2011年12月20日火曜日

自分と向き合う心理学(食べる読書73-1)





映画仁義なき戦い [DVD]
の中でこういうセリフがあった。


「現実ゆうもんはよう、己が支配せんことにはどうにもならんのよ。」


本質をついているとこの映画を見た当時(2008年)は感じた言葉だった。



しかし、そうではないことをこの本で知ることになる。


我々は生まれてから、社会の中での生き方を学びはする。が自分の取り扱い方については教えてもらえない。まあ、そのほうが社会をコントロールしやすいという理由はあるかもしれないが、だ。



つまり、”現実を支配する前に己自身を支配しているだろうか?”ということだ。



テレビやネット、ゲームなど、時間の浪費と分かっているのにやめられない嗜好はないだろうか。



また、反射的に気分を害する人やモノ、事柄はないだろうか。



好き嫌いともいえるが、それらは意図的に自分で選んだものだろうか。もしそうなら、それらをそう選ぶ意図はなんだろうか。何か目的があってそれらの嗜好を選んだはずだ。そして、それは自分がどんな人生を送りたいかを意味する。



本書は、感情を足掛かりとして自分を一歩引いて、観る客観的視点を得る考え方、しくみを説いている。




以前紹介した悪魔(サタン)への挑戦状―真の人間の価値とは何かも、自分を観る一つの視点を提供してくれた。



似ている部分もあるが異なる個所もあるのではないかと感じた。



本書の特徴としてフラストレーションを切り口に、それらをどう処理していくかについての方法を複数の学者の説を紹介しつつ説明していることが挙げられる。




私が本書で最も目を引いたのが、”知性化の弊害”の部分である。



以前どこかで紹介したが、「状態を表す情報処理技術と動きを表す情報処理技術」につながるのではないかと感じた。



「私たちは生を概念的に分解する習慣に、根深く結びつけられている」
「最初、物事を分かりやすくするために使われだした概念に、最後は物事を分かりにくくしてまで執着するようになる」
「生を概念で理解するとは、生の動きをとめて、生を鋏で切り刻み、その断片を論理的な標本版の上にピンで固定することである」
「私たちは概念からは、どのようにして生が進行してきたか、またどのように進行していくかを学ぶことはできない」
「経験の分厚さや具体性や独特さはすべて、経験してすぐのまだ名前もはっきりしていない段階の中に存する」
「私は概念や言葉では言い表せないものだと自分で言っている当のものを、概念や言葉で記述しようと空しい努力を続け、私自身をも諸君をも疲れさせている。話し続ける限り主知主義が支配力をふるっている。生への帰還は話すことによっては得られない」
「あるいは私は、生のあれだけを指差さなくてはならない。そしてあれが何であるかは、諸君が内的な共感によってこれを満たさなくてはならない」



私が目指すのは、この生の動きを把握するための道具である”動きを表す情報処理技術”を発見するか作り出すことである。それが出来れば現在の問題、環境問題などもある程度は解決できるのではないかと考えている。



そういう意味で、この人間の感情をどう解釈するかという考え、そこから新たな自分をつくり出していく意思心理学は研究対象に値する。



一度読んだだけではまだうまく理解しているとは言えない。ほかの書籍や、本書を複数回読んで理解を深めたい。



to be continued・・・



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