2017年11月16日木曜日

フェイクニュースの見分け方(食べる読書134)



以前、日経新聞を取っていたことがある。2年ほどとって読んでいたが、何の役にも立たないと感じてやめた。

理由は、記事の内容だけでなく、その記事が掲載される理由や背景までは載っていないからである。単なるデータとしての情報しか載っていないと感じたからである。

日経新聞だからだろうが、リアリティを感じなかった。地方紙なら少しはリアリティを感じたかもしれない。

何が言いたいかというと、なぜ人は情報を得るのかということだ。情報を得る”目的”は何か。

情報は、目的達成のための判断材料として活用するもののはずだ。

情報を得ること自体が目的ではないはずだ、と私は信じているしそういう人生にしたいと考えている。

情報に対して主体的でいたいのだ。

今はもうそういうことはないだろうが、日経新聞を読んでいるだけで周囲から(上司などから)評価されたりするのは、情報収集自体が目的化している事例だろう。情報収集自体が権威化していて、情報自体の真偽などは問われていなかった。

情報源が限られると、その情報源自体が権威を持つ。

そういう構造を把握したうえで、その情報発信側に回るなら、「社会における情報発信の実態」という情報を判断材料にしたのだろう。

だが、これでも不十分だ。「何のために」という目的が不明確だからである。単に甘い汁を吸えそうだからという目的なのか、真実を社会に伝えるという目的なのか、行動だけからはわからないのだ。

社会がどのように成り立っているのか、誰もわからないだろう。しかし、少なくとも多くの人が様々な目的の基に日々動いているのだけは確かだろう。それは複雑でとらえることはできない。
だからこそ、情報が生まれる。既知のものであったり常識はニュース(情報)にはならないだろう。様々な思惑が交錯するからこそ、相対的な得や損が生まれる。
それをとらえるための”情報”なのだ。

その「人から生まれる情報の背景やその人の思惑、葛藤」も込みの情報が必要なのだ。

人と人が交わり交流することで社会は動く。この基本を満たすには、情報の基となる「情」も伝わらないといけない。どうしてこの情報からその判断をしたのか、その決断の意図はなにか、などなど。

情報の連鎖が、交流であり社会の営みであり進展の元である。

得た情報をもとに決断を下し、その下した決断がほかの人にとっての判断材料としての情報となる。この連鎖である。

逆に言うと、その情報から発信者がどんな人物かがわかるのが情報である。すると、その情報から物事が広がっていくのではないか。様々な思惑を胸に様々な人が彼にアプローチするだろうからだ。

と、考えると、マスメディアのありかた云々ではなく、社会のダイナミズムを見ることで情報の質がわかるのではないか。

だが、この考えも雑すぎる。情報とは何か、が明確でない。入力、加工、出力のどこをどう変えればどう変わるのかもわかっていない。

情報と単語1つで語ることはできない。ここから出発しないといけないのかもしれない。

しかしながら、少なくとも、自分が影響力を及ぼせない範囲の情報は単なる権威化もしくはエンターテイメント化しやすいと考える。マスメディアはそれを促進させる力があると考える。
自分事として見れるか、つまり自分の影響力の範囲を広げられるかどうか、情報を選別する目を持つには参考になる1冊だと感じた。

以下抜粋

「公開情報」を情報源にして相手を分析していく活動を「オシント=OSINT(Open Source Inteligence)」という。それに対して人間を情報源にして聞き出し、分析する活動を「ヒューミント=HUMINT(Human Source Inteligence)」という。ほかには通信の傍受や電話・メールの盗聴など「シギント=SIGINT(Signals Inteligence)」もある。


政治団体の政府・与党への影響力を報告する内容なのに「カネの流れ」「人の動き」というもっとも基本的な事実をなぜ調べないのか、私には理解できない。「新聞記事を調べる」というのは、公開情報調査の初歩の初歩だと思う。


・膨大な公開情報を蓄積し分析することがインテリジェンスの第一歩である。
・95%の公開情報を分析することで5%の独自情報が意味を持つ。
・マスメディアで流れてきた情報を疑う第一歩は、他の公開情報を調べてクロスチェックすることである。ネットはそのために有効なツールである。
・Gサーチ、アマゾン、図書館のネット検索システムは「使える」データベースである。


誰もが言論を発信し始めてみると、旧型メディアに連なっていた発言者より、はるかに優れた知識、感性、着想や思考力を持つ人材が多数いることが分かってきた。発言者がマスメディアに関係していることが、その言論の価値を保証しなくなったのである。そうした旧来型の特権発言者の名残が形式だけ残っているのが、新聞の「社説」「コラム」であるが、それらはもはや何ら社会的価値を担保しない。


