2012年8月22日水曜日

水滸伝十二(食べる読書121)





梁山泊にとって厳しい展開になっていく。



しかし、それでも崩れないのは、梁山泊自身も変わっていっているからだ。



この巻では、三人の男の変化があった。



楊春は、解珍との旅により己を見つめ、一皮むけた。これは時間をかけ、変わるきっかけを与えてもらっての成長である。



官軍の関勝は、梁山泊に入った。これは、これからの活躍の場を変えた。そのことで梁山泊はその分大きくなる。



これら二つはこれからの梁山泊を良いほうへと導く変化である。



しかし、必ずしも準備万端整った後にものごとは動いていかない。



いまある危機を脱するには、その場でこれまでの自分を超えないといけない。



盧俊義を救出した燕青がそれである。人間業ではなかった。火事場のくそ力のようだが、おそらく違う。生きているのが奇跡のような状況を超えてきたのだ。敵もどうしようもない。



この変化。


いざとなれば、どうにかする。これまでの梁山泊は、多くの男達のこのような奇跡の上に立ってきたのだ。



おそらくこれからもだろう。



勝ち残るために変わる、そして超える。



以下抜粋


帝が、ただ帝であれば、それでいい。すべてのことが、帝の権威のもとで、進んでいくのだ。つまり、秩序の拠りどころであり、中心なのだ。



帝を暗殺するのがどういうことか、李富には容易に理解できる。帝を秩序の拠りどころにした国のあり方を、否定することだ。そして、帝をただの道具にしてしまうということだ。



「伏す者は、去れ。嘆く者は死ね。ひとりひとりが、自らの足で立つのだ。晁蓋に対してできることは、それだけだ。それぞれが部下のもとに戻り、私の言ったことを伝えてやってくれ。晁蓋が、勝利を待っていると」



生きていることが発する痛み、心が発する痛み。それは思想というより、独白に近いのかもしれない。思想は、独白の底流にあるのだ。



「感じやすい男だ。あの男の拳を見るたびに、そう思う」
「強さと弱さを持て余す。俺のまわりにいるのは、そんな男ばかりだ」
「私には見えるな、梁山泊がどういうところが」



「大きな場が必要なのだ、関勝殿には。器量も、それにしか合っておらん」



「わからんが、なんでもやってみることで、いままで道も開けてきた」



死ぬのは恐れはせぬが、理不尽な死は拒みたい



人には、それぞれ、身の丈に合った勝負というものがある。万余の敵を相手にした勝負なら関勝殿にふさわしいが、牢城の見張りではな



「言うさ。梁山泊は、おまえも欲しい。俺は、人たらしなのだ。どんな人間でも、必ずたらしこんでみせる」



「犬死にか。それもまた人生、という気もするが」



この男は、人とうまく融和しながら、いつの間にか自分の思惑通りに周囲を動かす。そういう揺らがないなにかを持っているから、副官にしたのである。



関勝殿の出方を見ている、と考えるべきです。それには、時を稼ぐことで対抗する。それが良策でしょう



「関勝殿には、どこか稚気がある。それが、人に誤解を与える。はじまりは、そこからでしょうね。特に、遠くから見ていると、稚気の部分は見えず、結果だけがすべてということになる。これが戦ならいいのですよ。勝敗という動かし難いものがあるのですから」




「誰もが、関勝殿の力を認めているからですよ。だから忠誠であると信じられないかぎり、どこかで外へ押し出そうとする力が働くのです。その外が、雄州ならばいい。さらに力が働けば」



「人は、果たさなければならない責務というものは持っている。それさえなせば、あとは好きなように生きたいものだ、と思う。俺はそうだ。卑屈になりたくもない」



「雄州という池は、関勝殿という魚には小さすぎます。狭い池では、魚も大きくなれないと言いますし」



「この暮らしを大事にしたい、という気持ちはあります。しかし、過ぎたものだという思いもまたあるのですよ。ここで静かな暮らしを持った代償は、死であっても構わないのです。意味のある死なら」



「役人の数が、多すぎます。諸国が乱立していたころの役人を、そのまま抱えているようなものです。役人は、以前は仕事を持っていました。実入りになる仕事をです。しかし宋として統一されると、民が商いをするようになりました。生産もです。役人に残されたものは、権限だけです。その権限が、賂を招くのです。それ以外に、昔のように役人が儲ける方法はないのですから」



「浪費そのものが悪ではなく、浪費によって富める者が、ごくかぎられた数だということが悪なのです。働かされる者が、きちんと賃銀を貰えば、それが使われ、またものが、動きます。いまは、そうなっていません。働く者は、徴発され、自らの生産を中止して、労力だけを出すのです。これでは、国は疲弊します。なぜそうなるのか。一部の者が、私腹を肥やそうとするからです」
「人は、欲で動くものだからな」
「その欲を果たすために、賂を使います。これも、民の手には渡りません。民の手にまで動く富が行き渡れば、浪費は決して悪いことではないのです」
「いま、民は無償で駆り出され、働かされているだけだ」
「だから、腐るのですよ。腐る原因は、富める者がごく一部いて、ほかの者がどんどん貧しくなっていくことからはじまっています。それを修正できるのは、政事だけということになります」



「とにかく、やらねばならぬことが、次々に出てくる。人の営みとはすごいものだと、改めて考えさせられる」
「その営みの中で、人は悲しんだり怒ったり、そして喜んだりしているのですね」



学べば学ぶほど、法と実際の社会は違うのだ、と思わざるを得なかった。解釈の仕方で、どんなふうにも法は曲げられる。しかし、人の世を律するものとして、法以外には考えられなかった。



張りつめ、決断する時はもう過ぎた。あとは待つしかないのだ。



「法は、いつでも人のために作られる。どんな法も、最初はな。それから、少しずつ執行する者が都合よく解釈するのだ。そういうことができないようにしても、時が経つとそうなる」



「それぞれの戦がある。盧俊義様も、そう思っておられる。寝ても醒めても、続く戦がある。それは実戦より苛酷だ、と私は思っている」



兵としての強さではなく、人としての強さと闘わなければならない。
「まず、希望を打ち砕く。かすかな希望を抱かせ、打ち砕く。それをくり返すということだな、沈機?」
「まさしく、そこからはじめます、聞煥章様。躰の痛みは、躰を打ち砕くのではなく、希望から打ち砕いていくのです。行き着くところは、死ではなく、荒廃。つまり命はあっても、人ではなくなるということです」
「責める者は、相手の心とむき合い続けていかなければならない、ということか?」
「責める者が、負けることもあり得ます。その時は、なにも得ず、ただ殺してしまったということになります」



「いえ、聞煥章様。そこだけには触れません。恥じているものは、人を頑なにもします。触れない方が、かえって傷つくのです。その傷つき方には、無力感が伴うと思います。だから、頑なになることもありません」



