2011年12月26日月曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-3)




本書を読んでいて、ふと浮かんだ言葉というか概念がある。


「責任」だ。


外部に漏れない極秘情報をネットにアクセスできる人ならどこにいてもそれが見れるようにしたウィキリークスの生い立ちから現在までの軌跡をつづっている本書。著者は、それをバーチャル対現実世界や既存の権力者対デジタル世界のエリートみたいに二項対立でとらえているが、それは適切な見方ではないと思う。



その理由を理解するキーワードが「責任」である。



責任なんてそもそもそんなものはない。責任というのは、その社会の価値観を反映したものといえる。



死刑制度のある国は、ある犯罪に対する責任は死をもって償うものであり、死刑制度のない国では同じ犯罪だとしても、死はその犯罪に対する責任とはならない。



その社会への参加証及び保障証のようなものが「責任」ではないかと思う。



「責任」と一口に言っても社会・生活の中で求められる責任は多様である。


よって、責任の機能は一つではなく複合的なものと考えられる。



ある社会に入るには、いろいろな証明等が必要なのかもしれないが、基本は拒否されることは少ないはずだ。しかし、その生活している社会の中で、何かしらルールを破ったり、そこからはみ出したなら「責任」を求められる。それは、今後あなたがこの社会で変わらず生活しつづけられるかどうかのリトマス試験紙となる。



よって社会の数だけ責任の多様性はあることになる。そして、それは社会のルールに対応するともいえる。



さらに言えば、社会といったが、日本という国だから日本にいる我々は皆同じ社会にいるといえるが、それだけではない。都道府県によってもその土地土地でルールはあるし、さらに市町村単位になるとそこにもルールはある。さらに、複数の人が集まると自然とそのグループ内でルールというものはできる。それを破ると、その人はグループから外されてしまう。



我々は多様な社会の組み合わせの中に自分の身を置いて生活をしているといえる。



ところで、社会というのはルールがあるわけだが、それは社会が一つの概念や価値観と同義語ととらえることができるのではないか。つまり、その社会に身を置きたいということは、その社会の価値観に共感したからであり、その構成員たちは社会を見ているというよりかはそのルールを見ているといえないか。よって、人々はなりたい自分やしたい生活をかなえてくれるような社会(価値観)を自分で選んで参加することができる。そのみかじめ料として責任(ルール)がある。



とすると、ここで疑問が湧き上がる。社会を選ぶことは分かった。じゃあ、新しい社会というのはどうやってつくるんだ?つまり、新しい価値観だけでは世の中にデビューしたことにはならない。その価値観の基、たとえ小さくとも、社会を形成しないことにはただの独りよがりにすぎない。




ここがポイント。




ウィキリークスは情報の暴露、情報の共有化という価値観の基、極秘情報の公開を行っているわけだが、それはそれだけでとどまっている。これは既存の社会体制に大きな影響を与えるにもかかわらず、既存の社会にとって代わるようなルールというか責任の取り方は提示していない。ただ単に「俺はこんなことも知ってるんだぜぇ~。すごいだろ!!!」の域を脱しているとは言えないのではないか。



二項対立というからには、ウィキリークス側も、既存の社会体制などに対する代替案をもって、ウィキリークスの目指す情報共有の社会はこうですよと示して初めて既存の社会と同じ土俵に立てる。つまり、そうなって初めてケンカできるのだ。今の状態ではとてもじゃないが対立することにすらなっていない。



二項対立はどっちの社会がいいかということ。資本主義なのか社会主義なのかみたいな。だけど、ウィキリークスは現在の社会を壊す破壊力は持っていながら、破壊した後のビジョンは持っていないように感じる。だから、不発が多いと思う。



ここから時代を俯瞰してみてみると、まだ役者はそろっていないといえる。アサンジは天才といえるが、そのアサンジを動かせる人物、このアサンジの能力を、己の理想とする社会実現のためにうまく活用できる人物が現れるだろうと思う。まあ、アサンジといったが、アサンジ本人かどうかはわからない。しかし、このタブーのない情報共有の技術をどう生かすか、この技術により成り立つ社会を構想できる人物が今後あらわれてくるのではないかと思う。



たぶん、野心のある奴はこの動向をこういう視点で虎視眈々と狙っていると思う。ウィキリークスという駒をどう使うか。ほかにどんな駒が必要なのかなどだ。



こういう奴が、新しい社会をつくっていくのだろう。どうやってつくるのかはわからないが、つくれるだけの能力を持っている人だと思う。



時代の変わり目の現代。だれが次の時代の土台、基盤をつくるのか。



私もその競争に参加したい。



以上
またね***








2011年12月23日金曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-2)




