2011年8月30日火曜日

知の荒野に立たぬために(食べる読書48-2)



現在のメディアにおいてなかなか見られない視点や考えなどが本書にあると書いた。



それらについて一言では語れないし、それらをしっかり理解しているとはいえない。



しかし、新鮮だったり、目を見開かされたり、反省したり、…いろいろ感じる部分が多々ある。



抜粋という形で、上のように感じた個所を紹介する。



以下抜粋


「そんなこと言っても、いまの人には分からないよ」が金科玉条となってしまい、「金科玉条って何ですか」と聞く“今の人”がいたら、「それを辞書でひいて自分の言葉にするのを人生というんだろうが」と教える先輩がいなくなった。






「徧界(この広大無辺の天の下)に、心理だの仏道だの、いまだかつて蔵れていたことはない。みんな目の前に露れている。それが見えないのは、おまえさんの目が磨かれていないからだ」







そこがフランス人のおもしろいところなんだけど、美術館の中ではもうすっかりバラバラになってしまいながら、団体バスの発車時刻には全員がきちんと顔をそろえるの。個人主義とは、各自が勝手気儘なことをしていい、ということではないことをフランス人は外国に来ても身体で示しているのね。







「宗教教育」とは、特定の宗教の教義を教えたり、宗教史を講ずることではなくて、宗教的情操を生徒の心に醸し出させることである。宗教的情操とは、もののあはれを知る心、ではないかと私は思っている。この心の教育がないがしろにされたから、戦後生まれの若者は簡単に人を殺したり、果てはオウム真理教の幹部たちのように、無差別殺人を、へ理屈から犯すようになるのだろう。







「今までは物の豊かさを求める時代だった、これからは心の豊かさを求める時代になった」という文脈の合唱さえ始まった。しかし、これは最初から無理である。なぜなら、「物の豊かさ」を求めたのも、それに呼応して物を提供したのも、ともに「心」の仕業だからである。「物」を求める「心」と「心」を求める「心」と、人間には二種類の「心」があるのですか、と大声を挙げたくなる。挙げても無意味なことはよくわかっている。





物がたくさんあるのを「豊かさ」、心がゆったりとしているのを「裕かさ」とするなら、両方とも私たちに創ることができる文化である。しかし、、いまの日本人が「真の豊かさ」とはと目を据えて議論を始めたのは、「豊」を実現することに成功して、「裕」のほうは仕掛けとしての「豊」を消費することに終始したからではないか。つまり、仕掛けられた「豊」を消費してばかりいないで、自分で「裕」を楽しめばよいのである。








美味求真という言葉があるが、食材にはそれぞれ「真」があるのだろう。それを損なわず、変えず、いちばん適切な温度でどう引き出すか、料理という字は「理(ことわり)」を「料(はかる)」という意味だというが、ほんとうにそのとおりだろう。






「お前さん、贅沢を知っていることは必要だが、贅沢をしてはいけないよ」








わからないときは、そのままにしておかないで、専門家の意見をたずねるのが、人生の学習である。それをしないで、いつまでも「わからない」ままにほおっておくと、いつの間にか「わからない」なりに生半可な解釈を積み重ねていって、何年か経つと、とんでもない認識にしがみついていることになる。






「武力」に代替可能性のある「政策」はあるのか、という議論は避けてきた。平たくいえば、日本以外の国の兵士が流した血に相応する仕事とはどんな仕事ですか、を日本人どおしの間で、そして日本人と外国人の間で一度も語りあったことがないのである。「武力の代替物を考えることは不可能ではないか」と語ったのは、私の知る限り、亡くなった高坂正堯氏(京大教授)ほか数人である。






むかしの人はうまいことを言った。「定見は小人の器」だそうである。しかし、人間は「定見」を求めたがるから、人間社会とは小人の群体なのかも知れない。そうとわかれば、この群体を操縦するのはたやすいことだ。







国のあり方や経済の解釈など、私たちの“これから”について大切な事柄が考えられたり、伝えられたりするときに、バランスの良い考えよりも、シングル・イッシュウや安直な定見がすぐ創出されるようになったのだろう。






「今日の機械文明は神がつくったのではなく、人間が開発したものであることをもう一度確認しよう。その機械文明をここまで開発した張本人の、人間とは何であるか、うかつにも科学者が人間そのものについて探索を怠ったところに今日のバランスの乱れた文明が出来た」







「常を疑え」、これが梅園の説くところである。人は変化が起きたときに驚いてその原因を探るが、本当の頭の使い方は、「常」はどんな条件のもとに「常」であるか、それを考えてみよ、というのである。






(脳失調について)
いちばん問題なのは、散発的で支離滅裂な思い付きです。つまり、ものごとを広さの面でも、深さの面でも、その構造をとらえていないということで、丸暗記的、刹那的な脳の使い方に原因があります。





むかしの資料のうち、自分が感動したところだけを拾って、「むかしはよかった」「むかしの人はえらかった」と書いたりするのを「後退史観」というそうだ。そんな史観はこちらから願い下げである。







政府は規制を設けることはできる。環境保護主義者は人々を扇動することはできる。だが、産業だけが、現状を革新し、環境保全型の社会を作ることができる。






政治家はそろそろ「民ニ網スル」ことをやめなければならないし、民のほうも自己負担・自己責任を勉強しなければならないはずである。みんな、そう言うのである。それでも選挙のたびに裏切られる。








民主主義が欲望中心の大衆民主主義となって社会全体が収拾がつかない状態になると、なにかの拍子に英雄待望論が起こり、民主主義は弁証法的に独裁主義に変わりうるのである。







「拍手は一応景気がいい。だから役者なども手が来たと言って大いに喜ぶのだが、しかし見識のある本当の役者になると苦い顔をする。真実深い感動につき落されたら、人間はただ呆然として決して手などたたかぬものだ。だから拍手をさせるのは未だしの芸で、拍手をさせぬのが名人となる。それにしても上乗の拍手というものは、ほっとして我に返ってからのものだから、一息つくだけの間がある。決してあんなキッカケを待ってましたというような調子のものではない。」






「忖度」という言葉がある。相手の気持ちを推し量るという、高級な心のはたらきである。日常生活のなかで、相手の気持ちや立場を読んで、相手が気持ちよく過ごせるように、相手が言葉で傷付かぬように、気働きすること。この場合の気働きは、すべて応用問題である。ノウ・ハウは、はじめからない。






「従来の大学によし如何なる長所があるにもせよ、大学が官民各方面への多数の躾けの足りない人間を供給した事実は、十分認めて反省しなければならない」
これは昭和十八年の述懐である。五十年以上を経過して、わたしたちは「大学が官民各方面へ多数の躾けの足りない人間を供給した事実」を、いまでは“反省”どころか“あたりまえのこと”としているのではないだろうか。








人間は生きてきたようにしか死ねない、のである。というより、生きていることを支えた柱がそのまま墓標になるということだ。








国民のモラルを上げるために壮大な仕掛けを考える。彼自身は、政治に儒教を浸透させることを図るが、それだけでは足りず、モンゴル帝国内の粗野で蕪雑な空気をできるだけ薄めるため、道教と仏教の間で灼熱した宗教論争をたたかわせる。じつは、これは邱処機という道教の大物と談合の上で決めたことで、国民の質を向上するための“やらせ”なのだ。しかし、単なる仕掛けではなく、道・仏両教とも論争に負けていられないから、自分の宗教の教義を深化させる一方、相手方の宗教の奥義にまで理解が届かねばならない。いわば、一挙両得になるのである。








「権を行うに道あり。自らを貶損して(自分をおとしめ損なうようにして)以て権を行う」








芥川の聡明な目は焼け跡のすさまじい光景を自分の内側に持ち込まず、知のエネルギーといったものが瞳の中心に働いて、すべてを客体化しているのである。






“涼しい認識”は周囲がよく見える、大局をつかむ能力がある、ということだろう。






羞恥心がなくなったことが何に通じるかといえば、生きていることの矛盾に耐える気性、言葉を簡略化すれば、存在に対する耐性の薄弱化があらわれる、と思えてならない。






共産主義の失敗の原因は、おそらくこの最も野心的なイデオロギーの本質的な性格、すなわち、あらゆるものを説明できるという主張、従って、あらゆるものを管理しにかかる、その姿勢にある。