「周囲から、人の気配は断った方がいいのです。たまに現われる人間が、私ひとりの方が。私を待つという心境に盧俊義がなった時は、半分落としたようなものでしょう」
「責めるのか?」
「私が行くたびに、痛い思いも苦しい思いもさせます。殺さない程度にです」
その痛い思いや苦しい思いを、やがて待つようになるということなのか、と李富は思った。



都合の悪い時のための頭領として、宋江は巧妙に晁蓋を使うつもりなのだろう。茫洋として、誠実という印象が宋江にはあるが、無情でしたたかな面も持っているのかもしれない。頂点に立つ男は、そういうものだと呼延灼は思っていた。



人間離れした、異様な力が作用したのだ。奇蹟と言ってもいいだろう。理屈を超えたものは、確かに存在している。聞煥章はそれを認め、敵にそういう力が作用した時は、割り切って諦めることにしていた。いつでも、どこでも、そういう力が作用するわけではない。



ほとんど勝ちを手にしながら、人間離れした力が働くと、最後の最後で逆転ということもあり得る、と痛感する出来事だった。



「人には、いるべき場所というものがある。私は、そう思っています。私のいる場所は、関勝殿が作ってくれた」
「俺のいるべき場所は?」
「自分で作るしかないのですよ。他人が作るには、関勝殿は器が大きすぎる」



「勝手にひねくれていろ。俺はいま、長い友であった韓滔の最期を、ただ語っているだけだ」


「先の先まで考える。百年、二百年先まで考える。それは不遜だと、私は思う。おまえの欠点は、国家のありようというものが、いつもあるところで思考を遮ることだ。国家がこうあるべきだというのは、逃げにすぎん。ありとあらゆる方法で、直面している現実を切り開くのが、われらのなすべきことだろう、李富?」



「私は、どんな手段を使っても、梁山泊を潰したいと思っている。国がどうとか、そういうことではない。私は、宋という国の、青蓮寺という組織で、仕事をすることになった。その仕事を全うすることで、歴史が動くとも思っている。だから、いま直面しているものがすべてなのだ」



梁山泊は、闇の塩を糧道にして、宋を乱している。ならば、こちらも闇を使う。城郭を三つも奪ったということは、世俗にまみれるということでもある。



「楊春殿はまた、楊令が持っていないものをお持ちです。じっと耐える。それができる。苦しみや痛みではないものにも、耐えられます。心が弱い。それを、誰にも頼らずに克服している」



「部下の三人も、私も、関勝殿に運命を懸けている。虚心になっていただきたい」



「生き生きとしているぞ、関勝殿。男は、やはり思うさまに生きるべきだ。私の人生は、関勝殿と出会ったことで、どれだけ救われ、豊かになったかわからないほどだ」



以上
またね***



2012年8月21日火曜日

動きたくて眠れなくなる(食べる読書120)




成長という変化なのかどうかは保証できないが、少なくとも「変わる」という点においてはクリアする。それは今までとは異なるものの見方をすればいい。



しかし、そんなものの見方を知っているということはすでに試し済みといったところだ。



つまり、どういう基準においてかは人それぞれだが、今のあなたのものの見方があなたにとっては最高な見方である。



それでも、自分で納得、満足していないなら、新しい見方を仕入れないといけない。



本書はその手助けになると思う。



「なるほど、こういうふうにとらえればいいのか。」といった内容が多々ある。



より良い自分、理想の自分へ



変・身!!!



以下抜粋


からだの器官がすべて不可欠であるように、無駄な感情なんて一つもない。いますぐ「自分を邪魔する感情がある」という考え方は捨てた方がいい。すべての感情はいつでもあなたの役に立とうとしてくれている。あなたの人生がより良い方向に進むように、24時間見守っていけくれている。



痛みの感情は、あなたに「行動を変えろ」と知らせてくれている。



感情はつねにあなたの人生がより良くなるようにメッセージを送っている。メッセージを受け取ったら、行動を変える。行動を変えたら、感情に感謝して、その感情を手放そう。



「行動力がある人」とは、つまり「行動する感情の状態を作りやすい」ということになる。




明確な言葉に向かって、発想と力が引き寄せられる。
もっと言うと、のぞむ結果を出すために必要な知識や情報を、あなたの意識が自動的に拾い集めてきてくれる



目標の本当の価値は「達成するため」にあるわけではなくて、「感情にスイッチを入れるため」にあるからだ。



現実を見ていやな感情が生まれたら、それは現実がいやなのではない。自分が見ている景色がいやな気持を作っているだけなんだ。その景色が気に入らなければ、もっといい景色を見られるように質問を変えてみればいい。



変えられないことは受け入れる。それ以外のことはなんでも変えられる。変えられることを、変えるのは自分しかいない。



行動までスムーズにつなげるには、頭でする質問に「感じたい気持ち」も一緒に入れてしまうといい。



はじめから「面倒くさい仕事」というものも、「ワクワクする休日」というものも存在しない。それをどう感じるかを決定しているのは、すべて自分の質問なんだ。



毎日同じ人と顔を合わせなさい、同じような振る舞いをしなさいと言われているわけではない。なのになぜか今日も一日、一年前と似たような一日を過ごしている。
それは「私はこういう人間だ」という思い込みと矛盾しないような行動を、無意識のうちにとっているからだ。




「わかっている」は人生のトラップ。
「わかっていないかも?」という姿勢が人を成長させる。



大切なのは「主体的に」思い込むこと。「これを信じられたら、今の自分に都合がいいはず」というものを見つけることだ。



自分の心に、
すてきなほらを吹こう。



多くに人は、自分の思い込みに従えば、自分の望みが叶うと信じている。「生きていくための思い込み」と「のぞみを叶える思い込み」は、根本的に違うのにもかかわらず。



できる人は、できる理由を、
まるで他人事みたいに語る。



多くの人は自分がなにを求めて前進するのか、なにを避けて後退するのかあらかじめ決めていない。だから場面場面で、ころころ変わってしまう。



人生に待ち受けている大きなトラップとは、なにを大切にするか、自分の意思で決めていないこと。そして与えられた環境だけが、それを決めるスイッチになってしまっているということだ。



多くの人はなにかを追い求めることに夢中だが、自分がなにを大切にして生きていきたいのかを考えない。
なぜなら欲しいものを手に入れると、幸せになれる。そう教えられてきたからだ。
でも実際にそれを手にしたときはどうだろう。「あれ?こんなもんだっけ?」と物足りなく感じたことはないだろうか。それもそのはず、自分を幸せにするのは、自分自身のものの見方でしかないからだ。



人生を充実させる質問はいつも、いつまでも変わらない。「自分が本当に大切にしたい気持ちはなにか?」そして「どうすればその欲しい感情が手に入るか?」。



より経験したくないことはルールを厳しく、より経験したいことはルールをやさしくしよう。




小さなことで喜びを感じられるようになると、人生全体で幸せを味わえるようになる。



リーダーの仕事は、部下を反省させることじゃない。
「なんでやらなかったんだ」とフィードバックしてもあまり意味がない。
大事なのは、まずそれをする意義をしっかり理解してもらうこと。そしてそれをすることのメリット(快感)と、しないことのデメリット(痛み)をどれだけ多く伝えられるかにかかっている。



