2011年12月26日月曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-3)




本書を読んでいて、ふと浮かんだ言葉というか概念がある。


「責任」だ。


外部に漏れない極秘情報をネットにアクセスできる人ならどこにいてもそれが見れるようにしたウィキリークスの生い立ちから現在までの軌跡をつづっている本書。著者は、それをバーチャル対現実世界や既存の権力者対デジタル世界のエリートみたいに二項対立でとらえているが、それは適切な見方ではないと思う。



その理由を理解するキーワードが「責任」である。



責任なんてそもそもそんなものはない。責任というのは、その社会の価値観を反映したものといえる。



死刑制度のある国は、ある犯罪に対する責任は死をもって償うものであり、死刑制度のない国では同じ犯罪だとしても、死はその犯罪に対する責任とはならない。



その社会への参加証及び保障証のようなものが「責任」ではないかと思う。



「責任」と一口に言っても社会・生活の中で求められる責任は多様である。


よって、責任の機能は一つではなく複合的なものと考えられる。



ある社会に入るには、いろいろな証明等が必要なのかもしれないが、基本は拒否されることは少ないはずだ。しかし、その生活している社会の中で、何かしらルールを破ったり、そこからはみ出したなら「責任」を求められる。それは、今後あなたがこの社会で変わらず生活しつづけられるかどうかのリトマス試験紙となる。



よって社会の数だけ責任の多様性はあることになる。そして、それは社会のルールに対応するともいえる。



さらに言えば、社会といったが、日本という国だから日本にいる我々は皆同じ社会にいるといえるが、それだけではない。都道府県によってもその土地土地でルールはあるし、さらに市町村単位になるとそこにもルールはある。さらに、複数の人が集まると自然とそのグループ内でルールというものはできる。それを破ると、その人はグループから外されてしまう。



我々は多様な社会の組み合わせの中に自分の身を置いて生活をしているといえる。



ところで、社会というのはルールがあるわけだが、それは社会が一つの概念や価値観と同義語ととらえることができるのではないか。つまり、その社会に身を置きたいということは、その社会の価値観に共感したからであり、その構成員たちは社会を見ているというよりかはそのルールを見ているといえないか。よって、人々はなりたい自分やしたい生活をかなえてくれるような社会(価値観)を自分で選んで参加することができる。そのみかじめ料として責任(ルール)がある。



とすると、ここで疑問が湧き上がる。社会を選ぶことは分かった。じゃあ、新しい社会というのはどうやってつくるんだ?つまり、新しい価値観だけでは世の中にデビューしたことにはならない。その価値観の基、たとえ小さくとも、社会を形成しないことにはただの独りよがりにすぎない。




ここがポイント。




ウィキリークスは情報の暴露、情報の共有化という価値観の基、極秘情報の公開を行っているわけだが、それはそれだけでとどまっている。これは既存の社会体制に大きな影響を与えるにもかかわらず、既存の社会にとって代わるようなルールというか責任の取り方は提示していない。ただ単に「俺はこんなことも知ってるんだぜぇ~。すごいだろ!!!」の域を脱しているとは言えないのではないか。



二項対立というからには、ウィキリークス側も、既存の社会体制などに対する代替案をもって、ウィキリークスの目指す情報共有の社会はこうですよと示して初めて既存の社会と同じ土俵に立てる。つまり、そうなって初めてケンカできるのだ。今の状態ではとてもじゃないが対立することにすらなっていない。



二項対立はどっちの社会がいいかということ。資本主義なのか社会主義なのかみたいな。だけど、ウィキリークスは現在の社会を壊す破壊力は持っていながら、破壊した後のビジョンは持っていないように感じる。だから、不発が多いと思う。



ここから時代を俯瞰してみてみると、まだ役者はそろっていないといえる。アサンジは天才といえるが、そのアサンジを動かせる人物、このアサンジの能力を、己の理想とする社会実現のためにうまく活用できる人物が現れるだろうと思う。まあ、アサンジといったが、アサンジ本人かどうかはわからない。しかし、このタブーのない情報共有の技術をどう生かすか、この技術により成り立つ社会を構想できる人物が今後あらわれてくるのではないかと思う。



たぶん、野心のある奴はこの動向をこういう視点で虎視眈々と狙っていると思う。ウィキリークスという駒をどう使うか。ほかにどんな駒が必要なのかなどだ。



こういう奴が、新しい社会をつくっていくのだろう。どうやってつくるのかはわからないが、つくれるだけの能力を持っている人だと思う。



時代の変わり目の現代。だれが次の時代の土台、基盤をつくるのか。



私もその競争に参加したい。



以上
またね***








2011年12月23日金曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-2)




ウィキリークスの将来と言論の自由、そして、誰がインターネット上の支配力を握るのかという問題である。それは21世紀の大きな戦いの一つでもある。新しい可能性を数多く提示し、近代国家のあり方に疑問を投げかける新しいメディア、インターネットをめぐる闘いだからだ。



アナログ世界対デジタル世界、現実の政治対サイバースペースからの挑戦者の闘いでもある。


「ウィキリークスが、スパイ行為の末、情報を公開したことで有罪判決を受けるのなら、国の防衛に関して定期的に情報を公開しているあらゆるメディアがなぜ有罪にならないのか。その法的・論理的証拠がない」



国連関係者に対するスパイ活動を指示し、明らかに違法行為を呼びかけたヒラリー・クリントンの口座も取引停止にすべきなのではないか、という質問については、回答したくないか、あるいは回答できないようなのだ。



学生たちに対して「キャリアを棒に振りたくなければ、外交公電を学業研究に使用しないように」という呼びかけが行われた。



これまで、市民によるウィキリークスへのアクセスを禁止してきたのは、中国のような独裁国家だけだった。だが米国といえば、ネオナチや政治セクトでさえ、インターネットをまったく合法的にプロパガンダに悪用できるほどの自由の国ではなかったか?その米国が、ウィキリークスを制裁しないことには安心できず、米国政府関係者が作成し、各報道機関の編集部が人名など問題になりうる箇所を消した外交公電を公開するホームページへのアクセスを遮断するといった事態は前代未聞である。



ウィキリークスの事件は、ネット上の報道の自由と情報公開をめぐる闘いでもある。二つの世界の対決でもある。政府、検察庁、企業などの既成の権力構造が、デジタル世界のエリートとして最前線にいるつもりの活動家集団と対決している。
活動家たちはまた、ネットの世界における旧来の権力者の支配欲に疑問の声をあげる。彼らは、今回のケースのように挑発されたと感じると、場合によっては非合法の手段まで用いて闘いに加わるのだ。



秘密の暴露は政治システムへの攻撃である。




メディアは、理想的な政治的活動を理解しやすく論じる価値あるものにし、政府の誤った行動を暴き、社会の自然回復へと導く。メディアは、民主主義において、本質的部分を形成するような重大な役割を担っているのだ。



ジャーナリストが目指すのは改革であって革命ではない。



大切なのは、社会の存続に関する問題についての判断に必要な知識を開示することだという。この意味では「よい情報公開も、悪い情報公開もなく、少しだけではなく、きちんと公開されるべきである」



みずからの行動のできるだけ多くを隠しておこうとする政府の思惑と、できるだけ多く公開してほしいという一般市民の要求との間に緊張関係が生まれる。そのとき、ジャーナリストはまず第一に、政府にではなく読者や視聴者に対して責任がある。



国連の世界人権宣言第19条にはこう定められているーー「すべての人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由ならびにあらゆる手段により、また、国境を超えると否とにかかわりなく、情報および思想を求め、受け、および伝える自由を含む」



「彼らは、自分たちの行いについて全く責任をとりません。しかし発した言葉と公開された文書には責任が生じます。ゲームじゃありませんからね」




ウィキリークスのウェブサイトは、何度も意識的に、納得のいく倫理的な根拠もないままに、個人や組織のプライバシーを侵害している



ウィキリークスはジャーナリズムを変え、ジャーナリズムもウィキリークスを変えたのだ。


秘密文書公開のために、検問が不可能なウェブサイト運営のアイディアは、権力分立を補完するものとして、国家の限界を超えた第五の権力になりうる。



私たちは、ジャーナリズムを変えることになるメディア論の議論の入り口にようやく立ったところだ。



ウィキリークスの資料を利用する者は、資料の主な内容や前後関係、より詳しい背景を、自力で解明しなくてはならない。



「(現代のように)国境のない、様々な要素が絡み合った危機の時代には、国民のために調査し、情報を公表するためには新聞や放送局各社が持つ力だけでは、もはや充分ではない」



「誰でも人生は一度きりだ。だから僕たちはこの時代に、何か有意義で、満足できることをやってみるべきだ。ウィキリークスは僕にとって、そういうものなんだよ」



国家機密が増えたことによって、一般の人々からの透明性への要求は高まっている。時代は、ウィキリークスのようなアイディアを受け入れる土壌ができているのだ。



米国政府の反応をみると、政府がウィキリークスの情報公開を、政治を良くしていくための好機とは認識していないことがわかる。ウィキリークス以上に、国際社会において米国の評判に傷をつけたのが何だったのか、考えてみるべきなのではないだろうかーー外交公電の公開や的を射た分析が多い報道と、それとも米国政府の公式の対応や大企業による反ウィキリークス・キャンペーンの果たしてどちらなのか。



ウィキリークス騒動の最後に、どんな情報が公共の利益になり、プライベートの領域のどこから先が保護すべき部分なのかについて、より明確に理解されるようになるのであれば、それこそ価値のある前進である。


以上抜粋


to be continued・・・




2011年12月22日木曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-1)





以下抜粋


私たちが理解しているジャーナリズムとは、出来事を調査し、証拠を追いかけ、できるだけ多くの関係者と話し、読者に分析と文脈を知らせることだ。



ウィキリークスが問題にしているのは、情報の主権を握るのは誰なのかということだ。



ウィキリークスは世界各国の政府から政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何をするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい「役者」が舞台に登場したのである。



インターネットの発達により、告発者の居場所はそれほど重要な意味をもたなくなった。むしろ重要なのは、どこにアクセスできるか、何にかんする情報を持っているかだ。



「学問はより良い目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ」



アサンジは米国に対する反対キャンペーンを展開しているのではなく、特定の政治の形態に反対しているのだ。


ハッカーを評価するときには、容姿、年齢、人種、性別、あるいは社会的地位などを基準にするのではなく、そのハッカーが何をやっているかで判断する。



「鎖につながれている者は、以前にどう行動すべきだったのかが見える」と、アサンジは書いている。「強力な陰謀から身を守るために、我々は前もって考え、そこにいたるまでのプロセスの段階で阻止しなければならない」



「政治の言葉は嘘を本当と思わせ、殺人を立派なものに見せかけ、空虚なものを実質のそなわったものに見せようという意図をもっている」


「ちょっと裏に回ってみれば、もうほとんど犯罪的な政治的取引ばっかりで……世界で起こっていることとか危機とかの、公に出まわっているものとは違う、生バージョンだ」



ウィキリークスのような組織が材料を持って新聞に接近したり条件を決めたがったりするとき、ジャーナリズムはどのようにして独立性を保つか。既知の情報でない場合、その素材の信憑性はどのようにして点検しうるか。



「僕たちに必要なのは、出来事の重要度を整理する機能だ」



アフガニスタン文書の公表が意味するものは米国の軍事氏への斬り込みだけではない。それはまたジャーナリズムの敗北であり、ジャーナリストたちの本能的な集団拒絶をも浮き彫りにした。



ドムシャイト=ベルクは、割に合わない仕事を大量にこなしていただけでなく、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアセンジに対し、客観的かつシステマチックなやり方でうまくバランスをとってくれる大事な存在でもあった。



「公表は透明性を高め、その透明性がよりよい社会へとつながっていく。チェック機能がうまく働けばそれだけ腐敗が避けられ、民主主義は強固になる。こうした目標を達成するためにも、強く、しぶといメディアというのは重要だ。我々はそんなメディアの一部なのだ」



アサンジは、これはまさしく「盗み」や「犯罪行為」であり、コピーは「非合法」なので法的措置をとるつもりだ、と言った。この発言が、ウィキリークス自身の行為にも当てはまるということに、アサンジはこの時点で気づいていないようだった。



「我々だけですべての圧力を引き受けるのは、今回は無理だ。これらの資料はあまりに劇的すぎる」と、アサンジは言った。「我々はこの公開の衝撃に持ちこたえなければならない」



ネット上では著作権があまり意味をなさない。



これらの発言は政治的に大きな物議をかもすと考えた米国政府は、アラブ諸国の首長たちの名前を伏せることを要請した。だが、ニューヨークタイムズ紙もガーディアン紙もシュピーゲル紙も、それを拒否した。大衆には、戦争と平和にかかわる根本的な問題について、どこの元首がどう考えているかを知る権利がある、というのがその理由だ。