感情に支配された論理が奔流となって押し寄せてくる場面では、「だまってしまう」のは妙子だけではあるまい。それに抗う方が無駄だという計算よりも、人間の理性が集団というクラスター状のエネルギーに吸い込まれる現象を前に、人は沈黙してそのような相倪を凝視するほかはあるまい。しかし、凝視は判断の停止を意味しない。凝視すればするほど、人間としての内容を充実してゆくのである。







人は真言を知らずして万学を説き
神は万象を通じて一言を解かず








環境の変化によって、人間の組織体が安定性を欠いたとき、元の状態に戻ろうとする復元力が働くだろう。それが、その組織体ごとにもっている文化だと私は思う。






その“飢え”のなかに「美しいもの」があった。逆にいえば、「美しいもの」は、いつも“飢え”を機縁として成立するものではないか。いま、なにもかも満たされて、むしろボア(飽き)の時代になっているそうである。私たちは、遠慮なく飢えて、美しく見せようとする対象をハネのけてゆく必要があるのではないか。








遠音や遠太鼓のような、現実と空虚の接点にからくも踏みとどまっているひとつの現象が私たちの感性をひき出すように、むかしから日本人は花に幻を見、花が自分を虚ろの世界に誘い込むものとして、恐れ戦いたのであった。それを捉えて、転じて、花をおそれなくなったことのひとつに現代人の傲慢さを指摘したのは、中西進氏(日本文化研究センター教授)であった。







私たちは、いつの間にか、自然は美しいもの、という一義的なとらえ方をしている。自分たちの生活に便利なようにと自然に手を加え、手を加える必要のない自然を「美しい自然」とか「豊な自然に包まれて」と表現して憚らない。じつはベーコンの段階から一歩も進歩していないのである。




以上
またね***


知の荒野に立たぬために(食べる読書48-1)



正直に白状すると、はじめにこの本を少し読んで、「何だ、年寄りの昔話か…。」と感じ、読むのをやめようと思っていた。はじめのほうは心に響かなかった。





が、数日放置した後、もう数ページ読んでつまらなかったら読むのをやめようと決めた。そして、読むと、そこには現在ではなかなかお目にかかれない考えがあるのである。





自分の未熟さを痛感した次第です。





この本を読んで感じたことは、武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?を読んだときと似ている。






素晴らしい考えだし、なるほどと思える。が、今の時代にそのまま適用はできないだろう。当たり前だが、武士道は封建制の社会だから成立した考えだし、この本の深い洞察力などは、いまのめまぐるしく変わる時代においては、何かにガッツリ時間をかけて取り組むということはなかなかできることではない。






思想なり考えなりができあがるということはそれを成り立たせる社会としての基盤があるということ。根本的に時代や社会体制などが異なるのに、単に素晴らしいというだけで、武士道などをこの時代にそのまま移植することなどできないのである。






ここに、むかしの考えを現在に活かそうとする際のジレンマがある。






”温故知新”とは言うが、それはかなり洞察力が優れている人でないとできないことなのかもしれない。






しかし、はたと気づいた。

そうではないのかもしれない。

昔のものを活かすということはそういうことではないのではないか。

単に現在に活かすということではない。昔のことを知るということは、むかしの考えなりを知ること。昔の視点をもつことになる。現在の価値観にどっぷりつかっている我々には現在を客観的に観ることはできない。その現在を外から眺める道具として昔の考えは使うべきなのではないか。







どうあがいても現在を生き、現在に責任をもつのは我々現在生活を営んでいる者達なのである。我々が現在をどうにかするしかないし、それが我々である。それを昔の価値観をそっくりまねするということは、いま生きている我々自身の生への冒涜になる。





生きている“今”をよりよくしたいなら、より良くするなら、もっと“今”を知る必要がある。そのために多くの古典なりがある。偉大な人たちが残したもの。その人たちの胸を借りるのではなく、主役はあくまでわれわれであり、彼らの生の痕跡から何かしら我々が先に進む糸口を見つけるのだ。






抽象的な結論になり、どう活かしていくか具体的にはまだ見えてはいない。






まあ、あせらず多様な見方・考えを楽しみましょう☆



to be continued ・・・



2011年8月29日月曜日

仏教聖典(食べる読書47)



広くかつ深い。




本書の内容きちんと理解できたとはとても言えないが、


二千五百年を超えて生き続けるエッセンスというのはやはり最近の書物とは比べ物にならないくらい本質を突いていると感じた。





しかし、本書で私が最も衝撃を受けたのは仏教の思想の内容ではない。




第五章、第一節 「仏の願い」(P102~)である。



畏怖した。



この感覚はプラトンのソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)のパイドンを読んだ時以来。




以前は人間がここまで高められるのかということを臨終の際のソクラテスの言動から見せつけられ、ただただ畏怖したのを覚えている。




今回は、志とそれを見定める洞察力・観察力・自己と世の中を見つめる能力などもろもろのもの。どう表現していいか、語彙力のなさがここで露呈するのだが、目標設定自体の真髄。「始まりは既に終わりを含んでいる」という言葉の通り、目標設定によりその結果は分かるという部分。これは単なる一部分なのだが。


ただ単に、”人間はここまで物事を見通せるものなのか。”これが率直な感想であり、その仏の願いの内容と共に打ちのめされ、畏怖するのみであった。






本書を読み終え、五日くらい経つのだが、この部分は読みかえせないでいる。




自分の弱さ、醜さ、卑怯さ、恐れなどを見せつけられるからである。




だが、いつまでも逃げてばかりでは何も成せない。今、目の前に自分の弱さを認識させてくれるものがあるということは、今がそれに対峙する時であるととらえる。




以下仏の願いを抜粋する。



(a)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの国に生まれる人々が、確かに仏と成るべき身の上となり、必ずさとりに至らないならば、誓ってさとりを開かないであろう。


(b)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの光明に限りがあって、世界のはしばしまで照らすことがないならば、誓ってさとりを開かないであろう。


(c)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの寿命に限りがあって、どんな数であっても数えられるほどの数であるならば、誓ってさとりを開かないであろう。


(d)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる仏が、ことごとく称賛して、わたしの名前を称えないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。


(e)たとい、わたしが仏となったとしても、十方のあらゆる人々が真実の心を持って深い信心を起こして、わたしの国に生まれようと思って、十返私の名前を念じても、生まれないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。


(f)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方のあらゆる人々が、道を求める心を起こし、多くの功徳を修め、真実の心をもって願いを起こし、わたしの国へ生まれようと思っているのに、もしもその人の寿命が尽きるとき、偉大な菩薩たちにとりかこまれて、その人の前に現れないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。


(g)たとい、私が仏となっても、十方のあらゆる人々が、私の名前を聞いて、私の国に思いをかけ、多くの功徳のもとを植え、心をこめて供養して、わたしの国に生まれようと思っているのに、思いどおりに生まれることができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



(h)わたしの国に来て生まれる者は、「次の生には仏と成るべき位」に到達するであろう。そして、彼らは思いのままに人々を教え導き、それぞれの願いに従って、数多くの人々を導いてさとりに入らせ、大悲の功徳を修めることができるであろう。たとい、わたしが仏と成ったとしても、もしもそれができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



(i)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる人々が、わたしの光明に触れて、身も心も和らぎ、この世のものよりもすぐれたものになるようでありたい。もしもそうでないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



(j)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる人々が、わたしの名前を聞いて、生死にとらわれることのない深い信心と、さえぎられることのない深い智慧とを得られないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



わたしは、いま、このような誓いを立てる。もしもこの願いを満たすことができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。限りのない光明の主となり、あらゆる国々を照らして世の中の悩みを救い、人々のために、教えの蔵を開いて、広く功徳の宝を施すであろう。



以上が抜粋である。



さとりとは何かということがまだ分かってもいないのに、さとりがどういう効果を起こすのかは知っている。つまり、さとり自体がもともとの目的ではなく、上に抜粋したような効果が目的なのだ。



ビジョンをもっていた。仏陀は、さとりへの道に入る前に、いやだからこそ、さとりへの道に入ったのだが、さとった後の世界を見ていた。



仏陀は当時の人々の中に煩悩に振り回されている姿を観た。このこと自体がもうすでにすごい。当時の人にとっては普通で当たり前のこと。苦しむのが当たり前であり、煩悩があるのも当然。むしろ、それが人間であると無意識で認めていたのであろう。そんな社会にあって、そんな常識に疑問を持ち、本当の、というか、さらなる人間の真の姿を見抜く。誰も、そんな人間なんか見ていないし、存在もしない当時、彼だけは見ていた。