なにか失敗しても、自分のせいにしない。かといって他人のせいにしてもいけない。「どういう行動をとればよかったのか?」を考えるようにする。
自分で法則を作るのは楽しい。信じたいことを信じられるようになり、動けることの範囲が広がっていくからだ。
法則を変えれば、人生が変わる。



自分ひとりでがんばる必要なんてない。
人生の豊かさはチームプレーにこそある。




会話中、意識の焦点を「相手とどこが違うか?」に向けているとケンカになるが、「相手とどこが同じか」に向けて、ちょっとの同じ、ちょっとの同じを積み重ねているうちに、ラポールが作られていく。




コミュニケーションがうまい人とは、抵抗なく相手の世界観に入り込める人。
そして相手に合わせ、自分の言葉の使い方や声のトーン、呼吸のペースを変えることを楽しんでいる人のことをそう呼ぶんだ。




問題が完全に解決する前に、行動パターンを元に戻してしまう。それは問題を解決する過程で「ニーズが満たされない」からだ。人が動くのはニーズが満たされるときに限る。
痛みは友だちだ。問題解決に向かう、小さなきっかけを生み出してくれる。でも大事なのはその後。その小さなきっかけを長期的なモチベーションに変換させたい。



1 変えたいのなら、それは”今”変わらなければ”ならない”。
2 ”私”はそれを、”今”変えなければ”ならない”。
3 ”私”はそれを、”今”変えることが”できる”。



いつも明るい人は、
心の中の言葉づかいが明るい。




たとえば5年くらいかけてじっくり成果を出していきたいプロジェクトについては、「このプロジェクトは、”農業”のようなものだ」と伝えることで、とり組む価値のイメージが伝わりやすい。



メタファーを使って、いまその人が置かれている状況を、サクセスストーリーのある段階にあてはめてあげるやり方もある。
現実の世界も架空の世界も、成功にいたるストーリーはほとんど同じだからだ。



安心してほしい。あなたが負けたまま、物語が終わることはない。
壁にぶつかって先が見えないときは、壁を”サランラップ”にでもたとえて前に進もう。



人生は自分探しの旅ではなく、自分を作り続ける旅なんだ。




「成功とは、正しい判断の結果もたらされる。
正しい判断とは、数多くの経験から可能になる。
もっとも重要なことは、数多くの経験のほとんどが、誤った決断から作られているということだ」



「よしやろう!」を
一日何回言えるかどうか。




どんな夢に向かって、どんな生き方をしているのか。
ただその事実だけが、自分が自分であることを認めてくれる。



ひとは、その最期のときの覚悟をもって、
生きなければならない。



以上
またね***





2012年8月20日月曜日

器(食べる読書119)




心が充満してくる。とうめいで、やわらかく、やさしい感じのあるもので。



幸せと感じるし、もうすでに、満たされているとも感じる。



世の中はもう完璧だとも思える。



この世のすべてが奇跡であり、ありがたいのものである。



笑顔になる。



この本と向き合う時だけ、満たされた感じになるのではなく、日常生活の中でもこのようなときを増やしていきます。



ありがとうございます。



幸せいっぱい、夢いっぱい!



以下抜粋


真に魅力的な人とは、人間的に大きく、さまざまな側面において優れている人であり、それを言いかえれば器が大きい人、器量のある人と言えるのではないでしょうか。



税金って、俺にとっては種をまいているのと同じなの。たとえ悪いかもしれないけど、公務員の人たちって、俺に代わって日本という畑を耕して種をまいてくれる自分のところの社員みたいなものなんだよね。そのおかげで日本全国が潤って、経済という大きな実を実らせることができるの。そしたら今度は商売をして、その実を収穫すればいいんだよ



一人さんって、日本中が自分の庭で、公務員は全員、自分の社員。税務署は自分の監査役と思っているんです。器の大きい人って、考えるスケールも大きいのですね。



逃れられないようなことが起こったとき、それは自分に必要なことなんだって一人さんは言います。




たとえば新商品を考えるときに、お客さんのためになって、それで世間も喜んでくれる商品で、うちもしっかり利益を出すことを考えるの。そして、そのことで天が”まる”をくれる商品だったら、絶対失敗しないんです




成功して社長になったり、偉くなったからといって威張っていると、世間から応援してもらえなくなりますし、天も味方してくれなくなるのです。



私が伝えたい「奉仕の気持で働く」とは、決して無償で働けということではありません。「奉仕の気持で働く」ことによって人は活かされ、その仕事を通してさまざまな気づきや学びを得られるようになるのです。



自分の仕事でけでもつつがなく終わらせるのは大変なことです。さっさと終わらせるためには要領や段取りがよくなければできません。さらにそのうえ、人の仕事も手伝おうとなったとき、その人にはすごい力が身につくのです。
普通の人は、自分の仕事が終わったらさっさと帰ります。それで余った時間は自分のために使うのです。しかしその貴重な時間を他人のために使うことができたとき、その人の器は一段と大きくなります。



自分の限界は「自分には無理だ」とあきらめたときに訪れるものだと言えます。しかし、方法を一つとは考えず、自分の「目的」に思いを広げれば、可能性の幅は広がっていくもの。あきらめずに行動していれば、必ず道は開けてくるのです。目的に対してのやり方は無限にあります。「何度かがんばってみたけど、うまくいかなかった」というのは、やり方が間違っているからではないでしょうか。そのときは他のやり方を探してやればいいのです。



私が手に入れた成功や幸せは、決して何もしないで手に入れたものではないのですが、かといって、それを手に入れるのにすごくつらかったということもありません。正当な努力もしましたし、いろんな困難なこともあったけど、その成功や幸せを手に入れる過程を楽しんでやることができたということなのです。



勝ったときに驕らない、威張らない。負けたときにいじけない、くじけない、そして妬まないということです。



面と向かってケンカするのは問題があるけど、心の中で「ふざけるな!今に見てろ!」と思って、家に帰って猛勉強するの。それで偉くなって、その上司を見返してやればいいの。それで成功したときは「あなたのおかげです」と言えれば、その人の器が大きくなるの。



「必死でがんばる」と言いますが、必死とは”必ず死ぬ”と書きます。たとえば、「あなたはこれができなければ、三日後に銃殺の刑に処する」と言われれば、誰もが死ぬ気になってがんばりますよね。それでもできなかったとしたら、それは今の、あなたの限界なのです。必死でがんばるとはそういうことだと思います。



器って受け皿だから、大きいほうが、より多くの人を受け止めることができるの。でも、一人の人を受け止めるだけの器も大切なんです。
だから、あなたは誰のために器を大きくしたいですかっていうことなの。その誰かを受け止めるだけの器を、一生かけて大きくしていくのが人生なのです



いちばん注意しなければいけないのは、自分の驕りなんだよ。人におだてられて、やらなくていい仕事までして、借金だらけになるのはバカバカしいよね。自分の足元を見て、しっかり歩こうね。



