2018年3月11日日曜日

宗教消滅(食べる読書139)



人類史上における新記録が現代にどれだけあるだろうか。
別に調べていないが、例えば、人口、移動距離、情報量、などなどあろう。
これらは何を意味するのか。
それらの新記録を打ち立てるに足る人間社会のインフラとは、何か。これまでの人間社会とどこがどう違うから可能となったのか。
過去との違いをリスト化してそれらが原因とはできないが、再現性が見込まれない長い時間のかかる歴史的因果関係を見出だすことは、残念ながら今の人類にはできないだろう。

今回の本は、資本主義の発展によって変化している宗教を経済・資本主義との関係から論じている。
今の我々はあまり感じないが、宗教はかつて社会インフラであった。そして、それがどう変わっていったのか、大変興味深かった。

人間にとっての宗教とは何か。単に、一時代だけの宗教を見ていては見えない本質もあろう。時代による宗教の変化から本質的な宗教が初めて見えてくるのかもしれない。
そして、宗教が人間の何を表すのか、それが見出だされるのが一番いいな。そうすると、そこに神秘性はなくなるのだが…。


以下抜粋

経済と政治、そして宗教が絡み合うことで人類社会の歴史が展開されてきたことを、私たちは念頭に置いておかねばならない。


創価学会はなぜ急速に拡大したのだろうか。一つには、創価学会が「折伏」というかなり強引な布教手段をとったからである。
折伏は仏教の用語で、諄々と教えと説いて相手を説得する「摂受」と対になる言葉である。折伏を行う際には、その対象となる人間がすでにもっている信仰を徹底的に批判、否定し、改宗を促すことになる。


高度経済成長のような経済の急速な拡大は、社会に豊かさをもたらすが、その恩恵が社会全体に及ぶまでには時間がかかる。したがって、経済の拡大とともに、経済格差の拡大も続き、社会的に恵まれない階層が生み出されていく。
創価学会に入会すれば、都市に出てきたばかりの人間であっても、仲間を得ることができる。彼らは同じ境遇にある人間たちであり、すぐに仲間意識を持つことができた。
ただ都会に出てきたというだけでは、地方の村にあった人間関係のネットワークを失ってしまっているわけで、孤立して生活せざるを得ない。ところが、創価学会に入会すれば、都市部に新たな人間関係のネットワークを見出だすことができるのである。


2代会長になった戸田城聖は、「現世利益」の実現を掲げ、信仰し、折伏を実践すれば、それで「功徳」を得ることができると宣伝した。それは、都市に出てきたばかりで貧しい暮らしを余儀なくされていた人間たちに対しては、強くアピールするものだった。


経済の急速な発展は、格差の拡大などのひずみを生む。そのひずみが、新しい宗教を発展させる。そして、急速に拡大した宗教は、政治的な力を獲得する方向に向かうのだ。


栄光の30年の時代においてさえ、フランスでは、大規模な都市部への人口移動によって、新しい宗教が膨大な信者を集めるという事態は生まれなかった。その点でフランスでは、第二次大戦後、既成宗教としてのカトリックの衰退がひたすら続いているということになる。


実際、フランスの場合には、「ライシテ」という形で、徹底した政教分離がはかられている。ところが、ヨーロッパではフランスが例外なのであって、他の国々では、むしろ政府と協会は強い結びつきをもっているのである。


最近におけるヨーロッパでのキリスト教の教会離れは、かなり進行していることになるが、これは、戦後になって始まったことで、すでに1960年代から目立ちはじめていた。


多くの教団は、社会的に注目される時期において多くの信者を獲得する。
ところが、その時期を過ぎると、新たに信者が入信してくることが少なくなっていく。新宗教は、時代のありようと深く連動し、その時代特有の社会問題への対応として生み出されてくるものだからである。その分、時代が変われば、魅力を失い、新しい信者を獲得できなくなるのだ。
そうなると、急速に拡大した時期に入信した信者たちが、そのまま年齢を重ねていくという事態が生じる。彼らは強い結束を誇っているかもしれないが、その結びつきが強ければ強いほど、新しい人間はそのなかに入りにくくなる。こうした教団の構造も、信者を固定化する方向に作用する。その結果、高齢化という事態を迎えることになるのである。


