2011年12月22日木曜日

全貌ウィキリークス(食べる読書74-1)





以下抜粋


私たちが理解しているジャーナリズムとは、出来事を調査し、証拠を追いかけ、できるだけ多くの関係者と話し、読者に分析と文脈を知らせることだ。



ウィキリークスが問題にしているのは、情報の主権を握るのは誰なのかということだ。



ウィキリークスは世界各国の政府から政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何をするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい「役者」が舞台に登場したのである。



インターネットの発達により、告発者の居場所はそれほど重要な意味をもたなくなった。むしろ重要なのは、どこにアクセスできるか、何にかんする情報を持っているかだ。



「学問はより良い目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ」



アサンジは米国に対する反対キャンペーンを展開しているのではなく、特定の政治の形態に反対しているのだ。


ハッカーを評価するときには、容姿、年齢、人種、性別、あるいは社会的地位などを基準にするのではなく、そのハッカーが何をやっているかで判断する。



「鎖につながれている者は、以前にどう行動すべきだったのかが見える」と、アサンジは書いている。「強力な陰謀から身を守るために、我々は前もって考え、そこにいたるまでのプロセスの段階で阻止しなければならない」



「政治の言葉は嘘を本当と思わせ、殺人を立派なものに見せかけ、空虚なものを実質のそなわったものに見せようという意図をもっている」


「ちょっと裏に回ってみれば、もうほとんど犯罪的な政治的取引ばっかりで……世界で起こっていることとか危機とかの、公に出まわっているものとは違う、生バージョンだ」



ウィキリークスのような組織が材料を持って新聞に接近したり条件を決めたがったりするとき、ジャーナリズムはどのようにして独立性を保つか。既知の情報でない場合、その素材の信憑性はどのようにして点検しうるか。



「僕たちに必要なのは、出来事の重要度を整理する機能だ」



アフガニスタン文書の公表が意味するものは米国の軍事氏への斬り込みだけではない。それはまたジャーナリズムの敗北であり、ジャーナリストたちの本能的な集団拒絶をも浮き彫りにした。



ドムシャイト=ベルクは、割に合わない仕事を大量にこなしていただけでなく、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアセンジに対し、客観的かつシステマチックなやり方でうまくバランスをとってくれる大事な存在でもあった。



「公表は透明性を高め、その透明性がよりよい社会へとつながっていく。チェック機能がうまく働けばそれだけ腐敗が避けられ、民主主義は強固になる。こうした目標を達成するためにも、強く、しぶといメディアというのは重要だ。我々はそんなメディアの一部なのだ」



アサンジは、これはまさしく「盗み」や「犯罪行為」であり、コピーは「非合法」なので法的措置をとるつもりだ、と言った。この発言が、ウィキリークス自身の行為にも当てはまるということに、アサンジはこの時点で気づいていないようだった。



「我々だけですべての圧力を引き受けるのは、今回は無理だ。これらの資料はあまりに劇的すぎる」と、アサンジは言った。「我々はこの公開の衝撃に持ちこたえなければならない」



ネット上では著作権があまり意味をなさない。



これらの発言は政治的に大きな物議をかもすと考えた米国政府は、アラブ諸国の首長たちの名前を伏せることを要請した。だが、ニューヨークタイムズ紙もガーディアン紙もシュピーゲル紙も、それを拒否した。大衆には、戦争と平和にかかわる根本的な問題について、どこの元首がどう考えているかを知る権利がある、というのがその理由だ。



情報収集指令の存在が公式文書によって明らかになり、米国政府が諜報活動の手法をどれだけ広範囲にわたって国際社会に用いたのかが、公式に証明されたことになる。



米国は既成事実をつくってしまおうとした。発展支援と称する経済援助と引き換えに、「コペンハーゲン合意」に貧しい国々が賛成するように買収したのだ。



公電は政治の基盤を描き出しているともいえる。



外交公電の公開で、米国政府が立ち上がれなくなるほどの打撃を与えなければ、逆にウィキリークスがつぶされてしまうかもしれないと、アサンジは予感していた。



to be continued・・・



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