ウィキリークスの将来と言論の自由、そして、誰がインターネット上の支配力を握るのかという問題である。それは21世紀の大きな戦いの一つでもある。新しい可能性を数多く提示し、近代国家のあり方に疑問を投げかける新しいメディア、インターネットをめぐる闘いだからだ。



アナログ世界対デジタル世界、現実の政治対サイバースペースからの挑戦者の闘いでもある。


「ウィキリークスが、スパイ行為の末、情報を公開したことで有罪判決を受けるのなら、国の防衛に関して定期的に情報を公開しているあらゆるメディアがなぜ有罪にならないのか。その法的・論理的証拠がない」



国連関係者に対するスパイ活動を指示し、明らかに違法行為を呼びかけたヒラリー・クリントンの口座も取引停止にすべきなのではないか、という質問については、回答したくないか、あるいは回答できないようなのだ。



学生たちに対して「キャリアを棒に振りたくなければ、外交公電を学業研究に使用しないように」という呼びかけが行われた。



これまで、市民によるウィキリークスへのアクセスを禁止してきたのは、中国のような独裁国家だけだった。だが米国といえば、ネオナチや政治セクトでさえ、インターネットをまったく合法的にプロパガンダに悪用できるほどの自由の国ではなかったか?その米国が、ウィキリークスを制裁しないことには安心できず、米国政府関係者が作成し、各報道機関の編集部が人名など問題になりうる箇所を消した外交公電を公開するホームページへのアクセスを遮断するといった事態は前代未聞である。



ウィキリークスの事件は、ネット上の報道の自由と情報公開をめぐる闘いでもある。二つの世界の対決でもある。政府、検察庁、企業などの既成の権力構造が、デジタル世界のエリートとして最前線にいるつもりの活動家集団と対決している。
活動家たちはまた、ネットの世界における旧来の権力者の支配欲に疑問の声をあげる。彼らは、今回のケースのように挑発されたと感じると、場合によっては非合法の手段まで用いて闘いに加わるのだ。



秘密の暴露は政治システムへの攻撃である。




メディアは、理想的な政治的活動を理解しやすく論じる価値あるものにし、政府の誤った行動を暴き、社会の自然回復へと導く。メディアは、民主主義において、本質的部分を形成するような重大な役割を担っているのだ。



ジャーナリストが目指すのは改革であって革命ではない。



大切なのは、社会の存続に関する問題についての判断に必要な知識を開示することだという。この意味では「よい情報公開も、悪い情報公開もなく、少しだけではなく、きちんと公開されるべきである」



みずからの行動のできるだけ多くを隠しておこうとする政府の思惑と、できるだけ多く公開してほしいという一般市民の要求との間に緊張関係が生まれる。そのとき、ジャーナリストはまず第一に、政府にではなく読者や視聴者に対して責任がある。



国連の世界人権宣言第19条にはこう定められているーー「すべての人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由ならびにあらゆる手段により、また、国境を超えると否とにかかわりなく、情報および思想を求め、受け、および伝える自由を含む」



「彼らは、自分たちの行いについて全く責任をとりません。しかし発した言葉と公開された文書には責任が生じます。ゲームじゃありませんからね」




ウィキリークスのウェブサイトは、何度も意識的に、納得のいく倫理的な根拠もないままに、個人や組織のプライバシーを侵害している



ウィキリークスはジャーナリズムを変え、ジャーナリズムもウィキリークスを変えたのだ。


秘密文書公開のために、検問が不可能なウェブサイト運営のアイディアは、権力分立を補完するものとして、国家の限界を超えた第五の権力になりうる。



私たちは、ジャーナリズムを変えることになるメディア論の議論の入り口にようやく立ったところだ。



ウィキリークスの資料を利用する者は、資料の主な内容や前後関係、より詳しい背景を、自力で解明しなくてはならない。



「(現代のように)国境のない、様々な要素が絡み合った危機の時代には、国民のために調査し、情報を公表するためには新聞や放送局各社が持つ力だけでは、もはや充分ではない」



「誰でも人生は一度きりだ。だから僕たちはこの時代に、何か有意義で、満足できることをやってみるべきだ。ウィキリークスは僕にとって、そういうものなんだよ」



国家機密が増えたことによって、一般の人々からの透明性への要求は高まっている。時代は、ウィキリークスのようなアイディアを受け入れる土壌ができているのだ。



米国政府の反応をみると、政府がウィキリークスの情報公開を、政治を良くしていくための好機とは認識していないことがわかる。ウィキリークス以上に、国際社会において米国の評判に傷をつけたのが何だったのか、考えてみるべきなのではないだろうかーー外交公電の公開や的を射た分析が多い報道と、それとも米国政府の公式の対応や大企業による反ウィキリークス・キャンペーンの果たしてどちらなのか。



ウィキリークス騒動の最後に、どんな情報が公共の利益になり、プライベートの領域のどこから先が保護すべき部分なのかについて、より明確に理解されるようになるのであれば、それこそ価値のある前進である。


