2011年11月12日土曜日

恥知らずのパープルヘイズ(食べる読書70)




小説プロジェクト“VS JOJO”の第一弾として書かれたもの。


ジョジョファンの一人として、こういうものは大歓迎。



著者の上遠野浩平さんの本は読んだことないが、よかった。



物語設定は、おそらくファンからの声が多かったフーゴのその後にしたのだろう。



読んでて感じたのは、小説というか文字のみというのは、文字+絵の漫画に比べて細かい心情描写が可能なのだなということ。おそらく著者の技量によるところが大きいだろうがそれは感じた。あるいは、漫画でそれを表現してはいるのだろうが、それを我々読者が汲み取れないか、あるいは汲み取っているが無意識で自覚していないのかもしれない。


どちらにしろ、優れた異なる表現者が同じ作品の世界観を表すとどうなるかという違いを感じられた。



しかし、この試みからわかることはすでに答えとして出ていることの再確認にすぎないと感じたのは私だけだろうか。



すなわち、パンナコッタ・フーゴはジョジョには似つかわしくないキャラクターである。ということだ。



だから、第五部から途中で脱落させた。



確かにジョジョの中で仲間が途中で自分から仲間を外れるということはなかった。なぜなら、ジョジョのテーマとして人間賛歌があり、それは濃いキャラクターとして表現することで、やるというなら何が何でもやってやるううう!!!という人間の悪い面を踏まえての、かつ前に進むという姿勢を表すと思うからだ。



また、スタンドというものはその人の性格や性質を具現化したものとして描かれる。



よって、フーゴのスタンド能力はなかなか正義へと昇華させにくい面がある。



この矛盾。



主役側の人間は、じつはそいつ自身の中で主役側が対立する相手の性質をもっている。だから、そいつが主役側にいること自体、何かおかしなことになり、話が進まない。



単純に言えばキャラ設定の間違いともいえなくもない。



しかし、いちジョジョファンとして、それは考えたくない。というか、フーゴを登場させることで何を表現したかったのかを考えてしまう。



第五部のテーマとして、社会から不遇にされたとしても、それでも自分が進む道には何の影響もない。己の道は己の信じることによって定まる。そのためにはそれなりの覚悟はいるが、それが真実の生き方。



私なりに解釈するとこうなる。(ちなみにこれをもっとも表していたのは、主役のジョルノではなくブチャラティだと思っている。)



なにかを表現するには、やはりそれに対するアンチテーゼとでもいおうか、それと比較する対象があったほうがより伝わりやすくなる。



つまり、ブチャラティ達のような“目覚める奴隷”に対してのアンチテーゼとしてフーゴを配したのではないか。




第五部連載時は90年代後半。当時、失われた10年真っただ中。バブル崩壊後何にも有効な手を打たず、人々もその厳しさを今ほどは感じていなく、ただその延長線上で生活していた。何かをしないといけないが、初めて直面することなので動けずにいた。今は独立は社会的に少し認められてきたが、当時はまだまだそんな風潮ではなかった。(うまく時代を捉えているとはいえないが、私なりに思い出してみた)



そんな時代背景にあって、第5部のテーマにするにはやはり、フーゴの物語の中での役回りは大きいと感じる。


みんながみんな独立に踏み切るのなら、ただの喧嘩だ。派閥争いの物語に成り下がってしまう。


しかし、ジョジョは人間賛歌であるため、人間の弱さを、今回はフーゴに演じてもらったといったところだと思う。



己の道を突き進むのは大切だし、それが正しい。しかしみんながみんなそれができる訳ではない。それが現実。だが、そんな世の中でどう生きるかを決めるのは、やはりあなたなのだ。ということを第5部では言いたかったのではないかとこの本を読んで感じた。



皮肉だが、巧い表現者がフーゴについて語れば語るほど、その弱さに直面させられ、それを表現することはそのままジョジョの否定につながるように感じて、読んでてなんだかしっくりこなくイライラした。



再確認にすぎないと書いたが、やはりこの本はいいと思った。好きではないが。第5部は、その世界観の中に何かしらの悲哀がある。登場人物はみんな若いのにである。それを今回は思い出させてもらった。おそらく、10代後半から20代にかけて直面する現実社会の絶望的な側面。だが、それらを飲み込んで自分のものにして人は生きていくんだということを、改めて感じさせられた。



戦闘シーンは良かったと思う。だが、やっぱりなんか暗いんだよなぁ~。



以下抜粋


うまく行かないのが人生だ。まずはそれを受け入れることだ。そこからすべては始まるのだ。たとえ他人が自分が期待していることをしてくれなくとも、予想と異なる行動に出ても、それを認めることだ。君のようにすぐにキレて周囲に当たり散らすのは最悪だ。それではなにも生まれない。そこには荒廃しかない




心に罪悪感がある限り、君の能力は外れないーーそうなのだろう?だからだよ……私に罪悪感はない。常に心の中で、その真実を背負って生きているから、今さら君に暴露してもらわなくとも、いつでもその声を聞いているのだよ




あのときのブチャラティに、フーゴは苦しんでいるのだなと感じたが、同時にこの苦悩をも乗り越えてさらに強くなるのだろうとも思った。それは間違っていなかった。それからブチャラティはますます組織の中で確固たる地位を築き上げていっていたし、周囲の矛盾との折り合いをつけるのも巧みになっていった。なんの心配もいらなかったはずだった。
・・・
わかっていたはずだった。
ブチャラティが平気ではなかったことは。
ゆっくりと精神が死んでいくだけと悟ったかのような、あのときの眼ーーブチャラティにあんな顔をさせた原因は“麻薬”だった。




この世には、正しいとか間違っているとかを決められないことがあまりにも多すぎる




重要なのは今の軋轢じゃあない。その力で目的に挑むことであり、未来を築くことなのだから。



君はさっき、自分でなくてもよかったのではないかと言ったがーーそれは話が逆なんだよ。まず、君の問題があって、他のことはその次に来るんだ。君こそ最優先事項だったんだ




自分にとっての勇気がなんなのか知ることーーそれを一生かかって探っていくのが、すべての人に科せられた宿命なんだ。それは扉のようなもので、自分で開けない限り、決して道とは気づけないーー君は今、その扉の前に立っている。そこまでは辿り着いた。後はーー君次第だ



人はよく「大きな善のためにはわずかな悪はやむを得ない」というが、そんなものはその悪と直に接してしまった人間にとっては何の関係もない。逆にその“大きな善”とやらが、その人にとっての悪になってしまう。そしてそれへの対抗が、さらなる血を流すことにつながってしまう。ここで問題になるのはもはや善悪ではなく、ただの恨みつらみだ。



過ちを認める勇気、自分を貫き通す勇気、どちらも勇気なのだが、しかしそのどちらが正しいのかは決めがたい。様々な状況があるだろうし、様々な違いがあるだろう。だからここで重要なのは勇気を出したからという満足などではなく、その結果、何が失われていくことになるのか、それを見極められるようになることだろう。



以上
またね***



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