ここまでなら、ある特定の分野ではあるが、多くの人がそれぞれの考えをそれぞれの時代で表現してはいる。だが、やはり、仏陀ほど本質を見抜いていた人はほとんどいない。だから、時代が変わると使い物にならない骨董品と化してしまう思想だったりする。しかも当時の社会ありきの発想だったりするのだ。



そんな誰も観ていない新たな人間像をただたんに提唱するだけでなく、それを実現するために教えを説いていく。出会う人出会う人それぞれ異なる悩みにこたえていく形で。




とてもじゃないが、仏教の真髄を理解しているわけでもないし、仏教研究をしたわけでもないので、仏陀の偉大さを本当に知っているかと言われれば否と答えるしかない。



なので、抜粋した願い自体を願うことがどういうことを表しているのかという本当のことは分からない。




しかし、「我」がないという点で、仏教思想とこの願いは共通していると感じる。




わたしが畏怖したのはこのことではないかと思った。



仏の願いの中に「我」はまったく無かった。



一方、わたしの願いはどんなものにしろ「我」が出発点となっているような気がする。いや、実際はそうではないのだが、さらにたちがわるいことに、無私で始めたことが途中で顔を出す「我」を理由に途中で放り出す自分の身勝手さ、醜さ、・・・などを白日のもとにされされたのだ。



麻薬の味をしめ、ついに自分を見失うように、我による煩悩の味に目がくらみ、本来の目的を見失う自分。もっと、価値のある人生を求めていたはず。自分はどこまでできるか人生を舞台に挑戦し続けるはずなのに。





仏陀の生き方はとても勉強になる。その教えも。




偉大な人たちの開いてくれたこの人類という軌跡。わたしはこの軌跡の一部分を担うことができるだろうか。そのチャンスはすべての人に開かれている。それは、自分の幸せがそのままその他の人々の幸せとなることを意味する。



わたしは人類のまだ見ぬ世界を見、そこへ人々を導きたい。仏陀がそうしたように。




以上
またね***



2011年8月26日金曜日

アダルト・チルドレンが自分を愛するための12章(食べる読書46)



なんで自分はいつもこうなんだろう?



こんなときどうすればいいんだ?




他の対応がわからない。




など、AC(アダルト・チルドレン)はいろいろな生きづらさを引きずって日々を過ごしている。




そんなAC達に対して、「ACである自分を認め、自分の中にいるACと共に“今”を生きる」ことが大切と説いている。





本書は12の悩みを取り上げ、それに対する対処法というよりは、その悩みから自分を見つめる手ほどきをしている形をとっている。




大なり小なり自分もこの12のうちのいくつかは該当するし、自覚していないものもある。




各章にストーリーが一つついているのだが、それを読むことで、こんな悩みをもっているのは自分だけではないんだと気づかされ、少しは楽になり、素直にその悩みと向き合える気がする。これが、この本の強みかなと思う。





まあ、でも、以前紹介した君に成功を贈るにあるように、心を積極的に常にしておけば、自然と解決する気がする。なぜなら、心を明るく快活にするということ自体が、もうすでに、こういった悩みとは違う次元で物事をとらえているからである。つまり、ACと心の積極的な人とはパラダイムが異なるのである。






分かりきっていたことかもしれないが、違う価値観で生活している人々のまねをしてみるのもいいかもしれないよね☆






パラダイムを変えるには、時間はかかるだろう。少なくとも21日間続けないと人間の行動などは変わらないらしい。





癒し、というか自分一人で悶々とするより、こういう本で客観的に自分を見つめる訓練をすると道が開かれると感じた。




以下抜粋



”本当の自分”探しは根を詰めずに、ときどき立ち止まって顔を上げて、まわりの風景に目を向けてください。
ちょっとぐらい休んでも”本当の自分”は逃げていくことなんてありません。







ひとりの時間を楽しむということ。それは、自分が何を感じているのか、自分は何を望んでいるのかを意識する大切なひとときなのです。







自分が本当に思ったことを言わないでい続けるということは「自分は自分である必要はない」と自分に言い聞かせていることと同じだからです。また、誰かを失いたくないために、自分が本当に思ったことを言わないでいるということは、その人に対して、「自分の存在は全く意味のないものです」と言っていることに他ならないからです。




本当のことを言わないで困るのは、相手の人でも、相手に見えている自分でもなく、自分の中にある気持ちなのです。








言うべき時に否というのは平和の鍵である。否と言わず、世に悪の栄えるのは、我々にその勇気がないためである。
                                 スマイルズ








今までのあなたを大切にし続けて下さいね。








批判は常に、今まで培われた自己というものを見直すチャンスを与えてくれているのです。






”批判を受け入れる”ことは、心を耕して新しいものを受け入れる準備を整えてくれることでしょう。その際注意することは、受ける批判が果たして本当に的を得たものであるかどうかです。的を得ているからこそつらく感じるのか、そうでないからつらいのか。
それは、あなたの冷静に見きわめる目が必要になってくるのです。






寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。
人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。
                                 ホイットマン







私たちには、まだまだ知らないことがいっぱいあります。それを楽しむことです。
まだ知らない「”今日”起こること」を楽しみましょう。







自分が夢中になれること、大好きなことを、人のことなど気にしないでやることができる。それが大人だってこと、忘れていませんか。








若いとか年とっているとかいうことは、凡庸な人たちの間にだけあることだ。あるときは年をとり、あるときは若くなるもの。ちょうどうれしいときがあったり、かなしいときがあったりするように。
                                ヘッセ







つらいと思うことはたくさんあります。けれど、私たちは自分というものを引き受けて初めて、自分を知ることができ、そして同時に、他の人や「今」生きている世界を「自分自身として」、愛し始めるのではないでしょうか。






自己主義になってみましょう。今まで、あなたは誰かのために自分の欲求を抑えすぎてきたのです。自己主義とは、正直になれること。それは、私たちには勇気がいるでしょう。けれど、自分に正直になることは悪い事なんかじゃないのです。あなたはきっと、もっと自分を好きになっていくでしょう。








私たちが話す言葉は、その言葉だけが相手に伝わっていくのではなく、自分自身も一緒になって相手に伝わっていくものです。







自分という存在は自分のもの。そして相手という存在は相手のもの。私たちは誰かによって生きることをしなくていいのです。
人と人との関係は、お互いを“お互いとして分かち合う”ことで、強く結ばれていくのです。







”生きづらさ”を抱えながら、自分であり続ける勇気を持った時、私たちは真に自らを引き受け、愛することができるのではないでしょうか。





以上
またね***



2011年8月25日木曜日

人生の100のリスト(食べる読書45)



あなたは人生を味わっているだろうか。




どんな味がするかは自分が食ってみないことには分からない。




人生で何をしたい?そのしたいことを味わってみたらどうだろう?




本書は著者が100のリストとともに送った半生を記した一冊。




一人の人間の半生をともに味わえる一冊。





とても人間らしい、人間臭いとでもいおうか、単なるきれいごとだけではなく苦しみや悲しみなどもそのまま記しているのがとてもいいと感じた。





人生を豊かにするちょっとした工夫が“100のリスト”かなと感じた。





以下抜粋




彼はこのリストを大学時代に作成し、三十年かけてすべて達成したのだ。






「根源的な痛みを感じ、理解し、浄化することによって、我々は初めてその呪縛から解き放たれ、本来の自由で生き生きとした自分を取り戻すことができる…」アーサー・ヤコブの言っていたことがやっと理解できたような気がした。心をオープンにすることによって、過去の自分と現在の自分が歩み寄り、融合していくのを感じた。本来の、自由でエネルギーに満ちた自分がぼくの元に戻ってくるのが分かるのだ。








「エグザイルス」という空間そのものが人をオープンにさせる、特別な雰囲気をもっていたのかもしれないが、こういう環境にいると、人間を測る物差しというものがいやおうなく変わってくる。人を偉い、偉くない、有名、無名、勝ち組、負け組などと判別することがいかにバカバカしいことか、肝で感じるのだ。人はやはり中身だ。格好良い奴は、何をやっても格好良いし、格好悪い奴はどんなに偉くなっても格好悪い。







確立された社会から逃げ出したかったのだ。・・・。
このままこの国にいても、自分の可能性を追求することはできないだろうし、ズルズルと型にはめられてしまうのがオチだ。自分の個性も、エネルギーも、夢も、創造力も、すべてが日々の繰り返しの中で摩耗してしまう。自由にやっていくにはここでは駄目だ。脱出しなくては、と本能的に感じたのだ。