以上抜粋


to be continued・・・




2011年12月22日木曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-1)





以下抜粋


私たちが理解しているジャーナリズムとは、出来事を調査し、証拠を追いかけ、できるだけ多くの関係者と話し、読者に分析と文脈を知らせることだ。



ウィキリークスが問題にしているのは、情報の主権を握るのは誰なのかということだ。



ウィキリークスは世界各国の政府から政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何をするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい「役者」が舞台に登場したのである。



インターネットの発達により、告発者の居場所はそれほど重要な意味をもたなくなった。むしろ重要なのは、どこにアクセスできるか、何にかんする情報を持っているかだ。



「学問はより良い目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ」



アサンジは米国に対する反対キャンペーンを展開しているのではなく、特定の政治の形態に反対しているのだ。


ハッカーを評価するときには、容姿、年齢、人種、性別、あるいは社会的地位などを基準にするのではなく、そのハッカーが何をやっているかで判断する。



「鎖につながれている者は、以前にどう行動すべきだったのかが見える」と、アサンジは書いている。「強力な陰謀から身を守るために、我々は前もって考え、そこにいたるまでのプロセスの段階で阻止しなければならない」



「政治の言葉は嘘を本当と思わせ、殺人を立派なものに見せかけ、空虚なものを実質のそなわったものに見せようという意図をもっている」


「ちょっと裏に回ってみれば、もうほとんど犯罪的な政治的取引ばっかりで……世界で起こっていることとか危機とかの、公に出まわっているものとは違う、生バージョンだ」



ウィキリークスのような組織が材料を持って新聞に接近したり条件を決めたがったりするとき、ジャーナリズムはどのようにして独立性を保つか。既知の情報でない場合、その素材の信憑性はどのようにして点検しうるか。



「僕たちに必要なのは、出来事の重要度を整理する機能だ」



アフガニスタン文書の公表が意味するものは米国の軍事氏への斬り込みだけではない。それはまたジャーナリズムの敗北であり、ジャーナリストたちの本能的な集団拒絶をも浮き彫りにした。



ドムシャイト=ベルクは、割に合わない仕事を大量にこなしていただけでなく、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアセンジに対し、客観的かつシステマチックなやり方でうまくバランスをとってくれる大事な存在でもあった。



「公表は透明性を高め、その透明性がよりよい社会へとつながっていく。チェック機能がうまく働けばそれだけ腐敗が避けられ、民主主義は強固になる。こうした目標を達成するためにも、強く、しぶといメディアというのは重要だ。我々はそんなメディアの一部なのだ」



アサンジは、これはまさしく「盗み」や「犯罪行為」であり、コピーは「非合法」なので法的措置をとるつもりだ、と言った。この発言が、ウィキリークス自身の行為にも当てはまるということに、アサンジはこの時点で気づいていないようだった。



「我々だけですべての圧力を引き受けるのは、今回は無理だ。これらの資料はあまりに劇的すぎる」と、アサンジは言った。「我々はこの公開の衝撃に持ちこたえなければならない」



ネット上では著作権があまり意味をなさない。



これらの発言は政治的に大きな物議をかもすと考えた米国政府は、アラブ諸国の首長たちの名前を伏せることを要請した。だが、ニューヨークタイムズ紙もガーディアン紙もシュピーゲル紙も、それを拒否した。大衆には、戦争と平和にかかわる根本的な問題について、どこの元首がどう考えているかを知る権利がある、というのがその理由だ。



情報収集指令の存在が公式文書によって明らかになり、米国政府が諜報活動の手法をどれだけ広範囲にわたって国際社会に用いたのかが、公式に証明されたことになる。



米国は既成事実をつくってしまおうとした。発展支援と称する経済援助と引き換えに、「コペンハーゲン合意」に貧しい国々が賛成するように買収したのだ。



公電は政治の基盤を描き出しているともいえる。



外交公電の公開で、米国政府が立ち上がれなくなるほどの打撃を与えなければ、逆にウィキリークスがつぶされてしまうかもしれないと、アサンジは予感していた。



to be continued・・・



自分と向き合う心理学(食べる読書73-2)




以下抜粋


その代償として「苦しみに向き合うこと」が本来持っている事柄の真相に迫る力を失い、それとともに、苦しみからの復元力や治癒力をも失っているように見えます。



「努力とは何か。きっぱりした意志をもたらすことです。意志とは何か。ある考えが不快であろうとも、それにしっかりした勝利をもたらすことです。またある考えが、とりあえず快いものであろうとも、それを禁止しつづけることです。」



