2012年3月21日水曜日

第三の敗戦(食べる読書84-2)




引き続き抜粋

太平洋戦争を含む第二次世界大戦が終わると同時に、二大戦勝国のアメリカとソ連は対立、互いに同盟国を募った。そんな中で、日本列島は重要な戦略的位置を占めていたので、アメリカとしても大切に保つ必要があった。アメリカが気前よく敗戦国日本に物資援助を与えたのにも、アメリカ自身の世界戦力が絡んでいたからである。


官僚主導の規格大量生産大国は、日本人自身の創作といってよい。これは、アメリカの望むところではなかったかも知れない。


この国は、上下に切り分けられた格差社会ではなく、職業や所属集団で分割された縦割り社会なのだ。


学校教育も規格化され、偏差値一つですべてを測るようになった。大学は大教室になり、入学試験は○×式になった。すべてが効率第一である。


年功賃金は成長企業に有利に、衰退企業には不利な体系なのだ。幸い、戦後の日本は圧倒的に成長企業が多かった。


職場にだけ帰属する人々は、職場の仲間には親切だが、それだけに嫉妬深い。仲間意識と嫉妬はしばしば同根の同居者である。職場にのみ単属する者は、大家族や地域に関わる者を心よく思わぬことが多い。


人間は下手なものは嫌いだ。学校では嫌いな時間が延び、好きな時間が減る。そんな厭な学校に、休まず遅れず通学すること、それこそが辛抱強さを養う国民学校教育である。現在のアメリカやヨーロッパで一般的な「得手を伸ばす教育」とは正反対だ。


要するに、物財の豊かさを希求してはじまった戦後日本は、最も物財の大量生産に適した社会、規格大量生産社会に行き着いた。そのためにこそ、企業系列を確固としたものにし、没個性規格化教育を行い、東京一極集中の地域構造を築いた。すべては、物量を豊かにする規格大量生産型の近代工業社会を築くためであった。


アメリカは、小規模貯蓄金融機関などの整理を急ぎ、九十一年のうちに千余の金融機関を破綻させた。このため「湾岸戦争の英雄」ブッシュ大統領(父)が一年後の大統領選挙で落選するほどの政治的ショックがあった。しかし、この英断で大きな破綻はまぬがれた。政治家が責任を持つ市場経済の仕組みが活きたのである。


官僚は所詮、「部分の専門家」である。その積み上げからは全体の指針は出て来ない。これを為すべき政治も、全体把握の能力が衰えていた。冷戦後の世界構造と知価革命の流れを摑まえ切れていなかったのである。


結果は大不況、金融機関は貸し渋り、貸しはがしに走った。この国の金融機関には、もともと事業の将来性や経営者の人格能力を測る習慣がない。彼らが習得していたのは土地の担保価格査定の技量と金融系列の人脈だけである。


官僚たちの規制強化の理由は「安心安全」と「弱者保護」である。だが、実際は必ずしも安全につながらないものも多い。


ところが、一年後の阪神・淡路大震災では、どこの国よりも多くの高架道路が倒れた。これに対する官僚の答えは「官僚の基準は正しかったが、手抜き工事があったから」というものである。しかし、高架道路はみな、官僚の選んだ技術水準に適った業者が指名入札で施工したものだ。高い費用を掛けながら安全ではなかったのである。
同様に、日本は世界一厳しい建築基準法や消防法を設けているが、焼死率は決して低くない。火災保険会社の検査が主流の香港よりもずっと悪い。
今回の福島第一原発事故も、官僚基準主義の欠点を露呈した。官僚の定めた基準を絶対視して、「憶分の一」に備えるダメージコントロールが全くできていなかったのである。
官僚たちは「安心安全」を標榜して規制を強化するが、その実、安全性よりも権限強化の方が優先されていたのである。


先進国の経済は、規格大量生産の時代から知価創造の時代へと移りつつある。規格大量生産型の産業にのみ依存していたのでは、中国や韓国などの新興工業国に追われるばかりだ。


