2012年8月16日木曜日

科学の解釈学(食べる読書115)




実用的というと、外部に働きかけるすべのことを指すことが多いのではないか。


しかし、ここでいう実用的とはある限定された事象のことであろう。


例えばこの本のようなものは、はたして実用的であろうか。


それは実用的の定義にも拠るので何とも言えないが、少なくともこうは言える。



この本は自分を知る手助けをする。


つまり、外部にたいして働きかけていない。ベクトルは己に向いている。人が認識するとはどういうことなのか、ものごとをどう受け取っているのか。などなど。


だが、明確な答えが記述されているわけではない。単なる考察だ。しかし、この考える契機を与えてくれているという点において価値がある。


己を知ることがすべてを制することになる。



学者は、方程式ができあがったところで満足するが、素人はその方程式から導き出された数値を見ないと満足しない。



以下抜粋


観察とは生まの事実をあるがままに受動的に写し取ることではなく、逆に理論的枠組みに則って事実を解釈的に<構成>する能動的な行為なのである。


観察は理論に依存しているとしても、理論は観察に一義的に依存することはないのであり、その意味で<純粋理論>と<純粋観察>の区別は排棄されたとしても、<理論>と<理論負荷的観察>との区別は否定されてはいないのである。このことは、同一の観察事実を説明する複数の理論構成が可能であること(クワインの言う「理論の決定不全性」)からも傍証を得ることができる。


科学者は常に、一定の<先行的了解>あるいは<先入見>をもって自然に臨むのである。そのような観点からすれば、<先入見>は科学的認識の障害物なのではなく、むしろ認識が<科学的>であるための不可欠の基盤なのだと言うべきであろう。この先行的了解は、いわば研究を主導し規制する一群のルールであり、科学者たちの行動を律する一種の<共同規範>にほかならない。



ここで<通常科学>とは、「特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究」を意味しており、クーンはそれを<パズル解き>になぞらえている。言い換えれば「パラダイム(範型)」とは、現場の科学者たちが暗黙のうちに共有する<価値理念>や<認識関心>の総体であると同時に、より具体的には科学研究を導く指針や手続きの体系、すなわち「何をいかに探究すべきか」という研究のオリエンテーションを行う実践的枠組みのことにほかならない。


近代科学は物理学を頂点とするヒエラルキーを形作り、爾余の諸科学は物理学の体現する精密科学的方法を分有する度合に応じてピラミッドの各所に位置づけられることになった。つまり、学問的価値の一元化が行われたわけである。この学問的価値の一元化が自然諸科学のみならず人文・社会諸科学をもその網にからめ取っていることは、今日の学問的趨勢からして明らかであろう。


科学的諸概念は知覚的経験に一定の方法的操作を加えることによってはじめて成立する。それゆえ、科学理論が照合されるべき検証の基盤は、生まの「知覚的事実」ではなく、<方法>というスクリーンを通った「科学的事実」のほうなのである。


ひとたび成立した「規約」は、法律などの場合と同様に、研究活動を律する超越論的規範として共同体に対する支配的<制度>に転化する(パラダイムは科学者の研究手続きを制約することによって「科学的事実」を創り出すという意味において、すぐれて「超越論的」な働きをするのである)。この支配的な制度と研究上の生産性との間の軋轢が頂点に達し、制度がむしろ桎梏として意識されるようになったとき、パラダイムの交代すなわち「科学革命」が生ずるのである。


言語による<制度化>と<再分節化>の働きによって、この「構造的安定性」は生活世界を分節化する「分類整序体系」とでも言うべきものを形作る。そしてこの分類整序体系は、その中で生きるわれわれの世界経験を可能にするという意味でまさに「超越論的」であり、また個々人の経験に先立って作動しているという意味でアプリオリなものなのである。


