2018年3月4日日曜日

<ひとり死>時代のお葬式とお墓(食べる読書138)




COCCOは好きなアーティストだ。
「遺書」という曲がある。
自分が死んだ後の弔いについて歌っている曲だ。



ベスト+裏ベスト+未発表曲集


初めて聴いた時、「自分の本心に素直だなあ。」と思ったことを思い出す。「俺は、絶対こんなことは思わないだろうなあ、・・・でも羨ましい。」とも思った。


今回の本は、この曲の意図とは異なるが、死後を託せる人がいなくなっている現状を記した内容。
そんな状況に対して、さまざまな動きも記されている。
そして原因を、関係性の希薄化、としている。


突然だが、
原始時代から変わらないもの、それは、”時間”だ。原始人と現代人、一日を何に費やしているのだろうか。
そして、何にエネルギーを使っているだろうか。

と、問題提起しておきながら、この問題提起自体成り立たないことに気づく。
それは、原始人には、”時間”や”エネルギー”、ましてや”自分”という概念もないだろうからだ。

つまり、あるがまま、なのである。文明以前は。

翻って現代は、時間を切り売りしている。
現代は、市場の拡大が特徴である。市場経済であり、経済発展には市場の拡大が必然。市場が大きくならなければ、経済も発展しようがないからである。

そして、市場で取引される商品は、金銭で換算できる、という条件を満たせばいい。

物理的に世界を埋め尽くした後、資本家はどこに市場を見出だしたのか。さまざまだろう。人の心だったり、共有財産、科学技術、未来、などだろう。

社会資本の一つである地域のつながり・関係性も何かしらの形で商品化され、市場に出ることで、人々がそれに費やす時間とエネルギーの代わりに金銭で購入するようになった。

そして、死後の弔いを葬儀社から金銭で購入するようになった。べつに、葬儀という形式をしなくても、死者への想いをその人との関係性の中から形にすればいいのに、自身の時間と労力の費用対効果(この概念自体、金銭化に一躍買っていると思うが)から、死者への想いも購入する羽目になっている。

金銭化とは、部分化であり、一部を切り取っているにすぎず、評価しているのは一面に過ぎない。だが、市場で取引されるとき、それは、それが付随している全体であると人々は認識してしまう。一部を全体であると思い込まないと、商品として成り立たないからかもしれないが、それによって結局、金銭化できない本質的な部分だけが取り残されることになる。その結果、社会問題として表出するが、それをも商品化によって解決しようとする動きの繰り返しである。

結局、誰がその後始末をするのか、というと誰もしていない。
それが表れているのが、社会保障費の増大だろう。
これまで、ご近所や地域で担ってきた内容を社会保障という名目で、国が担う羽目になっている。
そして、その税金を払っているのは中小企業であり、景気の羽振りのいい大企業はタックスヘイブンで税金逃れをしている。

社会保障のサービス内容を増やしているのは、新たなサービスを市場に提案している主に大企業であるのに、社会保障の財源である税金を大企業は払っていないのが現状である。

人の死の場面が、社会の何を表すバロメーターであるのか、そして新たなサービス(商品)以外の方法で良い方向へと進められるのか、この2点を明確にできればいいなと思う。


以下抜粋

超高齢になると、きょうだいや友人の多くはすでに亡くなっているうえ、親の死亡時に子どもが定年退職していれば、仕事関係でやってくる義理で参列する人は激減する。これまでの葬儀は、遺族、参列者双方にとって、見栄や世間体を重視してきた傾向があったが、六〇歳ラインを子どもも超えれば、こうした「たが」がはずれ、廉価で小規模な葬儀が増えるのは当然だ。


家族が遺体のそばで思い出を語り合いながら一晩を過ごすのは、遺族にとって死別を受け止めるための貴重な時間であり、遺族の絆を確かめ合う時間でもあるからだ。


議員の弔電もそうだが、亡くなった人と面識がないのに、自分の仕事のために人の葬儀を利用する人がいたのも事実だ。


私たちが葬儀社の助けなしではお葬式が出せないようになったのは、都市部では高度成長期以降、地方では最近になってからのことだ。


ではこの先、お葬式はどうなっていくのだろうか。かたちだけでみると、まず祭壇が消失していくのではないかと、私は思う。
そもそもお葬式の祭壇が誕生したのは、昭和に入ってからのことだ。