男性で女に弱い人は女で失敗したり、芸能人に弱い人は芸能人にはまって引っかかったりするの。こうやって天の試練は必ずその人のいちばん弱いところに現れて、その人の器量を試すんです。
人生はそうやって、弱いところを強くするという修行なんだよね




自分の心にもない使い方をしたとき、お金を粗末に扱ったことになるの。そうするとお金が逃げて行くんです。
自分が本当に納得しない使い方をしているとき、お金は逃げて行って、入ってこなくなっちゃうの。
「いっぱいあるから別にいいや」って思うかもしれないけど、お金は粗末に扱ってはダメなんです。お金も人も大切なんです。



人間は、心からやりたいときが、そのときなんだよ。



たくさん学び、たくさん実践すれば、人は必ず成功します。そのうえ、そのことをまわりにも教えてあげたら、あなたは成功者のうえに、いい人になるのです。




人は、一生をかけて勉強し、学んで器を大きくしていくのです。そしてそれは、器を大きくしていくという修行であり、人生という旅でなのです。




いつも「不機嫌」は人には、不機嫌な出来事がしょっちゅう起こります。
「中機嫌」の人は、機嫌がいいときもあれば、悪いときもあります。つまり、普通の人です。だから普通の人には、普通のことしか起こりません。
これが「上気元」の人のところにはなぜかいいことばかりあって、さらには奇跡が起こるのです。



事業家は、世の中の流れを変えることができる、とても重要で楽しい仕事なんだよね



世の中にはお金が流れる川があるんだよ。その川にちょっと手を入れると、川の流れが自分のところにスーッと入ってくるの。
どうだい。その川に手を入れて、流れを変えてみないかい?



俺が言う”困ったことは起こらない”っていうのは、困ったことが起きてるんじゃなくて、やり方を変えなさいっていう合図なんだよ。それで一生懸命やってみて、それでもうまくいかないときは、それって本当に必要なのか、それがないと目的は達成できないのかって考えるの。
そうしたときに、本当に大切なことが何かってことが見えてくるんだよね



「人は急に高いところに上るとまわりが低く見えるから、それで怖くなるんだよ。だけど、そのうち慣れるから大丈夫だよ。
それに、恵美ちゃんはお客さんに喜ばれて、世間の人にも喜ばれているんだよね。あとは天が喜んでくれるようなことを心がけていたら、天が必ず味方してくれるから、心配しなくても大丈夫だよ」




うまくいっているときにこそ、相手に、世間に、そして天に感謝。そして失敗したときは、失敗の原因を知り、二度と同じ過ちをしないようにするのです。そのことから学ぶことができれば、失敗も成功への大きなステップとなるのです。
そして、その失敗を克服したとき、その人の器はまたひとまわり、大きくなるのだと思います。




”本当にそれが必要なんだろうか”っていうことがあるんです。あなたが人に「どうでもいいよ」って言えないのは、それは単なるあなたの”我”じゃないんですかってことなの。



人間は機嫌が悪いよりも、機嫌がいいほうが絶対にいい。はたから見て、その人の器が大きいかどうかというよりも、その人の機嫌がいいかどうかのほうが大切なんです。




世の中には、自分の思いどおりにいかないことなんて山ほどあります。それをいちいち、自分の思いどおりにいかないからといって自分の機嫌を損ねていたら、ずっと腹を立てていないといけなくなってしまいます。



偉い人は他人にほめてもらうことより、他人をほめることを考えるの。



花は人に咲かせるものなんだよね。
自分ばっかりが咲いてちゃだめなんだよ。
自分もしっかり咲いて、さらにまわりにも花を持たせてる。
それが俺は器量だと思うんだ




以上
またね***



水滸伝十一(食べる読書118)




大事は小事の犠牲になってはいけない。



なにかを成す際、目的を見失わないため、普遍的な真理だ。



わが道を進むにあたり、これは一つの手段なのか、近道なのか、どうでもいいことなのか、見極めないといけない。



梁山泊の目的は何なのか。何を成すのか。



晁蓋と宋江の意見が分かれているが、梁山泊にとって一つの手段にすぎないように感じる。兵力三万か十万か。



数にとらわれ過ぎてはいないか。



戦に勝つことだけが梁山泊の目的ではないはずだ。戦に勝つのは、目的達成の条件の一つに過ぎないはずだ。



宋江はまだ、明確な国の形を示してはいない。



宋に代わる国をつくるなら、ここを明確にすべきだ。そして、この構想を形にする人物が梁山泊には欠けている。



戦に勝つことで人民の心を摑むのではなく、たんに宋が嫌だからということで梁山泊に取り込むのではなく、宋よりも民にとってよりよい国とはこういうものだということで人民の心を摑むべきだ。



税の扱い方や還元の仕方、他にも食い入る面はあるはずだ。



民のための闘いというのなら、民の新たな生活像を提案すべきだ。それが目的ではないのか。それなしで、三万、十万と唱えても何にもならない。



夢。



ただ、強いものと闘うことが夢だったのか…、晁蓋。



言いたくはないが、



晁蓋は、結局、小事でしかなかった。



晁蓋最期の巻。



以下抜粋


「戦で死ぬのではなく、むなしく死んでいく。それをやっても、揺るがない心を持った者を、私は必要としていた。これは、晁蓋殿や宋江殿に、知られてもならん。あの二人は、志の高潔さを失ってはならぬのだからな。私と二人だけで、暗殺というものが持つ、背徳に耐えられる心を保てるかどうか。そういう人間を、私は捜していた。そして、おまえを見つけた」




「いや。俺は、李俊殿が好きになってきた。人間ってのは、志だけじゃ飯は食えねえよ。だから志を捨てるってわけじゃねえが、きれいごとだけ並べて、戦ができるのかとも思うな」



「いいか、おまえら。隊長というのは、自分ですべてを済ましてはならん。時には、兵に女も抱かせてやらなきゃな。二人とも、それをよく頭に入れておけ」



「俺は、長く放浪を続けましたが、世間を知ってよかったと思ったことは、あまりありません。どこにも、人の愚かさや醜さが満ちていて、心を打つ者など滅多に見ることができませんでしたから」



ただ無頼に生きてきた。そしてそこから得たものはなにもなかった、といまにして思う。



「剣に、邪道などありません。それぞれの剣があるだけです」



「わかる必要はありませんよ。あなたにとって大事なのは、これ以上強くなることではなく、その剣を生かせる場所を見つけられるかどうかでしょう」



「わかっています。ただ暗殺の的にされる。それは運命が尽きかけているからです。それでも強いものがあれば、生から死へ押しやることはできない。尽きかけていれば、そこで死ぬ。運命に対する、ちょっとした手助け。それが、暗殺でしょう」



「わかるか。これが生きているということだ。泣きたくなったり、腹が減ったりする。おまえはまるで、自分が死んだような気になってしまったのだ。それは、死ぬ時は、人は死ぬ。しかし、おまえは生きている。おまえにできるのは、死んだ友のために泣き、そしてその男を忘れない、ということだけだ」