「われわれが天使になるのでもなく動物になるのでもない限り、理論言語は、対象領域の諸構造を、別の客体領域の諸条件へ変形することができない」


概念枠とは、経験を組織する仕方だと言われている。それは感覚のデータに形式を与えるカテゴリーの体系であり、個人や文化や時代が眼前の状況を見渡す視座のことである。一つの枠組から別の枠組への翻訳はおそらくできないであろう…実在それ自身が枠組に対して相対的なのであり、ある体系で実在と見なされるものは、別の体系では実在ではありえない。


概念枠が言語に組み込まれている以上、すべての概念枠から中立的な立場に身を置くことは、言語の使用を停止することを意味する。それゆえ、「概念枠」は同定や個体化の基準をもちえない空虚な概念にすぎない、というのである。


この隘路を開く鍵は、ごく単純なところにあると思われる。すなわち、ある「論証様式」の内容を<理解>することと、その「論証様式」にコミットし、それを自らの行為規範として積極的に選び取ることとを区別することである。通訳不可能性のアポリアは、この<理解>という行為と規範に服する<コミットメント>という行為とを同一視することに由来している。


特定の歴史的刻印を帯びた解釈共同体の<認識関心>が、特定の論証様式を選び取り、それを共同規範として承認するのである。それゆえ解釈共同体の認識関心の心の変化は、当然にも一つの論証様式の廃棄と変更あるいは再選択を意味するはずである。認識関心の変化とは、知的活動に関する自己理解の変容と言い換えてもよい。この場合、自己理解とは解釈共同体の成員、すなわち人間がいかなる存在として環境世界の中で生を営むのかについての倫理的決断をも含むものであり、当然にもそれはありうべき社会構想にまで及ぶであろう。それゆえ、いかなるメタ・コミュニケーションのルールを規範として受け容れるかは、解釈共同体の自己決定あるいは関主観的合意に委ねられているのであり、それは絶えざる自己理解の深化と更新とを目指す解釈共同体の、ありうべき未来へ向けての一つの根源的な<投企>にほかならないのである。



特定のパラダイムにコミットすることによって、逆に異なるパラダイムへ接近する方途が得られるのである。それゆえ、理解とは常に一定の立場からの絶えざる「解釈」の営みにほかならない。あるいは、理解には常に一定の視点を反映した遠近法的な「歪み」が伴う、と言ってもよい。しかし、「理解の歪み」はむしろ自己理解の<鏡>として捉えられるべきものである。われわれは異なるパラダイムと出会い、それを理解しようと努めることによって、逆に自己のコミットするパラダイムを新たなパースペクティヴの下に置き直して対象化することができる。それゆえ、「通約不可能性」という概念は、そのような解釈学的経験の一階梯を表す言葉として理解されるべきものなのである。



科学とは「真理の探究」であると言えば、これほど陳腐な決まり文句もまたないであろう。まさにこの陳腐さの中でこそ、「科学」という物語は過不足なく機能し続けてきたのである。


これらの「決定実験」が科学的知識の正統化という文脈の中に組み入れられることによって、科学を囲繞する「啓蒙」と「進歩」のメタ物語を増殖させる神話作用を発揮してきたことの方に注目せねばならない。


仮説演繹的方法を非合理的推測として神秘的に解釈することは、発見のコンテクストと正当化のコンテクストとの混同から生じる。…しかし、科学的発見を説明することは、論理学者の務めではない。彼になしうるのは、所与の事実とそれらの事実を説明するとして提示された理論との間の関係を分析することだけである。言い換えれば、論理学は正当化のコンテクストにのみ関わるのである。


実験による「反証」と理論の「棄却」とは論理的には独立の事柄であり、科学者はむしろ「反例」を未解決の「課題」として意識し、既成の枠組の内部でその解決に腐心するのである。そのような科学者の行動様式を、I・ラカトシュは、「科学者は厚顔なのだ」と単刀直入に言い表している。


決定実験とは「事件の後だいぶ経ってから、つまりある研究プログラムが別のプログラムによって打倒されてしまった時に、ある変則事例に贈られる敬称」にほかならず、その認定は常に「後知恵」によるものなのである。ここにこそ、われわれは科学的発見を顕彰する「進歩」の物語が、その舞台回しとして「決定実験」を必要とする理由を見て取ることができる。決定実験とは、科学の歴史において常に勝者の陣営が掲げる「錦の御旗」にほかならないのである。


