2009年9月22日火曜日

人は変われる(食べる読書3)



心理学の本かな。

この本で言いたいのは、”人生に絶望して、そこから生きて帰れたなら、あなたは自分の人生を生きれます。”ということだと思う。

人は30前後までには、自分や世界に対する安定した解釈を持つ。それは、生まれてからこのとろまでには、人は世界と自分を知るために心の発達を遂げてきたといえる。そして、自分の心の動きも、世界の出来事も十分に解釈できるようになった時、人は、ここまで努力してきた自分のすべての営みは何のためだったのかと、人生を振り返る。だが、これまで磨いてきた古い解釈では、これに対する答えは得られない。

新たな解釈が必要なのだ。
どうすれば新たな解釈が得られるだろう?

ここで、心の階層について説明したい。
感覚ー欲求ー知性ー感性ー主観性の順に核に近く、深くなっていく。感覚が一番表層にあり、その次に欲求、知性といった具合だ。さらに、深い層は浅い層をコントロールできる。よって、知性は欲求をコントロールできる。そして、主観性の層をはっきり感じられるようになった時、新たな解釈を知ることになる。

この本では、心の三つの能力を使って、主観性の層まで到達できるとしている。それは、
1、自分から離れることができる能力
2、絶望することができる能力
3、純粋性を感じることができる能力
である。
本書では、具体的な、筆者が出会った患者さんを例に説明している。






以下、いくつか主観性とはどういうことかを、本書から抜き出してみよう。

「古い解釈の中、自分とは家族、会社、社会の多くの人間関係の中で、その関係の一つ一つによって決められている自己像の集合であった。しかし、自己が心の最も深い主観性に触れ、心の中に生起するすべての現象を観察できるようになった時、私は自分を定義するのに外的な事物や人間関係を参照する必要はなくなる。

私は個々人の相互関係の中に生れてくるものではなく、私は内的に確立される。

私は、自立的で、独立的で、自己参照的であって、私は何かの役割を演じているものではない。

父親、夫、課長、市民、日本人を貫く、変わらぬ私の主観性が確立される。」




「人間には二つの面があると思うんです。心理的に見て表面の自分、ちょろちょろしている自分と、奥深く存在している、なかなか出てこない自分。このめったに顔を出さない、お宮の中に鎮まっておる自分が、いつでもちゃんと厳然として、お不動さんみたいに目をいからせておらんと人間は間違うと思うます。

間違いのない、地球がくずれても、この自分はくずれないという、本当の自分というものがあることを、嘘にせよ考えるだけでも、私は人間はしっかりしてくると思います。」




「たとえばビジネスの企画会議で、主観性を維持している人は客観的な状況の描写を長々とすることはあまりしない。ほかの人々が、客観的な情勢を詳しく説いてその中から自分たちのなすべきことを導き出すのに対し、主観性を持った人の話は、まず自分のすべきことがあって客観的状況は単にそれを検証する材料であるかのように聞こえてくる。私たちはそういった話の攻勢に、事態を把握している人の強さを感じる。

私はこうしたい、私は自分の家族をこんな風に感じる、といった内容の発言が多い。自分の立場からの発言、足が地についた発言が多くなるのである。」




「周りの環境に左右されることなく、周りに気兼ねすることなく自分の判断を下せるようになる。判断は、その時の自分の持っている知性と感性とのすべての経験から導き出されたものである。全力投球したものであるから、後悔はない。もちろん、判断を間違うこともあるが、それは判断した自分が間違っていたのではなく、単に判断が現実と合わなかっただけである、自分の経験が足りなかっただけだ、と感じる。
主観性を維持している人は、そうした時、自分の判断を訂正することに全く躊躇しないであろう。」




「周囲の環境から一定の距離を保ち、自己の内部に認知と行動の指針を持っている。外界、社会的関係に左右されない安定した自己像を保ち、経験を積んで自己の能力を拡大していく傾向がある。また、彼らは孤独を楽しむ能力がある。」




主観性を獲得した人のセリフ
「この世で生きるには、食べるために働かなくてはならないでしょう。これは仕組みですからしょうがないと思います。でも、それもまあ、私なりに楽しんでいますよ。」

主観性をもつとはどういうことか少しは感じてもらえただろうか。






では、最後に主観性に出会うまでの心の動きの描写を本書から引用しよう。

「心に知性の働きが、自分の行く末を予測して、あるいは過去を振り返って、そこに変えられない必然性=運命を見たとき、心は絶望した。はじめ、その絶望の前で心は、身動きできないかのようであった。