人に見せるお葬式は今後も減少の一途をたどるはずだ。


お葬式は、亡くなる人とその人を見送る残された人の双方がいないと成立しない。亡くなる人は増える反面、見送る人が減少すれば、お葬式はますます小さくなるのは当然だ。そのためには、亡くなりゆく人と、残されるはずである人との関係性の構築が求められる。


お葬式は、残された人同士の関係を再確認する機会でもある。お葬式を単なる遺体処理にしないためには、人と人とのつながりがなければならない。それがお葬式の行方を、大きく左右するだろう。


昨今、共同墓を新設する自治体が増えている。


血縁を超えた人たちで入るこうした共同墓は、子々孫々での継承を前提としていない点が特徴だ。


倍率だけを比較すれば、「樹木墓地」は、自らの死後の安住の地として生前に選ぶ人の方が多いということがわかる。


「先祖をまつる場所」から「特定の故人の住家」へとお墓の意味合いが変化してきたことを端的にあらわしている。


お墓はいらないという考えは、少なくとも昨今の傾向ではないことがうかがえる。


お墓には二つの役割がある。
ひとつは、遺骨の収蔵場所としてのお墓である。

先祖のお墓を未来永劫、守っていく子孫がいるという確証は誰にもない。どんな人も必ず死を迎えるのだから、家族や子孫の有無、お金の有無にかかわらず、みんな等しく遺骨の収蔵場所を確保できる仕組みを考えなければならない。たとえば、無縁墓を出さないよう、子孫がいる限り永代使用できるというお墓ではなく、使用期限二〇年、三〇年などと区切り、希望すれば使用期限を更新できるお墓を作ることも、ひとつの案だ。すでに自治体の墓地では、こうした取り組みが始まっている。
また血縁を超えて、みんなでお墓に入るという子々孫々での継承を前提としないお墓も有効だ。子々孫々での継承を前提としたお墓である限り、無縁墓は今後、ますます加速度的に増えていくのは目に見えている。
もうひとつのお墓の役割は、残された人が死者を偲ぶ装置であることだ。


残された人が死者を忘れない限り、お墓は無縁にはならない。


高齢で亡くなれば、生前の故人と親しく交流し、死後も偲び、思い出す人たちがこの世に生存しているのは、せいぜい、二、三〇年間だろう。
お墓参りは、顔を知らない先祖のためというよりは、生前を知っている近しい故人のためにおこなっている人が多いことからもわかるように、祭祀される故人の顔ぶれがどんどん入れ替わっていくのは当然だ。
そのうえ今後、誰からも弔われない死者が増えれば、遺骨を収蔵する場所があればそれでよく、残された人が死者を偲ぶ装置としてのお墓は不要となるであろう。お墓のゆくえは、お葬式と同様、生前の死者が誰とつながっていたのかという、人と人とのつながりによっても大きく左右される。


2000年以降、男性の長寿化が猛スピードで進み、夫に介護が必要なころには妻も年老いているため、かつてのように「妻が夫を介護する」という構図が崩れていることは序章でも触れた。しかしこれからは、親世代の長寿化で、子どもも高齢化し、親の介護を担うことがむずかしい状況が生まれつつある。


同居している子どもは家族だが、別居していれば、子どもが家族だと考えるかどうかは意見がわかれる。ましてや、子どもが結婚して別の場所で所帯を持っていれば、子どもを家族だと思わない人は少なくない。「家族はいっしょに住んでいる人」という観念に基づけば、ひとり暮らしをしていれば、家族はいないと考える人がいても不思議ではない。


家族はどこまでの範囲を指すかという定義はなく、自分が家族だと思えば、それが家族なので、人によって違うのはあたりまえだ。しかし、家族だと思う人の範囲が狭くなっているのは、関係性の希薄化が背景にあるのだろう。


これまで亡くなっていった男性で、妻や子ども、孫がいないという人はごく少数だった。これからは、誰もまわりにいない高齢者が続々と亡くなっていく未知の社会が到来する。


これからの社会において、どれだけ自分で事前に考え、準備しておいても、自分では絶対に実行できない死後のことを誰が担うべきだろうか。


これまで家族や親族、宗族(父系血縁集団)による相互扶助精神が基本とされてきた台湾では、少子高齢化や長寿化、核家族化が猛スピードで進んでいる。その結果、家族内介護の限界、高齢者の孤立など、新たな社会問題が露呈しはじめている。
ここ数年、台北市、新北市、台中市、高雄市などの大都市では、お葬式を簡素化して、葬儀費用の負担を軽減したりするために、市の主催で複数人のお葬式が合同で行われている。
台北市の場合、遺体の搬送や納棺、遺体の安置、葬儀の施行までのすべての費用からか火葬代にいたるまで、遺族の負担は一切ない。財源は市民からの寄付だという。


