2009年9月29日火曜日

プロデュース能力(食べる読書4)



プロデュース能力 ビジョンを形にする問題解決の思考と行動
」 日本能率協会マネジメントセンター 佐々木 直彦 著

プロデュースについての本。

これからは個々がプロデュースの力を求められる時代。そんな時代背景を考えるととても為になる本。「すげ~!!!」というのが印象。自分も何かできそう。いや、やってやるという気になる。

プロデュースとは何か。どんな手順で進めていけばいいのか。何が必要か。などが書かれている。

今の俺が、プロデュースへ向けてやることは、ビジョンを決めて、三つの物語を語れるようになること。それと、小さな行動を起こすこと。とりあえずこの二つかなと思っている。

はっきり言って、まだこの本の内容が頭の中で整理できていないため、きちんと理解しているとは言えない。読むだけじゃあ、理解できない類の本だと思う。実際やってみて、それで本を見て、この行動は、プロデュースにとってどんな位置づけなのかを知っていくことが、理解への近道だろう。

印象的だったのが、「合理的問題解決方法」では解決できない問題は、プロデュースで解決できるだろうということ。

あと、プロデュースは、論理的に人を説得できないが、何かをやりたい人間の情熱、気持ちの強さが、重要な説得材料になるということ。

これから、何度も開く本になるだろう。よろしくお願いします。


プロデュース能力 ビジョンを形にする問題解決の思考と行動


以上
またね***


2009年9月27日日曜日

加速ビジネス塾スペシャルセミナー

「夢の叶え方」 道幸 武久

今日、名古屋で行われた、道幸さんのセミナーに行ってきた。

「夢の叶え方」と題して、いろいろな話を語ってくれました。

おもに、三つの成功の秘訣を話していたと受け取った。

1:トレンド
時代を読むと言い換えてもいいと思う。道幸さんは、2005年に「加速成功」をキーワードでヒットした。今は、「自分スタイルの成功」と銘打ってセミナー活動している。
現在を「ライフプランは自分で考える。40歳以降のモデルがない時代」と彼は分析し、それは、「一人ひとりの成功は違う時代」と判断した。
投資に関しては、今までは株・不動産投資だったが、今は自己投資の時代。

2:USP(ユニーク・セリング・プロポジション)
パーソナルブランド化のことで、自分の個性を売れということ。特に強調していたのが、“自分を探すな、自分を売れ!”だ。どうやったら自分は売れるだろうか?と考える。
ここで、サドベリースクールを例に挙げていた。サドベリースクールとは、生徒はやりたいことを何でもできる学校のこと。それは、自らのやりたいことを存分に追求できるということである。五年間一日中釣りしかしてなかった少年がいた。彼は、大人になると、一流の写真家になった。彼はきれいな景色を見るのが好きだったのだ。サドベリースクールには、自分の本当にやりたいことは何かを考える場があるのだ。先日書いた、食べる読書2の、国民教育の普及が個々の能力の衰退につながるとの指摘はその通りだと言えるだろう。こう考えると、ニートはサドベリースクールat家族に近いのかも。

3:成功哲学・戦略マーケティング・スピリチュアル
この三つをバランスよく身につけること。
成功哲学とは、モデリング。戦略マーケティングとは、与えたら返ってくるビジネスの仕組み。スピリチュアルとは、天からのメッセージを受け取れるように直観力を鍛えておくこと。スピリチュアルは30パーセント。現実は70パーセント。

ほかに、心に響いたものは、セルフイメージの話。自分で自分を認めよう!ということ。自分の中で幸せを追求していてはだめ。自分でないモノの中に成功を見出しては、本物ではないし、決して幸せになれない。人はそれぞれ違う。その異なるキャラを自分で否定しては何にもならない。

私の信条、というか、一生をかけて成すこととして、「生きる」ことがある。人によって、生きることの意味は違うだろうが、私は、三つの意味があると考える。その三つはそれぞれ単独であることはなく、どこかで繋がっている。「役割を果たす・自分を活かす・自分を追求する」である。セルフイメージは、二つ目の「自分を活かす」ことと深く関係していると思う。何をしている時、自分は最も輝いているか。それを理解し、心身に沁みたなら、もう自分を否定することはできないはずだ。そこが自分の居場所だから。自らの生きる場所があるのに、他の場所に自分を見出そうとする者はいないだろう。それでも死にたいなら、あなたは生まれてこなかったはずだ。自信がないのに自信を持てとは言わない。実績がないのだから持てないのだろう。なら、自信が持てるまで努力するのが、あなたの人生なのだ。あなたの人生はそういう人生だ。これが、あなたの人生だ。その、自分の人生を肯定したなら、もう世界はあなたのものだ。あなたは生きているのだから。