結局、私たちは今の自分のあり方を自分で選び取っている。そして、そのことに気付くことによって自分のあり方を選び直すことができる



「意外感としてのフラストレーション」とは、ある見通しが外れることによる、「こんなはずじゃなかったのにという受け入れにくい気持ち」であり、また見通しが外れたことによって、ある不確かさが生じますが、その「不確かさに揺さぶられ自分を見失うことによる苦しみ」です。



(フラストレーションが非合理的行動に結びつきやすい)一般的理由としては、一連の行動系列中に「意外感」が生ずることが、心的構え(見通し)の柱である計画性を揺さぶり、そのため自我機構全体の計画性を損ない、そこから自我の弱さをもたらし、現実吟味の能力を低くするからであると説明できます。



思いがけない成功に伴う喜びは、結果的に、ニコニコした表面的な笑顔の裏で、自信に乏しい脆弱な自我が育つことにつながりやすいと考えられます。


とかく問題を生じやすい不満感や不快感などの感情を、動機から明確に切り離したうえで、それらの感情への対処を考えることができるので、フラストレーション(意外感、苦しみ)に伴う非合理的行動への冷静な対処が可能になる。



「はずである」とか「べきでない」という私たちの思い込みを揺さぶる、このような思いがけない事態は、私たちに現実への再適応を促しているともいえます。



フラストレーションを感じながらも、いいようのない寂しさの底で、内蔵助は現実の思いがけない新たな切り口に出会い、その確かな手ごたえを感じているようにも見えるのです。



新たなフラストレーション概念「意外感」は、フラストレーションの構造を明らかにすることによって、地図として機能し、現在地と進むべき方向を示すので、私たちがフラストレーション(意外感、苦しみ)を生きる上での、より確かな見通しを与え、私たちを導いてくれるはずです。



「…。敵に向かう時でも攻撃は無秩序ではなく、節度を保ち統制に従わなければならない」
「突撃を必要とする時は怒るのではなく、奮い立つのです」



「怒らない人は被害に動ずることなく、しっかりと立ち続ける。怒っている人は動かされているのです」
「損害の限度は決まったものだが、怒りは私をどこまで運んで行くか知れたものではない」



不当な扱いを受けたという思いと、その思いから自分を怒りへ明け渡してしまうことの間には距離があり、その距離の中にこそ意志の働く余地がある



私たちがもっている感情は、感じられた身体的変化を材料として構成されていますから、私たちにとって身体的変化の感じから分離された感情は想像できないのです。
言い換えれば、泣くことが悲しいという感情の一部であり、殴ることが腹を立てるという感情の一部であり、震えることが恐ろしいという感情の一部なのです。



私たちが聞き分けのない子供に、「いつまでも駄々をこねていてはいけませんよ」と言うとき、子供の感情がはけ口をふさがれて、より強くなることを期待してはいけません。むしろ逆であり、「よく考えてごらんなさい」と言っているのです。なぜなら、感情に流されないことが、よく考えることにつながるからです。
ですから、感情に対処する上で大切なのは、「はけ口をふさがないこと」ではなくて、「よく考えること」である。


感情とは、ある事物が自分に及ぼす影響を評価する体験です。


サルトルの言う「魔術的世界を形成する」とは、不本意な事態の中で、困難から逃げるために、特有の身体的興奮を引き起こし、都合のよい自己正当化をすることです。



「私が彼を憎らしく思うのは、私が怒っているからだ」(浄化的反省)と。つまり「彼が憎らしく思えるのは、すでに私が被害者の立場に立つことを選び、腹を立てるというお呪いによって、彼を都合よく悪者にしているからだ」と。



「罪悪感に浸かる場合には、態度を改めるという困難な作業を避けているのです。態度を改めるより、ただ後悔しているほうが、ずっと楽なのです」
このように、ホーナイによれば、自責や罪悪感は、取り組むべき困難な作業からの逃避であり、都合のよい自己正当化なのです。



「フラストレーションが起きたことが、もともと偏見が抱かれていたことを露呈した」ともいえます。ちょうど、家が倒壊したことが、もともと白蟻の巣ができていたことを露呈するように。



困難な状況に置かれたからといって、必ずしも精神生活が崩壊するわけではなく、自分をひどい目に遭わせた運命を引き受け、感謝することさえ実際にできたのです。



苦しみを抑圧したり楽観論に逃避したりしないで苦しみに向き合うこと。そして、苦しみに向き合うことによって、この苦しみを引き受ける可能性があるのです。それこそ、生命が助かる何の機会もないようなときに、私たちを絶望させない、唯一の思想であると考えられています。



努力とは事柄の全体に沿って認識することです。


苦しみ(都合の悪い現実)に向き合う努力とは、意志と同義であり、快と不快を感じながらも、事柄の全体を見た上で、事柄に沿った認識(見通し、気づき)を産み出すことです。実際的には努力、すなわち意志とは、自分の性癖を都合のよさと都合の悪さの両面から観察し、認識する(見通しを立てる、気づく)ことです。