情報収集指令の存在が公式文書によって明らかになり、米国政府が諜報活動の手法をどれだけ広範囲にわたって国際社会に用いたのかが、公式に証明されたことになる。



米国は既成事実をつくってしまおうとした。発展支援と称する経済援助と引き換えに、「コペンハーゲン合意」に貧しい国々が賛成するように買収したのだ。



公電は政治の基盤を描き出しているともいえる。



外交公電の公開で、米国政府が立ち上がれなくなるほどの打撃を与えなければ、逆にウィキリークスがつぶされてしまうかもしれないと、アサンジは予感していた。



to be continued・・・



自分と向き合う心理学(食べる読書73-2)




以下抜粋


その代償として「苦しみに向き合うこと」が本来持っている事柄の真相に迫る力を失い、それとともに、苦しみからの復元力や治癒力をも失っているように見えます。



「努力とは何か。きっぱりした意志をもたらすことです。意志とは何か。ある考えが不快であろうとも、それにしっかりした勝利をもたらすことです。またある考えが、とりあえず快いものであろうとも、それを禁止しつづけることです。」



結局、私たちは今の自分のあり方を自分で選び取っている。そして、そのことに気付くことによって自分のあり方を選び直すことができる



「意外感としてのフラストレーション」とは、ある見通しが外れることによる、「こんなはずじゃなかったのにという受け入れにくい気持ち」であり、また見通しが外れたことによって、ある不確かさが生じますが、その「不確かさに揺さぶられ自分を見失うことによる苦しみ」です。



(フラストレーションが非合理的行動に結びつきやすい)一般的理由としては、一連の行動系列中に「意外感」が生ずることが、心的構え(見通し)の柱である計画性を揺さぶり、そのため自我機構全体の計画性を損ない、そこから自我の弱さをもたらし、現実吟味の能力を低くするからであると説明できます。



思いがけない成功に伴う喜びは、結果的に、ニコニコした表面的な笑顔の裏で、自信に乏しい脆弱な自我が育つことにつながりやすいと考えられます。


とかく問題を生じやすい不満感や不快感などの感情を、動機から明確に切り離したうえで、それらの感情への対処を考えることができるので、フラストレーション(意外感、苦しみ)に伴う非合理的行動への冷静な対処が可能になる。



「はずである」とか「べきでない」という私たちの思い込みを揺さぶる、このような思いがけない事態は、私たちに現実への再適応を促しているともいえます。



フラストレーションを感じながらも、いいようのない寂しさの底で、内蔵助は現実の思いがけない新たな切り口に出会い、その確かな手ごたえを感じているようにも見えるのです。



新たなフラストレーション概念「意外感」は、フラストレーションの構造を明らかにすることによって、地図として機能し、現在地と進むべき方向を示すので、私たちがフラストレーション(意外感、苦しみ)を生きる上での、より確かな見通しを与え、私たちを導いてくれるはずです。



「…。敵に向かう時でも攻撃は無秩序ではなく、節度を保ち統制に従わなければならない」
「突撃を必要とする時は怒るのではなく、奮い立つのです」



「怒らない人は被害に動ずることなく、しっかりと立ち続ける。怒っている人は動かされているのです」
「損害の限度は決まったものだが、怒りは私をどこまで運んで行くか知れたものではない」



不当な扱いを受けたという思いと、その思いから自分を怒りへ明け渡してしまうことの間には距離があり、その距離の中にこそ意志の働く余地がある



私たちがもっている感情は、感じられた身体的変化を材料として構成されていますから、私たちにとって身体的変化の感じから分離された感情は想像できないのです。
言い換えれば、泣くことが悲しいという感情の一部であり、殴ることが腹を立てるという感情の一部であり、震えることが恐ろしいという感情の一部なのです。



私たちが聞き分けのない子供に、「いつまでも駄々をこねていてはいけませんよ」と言うとき、子供の感情がはけ口をふさがれて、より強くなることを期待してはいけません。むしろ逆であり、「よく考えてごらんなさい」と言っているのです。なぜなら、感情に流されないことが、よく考えることにつながるからです。
ですから、感情に対処する上で大切なのは、「はけ口をふさがないこと」ではなくて、「よく考えること」である。


感情とは、ある事物が自分に及ぼす影響を評価する体験です。


サルトルの言う「魔術的世界を形成する」とは、不本意な事態の中で、困難から逃げるために、特有の身体的興奮を引き起こし、都合のよい自己正当化をすることです。



「私が彼を憎らしく思うのは、私が怒っているからだ」(浄化的反省)と。つまり「彼が憎らしく思えるのは、すでに私が被害者の立場に立つことを選び、腹を立てるというお呪いによって、彼を都合よく悪者にしているからだ」と。



「罪悪感に浸かる場合には、態度を改めるという困難な作業を避けているのです。態度を改めるより、ただ後悔しているほうが、ずっと楽なのです」
このように、ホーナイによれば、自責や罪悪感は、取り組むべき困難な作業からの逃避であり、都合のよい自己正当化なのです。



「フラストレーションが起きたことが、もともと偏見が抱かれていたことを露呈した」ともいえます。ちょうど、家が倒壊したことが、もともと白蟻の巣ができていたことを露呈するように。



困難な状況に置かれたからといって、必ずしも精神生活が崩壊するわけではなく、自分をひどい目に遭わせた運命を引き受け、感謝することさえ実際にできたのです。



苦しみを抑圧したり楽観論に逃避したりしないで苦しみに向き合うこと。そして、苦しみに向き合うことによって、この苦しみを引き受ける可能性があるのです。それこそ、生命が助かる何の機会もないようなときに、私たちを絶望させない、唯一の思想であると考えられています。



努力とは事柄の全体に沿って認識することです。


苦しみ(都合の悪い現実)に向き合う努力とは、意志と同義であり、快と不快を感じながらも、事柄の全体を見た上で、事柄に沿った認識(見通し、気づき)を産み出すことです。実際的には努力、すなわち意志とは、自分の性癖を都合のよさと都合の悪さの両面から観察し、認識する(見通しを立てる、気づく)ことです。



両面の意味を語り、共に考え続けることによって、認識(見通し、気づき)を産み出し、性癖を自分が選び取っていると気づくことこそが、ゆとりを生み、自分のあり方を選び直すことを可能にするのです。すなわち、そのように気づくことによって、パターン化したあり方(性癖)から新たなあり方へ向けて「何らかの動き」を創り出すこと、これが意思心理学の方法です。



パターンや思い込みは苦しい現実からの緊急避難的な逃避や自己正当化に有用ですが、その反面なんらかの弊害ももたらしている。



「じゃどうすればいいんだ?」と言って、受け身になって何もしないのは、巧妙ないつもの逃げ道です。自分のパターンとか思い込みをよく見て、「いま自分はどうしているのか?」をつぶさに観察できれば、自分の内側から「自分はどうしたいのか」という答えが出てきます。そこから自ずと道が開けれくるのではないでしょうか。



「嫌なことを言われたら、傷ついて当然だ」と思っているから傷ついてしまうのではないでしょうか。自分のあり方が相手次第になっている限り、自分の「心の平安」を自己管理できなくなります。




自己嫌悪すればするほど、プライドは高くなるけれど、現実の自分を踏みつけにしているので、自信を失います。ほかに思いやりも失いませんか。なぜなら自己嫌悪しているとき、自分のことで頭はいっぱいですから、他人のことなど思いやる余裕はないのです。
さらに、自己嫌悪しても、事実に沿った振り返りをしていないので、事態は改善されず、しかも、自己嫌悪はひとりでできるので、ついクセになり、自己嫌悪中毒になりやすいのです。



自分だけは特別だって思っていれば、究極の自己正当化ができます。そう思っていれば、手ひどい失敗をしても本当には反省しないし、人から親切にされても本当には感謝しない。人からいくら愛情をかけられても満足しない。自分だけは特別なのですから。共感も思いやりも本当にはない。



私たちは話をきちんと筋道立てて組み立て、理路整然と話そうとします。そして正論や一般論を言います。また自分を振り返るにあたって、自分の中に「ありのままの自分」を見るよりは、「自分のあるべき正しさ」を見てしまい、結果的に高すぎるプライドを抱え込む傾向そしてあります。



私たちがフラストレーションやコンフリクトを、単に解消するべき対象としてではなく、現実が思いがけず「新鮮な切り口」を提供する瞬間として受け止めたとき、フラストレーション(意外感や違和感や自己嫌悪、苦しみ)やコンフリクト(異物感、苦しみ)は、まだ知らない人生の意味を汲み上げ、人生に新たな動きや深まりを創り出す貴重な機会になると考えられます。



偶然のの幸運で、窮すれば通ずの元の形が、「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず」であることを知った。その瞬間に把握感があった。



以上
またね***






2011年12月20日火曜日

自分と向き合う心理学(食べる読書73-1)





映画仁義なき戦い [DVD]
の中でこういうセリフがあった。


「現実ゆうもんはよう、己が支配せんことにはどうにもならんのよ。」


本質をついているとこの映画を見た当時(2008年)は感じた言葉だった。



しかし、そうではないことをこの本で知ることになる。


我々は生まれてから、社会の中での生き方を学びはする。が自分の取り扱い方については教えてもらえない。まあ、そのほうが社会をコントロールしやすいという理由はあるかもしれないが、だ。



つまり、”現実を支配する前に己自身を支配しているだろうか?”ということだ。



テレビやネット、ゲームなど、時間の浪費と分かっているのにやめられない嗜好はないだろうか。



また、反射的に気分を害する人やモノ、事柄はないだろうか。



好き嫌いともいえるが、それらは意図的に自分で選んだものだろうか。もしそうなら、それらをそう選ぶ意図はなんだろうか。何か目的があってそれらの嗜好を選んだはずだ。そして、それは自分がどんな人生を送りたいかを意味する。



本書は、感情を足掛かりとして自分を一歩引いて、観る客観的視点を得る考え方、しくみを説いている。




以前紹介した悪魔(サタン)への挑戦状―真の人間の価値とは何かも、自分を観る一つの視点を提供してくれた。



似ている部分もあるが異なる個所もあるのではないかと感じた。



本書の特徴としてフラストレーションを切り口に、それらをどう処理していくかについての方法を複数の学者の説を紹介しつつ説明していることが挙げられる。




私が本書で最も目を引いたのが、”知性化の弊害”の部分である。



以前どこかで紹介したが、「状態を表す情報処理技術と動きを表す情報処理技術」につながるのではないかと感じた。



「私たちは生を概念的に分解する習慣に、根深く結びつけられている」
「最初、物事を分かりやすくするために使われだした概念に、最後は物事を分かりにくくしてまで執着するようになる」
「生を概念で理解するとは、生の動きをとめて、生を鋏で切り刻み、その断片を論理的な標本版の上にピンで固定することである」
「私たちは概念からは、どのようにして生が進行してきたか、またどのように進行していくかを学ぶことはできない」
「経験の分厚さや具体性や独特さはすべて、経験してすぐのまだ名前もはっきりしていない段階の中に存する」
「私は概念や言葉では言い表せないものだと自分で言っている当のものを、概念や言葉で記述しようと空しい努力を続け、私自身をも諸君をも疲れさせている。話し続ける限り主知主義が支配力をふるっている。生への帰還は話すことによっては得られない」
「あるいは私は、生のあれだけを指差さなくてはならない。そしてあれが何であるかは、諸君が内的な共感によってこれを満たさなくてはならない」



私が目指すのは、この生の動きを把握するための道具である”動きを表す情報処理技術”を発見するか作り出すことである。それが出来れば現在の問題、環境問題などもある程度は解決できるのではないかと考えている。



そういう意味で、この人間の感情をどう解釈するかという考え、そこから新たな自分をつくり出していく意思心理学は研究対象に値する。



一度読んだだけではまだうまく理解しているとは言えない。ほかの書籍や、本書を複数回読んで理解を深めたい。



to be continued・・・



2011年12月16日金曜日

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ジェームススキナーとは、、、

「アメリカ合衆国生まれ。19歳のときに来日。早稲田
大学で国際ビジネス論を学び、世界最年少のアメリカ
合衆国外交官、NEC、社会経済生産性本部、財務
広報コピーライター、起業家、アメリカ最大級の研修
会社フランクリン・コヴィー社の日本支社長などを歴任。

ベストセラー『7つの習慣』を日本に紹介したことや
NHKにおける論評家活動、ベストセラー『成功の9ス
テップ』(幻冬舎)の著書もよく知られている。

現在、有名経営コンサルタント、人気セミナー講師、
ベストセラー作家、一回の指導だけでも劇的な変化を
もたらしてくれる成功コーチのスーパースターとして
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2011年12月13日火曜日

■プラス思考の落とし穴

何故、ある人はプラス思考で成功するのに、
ある人はいくらプラス思考で考えても成功しないのでしょうか?


よく成功の秘訣はプラス思考で物事を考えると言われます。
しかし現実にはプラス思考で考えてみても
そう簡単に成功しないことがほとんどだったりします。


なぜでしょうか?


