2012年5月17日木曜日

経験のメタモルフォーゼ(食べる読書98-2)




以下抜粋


経済のグローバル化の進行とともに、すべての問題は、歴史や理想に依拠して語られるのではなく、有用性と経済効率に即して語られなければならないとする乾いた経済合理主義が、私たちの日常世界の隅々にまで深く浸透してきた。いつしか有用性と経済効率というフレームが、私たちの日常的思考を拘束する初期設定となった。その結果、社会という土壌で、大小の物語そのものが根腐れ状態となり、技術的な「問題処理」的思考ばかりが氾濫する時代となった。


いまや、子どもは、大人と共に暮らし、苦楽を共にし、物語を共に紡ぎ合う共同生活者としてではなく、未熟な「教育を要する人」として対象化され、大人の<教育的まなざし>に囲い込まれる存在となった。


「人間形成の物語」が不在のまま、過剰な教育意識が子供に差し向けられるという、まことに逆説的状況が出現している。



生命(Leben)とは、言葉によってではなく、その動きの中に身を置き、「形態」や「形成」のただ中に身を委ねなければ感受できないものであるというのが、ゲーテのいう「形態学」の考え方である。


ヴァイツゼッカーは、個体の生死を超えて持続する何かを、生命と呼んでいる。



個別性とは、「生命それ自身」が、自己を具体化する一つの現れであり、その現れである<わたし>という形象は、生命の複雑な流動性によって、絶え間なく形を変えていくものではないか。


生命体は、あくまでもその環境世界に適応し、その世界を生きているのであるから、その生きられた状態、ありのままの姿で捉えられなければ意味がないと、ユクスキュルは考えた。


思い切って旅に出ること、外の世界に身を晒すことが経験なのだ。


経験は、日常的に構築された生活地平を強化するばかりでなく、人が生きる日常的世界という土台そのものを揺るがし、混沌とした世界を呼び起こすきっかけともなるものである。


「先走っていえば、自己の存在が、この一次的経験的意味で安定している人間では、他者とのかかわりは潜在的には充足したものであるが、存在論的に不安定な人間は、自己を充足させるよりも保持することに精一杯なのである」


他者やものとのかかわりを日常的に意味づけ、枠付ける経験を「基礎付けられた経験」と呼び、そこには、すでに経験の意味を先取りするフレーミングが行われていると見る。言語化するという行為がそれである。


ハイデガーにとっては、「意識に新しい真なる対象が発現するということ」が、「経験する」ということの内実である。


経験は人間形成にとって諸刃の剣である。それは、制度化された日常性に見通しや力を与えるものであると同時に、その日常性のヴェールを剥ぎ取り、その虚構性を自覚させるはたらきもする。


共同体において、前世代と後世代とが「生身の」人間関係で培ってきた文化の伝承が、学校という制度を媒介にして組織的かつ帰納的に行われるようになったこと、その事実は、ヴェーバーのいう社会全体の合理化過程の一環として理解するべきであろう。ここで注意しなければならないことは、前世代と後世代というジェネレーション関係の根幹に関わる人間形成の問題を、「教師‐生徒」という制度的枠組みの中だけで考えてしまう私たちの教育思考の貧しさである。


共同体の崩壊と「大人であること」の自明性の喪失という問題を抜きにして、教育関係を精確に論ずることはできないからである。


憧憬したり、反発したりする大人が身近にいれば、子どもは、生きること、働くこと、そして大人になることの慣習行動に参加し、「大人になることの物語」を無意識のうちに獲得していくことができる。



学ぶとは、知識を伝達される過程である以前に、まず模倣行為であり、状況に参加していく行為であったのではないか。働くとは、単なる生産行為というよりも、むしろ様々な他者と関わり合う儀礼として捉えられるのではないか。そして老いるということは、鷲田清一も指摘するように、単なる自立能力の衰退ではなく、その振る舞いを通して成熟の意味を子供や青年に伝え、死者を含めた異界との関係を深めることが可能になる時期として、積極的に理解することができるのではないか。



各々の状況が、関係者の意識を媒介にして、「共有する現実」を構成しているのである。個人とは、その共有された現実の住人に過ぎない。
そう考えると、子どもの学習においてまず手がかりになるのは、子どもの自己活動や教師の指導といった状況離脱的な概念ではなく、むしろ日常世界における身近な他者たちによって、すでに構成された社会的世界や状況であることがわかるであろう。子どもは、すでに構成された社会的世界に参入することによって、学習が進行していくのである。


個人を超えた状況が先にあって、その編み目(テキスト)の中に、親方や兄弟子たち、そして新参者が組み込まれているのである。したがって、教育関係においては、教師や生徒の個別の営みを超えて、彼らが共に属する社会的世界のコードこそが決定的に重要なものとなる。



現実とは、単独で構成するものではなく、他者との模倣的な関わり合いの過程で、徐々に構成されてくるものなのだ。


子どもがそれまで見たこともなかった珍しい出来事は、身近な他者である大人たちからあるコンセプトを与えられることで、ある形をとって定着する。日常の言葉では説明しがたいある出来事を、事後的に言葉で跡づけるところに「経験」が成立する。