両面の意味を語り、共に考え続けることによって、認識(見通し、気づき)を産み出し、性癖を自分が選び取っていると気づくことこそが、ゆとりを生み、自分のあり方を選び直すことを可能にするのです。すなわち、そのように気づくことによって、パターン化したあり方(性癖)から新たなあり方へ向けて「何らかの動き」を創り出すこと、これが意思心理学の方法です。



パターンや思い込みは苦しい現実からの緊急避難的な逃避や自己正当化に有用ですが、その反面なんらかの弊害ももたらしている。



「じゃどうすればいいんだ?」と言って、受け身になって何もしないのは、巧妙ないつもの逃げ道です。自分のパターンとか思い込みをよく見て、「いま自分はどうしているのか?」をつぶさに観察できれば、自分の内側から「自分はどうしたいのか」という答えが出てきます。そこから自ずと道が開けれくるのではないでしょうか。



「嫌なことを言われたら、傷ついて当然だ」と思っているから傷ついてしまうのではないでしょうか。自分のあり方が相手次第になっている限り、自分の「心の平安」を自己管理できなくなります。




自己嫌悪すればするほど、プライドは高くなるけれど、現実の自分を踏みつけにしているので、自信を失います。ほかに思いやりも失いませんか。なぜなら自己嫌悪しているとき、自分のことで頭はいっぱいですから、他人のことなど思いやる余裕はないのです。
さらに、自己嫌悪しても、事実に沿った振り返りをしていないので、事態は改善されず、しかも、自己嫌悪はひとりでできるので、ついクセになり、自己嫌悪中毒になりやすいのです。



自分だけは特別だって思っていれば、究極の自己正当化ができます。そう思っていれば、手ひどい失敗をしても本当には反省しないし、人から親切にされても本当には感謝しない。人からいくら愛情をかけられても満足しない。自分だけは特別なのですから。共感も思いやりも本当にはない。



私たちは話をきちんと筋道立てて組み立て、理路整然と話そうとします。そして正論や一般論を言います。また自分を振り返るにあたって、自分の中に「ありのままの自分」を見るよりは、「自分のあるべき正しさ」を見てしまい、結果的に高すぎるプライドを抱え込む傾向そしてあります。



私たちがフラストレーションやコンフリクトを、単に解消するべき対象としてではなく、現実が思いがけず「新鮮な切り口」を提供する瞬間として受け止めたとき、フラストレーション(意外感や違和感や自己嫌悪、苦しみ)やコンフリクト(異物感、苦しみ)は、まだ知らない人生の意味を汲み上げ、人生に新たな動きや深まりを創り出す貴重な機会になると考えられます。



偶然のの幸運で、窮すれば通ずの元の形が、「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず」であることを知った。その瞬間に把握感があった。



以上
またね***






2011年12月20日火曜日

自分と向き合う心理学(食べる読書73-1)





映画仁義なき戦い [DVD]
の中でこういうセリフがあった。


「現実ゆうもんはよう、己が支配せんことにはどうにもならんのよ。」


本質をついているとこの映画を見た当時(2008年)は感じた言葉だった。



しかし、そうではないことをこの本で知ることになる。


我々は生まれてから、社会の中での生き方を学びはする。が自分の取り扱い方については教えてもらえない。まあ、そのほうが社会をコントロールしやすいという理由はあるかもしれないが、だ。



つまり、”現実を支配する前に己自身を支配しているだろうか?”ということだ。



テレビやネット、ゲームなど、時間の浪費と分かっているのにやめられない嗜好はないだろうか。



また、反射的に気分を害する人やモノ、事柄はないだろうか。



好き嫌いともいえるが、それらは意図的に自分で選んだものだろうか。もしそうなら、それらをそう選ぶ意図はなんだろうか。何か目的があってそれらの嗜好を選んだはずだ。そして、それは自分がどんな人生を送りたいかを意味する。