道幸さんは、「自分の人生を肯定した時から成功する」と言っていた。確かに、私たちは、その人がその人自身を愛してる人にとても魅力を感じる。また、交流を持ちたいと思う。

道幸さんは、他にも多くのことを語っていたが、なかなか行間が読めなかったなあ。ま、これが今の俺の実力ということで。でも、学べることは学ぼうとした。もっとキャパを広げていこうか。

以上
またね***

2009年9月22日火曜日

人は変われる(食べる読書3)



心理学の本かな。

この本で言いたいのは、”人生に絶望して、そこから生きて帰れたなら、あなたは自分の人生を生きれます。”ということだと思う。

人は30前後までには、自分や世界に対する安定した解釈を持つ。それは、生まれてからこのとろまでには、人は世界と自分を知るために心の発達を遂げてきたといえる。そして、自分の心の動きも、世界の出来事も十分に解釈できるようになった時、人は、ここまで努力してきた自分のすべての営みは何のためだったのかと、人生を振り返る。だが、これまで磨いてきた古い解釈では、これに対する答えは得られない。

新たな解釈が必要なのだ。
どうすれば新たな解釈が得られるだろう?

ここで、心の階層について説明したい。
感覚ー欲求ー知性ー感性ー主観性の順に核に近く、深くなっていく。感覚が一番表層にあり、その次に欲求、知性といった具合だ。さらに、深い層は浅い層をコントロールできる。よって、知性は欲求をコントロールできる。そして、主観性の層をはっきり感じられるようになった時、新たな解釈を知ることになる。

この本では、心の三つの能力を使って、主観性の層まで到達できるとしている。それは、
1、自分から離れることができる能力
2、絶望することができる能力
3、純粋性を感じることができる能力
である。
本書では、具体的な、筆者が出会った患者さんを例に説明している。






以下、いくつか主観性とはどういうことかを、本書から抜き出してみよう。

「古い解釈の中、自分とは家族、会社、社会の多くの人間関係の中で、その関係の一つ一つによって決められている自己像の集合であった。しかし、自己が心の最も深い主観性に触れ、心の中に生起するすべての現象を観察できるようになった時、私は自分を定義するのに外的な事物や人間関係を参照する必要はなくなる。

私は個々人の相互関係の中に生れてくるものではなく、私は内的に確立される。

私は、自立的で、独立的で、自己参照的であって、私は何かの役割を演じているものではない。

父親、夫、課長、市民、日本人を貫く、変わらぬ私の主観性が確立される。」




「人間には二つの面があると思うんです。心理的に見て表面の自分、ちょろちょろしている自分と、奥深く存在している、なかなか出てこない自分。このめったに顔を出さない、お宮の中に鎮まっておる自分が、いつでもちゃんと厳然として、お不動さんみたいに目をいからせておらんと人間は間違うと思うます。

間違いのない、地球がくずれても、この自分はくずれないという、本当の自分というものがあることを、嘘にせよ考えるだけでも、私は人間はしっかりしてくると思います。」




「たとえばビジネスの企画会議で、主観性を維持している人は客観的な状況の描写を長々とすることはあまりしない。ほかの人々が、客観的な情勢を詳しく説いてその中から自分たちのなすべきことを導き出すのに対し、主観性を持った人の話は、まず自分のすべきことがあって客観的状況は単にそれを検証する材料であるかのように聞こえてくる。私たちはそういった話の攻勢に、事態を把握している人の強さを感じる。

私はこうしたい、私は自分の家族をこんな風に感じる、といった内容の発言が多い。自分の立場からの発言、足が地についた発言が多くなるのである。」




「周りの環境に左右されることなく、周りに気兼ねすることなく自分の判断を下せるようになる。判断は、その時の自分の持っている知性と感性とのすべての経験から導き出されたものである。全力投球したものであるから、後悔はない。もちろん、判断を間違うこともあるが、それは判断した自分が間違っていたのではなく、単に判断が現実と合わなかっただけである、自分の経験が足りなかっただけだ、と感じる。
主観性を維持している人は、そうした時、自分の判断を訂正することに全く躊躇しないであろう。」