それは頭では一時的にプラス思考になったとしても
面倒くさい、後回しにしようといった本来の素の自分が
心の奥底に住んでいるからです。


そして、この戦いはだいたいの場合
プラス思考の敗北に終ってしまいます。


メンタルアップのセミナーに行ったり、本を読んだ後は
プラス思考が優勢ですが、徐々に素の自分が勢いを取り戻してしまいます。


つまりモチベーションや感情に左右されているということ。
そして人間である以上、絶対にマイナスに捕らわれることがあるからです。


感情に左右されている限り、
一旦マイナスのトンネルに突入してしまうと
不安になって
「自分はどうせできないんだ」
と自分の能力のせいにしたり、
うまくいかないのを他人のせいにしたりしてしまう。


「思考は現実化する」とはよく言ったもので
こういうマイナスの思考に入ってしまうと当然マイナスの行動が起こり
マイナスの結果が生まれてしまうんです。


プラス思考と言っても結局は感情に振り回されてるだけなんですね。


ではモチベーションに左右されずに確実に行動を起こすには
どうすればいいでしょうか?


これは誰しもが持っている「あるもの」を使うことで
モチベーションに頼ることなく
あなたの行動に一大変化を起こすことができるようになるのです。


その「あるもの」とは?
続きはこちらをクリックしてください。
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2011年12月10日土曜日

■東大やる気レポート無料プレゼント

もしあなたが「やる気」を出して人生を変えたい、
部下や子供から「やる気」を引き出したいと思っているなら
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このレポートの作者は偏差値93、東大理III合格、
東大家庭教師として1000人以上を指導した吉永賢一さんです。

彼は幼少時よりつねに最適な勉強法を模索し、
センター試験では物理を3分で解答し満点、
代ゼミ模試では数学を5分で、英語を8分で解答しそれぞれ満点、
宅地建物取引主任者試験も5日間の準備期間で合格しています。

彼は短期間で生徒の偏差値を50から70に上げたり、
人に教えるプロなのですがそんな彼がエッセイ形式で
書いたのが今回あなたに紹介する無料レポートです。
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吉永賢一さんは、これまで東大家庭教師シリーズとして
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今回のレポートは無料で読むことができます。

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2011年12月9日金曜日

最高の自分を生きる(食べる読書72)




まだ失敗を失敗と認識しない子供時代とでも言おうか、前しか見えていないというか、自分の存在にほんのわずかの疑いもないような状態、たとえ自分の命が危険にさらされていようともだ。



そんな感覚を読んでて感じたのが本書である。



ノウハウ本ではありません。



深く、そして人間はどこまで己を高められるのかについて、過去の人物を例に挙げながら示している。




悟りの境地。「我」がない。私とその他は一つというような境地。そして、私はすでにそれを成しているという穏やかで自分がどうこう出来るというレベルではない次元での確信があると理解している状態。



もうそこには主体と客体はない。



欲にまみれた私ではありますが、かっこいい生き方があります。



一つだ!一つがすべてに通ずる。



己の人生という一つを。



その中で何を成すかではなく、人生を何を成すことで表現するか。「私の人生はこれだ」と。



一つではあるが、それはすでにすべてを内包しているという逆説を味わいたい。




以下抜粋



優秀なプレイヤーであるほど、スランプに陥った時の悩みは深い。そんなとき「リラックスして」とか「大丈夫だよ」と気休めの言葉をかけても何にもならない。選手は強いプレッシャーによって生じる不安やあせりをどうすれば解消できるかが知りたいのだ。




「そんな(克服する)方法はないんです。プレッシャーを感じながらバッターボックスに立つしかない。それで結果を残していくことで、解き放っていく。その方法しかないですね」




善い射に喜ばないことを付け足しなさい。快と不快との間を右往左往することからあなたは離脱せねばなりません。あなたはむきにならない平静な気持で、そんなことに超然としているように心がけねばなりません。すなわちあなたでなくてまるで別の人が善い射を出したかのように喜ぶことを心がけるのです。




技芸に励むのは、技量を身につけるためだけではない。「人間の変容」こそ目指すものであった。「道」の奥義に達すると、もはやそれ以前の自分とは違った人間になる。物事を見る「別の尺度」を手に入れるからだ。





「古を稽える」-そこに、ただのレッスンや練習とは違う味わいがある。そもそも世界の文化文明の大半に「進歩史観」などなかった。




外からは演じ慣れたように見えるのは、稽古のときにセリフをよく覚えて、初日には根から忘れてしまうのだ。舞台に立って相手のセリフを聞き、その時に思い出して自分のセリフを言う。…。相手のいう言葉を聞いて、初めて返答が心に浮かぶものだ。芝居とはそうした日常がお手本と考えるから、稽古ではよく覚え、初日には忘れて出るのさ。





妙技とは、その達人の域に達した人間が「媒体」となって、超越者の力が引き出されたものにほかならない。




内観法で自分を見つめるときには、自分の身の回りの親しい人々が反射鏡のような役割をしてくれる。この人たちから受けた恩、親切、愛情、信頼といったものを丹念に調べていくと、自我の壁が破れてきて、「あまりにもお粗末な自己」と出会うのだ。その時のショックは、感動へと変わって高まる。





存在から来たものに対して、意識なんかでは返せない。これがわかってくると、頭が自然に下がってくるんですよ。





至高体験によって、生き方や人格が大きく変わった人は少なくない。そうした人の多くは精神が統一し、あるがままの自己を自分の存在として認めることができ(自己欺瞞がない)、能力を十分に発揮して、責任ある行動をとれるようになるようだ。




達人の心境(あるいは至高体験)が日常的ではないということは、日常=習慣を突き破ったところにその心境がある。





よくなりかけると、とんとん拍子によくなり、下り坂に向かうと、一足飛びに下る。なぜ、そうなるのか。
それは、人間にかかわりのあることは、すべて「心が先行する」からである。心が先で、物は後であり、事はこれについて行く。風が吹くと、木の枝が動き、音がする、波が立ち、波の音がする。音が先にしたから木の枝が動いたのでもなく、木の枝が動いたから風が吹いたのでもない。





世に、「恩を忘るな」ということがやかましく言われるのは、本を忘れるなという意味である。食物も、衣服も、一本のマッチも、わが力でできたのではない。大衆の重畳堆積幾百千乗の恩の中に生きているのが私である。このことを思うと、世のために尽くさずにはおられぬ、人のために働かずにはおられない。




絶対者を求めて、これに没入しようとするのが宗教であり、真理を追及して、これに乗託しようとするのが科学であり、善を究明して、調和至純の人生を創造しようとするのが倫理であり、美を探究創作して、自己を生活の名優たらしめ、人生を美の神劇としようとするのが人間の芸術活動である。





ただ享楽にうつつをぬかす楽しみ事は、趣味でも余技でもない。ましてや「生活の空所」には当たらない。非日常の時間でありながら、それが愉しみながら心を磨く(心境を高める)行為として日常としっかり結びつくときに「生活の空所」となるのだ。




目が覚めたらその瞬間、さっと起きる。床をけって、さっと起きる。それから時計を見る。「時計を見て起きるようなことではいかぬ。早過ぎたらあらためてまた休め、目の覚めるという事は何か必要があって覚めるものだ」と。




実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、実践ではなくなってしまう。直観による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。




ささやかな実践のようではあっても「即行」に徹していくと、大宇宙の一部である自分が、宇宙の叡智というべき直感を介して、超越的な次元(「ゾーン」)と呼吸往来している自覚がわき起こってくる。日常と非日常がそこで切り結ばれるのだ。




技芸や人生の「道」を真摯に窮めようと挑んだ達人たちが、かつてこの国にはいた。今日でも、達人の域に達しようと励んでいる人たち、あるいはさらに高い境地を目指している人たちがいる。
そうした人々の姿に触れるだけで、胸中に温気の膨らみを覚える。市井に生きる凡人のわれわれでも、一途に努力を重ねれば、それなりに深く生きられることを、彼らは教えてくれる。




日本語ほど超越者が無意識に想定されている言語はない。主語がなくても通じること、自動詞が多いことにその特徴が表れている。「知る」という言葉一つとっても、それは対象を認識するだけでなく、相手と一体になることを意味している。「元は一つ」という意識が、日本語のそうした言葉の内に秘められている。




以上
またね***





2011年12月7日水曜日

稼ぐ人の「答力」(食べる読書71)




画家は絵によって自己を表現する。

音楽家は音楽によって、小説家は文章力で、学者は論理によってそれぞれを表現する。


表現する手段は職種によって異なるが、己を表現することは同じ。



また、その業界でトップになるのなら、同じ手段を使ってはいても表現する内容は異なっていないといけない。



では、一般のビジネスマンは何によって自己を表現するのか。その答えが本書で紹介されている「答力」である。




これは私の意見なのだが、よく職場に「~三か条」「~の規律」などといった張り紙というか、ポスターというかが張られている職場がある。たいていこういう職場は成績が悪かったり、職場環境がよくなかったりする傾向にあるように思う。




なぜなら、トップの人がその職場の問題の解決を張り紙のみで処理しているということだと考えるからだ。



いつの時代やねん!!と突っ込みたくなるが、やれやれだ…。



ある商品を10万個作ってすべて売れる市場は日本にはもうあまりないのではないか。ただ、ある条件を満たせば売れる時代ではなくなって多品種少量の時代になっているし、サービス業なんかもう最たるものだろう。




今もそうだが、学校教育はどれだけ大量に覚えるかが評価の基準だった。それは、どれだけ与えられた条件を満たすかの競争である。




しかし、ビジネスの場ではどの条件を満たせばいいのかというところから自分で答えて、その条件を満たすところまでが仕事といえる。




ですので、学校優秀者というか、学校を絶対的価値ととらえている人はビジネスの現場にはたてません。あなたは事務職です。与えられたことを迅速かつ正確にこなす作業員です。だけど、ロボットやコンピュータと競合しちゃうんだよね。しんどい…。




学問は言葉で論理を表現する。だから、一定水準の教育が日本全国どこでも可能である。つまり、何かを教えるということは、そういうこと。




しかし、何か能力を身につけるということは、教科書では伝わらない。つまり、広範囲に大勢の人に身につけさせるのは今のところ難しい。本書はそういうたぐいの能力について述べている。




だから、これがこうなってこうなり、そしてこう変化して最終的にこうなる。といった教科書的なものではない。だから、本書からどれだけのことを学べるかは、読者自身の経験をミックスさせないと学べることは引き出せない。




行間を読む力が問われる本である。




そして、本書からの収穫はこの力に比例する。



以下抜粋


聞く人は、求めている解答のすべてを把握しているわけではないのです。




芸能事務所、音楽業界、映画業界など、外部からの様々な依頼や相談に関しても、それが番組のためになるかならないかを終始考え、受ける受けないをその場ではっきり答えるわけです。



スタンスというのは、どこを目指していて、どんな人間になりたい、どれくらいのレベルの人間になりたいと考え、それに合わせていまどんなチャレンジをしている、あるいはどういう気持ちで仕事をしたいと思っているのか、という状況です。




現在の情報産業界で成功しているのは「生の人間の答」をネット上で生かした企業です。




より相手の要望に応えたいのであれば、あなたはそれを探す必要があります。これが「想定する」ということです。



重要なのは本当に「相手のため」を考え、「自分の価値観」の中で相手に対してできることを実行する、という点です。




答力が誰のためにあるかといえば、自分のためです。
自分を捨ててまで、相手に合わせるものではないのです。




わかりやすくたとえることで、相手はイメージで答えを描くことができます。そしてそれをスムーズに行うためには、普段から答える練習をするしかありません。



ファッションに限らず、接客の現場では価格以外の付加価値をいかにプラスするかが求められます。上手なトークはマニュアルで会得できますが、心を動かすトークにはマニュアルがありません。



ビジネスにおいて、絶対的な答えはどこにも存在しません。




自分で考えたことや、相手を見据えた上でのアイデアを、その都度、満点である100に付加価値として乗せていく。そして、ベストな答えをつくり出していくのが「答力」なのです。




「20パーセントは会社の思想、残りはそれぞれがつくってください」




「売り」というのは、もともと自分自身に備わっているものではありません。
「答力」によって、自らつくり出すものです。




「商品=本体的価値×価格×ブランド×情報×理念」




自分にも相手にも、もっとも望ましい答えを探すのが理想的なビジネスです。それが達成できれば、お金は自然に入ってくるのです。





コンセプト共感型来店モデルのビジネスは、お客さまが質問する前に「私たちが出す解答はこういうものです」と、あらかじめ答えを出してしまう形の営業です。





普段からできるだけたくさんの情報、できるだけたくさんの知識を、頭の中にインプットしていくことが、そのまま答力を鍛えるトレーニングになることは確かです。





自分の理念が固まるだけでなく、その理念に深い自信がついてきます。
この自信は、答力の土台である情報そのものが自らの足で集めたオリジナルな情報であるという事実、そして自分でそれを見て考えるという経験からくる実感、さらにそれを誰よりも自分は持っているという確信が生むのです。





固定観念というのは、ありとあらゆる場所で、人の思考をストップさせているのです。





問題はいつも、目の前に提出されています。
それに気づくには、普段からあらゆることに問題意識を持つしかありません。




会社がどうだろうが、ビジネスの現場では答力のある人しか成功できなくなっているのが、今の世の中なのです。




人は会社が修行や研修という名目で育てるものではなく、責任ある仕事とお客様によって育てられるものだからです。




上司にとって重要なのは「長所を伸ばすように褒める」ことです。




成功する会社が社員に提供している最大のものは「夢」です。
そして社員も自らの答力を発揮し、会社の夢に応えていく。



以上
またね***





2011年12月6日火曜日

神田昌典氏がその情報源を遂に公開!