そしてのんびりやりながらも、自分の可能性を真正面から追及していくことができた。







「人は一度逃げ出すと、一生逃げ続けなくてはならない」と誰かが何かの本に書いていたが、これは一度祖国を逃げ出した人間にも当てはまる言葉かもしれない。国を離れ、長い間海外で生活していると、本当の意味で「帰って行く場所」がなくなってしまうのだ。少なくともぼくの場合はそうだ。不思議な浮遊感が心の中に芽生え、次はどこへ、次はどこへと、まるで逃亡者のような心持で人生を歩んでいくことになる。







人間、仕事や家庭や日々のルーティーンといった日常生活の諸処から解放され、何もない空間に身を置くと、日々忘れていた、または忘れようとして潜在意識にしまいこんでいた深い感情や幼い頃の思い出、痛みや怒り、闇や孤独、そして未知なるものへの普遍的な憧れといったものをふっと思い出すときがある。そういうときこそ我々はそれらをもう一度しっかり見つめ直し、自分との折り合いをつけていかなくてはならない



彼は夕暮れ時の光に洗われた砂丘の中に姿を見せた弟に向かって話しかけ、悲しみや喪失感や孤独といったものが湧き出てくるのを感じ、泣き、心が静かになると、太陽が砂丘の向こうにゆっくりと吸い込まれていく光景を目にした。そして、急に軽やかになった心で、過去を消し去ることは不可能な事だが、過去から自由になることは限りなく可能に近いことだということに気づく。







リストのいちばんの成果は何と言っても、やりたいことを思いついたまま書くという行為を通して、ぼくが生まれて初めて自分と向き合い、将来について思いを巡らせたことだ。







行きたい場所だけでなく、人生そのものを舞台において、やってみたいことをいろいろと考え、それを達成する自分を想像する。できるできないは別として、夢を追っている自分の姿を思い描くことそのものがぼくにとっては楽しい遊びなのだ。そしてもちろん、そんな夢を成し遂げることができたらできたで、未来に対する思いはぐっと膨らみ、自分に対する自信にも繋がる。やろうと思えばなんだってできるじゃないか、という前向きな気持ちになれるのだ。





以上
またね***



2011年8月24日水曜日

君に成功を贈る(食べる読書44)



中村天風氏が若い人へ講演をしている形で、「心身統一法」の考え方と実践の手法をやさしく解説している。




人生の成功を決定づけるのはただ一つ、“心のあり方”である。




この一点について分かりやすく説いている。




他の自己啓発書はいろいろなことに関して述べているので、大事な内容が複数あり、その中での優先順位や関係がわからない。が、本書はただ一点についていろんな視点から述べているため、とても身に残りやすい。




心を常に積極的に、明るく、動じない状態にしておく。




以下抜粋




「俺はあいつが好きだ」
と言って信長は、にっこり笑ったといいます。理屈はないんですよ。






自分の言葉や行いが、他人を怒らせたり、他人に心配かけたり、迷わせたりすることは断然、しないことです。他人を怒らせたり迷惑をかける人で、「他人に好かれる人間」というのはいやしないんですから。
それと、他人から受けた恩義はもちろん、どんなささいなことでも、他人の行為は常に大きな感謝で受け入れることです。







側からは辛かろう、苦しかろうと思うようなことでも、本人がああ嬉しい、ありがたいと考えれば何でもないんだ。何もかも心の置きどころを変えることです。







自分自身を自分自身が磨かない限り、自分というものは本当にえらくならない







第一に、他人に好かれること。他人に好かれようと思ったら、自分が好き嫌いを言わないこと。それから同時に、どんな場合があっても、思いやりをもって「もしも自分があの人ならば」という真心で親切に応接する。






当たり前のことをやって、そして生きてられんのはどういう訳だろうということを、ちょいと考えてみましょうや。





事あるも事なきも、いつも積極的という心でその心を保たないと、このナーバス・システムというものは、うまく平均した状態で働かない。すると、肉体に必ず故障というものが生じてくるんです。





自分に降りかかる不運なり不健康というものは、自分が知ってか知らずに関わらず、原因はすべて自分にある。
病なり不運というものは、自分が犯した罪の結果、生じたものなのであります。






いついかなる時といえど、心の尊さと強さと正しさと清らかさを失っちゃいけないのであります。







いかなる場合があろうとも、尊さと強さと正しさと清らかさを失うまいぞってね。そのためには、いいかい、自分の心の中に「悲観的なもの」「消極的なもの」を一切、入れないことです。







何かを言ったり、行った後、自分自身で、何かこう、気がとがめるような、なんだか後味がわるい、というようなことを言ったりしなきゃいいんですよ。







人生は何よりもいちばん先に、まず考えなければならないのは、心なんです。なぜかというと、月を見ても、花を見ても、仕事をしても、遊ぶのでも、すべてそれを心が認識すればこその生甲斐でしょう。







年齢を考えるから年齢があるように思うけれども、60,70歳になろうと、自分が17,8歳時代と考えてみて、違っているのは体だけ。そして、もう一つ違っているのは、心のなかの知識だけの話で、心そのものはちっとも変っていないはずです。








若いころに出世街道をまっしぐらに行ったあの秀吉を、じーっと考えてみたら、自分に学問や経験があろうとなかろうと、心の持ち方一つが、結局、人生の運命を決定するんだということに気づくはずです。






力は学問や経験でできるものではありません。ただ、ひとえに心の態度を積極的にする以外に方法はないんであります。






幸福や幸運というものは、自分が呼び寄せなければ来やしない





自分の心はどんな運命に対しても、どんな健康に対しても積極的かどうか。自分の心は、ほんとうに尊いか、強いか、正しいか、清いか、自分自身おごそかに考えてみてください。






数ある同僚の中からぬきんでて偉くなる人は、結局、偉くなるべき資格を持っているんです。その資格とは、「誰に言われなくても、日々毎日、実際に努力している」ことなんです。ですから偉くなったのは、これがための結果なんです。






あなた方の思い方や考え方が、現在あるがごときあなた方にしている







「自分が知ってか知らずに関わらず、蒔いたとおりに花が咲く」
ほんとうに、もうそうなんですぜ、これ。






「すると待てよ、かりにいちばん考えやすく、明日の朝、死ぬとしたら、まだ今夜は死んじゃいない」
「では、どうせ明日の朝、死ぬんなら、その死ぬときまでは生きているんだから、ビクビク生きているよりは、生きている間は楽しく生きていこうという気持ちになったほうが、どうも得のようだがどうだ」








生きているのは宇宙エネルギーのおかげなんですぜ。しかもその宇宙エネルギーを生命に受け入れるオーガニゼーションが何かということを、第一に知ってなきゃいけませんよ。







ショックや衝動をいちいち心だけで受けてると、そのショック衝動に心がいたぶられちまうんだ。








「人間が自分の人生に対して絶対的に積極的な心の態度で生きるということは、この複雑混沌たる世相にあっても、本当に幸福に生きぬいていく秘訣である」







人生は心であり、観念であります。これこそが、あなた方の人生を極楽にもし、また地獄にもすることができうる、唯一のものなんです。






いいですか、心の態度を、いちいち対外的なものに反応・反射せしめているかぎり、しょせんは消極的におちいる場合のほうが多いんです。まして、今日のように消極的なもので溢れかえっている世相においては、なおさらのことですよ。






人間は万物の霊長として創造の大使命を行うがために、この世に生まれたのでありますから、一面においては他の生物とは比較にならないほどいろいろな恩恵を授けられているんです。







いかなる場合にも怒りや悲観という、人生を泥ぬるような、悪魔を招くような愚かさを演ずることなく、事あるときも事なきときにも、いいえ、事あるときはなお一層、笑顔をくずさないように練習してごらん。







やればできますよ、あなた方も。心もちを、ぱっと変えちゃえばいいだけなんだから。まことに人生は、心ひとつの置きどころなんです。






人生に生きる刹那刹那の思い方、考え方を変えるっと事が、結果に置いて、尊い人生観というものを、本当に頼もしく変えられる大根大本なんだぜ。







思えば思うほど楽しい、考えれば考えるほど嬉しい、ということだけを心の中の絵巻物の中に、はっきり、しょっちゅう消えない形で書きどおしに書いて人生を生きることこそ、人生極楽の秘訣だぜ、これ。






心の態度が積極的になると、心の力が不可能を可能に逆転せしめる。



以上
またね***



運命学(食べる読書43)



