2010年1月28日木曜日

50で飛び抜ける☆1

今年の目標のひとつに、50個の人との出会いや事柄との出会いがある。それは自分を成長させるもの、主に自分の感性を刺激するものと考えている。

実は今日、「日高義樹氏 経済講演会 “鳩山・オバマで日米関係はこう変わる”」に行ってきた。

話は大変面白く、興味深いものだった。まあ、内容すべてを理解できてるわけではないし、自分には難しい部分もあった。

講演を聞いているときは、確かにその存在を感じてはいた。それが何を意味するかも何となく理解はしていたと今は思う。はっきり言ってそれは心地いいものではない。

日高氏はあらゆる視点から日米関係を論じていた。オバマの政策、経済、中国、中東、そして日本。話は国単位だけでなく、その国民の考えや生活、また各国の政治の在り方にも言及し、それらを絡めながら、独自の考えを述べていた。

私の胸の内に産まれたそれは明らかに“いらだち””悔しさ”といった類のものだった。

話を聞いていて、その内容から何か自分にとって有利になるようなことは起こせないか、あるいは見つけられないかといったことを考えることが全くできなかった。ただ、目の前にある情報を手持無沙汰にしているだけだったのだ。

あまりにも小さい。あまりにも狭い。それをただひたすら思い知らされた。

日高さんは自分の中に起こった疑問に対する答えを見つけるために、様々な情報を自ら見つけてきて、持論を作り上げた。その情報が何を意味するのか、それはどこにあるのか。この基礎ができているから、こういったことが可能なのだ。

うらやましい。いや、絶対身につける。

日高さんはこうも言っていた。「アメリカでは、大学でるとき、自分で仕事できる“力”つける。そして働く。日本は、雇ってもらうという発想。」

これで、3年後どうなっているかという私の目標は決まった。

「自分で仕事できるようになっています。」

また、今回は会場が、名古屋の栄だった。田舎に住んでいる私にとっては、この栄のにぎわいも刺激になった。こういう、人が多く活動しているところに身を置かないと、自分の感性もなかなか磨かれてはいかないのではないかと。自分の危機を感じた。地下鉄栄駅から会場まで、人に道を聞いてたどり着いた。入場券には徒歩7分と書いてあったのに…。会場もいろんな商業施設がついていて、どこがどこだか分らなかった。

帰りは、ずっといらついていた。自分に対してムカついていた。“今まで何やっていたんだ”と。いつのまにか現状をどうこなすかにばかり焦点が当たっていて、未来を、自分の未来を信じられなくなっていた自分に対して…。こみ上げてくる感情をどこにぶつければいいのか。くやしくて、くやしくて…。

この感情をその場限りにはしない。もう、世の中なんてこんなもんだと、自分に嘘はつかない。

まだ世の中で勝負してないおれだが、自分をあきらめなかったからどうにかここまで来れたということも自分ではわかっている。これはおれの宝だ。だが、この宝を終生大事にするのが自分の求めるものではない。こんなものはいつでも捨てる。そう思ってこれからを生きないといけない。これが次へのステップだ。

そのことに気付いた。

ありがとうございます。

日高さん、この講演会を催してくださったコムテックスさん、ありがとうございます。

今後の大まかな方向が決まった。

以上
またね***

2010年1月3日日曜日

方法序説(食べる読書16)

あけましておめでとうございます。今年は人生で最高の年にします。




方法序説 (ちくま学芸文庫)
」 角川文庫 デカルト 著

正確には「理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説」である。

すごい。一回読んだだけではきちんと理解はできない。だが、随所に一貫した彼の姿勢がうかがえる。そしてそれは彼の生き方をも示している。面白いなと感じた。自分の導き出した考えに沿って人生を進んでいく。まあ、それでも自分の思うとおりにはいかないこともある。だけど、それもまた、自分の決めた考えに即して対処していく。

しかも、これは古典には共通して言えることだとは思うが、本質を見抜いている。いたるところで、「確かにそうだなぁ・・・。」と、自分の目が開かれる思いがした。

あまり理解していないので、この本を要約するということはできないが、私がここはわかったという箇所はまとめてみます。
デカルトは勉学に努力したが、結局そこから学んだことは、自分の無知を知ったということだけ。だから、「自分の中に、あるいは世間という大きな書物の中に発見されるかもしれない学問以外はもはや求めない決心をして」経験などをつむため十余年旅に出る。

また、多くの書物や民衆が認める事柄よりも、自分自身の実例に勝ってその人を納得させるものはないから、デカルトは自分で自分自身を導いていくしかほかはないと思った。

そのため、今まで自分に身近な慣習や考えなど、疑えるものはすべえて排除していった。それは、今までの自分の国、自分の書物から脱却することを意味している。

そして見出した答えが、「私は考える、だから私は存在する」である。これは、われわれがとても明らかにはっきりと心に思い描くものは真実であるということを一般的な規則にできるとデカルトは考えた。

また、理性はどんな出来事にも役立つ普遍的道具であることを示す。そこから、この「方法序説」の出版をあえて遅らせたりしている。「私が自分の教導書である人々の言葉であるラテン語を用いないで、自分の言葉であるフランス語で書いたのは、まったく純粋な自然的理性だけを用いる人たちは、古い書物だけしか信じない人たちよりも、もっとよく私の意見を判断してくれるだろうと期待しているからである。」と述べている。

つまり、自分の足で立って物事を見ることが真実に最も近いんだということと思う。

すばらしい本です。やっぱりなんだか勇気をもらうなあ。デカルトの戦う姿勢も垣間見えて、過去の偉大な偉人というよりは、その偉人も一人の人間なんだなと思わされる。ありがとうございます。
以上
またね***


一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...