恒常的に教会に来る人間がいなくなれば、教会はそうした人間たちによる献金、あるいは教会税の支払いによって維持されているわけで、存続が難しくなっていく。実際、それによってつぶれていく教会が続出していることについては、すでに見た。


8世紀の半ばに、イスラム教政権の後ウマイワ朝がスペインに侵攻し、その大部分を支配下においた。後ウマイア朝自体は1031年に滅びるものの、その後もイスラム教の宗主国が各地域を支配する体制は、コロンブスがアメリカ大陸を発見する1492年まで続き、キリスト教徒はそれまで、スペインを再征服する「レコンキスタ」の運動を続けなければならなかった。
こうした歴史を持つスペインにおいては、イスラム教文化の影響が大きく、グラナダのあるアルハンブラ宮殿などがその代表である。その点で、スペインはイスラム教の影響が強い。そうした国で、再びイスラム教徒が増えているという現象は、スペインの人々に、歴史の教科書で習ったような事態が再び起こっていると思わせるのである。


ヨーロッパでイスラム教徒が増えているのは、もちろん、キリスト教徒だったヨーロッパの人間がイスラム教に改宗しているからではない。
その大部分は、イスラム教の諸国からの移民である。移民が増えた結果、それぞれの国でイスラム教徒の割合が増えたのだ。しかも、その勢いは増え続けている。


日本人も、とくに戦前には海外に移民することが多かったが、その際に、当初の段階では移民先に日本の宗教を持ち込むことはなかった。・・・。日本人としての結束を強めるよりも、現地に溶け込むことを優先したと言える。
これに対して、ヨーロッパに移民したイスラム教徒は、その時点では、それほど強い信仰を持っていなかったかもしれない。ところが、現地の社会には容易に溶け込めないという事態に直面した。その結果、イスラム教の信仰を深めていくことになった。彼らがキリスト教に改宗することは少ないのである。


朝鮮半島には、「ムーダン」と呼ばれる巫女がいて、シャーマニズムを実践してきた。儒教は支配者のための宗教であり、男性のためのものであったのに対して、女性はそこから排除されたため、ムーダンに救いを求めるしかなかった。


日本の近代社会には、日蓮系・法華系の新宗教が拡大する精神的な土壌が形成されていたのである。


日本のキリスト教は、19世紀に近代化を進めていく中で、欧米から取り入れられたもので、キリスト教の信者の中には、知識愛級が多かった。彼らには、西洋に進んだ文明や文化に対する強い憧れがあり、その背後にキリスト教の存在を見ようとした。キリスト教は、日本の神道や仏教に比較して、知的で体系的であり、さらにいえば合理的な信仰であると考えられ、知識階級が特に関心を持ったのである。


そもそも日本では、仏教と神道が入り混じった信仰が受け継がれてきていた。神仏習合の強固な体制が築かれていた。それが壁になり、日本にはそれほどキリスト教が浸透しなかったのである。
ところが、韓国では、キリスト教はシャーマニズムの文化と融合し、習合することによって、庶民層にまで広がっていった。それは、日本のキリスト教には起こらなかったことである。


日本の戦後社会においては、現世利益の実現をうたい文句に新宗教が勢力を拡大したように、韓国では、同じような主張を展開したカリスマ的聖職者に率いられた庶民的なキリスト教が急成長したわけである。これは要するに、プロテスタントの福音派の信仰が広まったということである。


最近では、ソウル首都圏への人口の集中が一段落したせいか、韓国におけるキリスト教の伸びも止まっている。


中国でも事態は同じである。
法輪功が勢力を拡大していったときにも、経済格差が広がるなかで、取り残された人々が法輪功に救いを求めたと指摘された。日本の場合、戦後に新宗教が弾圧の対象になったわけではない。だが、中国の場合には、宗教に対して否定的な共産主義の政権であるということもあり、厳しい弾圧へと結びついていった。それは、全能神に対しても同様である。


