態度の中に、その動機として良いことをする子は人間としての価値があり、悪い事をする子は人間としての価値が無いという無意識のメッセージが込められている場合と、物事の価値と人間の価値を区別して、全ての人間にはその存在自体に無限の価値があるというメッセージが込められている場合とでは、子供はその動機を敏感に読みとって、全く違う価値観を形成してゆく事になります。





自己無価値観人間は、自己無価値観を癒す為にとる行動を重ねれば重ねるほど、その自己無価値観を強固なものとしてゆくのです。又、逆に、自己価値観人間は、自己価値観を認識する行動を重ねれば重ねるほど、自己価値観を強固なものとしてゆきます。






過保護とは、自分の気分によって偽の愛情を与える事で、つまり自分の気に入らない反応には過剰に反応するという態度を秘めています。子供が自分の気に入る反応を示そうが気に入らない反応を示そうが、変わりなく愛するのが真の愛情です。







結果に対してそれを達成出来た時に誉めるというやり方の問題点は、その動機に目が向けられていない所にあります。






躾、の本来の意味として、人間はそもそもそこに存在する事自体に価値がある、だから、その様に接する為の方法や知恵、としての躾けであるべきです。その為には、行為そのものの意味ではなく、動機こそに目を向ける必要があります。






なぜ自己無価値観人間の親は、時として自分の子供に対してその様な要求をしてしまうのでしょうか。それは、子供であれ、相手が不機嫌でいられると親としての自分の人間としての価値を否定された事につながるからです。相手の態度で自分の人間としての価値観がゆらぐ自己価値観人間としての特徴と言えるでしょう。







最初は、相反する動機がもたげて来るでしょう、しかしその間違った動機で行動しない事、そして日常のあらゆる物事に対して正しい動機で行動する事、それを重ねる事、そしてそれによる安心感を体感する事が、自己無価値観人間からの脱出の唯一の方法です。




to be continued ・・・



2011年10月13日木曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-1)




人の人生は出会いで作られるといっても過言ではない。



幼少期からどんな人、モノ、コトとの出会いがあったか。



人生で遭遇するすべては出会いである。



そして、それが人生を左右する。



ここで、出会いといってもその深さがさまざまあることを経験から知る。



己の志へとつながる出会い。



その場しのぎの出会い。



などなど・・・




我々は日常生活の中でどのレベルの出会いが多いだろうか。




本書は私にとってとてもいい出会いであった。




それは、私の自分自身を含めた人を観る新たな一つの視点と出会えたからである。




それは私の価値観をも変えている。




この本を読んでそういう視点で日常のことを観るとなんだか楽になるのである。





著者は人を「自己価値観人間」と「自己無価値観人間」に分けて、両者を比較することで、現代人の心理を説明している。





「悪魔(サタン)への挑戦状、という題名の悪魔とは、決してオカルト的な意味ではなく、自分自身の存在に人間としての価値を確信出来ない心、つまり、自己無価値観、を悪魔と名付けました。そしてそれを退治してゆくという意味での挑戦であり、本書がその挑戦状です。」





と本書にあるように、自分の存在自体をそのまま認めることができない人が多いのではないか。だから、そのあまりにもはかなく脆い自分自身の存在を存在たらしめようとして、人は社会的価値観にしがみつく。そして、その社会的価値観を少しでも満たせなくなると、それがストレスとなっていろいろな症状と出る。または、その自分の存在を守るために様々な言動をするようになる。それらはすべて、己のはかなさを覆い隠すために行われるもの。





本書は、言動ではなく、その言動の動機にこそ目を向けるべきだと説く。なぜなら、「自己価値観人間」と「自己無価値観人間」の動機は異なるが、その結果の言動は同じということがある。その根本的なところに目を向けない限り「自己無価値観人間」から「自己価値観人間」へは変われない、と。





本書はなかなか読み進められなかった。その都度その都度、自分はどっちだろうと立ち止まって考えてしまうからである。




結論から言うと、「自己価値観人間」の場合もあれば「自己無価値観人間」の場合もある。そして、「自己無価値観人間」の場合その動機とその結果の言動から自分の本当の恐れ・弱さを白日の下に引きずり出される。これが、怖い。だから、読み進めるのは一種の闘いでもあった。