運命学と題して、人相と手相について語っている。



著者は長年多くの人相・手相を観てきたが、この本がそういう分野において初めての著作だという。また、本の内容は、主に雑学的である。





著者の経験等を織り交ぜながら人相・手相の相について述べているので、読んでて面白いし楽しい。






だが、本自体の過失ではなく、読んでてその都度自分の顔や手とにらめっこしている自分に対してちょっと複雑な思いを抱いたというのが本音だ…。






俺はこんなにまでして自分自身の良い部分をどんなに細かいところも見逃さないように探さないと見つからないほど自分のよさを自分で認められていないのか…。と思う一方で、運命学から観た自分はどんな人間なのか知ることは決してマイナスではない、となぜか積極的な自分もいる。





といった相反する自分にすこしばかり翻弄されていた読書時間でした。





結論として、この本のみで判る(しかも自分で理解し、素人判断した)自分の人相・手相は、あまり良くなかった…。というか、そんなに悪くもなかった。可も不可もないと言ったとこだろうか。





おおまかに言うと、人相より手相がよかった気がする。顔はあまりい人相の部類には入ってなかった。自分とは違うタイプが人相いいんだよなあ。一方、手相は悪くなかった、中の上と言ったとこだろうか。良いところだけ覚えてて恐縮だが、どうやら、「銀のフォーク」らしい☆





夜の電車に乗りながら読んでいたのだが、その都度窓に映る自分の顔を見ていろんな顔をしていた。眉間のしわって顔をしかめたりしたらできるよなあ。額ってこの形はどうなんだあ?眼の色は窓に映る自分ではわからないなあ。口小さいんだよなあ。などと思いながら窓に映る自分を見つつ完全に自分の世界に入っていた。気がつくと、ほかの乗客の”なんだこいつ?”という視線に気まずくなり、小さくなる。が、しばらくすると同じことをする…みたいな(笑)。





本にもあったが、人相・手相は変わるそうだ。あくまでその時点でのその人の状態ということだろう。大事なのはどうそれを良いほうへ変えるかである。これに関してはあまり触れていなかった。だから、人相・手相で現状把握し、どう軌道修正するかは他の方法で自分で頑張ってくださいというとこだろうか。だからと言って、人相・手相が役立たずだとは思わない。人生80年のこの時代。どんなに生きても100年前後である。だが、人相・手相は長い歴史があり、また多くの人の記録からなる。つまり、一人の人間の一生では見えてこないものが、長い年月と多くの人を観た経験から見えてくるのが人相・手相である。




そう考えると、一人の人間を超えたものが人相・手相を通して見えてくる可能性はある。それが運命であったり、宿命と呼ばれるものかもしれない。




楽しかったです。
ありがとうございます。



以下抜粋


ヤクザは失敗のけじめに小指を詰める。・・・。なぜ小指なのか。小指には子供、子分、後継ぎといった意味がある。失敗したり、不始末をしでかしたり、取り返しのつかないことをした場合、
「ヤクザ稼業はお前一代で終わり。子分を作ることはならんし、独立して一家を持つことは許さない」
ということから、小指なのである。その後に手柄を立てたり親分の覚えめでたいなどで独立といったケースはあるだろうが、本来はそういうことなのである。







学問やアドバイザーとしてやっていくのと、実際に渦中で手腕を示すのとは違うのである。






「翁は法相を学ぶために、三日間“神相全篇”を受けましたところ、講義があまりに月並みであったため、独学で相学を研究する決心をしたのであります。
そのためには風呂屋の三助を三年やって、あらゆる体格を覚え、髪結いの弟子を三年やって人の顔形を知り、最後に焼場の隠亡となって三年間、人の骨格を研究し、そして現在に伝わるところの一大法相の聖典“南北法相”を編み出した人であります。」






不幸を最小限に止めることこそ人相・手相を観る上でのメリットなのである。
「不幸よ悲しみよ、どうしても逃れられないならば、せめて私を賢くせよ」
とは、評論家の故・亀井勝一郎の言葉である。








実は、この線(太陽線)に限って出たり消えたりする。つまり、幸運の女神がぴったりくっついている時にはくっきり刻まれており、ひとたび衰運となるや消えてしまう。では、消えないためには、あるいはまったく無くとも刻まれるようにするにはどうするか。心の持ちようが問題。いつも、“心に太陽を、唇に歌を”を信条としていれば、この線はぐんぐん勢いよく刻まれるのである。






昨今のようにバブルがはじけ、不況が長引くと、サラリーマンは野心など持たずにじっと死んだふりをきめこむのも一つの生き方であろう。





以上
またね***



2011年8月19日金曜日

人生の波に乗る人乗れない人(食べる読書42)



深見東州氏、植松愛子氏、に師事する著者が人生で起こる事柄に対しての考え方を霊界や仏教的な視点から書いている。




ほとんど霊界や仏教に関して勉強していないので、この本で物事に対する新たな見方を知ることができた。




特に、すべては陰と陽のバランス。例えば料理はあえて手を加えない部分があるので、「料理する+料理しない=料理」。

一流の人はだれよりも多くの失敗をしている。そこから、「こういうことはしてはいけないんだな」と学んでいく。世間で注目されるのは、成功した一つの作品であるが、構想や習作、試作などそこへたどり着くまで、どれだけの失敗や行き詰まり、葛藤があったか。だから、「成功+失敗=成功」となる。





他にも読んでて新たな視点だったり、子供のころはそうだったが気がつけば失っていた考え方など、自分の視野の狭さを感じるとともに、世界の広さというか仕組みというかこれまで目を向けてなかった世の中、自分への見つめ方を知れたので清々しさも感じる。




面白いです。




以下抜粋



「誰にも知られずにいた花」は誰にも知られないけれど、私たちは「誰にも知られずにいる花」があることを知っています。そこに精神的な意味が生まれるのです。
ひとたび、それが人間の精神や行動と結びついて語られると、突然大きな光を持って私たちの心に迫ってきます。






オーケストラの演奏には、普通に聞けば聞こえない音が含まれていることをご存知でしょうか。
この耳では聞こえない音を、私たちは体と心のどこかで受け止めています。これが微妙な奥行きや深みなどを与える、いわば音楽の隠し味になっているわけです。





そのものの持つ真の価値は、後世になってみないと分からない、また、視点をどこに置くかによって初めて分かるという例はかなりあります。






よく「自然な状態」と言いますが、これは八割が「自然」で、二割方不合理な要素、つまり不自然が混じっている状態を言うそうです。十割すべてが合理的というのは決して自然ではなく、どこかに割り切れない部分があるのが本当に自然な状態なのです。





来世に持ち越せる三つの宝。学問、芸術、信仰心の三つを深めていくことは、己を磨いていくことであると同時に、運勢を改善することでもあります。そしてこれらは、日々の生活の中でも磨いていくことができます。





一つのことを貫いていくこと、これが信仰心なのです。
そして、もう一つの側面から言えば、どんな相手に対しても愛の想いを出せるようになれば、これも立派な信仰心のあらわれということができます。







誰にでも、いくら精進努力してもなかなか良い結果が出ない時期というのがあります。いわゆる衰退期ですが、実はその期間こそ自分の内面がどんどん磨かれ深まる大切な時なのです。






忍従と忍耐は違うということです。観念的な正義感や道徳で自分をしばり、表面を取り繕いながら耐え続け、心の中でもがき苦しんでいるのは単なる忍従です。本当の忍耐というのは、内面があくまで明るくなければなりません。そのためには悟りが必要ですが、明るく耐えるために、いろいろ想念を工夫することが大切です。
つまり、「耐える+明るさ=忍耐」、これが大切なのです。






物事にはすべて両面があります。今の自分があるのは自分の力、つまり自力だけではなく、何か別の力、すなわち他力も働いているのです。






人生にとってポイントとなる部分は、自力よりむしろ他力に負うところが大きいのではないでしょうか。






今世で大きく成功しているスーパースターというのは、必ず前世で多くの人を救っています。その徳分が今世で才能を発揮できる環境となって現れているのです。






本当に愛があれば、人々を幸せにしたいという切なる想いがあるなら、必然的に己を磨いて実力を蓄えるという方向にその想いが向くはずです。
求道、すなわち真理を探求し己を磨くことにより、人間性が豊かになり、叡智が備わり、そこで始めて多くの人を幸せにすることができるようになります。




愛と真心をもって、仕事や社会、家庭生活の中で、学問、芸術、信仰心を深める努力をしていくこと。少なくとも人に迷惑をかけない人生、すなわち、自分のことはすべて自分で(もちろん他力も使って)解決できることが第一歩です。








