2011年12月22日木曜日

自分と向き合う心理学(食べる読書73-2)




以下抜粋


その代償として「苦しみに向き合うこと」が本来持っている事柄の真相に迫る力を失い、それとともに、苦しみからの復元力や治癒力をも失っているように見えます。



「努力とは何か。きっぱりした意志をもたらすことです。意志とは何か。ある考えが不快であろうとも、それにしっかりした勝利をもたらすことです。またある考えが、とりあえず快いものであろうとも、それを禁止しつづけることです。」



結局、私たちは今の自分のあり方を自分で選び取っている。そして、そのことに気付くことによって自分のあり方を選び直すことができる



「意外感としてのフラストレーション」とは、ある見通しが外れることによる、「こんなはずじゃなかったのにという受け入れにくい気持ち」であり、また見通しが外れたことによって、ある不確かさが生じますが、その「不確かさに揺さぶられ自分を見失うことによる苦しみ」です。



(フラストレーションが非合理的行動に結びつきやすい)一般的理由としては、一連の行動系列中に「意外感」が生ずることが、心的構え(見通し)の柱である計画性を揺さぶり、そのため自我機構全体の計画性を損ない、そこから自我の弱さをもたらし、現実吟味の能力を低くするからであると説明できます。



思いがけない成功に伴う喜びは、結果的に、ニコニコした表面的な笑顔の裏で、自信に乏しい脆弱な自我が育つことにつながりやすいと考えられます。


とかく問題を生じやすい不満感や不快感などの感情を、動機から明確に切り離したうえで、それらの感情への対処を考えることができるので、フラストレーション(意外感、苦しみ)に伴う非合理的行動への冷静な対処が可能になる。



「はずである」とか「べきでない」という私たちの思い込みを揺さぶる、このような思いがけない事態は、私たちに現実への再適応を促しているともいえます。



フラストレーションを感じながらも、いいようのない寂しさの底で、内蔵助は現実の思いがけない新たな切り口に出会い、その確かな手ごたえを感じているようにも見えるのです。



新たなフラストレーション概念「意外感」は、フラストレーションの構造を明らかにすることによって、地図として機能し、現在地と進むべき方向を示すので、私たちがフラストレーション(意外感、苦しみ)を生きる上での、より確かな見通しを与え、私たちを導いてくれるはずです。



「…。敵に向かう時でも攻撃は無秩序ではなく、節度を保ち統制に従わなければならない」
「突撃を必要とする時は怒るのではなく、奮い立つのです」



「怒らない人は被害に動ずることなく、しっかりと立ち続ける。怒っている人は動かされているのです」
「損害の限度は決まったものだが、怒りは私をどこまで運んで行くか知れたものではない」



不当な扱いを受けたという思いと、その思いから自分を怒りへ明け渡してしまうことの間には距離があり、その距離の中にこそ意志の働く余地がある



私たちがもっている感情は、感じられた身体的変化を材料として構成されていますから、私たちにとって身体的変化の感じから分離された感情は想像できないのです。
言い換えれば、泣くことが悲しいという感情の一部であり、殴ることが腹を立てるという感情の一部であり、震えることが恐ろしいという感情の一部なのです。



私たちが聞き分けのない子供に、「いつまでも駄々をこねていてはいけませんよ」と言うとき、子供の感情がはけ口をふさがれて、より強くなることを期待してはいけません。むしろ逆であり、「よく考えてごらんなさい」と言っているのです。なぜなら、感情に流されないことが、よく考えることにつながるからです。
ですから、感情に対処する上で大切なのは、「はけ口をふさがないこと」ではなくて、「よく考えること」である。


感情とは、ある事物が自分に及ぼす影響を評価する体験です。


サルトルの言う「魔術的世界を形成する」とは、不本意な事態の中で、困難から逃げるために、特有の身体的興奮を引き起こし、都合のよい自己正当化をすることです。



「私が彼を憎らしく思うのは、私が怒っているからだ」(浄化的反省)と。つまり「彼が憎らしく思えるのは、すでに私が被害者の立場に立つことを選び、腹を立てるというお呪いによって、彼を都合よく悪者にしているからだ」と。