本書は、感情を足掛かりとして自分を一歩引いて、観る客観的視点を得る考え方、しくみを説いている。




以前紹介した悪魔(サタン)への挑戦状―真の人間の価値とは何かも、自分を観る一つの視点を提供してくれた。



似ている部分もあるが異なる個所もあるのではないかと感じた。



本書の特徴としてフラストレーションを切り口に、それらをどう処理していくかについての方法を複数の学者の説を紹介しつつ説明していることが挙げられる。




私が本書で最も目を引いたのが、”知性化の弊害”の部分である。



以前どこかで紹介したが、「状態を表す情報処理技術と動きを表す情報処理技術」につながるのではないかと感じた。



「私たちは生を概念的に分解する習慣に、根深く結びつけられている」
「最初、物事を分かりやすくするために使われだした概念に、最後は物事を分かりにくくしてまで執着するようになる」
「生を概念で理解するとは、生の動きをとめて、生を鋏で切り刻み、その断片を論理的な標本版の上にピンで固定することである」
「私たちは概念からは、どのようにして生が進行してきたか、またどのように進行していくかを学ぶことはできない」
「経験の分厚さや具体性や独特さはすべて、経験してすぐのまだ名前もはっきりしていない段階の中に存する」
「私は概念や言葉では言い表せないものだと自分で言っている当のものを、概念や言葉で記述しようと空しい努力を続け、私自身をも諸君をも疲れさせている。話し続ける限り主知主義が支配力をふるっている。生への帰還は話すことによっては得られない」
「あるいは私は、生のあれだけを指差さなくてはならない。そしてあれが何であるかは、諸君が内的な共感によってこれを満たさなくてはならない」



私が目指すのは、この生の動きを把握するための道具である”動きを表す情報処理技術”を発見するか作り出すことである。それが出来れば現在の問題、環境問題などもある程度は解決できるのではないかと考えている。



そういう意味で、この人間の感情をどう解釈するかという考え、そこから新たな自分をつくり出していく意思心理学は研究対象に値する。



一度読んだだけではまだうまく理解しているとは言えない。ほかの書籍や、本書を複数回読んで理解を深めたい。



to be continued・・・



2011年12月9日金曜日

最高の自分を生きる(食べる読書72)




まだ失敗を失敗と認識しない子供時代とでも言おうか、前しか見えていないというか、自分の存在にほんのわずかの疑いもないような状態、たとえ自分の命が危険にさらされていようともだ。



そんな感覚を読んでて感じたのが本書である。



ノウハウ本ではありません。



深く、そして人間はどこまで己を高められるのかについて、過去の人物を例に挙げながら示している。




悟りの境地。「我」がない。私とその他は一つというような境地。そして、私はすでにそれを成しているという穏やかで自分がどうこう出来るというレベルではない次元での確信があると理解している状態。



もうそこには主体と客体はない。



欲にまみれた私ではありますが、かっこいい生き方があります。



一つだ!一つがすべてに通ずる。



己の人生という一つを。



その中で何を成すかではなく、人生を何を成すことで表現するか。「私の人生はこれだ」と。



一つではあるが、それはすでにすべてを内包しているという逆説を味わいたい。




以下抜粋



優秀なプレイヤーであるほど、スランプに陥った時の悩みは深い。そんなとき「リラックスして」とか「大丈夫だよ」と気休めの言葉をかけても何にもならない。選手は強いプレッシャーによって生じる不安やあせりをどうすれば解消できるかが知りたいのだ。




「そんな(克服する)方法はないんです。プレッシャーを感じながらバッターボックスに立つしかない。それで結果を残していくことで、解き放っていく。その方法しかないですね」




善い射に喜ばないことを付け足しなさい。快と不快との間を右往左往することからあなたは離脱せねばなりません。あなたはむきにならない平静な気持で、そんなことに超然としているように心がけねばなりません。すなわちあなたでなくてまるで別の人が善い射を出したかのように喜ぶことを心がけるのです。




技芸に励むのは、技量を身につけるためだけではない。「人間の変容」こそ目指すものであった。「道」の奥義に達すると、もはやそれ以前の自分とは違った人間になる。物事を見る「別の尺度」を手に入れるからだ。





「古を稽える」-そこに、ただのレッスンや練習とは違う味わいがある。そもそも世界の文化文明の大半に「進歩史観」などなかった。




外からは演じ慣れたように見えるのは、稽古のときにセリフをよく覚えて、初日には根から忘れてしまうのだ。舞台に立って相手のセリフを聞き、その時に思い出して自分のセリフを言う。…。相手のいう言葉を聞いて、初めて返答が心に浮かぶものだ。芝居とはそうした日常がお手本と考えるから、稽古ではよく覚え、初日には忘れて出るのさ。





妙技とは、その達人の域に達した人間が「媒体」となって、超越者の力が引き出されたものにほかならない。




内観法で自分を見つめるときには、自分の身の回りの親しい人々が反射鏡のような役割をしてくれる。この人たちから受けた恩、親切、愛情、信頼といったものを丹念に調べていくと、自我の壁が破れてきて、「あまりにもお粗末な自己」と出会うのだ。その時のショックは、感動へと変わって高まる。





存在から来たものに対して、意識なんかでは返せない。これがわかってくると、頭が自然に下がってくるんですよ。





至高体験によって、生き方や人格が大きく変わった人は少なくない。そうした人の多くは精神が統一し、あるがままの自己を自分の存在として認めることができ(自己欺瞞がない)、能力を十分に発揮して、責任ある行動をとれるようになるようだ。