しかし、本書のこの考えに救われる。





「自己無価値観がもたげてくる自分に価値が無いからそれから脱する必要があると考えるのではなく、自己無価値観人間としての自分も、その存在にこそ価値があるとして、言うなれば「まあいいか」と思考の緊張により緊張している体から力を抜いてみるその行為が、自己無価値観人間にもその存在としての価値があるという認識の強化、すなわち自己価値観の強化につながってゆきます。」





そお~~~~~~~~~~~~~~~~なんだよお~~~~~~~~~~~~~なあ~~~~~~~~~~~~~(=^・・^=)





何自分の弱さに落ち込んでんねん。そんな弱さあってもなくてもセクシーなままの俺じゃねえかよお~♡





勉強になります<(_ _)>





このブログでも所々で書いたが、今の人は社会的価値に縛られすぎて本質を見れなくなってはいないかとひしひしと感じるのである。それは自分も含めてのことである。だからこそ、その無味乾燥した感覚がぬぐえない。そのつらさ、その無味乾燥を潤そうとして社会的価値へと向かうが、そこには何にも自分を潤すものはないのである。つらいことだが、そのゴールに自分を回復させるものはないのである。






では、どこに自分を潤すものがあるのか?もうこの時点で違うのである。どこかに”ある“ものではない。私自身が潤いであるし、潤いを生み出す者である。






外にはないんだ。





さあ、このことを自分の人格まで高める旅へと出発しようではないかあ~。





to be continued ・・・





2011年10月6日木曜日

プリンシプルのない日本(食べる読書61-2)




以下抜粋


然しどうして彼が自分の理屈にあんなに自信を持つのか判らぬほど、自分の感覚とその合理性に自信をもっている。





戦争前にこういう事業があったが、今はダメになっているからこれをなんとかしなくては、という議論もバカげている。どういう産業が適当な輸出産業かということは今から決まることで、戦前の実績は何等の指針にもならない。





六三制をやれといって勧告したアメリカ人の気持ちというものは、制度としていいからやりなさいと言ったに違いない。しかしこの場合、制度としていいのはいい、いつかはやりますが今はやれませんということを具体的に説明し得なかったということは、一つの非常な失敗だ。




自分が非常に自己陶酔をしていて、自分のその自己陶酔をそのまま読者に鵜呑みにさせるという技術を持っていること、その点だけは偉いものだ。





日本語というものは、僕はわからんけれでも、綾があるとか、含みとかいって、ものを表現するのに、ヨーロッパ式にいうと、正確度というものを非常に欠いている。






両方とも、あなたの思想はこうで、それを推してゆくとこうなるじゃないか、だからここで落ちつこう、ここまで認めるがここまでは譲れないというような議論はあり得ない。両方で別のことをいい合っている。だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何もない。お互い言いっ放しだもの。






国連側がどうの、自由国家群がどうのというが、これほど大きな経済問題を政治的というか外交的というか、こういう見地からのみで一蹴しているのでは国民は納得しない。




電源開発が目下の最大急務であることは論をまたないが、政府の方針か無方針かは知らないが、国家的に重要と思われる産業に見返資金其の他で国家が援助するのが、あまりに八方美人的であると思う。





私はパンパンを非難攻撃するのなら彼ら男性も排撃せよといいたい。・・・。彼女らを非難するべからずというのではない。非難はもっと冷静な立場に於てあるべしと思うだけである。






元来マッカーサー氏がたびたび言明していたように、追放は懲罰的な性質のものでなく、国民にこういう指導者群に二度とだまされるなと教えるためらしい。






昔の塾は塾生が塾長よりものを教わること以外に、塾長の私生活に日夜ふれてその影響を受けたことが甚大であったに違いない。






「政治は腹だ」といって自分の無能無策に気が付かない輩がいることである。我々国民に関する限り、政治家の「ハラ」なんかに関心も興味もない。政治家の持つ思想信念が何かということを知りたいと思うだけである。政治は「腹」だ「ハラ」だといっているうちに再建は遅れ、その腹芸による闇取引は横行し、しまいには腹を切っても申訳が立たないような事態に行き詰るのを憂うる丈けである。