守護しないことによって何かを教えている場合もあるのです。







同じ答えが三つ重なったら守護霊のメッセージと受け取ってよいようです。投げかければ投げかけるだけ答えが返ってきます。従って、神仏や守護霊から答を間接的に受けるには、まず発願をすること、次に実行し、そして何でも投げかけることが大切です。







「天道人を殺さず」という言葉がありますが、世のため人のために自分の時間と労力を割いて、社会に貢献している人がいれば、神や回りの人が放っておきません。必ず、捨てた分だけ神様は補ってくださいますし、協力者が現れたりして、人の何倍も効率よく物事が進んだりします。
このような良い循環ができるまで、多少時間はかかりますが、誠の心で突き進んで行けば、必ず道は開けるのです。








地獄に落ちることを恐れていては大きな仕事を成し遂げることはできません。多くの社員の生活を守るために、冷徹な決断を下すこともできなければ、大きく世の中の役に立つこともできないわけです。
つまり極端にいえば、地獄に落ちるのを覚悟で善を貫かなければならない場合もあるのです。









能力に関しては一朝一夕で伸びるのは難しい。しかし、すべてがこさせるような環境、これは他力で整っていく。そうなると一見不可能にみえたことも可能になって来るものです。







素晴らしい教えを聞いたあと、それをすぐ実践するかどうかでその人の本質が分かります。







謙虚に学んで、ある程度体得し、深く咀嚼して、いろいろな角度から研究した話であれば、聞いた人にも必ず喜びや感動が伝わり、また何らかの悟りがその中にあるものです。







どのような境遇に立たされてもじっと堪え、愛と真心を失わずに、その時に自分ができる精一杯を黙々とやり続けていく。
これのできる人は、かなり大本ができあがっていると観ることができるでしょう。






物事の外相に囚われるのでなく、志を立て、大本に目を向けていることが大事です。物事の成否、成功、不成功に捉われるのではなく、前向きか、自分の魂が愛に満たされているかどうか、燃えているか、努力しているか、清々しいか、明るいかなどに目を向け、常にチェックしていくことが大切です。







何でも一流のものに触れたら、その背後の奥深い気を吸収するようにすると、自然な形で、総合的なレベルアップを図ることができるようになるのです。





以上
またね***



2011年8月18日木曜日

社長のための時間の使い方(食べる読書41)

屁理屈無し 社長のための時間の使い方

これまでそんなにだが、数冊は時間管理に関する本を読んできた。




その中でもこれは抜群に説得力がある。本質を突いているし、根本的な考えの転換が必要ということを痛感する。







私自身、時間管理は最も苦手なもののひとつである。だから、ついイライラしたりどうすればいいかわからなく途方にくれながらもとりあえず思ったことをやることの繰り返し。





結果、10年前とほとんど変わらず…。





本書の価値観で時間をコントロールする。




これが目標。




自分のダメっぷりを披露するより、本書の「ここは!」と思った部分を抜粋し、ときどき見返したい。




以下抜粋





訪問予約のような簡単なコミットメントでさえ守れないような大人は、相手と相手の時間が大切ではないと言っているのではなく、自分と自分の時間も大切ではないと無意識のうちに示しているようなものだ。要するに、そういう人間は、自尊心があまりないと言っているようなものなのだ。






肉体的にも精神的にも試練となるのは目に見えていることに対し、万全の準備をするだけの自制心があったなら、彼女は大学の人々から尊敬され、まずは生き延びることができたと思う。





あらゆる勝者には明らかに自己鍛錬した跡が見てとれる






最終的に手に入れなくてはならないのは、厳密に管理され、定期的に使用される、自分にとって有用な何らかのリスト作りのシステムだ。






目標なくして、目標とのつながりなくして、生産的にはなり得ないというのが私の定義である。達成度を測らずに生産的に離れないというのが私の定義である。








自分の金を何に使ったのか覚えていない人間が永遠に貧乏から抜け出せない運命であるように、自分の時間を何に使ったのか覚えていない人間は永遠に非生産的なまま生きる運命なのだ。しかも、しばしば貧乏になるのも運命だ。




理想をいえば、自分の1日を、起きてから寝るまで30分単位でスケジューリングすべきである。






100名を超える一世の億万長者企業家たちと、親しく、個人的に、実地に仕事をし、ビジネスを広げてきたという点においては、私はほかに類を見ないのではないかと思っている。







このチャンスに満ちた国で、良い暮らしができていないのは恥ずかしいことだ。私は貧乏であることに名誉など感じない。一時的にお金がないのは恥ではないが、一生を通じて貧乏を受け入れるのは恥である。








豊かな人とは時間の使い方がうまい人である






自分に大きな喜びと充実感をもたらすように時間を使おうとする人、自分が心から面白いと思う仕事をしようとする人、自分の仕事仲間を選ぼうとする人、仲間に何らかの貢献をしようとする人は、口座の預金残高に関係なく、毎朝豊かな気持ちで目覚め、毎晩豊かな気持ちで眠りにつく。







専門化すれば、ほぼ間違いなく付加価値がつく。さらに、情報の流れを制限できるようになる。






どんな分野で起業するにせよ、スペシャリストは十中八九、ジェネラリストよりも稼いでいるということは心に留めておくべきであろう。


屁理屈無し 社長のための時間の使い方






自分の時間や努力に依存するビジネスと収入を減らすために、自分はどういうプランに取り組んでいるだろうか?







5%の人間がお金の95%を得ているという事実にはあれこれ理由があるが、切迫感の有無もその一つだ。私たち、その5%に入る人間は95%の人々にはない切迫感を持ち合わせている。







この“空白の原則”は長らく私の役に立ってきた。やっかいで手がかかる顧客にノーと言ったり、取引をやめるたびに、もっと良いビジネスがすぐに現れ、そのあとを埋めてくれるのだ。






(超常現象は、)まず、すでに超生産的な人に起こるように思えるということ。次に、価値ある明確な目標をすでに一生懸命追いかけている人に起こるということ。3番目に、高い業績を上げている人たちと付き合うことで“ステップアップ”してきた人に起こすように思えるということ。4番目に、一つの“急激な変化”から始まることが多いということだ。あなたは感度を高めてその変化を認識し、大いに生かさなくてはならない。








自分の生産性を最大限まで高めるためには、とにかくすぐにおしまいにし、保存し、クリアできるようにならなければならない。一度に1つのことだけに、目の前にあることだけに、自分の心のすべてを注ぐためだ。







私たちが追い求めるのは効果であって効率ではない。






時間節約の素晴らしいコツを1つお教えしよう。
迷ったらやめろ、である。







自分が決心することがとても重要である。あなたの値段を決めるのはあなただ。他人がそれを“納得”し、尊重するかどうかを決めるのもあなたである。







本当のことを言おう。人間に与えられた権利はチャンスだけだ。ただし公平なチャンスすら与えられてはいない。とにかく何もない。あるのはチャンスのみである。






成功は別に大した神秘ではない。話を複雑にしたがる、そしてすでに申し上げたように、良い言い訳をみつけたがる多くの人には、その点が実に期待はずれなのだ。だが、成功とは、あなたが時間をどう使っているのかを反映したものに過ぎないのである。







正しいことをすれば、他人から評価を得、自尊心が生まれ、自分の力が蓄えられていくのです。






最高に生産的な活動をしたいのなら、自分が並外れて上手にできる少しのことに、できる限る時間を差し向けることです。嫌なことやあまり上手にできないことをやらずに済ませることなど無理です。







自分に素直になることではないでしょうか。何かを引き延ばしているなら、引き延ばしていないふりをしないことです。そして、他人の優先順位に左右されるのではなく、自分の優先順位をしっかり定めて人に言い続けることも大切です。







決断する数が多いほど、そして早く決断するほど、あなたはより生産的になれます。








現実はこうだということをしっかり把握しておけば最も成功し、どうあるべきかということに振り回されると最も成功しない、ということを私は発見した。






企業家になる目的とは、本当に本当に金持ちになること。そして、あなたが取ってきたリスクと責任に対し、まさに自分が求める人生とライフスタイルで報いることである。





以上
またね***
屁理屈無し 社長のための時間の使い方


2011年8月16日火曜日

心にきた言葉集32

「俺たちが恐れているのは、自分の計り知れない力だ。


自分の暗部でなく輝きが怖い。


でも、周囲の人を不安にさせないよう輝きを隠してはダメ。


俺たちは光り輝くべきなんだ。みんな同様に。


俺たちが明るく輝けば、みんなも明るく輝く。


恐れから解放されれば、みんなの恐れも消える。」












一度はバスケットをやめた生徒が部活に戻って仲間と勉強しているときにコーチに向かって言った台詞。




心に響いた。




自分の輝きを恐れているという言葉。




その通りだ。




たいていのことはできる。のに、・・・




周囲への不安を理由に自分を押し籠めている。





自分が周りを照らす。





照らされるのではなく、





自分の力で自分の生きる「場」を造る。





よおおおおおおおっし、





ちょっと光ってみようかな!!!