政治に期待できないときには、宗教に頼らざるを得ない。そこで、今中国で注目されている宗教が儒教であり、キリスト教である。


中国政府が、宗教に対して干渉し、監視の目を光らせ、時には規制を行ってきた。そんななかで勢力を拡大しているのが、「地下教会」と呼ばれる。政府に公認されていないキリスト教の教会である。こうした教会は、「家庭教会」などと呼ばれることもあるが、指導者がカリスマ性を発揮し、病気治しなどを行う福音派である。中国でも、経済発展が続く国では必ずや台頭する福音派がその勢力を拡大しているのである。


ヒスパニック系の場合、メキシコをはじめとする中南米の国々で生活しているあいだは、伝統的なカトリックを信仰している。
ところで、アメリカにやってくると、状況は大きく違ってくる。カトリックは多数派ではないし、自分たちがアメリカ社会では民族的に少数派であるため、結束していかなければならない。そのとき、奇跡信仰や病気治療を宣伝して信仰心を煽る福音派に対する信仰が高まっていくのである。


ヨーロッパを中心とした先進国では、キリスト教の教会離れが急激な勢いで進行している。これは、近代社会になって以降、それに伴って必然的に起こる「世俗化」が勢いを増していることを意味する。

一方で、現在でも経済成長が急速に進行している国々では、プロテスタントの福音派が勢力を拡大している。


最近、日本の論壇では、「反知性主義」という言葉をよく耳にするが、もともとこの反知性主義とは、アメリカにおけるプロテスタントの福音派を指して使われたものである。


福音派の台頭にしても、イスラム教の勢力拡大にしても、どこかでその伸びや原点回帰の方向性が変わり、運動として退潮するとともに、世俗化の様相を呈していくのではないかと考えられるのである。


仏教には僧伽、キリスト教には修道院というように、出家者だけで構成された集団があるが、イスラム教にはそれがまったくないのである。
イスラム教徒はすべて俗人であり、厳密な意味では聖職者そのものがいない。


世俗化は、宗教の影響力が社会から消えていくことを意味する。
たしかに、近代以前の時代においては、宗教の影響力が圧倒的で、それが生活のあらゆる分野を規制しているような状態が続いた。


イスラム教の場合、宗教の世界と世俗の世界は一体であり、両者は分かち難く結びついている。現実の世界と神聖な信仰の世界は区別されていない。


キリスト教の場合には、(ここでは基本的にカトリックにおいてということになるが)、宗教の世界と世俗の世界とは厳密に区別され、両者は分離されている。


プロテスタントの場合には、そうした世俗の世界から離れた聖職者は存在しない。牧師は皆世俗人であり、結婚し、家庭生活を営んでいる。その点では、イスラム教の指導者の場合と共通している。


『創世記』に記されたことは、神話的な物語であり、そこでは2人の行為が原罪としてとらえられているわけではない。しかし、木の実を食べたアダムとエバが、裸でいることに恥ずかしさを感じるようになったとされていることから、やがて2人は性の快楽を知ったものと解釈されるようになり、さらには、蛇はサタンであると考えられるようになる。こうして現在の観念が生み出されていく。なお、この現在の観念は、ユダヤ教にもなかったもので、イスラム教にも受け継がれなかった。


ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーが、聖職者に求められる禁欲を「世俗外的禁欲」ととらえ、俗人に求められる禁欲を「世俗内的禁欲」ととらえて、後者の世俗内的禁欲から資本主義の精神が誕生してくる過程を追っていったのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)という宗教社会学の古典的著作である。


キリスト教においては、イエス・キリストが十字架にかけられて殺され、3日目に復活したことが信仰の核心を構成しているが、それは、やがて訪れる最後の審判における人類全体の救済を約束するものと信じられた。その点で、キリスト教は、終末が訪れることを前提とする宗教である。
こうしたキリスト教の終末論は、社会が危機に陥った時に必ずや持ち出されるもので、そのたびに熱狂的な支持者を生んだ。


目に見えないものをとらえようとするとき、人は、自分がすでに知っているものにそれをなぞらえようとする。そのために、欧米の社会では、経済現象を説明しようとするときに、意識的に、あるいは無意識的に、宗教が持ち出され、神が持ち出されてくることになるのである。