達人の心境(あるいは至高体験)が日常的ではないということは、日常=習慣を突き破ったところにその心境がある。





よくなりかけると、とんとん拍子によくなり、下り坂に向かうと、一足飛びに下る。なぜ、そうなるのか。
それは、人間にかかわりのあることは、すべて「心が先行する」からである。心が先で、物は後であり、事はこれについて行く。風が吹くと、木の枝が動き、音がする、波が立ち、波の音がする。音が先にしたから木の枝が動いたのでもなく、木の枝が動いたから風が吹いたのでもない。





世に、「恩を忘るな」ということがやかましく言われるのは、本を忘れるなという意味である。食物も、衣服も、一本のマッチも、わが力でできたのではない。大衆の重畳堆積幾百千乗の恩の中に生きているのが私である。このことを思うと、世のために尽くさずにはおられぬ、人のために働かずにはおられない。




絶対者を求めて、これに没入しようとするのが宗教であり、真理を追及して、これに乗託しようとするのが科学であり、善を究明して、調和至純の人生を創造しようとするのが倫理であり、美を探究創作して、自己を生活の名優たらしめ、人生を美の神劇としようとするのが人間の芸術活動である。





ただ享楽にうつつをぬかす楽しみ事は、趣味でも余技でもない。ましてや「生活の空所」には当たらない。非日常の時間でありながら、それが愉しみながら心を磨く(心境を高める)行為として日常としっかり結びつくときに「生活の空所」となるのだ。




目が覚めたらその瞬間、さっと起きる。床をけって、さっと起きる。それから時計を見る。「時計を見て起きるようなことではいかぬ。早過ぎたらあらためてまた休め、目の覚めるという事は何か必要があって覚めるものだ」と。




実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、実践ではなくなってしまう。直観による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。




ささやかな実践のようではあっても「即行」に徹していくと、大宇宙の一部である自分が、宇宙の叡智というべき直感を介して、超越的な次元(「ゾーン」)と呼吸往来している自覚がわき起こってくる。日常と非日常がそこで切り結ばれるのだ。




技芸や人生の「道」を真摯に窮めようと挑んだ達人たちが、かつてこの国にはいた。今日でも、達人の域に達しようと励んでいる人たち、あるいはさらに高い境地を目指している人たちがいる。
そうした人々の姿に触れるだけで、胸中に温気の膨らみを覚える。市井に生きる凡人のわれわれでも、一途に努力を重ねれば、それなりに深く生きられることを、彼らは教えてくれる。




日本語ほど超越者が無意識に想定されている言語はない。主語がなくても通じること、自動詞が多いことにその特徴が表れている。「知る」という言葉一つとっても、それは対象を認識するだけでなく、相手と一体になることを意味している。「元は一つ」という意識が、日本語のそうした言葉の内に秘められている。




以上
またね***





2011年12月7日水曜日

稼ぐ人の「答力」(食べる読書71)




画家は絵によって自己を表現する。

音楽家は音楽によって、小説家は文章力で、学者は論理によってそれぞれを表現する。


表現する手段は職種によって異なるが、己を表現することは同じ。



また、その業界でトップになるのなら、同じ手段を使ってはいても表現する内容は異なっていないといけない。



では、一般のビジネスマンは何によって自己を表現するのか。その答えが本書で紹介されている「答力」である。




これは私の意見なのだが、よく職場に「~三か条」「~の規律」などといった張り紙というか、ポスターというかが張られている職場がある。たいていこういう職場は成績が悪かったり、職場環境がよくなかったりする傾向にあるように思う。




なぜなら、トップの人がその職場の問題の解決を張り紙のみで処理しているということだと考えるからだ。



いつの時代やねん!!と突っ込みたくなるが、やれやれだ…。



ある商品を10万個作ってすべて売れる市場は日本にはもうあまりないのではないか。ただ、ある条件を満たせば売れる時代ではなくなって多品種少量の時代になっているし、サービス業なんかもう最たるものだろう。




今もそうだが、学校教育はどれだけ大量に覚えるかが評価の基準だった。それは、どれだけ与えられた条件を満たすかの競争である。




しかし、ビジネスの場ではどの条件を満たせばいいのかというところから自分で答えて、その条件を満たすところまでが仕事といえる。




ですので、学校優秀者というか、学校を絶対的価値ととらえている人はビジネスの現場にはたてません。あなたは事務職です。与えられたことを迅速かつ正確にこなす作業員です。だけど、ロボットやコンピュータと競合しちゃうんだよね。しんどい…。




学問は言葉で論理を表現する。だから、一定水準の教育が日本全国どこでも可能である。つまり、何かを教えるということは、そういうこと。




しかし、何か能力を身につけるということは、教科書では伝わらない。つまり、広範囲に大勢の人に身につけさせるのは今のところ難しい。本書はそういうたぐいの能力について述べている。