あの日本一のマーケッター神田昌典さんが
遂にその情報源を公開しました。
http://123direct.info/tracking/af/346595/1Oyur88h-rFzN0Fm4/


まぁ、神田さんの説明は不要かもしれませんが、
日本にダイレクト・レスポンス・マーケティングの
概念を持ち込んで大成功。


それだけでなく、多くの起業家にも
それを教えて成功させてきた人です。


私を含め日本のほとんどの起業家に影響を与え、

「あなたの会社が90日で儲かる」や
「60分間企業ダントツ化プロジェクト」

といった本でビジネス書では異例の
累計200万部も売れたカリスママーケッターです。


そんな神田さんが、なぜビジネスで成功できたのか?


もちろん神田さん自身、MBAを取得したり
英語がペラペラだったりするので
大変能力のある方であることは間違いありません。


しかし、そんな人は世の中にごまんといます。


なぜ、神田さんだけが成功できたのか?
そこにはやはり「秘密」がありました。


成功は運や偶然だけじゃなくて
やっぱりそれなりの「理由」があったんですね。


私も気になったのでさっそくチェックしてみました。

ちょっと時間を取って見てみてください。

http://123direct.info/tracking/af/346595/1Oyur88h-rFzN0Fm4/

2011年11月12日土曜日

マーケティングで最も重要なこととは?

http://123direct.info/tracking/af/346595/ynqsCp1V/

マーケティングにはいろんなプロセスがありますが
最も大事なことはなんだと思いますか?


集客でしょうか?
広告でしょうか?
商品でしょうか?


もちろんどれも大事です。
ですが、最も重要なのは現金化です。


いくら集客しようが、
いくらいい広告を作ろうが、
いくら商品の品質を上げようが、

現金化できないビジネスは死んでしまうからです。


アメリカで唯一天才と言われたマーケッター
ジェイ・エイブラハム。彼の懐刀と言われた
ジャネット・スウィッツァは、

ジェイと一緒に歩んだ長いビジネス経験に基づいた
この現金化戦略を一冊の本にまとめました。


この本は最前線で活躍した彼女だからこそ分かる
現金化のアイディアが満載です。


マーケティング上級者なら
この本をパラパラめくるだけで
儲かるアイディアが湯水のごとく湧いてきます。


これからマーケティングを学ぶ人でも
この本を読むことで現金化戦略の基礎知識が
しっかり身につく「教科書」として
使うことができるでしょう。


とてもオススメの本で、
返金保証も付いているので
是非試してみてください。

http://123direct.info/tracking/af/346595/ynqsCp1V/

恥知らずのパープルヘイズ(食べる読書70)




小説プロジェクト“VS JOJO”の第一弾として書かれたもの。


ジョジョファンの一人として、こういうものは大歓迎。



著者の上遠野浩平さんの本は読んだことないが、よかった。



物語設定は、おそらくファンからの声が多かったフーゴのその後にしたのだろう。



読んでて感じたのは、小説というか文字のみというのは、文字+絵の漫画に比べて細かい心情描写が可能なのだなということ。おそらく著者の技量によるところが大きいだろうがそれは感じた。あるいは、漫画でそれを表現してはいるのだろうが、それを我々読者が汲み取れないか、あるいは汲み取っているが無意識で自覚していないのかもしれない。


どちらにしろ、優れた異なる表現者が同じ作品の世界観を表すとどうなるかという違いを感じられた。



しかし、この試みからわかることはすでに答えとして出ていることの再確認にすぎないと感じたのは私だけだろうか。



すなわち、パンナコッタ・フーゴはジョジョには似つかわしくないキャラクターである。ということだ。



だから、第五部から途中で脱落させた。



確かにジョジョの中で仲間が途中で自分から仲間を外れるということはなかった。なぜなら、ジョジョのテーマとして人間賛歌があり、それは濃いキャラクターとして表現することで、やるというなら何が何でもやってやるううう!!!という人間の悪い面を踏まえての、かつ前に進むという姿勢を表すと思うからだ。



また、スタンドというものはその人の性格や性質を具現化したものとして描かれる。



よって、フーゴのスタンド能力はなかなか正義へと昇華させにくい面がある。



この矛盾。



主役側の人間は、じつはそいつ自身の中で主役側が対立する相手の性質をもっている。だから、そいつが主役側にいること自体、何かおかしなことになり、話が進まない。



単純に言えばキャラ設定の間違いともいえなくもない。



しかし、いちジョジョファンとして、それは考えたくない。というか、フーゴを登場させることで何を表現したかったのかを考えてしまう。



第五部のテーマとして、社会から不遇にされたとしても、それでも自分が進む道には何の影響もない。己の道は己の信じることによって定まる。そのためにはそれなりの覚悟はいるが、それが真実の生き方。



私なりに解釈するとこうなる。(ちなみにこれをもっとも表していたのは、主役のジョルノではなくブチャラティだと思っている。)



なにかを表現するには、やはりそれに対するアンチテーゼとでもいおうか、それと比較する対象があったほうがより伝わりやすくなる。



つまり、ブチャラティ達のような“目覚める奴隷”に対してのアンチテーゼとしてフーゴを配したのではないか。




第五部連載時は90年代後半。当時、失われた10年真っただ中。バブル崩壊後何にも有効な手を打たず、人々もその厳しさを今ほどは感じていなく、ただその延長線上で生活していた。何かをしないといけないが、初めて直面することなので動けずにいた。今は独立は社会的に少し認められてきたが、当時はまだまだそんな風潮ではなかった。(うまく時代を捉えているとはいえないが、私なりに思い出してみた)



そんな時代背景にあって、第5部のテーマにするにはやはり、フーゴの物語の中での役回りは大きいと感じる。


みんながみんな独立に踏み切るのなら、ただの喧嘩だ。派閥争いの物語に成り下がってしまう。


しかし、ジョジョは人間賛歌であるため、人間の弱さを、今回はフーゴに演じてもらったといったところだと思う。



己の道を突き進むのは大切だし、それが正しい。しかしみんながみんなそれができる訳ではない。それが現実。だが、そんな世の中でどう生きるかを決めるのは、やはりあなたなのだ。ということを第5部では言いたかったのではないかとこの本を読んで感じた。



皮肉だが、巧い表現者がフーゴについて語れば語るほど、その弱さに直面させられ、それを表現することはそのままジョジョの否定につながるように感じて、読んでてなんだかしっくりこなくイライラした。



再確認にすぎないと書いたが、やはりこの本はいいと思った。好きではないが。第5部は、その世界観の中に何かしらの悲哀がある。登場人物はみんな若いのにである。それを今回は思い出させてもらった。おそらく、10代後半から20代にかけて直面する現実社会の絶望的な側面。だが、それらを飲み込んで自分のものにして人は生きていくんだということを、改めて感じさせられた。



戦闘シーンは良かったと思う。だが、やっぱりなんか暗いんだよなぁ~。



以下抜粋


うまく行かないのが人生だ。まずはそれを受け入れることだ。そこからすべては始まるのだ。たとえ他人が自分が期待していることをしてくれなくとも、予想と異なる行動に出ても、それを認めることだ。君のようにすぐにキレて周囲に当たり散らすのは最悪だ。それではなにも生まれない。そこには荒廃しかない




心に罪悪感がある限り、君の能力は外れないーーそうなのだろう?だからだよ……私に罪悪感はない。常に心の中で、その真実を背負って生きているから、今さら君に暴露してもらわなくとも、いつでもその声を聞いているのだよ




あのときのブチャラティに、フーゴは苦しんでいるのだなと感じたが、同時にこの苦悩をも乗り越えてさらに強くなるのだろうとも思った。それは間違っていなかった。それからブチャラティはますます組織の中で確固たる地位を築き上げていっていたし、周囲の矛盾との折り合いをつけるのも巧みになっていった。なんの心配もいらなかったはずだった。
・・・
わかっていたはずだった。
ブチャラティが平気ではなかったことは。
ゆっくりと精神が死んでいくだけと悟ったかのような、あのときの眼ーーブチャラティにあんな顔をさせた原因は“麻薬”だった。




この世には、正しいとか間違っているとかを決められないことがあまりにも多すぎる




重要なのは今の軋轢じゃあない。その力で目的に挑むことであり、未来を築くことなのだから。



君はさっき、自分でなくてもよかったのではないかと言ったがーーそれは話が逆なんだよ。まず、君の問題があって、他のことはその次に来るんだ。君こそ最優先事項だったんだ




自分にとっての勇気がなんなのか知ることーーそれを一生かかって探っていくのが、すべての人に科せられた宿命なんだ。それは扉のようなもので、自分で開けない限り、決して道とは気づけないーー君は今、その扉の前に立っている。そこまでは辿り着いた。後はーー君次第だ



人はよく「大きな善のためにはわずかな悪はやむを得ない」というが、そんなものはその悪と直に接してしまった人間にとっては何の関係もない。逆にその“大きな善”とやらが、その人にとっての悪になってしまう。そしてそれへの対抗が、さらなる血を流すことにつながってしまう。ここで問題になるのはもはや善悪ではなく、ただの恨みつらみだ。



過ちを認める勇気、自分を貫き通す勇気、どちらも勇気なのだが、しかしそのどちらが正しいのかは決めがたい。様々な状況があるだろうし、様々な違いがあるだろう。だからここで重要なのは勇気を出したからという満足などではなく、その結果、何が失われていくことになるのか、それを見極められるようになることだろう。



以上
またね***



2011年10月28日金曜日

お金と人生の真実(食べる読書69)




「お金ほしいなあ・・・。」と思う時って、特に何か具体的な目的があることは少ない。


ただなんとなく、あれもしたいこれもしたい、あれもいいなといった自分の揺れ動く心に翻弄されているだけ。


その為に、何にでも使えるお金があればオッケーという思考。


もうその時点で人生がダメなんだよなあ…、お金云々じゃなく。


幸せって、ただの感情だし、自分で選択できる。


だが、いまの社会はお金の循環する経済で成り立っている部分が大きい。


そんな中、お金と自分の人生をどう結び付けるか。いや、お金とどんな関係を築けばいいのか。お金に対する正しい考えとは。


本書はそれに対して答えているし、そういう視点で書いている。


一回読んだだけではいまいちぴんとこないが、その言葉や考えはお金に翻弄されてはいないと感じる。地に足をつけて生きてきて、時代の趨勢と今後の未来へも目を向けてきた人の見いだせるものだと感じた。


特に、お金に種類があるということ。言われてみればそうだなと感じた。ハッピーマネーを量産するぞ☆彡



明るい未来がそこにあることを感じさせる。



以下抜粋


稼ぐお金と使うお金の金額によって、その人のおおよその生活のスタイルが決まってくるともいえます。



大切なのは、お金とのつきあい方であって、稼ぐ金額や資産ではありません。



人は、お金がないためにお金の奴隷になるわけでなく、夢を生きる力を自ら明け渡してしまうために、お金の奴隷になってしまうのです。



何がほしいのかをはっきりさせて毎日を生きなければ、社会の価値観に洗脳されてしまいます。そのためには、自分の人生の優先順位を明確にしておくことです。



莫大な資産を相続しても大丈夫なのは、自分でお金持ちになる才覚があったり、お金のパワーに動じない子供だけなのです。



お金自体は、人間が考えた単なるシンボルですが、そのシンボルに見いだす幻の力によって、お金は他の何よりもパワーをもっています。



現代の資本主義のもとでは、それぞれの利益団体が自分たちの利益を主張するので、全員がハッピーになるポイントを見つけ出すのは、簡単ではありません。
資本主義が否応なしに変化していく時代には、それぞれの地域、社会システムで、一番バランスのいいポイントを見つけ出していく必要があります。



どういう感情を感じながら、稼いで使っているかも大切なのです。
自分の人生を流れるお金の量と質が、その人の幸せと豊かさを決めるのです。



人間的なふれあいは、金銭以外のところで発生します。



あなたが友情を実感したり、示せるのは、長いつきあいの中でも、いくつかの場面だけです。



今の人生に自然と感謝できる人、そんな人が幸せだと思います。



一番ありがとうカードをもらった人は、「一番ありがとうカードをあげた人」だったそうです。これが、感謝の法則、幸せの鍵だと思いました。



自分のお金や仕事に対する観念が、人生をつくっているという仕組みが見えてきます。



私たちはたいてい、自分の中にある矛盾と折り合いをつけながら、生活しているわけです。



お互いを愛していれば、相手を理解しようと努力するものですが、ことお金に関しては、どちらも譲らないことが多いようです。なぜなら、それはその人の生き方の核心にふれるものだからです。



