2012年1月15日日曜日

なぜ子供のままの大人が増えたのか(食べる読書77-1)




以下抜粋


甘いものであろうと辛いものであろうと、未来を意識するということは、つまり人生で予測を立てるということなのだ。


私が骨の髄まで自然に日本人として、人としてありつづけたから、相手はそのことに興味を持ったのである。


自由な境地、というのは、人種にも、宗教にも、階級にも影響されない強い魂のことを言うのだ、と私は察していた。


田舎育ちの母が、素朴に私に望んだのは、しっかりした宗教的基盤を持ちながら他宗教には寛大であり、自分は庶民中の庶民として育ってもどのような人の前に出ても礼儀正しく脅えず、静かに自分を失わない人間を創ることであったように思う。


激しさと優しさは、善悪で分けるものではない。それはただ、存在の姿の違いであることを、私は学んだのである。


テレビだけでなく本を読めというのは、ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)に頼ってどんどん実人生から離れることを防ぐためである。不思議なことに読書も直接体験ではないのだが、辛抱も身につき、哲学も残るのである。


平和は善人の間には生まれない、とあるカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に充分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果としてかろうじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。


肉体的には大人なのに、精神的に子供のままだという人が増えたのは、家庭でも学校でも社会でも「与える機会を与えられなかった」からである。


人はあらゆる行為に対して、もともと代償を払うべきものだ。損をするのが嫌なら、妥協もまた一つの凡庸な選択だと知って納得するのも教育である。


「働きと祈りと愛とでその日を満たせ」


「与え」るものは物質だと思っている人も多いだろう。そうではない。知恵、体験、忍耐力、健康、自由、納得、献身する姿勢、悲しみを通り抜ける術、不幸を受諾する勇気まで、物以上に力を発揮するものはたくさんある。私たちはそれらの存在の大きさをまだ知っていないように思う。


日本人は、戦争が必要である場合があるということと、それがいつでも常に悪であることとの双方を、決して同時に、苦悩のうちに認めることができないのである。


子供たちにも身を守る技術をつけさせることは大切だ。刃物を持った男に立ち向かうことはできないだろうが、指一本取って相手を動けなくするか、隙を突いて逃げる技術は覚えられるかもしれない。勉強ばかりして身を守れないのは、どこかアンバランスである。しかし教育の不備がここへ来ていよいよ明らかになったという人もいる。


「食事をすると決められた場所以外で、食事をしてはならない」


子供は、父と母を本当は尊敬したいのである。故に父が直面している生活の厳しさ、その成功例と不成功例は、共にたいていの子供が深く愛する話となる。父の職場を家族に見せる気運を社会に望みたい。
また家庭にあるときの母は、一つの重厚な存在感として子供の心に残る。父も母も理想ではなく、人間の存在のあかしとして認識されれば、それで家庭教育は成功したのである。両親は、子供が最も理解しやすい、人生で最初の教師である。


個性は、学校で受け入れられる場合と拒否され理解されない場合とがあるが、それは人生の如何なる時点でもあり得る矛盾である。それゆえ理解されない苦難にいかに耐えるか、ということも、一つの学習である。もちろんそれには、別の角度から、家族や友人などの支持が大きな助けになるのは言うまでもない。


教育はしばしば嫌われ、憎まれることによっても、その機能を発揮するのである。社会は必要な時に子供を叱る勇気を持つべきだろう。


教育は本来、父母、当人、社会が共同して行うものであり、そのすべてが効果に責任を有する。親だけが悪いとか、社会が自分を裏切ったから自分はだめになった、などと言うのは口実に過ぎない。


変化は、勇気と、時には不安や苦痛を克服して、実行しなければ得られない。
私たちは決して未来に絶望していない。道は厳しい。しかし厳しくなかった道はどこにもなかった。だから私たちは共通の祖国を持つあなたたちに希望し続ける。


人間は生きるためには、賢いことと共に愚行や蛮行も時にはしなければならないのである。



甘やかされた子供と、そうした子供のなれのはての大人は、無限に外界に要求する。同時にうまくいかなかったことはすべて誰かの責任にする。



戦後長く続いて来た日教組的教育は、個人の生活のゆがみは政治の貧困の結果だ、と教えた。要求することが市民の権利なのであった。しかしすべてのものの結果は、自分と他者と偶然と、この三つのものの結果だ、とは言わなかった。人は決して平等たりえない、とも教えなかった。


ものごとの不備を正視できるためには、「勇気」がいる。しかし発見すればそこに、温かい寛大な同感も悲しみも共有できる。しかし正視しないうわずった眼の孤独な大人ばかりが、亡霊のように怒りに満ちてうろうろしているのが現実である。


親のやったことに深く恨みを持っている子供を私もよく知っているし、その親にも当然欠点がある。しかしたいていの子供は逞しく親など乗り越えて行き、最後には結果的にそういう力を与えてくれた親に、私のように感謝するようになるのが普通だと思う。


私はそこにインド人の神父を同行していた。謙虚で頭のいい、率直な人である。日本の若者たちの印象を聞くと、誰もが幸福そうに見えなかった、と言う。彼らは皆、自由、経済力、健康、知能、すべてを持っているのに、である。
どうしてそう感じたのか、と聞くと、「彼らは自分がしたいことをしているだけで、人としてすべきことをしていないからだ」と明快な答えであった。


大人になるということは、今日から、その人が受ける側ではなく与える側になった、ということだ。


逆説的だが、人間としての義務に縛られてこそ、初めて凧は悠々と悲しみと愛を知って空を舞う。


凧の糸は、失敗、苦労、不運、貧乏、家族に対する扶養義務、自分や家族の病気に対する精神的支援、理解されないこと、誤解されること、などのことだ。それらは確かに自由を縛るようには見えるが、その重い糸に縛られた時に、初めて凧は強風の青空に昂然と舞うのである。


to be continued ・・・



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