力が及ばなければ死。その覚悟をしているから、自分のやっていることはただの仕事より面白く、刺激的でもあるのだ。



「いや、徹底的に絞めあげたらしい。ただ、史進は強すぎる。多分、強いところで絞めあげる。杜興は、自分の弱いところで兵たちを絞めあげた。だから、憎んだり怒ったりはしても、恐れはしなかったのだろう、と私は思う」



夢があった。男として、その生のすべてを懸けるに値する、夢があった。
夢はやがて、少しずつかたちを持ち、いま、生きたものとして立ち上がろうとしている。間違ってはいない。なにが欠けているわけでもない。ただ、夢が充溢していただけだ。ほかのものが、入る余地などなかった。



「完全を求める李応の気持も大事だろう。完全とは夢のようなもので、行き着くことはないと思う。それでも、求めるがゆえに、前には進めるのだ」



志がどうのと、口で言ったりしてどうなるわけでもない。この男は、人を食ったやり方で、面白いことを試みる。そしてその底に、はっきりと志は感じられるのだ。



「死にたいわけではない。どうでもいい、と思っているだけだ」
「なら、死ねぬのう。死ぬのをこわがってもおらん。そういう人間は、死神も避けて通るんじゃよ」



「私は、おまえと同じなのだよ、聞煥章。自分の手で国を動かす。歴史というものも動かす。それが面白く、人生のすべてを懸けてやってみたいのだ」



以上
またね***





運命を拓きゆく者へ(食べる読書117)





約百年前の人物の言葉。少々現在には少し当てはまらないような論も感じたが、ほとんどは貴重だ。


その内容は、現代でもよく言われる内容ではあるが、昔の視点からの言なので、どこかしら背筋が伸びるような、そういう言い方もあるのかとも感じる。


明治から大正、そして昭和へと日本国が大きく変わっていく時代を生きた人物の言である。


当時と今は、そんなに社会の人々の意識は違わないんだなとも感じた。


厳しい言もある。


どう活かすか。


時代を超え、私を支えてくれ、励ましてくれるすべての先人たちに感謝をこめて、



愛しています。



以下抜粋


自己の範囲はただ己れ一身の欲望を指すものではなく、その発展の方法は自己そのものを損なうものであってはならない。



試練を経ぬ者は世の役に立たない、大きな発展の前には大きな屈折がある



準備とは心の持ち方である。
僕は、心の持ち方以外に自己を成長させるための準備はないと考えている。



学問とは融通のきくもので、それを天文学に用いることもできるし植物学に応用することもできる。



人の上に立つ者は特に意識して、小事は人に任せ、自分の本来の目的を妨げない限り、一歩も二歩も人に譲って、他人の意志に叶うよう努めるべきである。



見切りをつけるとは、新陳代謝の一つの方法なのである。



誰かが落胆しているとき、その人に慰めの言葉をかけたり、その人の涙を拭いてやるということは、消極的にその人の苦しみを減じてやることではない。積極的に新しい力を与えるという意義がある、と僕は思う。



自分の家の門を閉じていて外来の客を迎え入れることはできないのと同様、苦しいときも嫌なときも、思いがけない光が入ってくるよう、心は開いておきたいものである。




宗教をすすめるわけではないが、祈りはそれを防ぐよい手段である。神を信じないなら自分の祖先の霊に対してでもよい。仏に対してでもよいし、自分を超えた何者かに対してでもよい。
そうしたものに対し自分の考えを述べ、力を求めることは、弱いものを強くする秘訣である。頑張る力が足りない者は、このような方法を用いていっそう自己修養をなすべきであろう。



学校は学生に知識を詰め込むのではなく、学校を出てから伸びる力を授ければよいのである。そうすれば学校を出てからも、各人が勉強し進歩することができる。



また一冊の書物を読むときは、一章ごとにその大意を知るように努める。この章は何が目的で書かれているのか、その主旨は何かを章ごとに読む。そして最後に書物を伏せて、この書が書かれた目的は何であるか、その目的に到達する議論はどのように組み立てられるのかをじっくり考えてみるのである。



大切なのは内部の沈黙であるが、外部の沈黙もまた必要なのだ。カーライルは「蜂は暗闇でなければ蜜をつくらない。脳は沈黙でなければ思想を生まない」と語っている。



相手の気に入るように追従したことで、かえって己の愚をさらすことになる。
自分を忘れて相手の気に入るように力んではいけない。



どんなに性質が異なっても、相手を悪くいってはならない。性質の異なる者を受け入れる度量を持つ、そうすることで自分の人間としての大きさも増すのである。



人の批評をしているのを聞くと、批評されている人物より、批評する人物の基準が現れて面白い。



人の悪口をいわないのは一つの克己であり、己を制する方法である。
いいたいことをいわないだけと思えば消極的に聞こえるかもしれないが、これはとても積極的な修養法なのである。




親切の修養法はいたって簡単である。気づいたら必ず実行することである。



習慣は社会の多数に行き渡ったものであるが、最初は個人から起こったものであろう。社会には独創の力はない。世論というものも全国民に一時に起こったものではない。やはり最初は個人個人から発し、それが各方面に伝わったものである。




法律の力だけで成立している社会はきわめて冷やかである。社会にあたたかみを添えるのが親切であり、親切があって初めて社会は円滑になるのである。



書物を十冊読むより、一度の実行が大切である。



人にした親切は忘れる、あるいは大したことではないと思うことである。



人生の目的は何かという問題に入る始めの一歩として、自分は何のためにこの世に生きるのか、と問えば、自分は何をしたら一番自分の心を満足させられるのかという問いに行きつくはずである。



カーライルはかつて、「自分は不幸だといい、常に不満を口にし、あるいは煩悩に陥る者の大多数は、自分を忘れている」と述べた。
つまり、大多数は自分の本分を忘れ、なすべきことを怠り、空想にふけり、得難いものを望み、そのためにますます悩んでいるのである。



偉いということは、天より賜った自分の力を十分に発揮し、自分の務めを忠実に果たし、その天命を喜ぶ‐ということであろう。世間にほめられるかどうかは、偉さを決める基準ではないのだ。



自分はこんなに有能なのに世間が自分を受け入れないといって回る人間の大半は、知人を欺き、不義理をして世間を狭くしている者たちである。
世のために不遇になったのではなく、自業自得なのであり、欠陥のある人間が多い。



小さな仕事をやらせても完全にこれを成し遂げ、余力があっても自分には不足の仕事であると不平を唱えたりしない。己の義務を完全に尽くす。それが立派な人間なのである。
したがって、自分の現在の義務がなんであるかがはっきりわかっている人は、人生の義務と目的を理解する道に進むことのできる者だと僕は思う。
人生の目的を理解するには、自分の生きる目的を理解することだ。
自分のいる場所、就いている職業、周囲の要求する義務を、それがどんなに小さくつまらないものでも、完全に成し遂げることである。