私の知っている範囲に於ては、大体政治家なるものは、そんな悪党になり切れる位智慧のある御仁はいそうにもない様だ。




政府のいう保安隊の増強は、もっと金が要るということを意味するのは当然だが、この保安隊の増強をする余分の金を使ったときに、国家の経済にどんな影響が来るのか聞いて欲しいのだし、また政府は聞かれなくても率先して説明する義務があると思う。






官僚間の責任回避の本能に基づく不経済な公平主義のおかげで、輸入は入札制度のため、成る程輸入業者からも、その関係者からも文句は出る心配はない反面、国民は鳴物入りの宣伝のために現地で値を吊り上げられ、何時もも高い品物を買うことを余儀なくされている馬鹿な目を見る破目に陥れられている。







結局は抑えつけられることが判っていても事実を率直に言うだけのことは言う勇気はあるべしである。






どんな嫌なことでも、事実は事実として勇気を持って直視直面することだ。他人様にシワヨセをして澄ましていようなんていう様な安易感は通用しないということを強調したいだけだ。






政治に金が要るということは常識らしいが、政治に金が要らぬ様にしなければ疑獄問題は永久に跡を断たない。






闇金でやった行為である選挙は是認というか、何というか、ほったらかしておいて、その闇金をつくった行為だけ追求したというような結果に陥りはしないか。






GHQの行き方というか態度というか、その中に終始一貫してあったことは心理的には色々の施策の対象が実は日本および日本人でなくて、ワシントン政府および米本国であった。…、私の言わんとする処のものは、如何にすれば本国によく思われるかということに汲々としていたように思われる。






出世をする様な奴はどこの国でも心掛けが違うらしい。






我々がやった戦争中の他国の占領が、今に至るまでその国の人々のウラミの的になっているのを思うと、占領なんていうことは大体うまく行くべきすべもなく、筈もないことは判りきったことだ。





非常に進歩的の農村には、外来者でなくて、その村の地付の農民の中に非常に進歩的な人がいて、その村でその人が実地にやってみせて外の人を引きずっていることの例は全国いたるところにある。





政争をやるのは政治家さんの勝手だとも云えるが、政争のトバッチリを食って国民の税金が死金になる可能性を増してやるなんていうのは、国民として迷惑至極な話である。






この大和民族はどうも政治の論争があっという間に感情問題に急進展して、ヒステリーの女そっちのけの坊主が憎けりゃケサまでにくい論法に行くことがあまりにも多い様に思う。





大体屢いうことだが、総理の後継者なんていうものを心配するのは不必要千万なことで、これは国民が勝手に決めることで、昔の組閣の大命降下なんていった時と世の中が一変しているのだ。





現在のように経済再建の真最中で、殊にその再建すらあまり希望通りいっているとはいえない今日、白紙から出直すなんていう様なノンビリした時間があるとは思えない。







韓信またくぐり{志ある者は侮辱にもよく堪えるというたとえ}的に自己の感情を抑えて、日本の対外信用のためまた悪い前例を残さぬために、ひいては国民のために政府の強圧に屈すべきではない。






大体私なんかの考え方から云うと、大部分の会社が四苦八苦して倒産一歩手前の世の中で、よくもまあ、政権をどうしろとかこうしろとかいう余裕があるものだと驚くばかりである。







機構など、つまらぬきめを超越するのがいわゆる実力者というものかも知れぬ。






戦前は軍部が横暴だったからだと澄ましてしていても、その横暴に対する反抗を如何にして表したかと聞かれたら、ぐっとつまるにきまっている。






この民主主義の世の中では財界人であろうが誰であろうが、みんな政治に対して発言権を持っている筈だ。政治に対して意見をいう権利があるのだ。意見を云って何が悪い。政治に干渉するのはけしからんと怒るのは、戦前軍部が統帥権に干渉したと怒ったのと少々は似ていないか。






新憲法の精神というか、それを貫いているプリンシプルは何かということを、考えてみた人は何人いるだろうか。







米国側から考えると、不平等であるとの何の意志表示もなかった協定が改定時になって急に不平等となるべきすべもないのだから、納得はしないだろう。プリンシプルを考えたら、当然その時に不平等であるとの発言がなされて然るべきであった。







