2012年3月28日水曜日

世界を変えた巨人たちIF(食べる読書85)




ちょうど10年前だと思うが、どしゃぶりの時代 魂の磨き方という本をバイブルのように何度も読んでいた。特に繰り返し読む箇所は決まっていたが、そこのページは何度も開いたり閉じたりしてたので、ページがとれちゃってテープで留めて読んでいた。


その本の中に「彼岸との対話」という項目があった。これは、著者が歴史上の人物と対話をするというものである。あの人ならどう答えるだろうということを、彼らについての知識があればそれに近い答えがわかるのではないかという試みであった。


そして、本書はその「彼岸との対話」ばかりを集めたものである。どしゃぶりの時代 魂の磨き方に載っていた人物も何人かいて、少しだけ現在風にアレンジはされているが基本的には同じ内容だった。


読んでて感じたことは、彼らは偉人だけあって本質をズバリ言う。


それだけでも違うのだが、その発言に力があることが重要だと感じたのだ。


はっきり言って似たようなことは誰でも言えるといえばいえる。しかし、何かしら事を成した人が言うとそれは輝きを放つ言霊として我々の胸を打つのではないか。


事を成した人が言うからそう感じるのかもしれないが、彼らは無名のころから自分を信じていた。そういう意味で彼らは成功の前後で大きく変わっているとは言えないと思うのだ。


何が言いたいかというと、何かがあったからとか環境がどうだったとかではないということだ。自分がどんな状態であるか、そのあり方の問題だということ。やり方といったテクニカルな部分はいくらでも変えられる。しかし、やり方をどう変えるかは自分の在り方が決めるのだ。その自分の状態がフラフラしていてテクニカルなことで動かされていれば、決して成功はしないし何もなせない。


つまり、自分を成功へ動かすのは自分の在り方だということである。


動かない在り方が、まわりをも動かし物事をも動かし自分の目的を達する必要十分条件といえると考える。


そう感じたのが本書である。


自分を見つめ直すあるいは何かしらを得られる一冊ではないかと感じる。


以下抜粋

貧しい家に生まれ、たいした教育も受けられずに育った人間は当時何百万といた。その彼らの中から抜け出てリーダーになるにはどうしたらいいのか。まず確固とした人生の目的を抱くこと。そしてその目的に向かって邁進する鉄の意志。自分の持てるものすべてをそれに注ぐのだ。すなわち限界を超える努力が必要不可欠なのだ。人が7時間寝るなら自分は3時間。人が10時間働くなら自分は18時間。君がドロボー成金と呼ぶ者たちは皆それをやってきた。彼らは、私も含めてだが並の成功で満足できる人間ではない。目的達成までに徹底的に努力をする。その徹底さが並の人間に嫌悪感を与えるのだろう。そしてその嫌悪感は嫉妬心に変わる。


前に進むためには過去を見つめ清算せねばならないのだ。


世間からの褒賞や尊敬など眼中になかった。ただひたすら神を信じ、神に受け入れられていると確信していたと思う。


世界はコントロールする者とされる者でできているのだ。どうせなるならコントロールする方がいいだろう。


重要なのはプライオリティの選択、スピード、結果だ。


どんな相手でも簡単だと思ったらこっちの負けになる。


<日々の勇気というものは決定的瞬間の勇気ほど劇的ではない。しかし、それは勝利と悲劇が気高く入り交じった壮厳なものであることに違いはない>


独裁の中での平和よりも、混乱の中での自由のほうがはるかに人間的であると私は思います。


残念ながら今日の世界では自由は欲しい、民主主義のシステムを享受したい、しかし、それを守る責任は避けたいという人間が多いのです。一人ひとりが権利と義務、自由と責任は常に一体のものと受け止めねば民主主義社会は存続できるわけがありません


政治とは政治家のためではなく、国民のためにあるのだ。国民が払う税金は安心料であって、自己保身に必死な素人集団に払っているわけではない。


人を愛し、人を信じ、人を助ける。


底抜けの明るさ、人の緊張をほぐすあの笑顔、人の心を高揚させる弁舌。


”私は以下のことを心の中で信じている。人間は善である。正しい者はいずれは勝利する。人は皆人生の目的と価値を持って生きるに値する”


軍事より経済が優先する時代なのに中国、北朝鮮、イランなどは軍拡路線に邁進している。それに対して民主主義国家はなんら効果的な手を打てない。国連という機関があるがあんなものは発展途上国のガス抜き機関にすぎない。あれを真剣に受け止めている者はよほどの馬鹿だ。


「宗教や八卦は不安な人間心理につけ込んだ慰みにすぎん。だがそれらを禁止したことはない。心の自由までは奪えないからのう」


性格が暗い人間は往々にして被害妄想に陥ります。


時代は常に変わるものだ。それによって改革も必要となる。そうしなければ時代に置いてきぼりをくらうだけじゃよ


余は幻想に頼ることも慰めを受ける必要もなかった。現世が地獄にもなれば天国にもなるというのが余の信条であった


とにかく守り一辺倒になったら国家も人間もおしまいということじゃな


自分の国は自分で守る。


英雄の第一条件は大胆さだ。


裕福な層が増えれば増えるほど平和になる。失うものがあるからだ。


この世に希望を持てない彼らに天国について説くキリスト教は大いにアピールした。


あらゆる分野での指導者は、ローマ帝国の歴史を勉強してほしい。そこには人間の悪と善、権力への野望、統治力、政治家としての力量や資格、責任、価値観の移り変わりなどすべて現代に通じる要素が凝縮されているからだ。最高のレッスンになることは保証する。そのレッスンから学べるかどうかが問題だがね


「自分の無知を認めるには勇気がいる。知性の探求は無知を認めることから始まるのだ」


考えれば考えるほど世に存在する不正、欺瞞、人間の悪、己の弱さなどが見えてくる。だがそれらを真っ正面から見つめて人生に立ち向かっていくのが人間本来の姿なのだ。自分自身が本当に欲する価値観を把握するだけでも大変な努力を必要とする。しかし、それができたときは計り知れないほどの大きな喜びがある。考える人間は決して満足でき得ない


”考えない人生は生きるに値しない”。


”私はアテネ人でもギリシャ人でもなく世界の市民である”。


私の知る限り物質的には決して恵まれてなかったが、心が瑞々しく豊かで毎日が幸せだった、という人々はごまんといます。


「価値あるものを作り出すには時間がかかります。でもすぐにできることはあります」


心の豊かさや余裕、情操、高邁な価値観などがなければ意味ある人生を送ることはできません


行動で接するしかないのです。そして一人ひとりをかけがえのない独立した人間として扱う。


信仰だけを大切にする人間は人間味を失う。


私は芸術家である独裁者を統治者の理想の一つとした。だが凡人には芸術より独裁のほうがはるかに簡単だ。両方を同時に持つのは難しい


本当の強靭さとは勇気と知性のコンビネーションと私は言った。しかし、ナチスは勇気と知性をぶつけ合い、強靭さという美徳はただの盲目的暴力と殺人、破壊に成り下がってしまった。


「相手にしたらこっちの時間を盗まれていると同じです。それに私の名誉心はそんなに安っぽいものではありません」


正直さに理由をつけねばならない人間は凡人であり、そういう輩は信ずるに値しない


考えるということは命がけなのだ


その前に人間として偉大でした。血も涙もあり、包容力と愛は無限でした。


以上
またね***





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