この日、告別式の前の宗教儀式に立ち会ったのは葬祭業者以外には私一人で、遺族も台北市の職員も、誰も会場にいなかった。


自分のお葬式のために積み立てるのではなく、国民でみんなのお葬式にかかる費用を負担しようという趣旨のものだ。


どんな人も、亡くなった場合に最低限のセーフティネットがあることは、生きている人の安心感につながるはずだ。日本では、これまでは家族や子孫が支えるべきとされてきたが、死後を社会で支えあうことは可能なのだろうか。


葬祭扶助でまかなえるのは遺体をひつぎに納め、火葬するだけの費用で、読経をしてもらったり、祭壇に花を供えたりする費用は出ない。
昨今、高齢の生活保護受給者が増えていることから、この葬祭扶助費は多くの自治体で増加傾向にある。


エンディングプラン・サポート事業は、市役所の職員が葬儀、墓、死亡届人、リビングウィルについての意思を本人から事前に聞き取り、書面に残して保管しておき、同時に葬儀社と生前契約を結ぶという仕組みだ。葬儀と納棺にかかる費用は、市役所と提携する葬儀社やお寺などと相談のうえ、総額で二十五万円から三十万円までに納め、利用者が葬儀社に先払いする。


市の職員は契約時に立ち会うほか、高齢者が亡くなった時には、本人の希望通りに行われたかをチェックする。


この事業では、利用者のリビングウィルを、契約する葬儀社が預かっている点が特徴として挙げられる。


市役所の担当者によれば、生活にゆとりがなくても、「お葬式の費用ぐらいは」と、数十万円程度は貯金している人は案外、多いそうだ。自分で貯金していたにもかかわらず公金で火葬される人が減少すれば、市の支出も軽減できる。


全国の自治体に対し、他死社会を迎えて現在直面している課題についてたずねた調査では、無縁遺骨の引き受けの増加を挙げた自治体は、政令指定都市や中核都市を中心に八百十四自治体のうち百二十七自治体もあった。


六人に一人のひとり暮らし男性高齢者は、二週間に一度も、誰からも電話がかかってこず、自分からもせず、自宅を訪れる人や外で会う友人もなく、近所の人とあいさつをかわすこともないのである。男性だけではない。ひとり暮らしの高齢女性で、毎日会話をしている人は62.8%で、男性よりは多いものの、三分の二以下にとどまっている。


精神的にも社会的にも孤立していれば、突然亡くなった場合に遺体の発見が遅れる、弔う人がいない、遺骨の引き取り手がいないという状況に陥っても不思議ではない。お金がない、頼れる家族がいない、社会とつながりがないという”三重苦”を抱える人たちの増加で、これからますます、「悲しむ人がいない死」が増えていく。本人がそれを望んだのならともかく、社会とつながりを持ちたくてもできない人たちがいるのであれば、どんな人も無縁視させないために、社会が何らかの支援をする必要があるのではないだろうか。


無縁墓とは、相当期間にわたってお参りされた形跡がなく、承継する人がいなくなったお墓を指す。


弔う家族や子孫がおり、先祖のお墓があったとしても、未来永劫、子々孫々でお墓や死者祭祀を承継していける保証は誰にもない。無縁墓が増加しているのは、子孫が途絶えたからというよりは、生まれ育った場所で一生を終えるという人が減少してきたことと、核家族化の影響が大きい。


ライフスタイルの変化にともない、死後の安寧をだれが新たに保証すべきなのかが問われているのだろう。


もはや血縁、親族ネットワークだけでは、老い、病、死を永続的に支え続けることは不可能なところまで、社会は変容している。それでは、どんな人も安心して死んでいける社会の実現のためには、生きているあいだの安心や死後の安寧を誰がどう保証すればよいのだろうか。