「周囲の環境から一定の距離を保ち、自己の内部に認知と行動の指針を持っている。外界、社会的関係に左右されない安定した自己像を保ち、経験を積んで自己の能力を拡大していく傾向がある。また、彼らは孤独を楽しむ能力がある。」




主観性を獲得した人のセリフ
「この世で生きるには、食べるために働かなくてはならないでしょう。これは仕組みですからしょうがないと思います。でも、それもまあ、私なりに楽しんでいますよ。」

主観性をもつとはどういうことか少しは感じてもらえただろうか。






では、最後に主観性に出会うまでの心の動きの描写を本書から引用しよう。

「心に知性の働きが、自分の行く末を予測して、あるいは過去を振り返って、そこに変えられない必然性=運命を見たとき、心は絶望した。はじめ、その絶望の前で心は、身動きできないかのようであった。



しかし、絶望する能力を持っていた心は、運命から目をそらしたり、運命という必然性の前にひれ伏すことはなかった。心は、ただ静かに絶望を見つめることができた。



それは、はじめ、悲しみと重さの混じった感情であった。




ついで、この絶望の中にじっと浸っていると、いつのまにか心は、この悲しみと重さが、実は自分自身であることを知り、それを感じていることを心地よく思い始めた。





その心地よさは、自分が自分と共にいるという心地よさであった。自分と一緒にいるという、満ち足りた気持ちの中で、悲しみと重さを感じている心は、潤い、慰められる。人が、自分自身を全身で感じている時、人はこの上ない至福を味わうのである。それは、悲しみの中でも。喜びの中でも、変わることのない至福である。




自分自身を感じたという満足の中で、悲しみや絶望はいつの間にか力を失い、小さなものとなってしまった。十分に堪能された悲しみは次第に消え、心の中は透明になった。



その時、運命も、絶望も、悲しみも、すべてを知った心は、再び軽さを感じて動き出す。




“運命なら運命で、いいじゃないか。どうせ変えられないのなら、気が楽だ。私はあらゆる義務から解放された。何をやってもいいのだ。私はいつもここにいる。自分の変わらぬ自分と出会っている。”




それは、あきらめることによって、絶望という客観性の重さに肩透かしをくらわせてしまうようである。あきらめという思いがけない行動で霧散してしまった客観性は、重みを失う。






その時、主観性は運命の中に浸透しはじめる。」






俺は、あきらめまで行けなかった。絶望の中でじっとしていることもできなかった。はっきり言って、とても怖かった。こんなの俺にはできないと思った。運命の中に自分のやることを感じた時、とてもじゃないが、耐えられなかった。それを考えたり、思ったりすることも嫌だった。ただ、その避けられない運命を考え、思うだけで押しつぶされそうだった。でも、生活してて、どうしてもそれは避けられない。どうしても、その運命は目に入り、感じてしまう。当たり前だが・・・。ずっと逃げてた。というより、受け入れたくないため、むしろそれを変えようと向かっていった。運命の中に飛び込んで、その運命を俺が変えてやると思っていた。それが本当の勝利だと信じて歯を食いしばってきた。

自分の本当の相手は、すべてだと思ってた。この世のすべてに喧嘩を売らないと自分の道は切り開けないと思ってた。結局、外に原因を求めていた。主観性なんてなかった。とても大きなけがを負った。ま、不器用で馬鹿だが、真剣に生きようとした証しとしては悪くない。

最近、ようやく自分の判断が現実とは合わなかったんだなと思えるようになってきたかな。昔は若かったなと思う。最近は、そんな向こう見ずな、この一つに人生をかけるということをしてるかあ?と逆に反省してしまうな。

本当に偉いと思うよ、あのころの俺は。すごいよ。よく頑張った。その心意気は、まだまだこれからだからよ。ありがとうな。ありがとう。


さらに、この本ではこう続く。

「どうせ変えられないのなら、私はもう何をやってもいいのだ、と悟った私は運命から自由になる。自由になった私は、自分を好きなように変え始める。



その私は、運命の重さを十二分に承知した自分である。客観性の存在を味わいつくした自分である。その私が動き出すとき、それは運命を避けたり、運命から目を背けたりする動きではない。運命ということは、知っている、しかし、私は私の欲するままに自由に動き始めるのである。


私は運命の中に浸透し始め、運命を自由に動かし始める。


これが、私たちが運命という絶望に出会ったときにおこる、心の動きである。



そこでは、運命は自由になった私の意志によって、浸透されている。運命は私の意志からは逃れられない。私の自由な主観性は、客観性の中に限りなく浸透して、これを自由に動かし始める。


