2012年10月10日水曜日

心にきた言葉集33






「士君子、すなわち国家有為の人物にはできることとできないことがある。君子は他人から尊敬せられるような礼儀道徳を自ら修め行うことはできるが、他人に必ず尊敬させるということはできない。他人から信用せられるような人格を作り上げることはできるが、他人に必ず自分を信用させるということはできない。他人に使われるような才能をみがくことはできるが、他人をして必ず自分を使わせるということはできない。だから君子は自分の行いの正しく修まらないことを恥ずかしいとは思うが、他人から恥ずかしめられることを恥とは思わない。自分に真心のないことを恥ずかしいとは思うが、他人から信用せられないことを恥とは思わない。自分に能力のないことを恥ずかしいとは思うが、他人に使ってもらえないことを恥とは思わない。だから栄誉に誘惑されず、非難されることを恐れず、道徳に従って行動し、正しく我が身を修養し、周囲のものごとのために動かされない、これをまことの君子という。「詩経」に、”穏やかでつつしみ深い人こそ、すべての徳の根本である”というのは、このことをいうのである。」



これは、荀子の非十二子篇のなかの言葉である。



日常で目にする文言や言動など、ほとんどが商業的文脈の中で発せられるものであるのが現代ではないだろか。



つまり、人の道を説く言葉は日常生活の中にはちりばめられていないのだ。



そんな時代に生まれ、どう歴史的役目を果たす人物へと自分を育てられるか。



その答えの一つが古典から学ぶことだ。



上の言葉は、心にきた。と同時に、指針を示してくれ、多少なりとも、私の判断というか価値基準をはっきりと言葉にしたものだと感じた。こういう人間となりたいと思い続けてきた。なかなか現実化できてはいない。覚悟だったり、こう生きると決断していないのかとも思った。



自由とはおそらくこういうことだ。



すべての基準は己で決める。人がどう受け取ろうが、それは相手の問題だ。こちらは関係ない。



自立。



こんなにすごい考えや思想が古典にはあるのかと、いまさらながら古典の普遍さに驚くばかりです。



これからも学ばせていただきます。



よろしくお願いします。



以上
またね***


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