投資の観点からみると、経済的に自立して両親に仕送りをしてくれるような子供は、資産です。迷惑ばかりかけるとしたら、その子供は親にとって負債になります。



高級品を自由に買える経済状態を身につけることと、高いセルフイメージをもつことは関係ないと知ることです。
セルフイメージが高い状態とは、自分には価値があるとしっかり認識できている状態です。高級な物をいっさい持つ必要はないのです。



お金を貯めることにフォーカスするのではなく、「お金を動かす力をつける」ことにフォーカスするようになりました。



手元に1億円残すことから、一億円の流れを生むことに意識がシフトすれば、年に1億円を稼ぐこともできるようになります。


彼らは、限られた時間、エネルギー、お金をいかに効率よく使うかに意識を払い、少しずつ人生を変えていったのです。



自分の人生と向き合って、本当にやりたいことを見つけ、それをプロのレベルまで高められれば、経済的自由が実現します。



お金のトラウマや家族関係の癒しが進むたびに、不思議に経済状態がよくなっていったのです。



お金持ちの人たちは、この世界にはお金がたくさんあって、自分が望めばたくさん手に入れられると語っています。



その人が、お金を自分の楽しみだけに使っていたら、それ以上その人が豊かになることはありません。しかし、その人が自分がもっと人に貢献できるようにお金を使っていたら、その人の収入はまだまだ増えるでしょう。



お金を自分とまわりの幸せのために使っている人は、年齢を重ねるにつれ、幸せに、豊かになっていきます。



経済を別の角度でみていくと、グループで固まって活動していることがわかると思います。お金持ちは、お金持ちどうしで豊かなサイクルでお金を回しながら、ますますお金持ちになり、豊かさから切り離されている人たちは、お金の流れのほとんどないところで、グループをつくっているのです。



これからの時代は、仕事やお金に忠誠心を尽くして人生を捧げている、これまでの大人たちの常識を軽々と超え、人生の主導権を取り戻し、自分を中心にして、なおかつ人の役にも立って生きていこうとする若者たちが、つくっていくことでしょう。



自分の大好きなことを追いかけてください。人生でもっとも大切なものにフォーカスすることです。自分の大好きなことを追いかけてください。それさえやっていれば、ほかの余分なことに惑わされずに済みます。大好きなことは、あなたが努力せずにできて、一番世の中に貢献できることです。



お金に、あなたのすばらしい人生を邪魔させないでください。家族、友人、子供、両親との間にお金を介在させると、せっかくの愛情が台無しになってしまいます。



つまるところ、人生は思い出でできています。そのために、お金と時間を使ってください。将来が不安なために今あるお金を使わないという生き方は、寂しすぎます。


以上
またね***



賢者の言葉

今日は、日本初上陸最新コンテンツプレゼントを用意しました。

オフィスなし、スタッフなしで年商25億を達成した、
アメリカでいま大活躍中のネット起業家
エブン・ペーガンの「最速で10億円を作る方法」です。

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日本のネットマーケティングの元ネタは、
そのほとんどはアメリカから輸入されたものです。

つまり、元ネタにいかに早くたどり着くのかで、
先行者利益のチャンスが得られます。

エブン・ペーガンは2001年から
オンラインビジネスに参入し、
10年間トップを走り続けているネット企業家です。

彼のノウハウは、1000人を超える起業家を育てています。

自分の思うがままに時間を生み出すコツや
永続的にお金、利益、価値を生み出す方法
情報ビジネスで成功する法則など
最新の情報が得られます。


出版との連動企画で、期間限定公開のようです。
早めに手に入れることをお勧めします。


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以上
またね***

2011年10月26日水曜日

奇跡の教室(食べる読書68)




「一流って何だ?」と思うことがある。


何をもって一流となるのか。


例えば、イチローは一流だろう。だが、野球に関して詳しくない私はイチローのどこが一流たるゆえんかはわからない。ただ打率がいいことくらいか、そのプロ意識を反映した生活の徹底ぶりなどが分かるだけだ。バッティングの技術については全く分からない。だが、バッターとしては一流なのだろう。


専門家と似ているが、一流というのは細かいところまで区別・分類が出来るのではないかと思う。


なので、一見何の違いもないただの内角ストレートもそれがどういう球なのか瞬時に区別でき、どういうふうに体重移動し、バットを振ればいいのか、その際の腕の角度なども区別できることをいうのではないか。


つまり、普通の人が見えないものも見えている。そのほんのささいな違いに大きな違いが込められていることを知っている。それが一流なのではないか、と今のところ結論づけている。



本書は橋本武先生(通称エチ先生)のユニークな授業を取り上げている。


それは、一冊の文庫本を三年間国語の教科書として勉強すること。


この授業はまさに一流の素質を育てる授業ではないかと感じた。


ただ字面だけを追うのではなく、その時代背景・文化・風俗などを含めた上で、その文章はどういうことを表そうとしているのか。


まさに行間を読む能力を育てる。


こう、一言で表すにはとても表せられないが、その奥深さ、その大事さ、を本書を読んで感じてほしい。


以下抜粋


押しつけじゃなくて、生徒が自分から興味を起こして入り込んでいくためには、“主人公になりきって読んでいくこと”がまず必要だと思っていました。



いま思うと、橋本先生からは”センス”を学んだんです。気付くセンスこそが国語力なんだよ、何歳になっても、受け取る感性があれば人生は楽しいんだよって



この人のようにしゃんと生きなくてはいけない、そんな大人への憧憬を最初に強く抱いたのが橋本先生です



自分のほうから気持ちを起こして求めていけば、古くからの遊びや慣習や地方の言い伝えや年中行事、つまり私たちの生活周辺のことは、結局、ぜんぶ国語の力になると思うんです



「大物一点豪華主義」というのは、本物=質の高いものを徹底的に吸収することが、その後のすべての基礎をつくることになるということです。



「味読」というのは、その人の世界に深くはいっていって、それを自分の世界にまで引きつけていく。読書自体が体験になる読み方です



生徒たちは、一つのものを長くやることによって、研究することはただ読むのではなく、細かな、見逃しそうな点に目をつけて、それを分析して調べてみることを理解していったのでしょう。



一つのものを深くまで研究し尽くしたこと、そのこと自体が自信になっていくんですよ。



やはり、大物と徹底的に馴染むということです。



最近の調査で、小学生の家庭で、たとえば“端午の節句に、ちまきを食べる”とか、“冬至の日に、ゆず湯に入る”といった日本の歳時記を実践している家庭の子は成績がいい、という結果が出ています。



国語はすべての教科の基本です。”学ぶ力の背骨”なんです



“奇跡”とは短時間の生成物ではない



最低でも半年、自分の興味を定点観測することで、自分の方向性や新しいテーマ、そして何より、いままで知らなかった自分の個性に出会えるはずです



好きなことに、本気で思いこんで脇目もふらずに取り組めば、きっとそこには道はできるということを君たちに教えてもらった気がします



情報の量、そして“時短”が重視される時代になっていた。
言葉からイメージを広げる機会は、日常から次第に減っていった。



遺された蔵書には、調べたこと、疑問、反論、自分がそこから新たに考えたことが余白にびっしりと書き込まれている。書物との対話を通じて自らの思想を深め、海外で、複眼を身につけていったのだ。



すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる



先を急ぐより、物事の本質を掘り下げて、その根本原理、その背景にある理由を探求することが大事なんだ



天安門のときは、中国側の証言者全員が取材拒否と言ったけれども、NGと言った理由を番組にすれば、別のすごい番組ができるんじゃないか、と思えたんですよ。



ある一つの言葉にこだわることで、その背後に大きく広がっている概念や感覚や考え方と、つながってくるわけですよね。



その言葉が、社会の現実の中でどのような位置にあるのか、どう絡んでいるのか、それが例えば歴史的にどういう背景を、あるいは意味を持っているのか、そういう全体的な構造の中で情報をじっくりと捉えていく。で、そこではじめて知識になってくると思うんですよね。



絵を鑑賞するのと同じような美しさを感じるというのが、学問の世界でも大切だと思うんです。



知識というものを理屈だけでなく、そういう美的感覚、感動までも伝えられるようなやり方ができればいいですね



重い課題などはやはり小さなことから順番にひも解いて、関連をつけながら、その問題の性格っていうのを理解していきますね。



10代の勉強を“孤独な闘い”で終わらせたくない



諸君の卒業とともに、一体多の関係は一対一の関係に切りかえることができる。いまでこそ大学入試の重圧下に物を見、物を考えざるを得ないので、自分と大学とをつなぐ一本の強靭な糸にしばられた視野の狭さは争われないであろう。広い野に進み出た時、また“灘”をふりかえってもらいたい。



教室での関係はすでに終わった。授業料でつながれていた束縛はなくなった。目に見えない校則でしばられていた枷は外された。嘗て教室で国語を手がかりとする教師と生徒であったという、精神的な連帯感だけとなった。これから、諸君と私との間に、新しい楽しい関係が生じなければならないと思う。是非、そうしてほしいと思う。



一緒に「銀の匙」を読んだ生徒がねえ、還暦過ぎても、みんな前を向いて歩いている。それが何より嬉しい。それを知ることができて、ほんとうによかったですわ。「結果」が出て、よかった



「銀の匙」の子どもたちの多くが、エチ先生の授業で身につけた力の凄みは、実社会に出て、30歳くらいになって気づいたという。



以上
またね***





2011年10月25日火曜日

「余剰次元」と逆二乗則の破れ(食べる読書67)




「えっ!!!そうなの!?」



「マジで?!」



といったことに遭遇したことはここ最近あるだろうか。



それは、今までの自分の常識を覆すまたは、新たな世界への扉だったりする。



こういうことを日常頻繁にあるとしたら、その人の世界は広く深くなっていく気がする。




本書は、まさに知らなかった常識の真実を突き付けられた印象を受けた本だ。



特に、逆二乗則はその実証された範囲があるという点だ。


ここは盲点だった。学校で学んでいて、まったく疑いもしていなく、どんな場合でも適用されるし、それが基準と成っていると思っていた。



そして、学問もそれ自体分かっている部分がまだ限定的であり、「えっ!!!そうなの!?」という事象との遭遇の繰り返しである。



未知なるものへの挑戦というロマンを感じる。



以下抜粋


余剰次元を探るということは重力をよく調べることである



非常に重力場の強い領域や、速度の大きな対象を扱う場合には、一般相対論の効果を考慮する必要があることが分かる。



次元とは、ほとんど単位のことだと考えてもよいが、単位との違いは大きさを区別しないことだ。




楕円軌道という現象はそれ自身、深遠な原理であるとは思いにくい。これは、より深い原理に基いて理解されるべき現象なのではないだろうか、という新たな疑問を生むこととなった。




一般に、力の法則がr^nに比例する場合、三次元空間で軌道が閉じるのはr^+1(=r)とr^-2の場合だけであることが示されている。




観察と洞察、そして理性のもたらした栄光の勝利である。その驚きは、人類を信仰と調和の時代から、近代科学と産業の道へ突き進ませる出発点となった。そして以後、およそすべての自然科学はこの実証論的方法をお手本として構築されていった。



実験で未確認の近距離で逆二乗則が破れる可能性があり、それが見つかれば余剰次元の存在の証拠となるかもしれないのである。



「磁気現象」とは、じつは動く観測者が電気現象を見た場合に違った力に見えるだけの、見かけ上での違いであって、元々は同じものである。



実験の計測原理を発見し、それを実用化して実際に実験を重ね自ら法則を導く、という自然科学者として最高の仕事をやってのけたのだ。



ある実験の邪魔になる問題がある場合には、いったんわざとそれが大きく出るような状況を作り、その性質を予め調べておくことが重要なのだ。



散乱という飛跡を曲げてしまうやっかいな現象が、ミクロの世界を探る道具に化けたわけである。



この媒介粒子は無条件にいつでも自由に存在できるわけではなく、必ず粒子から生成されて、すぐに相手の粒子に吸収されなければならない。そもそもこの荷量とはこの媒介粒子を発生させる能力の高さなのである。




本来何もない空間だった真空は、電荷を持った粒子を一つ置くだけで量子力学的には性質が変わり、あたかも物質のように振る舞うことが分かった。このような現象は「真空偏極」と呼ばれている。




力の法則は、「真空偏極」×「べき乗則」×「湯川型減衰」という形で一般的にまとめられる。



すべての力はこの一般形の枠組みの中の特別な場合として理解できなければならない。



余剰次元の数が二つ以上の場合はすべて実験と矛盾しない。



中性子が持つ、電気双極子モーメントという電気的な偏りの研究を行っており、これは時間の向きを逆転しても物理法則は不変である、という時間反転対称性という大事な性質が破れるかどうかを調べることを意味する研究だ。