このようにして、人は自分の思いのままに自分を変え始める。


最も重い客観性である運命に出会った時こそ、私たちの主観性はより生き生きしてくることを私たちは知っている。



絶望することのできる人は、それを受け入れ、最後には乗り越える。私たちは絶望を通り過ぎることによって、運命を知らなかった時よりも、ずっと主観的となる。



そして、自分を縛っていた古い客観性という解釈から解放され、自由に動き始める。













私たちは自分を変え始める。」




以上
またね***


2009年9月21日月曜日

英国病の教訓(食べる読書2)


PHP出版 香山 健一 著

この本は1978年に出版されました。約30年前に書かれたものです。社会科学の本になるかと思います。

大まかには、英国病という先進国病について、この日本においてはどうかを考察し、ではどうすればいいかという提言をする。この二つで構成されている。

今の世界はパクスアメリカです。その前はパクスブリタニカ。そのイギリスが衰退していった国力の低下を“英国病”という。

著者は、英国病の症状を4つあげている。
1、経済停滞症状
2、財政破綻症状
3、慢性ストライキ症状
4、政局不安定症状

この4つの病理現象の根底にある共通した本質的な病理症状として4つ挙げている。
一:社会の自由で創造的な活力の低下
二:自立精神の衰弱と国家への依存心の増加、自由な競争原理の崩壊と国家の肥大化
三:エゴの拡大とモラルの低下
四:国家社会の意思決定能力の低下

1)科学技術の発達、2)国民教育の普及、3)マスコミュニケーションの発達。この3つが個々の能力を衰退させる一因になっているのではないかと著者は言っている。ここで、本ではホイジンガを引用している。

「国民教育が広く行き渡り、日々の出来事が広くじかに広報され、分業のシステムが貫徹されている社会にあっては、一般の人が自分で思考し、自分で表現する機会はますます少なくなる。・・・・・・・・・・・・。

かつての時代の農夫、漁夫、あるいは職人といった人々は、完全におのれ自身の知識の枠内で図式を作り、それでもって人生を、世界を測っていたのである。自分たちの知力では、この限界を超える事柄については一切判断を下す資格がない、そう彼らは心得ていた。判断不能と知ったとき、彼らは権威を受け入れた。だから、まさしく限定することによって、彼らは賢くなりえたのである。

人のおおいに誇りとする、二つの偉大な戦利品、一般国民教育と情報宣伝の組織、これがそのまま文化の水準を高める方向には機能せず、逆に、その機能するところ、頽廃と衰弱を示す現実を生み出しているというこの事実、私たちの時代は、この事実に脅かされているのである。」

このことが、活力低下、国家への依存、エゴの低下とモラル低下につながっているのではないかということ。

以上の現象から、「戦後民主主義」は、「疑似民主主義」として、次の特徴をあげている。

・その非経験科学的・ドグマ的性格
・その画一的・一元的・全体主義的傾向(多数決原理の自己目的化による成員の自由の抑圧)
・権利の一面的協調と責任・義務の自覚の欠如
・建設的提案能力の欠如
・エリート否定・大衆迎合的性格
・コスト的観点の欠如

福祉については、すべてを国が行うのではなく、国レベル・企業レベル・地域レベル・家族レベルで分けてやっていくことだということ。福祉というのは一種の相互扶助であるから、助け合いをどのレベルでやれば、税金が少なく、個々のやる気も維持できるかという観点から考えていくべきではということ。

そして、学校教育。
学習塾が乱立し、受験過熱が起こるかについて筆者はこう言っている。
「学習塾がはやるのはなせか?学校教育の質が低下し、学校教育だけでは子供の才能を伸ばすのに全く不十分になってしまっているからである。
受験競争が過熱するのはなぜか?学校教育、とりわけ公立学校教育の質が驚くばかりに低下し、教育需要の拡大と反比例的に、”質の高い学校””いい学校”が少なくなってしまったからである。」

著者の教育に関する考えで特に印象付けられたのが、「悪平等主義」と「最近の子供は経験から学ぶことが少ない」ということだった。

ほかにも、日本の社会構造として、“甘え”と“恩”の関係が述べられていた。

以上、とても勉強になった。が、しかし、やはり30年前の本だ。古すぎる感がある。言っていることは正しいし、今でも通用することは多いだろう。だが、この本を読んで一番学んだことは、「立ち位置」の重要性。はっきり言って、この本での論点は、2009年においてはずれている。なぜか?一言でいえば、30年前と今とでは、住んでいる世界が違うということ。価値観も違うし、未来に何を求めているかも違う。できることも違うし、最も重要な問題も違う。