「いかに世が移り変わろうとも、犠牲と奉仕の心も持たずに、人類が幸せになるとは思えません」



以上
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2012年8月16日木曜日

水滸伝十(食べる読書116)




これぞという人物はそうそういない。これが現実。


自分がそういう人物であるかといわれれば同じくらいそうそうない。


この巻全体は、呼延灼を梁山泊へ引き込むために割かれた。



それほどの人物である。実際、官軍として一度梁山泊軍に完勝している。



相手の心を摑む。これが常套手段。そのためには、今の相手の境遇を調べ把握する必要がある。


そして、心が決まるスイッチを押すのだ。


そういう調略は魯達にあっているのだろう。いつのまにか、そういう役回りになっている。まあ、初めからか…。



美しい部分もあれば醜い部分もある。人の生きる姿がそこに見える。


醜い部分には打ちのめされるが、美しい部分には奮い立たされる。そんな反応をしていたんじゃあ、なんにもならないが…。それらを淡々と受け入れ、己の道を進める人物となりたい。


以下抜粋



「土地や屋敷で、男は生きるものではない。人は、土地や屋敷にはついていかんからなあ。見ろ、なにもない俺にでも、ここにいる者たちはついてくる」



汚れていない。それだけに、優れた上官には影響を受ける。



「誰でも、自分の時代が来て欲しいと思う。そういうものだぞ」



「凌振よ。人はいつでも、なにか違うものをいくつも抱えて生きておる。俺は、戦がなくなればいいと思っているが、同時に戦が好きでもあるんじゃ。それが矛盾すると言うのは、人間が一面しか持っておらぬと青臭いことを言っているのと同じじゃ。百年、二百年あとに、戦がない時代が来るなら、俺は、いまだけ戦を愉しもうと思う。それが、人というものではないかのう」



自分が理解できないことについては、拒絶することはない。認められるものを見つけようとする。そういう男だ



死の淵を歩き、片腕をなくした。死ぬ時は死ぬし、死にたくても生き続ける者もいる。いま生きている自分を見ると、そう思うしかなかった。生かされている、などと大それたことも考えなかった。死ぬまで思ったことをやり、死ねばそれで終わりということだ。



志は心にしっかり収いこんでいるが、日々は気楽に、愉しく過ごしたかった。命をかけることでさえ、愉しみたいと思っている。
怒りや悲しみやむなしさや諦め、そういうもののすべてを心にしみこませながら、しかし、なんでもないことにこそ心を動かす。



自分にない愚かさを見ていたのだろう、といまは思っている。いろいろなものに抗いながら、生真面目に生きてきた。だから抗わなければならなかった、とも言える。愚かさは命取りだ、と思っていた。堅苦しい生き方だったのだ。志まで、それに加えた。



役人に対する憎しみだけが、二人からは消えていなかった。それが、梁山泊と結びついている。志を声高に叫ぶ者より、むしろ役に立つことが多い。



それでも耐え続けながら、のしあがろうとするのが男だ。怒りにまかせて、博奕に手を出すのは、もともと駄目な人間だからだ。そう言うのは、たやすかった。
しかし、人とはそういうものでもある。強い人間の方が、むしろ少ないのだ。



自分の悪口も言われているだろう、と魯達は思った。聞いてみたい、という気もする。腹を立てるほどの悪口を言えるなら、張青も捨てたものではない。


酔うと、張青の悪口は露骨になってくる。もしかすると、弱い者に対しては強く出るようなところもあるかもしれない、と魯達は考えはじめた。


宋江には生まれ持った胆の太さがある。豪傑というようなかたちでそれは出てこないが、決断する時は、晁蓋も驚くほど果敢だった。



自分は死ぬのだろうか。ふと、思った。やりたいことを、力のかぎりやってきた。しかし、まだやり足りない。生ききってはいない。夢は、これから拡がるのではないのか。
死ぬかどうかなど、誰にもわかりはしない。ただ、もういいと思うことはあるだろう。
まだだ。これからだ。いまは、そうとしか思えない。それでも、死ぬ時は死ぬ。人にとって、死ぬとはそういうことだ。



「それこそ、戦よ。劣勢の時に踏み留まり、反撃の機を摑むのが戦。呉用、ここは腹を据えよ」



「夢にすぎなかったものが、近づいてきた。すると、どうしようもなく、重たくなってきた。こんなはずではなかったと、しばしば考えるぞ」



これが、死というものなのだ。そう思い続けた。こわくはなかった。安らかな、命を休める場所が、死ではないのか。



「人には、闘うための理由がいるのだ。軍人であるとかということとはまるで違う。人間らしい理由が」



「そんなものは、持っている方がめずらしい。やむを得ず闘う。それが人間なのだと、私は思います。志などと言うと、戦がきれい事にすぎるという気がします」



「死ぬことは恐れるな。しかし、無駄で愚かな死は、禁じる。調練は、これまでより厳しい。生き残るために、苦しい思いをすると思え。俺は、双鞭と呼ばれている。嫌いなのは、二度同じことを言わされることだ」



以上
またね***



科学の解釈学(食べる読書115)




実用的というと、外部に働きかけるすべのことを指すことが多いのではないか。


しかし、ここでいう実用的とはある限定された事象のことであろう。


例えばこの本のようなものは、はたして実用的であろうか。


それは実用的の定義にも拠るので何とも言えないが、少なくともこうは言える。



この本は自分を知る手助けをする。


つまり、外部にたいして働きかけていない。ベクトルは己に向いている。人が認識するとはどういうことなのか、ものごとをどう受け取っているのか。などなど。


だが、明確な答えが記述されているわけではない。単なる考察だ。しかし、この考える契機を与えてくれているという点において価値がある。


己を知ることがすべてを制することになる。



学者は、方程式ができあがったところで満足するが、素人はその方程式から導き出された数値を見ないと満足しない。



以下抜粋


観察とは生まの事実をあるがままに受動的に写し取ることではなく、逆に理論的枠組みに則って事実を解釈的に<構成>する能動的な行為なのである。


観察は理論に依存しているとしても、理論は観察に一義的に依存することはないのであり、その意味で<純粋理論>と<純粋観察>の区別は排棄されたとしても、<理論>と<理論負荷的観察>との区別は否定されてはいないのである。このことは、同一の観察事実を説明する複数の理論構成が可能であること(クワインの言う「理論の決定不全性」)からも傍証を得ることができる。


科学者は常に、一定の<先行的了解>あるいは<先入見>をもって自然に臨むのである。そのような観点からすれば、<先入見>は科学的認識の障害物なのではなく、むしろ認識が<科学的>であるための不可欠の基盤なのだと言うべきであろう。この先行的了解は、いわば研究を主導し規制する一群のルールであり、科学者たちの行動を律する一種の<共同規範>にほかならない。