困ったときにまわりの人や社会にサポートやSOSを要請しやすい環境が整っていなえれば、万が一のセーフティネットは、いくら制度や仕組みがあっても役に立たない。


無縁死を防止するには、地縁や血縁にこだわらない緩やかな関係性をいかに築くかが問われている。


コープ共立社では、行政と交渉をした結果、生協が共同墓を運営することは可能であるという結論にいたり、三年以上の年月をかけて、共同墓を建てる土地を探すことができた。


地域で死者の共同性を作る動きもある。


ぽっくり死にたい人は、長患いへの家族への気兼ねが大きな理由であるのに対し、病気で少しずつ弱って死ぬ方がいいと考える人は、自分の人生をきちんと締めくくりたいという思いがあり、両者では、死に対する考え方が違うことがわかる。


医療技術が発達していない時代には、発病すればあっという間になくなっただろうし、大家族なうえに、隣近所の付き合いが密接だったので、自宅で孤立しするという状況も起きにくかったはずだ。死んだら、隣近所の人たちが総出でお葬式を出したし、村の共同墓地に葬られる以外の選択肢はなかった。そんな時代に、「自分はどんな死を迎えたいか」「どんなお葬式をしたいか」を考えるという発想はない。
「わたしの死」は、医療のかかり方や、お葬式やお墓の選択肢が増え、自分の希望通りに人生をまっとうしたいと考える人たちが出てきたことによって芽生えた概念だ。同時に、家族のあり方や医療サービスなどの多様化、生活意識の変容などによって「わたしの死」について考えておかねばならない時代になったという見方もできる。これまで他人の死を支えてきた社会や家族の姿が変容した昨今、自分のことは自分で考えておかねばならないという必然性から芽生えた意識でもある。


かつては家族、親族、地域の人たちが総出でお葬式を手伝ったが、近所付き合いをしたくない、親戚付き合いは面倒だという風潮が出てきた。しかし、いまや家族だけではお葬式ができないので、葬儀社に一切合財をお願いすることになる。外部サービスに頼れば、当然、金銭的な負担はかかる。自立できなくなっているのに、家族に負担をかけず、お金もかけないということは、理想ではあるかもしれないが、現実的ではない。
そうであれば、まわりにかける手間を迷惑とさせないような方法を考えた方がよい。多くの人は、大切な人にかける手間を迷惑だとは思わないだろう。手間と迷惑は同じではなう、誰への手間かによって、迷惑だと思うかどうかがわかれる。


私たちは社会のなかで生き、死んでいくのだが、社会は手間のかけあいで成立している。「おたがいさま」での共助が必要ないのであれば、自立できなくなれば公的制度に頼るしかない。


私は2011年に幸福度についての調査をしたことがある。・・・。近所に信頼できる人がいる、社会やまわりの人たちの役に立っていると思えることが、幸福度をあげることにつながっていた。


困ったときに誰もが周りの人や社会にSOSやサポートを要請しやすい環境が、日ごろから整っていないことが問題なのである。


万が一のセーフティネットは、制度や仕組みがあっても、人と人とのつながりがなければ作用しない。
つながりや関係性は自然には生まれないし、デメリットも享受するおたがいさまネットワークだ。血縁、地縁、仕事縁に限らない。自主的な「縁づくり」活動を通じて醸成される関係性のなかで、生きている喜びを実感できれば、結果的に、誰からも存在を気にされない果ての孤立死は減少するだろうし、悲しむ人が誰もいない死は減るのではないだろうか。死ぬ瞬間や死後の無縁が問題なのではなく、生きているあいだの無縁を防止しなければ、みんなが安心して死んでいける社会は実現しないのではないかと私は思う。


相手は亡くなっているのだから、遺体と一緒に過ごす時間は無意味だという考えもあるだろうが、最後の時間を一緒に過ごしたいと残された人が自発的に思えるかどうか、なのである。


昨今の現象は、死者とのつながりがないからこそのお葬式やお墓の無形かであって、これは、社会における人と人とのつながりが希薄化していることの表れでもある。そう考えると、お葬式やお墓の無形化は、信頼しあい、おたがいさまの共助の意識をもてる人間関係が築けない限り、ますます進んでいくだろう。


人は生きてきたように死ぬとよく言われるが、現代のお葬式やお墓の形は、まさしく社会の縮図ではないかと思う。


「弔い無形化していく社会は、私たちにとって幸せなのか」という問題提起をしたかった。

終活相談


以上
またね***

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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...