一番の違いは、この本では国というくくりを基本にして書かれている点である。考察する出発点が“国”なのだ。だが、これからは、国は人が生きていくうえで、近代よりは重要ではなくなる。イメージとしては、各地域独自の文化はあるが、シルクロードで他地域の人々とモノの交流が多様になる感じかなと思う。当時は、あまり国という概念は近代よりは強固ではなかっただろう。最も強固な結びつきは、コミュニティだろう。基本的な形はこういった、自分が自立するコミュニティを個々が形成しつつ、そこが主な活動範囲になるのではないかと思う。その個々の活動には国はほとんど関与しなくなるのではないか。もちろん、人とモノの交流は中世よりは全然早く行われる。

とてもいい本だと感じた。若干古臭くて退屈する部分はあったが、大事なことも分かった。30年前の問題が今なお何の対策も打たず、放置されている問題が多いと感じた。放置しているわけではないんだろうが、ほとんど改善されず、あるいは悪化していると読んでいて感じる。が、ここなんだよなあ。この本は昔の価値観にその現象をあてはめようとしてる。その結果、その現象は”問題”と名を変えることになる。しかし、昔言われていた”問題”が今では、”普通”と名を変える。そして、今の問題はその昔“問題”だった、今は“普通”から出発する。これが、俺の言う「立ち位置」だ。

面白いねえ。
ということで、
以上
またね***


2009年9月19日土曜日

10代からの子育てハッピーアドバイス(食べる読書1)



お久しぶりです。

ご存じのとおり、スピードスタートはやる気がありません。

でも、何かを続けることは大事だし、成功している人は継続してます。

で、自分は何を継続しているかなと考えてみました。

もう十年は続いているもの:夜寝る前の軽いストレッチ、本を読むこと

以上、二つしか見つけれませんでした。

というわけで、読書で気づいたこと、感じたこと、本の内容などを書いていこうと思います。
こういう日ごろの読書が自分の血となり肉となってほしいという意味を込めて、「食べる読書」と銘打ってやっていこうと思います。ま、あまり気負いせずやっていこうね。

今回は、「10代からの子育てハッピーアドバイス
」。一万年同出版:明橋 大二 著



10代の子供にどう接すればいいかを書いてある本です。
イラストや漫画が多用されていて、読みやすく、わかりやすい構成。

心身共に育つ時期である10代。健全に育つためには、自己評価をある程度高くないといけないということです。著者の明橋さんは、医者であり、学校カウンセラーでもあり、日ごろ聞く子供たちの話から、大人はどう接すれば子供の自己評価を高められるかを書いたものだと受け取りました。

特に印象付けられたのが、子供の心の成長の仕方。
それは、子供の心は、依存と自立を繰り返して大きくなるということ。

納得。
赤ちゃんのころは依存するしかないが、いつかは一人の人間として自立しないといけない。しかし、すぐに明日から完全に自立なんてできるわけがない。依存と自立を繰り返すことで、自分のできること、周りとの人間関係の在り方など、いわゆる人間社会を学ぶということになるのかなと思った。だから、この時期に、依存から自立への実験をうまく・十分にできなかった子は将来自立につまずくんだろうな。周りと自分の距離間、自分という人間などがあまり把握できていないんだろう。

本では、“甘えてきた時に、それをちゃんと受け止める。自立しようとするときに、手を出しすぎず、後ろから応援する。子供のペースで、甘えたり、反抗したり、につきあっていく、ということが、子供の自己評価を育む”とある。

この考え方がベースにあり、“いじめ”の時の対処、“家出”した時の対処を具体例を使って丁寧に説明している。どちらもとても参考になる。

この本を読んで、自分の10代はどうだったかなと思った。はっきり言って、あまり思い出はないな。依存と自立は何となく感じていて、居心地が悪かったことは覚えている。都合のいい時だけ親を頼る自分が嫌だったな。だから、いつも親に申し訳ないなという気持ちでいたし、でも仕方ないじゃんという気持ちもあった。

本では、「10代から20代になって、自立に躓く人を見てみると、小さいとき、甘えていいときに、十分甘えることができなかった、という子が少なくありません。」とのこと。自分も若干それがあるかもしれない。10代の子と接していても、甘えさせるということがどういうことかあまり分かっていない。やれやれ・・・。


10代からの子育てハッピーアドバイス


以上
またね***

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...