政権が自分の政策に都合がいいようにマスメディアをコントロールしようとするのは、洋の東西を問わず、どこの国でも当たり前である。


要は「報道が権力を本気で監視するなら、権力はあらゆる手を使って逆襲してくる」という心構えが欠けている。報道と権力の関係はそういう「戦争状態」「緊張状態」がデフォルトだという認識が足りないのだ。
さらに、そうした苦情や批判を先読みして「権力からの苦情が来そうな報道はやめておこう」と手控えるような姿勢は「自己検閲」という報道側の病理現象である。これは権力からの圧力や介入とは関係がない。あくまでマスメディア企業側の病気である。自らの落ち度を政権のせいにしてはいけない。問題の所在が見えなくなるだけ有害だ。


「反論」「再反論」という討論を「正誤、善悪、勝負を決める」のが目的だと受け取る人が多い。これは誤解である。公に開かれた討論は本来、読者が「何が真実なのか」を考える判断材料を提供するプロセスなのである。


「マスメディアの取材がなければ起きなかった出来事」を「メディア・イベント」という。役所や関係先だけで祝賀行事があり、そこにマスコミが集まって取材する。その小さな空間での出来事が「地元の反応」というパッケージでマスメディアに載る。
記者はこうしたメディア・イベントや関係先への取材で聞いた発言内容を並べて記事を書く。しかし、現実は記者が期待するよりずっと地味で、まとまりがない。


新聞やテレビに限らず、一般に、根拠となる事実が弱いと、修飾語が過剰に強く、大げさになる傾向がある。論拠の強い事実があると、その事実を余計な形容なく描写するだけで、その主張や分析の正しさはたちどころに証明される。それがない、事実が弱いと分かっていると、人間は無意識にそれを補おうとして言葉が強くなる。だから「意気込んだ」「決意を語った」「胸を張った」的な強い修飾語が頻出している文章を見ると、私は疑うようにしている。


「ビッグ・ピクチャー」とは、ある事実Fがあった時に「空間軸」と「時間軸」を広げ、その座標軸に事実Fを置いて検証しなおしてみることだ。


ここで私が勧めたいのは、「『記者が何を書いたか』ではなく、むしろ『何を書かなかったのか』に注意を向ける習慣を身につける」ということだ。何を書かなかったのか、何が書かれていないのか、疑ってほしいのだ。


本来報道が検証すべきは「国の新しい住民避難策は被爆を防ぐのに有効なのか」だった。しかし朝日の記事はその検証を怠り、問題を発見できていない。だから、被爆を招くことが自明の避難政策の欠陥を指摘できないままに終わっている。そして枝葉末節(モニタリングポストの数)の論争をしかけている。
こうした欠陥記事が有害なのは、本当の問題点から目がそれてしまうことだ。「避難策は基本的にこれでいいのだな。モニタリングの数だけが問題なのだな」と世論が誤った方向へミスリードされるのである。


フェアネス原則は「ニュートラル原則」(取材対象に利害関係を持たない)や「インディペンデンス原則」(他社の介入を許さず自己決定権を持つ)に並ぶ重要な原則である。この「フェア」の概念をマスメディア上の情報に当てはめてみると「ポジティブな内容もネガティブな内容も両方が記述してある」意味になる。
現実は「善悪」がすっぱり割り切れることのほうがむしろ少ない。「完全な悪人」も「完全な善人」も現実にはいない。どんな人間にも善悪両面が同居している。善人に見えても、欠点のない人はいない。また悪人に見えても、美点が必ずある。
裏返していえば、実在する人間を「完全な善人」または「完全な悪人」であるかのように見せる表現は、現実から離れている。フィクションに近づいている。つまり情報の記述がフェアであるかどうかは、それが「現実に近いかどうか」「事実に近いかどうか」の指標にもなる。こうした「フェア度」による事実かどうかの判定を、和足は「フェアネス・チェック」と呼んでいる。


(1)複雑な現実より、単純な話のほうがより多数が理解しやすい。読者や視聴者が増える。より「視聴率」や「販売部数」を増加させる。それが筆者の「人気」「知名度」「収入」に反映する。
(2)複雑な現実を理解し記述をまとめるには、より高い取材・発信者の力量が必要。
(3)複雑な現実を取材するには、時間や労力などコストがよりかかる。短時間、少ない人数、少ない取材費など低いコストで取材を求められる場合、複雑で多面的な現実より、単純で一面的な話でまとめたいという動機が生まれる。
(4)ポジティブな話だけを流すほうが、取材者相手が好意的に迎える。ネガティブな話も合わせては流そうとすると相手が嫌がり、取材が難航する。またネガティブな話を公開すると関係が悪化する。