私は日本の軍縮委員会参加に繁多死しているのではない。私はその参加にいたるまでの手続きの不手際を責めたいのである。参加しろといわれたときになぜ、日本は軍備はないから軍縮の会議に参加する資格はないと断らないのか。






歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大なる罪悪であると考える。








反対党がその法案をそんなに嫌なのなら、この次の総選挙に勝って絶対多数を制して自民党内閣をたたきつぶしてその法律を廃止すればよいのです。いま反対党のあなた方には、政府の提出する法案を阻止する権限は国民から与えられていないのです。






昔は盛んに、カントは、ゲエテは、と言ったもんだ。それじゃお前はなんだって訊くと、何にも持ってないんだ。







妥協は妥協でいいよ。だけども、ほんとの妥協ということは、原則がハッキリしている所に妥協ということが出て来るんでね。日本人のは妥協じゃないんだ。単なる頬かぶりですよ。原則をほったらかしといて「まあまあ」で丸く納めようとする。納まってやしないんだ。ただ問題をさきへやっとこうというわけだ。臭い物には蓋をしろというんだよ。







しかしほんとに深刻な金詰りは大企業だと思うね。ところが、中小企業者は自分が主人で全責任を負ってるから、ギャアギャア言うけど、大企業は頬かぶりでゆこうとする。






人格者がいけないっていうんじゃないんだ。文部大臣というと、すぐ教育者を頭に考えちゃうけど、教育行政と教育とは全然違うものだというんだ。






議論したければ議論すればいいんだ。ところが、痛烈なことを言うと恨むんだね。人の前で恥をかかしたって、面子面子っていうけど、八月十五日以来、日本人に面子なんてあるかっていうんだ。







俗人は、自分の卑しさを照し出すような人物の前に出ると、恥ずかしさからか、相手を憎むものである。




以上
またね***





2011年10月5日水曜日

プリンシプルのない日本(食べる読書61-1)




本書は白洲次郎が1951年から1969年に文藝春秋に載せた文章をまとめたものである。




若い頃はイギリスへ留学し、終戦後は外国との交渉などをした人物。




そんな彼の日本人に対する考えが述べられている。




終戦後、連合国と対等に渡り合った唯一の日本人ということで知られる。




が、それは当時の欧米の価値観を理解していたからだろう。




題名にもあるように、プリンシプルの重要さを理解しており、日本人にはそれがないといっている。明治維新以前には武士道として日本にもプリンシプルはあったのではとも本書で語っている。




歴史や価値観などもそうだが、一歩引いてみることでそれらを相対的に観ることができる。




日本の考え方と欧米の考え方である。




歴史は600年周期で東洋と西洋が主役を入れ替わっている。現在は西洋の時代でそろそろ東洋の時代へと移行する時期だといわれている。




白洲次郎が生きた時代は西洋の時代である。そんな中、日本は明治維新から西洋文明を取り入れて発展してきた。それは、当時の価値基準を学んでいるということ。



この意識。



自国の価値観とは土台の異なる価値観を取り入れる。それはあくまでその時代を勝ち残るための手段としてのもの。それは決して己のアイデンティティにはならないと区別できていたのではないかと思う。




だから、日本本土の風習というか慣習までは西洋化はしていない。




その一貫性の無さを著者は指摘しているのではないかと感じた。これからも西洋文明の時代であり続けるのなら、白洲次郎の主張は大いに取り入れるべきだと思う。しかし、時代は変わる。いや現在進行形で変わっている。この2011年の時点でだ。




が、おおいに同感する部分もある。これは以前紹介した希望は絶望のど真ん中に (岩波新書)のむのたけじさんと同じ意見だが、憲法は日本人自身の手で作るべきだという指摘である。




当時は作る余裕がなかったというかそこに目を向けるタイミングではなかったとは思うが、現在はどうだろうか。GHQ押しつけの憲法からそろそろ自立してもいいのではないか。たとえ内容がほとんど同じなものになったとしてもだ。




