2012年9月10日月曜日

水滸伝十四(食べる読書123)




ついに宋が本気になったと考えていいだろう。二十万官軍攻撃である。



一方、梁山泊は五万にも満たない。



この圧倒的な数・力にどう対応するのか。



これはチャレンジャーの宿命だ。



こういう大戦を前に、個々人の人としての変化もある。



戦はしているが、それは人の営みの中でのことなのだと、当たり前だが感じさせられる。



結婚もあり、史進の裸での乱闘もある。こういうことは面白い。



張平のことは気になる。



人が人となるには、なにが最低限必要なのか。考えさせられる。




志だけでなく、一人一人の人間にスポットを当てているのが、この作品の魅力だ。



以下抜粋


美しさは、残酷であり、同時に非凡でもある



まともなことを、まともに言える者などいないのだ




「恐らく、宋の中でいろいろと齟齬があるのだろう。決戦と思う者もいれば、時期尚早と思っている者もいる。それをひとつにまとめて梁山泊にむかわせるだけの力が、蔡京にはない。蔡京と近い青蓮寺は、国家の意志を体現してはいないのだから。あくまでも、裏の組織なのだ。軍費の扱いひとつにしても、青連寺には難しいところがある」



「孤独で、苦しいと思う。それが、宋江殿の人生ということになる。耐えきれないと思えば思うほど、逆にその資格があるのだ。苦もなく耐えられるという男を、私たちは頭領と仰ぎたくはない」



「私の、どこが頭領なのだ」
「自分はこれでいい、とどこまでも思わないところがだ」



自分が泣くことなどないだろうと思っていた、私がだ。人の弱さも悲しさも、痛いほど伝わってくる。それでも人は生きるのだ、という思いも。そして、どう生きるべきかということも。



「宋江殿は、負けず嫌いだな。意地っ張りと言ってもいい。勝敗は超越したような表情をしていても、誰よりも勝ちにこだわっている。頭領はそれでなければ」



「裴宣、男と女が慈しみ合うのに、罰を与えるなどと、人の道にはずれていると思わぬか。梁山泊は、そういう人間の道にはずれたくなかったから、結成されたのではないか」



「慈しんでやれよ。男とは、そうするものだ。女を慈しむことで、男はさらに充実して生きられる。おめでとう」




「生と死の分かれ目がどこか、考えることはやめるなよ」




「必ずと言う言葉もよせ、樊瑞。すべては、流れの中で決めるのだ」




「なにがよくて、なにが悪い。人にそれを当て嵌めるのは、難しいことです。私は、なにひとつ楊令に押しつけようとは思いません」




長く力を蓄え続けた国と、梁山泊は闘おうとしているのだ。



「十年後は見える。多分二十年後も。しかし三十年後は霧の彼方で、五十年後はないも同じだ。俺はただ、いまを生きたい。生きていると思いたい。心の底から憎いのは、宋だ。しかしそれは、ちょっと間違えば、梁山泊になっていたかもしれん。憎しみは、役人が不正をなすからとか、税が高いとか、そんなところから生まれてはこない。大事なものを奪われた。そして二度と戻らない。そこからほんとうに、生まれてくるのさ。」



「憎しみを抱き、それをどこにむけていいかわからないとき、宋江殿にあった。宋江殿は、およそ憎しみなどとは無縁の人だ。それなら、俺の憎しみは、宋江殿と一緒にいることで、人でなくなるような燃え方はしないだろう、という気がした。ほんとうにそうだったよ、鄒淵。晁蓋殿と出会った時も、そう思った。だから、二人の意見が対立した時は、困ったもんさ」



生と死の分かれ目。すべてを死の方にむけられているとしても、その分かれ目に三日間立っていられる。見たくても見えなかったものが、見えるかもしれない。いま死んでしまうより、ずっとよかった。




「苦しいのかもしれん。しかし、俺がなくなって染むのだと考えると、苦しみも苦しみではないな」




人は、絶対にやらなければならないものを見つけた時は、強くなれる。




「私も、自分が安全である戦を覚えよう。安全であるが、同時に果敢でもある。そういう指揮をしてみたいものだ」



歴史は、覆すためにあるのです。




梁山泊が、結局は凡庸な叛徒の集まりだとしたら、この全体戦で殲滅させられる。
しかし、いままでの戦ぶりを顧みると、必ずどこかで非凡なものを見せる。防御に徹するなどという戦は、しないはずだ。防御に徹するというのは、局地戦の戦術にすぎない。だから、青連寺の二人は、全体戦を闘っているつもりで、いまだ局地戦しかやっていないのかもしれないのだ。



以上
またね***



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