光とは電磁波のことであるが、ホログラムは光の波長、すなわち色と、光の強さの他に、波の位相という情報を記録したものである。


以上
またね***





2011年10月19日水曜日

四畳半一間から億万長者になった男の知恵

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アメリカ生まれの彼は19歳の時に、
「日本、カッコイイ!行かなきゃ!」
と突然思い立ち、来日。

お金もない、コネもない、
日本語もロクに話せない、
そんな彼の当時の生活費は月5万円。

東京の下町で、線路とパチンコ屋に挟まれた、
手足を伸ばせば壁に届いてしまう様な、
狭い4畳半一間の部屋で暮していました。

彼はこの狭い四畳半一間の部屋を
8年間もの間抜け出す事が出来なかったのです。

ちゃんと仕事もしていたにもかかわらず、
預金残高はほとんどない、
人間関係もうまく行かず、
健康状態もよくないという最悪の状況でした。

そんな彼がどの様にして億万長者になれたのか?
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以上
またね***

自分を超える法(食べる読書66)




この手の自己啓発本は、たいてい同じことが書いてある。



こういうことすると成功するよと言ったノウハウに終始したりする。



この本もそういう形ではある。



思うのだが、もっとも大事なのは本書の内容を継続行動すること。



なのに、それに関してはどの自己啓発本も口を閉ざす。というより、本という形ではそれには関与できない。



こういう類の本は、感情の変化を与えるというより、もうすでに感情が高ぶっていて「何が何でもやってやるううう!!!」という人が読むのが効果があるのではないか。つまり、小説の様に感情の変化を売りにはしていない。今あなたの感じている感情を後押しするのが売りなのだろう。



だけどなあ…、感情というやつは常に変化し続けるんだよなあ…。



それをどうするかなんだが、著者はこう書いている。



「人生には自分の欲を満たす以上の何かがある、と気づくこと」


「感情面の成長が目指すのは”より多くの人への貢献”」



つまり、感情や欲の基準を自分がどうか?に置くのではなく、自分を超えたものに合わせるということ。すると、どんなに厳しいことが襲ってきてもほとんどブレずにいられる。と解釈した。



この本を実践するほどのモチベーションはあまりないのだが、良いことや本質がある。



特に、法則2の「お金のつくりかた」は参考になる。


物事にはタイミングがあるし、順序がある。こういう本が心に響かなかったからといってないがしろにせず、この本の言葉の意味が本当に腑に落ちるタイミングにこの本が手元にあるかという意味で、読んでて損はないだろうと思う。


以下抜粋


成功へのたった一つの答えは
不安定感に対処する能力を持つこと



行動のさなかでは、恐怖は消える



「不安定感に対処できるという絶対の安定感と確信」があれば、そのときから、あなたは全く違う人生を歩みます。


衝動を意識的にコントロールできないと孤独になります。そして、「重要感」を求めすぎると、本当に自分が求めている「愛とつながり」は、得られなくなってしまうのです。



すべて完璧で理想的な状況をつくり出すことが、人生の目的ではない



成長するための唯一の方法、それは、チャレンジすること。困難に立ち向かうことです!



ビジネスでは「想定外」が当たり前、
それを支えるのが「情熱」だ!



経営することと、その事業に必要な技術的な仕事をすることは、まったく別のスキル



人は感情でものごとを判断し、後から理屈をこじつけるもの



交渉の相手があなたの提案を断った場合に受け取る現金よりも、あなたの提供するもののほうが価値が高い、と相手が感じる様な提案をすること



とにかく「実際に動く」、
そして拒絶は前向きに受け止める



常に「決定権のある人」と交渉する



起業に必要なのは「資金」ではなく、よりよい「戦略」



私が目標を設定する目的は、それを達成するためではなく、そこに向かう過程で「自分がどのような人間になれるのか」を発見するためだからです。



人類に大きな貢献をした歴史上の人物が、どのようにその偉業を成し遂げたのかを知ること。それが、知性を養う方法です。



学び続け、成長し続けること



信仰とは、「参考情報や経験がない中で、何かを信頼すること」です。



あなたが日々無意識に、自然体でできていることの中には、実は世界に大きく貢献している様なことがある



ただ毎日精一杯、最高に自分らしく存在すること



無限の知性、あるいは生命が、あなたの魂が進む方向に調和した道を示そうと、常にあなたに囁いています。それは、必ず、あなたのもとにやってくるのです。



リーダーは、「ありのままの自分に心地よさを感じる」のです。



リーダーとは、人にどう思われようと構わない、自由な人たち


承認への欲求、他人から認められたいという欲求を自分から切り離す



人生は、「ほしいものを自動的に運んでくる」ことは決してない



集中するために絶対にしなければならないのは、「限られた時間内でどのような結果を得たいのかを明確にする事」です。



感情が存在している目的は、感情を感じるためである



評価し、レッテルをは貼れば貼るほど、頭で考えれば考えるほど、感情は力を持つ



いつも何かに圧倒されていると感じたり、うつ状態に沈んでいる人というのは、「自分のことばかり考えている場合」が多いのです。



「大切なもの」があるにもかかわらず、「それを感じたり手に入れたりする条件を、非常に厳しく設定している」のです。



あなたはすでに「1人でも幸せ」なのです。ですから、「幸せにしてもらおうと、必死に相手にしがみつく必要がない」のです。



人生で力を得るためにもっとも大切なことは、「外側で何が起ころうとも、すべてを自分の力にする経験に転換する能力」です。



力を与える世界観は、常に自分が選びとる



失敗することが不名誉ではないということを実行するためには、
あなたが「高いレベルでの確信」を持てる必要があります。



ビジネスをスタートするのに「お金」は必要ありません。
「よりよい質問」を自分自身に投げかける必要があります。
それは、「どうしたらより多くの価値を加えることが出来るのか?」という質問です。



自分自身であれ。他の人はもうみんな埋まっているから



以上
またね***





2011年10月18日火曜日

個性を捨てろ!型にはまれ!(食べる読書65)




いいこと書いてある。


本質を突いていると感じる。



が、



対象者がふわふわしているし、論理も浅いとも感じる。



おそらく著者の周りの人は「型」なんかくそくらえ!みたいな考えの人が多いのではないかと感じた。



一方、私の周りにはそういう人はほとんどいなくて、「型」ばかりを求める様な人が多いと感じる。だから、それさえ出来ればいいと考えているように感じて物足りない。「型」が出来ればそれでオッケーなのだ。野望なんてものは持ち合わせていない。




特に今はその「型」を扱った書籍やセミナーなど盛況なのではないかと思う。




著者の「型」に関する考えは共感するが、今の時代に「型」が求められているという論は賛成できない。



というよりかは、著者の「型」論はもうちょっと視点を上げてもいいのではないかと感じる。



今求められている「型」は使い古された「型」ではない。



そもそも「型」とは何か。



原因と結果の“原因”である。それをやるとどうしてもこの結果しか生み出さない、というものだ。



いろいろ言い方はあるが、「始まりは、既に終わりを含んでいる」と言ったとこだろうか。



一つの事象、一つの現象はそれで“一つ”ではないのだ。その原因があって初めて“一つ”になる。ただ単に目に見えるものだけがすべてではない。それは結果なのか原因なのか。結果ならその原因は何か。原因ならその結果は何になるのか。



そして、ここが大事なのだが、「原因と結果は一つの価値・概念を表している」。



だから、「型」を極めるということは、一つの価値・概念を生み出すことなのだ。



早寝早起き、運動週四日という「型」は健康と言う価値を生みだすだろう。



一方、暴飲暴食、たばこ一日五箱という「型」は生活習慣病やがんという価値を生み出すだろう。



これがやっかい。



「型」を極めないとその行動が織りなす価値・概念が何なのかわからないのだ。



だから、今求められている“型”は、「型」を見極める「型」や「型」を変える「型」である必要がある。



著者のいう「型」は今既に証明済みの価値を生み出す「型」である。



今後どんどん世の中のスピードは進んでいく。



我々はこのような人類未体験な時代を生き抜いていかなくてはいけない。



そんな未体験の社会で既存の「型」を身につけても、それによって生み出される価値はこれからの時代にマッチしているのだろうか。



さらに言えば、これからの時代は価値観の多様化というより価値観の変化がテーマになると考える。



だからこそ、「型」を見極め変える”型”が求められている。



じゃあ、その“型”とは何だ?と言われれば、…わかりません。としか言えない。



だが、その“型”を見つけるのが私の夢でもある。



この“型”で最高の人生を過ごす時代にしまっせー(^◇^)


以下抜粋


世の中には、成功するための「型」がある。
個性も才能もいらない。ただ用意された「型」にはまればいい。



あなたは自分の成功について、どれくらい真剣に考え、実行に移しているのだろう。




これは断言してもいいことだけど、「いつかそのうち」の夢なんて、絶対に実現しないまま終わってしまう。



ラクをしたいと思うのは、なんら恥じることのない当然の欲求だ。



自分で考える自分の長所、あるいは自分ならではの個性なんて、ほとんどの場合が「こうありたい自分」の姿でしかない。



本当の個性とは、他人と同じことをやっていく中でこそ、明らかになってくるものなのだ。




「型」の習得というファーストステップを無視して「型破り」を試みたところで、なにひとつ成功しない。




「対立」→「葛藤」→「和解」を踏まえた物語にすれば、まず失敗することはない。




その「型」があってこそ、外からの多様な価値観を受け入れ、自分をレベルアップさせていく人間になれるのだ。




自分の過去、つまり経験とは、徹底的に利用してこそ価値が出てくるものなのだ。




夢は、必ずしも必要なものではないし、夢なんかなくても幸せになることはできる。自分を押しつぶすだけの夢なら、とっとと捨ててしまうことだ。




貧乏くさい習慣が身についた人は、きっといつまでもその場にとどまる。
生活にそれなりの余裕が出てきたら、ちょっと上の習慣をスタートさせたほうがいい。習慣とは「型」なのだ。




とにかく、組織をうまく回したければ、その組織は徹底的にタテ社会にすべきだ。




個人攻撃をせずに、問題を全体の責任として注意することが大切なのだ。




特に若いうちには、上から言われたことを口答えせずにそのままやってみたほうがいい。




個性を伸ばしたければ、それは学校以外の場所でやる。子供の個性を見つけ、伸ばしていくのは、原則として親の仕事である。




子供になにかを教えるとき、つねに理屈を用意するのは不可能だし意味がない。




仕事とは「他人の需要に応えるもの」だ。




「誰かに役に立つ」あるいは「誰かに求められる」ということこそ、最大の個性だと思っている。



以上
またね***





2011年10月17日月曜日

マッチポンプ売りの少女(食べる読書64)





率直な感想として、



おもしろかった!!!



なるほど~、こういう本の出し方もあるのかと新たな発見だった。



各業界の仕組みというか成りたちを公開するだけで、本は出せる。




この本のヘッテルとフエーテルは現実社会において、経営者はあまり対象者にはならないのではないかとふと思った。



本書の登場人物であるこの二人は、消費者の目線でしか物事を判断していないからである。



だから、経営者だと、この会社・業界はどうやって稼いでいるんだ?と経営者目線で情報収集・処理し、判断するのではないかと感じるからだ。




要するに無知が生む悪夢である。




しかし、最後の話はどうしようもない…。ひどい。



たしかに、預金封鎖と新円切り替えは過去にあった。が、それがこんなにもひどいこととは分からなかった。




おそらく、財閥解体や農地改革も似たようなことなのだろう。




どちらにしても、この本から学ぶ教訓は、なんだろう?




確かな情報ルートを得ることが豊かな生活へと結びつくということかなあ・・・。




その確かな情報ルートを得るには、やはり自分自身が魅力的な人物であることが重要なのかなあ…。




そこまでの道は、たった1300円じゃ教えてくれないか。




胡散臭く感じていた事象のその理由がわかったものもあったのでそれはそれで良かったです。



以下抜粋


ネットの沙汰も金次第。
都合の悪い事実も
金でもみ消せる。




大賞が大金で受賞者が有名なら、
それだけで話題になって売れる。




ヘッテルが流行りでオシャレだと思っていたものはすべて、アパレル業界と出版業界と芸能界がこぞってつくっていた人工の流行だったのです。




いびつにつくられた養殖の流行に乗っかってもすぐにはしご外されちゃうからね。





流行ったモノを否定して、
流行っていないモノを流行らせれば、
人はモノを買い続ける。




世界の不幸を見つけて自分が火消しのフリをすれば、
寄付がたっくさん♪




新築のマンションは、管理会社が最初から決まっていて自分では選べない




安く売る会社と、
ぼったくる会社を分ければ、
バレることなく、長い間ぼったくり状態。




なんでみんな、よくないことは見なかったことにするのかしら。




別に不動産に限った話じゃなくて、最近だと、バイク買い取のバイクキングが、自分の子会社を5社使った比較サイトで、見積もりが安いふりなんかしてたわね。




談合をする側が考えてるのはただひとつ。
いかに高い価格のまま、競争せずに継続して仕事が取れるかってこと。





複数の選択肢の中から選ばせれば、
相手は信頼してくれる。
その選択肢すべてを自分で
コーディネートしよう。





商品が自社に不利になったら、
使い捨て社員を言いくるめて、
自社に有利な商品と
取り換えさせる。




50歳前後で早期退職させられて、年金が出る65歳までの仕事がなくなって困った官僚さんが、わが身を守るためにつくった仕組みが「天下り」なの。




政治家さんの「天下りは許しません!」はなんの解決策も提示してない、票集めのためのアピールだってわかったかしら?