以上
またね***




2011年8月15日月曜日

現代医学に残された七つの謎(食べる読書40-2)





本書の中で著者も触れているが、現在の医学をはじめとする学問はスポーツへと堕ちた気がする。



ちょっと言いすぎかもしれないが、そう思ってしまう。




科学は、ある真実の有無を確かめ、それをどう活用していくかという形になっているのが現在だと感じる。そのある真実を確かめるにはそれ以外の要素が影響しないようにかなり極端な環境を人工的に作り出す必要がある。そんな極端な環境を作り出すのにはかなりお金がかかる。なぜなら極端な環境だから。これはエントロピーとも関わってくるため金がかかると考える。





つまり、予想される結果があり、それを確かめるには天才的な発想ではなく、どれだけ金を集めて誰もできないような極端な環境の中で自分だけが研究できれば、それだけでその分野で一流なのだ。




最近のノーベル賞などは紙と鉛筆だけで新たな概念創出というのはなく、どれだけ効率的に実験を行えるかの能力が金を集めて、それによる確かな実験結果であろう。






本書は各謎に対して科学者たちがどう研究したかの歴史から説明していて、その謎の説明に至るという形をとっている。それぞれの謎に対する著者の考えは示されてはいるのだが、…物足りない。それじゃあ、ただの教科書だし、教科書にしては中途半端。




謎というからには、それに対する科学者たちの謎解明への意欲もほしかった。なので、一つの謎に対して複数の科学者の意見がほしいところ。



謎を通して、医学界の現状、それを取り巻く環境が本書で、少しだが見えてきた。その結論として、新たな時代の扉は科学によっては開かれないだろうということを感じた。



以下抜粋



自然科学を生んだ欧米の人々の、物事を解明しようという熱意と執念を感じずにはいられない。彼らは政府の補助や指示などなくても自主的に横の連絡をつけ、スポンサーをみつけ、目的を達するのである。一方わが国では、これまで自主的に医師、鍼灸師により行われた鍼の治療効果のテストでは被験者数が二十名を超えたものはなく、テストの内容も欧米のように客観的なものではない。







この感覚神経の電気インパルスの自律神経への「飛び移り」は極めて重要な知見である。なぜなら、大脳皮質の精神活動に直結する体性神経系と、精神活動とは無関係に身体機能を調節している自律神経系とを連絡する神経の連絡路は、解剖学的に知られていないからである。





一般に、ある仮定された構造の実在とその生理学的な働きは、解剖学や生理学の研究により証明可能であるが、逆にある仮定された構造やその働きが実在しないことの証明は原理的にほとんど不可能なのである。いくら研究を重ねてその実在を否定しようとしても、「将来実在が証明されるかもしれないではないか」と反論されればそれまでで、議論は平行線をたどるばかりである。実際に現在も「経絡路は実在し、神経回路とは無関係である」との主張が鍼灸師によりなされている。






脳波記録そのものが抱える複雑性、あいまいさ性に加えて、物質の効果の脳波による判定の際、実験動物の状態が過度に単純化されており、さらにこの単純化にもかかわらず、その睡眠に及ぼす効果は劇的とは言い難い。以上は実験法の問題である。






動物の体内には独自の概日リズムを作り出す体内時計があること、またこの概日リズムは光照射によってリセットされえる、つまり再認識されたのちスタートすることがわかる。






体内時計はこのように広い意味での化学反応に依存しているにもかかわらず、温度変化の影響をほとんど受けないことがわかっている。一般に化学反応の速度は温度の上昇とともに増大する。・・・
体内時計ニューロン内の一連の化学反応速度が、フィードバック機構により調節されているとはいえ、温度変化に対して一定に保たれているのは驚くべきことである。





じつはメラトニンの効果は、いくつかの睡眠物質探究グループによって既に1960年代から実験動物やヒトで調べられており、きわめて深い睡眠を起こすことなどが示されていた。しかし彼らは、睡眠が深すぎるので異常であるとか、投与量が多すぎるなどの理由でメラトニンにさして注目しなかったのである。この事実は、研究者グループ間の溝、偏見、排他性などを考えさせてくれる。





ある仮説を立てて長年研究を続けていると、この固定観念から逃れることが困難になることがわかる。





実験的に存在が確かめられている細胞あるいは神経回路でも、解剖学的にその存在を示すことが困難な場合がある。したがって重要な働きをする神経回路であっても、実験的にも解剖学的にも存在が確かめられない幻の状態にあるものが多数存在するのである。体性神経系と自律神経系を連絡する神経経路もそのようなものの一つである。







電子顕微鏡の解像度は極めて高いが、観察すべき試料の構造は、固定、脱水、包埋などの処理のため、生きていた状態とは著しく異なっており、生きた筋肉でのミオシン頭部の運動の研究には不適当である。






自然科学の研究分野は、一人の天才によって一挙に切り開かれる。これをブレークスルーと呼ぶ。すると多くの研究者がその分野に群がり、盛んに研究を行うがやがて壁に突き当たり、目覚ましい進歩の見られぬまま時が経っていく。自然科学のこのような発展段階をノーマルサイエンスという。







実際の人体はこれよりはるかに多数の、異なった有機物質から構成されている。また体内のタンパク質の過半数は糖類と結合した糖タンパクである。しかし糖類の遺伝情報はDNAには書かれていない。さらに生体にとって最も重要な細胞膜の主成分は脂質であるが、この遺伝情報もDNAに存在しない。







多くの場合、遺伝暗号欠落動物は卵子から成長した後、期待されるような異常を全く示さないようである。この結果は明らかに、動物が成長する間に遺伝暗号の欠落を補うメカニズムが働き、将来起こるべき障害を打ち消してしまうのである。これは生体の持つ驚くべき能力と言わねばならない。われわれ自身も遺伝的欠陥を持って生まれ、これを補うメカニズムのおかげで生きているのかもしれないのである。

しかし、このような研究者の期待に反する結果が得られると、生体の神秘がまさにベールを取り去り顔を見せかけているにもかかわらず、研究が失敗であったとして研究者は何の発表も行わない。反対に予期した障害が動物に現れると、研究者は欠落させた遺伝暗号の機能的意味が解明されたとして、得々と成果を発表するのである。このようなことでは、たとえ予期した障害が現れても、短絡的に遺伝情報の欠落と結びつけてよいのか考えてしまう。







自然科学とは、仮説を立て、実験によりその正しさを確認し、さらに仮説を立てる…という過程の繰り返しにより、どんどん研究を進歩させてゆくのが常道である。しかし、この常道はいつもうまくいくとは限らず、行き詰まりに陥ることもある。そのような場合、その研究分野は近縁の研究分野の進歩から取り残され、いわば置き去りにされてゆく。







研究の最前線として現在、脚光を浴びている脳の働きと遺伝暗号発現の謎。私はこれらの分野の研究の部外者であるが、近年のこれらの分野への「トップダウン」による巨費の投入に疑問を感じている。この分野の研究法はほとんどが外国から導入したものであるが、政府によるバランスを欠いた研究費の配分により、一部を除く大学では研究室の予算は激減し、独創的研究がその芽を摘まれている。そして、これらの分野の研究は停滞しているとしか思えないのである。



以上
またね***


現代医学に残された七つの謎(食べる読書40-1)





題名の通り、今の医学では解明できていない謎を七つ上げている。



・鍼灸の治療効果の謎

・磁場の人体に及ぼす影響の謎

・睡眠の謎

・病は気からの謎

・「天然のリニアモーター」筋肉の謎

・記憶のメカニズムの謎

・人体の設計図の謎


の七つ。



この個々について論じるよりも、まず謎について考えたい。



謎とは何か?もちろんわからない部分。だが、わからない部分が何かは分かっている。



知識が増えれば増えるほど、それに合わせて新たな未知の部分も増えていく。



つまり、何が謎であるかをズバリ一言で表現できるということはその分野に関する知識はかなりあるということ。よって発達している分野と言える。




一方、何が謎であるかすらわからない、またはどうとらえればいいかわからない分野はまだまだ未開だということである。




この本で取り上げられている七つの謎はそれぞれ把握できない未知なる領域がある。その存在について論じられるということはこれまでの研究者達の成果である。そして、この未知なる領域を把握する道具の発明が必要だと感じた。