現代の科学論は「科学とは何か(What is sceince?)」という問いから「科学はいかに作動しているか(How science works?)」という問いへとその舳先を大きく向け変えたのである。


この産業化科学のあり方を知識生産の様式(モード)の変化として捉える。端的にいえば、「科学(science)」の担い手としての「科学者(scientist)」から「知識(knowledge)」の生産者としての「実践家(practitioner)」への転換である。


科学理論の進展は全体系の攪乱を最小限に留める<微調整>を通じて連続的に進行するのであって、不連続的で急激な<変革>によって行われるものではないことになる。


いわば「パラダイム」的言明はさまざまな関連する補助仮説によって「保護」されているのであり、知のネットワークの内部では、数学や論理学の言明と並んでその中心部に位置しているのである。しかし、頻出する「変則事象」が<微調整>による体系の均衡維持の域を超えたときには、当該のパラダイムは破棄され、別の一群の言明から成るパラダイムによって取って代わられることになる。これが「科学革命」と呼ばれるものである。


破棄されるのは知のネットワークの全体ではなく、あくまでも一群の「パラダイム」的言明にすぎない。しかし、それらの言明はネットワークの中心部に位置するがゆえに、その変更は直ちに体系全体に波及し、急激な変化をもたらす。いわば「パラダイム」的言明の変更は、ネットワーク全体の<布置>を変化させ、諸言明間の<関係の織糸>を更新するのである。



科学を学ぶ学生はある問題にぶつかると、彼が以前すでに出会った典型的な問題のどれかに似たものとしてそれを見ようとする。彼は導く規則がある場合には、もちろんそれを使う。けれども、彼の根本的な規準は類似性の知覚なのであって、その知覚は、その同じ類似性の固定を可能にする他のどのような多数の規準にたいしても、論理的にも心理的にも先行するのである。類似性が見て取られるようになってはじめて、規準を問うことができる。規準を問うことがしばしば意味をもつのもその時からなのである。


名前の指示対象は、その名前を伝承する共同体の歴史的連鎖をたどることによってのみ決定されるのである。それゆえ、指示行為は「個人的実践」ではなく、「共同体的実践」にほかならない。


科学理論は「経験の流れの中に扱いやすい構造をつくるための装置」にほかならず、その優劣は「感覚的経験の処理をどの程度促進するか」というプラグマティックな規準によってのみ判定されるものであったことは、改めて指摘するまでもない。彼が明確に述べているように、知のネットワークの改訂作業に当たっては、「保守主義がこのような選択に現われて、単純性を追求する」のであり、その保守主義はわれわれに生来の自然な傾向性に属するものであり、何らアプリオリな根拠をもつものではないのである。


クワインにとって論理学とは、われわれの観察的経験を組織的に整序し、宇宙体系を最大限の単純性をもって記述するための準拠枠組にほかならない。そして、いかなる論理体系をその記述枠組として選択するかという問題は、あくまでプラグマティックな規準に基づいて決定されるほかはない。


連続的であり、明瞭な境界線が引けないことは、そこに何の区別も存在しないことを含意するものではない。ましてや、一方が他方に従属しており、還元可能であることを意味しはしない。哲学的言明と科学的言明との間には、確かに「種類」の違いは存在しないものの、「機能」の違いは認めることができる。つまり、知のネットワークの中に占める「位置価」の違い、あるいはネットワークの構造力学に寄与する役割の違いである。その役割を、いささか陳腐な表現ながら、「規範的」機能と特徴づけておけば、知のネットワークの内部には、「種類」においては記述的でありながら、「機能」においては規範的であるような言明が確かに存在するのである。例えば、われわれはウィトゲンシュタインの「世界像命題」を、そのような機能をもつ言明と考えることができる。それゆえ、機能における相対的区別を堅持する限り、われわれは認識論を経験的心理学に同化させずにすむ道を、かすかな踏み跡程度ではあれ確保しうることであろう。