関与先(天下り先)の
生殺与奪件(決定権)を握って、
逆らう人間はすぐ粛正。





国はお金が足りなくなったら、
開き直って自己破産。
損するのは庶民だけ。



以上
またね***





2011年10月16日日曜日

夢に日付を(食べる読書63)





ワタミグループの渡邉美樹社長が書いた夢の実現への指南書。




手帳を己の夢への道標としてどう活用していくかという視点から、日常の過ごし方などまでもフォローしている。




この時代にリアルタイムで夢を実現してきた著者の行動をその軌跡と絡ませて書いてあるので、単なる解説ではなく、心に響くものがある。





その哲学がすべての人に適しているとはいえないだろうが、そこには普遍性があるだろう。




その普遍性を活用し、夢を現実のものにするには、どうすればいいか。




本書の言葉から何かしら得られればと思う。




以下抜粋



人間は描いた夢を実現するために目標に向かっていく。そのプロセスの中で自分を磨き、世の中の人々から「ありがとう」を集めていくために生まれてきた





夢を実現することは、実は目的ではないのです。夢とは自らが進むべき道筋をつけるために一つのゴールとして設定しているにすぎません。




あきらめない限り、失敗はない。



二度と来る事がない今日、この一瞬一瞬を最高の状態で生き切るために、夢に日付を入れるのです。




30歳まではがむしゃらに仕事・勉強をしなさい。
それは、社会人としての基礎体力をつくるためです。
休もうとか、遊ぼうとか思っても我慢しなさい。




人生は有限ですから、すべての夢を完全な形で達成することは不可能です。優先順位が低いとなったら、ばっさりと切り捨てる勇気も、ときには必要だと思います。




お金にとらわれることなく、自分に必要な物は迷わずに手に入れる。




たしかに人類社会において「欲」は発展の原動力です。しかし、その「欲」をコントロールする力を自ら持つこと、そして「人類の魂の本来の性格」に気づき、その「本来の性格」を磨く努力を続けることが、人にとって大切なことだと思います。




「見えない目標は、見えないままで置いておいてよい」のです。ただし「現在は見えていない」と意識することが大切です。




ダイエットはイメージという意志の力以外の何者でもありません。物事を達成するためには、このイメージと意志の力が絶対に必要なのです。




意志が行動を生むことはたしかです。しかし「…べき」と意志は継続力が強くありません。一方「…でありたい」というイメージは、意志以上に力を発揮します。人間の潜在意識は、顕在意識よりも強いのです。




もし予定がこなせないときは計画を修正し、絶対にやり遂げることが大切です。





足りないことを明確にすることは、同時に自分に欠けているものを埋めていくストーリーを書くという作業でもあります。





達成予定日がずっと先になるものに関しては、…明確なイメージを持つことが大切です。
つまり、五年後の自分、十年後の自分をイメージすることは、長い道のりを迷うことなく歩くためのマイルストーンという訳です。





目標の達成予定日は、「死ぬほどの努力を続けた結果、達成できる最短の日にち」に設定する、と言いましたが、この「死ぬほどの努力」を、もう少し具体的に表現するならば「毎日を120%で生き抜く」ということになります。





自分の人生は有限だと意識している人、自分はいずれ死ぬというイメージを根本的な思想として持っている人は強い。実際にそのような死生観を持っている人は、しっかりと夢をカタチにしていきます。





行動の価値が薄まってしまうような無理はいけません。しかし、一定の無理は自分を活性化します。





絶対にできるという思い込みを、具体的な行動として手帳に落とし込まなければ、それは単なる妄想に終わってしまうかもしれません。




「私はいつまでに、このことを絶対に成し遂げます。だめだったら死ぬ覚悟があります」と言って初めて仕事なのです。




目標はすべて数値化しておかなければならない




自ら決めた行動を、全身全霊を傾けて実行し続ければ、必ず夢は叶うということを知ったのです。




ルーティンワークは退屈な仕事ではありません。夢を実現するために最も大切な「緊急じゃないけど大切なこと」を実践する貴重な行動なのです。





「緊急じゃなくて大切なこと」にはその人の人生観、価値観、思いやりや真心も表われているのです。





自分の24時間から「意識していない時間」を完全に排除していくことを目指してください。





だれしも病気にはかかります。そのときは体を休ませる必要があるでしょう。しかし心まで休ませてはいけません。
心の戦いを避けてはならない。心は絶対に戦線離脱してはいけないのです。




夢を達成するためには毎日の修正が必要だ




私は、イメージを細部まで行きわたらせることで、目標達成までのストーリーの精度を高めているのです。




夢は何度も繰り返しイメージすることで、実現に近づいていくものなのです。




明確でないところを徹底的に検証し、情報を集めて現状把握をする。そうやって細部を詰めていく作業が必要なのです。




大きな目標も、現実とのズレや環境の変化を取り込みながら、常に修正をかけていくことが大切なのです。





そもそも明確なイメージがない計画ならば、修正することさえできません。現時点での完全なイメージがあるからこそ、環境の変化に素早く対応できるのです。だからこそ、細部に至るまで明確なイメージを持っておくことが大切です。





目標は環境の移り変わりに合わせて変化します。しかし、その時々でしっかりとカラーでイメージすることを怠らないでください。これは夢を実現するための非常に大切なポイントです。






この「行動基準カード」も「夢カード」と同様、何度も読み返します。読み返すことによって、自分がどのような行動をとるべきかが確認でき、自分の行動を振り返ることになります。振り返ることによって、自分がなりたい人間、ありたい姿に一歩一歩確実に近づいているのです。





日記は単なる記録ではありません。書くことによって一日に決着をつける。つまり、「一日をリセットする」ためのツールなのです。






一流の人間になりたい、と思っているのならば、ぜひ一流の品を置いてほしいと思います。






この山は高すぎて、長城は雲のはるか彼方にあります。しかし、登りたいと思ったのなら、思うだけでなく登り始めることが大切です。とてつもなく高く思えても、第一歩を踏み出すことが大切なのです。




以上
またね***






2011年10月15日土曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-3)





普通の付き合いにおいて、自分が相手から嫌われているのに相手を好きというケースはあまりないという事が言えるのです。どちらかが、好き嫌いのイニシアティブすなわち主導権を持って、そのお互いの感情を増幅させてゆくという事が言えます。相手の反応は自分の鏡、と言われるゆえんは、すなわち自分の行動がそのまま跳ね返ってきているという事です。




自己価値観人間の場合、相手を価値あるものとして、簡単に嫌ったりはしませんが、好きとか嫌いとか言われる事に自分の価値を依存していないので、自分の合わない事に対して、きっぱりと断れる主体性が存在します。片想いなどという場合でも、自分と相手を価値あるものとして扱うからこそ、自分に合わない相手を、拒絶する事で、お互いの価値を尊重しようとするのです。






自分よりもある部分において社会的価値に劣る人に対して、自分の社会的価値と比較して、自分の無価値観を癒そうとするという思考のベクトルを自分に向けるのではなく、その相手に向ける事、すなわちその相手の気持ちを理解しようとする事とそれに基く行動こそが、自己価値観人間の思考の方向性と行動です。






人間はそこに存在する事自体に無限の価値がある以上、自分にも無限の価値があるから相手は自分を価値ある存在として接するべきだという考え方は、単なる甘えであって、自分を価値ある存在として接しようがそうでなかろうが、相手には人間としての無限の価値があるという点を理解する必要があります。






不安や葛藤やその他様々な精神的肉体的不快感を抱えている自分は、それらを抱えていても、その存在自体に無限の価値がある、だからそれらを抱えていても人間として無限の価値があると、地獄の不快感を抱えながら生きて行く決心と、そういう不快感を抱える自分を受け入れる事が、その結果として必要以上の不快感を押さえ、本来の必要な本能的レベルへと戻す事が出来るのです。






緊張なら緊張、不安なら不安に抵抗しなければ、過去の嫌な出来事に目を向けない新たな行動により過去の嫌な出来事を思い出さずに済みその呪縛から脱する事が出来るがごとく、結局は自己無価値観から来る不快感や弊害に影響されない人生を送る事が出来る様になります。






人間の真の価値を理解した上で、その動機を元にした行為を重ねる事で、ますますその確信を深めてゆきます。そして、先の矛盾に対して、行き辛さというそれ自体が、自分や他人を守る為に本来人間が持ち合わせている必要な要素であると気づき、それを消す事に目を向ける事をやめるのがこの最後の段階です。そして生き辛さをありのままに受け入れられる様になります。






人それぞれその生き方は様々ですが、同じ事をしている人の中でも、尊敬したくなる人、輝いている人、清々しい人などには何か共通しているものを感じます。それは一様に、その人を接したその行動の中に、その人からこちら向きの愛情が伝わってくるという事が言える様に思います。






歴史と共に文明が発達し、我々にとって便利な物や魅力的な物などが溢れ出し、また、支配者層が人々を支配する為に、社会の秩序としての序列が形成されて来ました。これに伴い、良い物、良い事、偉い人など、いわゆる社会的価値に基づく価値観が形成されて来ました。







いじめられて自殺する子の中に自己無価値観人間たる親によって自己無価値観を形成された子が多いという事も言えるのではないでしょうか。いじめられる自分についての人間としての価値を喪失し、条件付きの偽の愛情によって作られた自己無価値観人間であるがゆえに、いじめに抵抗出来ず、そもそも僅かしかない自分の存在への価値の確信を失い死を選ぶという事ではないかと思われるのです。






世の中お金持ちの家の子もいれば貧乏な家の子もいます。それでも人間としての価値は同じであると教える事が真の平等意識を育てる事で、社会的価値を同じにして、それを平等とする事は、この例に限らず、単なる自己無価値観人間の足の引っ張り合いでしかありません。






偽の愛情、すなわちあなたはこうでなければ人間としての価値が無いという確信を植え付けられたが故に、経済発展、豊かさという社会的価値に対して、こうでなければならないと、がむしゃらに取り組んだ結果としての経済復興、経済発展ではないでしょうか。






純粋に価値ある対象として人を思いやってという人の他に、相手への配慮など無く、ただ単に正論を振りかざす人などを見ると、社会的に価値がある行為をすることをアピールしている人が、自分は、価値ある事をする価値ある人であるという意味でアピールし、自分の自己無価値観を癒そうとしているのではないかと思われる時があります。






自己無価値観人間は、人間の基本的欲求である存在の価値を認められたいという欲求を自己補給出来ずに、社会的価値においてそれを自分の人間としての価値を絡めて得ようとする結果、そんなに何もかも優れた人間や何もかもうまくゆく人間などいようはずがなく、自己無価値観をより深めてゆき、その結果、認められたい、適合出来ない、達成出来ないなどなどありとあらゆるストレスを抱え込み、何かに依存して現状から逃避しなければ耐えられない状況にあるのです。





現実を直視出来ないとは、すなわち現実に対して、自分の存在に確固たる価値を認識出来ないでいる事に他なりません。タバコには、唇という敏感な部分で刺激を得てその行為により無意識に母親の保護を求めて幼児返りすると同時に、ニコチンにより覚醒作用も手伝って、現実から逃避するという効果がある様に思えます。






自己無価値観ゆえに、自分は平凡な一人の人間であるという事を認められずに、社会的価値の達成を約束された特別な人間であると思い込む事で、自己無価値観を癒そうとし、努力や根拠の伴わない、運まかせの様な人生を送る人なども、ギャンブル狂と言えなくありません。







過剰な自己防衛の必要性とはすなわち自己無価値観から来る動機に他なりません。自分の存在に確固たる価値を認識出来ないがゆえの、自分の人間としての価値に対する必死の防衛なのです。





言論の自由とは、自分にとってどういう相手であれ価値ある存在であると尊重し、初めて成り立つものでしょう。





規律の為の規律ではなく、自分と他人を価値ある存在として大切にする為の規律として、真の愛情を持って厳しく接してゆく事、これしかないと思います。






かつては、いわゆる社会的規範によって、それを守る人イコール価値のある人とのこれも自己無価値観に基く一定の抑止力がありましたが、これも元々どんな相手をも価値ある存在として認識するという自己価値観に基かないがゆえに、偽の平等社会による社会的規範の崩壊により、自己無価値観ゆえの冷酷さが表に現れて来たと言えるのではないでしょうか。