しかし、絶望する能力を持っていた心は、運命から目をそらしたり、運命という必然性の前にひれ伏すことはなかった。心は、ただ静かに絶望を見つめることができた。



それは、はじめ、悲しみと重さの混じった感情であった。




ついで、この絶望の中にじっと浸っていると、いつのまにか心は、この悲しみと重さが、実は自分自身であることを知り、それを感じていることを心地よく思い始めた。





その心地よさは、自分が自分と共にいるという心地よさであった。自分と一緒にいるという、満ち足りた気持ちの中で、悲しみと重さを感じている心は、潤い、慰められる。人が、自分自身を全身で感じている時、人はこの上ない至福を味わうのである。それは、悲しみの中でも。喜びの中でも、変わることのない至福である。




自分自身を感じたという満足の中で、悲しみや絶望はいつの間にか力を失い、小さなものとなってしまった。十分に堪能された悲しみは次第に消え、心の中は透明になった。



その時、運命も、絶望も、悲しみも、すべてを知った心は、再び軽さを感じて動き出す。




“運命なら運命で、いいじゃないか。どうせ変えられないのなら、気が楽だ。私はあらゆる義務から解放された。何をやってもいいのだ。私はいつもここにいる。自分の変わらぬ自分と出会っている。”




それは、あきらめることによって、絶望という客観性の重さに肩透かしをくらわせてしまうようである。あきらめという思いがけない行動で霧散してしまった客観性は、重みを失う。






その時、主観性は運命の中に浸透しはじめる。」






俺は、あきらめまで行けなかった。絶望の中でじっとしていることもできなかった。はっきり言って、とても怖かった。こんなの俺にはできないと思った。運命の中に自分のやることを感じた時、とてもじゃないが、耐えられなかった。それを考えたり、思ったりすることも嫌だった。ただ、その避けられない運命を考え、思うだけで押しつぶされそうだった。でも、生活してて、どうしてもそれは避けられない。どうしても、その運命は目に入り、感じてしまう。当たり前だが・・・。ずっと逃げてた。というより、受け入れたくないため、むしろそれを変えようと向かっていった。運命の中に飛び込んで、その運命を俺が変えてやると思っていた。それが本当の勝利だと信じて歯を食いしばってきた。

自分の本当の相手は、すべてだと思ってた。この世のすべてに喧嘩を売らないと自分の道は切り開けないと思ってた。結局、外に原因を求めていた。主観性なんてなかった。とても大きなけがを負った。ま、不器用で馬鹿だが、真剣に生きようとした証しとしては悪くない。

最近、ようやく自分の判断が現実とは合わなかったんだなと思えるようになってきたかな。昔は若かったなと思う。最近は、そんな向こう見ずな、この一つに人生をかけるということをしてるかあ?と逆に反省してしまうな。

本当に偉いと思うよ、あのころの俺は。すごいよ。よく頑張った。その心意気は、まだまだこれからだからよ。ありがとうな。ありがとう。


さらに、この本ではこう続く。

「どうせ変えられないのなら、私はもう何をやってもいいのだ、と悟った私は運命から自由になる。自由になった私は、自分を好きなように変え始める。



その私は、運命の重さを十二分に承知した自分である。客観性の存在を味わいつくした自分である。その私が動き出すとき、それは運命を避けたり、運命から目を背けたりする動きではない。運命ということは、知っている、しかし、私は私の欲するままに自由に動き始めるのである。


私は運命の中に浸透し始め、運命を自由に動かし始める。


これが、私たちが運命という絶望に出会ったときにおこる、心の動きである。



そこでは、運命は自由になった私の意志によって、浸透されている。運命は私の意志からは逃れられない。私の自由な主観性は、客観性の中に限りなく浸透して、これを自由に動かし始める。


このようにして、人は自分の思いのままに自分を変え始める。


最も重い客観性である運命に出会った時こそ、私たちの主観性はより生き生きしてくることを私たちは知っている。



絶望することのできる人は、それを受け入れ、最後には乗り越える。私たちは絶望を通り過ぎることによって、運命を知らなかった時よりも、ずっと主観的となる。



そして、自分を縛っていた古い客観性という解釈から解放され、自由に動き始める。













私たちは自分を変え始める。」




以上
またね***


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一枚の葉

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