「罪悪感に浸かる場合には、態度を改めるという困難な作業を避けているのです。態度を改めるより、ただ後悔しているほうが、ずっと楽なのです」
このように、ホーナイによれば、自責や罪悪感は、取り組むべき困難な作業からの逃避であり、都合のよい自己正当化なのです。



「フラストレーションが起きたことが、もともと偏見が抱かれていたことを露呈した」ともいえます。ちょうど、家が倒壊したことが、もともと白蟻の巣ができていたことを露呈するように。



困難な状況に置かれたからといって、必ずしも精神生活が崩壊するわけではなく、自分をひどい目に遭わせた運命を引き受け、感謝することさえ実際にできたのです。



苦しみを抑圧したり楽観論に逃避したりしないで苦しみに向き合うこと。そして、苦しみに向き合うことによって、この苦しみを引き受ける可能性があるのです。それこそ、生命が助かる何の機会もないようなときに、私たちを絶望させない、唯一の思想であると考えられています。



努力とは事柄の全体に沿って認識することです。


苦しみ(都合の悪い現実)に向き合う努力とは、意志と同義であり、快と不快を感じながらも、事柄の全体を見た上で、事柄に沿った認識(見通し、気づき)を産み出すことです。実際的には努力、すなわち意志とは、自分の性癖を都合のよさと都合の悪さの両面から観察し、認識する(見通しを立てる、気づく)ことです。



両面の意味を語り、共に考え続けることによって、認識(見通し、気づき)を産み出し、性癖を自分が選び取っていると気づくことこそが、ゆとりを生み、自分のあり方を選び直すことを可能にするのです。すなわち、そのように気づくことによって、パターン化したあり方(性癖)から新たなあり方へ向けて「何らかの動き」を創り出すこと、これが意思心理学の方法です。



パターンや思い込みは苦しい現実からの緊急避難的な逃避や自己正当化に有用ですが、その反面なんらかの弊害ももたらしている。



「じゃどうすればいいんだ?」と言って、受け身になって何もしないのは、巧妙ないつもの逃げ道です。自分のパターンとか思い込みをよく見て、「いま自分はどうしているのか?」をつぶさに観察できれば、自分の内側から「自分はどうしたいのか」という答えが出てきます。そこから自ずと道が開けれくるのではないでしょうか。



「嫌なことを言われたら、傷ついて当然だ」と思っているから傷ついてしまうのではないでしょうか。自分のあり方が相手次第になっている限り、自分の「心の平安」を自己管理できなくなります。




自己嫌悪すればするほど、プライドは高くなるけれど、現実の自分を踏みつけにしているので、自信を失います。ほかに思いやりも失いませんか。なぜなら自己嫌悪しているとき、自分のことで頭はいっぱいですから、他人のことなど思いやる余裕はないのです。
さらに、自己嫌悪しても、事実に沿った振り返りをしていないので、事態は改善されず、しかも、自己嫌悪はひとりでできるので、ついクセになり、自己嫌悪中毒になりやすいのです。



自分だけは特別だって思っていれば、究極の自己正当化ができます。そう思っていれば、手ひどい失敗をしても本当には反省しないし、人から親切にされても本当には感謝しない。人からいくら愛情をかけられても満足しない。自分だけは特別なのですから。共感も思いやりも本当にはない。



私たちは話をきちんと筋道立てて組み立て、理路整然と話そうとします。そして正論や一般論を言います。また自分を振り返るにあたって、自分の中に「ありのままの自分」を見るよりは、「自分のあるべき正しさ」を見てしまい、結果的に高すぎるプライドを抱え込む傾向そしてあります。



私たちがフラストレーションやコンフリクトを、単に解消するべき対象としてではなく、現実が思いがけず「新鮮な切り口」を提供する瞬間として受け止めたとき、フラストレーション(意外感や違和感や自己嫌悪、苦しみ)やコンフリクト(異物感、苦しみ)は、まだ知らない人生の意味を汲み上げ、人生に新たな動きや深まりを創り出す貴重な機会になると考えられます。



偶然のの幸運で、窮すれば通ずの元の形が、「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず」であることを知った。その瞬間に把握感があった。



以上
またね***






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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...