ぬいぐるみやキャラクターグッズや、更には異論があるのは承知の上で言えば、宗教的な像に至るまで、実際の人ではない、いわゆる偶像を可愛がったり、自分を愛してくれる対象としてすがったりする事は、一時的に心を癒してくれる事はあっても自己無価値観から来る様々な弊害への根本的な解決につながらない事は当たり前の事です。正しい動機により行動する事が唯一の解決方法である事は、今更言うまでもありません。






人間社会を学校に例えた時の勉強とは、すなわち身につけるものが、自己価値観であり、それを行動というトレーニングによって、強化する事ではないでしょうか。





人間には感情が存在する事から、機械でないと結論づければ、人生とは、人間社会での寿命のみでないという事が理論として成り立つのです。そういった意味では、現世主義といわれる、社会的価値観に執着した、いわゆる自己無価値観的生き方がいかに意味の無いものかが段々分かって来ます。






多くの人達が様々な悩みを抱えて生きる現代社会。大体、悩みやストレスの大半は現代の様々な社会的価値観に照らして、それを絶対視し、それに適合出来ない事と自分自身の人間としての価値を絡めて考えるところから来るものでしょう。



以上抜粋





抜粋多すぎだが、新たな価値観に慣れるには時間とエネルギーが要る。なので、出来るだけ本書の内容で大事と思ったところは削らなかった。困った時や悩んだ時などこれを見返します。




以上
またね***




2011年10月14日金曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-2)





以下抜粋


今まで人間の様々な悩み対して、様々な分析や試みがなされて来ました。しかしどれもが表面的、部分的な現象を取り上げて、根本的な原因やそれに対する解決方法を示すに至っていない様に思われてなりません。




社会的価値は人間社会を豊かにする為、そして生きてゆく上で当然必要なものですが、人間の価値の尺度にする為のものではありません。




たとえば社会的地位が上だから人間としての価値がある、お金持ちだから人間としての価値があるなどと、そもそもそのような社会的価値イコール人間の価値と考える人こそが、その社会的価値を追い求めて、日々過大なストレスを抱えて生きている人ではないでしょうか。





例えば高級品を身につける事で、自分が人間として価値があると思いこもうとする動機においては、そのもののランクが重要なだけです。高級品であるという社会的価値を自分の人間の価値に絡めているのです。これに対して人間の価値と物事の価値を分けて考える動機においては、単に高級品だからという理由ではなく、なぜ高級品なのか、そのもの自体の価値を見い出し、大切に扱う事でその価値をより高めてゆく事が出来ます。




自分の存在に無限の価値を確信出来る人間こそが、自分の周りの様々な事に価値を見い出し、心から幸せを感じる事が出来るのではないでしょうか。




行為を憎んでもその人を憎むことのない人かどうかで、その人が本当に優しい人かどうかの見分けがつくものです。





自己無価値観人間の場合は、心から人を許すという事がなかなか出来ません。それは、許す前は、自分より社会的価値観に照らして劣る相手だったのが許す事によって、その対象が、自分と同じ価値となり、優越感によって自分の自己無価値観を癒す事が出来なくなるからです。






自己無価値観人間の場合はどうかというと、目標への悲壮感は無く、むしろ困難な中にも楽しさを感じる余裕があります。そして、何事にも物事そのものへの価値を見い出そうとする価値観の創出が、自分の存在の価値の確信を更に深めてゆきます。





そもそも正しいという概念自体、社会的秩序と照らしてという意味である場合と、自分の価値観に照らしてという場合があるのですが、自己価値観人間の場合は、自分の人間としての価値をその存在により無限に感じ取る事が出来ますから、正しい事という意味を社会的秩序に照らして考えるよりも自分が本当にそう思う事、すなわち自分の価値観に照らして考えます。そして、他人の価値観に対しても自分の価値観にこだわらずにそれを認める余裕があります。






自己無価値観人間の場合、しばしば、大志や大きな夢が、自己無価値観ゆえの、こうでなければ自分には人間としての価値がないという、いわゆる誇大妄想となる場合があります。






自己無価値観人間は、意識的行動を表面に出す割合が少ないほど、無意識の動機によって、自分自身や周囲の人の価値を尊重できない行動をどり、自分自身と周囲に不快感を与え、不幸をまき散らしながら生きているという事が言えます。






騒がない子は良い子で騒ぐ子は悪い子、と一見正しい様に見えて実はとんでもない誤りである躾をされた子は、これこれこうでなければ自分には人間としての価値が無い、あるいはこれこれこうでない人は人間としての価値が無いというふうに、人間の価値を社会的価値に依存する様になり、その結果、特定の場面で表面的には社会性がある様に見えても、実は内面に強い抑圧や冷酷さを抱えてゆくという事になります。





その行為や言動をいちいち真に受けるのではなく、自己無価値観から来る言動として、冷静に対処する事が、最善の対処法と言えるでしょう。




本当に愛情を必要としているのは、好かれている人ではなく、真の愛情を受けずに育ったがゆえにそうなった、嫌われている人であるという事に気付くべきです。




自己無価値観人間、つまり人間の価値を社会的価値に依存する人を、哀れな人、と割り切りましょう。





自己無価値観人間の場合は、自分の存在に人間としての価値を確信出来ず、社会的価値イコール自分の人間としての価値として、自分の無価値観を癒そうとしている以上、自分に関わる様々な出来事に対して、その結果と、自分の人間としての価値が密接に関わっており、この為、自己無価値観により、元々僅かしかない自分の人間としての価値を必死に守る為に、自分に関わる物事の結果は、絶対に社会的に価値のあるものとしなければならず、しかし結果など出てみなければ分かるはずはなく、結果が出せるかどうかという動機をベースに、不安となるのです。





一般的に、感性という点では、自己価値観人間は、自己無価値観人間にかないません。それは、とことんまで、自分の感じ方を追求するがゆえの感性の鋭さと言えるでしょう。まあいいかと物事の価値を見い出し、すぐに受け入れてしまう自己価値観人間では、現象を繊細にとらえたりという事がなかなか出来ません。





要は、その表面的行動の社会的意味合いではなく、その動機の方向性、つまり思考のベクトルがどちらを向いているかが重要なのであって、例えば内向的な人が外交的な人になりたいと、表面的行動だけを変えても、本質的には内向的な人が外交的になれるハズがありません。





そもそも自分の存在に価値を認識できない以上、社会的価値を自分の人間としての価値として追い求める訳ですが、世の中そうそう思い通りにゆくものではなく、何かささいな事につまずいただけで、すぐに思い悩み、傷付き、そして、自分や他人を責めるという行為に出ます。





自己無価値観人間は、情緒未成熟の親の対人緊張による抱かれた時の緊張感や、甘えが許されない居心地の悪さや恐怖感、親の気分次第でコロコロ変わる自分への接し方への混乱などにより、自分はここに居てはいけないのではないかという疑問を無意識のうちに芽生えさせます。





その人がその人自身の苦痛から逃れる為には、自分が自己無価値観人間、すなわち良い人でも何でもなく、子供以下の情緒未成熟人間であることを認めた上で、自己価値観人間への脱皮を図ることが必要なのです。





悪い事は悪い事として、しかって矯正するのはもちろんの事で、また、良い事は良い事としてほめてあげる事はもちろんの事ですが、その親の態度の中に、その動機として良いことをする子は人間としての価値があり、悪い事をする子は人間としての価値が無いという無意識のメッセージが込められている場合と、物事の価値と人間の価値を区別して、全ての人間にはその存在自体に無限の価値があるというメッセージが込められている場合とでは、子供はその動機を敏感に読みとって、全く違う価値観を形成してゆく事になります。





自己無価値観人間は、自己無価値観を癒す為にとる行動を重ねれば重ねるほど、その自己無価値観を強固なものとしてゆくのです。又、逆に、自己価値観人間は、自己価値観を認識する行動を重ねれば重ねるほど、自己価値観を強固なものとしてゆきます。






過保護とは、自分の気分によって偽の愛情を与える事で、つまり自分の気に入らない反応には過剰に反応するという態度を秘めています。子供が自分の気に入る反応を示そうが気に入らない反応を示そうが、変わりなく愛するのが真の愛情です。







結果に対してそれを達成出来た時に誉めるというやり方の問題点は、その動機に目が向けられていない所にあります。






躾、の本来の意味として、人間はそもそもそこに存在する事自体に価値がある、だから、その様に接する為の方法や知恵、としての躾けであるべきです。その為には、行為そのものの意味ではなく、動機こそに目を向ける必要があります。






なぜ自己無価値観人間の親は、時として自分の子供に対してその様な要求をしてしまうのでしょうか。それは、子供であれ、相手が不機嫌でいられると親としての自分の人間としての価値を否定された事につながるからです。相手の態度で自分の人間としての価値観がゆらぐ自己価値観人間としての特徴と言えるでしょう。







最初は、相反する動機がもたげて来るでしょう、しかしその間違った動機で行動しない事、そして日常のあらゆる物事に対して正しい動機で行動する事、それを重ねる事、そしてそれによる安心感を体感する事が、自己無価値観人間からの脱出の唯一の方法です。




to be continued ・・・



2011年10月13日木曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-1)




人の人生は出会いで作られるといっても過言ではない。



幼少期からどんな人、モノ、コトとの出会いがあったか。



人生で遭遇するすべては出会いである。



そして、それが人生を左右する。



ここで、出会いといってもその深さがさまざまあることを経験から知る。



己の志へとつながる出会い。



その場しのぎの出会い。



などなど・・・




我々は日常生活の中でどのレベルの出会いが多いだろうか。




本書は私にとってとてもいい出会いであった。




それは、私の自分自身を含めた人を観る新たな一つの視点と出会えたからである。




それは私の価値観をも変えている。




この本を読んでそういう視点で日常のことを観るとなんだか楽になるのである。





著者は人を「自己価値観人間」と「自己無価値観人間」に分けて、両者を比較することで、現代人の心理を説明している。





「悪魔(サタン)への挑戦状、という題名の悪魔とは、決してオカルト的な意味ではなく、自分自身の存在に人間としての価値を確信出来ない心、つまり、自己無価値観、を悪魔と名付けました。そしてそれを退治してゆくという意味での挑戦であり、本書がその挑戦状です。」





と本書にあるように、自分の存在自体をそのまま認めることができない人が多いのではないか。だから、そのあまりにもはかなく脆い自分自身の存在を存在たらしめようとして、人は社会的価値観にしがみつく。そして、その社会的価値観を少しでも満たせなくなると、それがストレスとなっていろいろな症状と出る。または、その自分の存在を守るために様々な言動をするようになる。それらはすべて、己のはかなさを覆い隠すために行われるもの。





本書は、言動ではなく、その言動の動機にこそ目を向けるべきだと説く。なぜなら、「自己価値観人間」と「自己無価値観人間」の動機は異なるが、その結果の言動は同じということがある。その根本的なところに目を向けない限り「自己無価値観人間」から「自己価値観人間」へは変われない、と。





本書はなかなか読み進められなかった。その都度その都度、自分はどっちだろうと立ち止まって考えてしまうからである。




結論から言うと、「自己価値観人間」の場合もあれば「自己無価値観人間」の場合もある。そして、「自己無価値観人間」の場合その動機とその結果の言動から自分の本当の恐れ・弱さを白日の下に引きずり出される。これが、怖い。だから、読み進めるのは一種の闘いでもあった。




しかし、本書のこの考えに救われる。





「自己無価値観がもたげてくる自分に価値が無いからそれから脱する必要があると考えるのではなく、自己無価値観人間としての自分も、その存在にこそ価値があるとして、言うなれば「まあいいか」と思考の緊張により緊張している体から力を抜いてみるその行為が、自己無価値観人間にもその存在としての価値があるという認識の強化、すなわち自己価値観の強化につながってゆきます。」





そお~~~~~~~~~~~~~~~~なんだよお~~~~~~~~~~~~~なあ~~~~~~~~~~~~~(=^・・^=)





何自分の弱さに落ち込んでんねん。そんな弱さあってもなくてもセクシーなままの俺じゃねえかよお~♡





勉強になります<(_ _)>





このブログでも所々で書いたが、今の人は社会的価値に縛られすぎて本質を見れなくなってはいないかとひしひしと感じるのである。それは自分も含めてのことである。だからこそ、その無味乾燥した感覚がぬぐえない。そのつらさ、その無味乾燥を潤そうとして社会的価値へと向かうが、そこには何にも自分を潤すものはないのである。つらいことだが、そのゴールに自分を回復させるものはないのである。






では、どこに自分を潤すものがあるのか?もうこの時点で違うのである。どこかに”ある“ものではない。私自身が潤いであるし、潤いを生み出す者である。






外にはないんだ。





さあ、このことを自分の人格まで高める旅へと出発しようではないかあ~。





to be continued ・・・





生きる

生きることを目指してきた いつからかはわからない 単に意味を見いだせなかった いや、自分本来の好きなことをする余地がなかった ただそれをしているだけでいい 別に生きる目的などなくても、それをしていればいい それをすることで飯を食っていくことはできない世の中...