神の見えざる手についての議論の中で、スミスという名前は、自由放任主義や、市場原理主義に通じる考え方を正当化するためのお墨付きを与える役割を果たすために持ち出されただけだとも言える。


現代の資本主義社会においては、マルクスが予言したように、ひたすら資本の自己蓄積が続き、抑圧という事態が恒常的なものになってきているのである。


経済発展によって地方から都市への対規模な人口移動が起こるなか、近代化を阻んでいるものとして、地方の村落共同体が槍玉に挙げられたことである。
日本は家社会であり、それが、個人の自立を妨げ、近代的自我の発展を阻害していることが指摘された。真に自立した個人を創造し、社会全体の近代化を図るためには、村落共同体も家社会も解体していかなければならないというわけである。


大企業が存在しない国では、中小企業や農業が産業の中心であり、生産性を上げようとしても、すぐに限界に達してしまう。それでは、経済危機が起こっても、それを解決する見通しは生まれない。巨額の借金を抱えてしまえば、それを返す見通しはまったく立たない。ギリシアの危機が深刻になったのは、ギリシア経済が脆弱だからだが、農業や観光でしか金を稼げない国が、日本やドイツのように振舞うことなど到底不可能なのである。
高度資本主義社会においては、スケールの大きな多国籍企業が次々と生まれ、それが世界経済を動かしていく。しかし、そうした事態は、大企業が存在する国と存在しない国の格差を広げ、後者に含まれる国々は、世界経済の発展から置いてきぼりを食うことになっていく。


資本主義の社会では、資本の蓄積ということが自己目的化され、経済規模の拡大が続いていく。市場を拡大し、生産力を高めていくことが至上命題となるが、そのためには労働力を確保しなければならない。移住者や移民は、それを満たすために故郷を捨てていくのである。
そうなれば、どの国においても、どの地域においても、地方の共同体の弱体化や崩壊という事態が生じる。


宗教は、地域や村落共同体、家族や一族といった共同体に基盤を置いている。その共同体を資本主義は破壊していくのだ。


それは、新宗教の場合、信仰を獲得した第一世代から、その子どもである第二世代に継承が進まないからでもある。第一世代には、その宗教に入信するに至る強い動機がある。ところが、第二世代にはそれがない。それでは、親の信仰を子どもが受け継ぐということが難しいのである。
それが、既存宗教と新宗教とを分ける壁でもある。
既成宗教の場合には、信仰は代々受け継がれていくものであり、現在信仰している人間は、個人的な動機からその宗教を選択したわけではない。親が信仰しているからそれを受け継いだだけである。信仰に対して強い情熱をもっていないために、かえってそれを自分の子どもにも伝えやすい。信者になっても、熱心に信仰活動を実践する必要がないからである。


資本主義社会は、当初、新宗教に拡大の余地を与えても、低成長の時代に入ることで、その余地を奪ってしまうのである。


最初、講というのは、仏典の内容を解説するための僧侶の集まりの意味で使われた。法会の一種だというわけである。
それが後になると意味が広がり、共通の信仰を確認するための行事や会合のことを指すようになる。さらには、そうした行事や会合を営む集団の意味でも使われるようになっていく。


昔は、今に比べれば、楽しみというものは少なかった。そのため、地域の村で行われる祭りなどの行事は、村人たちが大いに楽しみにしているもので、その日には普段と違う食べ物が振る舞われ、人々は酒に酔って日頃のうさを晴らした。そして、遠く離れたところにある神社仏閣を訪れることは、それ以上の楽しみを与えたのである。


とくに日本の場合、高度経済成長は社会構造を根本から転換させることになった。それまで多くの日本人は農村部にいて、農業や漁業、あるいは林業などに従事していた。重要なことは、そこには生業によって、そのあり方は異なったものの、村という共同体が作り上げられ、人々はその共同体に伝わるしきたりに従って生活を営んでいたことである。


葬儀をめぐる習俗と経済との関係は密接である。


今や、葬式仏教というあり方は根本的な危機を迎えつつある。高度経済成長は、村の共同体を破壊し、人々を共同体から追い出すことによって、地方寺院の維持を困難にしてきた。その波は、都会の寺院にも及ぼうとしているのである。