それ(信念)は、われわれに一定の状況下での行為の仕方を教示する「行為の規則」あるいは「心の習慣(habit of mind)」なのである。


プラグマティズムとは、あらゆる問題、とりわけ不明晰な観念の意味を現実的な行為の過程に引き戻して、そこで得られる具体的帰結を手がかりにして明らかにしようとする哲学的態度のために選ばれた名前であった。


「真理」という概念は、われわれの探究の過程を外挿した果てに遠望される無限遠点を名づける名称として以外には、われわれはそれを理解するすべをもたないのである。


どの思考もそれに続く何らかの思考をもつという主張は、どの時点もそれに続く何らかの時点をもつという事実に対応する。それゆえ、思考は瞬間的に生み出されるものではなく、ある時間を要するものだということは、どの思考もそれに続く他の思考の中で解釈されなければならないということ、つまりすべての思考は記号的であるということの、単なる言い換えにすぎない。



パースは人間の思考が記号に媒介され、記号解釈の連鎖という形で時間過程の中に否応なく組み込まれていることを明らかにした。そのことは、時間の腐食作用を受けない無時間的に妥当する第一の真理は存在しないこと、すなわち「アルキメデスの点の不在」という事態をこそ意味しているはずである。


われわれは、時間の流れに身を浸し、歴史の重荷を背負うことから出発し、歩を歩進めるほかはない。プラグマティズムの眼差しが向かうのは、「出発点」の確実性ではなく、一歩を踏み出したところに生じる「結果」や「帰結」の豊饒さである。


われわれの認識過程は、まずもって所与の信念体系をわがものとして引き受け、そこから具体的行為へと一歩を踏み出し、そこに生じる帰結に応じて信念体系を改訂するという一連の作業になぞらえることができる。したがって、真理は時間過程の中で、<生成>するものであり、掘り起こされるのを待ち受けて地中に<存在>しているものではない。


「プラグマティズムの真理観の全本質は、次のような公式に要約できそうである。つまり、他の学説にとって新しい真理は発見であるが、プラグマティズムにとってはそれは発明である、と」



対話が「目的志向的」に究極の一致を目指す活動であるのに対し、会話はその外部に目的をもたず、会話の継続それ自体を目的とする活動である。



合理性を市民的教養性と見るプラグマティズムの見方からすれば、探究とは個々の問題に基準を適用することではなく、むしろ信念のネットワークを絶えず編み直すことである。



われわれが使用する日常言語は複雑をきわめた「暗黙の約定」に取り囲まれており、容易なことでは論理の筋道を見通すことはできない。そのため「日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能」なのであり、翻っては「言語は思想に変装を施す」ことにもなるのである。



哲学の目的は思想の論理的な明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。哲学的な著作は本質的に釈義からなる。哲学の成果は「哲学的諸命題」ではなく、諸命題が明晰になることである。哲学は、そのままでは不透明とも曖昧ともいえる思想を明晰にし、その境界を明確にしなければならない。



「理論負荷性」とは観察、事実、データなどに対する理論や知識の認識的先行性を主張する科学哲学上の概念にほかならない。つまり、理論や知識の影響を被らない「純粋無垢の観察」ないしは「生まの事実」なるものは存在しない、というテーゼである。



論理学は<理想>言語に関わるのであってわれわれの言語に関わるのではない、ということであれば、何と奇妙であろうか。というのも、この理想言語は何を表現するというのか。やはり、今われわれが日常言語で表現することを、であろう。そうとすれば論理学はこの日常言語を研究せねばならないのである。



「文脈」とは規則が機能すべき<場>の謂にほかならない。



ウィトゲンシュタインによれば、想像力の行使は「意志の支配下」にあるのであり、それゆえアスペクト転換を経験するためには、いかほどであれ意志の自発性が、すなわち具体的世界から身を引き離して可能世界へと跳び移る意志的努力が要求されるのである。


以上
またね***



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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...