日本は教育文化の面でも、世界の中枢から外れ出しているように見える。戦後の日本は、規格大量生産型の工業社会を追求するあまり、個性と独創性、そして若者たちの競争心や自立心を失わせてしまったのではないだろうか。


組織はそれができた瞬間から、それが作られた目的とは別に組織自身の目的を持つ。組織を構成する者自身の幸せ追求である。


官僚の地位は完全に「身分」、能力や熱意の高い適任者が選ばれる「職業」ではなく、それに適しい資格(キャリア)を備えている適格者が選ばれる「身分」である。


政治家は選挙の受けを狙って国政の現実を学ばず、空虚なテレビ出演に興じている。その一方で官僚は、仲間の受けを考えて自らの権限と予算の拡大に走る。各府省別の縦割り組織と、公務員試験の種類や入省年次で仕切られた横割りの身分で細分化された官僚機構こそ、日本の敗戦の象徴といえるだろう。


官僚主導・業界協調体制で近代工業社会を築いて来た戦後日本は、国民の選択においても敗れたのである。



今回の災害、とりわけ福島原発事故は日本の技術への信頼性を大きく破損した。中には日本政府や東京電力の発表を信じかね、駐在員の引き揚げや関西移住を行った外国政府機関や企業もある。技術だけではなく政府の発表が信じられていないのである。


結局は、冷戦後の新世界構造に有効な対策(新コンセプト)を打ち出せないままである。ここにも、さ迷う日本の凋落した姿がある。


基本方針を決められない政治は、実行者に方向ややり方を決めさせる。つまり、官僚丸投げである。
投げられた官僚は、それぞれの慣例と組織利害に従って、やり易いようにやる。この結果、部分的にはもっともらしい作業が行われるが、全体の方向は定まらない。つまり、「古い日本」が歪んだ格好で再現されてしまうのである。


これからの日本が脱工業化し知価社会化することは、資源多消費、移動距離長大、少子遅産の社会から抜け出すことである。


現在の日本のかたち(地域制度)は、明治以来の中央集権型府県制度の器に、規格大量生産を目指す「東京一極集中機能」を詰め込んだものである。このかたちは、がむしゃらに規格大量生産体制を目指すのには役立った。だが、今や重い鉄兜のように日本の頭脳を締め付けている。


官僚の規制論者は必ず外国を厭い、交流を規制したがる。そのために外国を悪意ある恐ろしいものに仕立てる。それが「厭や厭や開国」である。


人口が減少すると生産の低い土地は捨てられ、みなが生産性の高い土地や都市に集中した。その結果、一人当たりの所得は増え、工芸品や絹織物を買う余裕ができた。祭りも盛んになり教会の建立も増えた。その結果、ミケランジェロやダ・ヴィンチが絵筆を揮うような文芸が花開いたのである。


要するに人口の減少が経済にどう影響するかは、労働移動のあり様で決まる。これから少なくとも三十年ぐらいは日本の人口は高齢化と減少が続くと見られる。その中で日本が経済文化の繁栄を保ち、世界に尊敬される国であるためには、外国人労働者を活用する「好き好き開国」に向かわねばならない。
発想の転換、新しいコンセプトの創設が急がれるところである。


外国人の犯罪率が高いのは事実だが、それは劣悪な社会的経済的環境に置かれた人が多いからだ。日本人でも劣悪な環境に置かれた人々の犯罪率は高い。むしろ、外国人にも住み易い社会的条件を整えるべきである。日本は今、身分化、硬直化が進み、規制の厳しい住み辛い世の中になりつつある。


徳川幕府は武士身分の固定化で停滞した。明治日本は陸海軍の年功序列型将官身分制度の確立と共に衰退した。今、この「戦後日本」も官僚や大企業正規社員の身分化、他に対する格差意識で滅亡しようとしているのではあるまいか。


一方に「身分化」「利権化」が生じれば、他方には倫理の頽廃が現れる。これを官僚的な取り締まりでなくすことは、費用と人手の上でも不可能なばかりか、規制と検査の強い統制社会になってしまう。まずは上から特権身分制度を止めること、特にそれは国家中枢の官僚(高級公務員)から改正することである。


以上抜粋

to be continued・・・



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