冷戦が続いている時代には、共産主義が政治的なイデオロギーのバックボーンとして機能した。資本主義の社会に対して批判的な行動をとろうというとき、自分たちの立場の正当性を共産主義のプロパガンダ(宣伝行為)にもとづいて主張することができた。
ところが、冷戦が終焉を迎えたことで、共産主義のイデオロギーに立脚して自己の正当性を主張することはできなくなった。その際に、今の世界で、正当性の源泉となるものとしてもっとも有力なのがイスラム教であるということになる。


フランスの同時多発テロについては、イスラム国(IS)との関連が指摘されている。今の時点で詳細は明らかになっていないが、ISが行ってきたことは、以下にイスラム法に忠実であるかということであり、多神教徒を殺害することや偶像の破壊などは、イスラム法によって正当化される。それが彼らのプロパガンダであり、それによって、現在のイスラム教の世界でも、多くの人間が、いかに教えから逸脱しているのかを示そうとしている。それが、自分たちは正しいと主張したい若い世代を引きつける大きな要因になっている。こうした状況から考えれば、これからもテロが起こる可能性はある。
その際にテロリストは、自分たちの正当性をイスラム教の教えに基づいて主張することになるだろう。ところが、テロが起これば、ヨーロッパを中心にイスラム教徒排斥の動きが高まり、それがイスラム教徒の社会統合をいっそう困難なものにしていく。そうなれば、さらにテロの可能性は高まる。しかも、イスラム教徒の数はこれからも確実に増え続けていくのである。


一つは、ヨーロッパや日本などの先進国で起こっている宗教の急速な衰退という現象である。それは、伝統的な既成宗教に起こっていることだが、同時に新宗教にも起こっている。要は、先進億の社会は世俗化、無宗教化の方向に向かっているのである。


もう一つ、経済発展が続いている国では、プロテスタントの福音派を中心に、新しい宗教が勢力を拡大している。これは、戦後の日本社会で起こった日蓮系新宗教の拡大と共通した現象であり、産業構造の転換による都市化が決定的な要因になっている。


三つ目として、イスラム教の拡大ということがあげられる。ヨーロッパでは、移民を中心としたイスラム教徒が増え、「ヨーロッパのイスラム化」が危機感をもって語られるようになっている。


イスラム教の世界で今起こっていることは、世俗化ということではなく、イスラム法の現代化、あるいは資本主義化としてとらえた方がいいのかもしれない。


イスラム金融やハラール認証が定着していくのも、そうした状況を反映してのことだが、その傾向はこれからもより強いもん尾になっていくだろう。それは、イスラム教の本来のあり方から逸脱しているというとらえ方もできるが、決して金儲けや現世での享楽を否定しないイスラム教のあり方からすれば、必然的な動きであるとも言える。
おそらく、イスラム教はそうした形で現代社会に適応し、その姿を変えていくことになるであろう。ヨーロッパのイスラム化と言ったときにも、それは中世のイスラム教社会に戻るという音を意味しない。たとえば、イスラム革命が起こったイランでは、革命直後とは異なり、イスラム法に徹底的に従おうという空気が緩んでいる。そうしたことは、イスラム教が広がりを見せれば、必然的に起こることである。


資本主義は、社会の最小単位を家族から個人へと狭めることによって、社会を成り立たせる基盤を失いつつあるようにも見える。
資本主義は行きつくところまで行き着いた。さらなる市場の拡大は、現実的には不可能なところまで来ている。そのなかで、伝統的な社会システムは解体され、個人が共同体とは無縁な生活を送る状況が生まれている。
資本主義はそこまで貪欲に資本の蓄積を行ってきたとも言える。ロボットが労働を担い、社会のあらゆる側面が自動化された時代においても、人間という存在は本当に必要なものなのだろうか。人間を必要としない社会のなかには、人が生きる余地などないのだ。


宗教は、日本人の多くが考えるように、たんにこころの問題ではなく、社会の動きと密接な関係をもっているのだ。

以上
またね***

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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...