それは新たな概念の発見ではないかと考える。




なぜなら、従来の概念で物事を全て把握できるならもうすでにそれをしているからである。だが、どうやら謎が多そうだ。だから、この現実世界に異なる光を当てて誰も観たことのない現実世界の表情を観る必要がある。




ところで、もし我々の科学力が現実世界のすべてを知っていたら、我々はどのように存在するのだろうか。


知るということがどういうことかにもよるが、現実世界と我々一人一人が同一の存在となるのかあ?などと直感で思ってしまう。



では、我々の科学力が現実世界の一部しか知らないならどうだろう。



もちろんその一部の真実を活用し文明を築いていくだろう。が、その人類の発展が真実の一部の活用ということが厄介。(というか、真実じゃないと発展しないんじゃないかと思ったりするが、それはここでは置いておく。)人類が発展すればするほど、人類の活用する一部の真実が現実世界で占める割合が増える。そもそも現実世界の全てがわからないので何とも言えないが、その一部だけを強調することでどういうことが現実世界全体に起こるのかを知ることができれば、間接的に現実世界の概要が見えてくる気がする。というか、こういう考えのもと科学は発達してきたといえる。まさに科学的手法。



しかし、それの規模が大きくなると諸刃の剣になる。環境問題がその例であろう。そして、それは人間社会のルールを優先することで起きることでもある。確かに人間のルールは真実であろう。だが、それが成立する条件があるとしたらどうだろう。それは人類の存在条件と無関係ではない気がする。ブルー・ゴールド 狙われた水の真実 [DVD]はそれについていろいろなヒントをくれる。とても興味深い映画だ。



といろいろ書いてきたが、言いたいことはこうだ。



この世界を知る手段は科学だけではない。この科学的思考がどういうものか論じて初めてこういった謎の本当の意味も見えてくる。単なる技術的未熟さで解決できることではない。ただ見えている側面にさらに強い光を当てたところでさらに視野が狭くなるだけだ。




To be continued ・・・

2011年8月12日金曜日

東大で教えた社会人学(食べる読書39)





東大工学部卒業後商社に就職し、その後独立するという一般的な技術者とは異なる人生を送ってきた著者が東大生に対して技術者に必要な社会常識・経済常識を講義したものをまとめたもの。






学生に対する講義、しかもその学部の専門外ということで社会に対する講義内容は一般的な内容に終始する。堺屋太一や大前研一といった人たちのように研究・調査した内容を講義しているわけではない。





なのでその信憑性には疑問を持つべきだが、著者自身の半生における経験をもとにした講義なだけに、実践的な内容になっている。なので、受講生たちにとっては専門外の話ではあるが、自分の興味のないことが自分の人生とどう関わってくるのかを知るという点でかなり価値はあると感じた。若い時は興味ないことには見向きもしない。ましてや、技術者となると自分の研究のことで頭がいっぱいになり、少し社会性が疎くなりやすいように感じるからだ。





そういう意味で東大はバランスのいい教育をしているなと感じた。工学部の一講義で判断できることではないが、そんな意図は感じられる。






教育は社会で活躍する人材をつくるのが目的の一つ。なので、若者たちが今後活躍する社会はどんな社会なのか教えるのも教育の一環になってくる。よって、こういった本や大学の教養課程から現実社会のことが多面的に知ることができると考える。




こういったものは単なる知識として持っていて、そこから興味のあるものがあれば自分で掘り下げればいい。




以下抜粋



敗戦の後遺症で「アメリカが全部考えてくれる」「アメリカが守ってくれる」という、対米従属体質が骨の髄まで染みついている。
思考停止状態を続けている限り、本当の国家ビジョンは持ち得ない。





中国ではそれが当然だという。つまり、学校を作る場合にも、企業が工場を建てる場合にも、そこで働く人たちのすべての生活が成り立つような共同社会、いわば“学校村””企業村”を大学なり企業が作ることが求められるのだ。





中国では一つの会社の同じセクションに二人のヘッドがいる。一人は経済活動のヘッドだが、一人は政治単位としてその組織を統括している共産党の幹部で、最終決定権は常にヨコ糸のヘッドが持っている。






官僚機構自身が持つ組織防衛本能が今や日本経済のブレーキになってしまっているわけだ。






これからは社会全体が豊かになる時代ではなくなるということだ。成功した人と失敗した人の所得格差は確実に広がっていく。






科学技術の本質を理解していない文化系の人材を機構のトップに据えたために、本当のやるべきことができていないという場面に私は何度も遭遇している。







昔は漫然と生きていてもよかった。それなりに社会が成長し、会社が成長し、自分の地位も上がって収入も増えた。でも、これからはそうはいかない。地位や給料が自動的に上がっていくことはないし、下手をすれば日本という国自体がずるずると落ち込んでしまう危険性だってある。






本当に理科系の人種なら、世の中の現象を理科系の目で捉える義務があると私は思っている。今、世の中で起きていることにはどんな要素があって、それがどんな構造性を持っていて、それがどう動いているか。サイエンスの視線で社会や会社を見たときに、見えてくるものがたくさんある。自分がなすべきことも見えてくる。世の中に対して自分がアウトプットすべきことがわかる。







巷では東大生が就職するようになった会社はダメになるとも言われる。







特に東大生の場合、自分は出来がいいんだからいい就職先を選ぶ権利があるし、その権利を行使するのが当然だ、と思い込んでいる。






同方向のベクトルがどれくらい揃っているかということを数学では“内積”という。反対にベクトルがどれだけ違う方向を向いているかが”外積”。
変化の激しい時代に生き残るのは、内積の大きい会社よりも外積の大きい会社である。







将来、経営の一角を担うときに必要なのは全体の企画力であり大所高所の決断力で、文科系の社員は企画関係の仕事で成功や失敗を数多く経験する中で、骨身に沁みてそれを学んでいく。一方技術屋は「何を、いつ作るか」ではなく、「どう作るか」という実作業ばかりを繰り返し考えている。それが管理職以上になったときに大きな能力の差になって表われてくるのだ。








人間は自分が理解できる事柄を通してしか他人を判断できない。だから、相手に評価してもらおうとしたら、その相手の土俵に上がるしかない。相手の土俵で互角以上に戦って初めて評価や尊敬を得られる。そして相手の土俵に上がったつもりはなくても、相手は自分の土俵で人を不当に評価しているのだ。






人口統計を見れば、65歳以上の老齢者を現役世代が養えるはずがないことは一目瞭然だ。養えもしないのに、養えるという前提でものを考えるのがおかしい。






ゼロサムゲームがほとんどというのが日本の実力主義の実情なのだ。





給与総額の抑制に主眼が置かれた実力主義や成果主義の多くはこのような形で導入されてきた。






会社にとって必要な人材を確保するために、あるいは不必要な人材を切り捨てるために、実力主義は日本の企業社会に根付いていくだろう。







教育による社会階級の固定化は確実に進行している。







住宅が資産になるという考え方は、このようにインフレで土地が値上がりした時代の大いなる幻想にすぎない。







マクロ経済的にいえば、無駄遣いをするから潤う人がいるわけで、それで景気も活性化される。






老人虐待はどこでも起こり得る。悲しいかな、いつの時代もストレス発散は弱者に向けられるのだ。







被相続人は連帯保証債務があることを言い残さければいけないし、相続人は相続開始から三カ月以内に財産を徹底的に調査したほうがいい。たとえば被相続人が事業主だったりすると、家族に内緒で連帯保証をしていることも少なくない。何年も前の話で被相続人が連帯保証をしていたことをうっかり忘れているケースだってあるのだ。








保険設計というのは自分の人生における活動計画そのものである。自分の人生の中で、どんなことがどういう確率で起こり得るのかを考え、それに備えて保険をかける。





自分の人生をどうするかというプロジェクトを立てるときに、保険設計は格好の仮想演習になる。






以上
またね***





生きる

生きることを目指してきた いつからかはわからない 単に意味を見いだせなかった いや、自分本来の好きなことをする余地がなかった ただそれをしているだけでいい 別に生きる目的などなくても、それをしていればいい それをすることで飯を食っていくことはできない世の中...