ここで<通常科学>とは、「特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究」を意味しており、クーンはそれを<パズル解き>になぞらえている。言い換えれば「パラダイム(範型)」とは、現場の科学者たちが暗黙のうちに共有する<価値理念>や<認識関心>の総体であると同時に、より具体的には科学研究を導く指針や手続きの体系、すなわち「何をいかに探究すべきか」という研究のオリエンテーションを行う実践的枠組みのことにほかならない。


近代科学は物理学を頂点とするヒエラルキーを形作り、爾余の諸科学は物理学の体現する精密科学的方法を分有する度合に応じてピラミッドの各所に位置づけられることになった。つまり、学問的価値の一元化が行われたわけである。この学問的価値の一元化が自然諸科学のみならず人文・社会諸科学をもその網にからめ取っていることは、今日の学問的趨勢からして明らかであろう。


科学的諸概念は知覚的経験に一定の方法的操作を加えることによってはじめて成立する。それゆえ、科学理論が照合されるべき検証の基盤は、生まの「知覚的事実」ではなく、<方法>というスクリーンを通った「科学的事実」のほうなのである。


ひとたび成立した「規約」は、法律などの場合と同様に、研究活動を律する超越論的規範として共同体に対する支配的<制度>に転化する(パラダイムは科学者の研究手続きを制約することによって「科学的事実」を創り出すという意味において、すぐれて「超越論的」な働きをするのである)。この支配的な制度と研究上の生産性との間の軋轢が頂点に達し、制度がむしろ桎梏として意識されるようになったとき、パラダイムの交代すなわち「科学革命」が生ずるのである。


言語による<制度化>と<再分節化>の働きによって、この「構造的安定性」は生活世界を分節化する「分類整序体系」とでも言うべきものを形作る。そしてこの分類整序体系は、その中で生きるわれわれの世界経験を可能にするという意味でまさに「超越論的」であり、また個々人の経験に先立って作動しているという意味でアプリオリなものなのである。


「われわれが天使になるのでもなく動物になるのでもない限り、理論言語は、対象領域の諸構造を、別の客体領域の諸条件へ変形することができない」


概念枠とは、経験を組織する仕方だと言われている。それは感覚のデータに形式を与えるカテゴリーの体系であり、個人や文化や時代が眼前の状況を見渡す視座のことである。一つの枠組から別の枠組への翻訳はおそらくできないであろう…実在それ自身が枠組に対して相対的なのであり、ある体系で実在と見なされるものは、別の体系では実在ではありえない。


概念枠が言語に組み込まれている以上、すべての概念枠から中立的な立場に身を置くことは、言語の使用を停止することを意味する。それゆえ、「概念枠」は同定や個体化の基準をもちえない空虚な概念にすぎない、というのである。


この隘路を開く鍵は、ごく単純なところにあると思われる。すなわち、ある「論証様式」の内容を<理解>することと、その「論証様式」にコミットし、それを自らの行為規範として積極的に選び取ることとを区別することである。通訳不可能性のアポリアは、この<理解>という行為と規範に服する<コミットメント>という行為とを同一視することに由来している。


特定の歴史的刻印を帯びた解釈共同体の<認識関心>が、特定の論証様式を選び取り、それを共同規範として承認するのである。それゆえ解釈共同体の認識関心の心の変化は、当然にも一つの論証様式の廃棄と変更あるいは再選択を意味するはずである。認識関心の変化とは、知的活動に関する自己理解の変容と言い換えてもよい。この場合、自己理解とは解釈共同体の成員、すなわち人間がいかなる存在として環境世界の中で生を営むのかについての倫理的決断をも含むものであり、当然にもそれはありうべき社会構想にまで及ぶであろう。それゆえ、いかなるメタ・コミュニケーションのルールを規範として受け容れるかは、解釈共同体の自己決定あるいは関主観的合意に委ねられているのであり、それは絶えざる自己理解の深化と更新とを目指す解釈共同体の、ありうべき未来へ向けての一つの根源的な<投企>にほかならないのである。



特定のパラダイムにコミットすることによって、逆に異なるパラダイムへ接近する方途が得られるのである。それゆえ、理解とは常に一定の立場からの絶えざる「解釈」の営みにほかならない。あるいは、理解には常に一定の視点を反映した遠近法的な「歪み」が伴う、と言ってもよい。しかし、「理解の歪み」はむしろ自己理解の<鏡>として捉えられるべきものである。われわれは異なるパラダイムと出会い、それを理解しようと努めることによって、逆に自己のコミットするパラダイムを新たなパースペクティヴの下に置き直して対象化することができる。それゆえ、「通約不可能性」という概念は、そのような解釈学的経験の一階梯を表す言葉として理解されるべきものなのである。



科学とは「真理の探究」であると言えば、これほど陳腐な決まり文句もまたないであろう。まさにこの陳腐さの中でこそ、「科学」という物語は過不足なく機能し続けてきたのである。


これらの「決定実験」が科学的知識の正統化という文脈の中に組み入れられることによって、科学を囲繞する「啓蒙」と「進歩」のメタ物語を増殖させる神話作用を発揮してきたことの方に注目せねばならない。


仮説演繹的方法を非合理的推測として神秘的に解釈することは、発見のコンテクストと正当化のコンテクストとの混同から生じる。…しかし、科学的発見を説明することは、論理学者の務めではない。彼になしうるのは、所与の事実とそれらの事実を説明するとして提示された理論との間の関係を分析することだけである。言い換えれば、論理学は正当化のコンテクストにのみ関わるのである。


実験による「反証」と理論の「棄却」とは論理的には独立の事柄であり、科学者はむしろ「反例」を未解決の「課題」として意識し、既成の枠組の内部でその解決に腐心するのである。そのような科学者の行動様式を、I・ラカトシュは、「科学者は厚顔なのだ」と単刀直入に言い表している。


決定実験とは「事件の後だいぶ経ってから、つまりある研究プログラムが別のプログラムによって打倒されてしまった時に、ある変則事例に贈られる敬称」にほかならず、その認定は常に「後知恵」によるものなのである。ここにこそ、われわれは科学的発見を顕彰する「進歩」の物語が、その舞台回しとして「決定実験」を必要とする理由を見て取ることができる。決定実験とは、科学の歴史において常に勝者の陣営が掲げる「錦の御旗」にほかならないのである。


現代の科学論は「科学とは何か(What is sceince?)」という問いから「科学はいかに作動しているか(How science works?)」という問いへとその舳先を大きく向け変えたのである。


この産業化科学のあり方を知識生産の様式(モード)の変化として捉える。端的にいえば、「科学(science)」の担い手としての「科学者(scientist)」から「知識(knowledge)」の生産者としての「実践家(practitioner)」への転換である。


科学理論の進展は全体系の攪乱を最小限に留める<微調整>を通じて連続的に進行するのであって、不連続的で急激な<変革>によって行われるものではないことになる。


いわば「パラダイム」的言明はさまざまな関連する補助仮説によって「保護」されているのであり、知のネットワークの内部では、数学や論理学の言明と並んでその中心部に位置しているのである。しかし、頻出する「変則事象」が<微調整>による体系の均衡維持の域を超えたときには、当該のパラダイムは破棄され、別の一群の言明から成るパラダイムによって取って代わられることになる。これが「科学革命」と呼ばれるものである。


