2012年8月20日月曜日

運命を拓きゆく者へ(食べる読書117)





約百年前の人物の言葉。少々現在には少し当てはまらないような論も感じたが、ほとんどは貴重だ。


その内容は、現代でもよく言われる内容ではあるが、昔の視点からの言なので、どこかしら背筋が伸びるような、そういう言い方もあるのかとも感じる。


明治から大正、そして昭和へと日本国が大きく変わっていく時代を生きた人物の言である。


当時と今は、そんなに社会の人々の意識は違わないんだなとも感じた。


厳しい言もある。


どう活かすか。


時代を超え、私を支えてくれ、励ましてくれるすべての先人たちに感謝をこめて、



愛しています。



以下抜粋


自己の範囲はただ己れ一身の欲望を指すものではなく、その発展の方法は自己そのものを損なうものであってはならない。



試練を経ぬ者は世の役に立たない、大きな発展の前には大きな屈折がある



準備とは心の持ち方である。
僕は、心の持ち方以外に自己を成長させるための準備はないと考えている。



学問とは融通のきくもので、それを天文学に用いることもできるし植物学に応用することもできる。



人の上に立つ者は特に意識して、小事は人に任せ、自分の本来の目的を妨げない限り、一歩も二歩も人に譲って、他人の意志に叶うよう努めるべきである。



見切りをつけるとは、新陳代謝の一つの方法なのである。



誰かが落胆しているとき、その人に慰めの言葉をかけたり、その人の涙を拭いてやるということは、消極的にその人の苦しみを減じてやることではない。積極的に新しい力を与えるという意義がある、と僕は思う。



自分の家の門を閉じていて外来の客を迎え入れることはできないのと同様、苦しいときも嫌なときも、思いがけない光が入ってくるよう、心は開いておきたいものである。




宗教をすすめるわけではないが、祈りはそれを防ぐよい手段である。神を信じないなら自分の祖先の霊に対してでもよい。仏に対してでもよいし、自分を超えた何者かに対してでもよい。
そうしたものに対し自分の考えを述べ、力を求めることは、弱いものを強くする秘訣である。頑張る力が足りない者は、このような方法を用いていっそう自己修養をなすべきであろう。



学校は学生に知識を詰め込むのではなく、学校を出てから伸びる力を授ければよいのである。そうすれば学校を出てからも、各人が勉強し進歩することができる。



また一冊の書物を読むときは、一章ごとにその大意を知るように努める。この章は何が目的で書かれているのか、その主旨は何かを章ごとに読む。そして最後に書物を伏せて、この書が書かれた目的は何であるか、その目的に到達する議論はどのように組み立てられるのかをじっくり考えてみるのである。



大切なのは内部の沈黙であるが、外部の沈黙もまた必要なのだ。カーライルは「蜂は暗闇でなければ蜜をつくらない。脳は沈黙でなければ思想を生まない」と語っている。



相手の気に入るように追従したことで、かえって己の愚をさらすことになる。
自分を忘れて相手の気に入るように力んではいけない。



どんなに性質が異なっても、相手を悪くいってはならない。性質の異なる者を受け入れる度量を持つ、そうすることで自分の人間としての大きさも増すのである。



人の批評をしているのを聞くと、批評されている人物より、批評する人物の基準が現れて面白い。



人の悪口をいわないのは一つの克己であり、己を制する方法である。
いいたいことをいわないだけと思えば消極的に聞こえるかもしれないが、これはとても積極的な修養法なのである。




親切の修養法はいたって簡単である。気づいたら必ず実行することである。



習慣は社会の多数に行き渡ったものであるが、最初は個人から起こったものであろう。社会には独創の力はない。世論というものも全国民に一時に起こったものではない。やはり最初は個人個人から発し、それが各方面に伝わったものである。




法律の力だけで成立している社会はきわめて冷やかである。社会にあたたかみを添えるのが親切であり、親切があって初めて社会は円滑になるのである。



書物を十冊読むより、一度の実行が大切である。



人にした親切は忘れる、あるいは大したことではないと思うことである。



人生の目的は何かという問題に入る始めの一歩として、自分は何のためにこの世に生きるのか、と問えば、自分は何をしたら一番自分の心を満足させられるのかという問いに行きつくはずである。



カーライルはかつて、「自分は不幸だといい、常に不満を口にし、あるいは煩悩に陥る者の大多数は、自分を忘れている」と述べた。
つまり、大多数は自分の本分を忘れ、なすべきことを怠り、空想にふけり、得難いものを望み、そのためにますます悩んでいるのである。



偉いということは、天より賜った自分の力を十分に発揮し、自分の務めを忠実に果たし、その天命を喜ぶ‐ということであろう。世間にほめられるかどうかは、偉さを決める基準ではないのだ。



自分はこんなに有能なのに世間が自分を受け入れないといって回る人間の大半は、知人を欺き、不義理をして世間を狭くしている者たちである。
世のために不遇になったのではなく、自業自得なのであり、欠陥のある人間が多い。



小さな仕事をやらせても完全にこれを成し遂げ、余力があっても自分には不足の仕事であると不平を唱えたりしない。己の義務を完全に尽くす。それが立派な人間なのである。
したがって、自分の現在の義務がなんであるかがはっきりわかっている人は、人生の義務と目的を理解する道に進むことのできる者だと僕は思う。
人生の目的を理解するには、自分の生きる目的を理解することだ。
自分のいる場所、就いている職業、周囲の要求する義務を、それがどんなに小さくつまらないものでも、完全に成し遂げることである。



「いかに世が移り変わろうとも、犠牲と奉仕の心も持たずに、人類が幸せになるとは思えません」



以上
またね***



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