西洋文明のプリンシプルは、西洋の歴史の上で醸造されてきた。それは他国、他民族との闘いの中で養われたものである。主義主張をはっきりすることが最も大事。広い大陸で生きる人間の性である。




一方、日本は小さな島国。そんな中で争いをしても、生きる場所は限られている。妖怪学講義でも書いたが、どこにも行く場所がない小さな島国だと、そこには人の恨み、妬みがどうしても発生してしまう。つまり、一時的に己が勝ったとしても時間の経過、周囲の人間関係など総合的に観ると結局マイナスになるということがしばしばあるのではないか。そんな環境で養われたのが日本式の「まあ、まあ」やなあなあ主義なのではないか。





対外的には西洋的でいいが、やはり我々日本人の生きる場所はほとんどがこの狭い日本である。それを、いきなり西洋化するのは無理があるというもの。それをするならまずその価値観を創った環境を変えるのが手っ取り早い。つまり、日本を島国ではなくするという無理難題に直面することになる。





この日本の価値観。これは結構すぐれているのではないかと最近思っている。一見、何にも物事は前には進んでいないようである。しかし、物事が進むということは何らかの変化を要求するということ。その変化に対して必ずしも全員がいい感情を抱くとは限らない。だから、もっと大きな視点で物事を見る必要がある。それが日本式の価値観である。それはおそらく言語化はできないだろう。あまりにも多くの要因が相互に関係し合っているからだ。





恨み、妬みの歴史でもある日本は、人の感情も考慮に入れて物事を進める傾向が強い。それは、ただ法案が通るやただ公式的に認めるだけでは何にも変わらないということを知っているのではないか。どれだけ相手の感情を動かすか、それこそが大事。それさえあれば、別に政府のお墨付きなどはいらない。人々が認めているということこそが大事なのだ。それは多様な人がいい感情を抱いていることを意味する。





なので、世界的に日本は、もっともマーケティングが盛んで優れているという。






話は少々それたが、ただ単にその時代の主流の価値観からずれているというだけの言説はあまり価値はない。相互を比較して、そして今の時代とこれからの時代の推移も考慮しての批判が必要だろう。そこからは、どんなに自国と世界の価値観が違っていようとも、うまく自国をアピールすることができる何かしらのものを見つけることができるのではないか。


to be continued ・・・




雑誌『 anan 』で紹介された英語学習法!


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以上
またね***

2011年10月4日火曜日

稼げない起業家の共通点

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なぜ、ほとんどの起業家は稼げないのか?

実際、

1年以内に60%が倒産
5年以内に80%が倒産
10年以内に95%が倒産

からもそれは明らかです。

ただ、一部の起業家が実際に稼げているのも事実です。


ではこの違いは一体何なのでしょうか?


「大富豪の起業術」という本によると
それは起業家の才能でもなく商品の良し悪しでもなく
ましてや運なんかでもありません。


それは単にほとんどの起業家が
起業直後にするべき一番大事なことを
おろそかにしているからだそうです。


この本の著者、マイケルマスターソンは

年商100億円以上の会社を2社、
50億円以上の会社を2社、
さらに10億円以上の会社を10社以上作る
という非常識な仕事をやってのけています。


1社だけでも、年商数十億の規模の会社を作るのはとても大変です。

だから、それをいくつも実現している彼は、
何かを知っているはずです。

何か、他の人が知らないビジネスの秘訣を・・・・・
何か、何度も何度も成果が出るような秘訣を・・・・・


この起業を成功させる秘訣をまとめたのが
「大富豪の起業術」という本です。


そして、今ならこの「大富豪の起業術」上下巻の2冊が
なんと無料で手に入ります。

私もさっそく取り寄せました。

ただ、残念なことに本は在庫限りで
1988セットしか用意してないそうです。

本はこちらか手に入りますので
無くなって後悔する前に
ぜひ見ておくことをオススメします。

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 以上 またね***

生きる

生きることを目指してきた いつからかはわからない 単に意味を見いだせなかった いや、自分本来の好きなことをする余地がなかった ただそれをしているだけでいい 別に生きる目的などなくても、それをしていればいい それをすることで飯を食っていくことはできない世の中...