2011年12月9日金曜日

最高の自分を生きる(食べる読書72)




まだ失敗を失敗と認識しない子供時代とでも言おうか、前しか見えていないというか、自分の存在にほんのわずかの疑いもないような状態、たとえ自分の命が危険にさらされていようともだ。



そんな感覚を読んでて感じたのが本書である。



ノウハウ本ではありません。



深く、そして人間はどこまで己を高められるのかについて、過去の人物を例に挙げながら示している。




悟りの境地。「我」がない。私とその他は一つというような境地。そして、私はすでにそれを成しているという穏やかで自分がどうこう出来るというレベルではない次元での確信があると理解している状態。



もうそこには主体と客体はない。



欲にまみれた私ではありますが、かっこいい生き方があります。



一つだ!一つがすべてに通ずる。



己の人生という一つを。



その中で何を成すかではなく、人生を何を成すことで表現するか。「私の人生はこれだ」と。



一つではあるが、それはすでにすべてを内包しているという逆説を味わいたい。




以下抜粋



優秀なプレイヤーであるほど、スランプに陥った時の悩みは深い。そんなとき「リラックスして」とか「大丈夫だよ」と気休めの言葉をかけても何にもならない。選手は強いプレッシャーによって生じる不安やあせりをどうすれば解消できるかが知りたいのだ。




「そんな(克服する)方法はないんです。プレッシャーを感じながらバッターボックスに立つしかない。それで結果を残していくことで、解き放っていく。その方法しかないですね」




善い射に喜ばないことを付け足しなさい。快と不快との間を右往左往することからあなたは離脱せねばなりません。あなたはむきにならない平静な気持で、そんなことに超然としているように心がけねばなりません。すなわちあなたでなくてまるで別の人が善い射を出したかのように喜ぶことを心がけるのです。




技芸に励むのは、技量を身につけるためだけではない。「人間の変容」こそ目指すものであった。「道」の奥義に達すると、もはやそれ以前の自分とは違った人間になる。物事を見る「別の尺度」を手に入れるからだ。





「古を稽える」-そこに、ただのレッスンや練習とは違う味わいがある。そもそも世界の文化文明の大半に「進歩史観」などなかった。




外からは演じ慣れたように見えるのは、稽古のときにセリフをよく覚えて、初日には根から忘れてしまうのだ。舞台に立って相手のセリフを聞き、その時に思い出して自分のセリフを言う。…。相手のいう言葉を聞いて、初めて返答が心に浮かぶものだ。芝居とはそうした日常がお手本と考えるから、稽古ではよく覚え、初日には忘れて出るのさ。





妙技とは、その達人の域に達した人間が「媒体」となって、超越者の力が引き出されたものにほかならない。




内観法で自分を見つめるときには、自分の身の回りの親しい人々が反射鏡のような役割をしてくれる。この人たちから受けた恩、親切、愛情、信頼といったものを丹念に調べていくと、自我の壁が破れてきて、「あまりにもお粗末な自己」と出会うのだ。その時のショックは、感動へと変わって高まる。





存在から来たものに対して、意識なんかでは返せない。これがわかってくると、頭が自然に下がってくるんですよ。





至高体験によって、生き方や人格が大きく変わった人は少なくない。そうした人の多くは精神が統一し、あるがままの自己を自分の存在として認めることができ(自己欺瞞がない)、能力を十分に発揮して、責任ある行動をとれるようになるようだ。




達人の心境(あるいは至高体験)が日常的ではないということは、日常=習慣を突き破ったところにその心境がある。





よくなりかけると、とんとん拍子によくなり、下り坂に向かうと、一足飛びに下る。なぜ、そうなるのか。
それは、人間にかかわりのあることは、すべて「心が先行する」からである。心が先で、物は後であり、事はこれについて行く。風が吹くと、木の枝が動き、音がする、波が立ち、波の音がする。音が先にしたから木の枝が動いたのでもなく、木の枝が動いたから風が吹いたのでもない。





世に、「恩を忘るな」ということがやかましく言われるのは、本を忘れるなという意味である。食物も、衣服も、一本のマッチも、わが力でできたのではない。大衆の重畳堆積幾百千乗の恩の中に生きているのが私である。このことを思うと、世のために尽くさずにはおられぬ、人のために働かずにはおられない。




絶対者を求めて、これに没入しようとするのが宗教であり、真理を追及して、これに乗託しようとするのが科学であり、善を究明して、調和至純の人生を創造しようとするのが倫理であり、美を探究創作して、自己を生活の名優たらしめ、人生を美の神劇としようとするのが人間の芸術活動である。





ただ享楽にうつつをぬかす楽しみ事は、趣味でも余技でもない。ましてや「生活の空所」には当たらない。非日常の時間でありながら、それが愉しみながら心を磨く(心境を高める)行為として日常としっかり結びつくときに「生活の空所」となるのだ。




目が覚めたらその瞬間、さっと起きる。床をけって、さっと起きる。それから時計を見る。「時計を見て起きるようなことではいかぬ。早過ぎたらあらためてまた休め、目の覚めるという事は何か必要があって覚めるものだ」と。




実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、実践ではなくなってしまう。直観による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。




ささやかな実践のようではあっても「即行」に徹していくと、大宇宙の一部である自分が、宇宙の叡智というべき直感を介して、超越的な次元(「ゾーン」)と呼吸往来している自覚がわき起こってくる。日常と非日常がそこで切り結ばれるのだ。




技芸や人生の「道」を真摯に窮めようと挑んだ達人たちが、かつてこの国にはいた。今日でも、達人の域に達しようと励んでいる人たち、あるいはさらに高い境地を目指している人たちがいる。
そうした人々の姿に触れるだけで、胸中に温気の膨らみを覚える。市井に生きる凡人のわれわれでも、一途に努力を重ねれば、それなりに深く生きられることを、彼らは教えてくれる。




日本語ほど超越者が無意識に想定されている言語はない。主語がなくても通じること、自動詞が多いことにその特徴が表れている。「知る」という言葉一つとっても、それは対象を認識するだけでなく、相手と一体になることを意味している。「元は一つ」という意識が、日本語のそうした言葉の内に秘められている。




以上
またね***





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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...