近代技術は、人間の生の偶然性、脆さ、受苦性を認めない。すべてを反復可能な経験に仕立てるのだ。


いつしか学校制度が、通過儀礼を担う共同体にとって代わった。現代では、入学、卒業、資格取得、就職、研修、管理職試験というように整備された社会システムが、通過儀礼の役割を果たしている。日常化され、システム化されたライフステージ。しかし人間の生は、日常性という明るい階段を上るだけでは満足しない。無意識のうちに陰や闇の部分を追い求めている。



老人は、草むしりや庭掃除などの、この世の知恵を教える者であるばかりではない。この世とあの世の橋渡しの仕方を子供たちに教える存在でもある。


「大人」と「子ども」は、決して実体概念ではなく、人間のある側面に切れ目を入れて分節化した関係概念に過ぎない。


大人とは、何らかの共同体を前提にした集合概念である。共同体のないところに大人は存在しない。


日常生活から異界や死者との対話が消えはじめた、ちょうどその頃から、子どもが死を追い求めるようになったという文明の逆説を考えないわけにはゆかない。


パーソナル・アイデンティティの成立根拠を何らかの集団に求めることが、もはや不可能な社会状況が到来した。


人間は、もはやアプリオリな定義箱に納まるかたちでは存在しない。その生活史は、自己の生きる「現実」を繰り返し越境して、他者や異界と関わりつつ経験を変成していく過程となる他はない。


制度化され凝固される経験と、そこから再び脱出しようとする経験との一連の循環運動の狭間に、私たちの「日常生活」がある。その意味では、経験は既知性であると共に、必ず未知性に開かれている。


「子ども」と「教育」という概念は、産業化途上のほぼ同時期に生まれたのである。


ドイツにおける教育人間学が切り拓いてきた地平をまとめて言えば、①生の連続的形式に加えて、「生の非連続的形式」への着眼、②に子供の実体視から解放されて、生涯にわたる「人間の自己変成、相互生成」の可能性を示唆してきたこと、③<教師‐生徒>という狭い教授学図式から脱して、ミメーシス、経験、他者などの概念を通して、人間生成の広大な地平を獲得してきたことである。


生活において、五感における近距離感覚(感触、味覚、臭い)の代わりに、遠距離感覚(耳そして特に目)を用いることは、具体的事物や他者からの隔離と観念化、抽象化を推し進めることとなった。そこには、認識の身体性や感触、味覚、臭いといった「近距離感覚」が退化する状況が生み出されてきている。


近代以前には、そもそも<時間>の経過とともに人が発展的・向上的に変化するという観念そのものが希薄であった。これは、<進歩>や<進化>の観念と同様に、近代になってはじめてまなざしを向けられるようになった観念の一つだからである。


「発達」は、職業的身分制度が崩壊し、共同体の桎梏から個人が「解放される」過程で生じた新しい観念である。



子どもの「弱さ」への着眼こそが、実は「発達」の観念を生み出す母体であった。


子どもに固有の生活世界が「発達」の名のもとに抑圧されるという状況させ生じてきている。


人間は本能的な<衝動>の制約を超えた、つねに「解釈された意味の世界」に生きている。この「解釈された意味の世界」を、言語体系によって切り取られた世界、関心や文化の体系によって構造化された世界と呼ぶことができるだろう。



ヒトは<文化>によって自然から解放されると同時に、<文化>によって拘束され抑圧されるという、文化の有する独特の両義的性格を、丸山は説得力のある論理で展開している。



子どもが「無限の可能性」であるとすれば、それは大人にとって把握不能である。「無限」をつかまえることなど、とうてい出来はしないのだから。そこで前面に押し出されたのが「発達」であった。


「いじめ」の背後には、秩序化と混沌化の二重の世界を行きつ戻りつ学校生活を送っている子供の深層があることを理解しておく必要があるであろう。



主体と現実が別々にあるわけではない。受苦的な経験の生み出したものが主体の拡散であり、同時に流動的な現実の開示なのである。



一九六〇年代以前の日本では、家庭でも学校でもなく、まさに地域共同体こそが、子育ての中心的な舞台であった。



まだ社会化されず、制度化されていない子供の世界体験は、基本的に生命系(自然性)の自己運動の中にある。子どもは、主客未分の混沌状態を含む生命の自己運動において、自然、他者、事物とかかわる。



育児、教育、医療、情報、福祉、警備などの諸機能が家族から分化して、それぞれが社会的なシステムとして独自の歩みをはじめたのだ。私たちの生活は、そのシステムに依存しなければ最低の生活すらできなくなった。何事につけ便利ではあるが、家庭内で処理できる問題が極限にまで縮減した社会、それが都市社会である。


第四空間としてのメディア空間は、一挙にグローバル化された世界に飛び込める点で、個人に新しい情報をもたらす可能性はあるが、そこでは厳密な意味での他者との「関わり合い」が成り立ちにくいという限界があることも理解しておく必要がある。


以上
またね***




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