破棄されるのは知のネットワークの全体ではなく、あくまでも一群の「パラダイム」的言明にすぎない。しかし、それらの言明はネットワークの中心部に位置するがゆえに、その変更は直ちに体系全体に波及し、急激な変化をもたらす。いわば「パラダイム」的言明の変更は、ネットワーク全体の<布置>を変化させ、諸言明間の<関係の織糸>を更新するのである。



科学を学ぶ学生はある問題にぶつかると、彼が以前すでに出会った典型的な問題のどれかに似たものとしてそれを見ようとする。彼は導く規則がある場合には、もちろんそれを使う。けれども、彼の根本的な規準は類似性の知覚なのであって、その知覚は、その同じ類似性の固定を可能にする他のどのような多数の規準にたいしても、論理的にも心理的にも先行するのである。類似性が見て取られるようになってはじめて、規準を問うことができる。規準を問うことがしばしば意味をもつのもその時からなのである。


名前の指示対象は、その名前を伝承する共同体の歴史的連鎖をたどることによってのみ決定されるのである。それゆえ、指示行為は「個人的実践」ではなく、「共同体的実践」にほかならない。


科学理論は「経験の流れの中に扱いやすい構造をつくるための装置」にほかならず、その優劣は「感覚的経験の処理をどの程度促進するか」というプラグマティックな規準によってのみ判定されるものであったことは、改めて指摘するまでもない。彼が明確に述べているように、知のネットワークの改訂作業に当たっては、「保守主義がこのような選択に現われて、単純性を追求する」のであり、その保守主義はわれわれに生来の自然な傾向性に属するものであり、何らアプリオリな根拠をもつものではないのである。


クワインにとって論理学とは、われわれの観察的経験を組織的に整序し、宇宙体系を最大限の単純性をもって記述するための準拠枠組にほかならない。そして、いかなる論理体系をその記述枠組として選択するかという問題は、あくまでプラグマティックな規準に基づいて決定されるほかはない。


連続的であり、明瞭な境界線が引けないことは、そこに何の区別も存在しないことを含意するものではない。ましてや、一方が他方に従属しており、還元可能であることを意味しはしない。哲学的言明と科学的言明との間には、確かに「種類」の違いは存在しないものの、「機能」の違いは認めることができる。つまり、知のネットワークの中に占める「位置価」の違い、あるいはネットワークの構造力学に寄与する役割の違いである。その役割を、いささか陳腐な表現ながら、「規範的」機能と特徴づけておけば、知のネットワークの内部には、「種類」においては記述的でありながら、「機能」においては規範的であるような言明が確かに存在するのである。例えば、われわれはウィトゲンシュタインの「世界像命題」を、そのような機能をもつ言明と考えることができる。それゆえ、機能における相対的区別を堅持する限り、われわれは認識論を経験的心理学に同化させずにすむ道を、かすかな踏み跡程度ではあれ確保しうることであろう。



それ(信念)は、われわれに一定の状況下での行為の仕方を教示する「行為の規則」あるいは「心の習慣(habit of mind)」なのである。


プラグマティズムとは、あらゆる問題、とりわけ不明晰な観念の意味を現実的な行為の過程に引き戻して、そこで得られる具体的帰結を手がかりにして明らかにしようとする哲学的態度のために選ばれた名前であった。


「真理」という概念は、われわれの探究の過程を外挿した果てに遠望される無限遠点を名づける名称として以外には、われわれはそれを理解するすべをもたないのである。


どの思考もそれに続く何らかの思考をもつという主張は、どの時点もそれに続く何らかの時点をもつという事実に対応する。それゆえ、思考は瞬間的に生み出されるものではなく、ある時間を要するものだということは、どの思考もそれに続く他の思考の中で解釈されなければならないということ、つまりすべての思考は記号的であるということの、単なる言い換えにすぎない。



パースは人間の思考が記号に媒介され、記号解釈の連鎖という形で時間過程の中に否応なく組み込まれていることを明らかにした。そのことは、時間の腐食作用を受けない無時間的に妥当する第一の真理は存在しないこと、すなわち「アルキメデスの点の不在」という事態をこそ意味しているはずである。


われわれは、時間の流れに身を浸し、歴史の重荷を背負うことから出発し、歩を歩進めるほかはない。プラグマティズムの眼差しが向かうのは、「出発点」の確実性ではなく、一歩を踏み出したところに生じる「結果」や「帰結」の豊饒さである。


われわれの認識過程は、まずもって所与の信念体系をわがものとして引き受け、そこから具体的行為へと一歩を踏み出し、そこに生じる帰結に応じて信念体系を改訂するという一連の作業になぞらえることができる。したがって、真理は時間過程の中で、<生成>するものであり、掘り起こされるのを待ち受けて地中に<存在>しているものではない。


「プラグマティズムの真理観の全本質は、次のような公式に要約できそうである。つまり、他の学説にとって新しい真理は発見であるが、プラグマティズムにとってはそれは発明である、と」



対話が「目的志向的」に究極の一致を目指す活動であるのに対し、会話はその外部に目的をもたず、会話の継続それ自体を目的とする活動である。



合理性を市民的教養性と見るプラグマティズムの見方からすれば、探究とは個々の問題に基準を適用することではなく、むしろ信念のネットワークを絶えず編み直すことである。



われわれが使用する日常言語は複雑をきわめた「暗黙の約定」に取り囲まれており、容易なことでは論理の筋道を見通すことはできない。そのため「日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能」なのであり、翻っては「言語は思想に変装を施す」ことにもなるのである。



哲学の目的は思想の論理的な明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。哲学的な著作は本質的に釈義からなる。哲学の成果は「哲学的諸命題」ではなく、諸命題が明晰になることである。哲学は、そのままでは不透明とも曖昧ともいえる思想を明晰にし、その境界を明確にしなければならない。



「理論負荷性」とは観察、事実、データなどに対する理論や知識の認識的先行性を主張する科学哲学上の概念にほかならない。つまり、理論や知識の影響を被らない「純粋無垢の観察」ないしは「生まの事実」なるものは存在しない、というテーゼである。



論理学は<理想>言語に関わるのであってわれわれの言語に関わるのではない、ということであれば、何と奇妙であろうか。というのも、この理想言語は何を表現するというのか。やはり、今われわれが日常言語で表現することを、であろう。そうとすれば論理学はこの日常言語を研究せねばならないのである。



「文脈」とは規則が機能すべき<場>の謂にほかならない。



ウィトゲンシュタインによれば、想像力の行使は「意志の支配下」にあるのであり、それゆえアスペクト転換を経験するためには、いかほどであれ意志の自発性が、すなわち具体的世界から身を引き離して可能世界へと跳び移る意志的努力が要求されるのである。


以上
またね***



一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...