現実はかくも矛盾し、ねじれている。血のにじむような努力を重ねた人間が敗れ去る。特に努力したわけでもない人間が成功する。誠実な人間が裏切られ、嘘つきが勝つ。巨万の富や権力を得る。犯罪者は逃れ、犠牲者の無念は報われない。大義もなく戦争が起こり、街が破壊され、人々が虐殺される。貧しいものはますます奪われ、富める者はますます豊かになる。
ところが、そうした現実に倦んだ人々は、マスメディアに「現実と反対の、単純化あるいは理想化された物語」を求める。テレビやインターネットなどマスメディアのプラットフォームが同じだと、報道にもその感覚が無原則に持ち込まれる。発信する側も「そのほうが人気が取れる」と価値判断がそちらに傾斜する。インターネット登場後、情報の流通量としては「現実の単純化」の傾向はますますひどくなっている。


(1)西洋キリスト教型社会の文化や価値観・価値尺度に当てはめて、違う文化を持つ日本の社会や文化を語る。
(2)記者は日本の社会文化や歴史を深く知らない。日本語が不自由。日本語の本や新聞が読めない。日本語の出版物ではとっくに決着がついている問題を延々と蒸し返す。
(3)日本をほめて「それにひきかえ我が国は」と自国批判に使う。
(4)映画「ラストサムライ」のような映画・ドラマ・小説に影響される。
(5)アメリカの場合、アメリカ国内にいる日本人(日系アメリカ人、駐在員、イチローらメジャーリーグ選手など)に影響される。


過ちであっても、それが社会に共有され「なぜ誤ったのか」を社会が考えるプロセスこそが、社会全体の知を向上させるのだ。


言葉の定義を明確にすることは、論点を明確にすることでもある。


米国では広告代理店やPR(パブリック・リレーション)会社の重要な仕事はこうした「認識形成」あるいは「印象操作」である。企業や政府などクライアントの意向に従って、好ましい世論をつくる。


専門家たちは、科学や合理に基づいた真実を発言するとは限らない。「利害」や「立場」にそって発言をする。それが日本社会が原発事故で知った大きな教訓である。本来は、そういうバックグラウンドや利害関係、立場を含めて記事は読者に知らせるべきなのだ。


どんな集団にも、その構成員が従うルールがある。それを調べておくと、その構成員の行動が理解しやすくなる。


私が若い記者だったころ、先輩が教えてくれた重要な教訓は「警察を取材するなら警察官職務執行法や刑事訴訟法、自衛隊を取材するなら自衛隊法など、相手の身分や組織、権限を規定した法律を読んでおきなさい」だった。相手が従う法律を知っておけば、その行動が読めるからだ。これは本当にその通りだった。


「法律は権力の言語」だと私は思う。法律をどう決めるかで、政府や国会が隠している「本音」がわかるのだ。3.11から真剣に教訓を学び、同じ過ちを繰り返さないためには、住民避難を決める法律のダブりを早く解消しなければならない。しかし、この論点は問題として指摘すらされていない。こうした事実は「国は3.11の住民避難の失敗を改善する意思がない」と暗に語っている。


前提になっている条件を逆にしてみると、すべてに合理的な説明がつくことがある。その場合、逆にした前提のほうが正しい。


(誤)「政府の規制があった」しかし「福島第一原発の津波想定はずさんだった」
このロジックのままなぜ?という発問をしても、辻褄が合わない。では、これを反対にひっくり返してみる。
(正)「政府の規制がなかった」ゆえに「福島第一原発の津波想定はずさんだった」
これで辻褄が合う。つまり最初の前提・仮定が間違っていた。


「何かわからないが、重要な要素がまだ発見されていないと仮定するとすべてに合理的な説明がつく」という要素を英語で”the X factor”(エックスファクター。要素X)という。「どうも筋が通らない」「腑に落ちない」と感じるときは「何か重要な要素Xがまだ発見されていない」と仮定してみるといい。


実際にアメリカでは、広告代理店が無関係な市民を装って、ネットで企業や政府に好意的な意見を発信し、世論を偽造することは「アストロターフィング」(人工芝)と言って日常化している。日本でも当然、そういった業態はあるのかもしれない。


以上
またね***

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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...