だから、これがこうなってこうなり、そしてこう変化して最終的にこうなる。といった教科書的なものではない。だから、本書からどれだけのことを学べるかは、読者自身の経験をミックスさせないと学べることは引き出せない。




行間を読む力が問われる本である。




そして、本書からの収穫はこの力に比例する。



以下抜粋


聞く人は、求めている解答のすべてを把握しているわけではないのです。




芸能事務所、音楽業界、映画業界など、外部からの様々な依頼や相談に関しても、それが番組のためになるかならないかを終始考え、受ける受けないをその場ではっきり答えるわけです。



スタンスというのは、どこを目指していて、どんな人間になりたい、どれくらいのレベルの人間になりたいと考え、それに合わせていまどんなチャレンジをしている、あるいはどういう気持ちで仕事をしたいと思っているのか、という状況です。




現在の情報産業界で成功しているのは「生の人間の答」をネット上で生かした企業です。




より相手の要望に応えたいのであれば、あなたはそれを探す必要があります。これが「想定する」ということです。



重要なのは本当に「相手のため」を考え、「自分の価値観」の中で相手に対してできることを実行する、という点です。




答力が誰のためにあるかといえば、自分のためです。
自分を捨ててまで、相手に合わせるものではないのです。




わかりやすくたとえることで、相手はイメージで答えを描くことができます。そしてそれをスムーズに行うためには、普段から答える練習をするしかありません。



ファッションに限らず、接客の現場では価格以外の付加価値をいかにプラスするかが求められます。上手なトークはマニュアルで会得できますが、心を動かすトークにはマニュアルがありません。



ビジネスにおいて、絶対的な答えはどこにも存在しません。




自分で考えたことや、相手を見据えた上でのアイデアを、その都度、満点である100に付加価値として乗せていく。そして、ベストな答えをつくり出していくのが「答力」なのです。




「20パーセントは会社の思想、残りはそれぞれがつくってください」




「売り」というのは、もともと自分自身に備わっているものではありません。
「答力」によって、自らつくり出すものです。




「商品=本体的価値×価格×ブランド×情報×理念」




自分にも相手にも、もっとも望ましい答えを探すのが理想的なビジネスです。それが達成できれば、お金は自然に入ってくるのです。





コンセプト共感型来店モデルのビジネスは、お客さまが質問する前に「私たちが出す解答はこういうものです」と、あらかじめ答えを出してしまう形の営業です。





普段からできるだけたくさんの情報、できるだけたくさんの知識を、頭の中にインプットしていくことが、そのまま答力を鍛えるトレーニングになることは確かです。





自分の理念が固まるだけでなく、その理念に深い自信がついてきます。
この自信は、答力の土台である情報そのものが自らの足で集めたオリジナルな情報であるという事実、そして自分でそれを見て考えるという経験からくる実感、さらにそれを誰よりも自分は持っているという確信が生むのです。





固定観念というのは、ありとあらゆる場所で、人の思考をストップさせているのです。





問題はいつも、目の前に提出されています。
それに気づくには、普段からあらゆることに問題意識を持つしかありません。




会社がどうだろうが、ビジネスの現場では答力のある人しか成功できなくなっているのが、今の世の中なのです。




人は会社が修行や研修という名目で育てるものではなく、責任ある仕事とお客様によって育てられるものだからです。




上司にとって重要なのは「長所を伸ばすように褒める」ことです。




成功する会社が社員に提供している最大のものは「夢」です。
そして社員も自らの答力を発揮し、会社の夢に応えていく。



以上
またね***





2011年12月6日火曜日

神田昌典氏がその情報源を遂に公開!

あの日本一のマーケッター神田昌典さんが
遂にその情報源を公開しました。
http://123direct.info/tracking/af/346595/1Oyur88h-rFzN0Fm4/


まぁ、神田さんの説明は不要かもしれませんが、
日本にダイレクト・レスポンス・マーケティングの
概念を持ち込んで大成功。


それだけでなく、多くの起業家にも
それを教えて成功させてきた人です。


私を含め日本のほとんどの起業家に影響を与え、

「あなたの会社が90日で儲かる」や
「60分間企業ダントツ化プロジェクト」

といった本でビジネス書では異例の
累計200万部も売れたカリスママーケッターです。


そんな神田さんが、なぜビジネスで成功できたのか?


もちろん神田さん自身、MBAを取得したり
英語がペラペラだったりするので
大変能力のある方であることは間違いありません。


しかし、そんな人は世の中にごまんといます。


なぜ、神田さんだけが成功できたのか?
そこにはやはり「秘密」がありました。


成功は運や偶然だけじゃなくて
やっぱりそれなりの「理由」があったんですね。


私も気になったのでさっそくチェックしてみました。

ちょっと時間を取って見てみてください。

http://123direct.info/tracking/af/346595/1Oyur88h-rFzN0Fm4/

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...